忖度という言葉
今日の日経「春秋」に以下が出ていた。読んで違和感を感じた次第だ。
「日本の労働力人口は男性3800万人、女性2900万人。その差は年々縮まる。受賞者
の一人で国連事務次長・軍縮担当上級代表の中満泉氏は、後に続く女性たちに
「野心を持て」と呼びかけた。そのためには日々の仕事で「主張する、媚(こ)びない、
忖度(そんたく)しない」ことが大事だ、とも。女性に限らず、心にとめたい言葉だ。」
違和感は「主張する、媚びない、忖度しない」という部分だ。執筆者はそれを「大事だ」と
言っているが、そもそも、それらが出来ない理由は何なのかという点を深堀しないとやや浅い
主張に見える。特に、「忖度」という言葉は、今年の流行語大賞らしいが、かかる流行語
を使ってしまっている段階で、軽佻浮薄に見えてしまわないか。
我々は「忖度」に似た言葉をいくつか持っている。例えば「阿吽の呼吸」であるとか
「以心伝心」等だ。
僕の理解ではそれらの二つの言葉は「良い意味」で使われてきている。
平たく言うと「言葉に因らないコミュニケーション」ということだ。「言わなくても分かりあう間柄」
こそが、組織の人間関係ではある種の理想的関係であるとされた時間が永かったと思う。
もっと遡ると、禅にある「不立文字」あたりまで起源が辿れるのではないか。
そういう「日本人の源流にあるコミュニケーション観」というものがそもそも存在し、それが
どのように現代において機能不全を起こしているのかという点を、「本当に機能不全を起こして
いるのかどうか」という地点から検証するということが大事だ。
そこを怠り、一部の政治シーンで「忖度」による問題が起こったからと言って、流行語に
なってしまうことは、いかがなものかと思ってしまう。
では「忖度」はすべきかすべきではないのかと問われたら僕はどう答えるのか。
色々考えても結論は無いが、むしろ「結論は無い」という事が正しくプラクティカルな
返事と開き直る。
「主張する、媚びない、忖度しない」とは、時に大事だが、それは「時に」の、「時」の状況にも
因るだろう。
ではどのような「時」なのか。
それを考えることを日本語では「空気を読む」と言う。つまり、かかる主張は端的に言うと「空気を読むな」
というKY賛美主張になるのだ。
ではKYとは何か。「そういえば かの有名な本の『失敗の本質』では空気を読んだ弊害が沢山
出てきていたな」などと考え始めると、休日が潰れてしまいそうにて、ここで止めよう。
以前の会社の上司からは「時としてKYになることはとても大事だ」とよく怒られたことも思いだした。