くにたち蟄居日記 -50ページ目

「小林秀雄   美しい花」  若松英輔

 久しぶりに若松の本を読んだ。実に面白かった。本書で読むべきは2点である。即ち「若松が
語る小林秀雄」であり、「小林秀雄を語る若松」である。

 前者について。

 「群盲 象を評す」という言葉がある。ウィキペディアに因ると「数人の盲人が象の一部だけを
触れて感想を語り合う」というインド発祥の寓話だ。

 小林秀雄が、その生涯に取りあげた「素材」は極めて多彩だ。時にランボーであり、ドストエフスキーであり、絵画であり、音楽であり、日本の古典である。それだけの様々な素材を歩き回った
小林を気まぐれな飽きっぽい散歩者と言うことは本来出来そうなものだが、そういう人は少ない
気がする。

 本書で若松は小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、
「美」であり、「花」であるという。それは象を撫でるにあたって、「鼻」なのか、「足」なのか「尻」
なのか「尻尾」であるのかということと同じだ。つまり、小林は象の触り方を色々と一生かけて
試してきただけであり、それを部位によって呼び名を変えているだけのことだ。
「象を触っている」という点では同じことなのである。

そう考えると、小林が使ってきた素材の多様性も腑に落ちる。小林が盲人であったかどうか
は僕には分からない。とてもそうとは思えない。但し小林は自分が盲人であると思っていた
ような気はする。盲人であればこそ、色々な部位を自分で撫でるしかない。音楽や文学や骨董や絵画は、「象」の部位の名前でしかない。彼が触っていたものはどれも正しく「象」なのだ。

 二点目。「小林秀雄を語る若松」とは何か。

 若松は死者に囲まれている。彼が語る死者とは例えば池田晶子であり、小林秀雄であり、
若くして亡くした彼自身の妻である。

 若松の最大の主張は「死者との会話」である。若松にとって死者とは生きているものである。
その主張は、彼のいくつかの著作の通奏低音と言ってよい。

 彼にとっての、例えば「哲学者」とは、自ら何かを創造するものではなく、あくまで「何か」
から伝達される「言葉」の通り道である。おそらくは、その視点は池田から学んだと僕は
思う。池田の夭折は僕にとっても残念ではあるが、いまなお池田の著作から「通り道」
の香しさは漂ってきている。

「預言者」という言葉は、「何か」から言葉を預かった者であるという意味だ。「何か」とは
神と呼んでも良いし、「霊」と呼んでも良いし、「死者」と呼んでも良い。
おそらく若松は死者から言葉を預かった者として本書を書いている。そう考えると本書の
成り立ちも腑に落ちやすい。小林はかような「生きている死者」の一人に過ぎない。若松は
おそらくこれからも死者の言葉を「通り道」として僕らに提示若しくは翻訳してくれるに違いない。
そういえば本書において、翻訳の創造的な意味を掘り起こしているのも若松なのだ。

 大変勉強になった。

象とビッグデータと禅問答と

週末に本を読んでいたら「群盲 象を評す」という言葉について考える機会があった。

 ウィキペディアでは「数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の
寓話。世界に広く広まっている。真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。」
とある。

 確かに象の鼻を触るのと足を触るのとお腹を触るのと尻尾を触るのでは大違いだろう。
従い「象とは〇〇という動物だ」という議論を立てても、触っている部位によって全く 
違う意見が出て収拾がつかなくなる。しかも、全員が正しいことを言っている
わけですから、たちが悪い。間違っているなら直しようもあるが、正しいことを言われるとどう
しょうもない。「正論」という言葉の持つ悪魔性と言える。

 我々も日々の中で色々な議論があり、その結果としての色々な判断がある。
極論すると、あらゆる議論は、ミクロな意味において常に正しいのかもしれない。但し、
マクロで見てみると、実は全く的外れであるということもしょっちゅうある話だろう。

 最近流行りのビッグデータという言葉がある

僕の理解では、象の話の場合、ビッグデータを集めるとは象の体中を撫でまわすという
行為ではないかということだ。象の全ての部位を触れば、例え目が見えない人でもきっと
象の正しい形が分かるのではないか。そんな話ではないかと思った。

 でも、それが本質かどうかはやや疑問が残る。結局、何が正しいのかということは
また別の話のような気がしてならない。象の正確な形状が象の本質なのだろうか。そんな風に
考えると、案外難しい気がしてきた。

 このような答えの無い話を、昔の人は禅問答と呼んだ。

新しい発見をせざる得ない自分に変化してしまったということとも言える。

 何かを発見するということは 発見された何かだけではなく 発見した自分というものが
まとわりつく。

 新しい発見をするということは新しい発見ができるようになったということ。

 若しくは新しい発見をせざる得ない自分に変化してしまったということとも言える。

書く事と話す事

書く事と話す事は案外似ている。書いているうちに自分でも思ってもいなかったような

自分の考えが湧き出てくることは多い。それは自分との対話と言って良い。僕らは

自分が思っていることを必ずしも、意識したり理解したりしているわけではない。

世界という言葉

 先ほど世界と言う言葉について書いたところだが、直ぐにまた思いついた。

 「世界」という言葉は広いのか狭いのかという疑問である。

 「世界」とは世の果てである。世界国家だとか、世界は一つだとかいう言葉には広さがある。
一国を超えた「全世界」ともいうべき

 一方で例えば「自分の世界」という言葉にはみょうな狭さがないか。

 その辺りがヒントなのだと思うが、まだ結論めいたものも出てこない。でもきっと「狭さ」が
鍵なのだろうな。

世界観

 最近「世界観」という言葉が妙に増えた気がする。特に映画であるとか本であるとか芸術系の
分野で語られる気がしている。


 作者の描き出す特殊な世界を「世界観」という言い方なのかもしれないが、僕は違和感と
気持ち悪さと感じることが多い。


 ここで大事なのは、なぜ僕がかかる違和感と気持ち悪さを感じるのかという点だろう。
残念ながら現段階では答えが無いのだが、多分「世界観」という言葉のもつある種の
うさんくささというものではないかなと考えている。言うまでもなく、まだ感覚的しか
ないのだが。
 

「刑務所の読書クラブ」

イメージ 1

 以前「プリズン・ブック・クラブ」という本を読んだ。刑務所にて囚人と読書会を実施する話である。本書もほぼ同じスキームではあるが、読後感は大きく変わっている。「プリズン・ブック・クラブ」には無い苦味が本書にはあり、それが複雑な味わいを産んでいると言って良い。


 読書会を刑務所で始めた時には著者には野心があったはずだ。著者は比較的自分の感情を隠さず、正直に語っている。読書会のメンバーである囚人たちが、他の会でシェイクスピアを楽しく読み、実演していると聞いて、嫉妬の念に駆られたという部分は読んでいて大きな声で笑ってしまった。著者としては、こと文学に関してはメンバーを独り占めしたかったと正直に申告しているからである。


 そんな著者の野心とは、文学からかけ離れているであろう囚人に古典を読ませて、なにがしかの「覚醒」や「人間の尊厳」を醸成することにあったのではないかと僕は思う。勿論読書会を通じて本作を書き上げるという俗な目的もあったとは思うが、それはそれで自然な話であり、僕がことさら言うべき話ではない。著者の正直さを信じて、上記の野心を良しとするしかないのだ。


 但し、結果として、それは出来なかったと著者は最後に整理している。著者が企画した「読書会」というものは、刑務所の中という特殊な状況において成立したように見えたものの、結局は幻影にすぎなかったのではないかと著者は言う。その著者の失望が本書の苦味となっている。The maximum security book clubが原題であるがsecurityという言葉が何をsecurityしていたのかという事だ。守られていたのは「読書会」自体であり、そこを離れて社会復帰したメンバーが、「読書」から、そして「著者」から、離れていく姿を苦味を込めて著者は描き出している。

 しかし、それは本当なのだろうか。そう思う事も大事なのではなかろうか。

 著者の試みはまた始まったばかりと言える。始まってすぐに挫折するということはよくある話であり
驚く話ではない。僕の勝手な希望だが、もう1ラウンドは著者に読書会をやって貰いたい。それが上手く
行かなかったとしたら、更に第3ラウンドにも挑戦して貰いたい。それを通じることで、おそらく著者が
救われる場面が来るような気がするからだ。本作は著者からの第一報告に過ぎない。第二報告を待つ次第だ。

パークス 

イメージ 1

井の頭公園の近くに住んでいたことで本作を長らく観たいと思っていた。

 本作は簡単なようで非常に難解な作品になっている。ネットで感想を見ていても「話が分からなかったが良かった」というようなものや、「話が分からずラストの意味が不明」というようなものが散見される。本作の難解さとは何なのか。


 まずハルという高校生の素性が解らない。これは終盤に主人公の純自身がハルに「貴方は誰なのか」と迫る場面がある。本当に亡くなった父親の昔の恋人を探している高校生なのだろうか。


 僕としてはここで想像力を逞しくしたい。ハルとは、「未完成の曲の精」だと考えるほうが腑に落ちないだろうか。であればこそハルは時空を超えて、現在と過去を自由に往来できると考えると話の筋が整う気がする。純が創った曲の続きが気に食わないのも、ハルが「曲の精」だからではないだろうか。


 ハルはどこから出て来たのか。これも想像するしかないが、僕は寺田という方の音楽室からだと思っている。寺田健太は、その昔、まさに曲を作る時にいた登場人物であり、彼が未完成部分をひそかに持っていてもおかしくない方だ。ハルが寺田が亡くなる病院の待合室に一人でいる場面は暗示的だが、ハルが「曲の精」だと考えると分かり易い。ハルにとって寺田は親の一人であるからだ。


 というような考えながら見ていると本作は中々見応えがある。「青春音楽映画」というようなジャンルに入れるべきではないと断じて、僕の感想を終えたい。

挽歌

棺を墓地まで挽きながら歌った歌を挽歌という。

「夏目漱石と西田幾多郎」

イメージ 1

海外在住での帰国時の大きな楽しみの一つは書店をぶらつくことである。本の衝動買いは実に
楽しく、かつ、意外な本との出会いの場である。アマゾンは実に便利だが、かような「ぶらつき」
は出来ない。

 本書の題名を見る限り、夏目漱石と西田幾多郎がどのような具体的な関係を持っていたのか
ということにまず興味を惹かれる。当然なんらかの関係があったのかと思って読み始めたが
結論的にいうと、いわゆる「交遊抄」的な意味では殆ど何もなかった様子だ。著者も冒頭では
両者のかすかな交流を挙げている。但し、その「かすか」度合を見せることで、その後の
本論に読者を拉致していっている。

 夏目と西田の関係は何かというと、端的に言うと「戦友」ということになるということが
著者の主張であると僕は読んだ。お互いを殆ど知らないながらも「戦友」であることは可能なのか。
それは可能のようだ。お互いを知らなくても、お互いが「同じ者」と闘ったという点で「同じ者と
闘う者同志」と言えるからだ。

 では夏目と西田が共に戦ったものとは何か。それは明治以降の日本の近代の脆弱さとも言える。若しくは急速に自我というものを求められた時代への憂鬱ということかもしれない。更には、それらを記述するための「新しい日本語」の即製ということにも見える。

特に著者は「新しい日本語」というものに惹かれている様子が最後に強く描かれていると僕は
思った次第だ。それは結局言葉の限界が思考の限界であり、言葉の限界を広げることで、
思考の限界を広げたからではないだろうか。そこに夏目と西田の共闘を著者は見たのではないか。

 僕はそんな風に思いながら読了した。決して簡単な本ではなかったが時に音読しながら楽しく読んだ。こういう本に出合うことがリアルな本屋の愉しみではある。