くにたち蟄居日記 -53ページ目

「リップヴァンウィンクルの花嫁」 岩井俊二


 岩井の映画は映画の文法を逸脱している。LOVE LETTERこそは普通の作品だったし、僕も大変好きな作品なのだがその後に鑑賞したいくつかの作品はどのように見れば良いのかが時として分からない映画だった。勿論、それは岩井の作品を貶めているわけではない。むしろ、他にはない稀有の体験をしていると言っても良い。

本作も難しい。何が難しいかというと 登場人物達の人物造形が良く分からない点に尽きる。

例えば主人公はどういう人なのか。観ている限り、お人好しでひたすら周囲の人に振り回される方のように見える。但し、実際にそこまで「自分が無い」人などいるのだろうか。その意味では主人公に感情移入することは難しい。

若しくは綾野が演じている安室という便利屋はどうか。善悪も真贋もにわかに判断がつかない。安室が真白の母親に遺骨を届けた際に見せる号泣には正直見ていて混乱した。それまでに淡々と善人めいた悪魔を演じてきた彼が、なんで感情的になったのかが理解できない。自分の所作を反省したのか。それもしっくり来ない。

というように、登場人物の輪郭がぼやけている。それが、そもそも岩井の狙いなのかもしれないと考える方が正しいのかもしれない。僕らは映画を観る際には、ごく早い段階で登場人物の人物造形を把握したいと無意識に思っているはずだ。そうしないと話が辿れないからである。岩井はそこに亀裂を持ち込んだのかもしれない。そこに映画文法からの逸脱が発生しているのではないか。僕はそう整理することで少し腑に落ちた。

「リップヴァンウィンクルの花嫁」という題名が良い。

「リップヴァンウィンクル」とはホーソーンが書いた西洋の浦島太郎譚だ。黒木は 帰って来ない旦那をひたすら待たされることを余儀なくされた花嫁ということなのだろう。但し、黒木が本当に
待っているものは何なのか。ゴドーというわけでもないと思うが。

そこも岩井は教えてくれない。僕らは宙ずりにされたままだ。そのまま映画は終わってしまう。

サトリというもの


 サトリという妖怪の話を思い出しているところだ。ネットで以下の紹介を
見つけた。

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昔、人間の考えを読んでしまうサトリという妖怪が棲んでいた。
サトリは人間の考えを次々と言い当てて追い詰め、考えることは
なくなると食べてしまうのだった。


ある日、木こりが焚き火をしているとサトリがやってきて
考えていることを言い当て始めた。あせった木こりは辺りの物を焚き火に
くべながら様々なことを考えていった。やがて思考が途切れ始めて、
サトリがいよいよ襲いかかろうとしたとき、焚き火の中の栃の実がはぜてサトリ
に当たった。サトリは「人間という奴は思いも寄らぬことをする」と
叫んで逃げていった。

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 タイの或る食品工場と話していると彼らの工場全自動化への執念には感心する。
カンボジアの工場ですら無人化を目指している。勿論将来的な人件費高騰を見越している
面もあろうが、それ以上にヒューマンエラーの撲滅を考えているような印象を受けた。

 機械化の歴史を考えると、そもそもは人力を超えた力の創出にあったと思う。
代表例が蒸気機関ではないか。人間の力を遥かに超える力を創り出すことで
人間が物理的に出来なかったことが出来るようになってきたのがここ数世紀かと
思う。

 その要素は今でも変わらないと思う一方、機械の正確性というものも大きな理由
になりつつあると思う。人間がやってしまう誤謬というものが無いという点でも機械の
能力は高くなってきていると僕は思う。上記食品会社のように食の安心安全に注意しなくては
ならない業界ではヒューマンエラーを排除すべく自動化を進めたいという気持ちは
良く分かる。
 但し、もはや食品だけではなく、いたるところでヒューマンエラーを
避けるための機械化は進んではいないか。囲碁のアルファー碁にしても、その延長上に
登場したと僕は思う。

 と考えると、冒頭の妖怪のサトリって実はすでに人間自身ではないかとも
思えて来た。

 サトリが恐れたのは「人間とは想定外のことをやる動物だ」という点にある。実に
その通りで我々は自分からみても想定外のことをやってしまうことがある。

 そこは危ないといえば危ないが、面白いといえば面白い。

 何もかも想定内だったとしたら、少なくともブレークスルーが出てくる可能性は
かなり低いだろう。ブレークスルーを今までやってこれた人間というものは、想定外を
つい志向してしまう動物なのかもしれない。

 ということで、我々はなかなか矛盾に満ちた存在だが、そこが面白いのかもしれない
と言うしかない。やはり、想定内だけで生きようとしては駄目なのではなかろうか。

鎌倉 女ひとり旅

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 雑誌の書評で知ってすぐに読んだ。

 僕は鎌倉が好きである。特に現在はタイに駐在していることもあり、時々思い出す鎌倉は
実に行きたいものだと溜息をついてしまうほどだ。
 何が鎌倉の魅力か。人によって違うだろうが、僕は「寺と海と山が混在している美しさ」が
気に入っている。特に「山」に関しては、鎌倉アルプスと言われるハイキングコースが意外と
山道だ。汗をかきながら歩き、時に海を見下ろすというコースは実に良い。

 本書は、鎌倉好きの著者が自分の足で歩き回った鎌倉紹介である。著者の自分の好みを
開陳しているだけかもしれないが、それだけに手作り感が非常にユニークである。本書を
読んでいて行きたくなった場所はたくさんある。もっというと自分は鎌倉にはそこそこ
行っていた積りだったが、知らないことだらけだったということを痛感した。

 かかる「痛感」は「快感」ともいえる。まだまだ鎌倉には、行くべき見るべきものがあると
分かったからだ。いつか日本に帰任したら再度本書を抱えて鎌倉に行こうと強く思った。

「リリィ、はちみつ色の秘密」 

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 ジャカルタからバンコクに戻る機内で鑑賞した。

 本作はテーマが盛り沢山で、やや散漫なきらいがある。盛り込んだテーマは「父と娘」
であり「母と娘」であり「人種差別」であり、「黒人のキリスト信仰」である。どのテーマも本作には
相応しいものだと僕は思う。但し、全てを盛り込んだことで各テーマが深堀りされていない。
そこが惜しいといえば惜しい。

 個人的には「はちみつ」にもう少し拘っても良かったのではないか。「蜜蜂が集団で花から蜜を集める」
というイメージは、そのまま主人公のリリーが避難するボートライト家に重なっている。ポートライトの
主であるオーガストはリリーに「蜜蜂を好きになりなさい」と教えるが、それはリリーにポートライト家を
好きになりなさいと言っていることを意味している。

 では、集めている「はちみつ」とは何を意味するのか。それはリリーの希求する「許し」なのかも
しれないし、自殺するオーガストの妹が望んでいた天国での安らぎなのかもしれない。そういえばリリーと
ザックの間に芽生える淡い恋も、はちみつから生まれてきたと言えるのではないか。

 そのように「はちみつ」に拘ると案外この映画の「深み」というものが見えてくる気もする。
ここまで書いてきて、再度本作を、今度は機内ではなくもっとゆったりした環境で、鑑賞しようと
思ったところだ。

 良い作品だ。俳優たちが全て非常に良い。

堤 佐保子さん

 ブロクで知り合った方で「なごみ」さんという方がいた。

 2006年に初めてブロクを書いたときにコメントをくれた方であった。以来、2013年にその方が
癌で逝去されるまで、ブログでお話する機会があった。住まいが近かったらしいこともあり、お互いに
知っている古書店経由でお土産(僕はインドネシアにも在住していたので珈琲等がお土産だった)
をお渡しすることもあった。

 僕より2年年上という若さで死を迎えるというつらさは僕には分からない。ブログでの知り合いだけ
だったので顔も名前も知らないし、お見舞いの行くことも全く無理であった。

 あれから4年経ち、「なごみ」さんのお名前が堤佐保子さんであったことを知る機会を得た。
奈良の佐保という地名からのお名前だったのだろうか。今となっては何もわからないわけだが。

歴史の証人 ホテル・リッツ

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 新聞の書評で本書を知って読む機会を得た。大変面白かった。

 一点目。ホテルという「場」が、やはり「ハレ」であると強く思った。

 本書に登場するキラ星のような人物達は、基本的には、蕩尽を尽くしている。本書を
読んでいて、登場人物達の「くどい」人生にはいささか胸焼けすら覚えるくらいだ。これは
とりもなおさず、ホテルという場のなせる魔法と言っても良いのかもしれない。登場人物達も
ホテルの磁力に引きずられて、その人の持つ以上の、異常な放蕩にふけっているのではないか。
ホテルとは決して「宿泊し、食事する」だけの場所ではない。その場が持つ魔法、磁力というものが
あり、それに翻弄される登場人物達の姿が本書である。

 二点目。そうだとしても、本書の登場人物の「破綻」ぶりには目を瞠るしかない。

 それは時代というものもあったに違いない。自分の目の前で戦争が繰り広げられるという経験が
無い僕は本書の正しい読者ではないのかもしれない。本書の登場人物が、いかに自らの破滅と死を
見据えた上で、乱痴気騒ぎに耽ったのか。それは、リッツホテルの上を覆った時代があったに
違いない。そう考えないと、登場人物達の「肉食」ぶりは理解出来ない。そう、彼らは本当に
「肉食」だったように見える。最近の日本でもようやく「肉食女子」というような言葉も
出て来たが、パリに徘徊した肉食人種から比べると、赤ん坊みたいなものだ。血の滴るような
エピソードばかりではないか。

 それにしても、歴史のあるホテルは大なり小なりエピソードに塗れているのだろう。そんな
怨念が巣くう空間が、面白くないわけがないのだ。僕も一生に一回くらいリッツに泊まってみよう
と思ったところだ。

「田中角栄回想録」 

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田中角栄という方をテーマとする本の多さは日本の政治家の中でも飛び抜けていると僕は
思っている。僕自身も田中角栄関連の本を読むのは5冊目くらいかもしれない。

 田中という方の為したことの評価は未だ定まっていないと僕は思う。評価が固まっていない
ことも田中関係書籍の多さの一因だろう。ましてや田中という方自身への評価は更に定まっていない。
いよいよ本が増えるはずである。

 当たり前ではあるが、「田中という方の為したこと」と「田中という方自身」とは別物である。
「やった仕事」と「その人自身」はある意味無関係であることは、例えば芸術家辺りが一番好例だろう。
北大路魯山人の作品の評価の高さと、ご本人の人格の評価の低さ等を挙げれば分かり易いのかも
しれない。(因みに僕は北大路という方の評価も定まっていないとは思うので本当は良い例ではない
かもしれない)

 その意味で、田中の人気は彼のやった仕事ではなく、ご本人自身への人気ということなの
だろう。

 本書は田中の秘書だった早坂という人が書きだした田中という方自身の人間像である。当然ながら
美化されて書いてあるようにしか読めない。但し、田中の場合、非常に多くの人が「美化された田中」
が好きなのではないか。似た例を考えると、「長島茂雄」あたりではないか。そんなふうに思いながら
本書を読んだ。

 長島茂雄と田中角栄を比較する。そんな研究があるのかどうか。有ったら是非読みたいもの
である。日本社会がある時代に切望した英雄譚というものの有り様がそこにあるかもしれないからだ。

「未来の年表」 

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 少子高齢化というものをもう少し具体的に知りたいと思って読むに至った。

 まず本書の利点は前半の「年表」である。今後近未来という時間軸の中で何が
起きるのかという点を具体的に表現している点は説得性がある。この部分を読むことで
日頃漠然と把握してきた「少子高齢化」というものへの理解が深まった。特に
「少子」と「高齢化」はセットで語られる一方、実は全く異なる2つの事象であり、それが
同時に進行することで大きな波状効果を呼ぶという点は目からうろこが落ちる思いがした。

 後半は可視化した問題解決への著者の提言である。流石に、この部分は「弱い」と思わざるを
得ない。著者が述べる対策には現実性が薄いと思われるものや、やや理想主義的と思われるものが
混在している。但し、その部分を責めることはアンフェア―であると考えるべきだ。「少子」と「高齢化」
は人類初の難題であり、処方箋が簡単に見つかるとは思えないからだ。

 個人的には小人口の国というものの比較を見たいと思う。日本の人口130百万弱という数字は世界
ランキング10位レベルであり、実は人口大国であると言えると僕は思う。言い換えると、人口が
日本より少ない国が大半であるということだ。そういう小人口の国の中に日本が目指せる国があるのかどうか。
その点を一度議論してみたい。なかなか難しい話だと思うが、少なくとも、そういう議論が有っても
良いのではなかろうか。

 ということで本書は前半部分の「問題可視化」の部分で大変勉強になった。問題を机上に
乗せるということ自体そもそも容易なことではない。

ミニマラソンに参加して

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 タイに駐在すると決まった際に決意したいくつかの事の一つが、タイでランニングのレースに出ようというものだ。

 僕は1996年から2001年までタイに暮らした。その際には月1回程度はランニングのレースに出たもの
である。初めは10kmから開始し、ハーフを経て、フルを5回走るまでとなった。

 今回は10kMである。正式にいうと、10,5KMらしいが、まあ余り関係ない。何はともあれ完走し、決意の
一つを果たせてほっとしているところだ。




「南洋と私」  寺尾 紗穂

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 入社二年目の1988年から1990年頃にかけて、集中的にミクロネシア、北マリアナ連邦、グアムに
出張する時期があった。南洋での仕事の合間に、かつての日本軍の建築物や遺跡を見学する機会があった。また現地の病院で地元の老人と日本語で話したことも覚えている。

 もう30年前の話だ。

 その後、中島敦がパラオに駐在した際の本が角川書店が文庫で出版された。本作の著者は中島敦の本から
南洋にたどり着いたという。僕は南洋から中島敦にたどり着いた。ベクトルは逆ではあるが、
それはどうでも良いエピソードに過ぎない。

 本書をどう読めば良いのか。本書はノンフィクションというジャンルにあるらしい。但し、著者自身は
プロのノンフィクション作家なのだろうか。本書を読む限り、取材も、やや行き当たりばったりに
見える。何より、著者の「スタンス」が見えにくい。著者は「歴史家」なのか、「民族学者」なのか、
「ノンフィクション作家」なのかという点が分からない。著者に聞けば良いのかもしれないが、きっと
自分はそれらのどれでもないというような返事しかしないだろう。

 本書を敢えてノンフィクションというとしたら、「調査活動を通じた著者自身の人生というノンフィクション」
という言い方が正しいのかもしれない。

 本書を書き上げるに当たって著者は15年程度の時間をかけてきている。その間に著者が経験してきた人生は
本書にさりげなく書き込まれている。恋人との南洋旅行に始まり、結婚、出産を経た点は行間にきちんと
埋め込まれている。
 その上で、最後のあとがきで謝辞を捧げている相手を「かつての相方」と呼んでいる。南洋調査と、決して平坦
ではない著者自身の人生はシンクロしているように僕は読んだ。

 大事な著作だと僕は思う。30年前に南洋で思ったことは「このような歴史は既に風化が進んでおり、誰かが
調査すべきではないか」ということだった。南洋は著者を得て、一つの貴重な著作を産んだのだと僕は
思う。