「だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人」 | くにたち蟄居日記

「だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人」

イメージ 1

本書で描かれるバンコクに現在(2017年11月)在住していることで本書を読むきっかけを得た。

 本書で紹介される方々は、いずれも自らの居場所を日本ではなく海外に選んだ方である。海外を選んだ
理由は様々だ。日本に職場を得られなかった方もいるし、自らのジェンダーが日本で理解が得られなかった方も
いる。若しくは、自らが選んだ配偶者や家族構成によってタイに住むことになった方もいる。

 そこには「選んだ」という積極性があった方もいるし、「選ばざるを得なかった」という受動的な方もいる。
但し、いずれにせよ日本では適切な居場所が見つからなかったという点では通底している。一般的に「海外に雄飛する」
ことが苦手とされがちな日本人にとって、日本に居場所が見つからないという状況は、特殊であると
僕は思う。そういう特殊性を知ることが本書の第一義的な読み方だろう。

 ではなぜタイだったのか。

 本書を読む限り、タイという国の持つ「包容性」というものが浮かび上がってくる。その「包容性」
とは、ジェンダーや性に対する自由度やあけっぴろげさ、ということでもあろう。若しくは、日本人
という外国人への比較的暖かい眼差しというものもあるのかもしれない。
 その部分は、現在タイに住んでいる僕にしても、同感出来る部分は大きい。僕自身は日本、タイ、インドネシア
という三か国しか住んだことがないので、自分の持った印象がどこまで正しいか分からない。それでも、
日本人にとってタイは相当住み心地が良い国だろう。そんな居心地が、日本で居場所が見つからない日本人を
惹き付けることは容易に想像は付く。

 勿論、タイという国は十分に複雑であり、光と影が、ある意味, 綺麗にグラデーションされている国だ。
能天気にタイを「住みやすい国だ」と言う積りも毛頭ない。但し、きちんと「光と影」が
ある方が分かり易いと言える。そんなグラデーションの確かさがタイの包容力の一部を、確実に、形成している。

 最後に感じたことは、本書の登場人物達は、これからどうなっていくのだろうかという点だ。本書で
描かれる多くの方は将来の展望が描きにくい状況にあるように書かれている。そもそも著者自身も、
本書の登場人物に近い地点に立っている点も、かかる文調にスパイスを利かせている。

 その点に関しては本書には結論は無い。またそれを書く事も本書は目的としていないはずだ。
繰り返しになるが、本書を読むと改めてタイという国の、「光と影」が齎す一種の「豊饒性」というもの
を感じることが出来る。それを裏返すと「光」だけを無闇に追い求めて来た日本という社会の一種の
「貧しさ」というものが読み取れるのかもしれない。ところで、いま偶然「無闇」という言葉を使い、
「闇が無い」という意味の深さに驚いた次第でもある。