「小林秀雄 美しい花」 若松英輔
久しぶりに若松の本を読んだ。実に面白かった。本書で読むべきは2点である。即ち「若松が
語る小林秀雄」であり、「小林秀雄を語る若松」である。
前者について。
「群盲 象を評す」という言葉がある。ウィキペディアに因ると「数人の盲人が象の一部だけを
触れて感想を語り合う」というインド発祥の寓話だ。
小林秀雄が、その生涯に取りあげた「素材」は極めて多彩だ。時にランボーであり、ドストエフスキーであり、絵画であり、音楽であり、日本の古典である。それだけの様々な素材を歩き回った
小林を気まぐれな飽きっぽい散歩者と言うことは本来出来そうなものだが、そういう人は少ない
気がする。
本書で若松は小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、
「美」であり、「花」であるという。それは象を撫でるにあたって、「鼻」なのか、「足」なのか「尻」
なのか「尻尾」であるのかということと同じだ。つまり、小林は象の触り方を色々と一生かけて
試してきただけであり、それを部位によって呼び名を変えているだけのことだ。
「象を触っている」という点では同じことなのである。
そう考えると、小林が使ってきた素材の多様性も腑に落ちる。小林が盲人であったかどうか
は僕には分からない。とてもそうとは思えない。但し小林は自分が盲人であると思っていた
ような気はする。盲人であればこそ、色々な部位を自分で撫でるしかない。音楽や文学や骨董や絵画は、「象」の部位の名前でしかない。彼が触っていたものはどれも正しく「象」なのだ。
二点目。「小林秀雄を語る若松」とは何か。
若松は死者に囲まれている。彼が語る死者とは例えば池田晶子であり、小林秀雄であり、
若くして亡くした彼自身の妻である。
若松の最大の主張は「死者との会話」である。若松にとって死者とは生きているものである。
その主張は、彼のいくつかの著作の通奏低音と言ってよい。
彼にとっての、例えば「哲学者」とは、自ら何かを創造するものではなく、あくまで「何か」
から伝達される「言葉」の通り道である。おそらくは、その視点は池田から学んだと僕は
思う。池田の夭折は僕にとっても残念ではあるが、いまなお池田の著作から「通り道」
の香しさは漂ってきている。
「預言者」という言葉は、「何か」から言葉を預かった者であるという意味だ。「何か」とは
神と呼んでも良いし、「霊」と呼んでも良いし、「死者」と呼んでも良い。
おそらく若松は死者から言葉を預かった者として本書を書いている。そう考えると本書の
成り立ちも腑に落ちやすい。小林はかような「生きている死者」の一人に過ぎない。若松は
おそらくこれからも死者の言葉を「通り道」として僕らに提示若しくは翻訳してくれるに違いない。
そういえば本書において、翻訳の創造的な意味を掘り起こしているのも若松なのだ。
大変勉強になった。
語る小林秀雄」であり、「小林秀雄を語る若松」である。
前者について。
「群盲 象を評す」という言葉がある。ウィキペディアに因ると「数人の盲人が象の一部だけを
触れて感想を語り合う」というインド発祥の寓話だ。
小林秀雄が、その生涯に取りあげた「素材」は極めて多彩だ。時にランボーであり、ドストエフスキーであり、絵画であり、音楽であり、日本の古典である。それだけの様々な素材を歩き回った
小林を気まぐれな飽きっぽい散歩者と言うことは本来出来そうなものだが、そういう人は少ない
気がする。
本書で若松は小林が生涯かけて探求したものは、時には「歴史」であり、「魂」であり、
「美」であり、「花」であるという。それは象を撫でるにあたって、「鼻」なのか、「足」なのか「尻」
なのか「尻尾」であるのかということと同じだ。つまり、小林は象の触り方を色々と一生かけて
試してきただけであり、それを部位によって呼び名を変えているだけのことだ。
「象を触っている」という点では同じことなのである。
そう考えると、小林が使ってきた素材の多様性も腑に落ちる。小林が盲人であったかどうか
は僕には分からない。とてもそうとは思えない。但し小林は自分が盲人であると思っていた
ような気はする。盲人であればこそ、色々な部位を自分で撫でるしかない。音楽や文学や骨董や絵画は、「象」の部位の名前でしかない。彼が触っていたものはどれも正しく「象」なのだ。
二点目。「小林秀雄を語る若松」とは何か。
若松は死者に囲まれている。彼が語る死者とは例えば池田晶子であり、小林秀雄であり、
若くして亡くした彼自身の妻である。
若松の最大の主張は「死者との会話」である。若松にとって死者とは生きているものである。
その主張は、彼のいくつかの著作の通奏低音と言ってよい。
彼にとっての、例えば「哲学者」とは、自ら何かを創造するものではなく、あくまで「何か」
から伝達される「言葉」の通り道である。おそらくは、その視点は池田から学んだと僕は
思う。池田の夭折は僕にとっても残念ではあるが、いまなお池田の著作から「通り道」
の香しさは漂ってきている。
「預言者」という言葉は、「何か」から言葉を預かった者であるという意味だ。「何か」とは
神と呼んでも良いし、「霊」と呼んでも良いし、「死者」と呼んでも良い。
おそらく若松は死者から言葉を預かった者として本書を書いている。そう考えると本書の
成り立ちも腑に落ちやすい。小林はかような「生きている死者」の一人に過ぎない。若松は
おそらくこれからも死者の言葉を「通り道」として僕らに提示若しくは翻訳してくれるに違いない。
そういえば本書において、翻訳の創造的な意味を掘り起こしているのも若松なのだ。
大変勉強になった。