くにたち蟄居日記 -55ページ目



 雨を見ていると、空はもう一つの大きな海なのだと思ってしまう。

「ハートオブダークネス」  

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 本作は昔から知っていて、長年観たいと思っていた。今回漸くそれが達成できて嬉しい限りである。

 本作は「地獄の黙示録」の制作を切り取ったドキュメンタリーである。監督のエレノアコッポラは
「『地獄の黙示録』撮影全記録 」という本も書いている。本と比べると、当たり前ながら本作の方が
説明の詳細は少ないものの、濃度という点では優るとも劣らない。これはまずは映像の力であることと、
登場人物の生の声が聴けるからである。「『地獄の黙示録』撮影全記録 」に続いて、当時の地獄の黙示録制作の
「地獄」が良く理解できた。

 本作を観る限り、映画制作そのものが「地獄の黙示録」と重なっている。俳優やスタッフたちが「地獄の黙示録」
という映画の中に溶け込んで行ってしまい、制作しているものが「映画」なのか「現実」なのかが曖昧になって
いっているように見える。そこが本作を観るということなのだろう。僕はそう思った。

 勿論、そうなるだけの「闇の奥」という原作の牽引力もあろうし、ベトナム戦争という撮影当時は身近な素材
の持つ魔力というものもあろう。加えて密林や泥に満ちた川といった風景、暑さと湿気という特殊な気候も
一因になっていたに違いない。そういう中で、関係者が狂気に陥っていく風景が強烈である。豚や水牛が屠殺
される場面は白眉と言える。もはや映画の為に屠殺されているのかどうかも分からないからだ。

 本作はコッポラの妻のエレノアの作品である。フィルムをまわし、本も書いたエレノア自身が狂気すれすれ
ではなかったと誰が言えるのだろうか。そんなことも考えながら、あっという間に鑑賞し終えた。

植物的な勘とは


 動物的な勘という言葉はある。では植物的な勘とは、これはいかなるものか?

見ず知らずの他人を信用すること


 僕は日本では卒検以来車を運転したことがない、完璧なペーパードライバーである。
そもそも運転が嫌いなのでそうなっているのだが、何故運転が嫌いなのかというと、
例えば「対向車がいきなり突っ込んで来たら逃げようがないじゃないか」というような気が
するからだ。

 これは端的に言うと人間不信の一つのパターンなのかと思う。つまり対向車を
信用できないという話かと。

 対向車というものは、運転している人は全くの見ず知らずの人である。その見ず知らずの
人を「信頼」しないといけないということが運転というゲームのルールだ。

 例えば我々は仕事において、客先が信頼できるかどうかはとても気にする。
全くの知らない客先と、いきなり大きな契約を結ぶことは普通しない。

 一方、運転というような、実は自分の命に係わるような場面においては
見ず知らずの相手を「信頼」せざるを得ないという状況があるわけか。
これはこれで不思議ではないか。

 但し、知らない人を「信頼」する機会は、実は毎日いくらでもあるような気が
する。もっと言うと、何をするにしても信頼しないとやれないことばかり
かもしれない。従い、実は「見ず知らずの人を信頼する」ことが、人間の今日の
繁栄を築いた秘訣なのではなかろうか。人を信頼することで省けているものは
沢山ある。「人を信頼して任せる」という行為は、仕事においても個人においても実は
死活的に重要なのかもしれない。

「怪異談 生きてゐる小平次」 

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 20年ほど前から一度観てみたいと思っていた本作をアマゾンの配信で漸く観ることが
出来た。望外の幸せである。感想は二点だ。

 一点目。音響効果が素晴らしい。

 本作では「音」に拘っている。歌舞伎調のセリフ、音楽等の人工音に加えて、滝、雨、川等
の音が体に迫ってくる。怖ろしい音だ。音だけである種の「怪談」が醸し出されてくる。
 聴いていると観ている自分自身が映画に取り込まれていくような思いがする。
考えてみると、ホラーにしても怪談にしても、本来観客であるはずの自分が、物語に入ってしまう
地点で怖ろしさが発生する。本作では「音響」が、我々を物語に誘い込んでいると言っても良い。

 二点目。話の筋は最早分からない。誰が生きていて誰が死んでいるのかすら分からない。
死んでいるのが本当に小平次なのかを考えてしまう。
 加えて、宮下順子が演じる「おちか」という人物は本当に解らない。彼女に振り回される二人の
男の末路が本作の筋なのかもしれないが、いかんせん何が本当なのかが分からない。芥川龍之介の
「藪の中」の方が、まだ理解し易い。そんな「宙吊り」の中で、前記した、まがまがしい「音」
響いてくる。

 1時間17分という短尺だが、それを思わせない濃厚な作品だ。堪能という言葉を久しぶりに
思いだした。

アマゾンがホールフーズを買収する理由がわからない

 アマゾンがアメリカのホールフーズという会社を買収すると発表があった。

 僕の理解ではリアル店舗にとってアマゾンは最大最強のライバルである。日本においての
小売りではコンビニが現段階では一番強いが、コンビニにとって一番怖いのは、コンビニ以上の
品揃えが可能なアマゾンだと考えて来た。

 そんなアマゾンが実店舗に手を出すという事自体が驚きである。

 ホールフーズはブランドイメージが高い。端的にいうと高級食材店である。アマゾンがそんなブランドを
狙ったのかというとややピンと来ない。一方で物流拠点という見方もあったが全米で400店舗という
規模は大きいとは思えない。

 ということで僕にも良く分からないのだが、何かを実験する場として400店舗という規模は面白い
のかもしれない。その上でアマゾンがコンビニを買いに来てもおかしくないと思うし、アマゾンに
コンビニを売却すべしというコンビニの株主が出てきてもおかしくない。そんな流動化している時代
の中で、僕らが自分や自分の生活を律することはとても難しいと思う次第ではある。

「乳と卵」 川上未映子

 村上春樹と川上未映子の対談で本書が紹介されていたことで読む機会を得た。

 村上は本作に関して「『乳と卵』は文体だけだ」と断言している。これは「内容が無い」ということを
言っているわけではない。ちょうど村上と川上が「文体こそいかに大切なのか」という文脈で議論している
中での村上の発言であり、むしろ高く評価した一言である。その村上の断言を読んですぐに本作を購入した
次第だ。

 ではどうなのか。

 本作で川上が展開する「女性の感覚と論理」というものを男性の僕が実感することは極めて難しい。
同じ人間でも男女によって、全く違う点があることに驚いた。
 ボーボワールは「女性は女性として生まれるのではなく、生まれた後に女性になっていく」という
ようなことをどこかで書いていたと聞いている。本作はある意味では、その言葉を乗り越えた地点での
「女性とは何か」を指し示しているような印象を受けた。その「乗り越え」る為の手段が川上の
本作における「文体」ではなかろうか。かつ、そこを村上は評価しているのではないか。僕は
そんな風に読んだ。

 川上の本を読むのは初めてだ。もう少し読んでみようと思った次第である。


「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎

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 黒澤映画の大プロデューサーが後年ピンク映画を量産したという話を10年くらい前に
聞いたことがある。それ以来、本木という方が気になってきたが今回本書を読むことで初めて
本木のことを詳しく知る機会を得た。同時に本書は本木を通じての黒澤明論にもなっている。

 本書を読んでいると、つくづく映画というものの業の深さを感じてしまった。僕らにとって
映画とは楽しい娯楽である。「楽しい」と言ったが、例えば非常なる悲劇を鑑賞することも
実は楽しいものだ。登場人物に感情移入し、特に涙を禁じ得ないという経験は、明らかに
僕らを癒し、リフレッシュさせ、明日への活力源となっている。従い僕もささやかながら
映画ファンを自認している。

 一方、映画を創る方にとっての映画は当然娯楽ではない。「仕事」ということなのかもしれないが
「仕事」という言葉も当てはまらないような、怪物であることが本書から垣間見える。

 本書を読む限り、本木にしても黒澤にしても、映画という怪物に憑り付かれて、狂気に
走っている方としか言いようがない。これは芸術全般に言える現象だとは思うが、映画は個人で
作るものではなく、複数人が組織として作るものである点で、狂気の質が異なっている感がある。

 「私は我儘な芸術家ではない。芸術家とは我儘なものだ」と喝破したのは岡本太郎だが、我儘な
芸術家達が集まって一つの作品を創るという「映画」というものは、余計に狂気を強いるものでは
ないだろうか。本書を読みながらつくづくそう感じた次第だ。

 著者の本木に対する暖かい視線が心地よい。その分黒澤に対しては、やや冷ややかなものも感じたが
本木に感情移入している著者であるので、その方がすっきりしている。僕は本書を通じて、黒澤という
方の深い闇も感じた。黒澤映画に見られるヒューマニズムを創り出した黒澤自身の狂気ぶりは、
人間というものの複雑さも感じさせるものがある。

徒然草 第六十一段

 六十一段では、兼好はお産の際の儀式の話をしている。縁起担ぎと言ってしまえばそれまでだが、
兼好ほどの現実主義者が「縁起担ぎ」を面白がって記しているという点は逆に興味を惹かれる。

 小林秀雄は兼好に関して以下のように語っている。

 「無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。
  そういうものも、しっかりと見てはっきりと書いている」

 その小林の指摘の一例が本談かもしれない。

「みみずくは黄昏に飛びたつ」

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 これは大半の方の賛同を得られる気がしているが、川上未映子の「勝ち」である一冊だろう。

 何が「勝ち」なのか。村上と川上のディベート合戦で川上が勝ったという意味ではさらさらない。
「よくぞそこまで村上に切りかかるとは」という勝負の気合で川上が優れていたという意味である。
実際に「村上に聞いてみたいけど、ちょっと聞いていいのかな」というような質問を川上は無邪気に
村上に投げつける。質問を受け取った村上の苦笑が目に浮かぶ場面が行間から立ち上ってくる。村上への
インタビュアーとして、こういう人があってもいいのかという点で清々しさすら感じた。

 それでは川上が掘り出した村上とはどのような作家だったのか。

 村上がとことん文章と文体に拘ってきた点を再認識出来た。「文章を武器として闘う」ことを村上が
初めて言ったのは、処女作の「風の歌を聴け」の架空作家ハートフィールドを村上が評した箇所だった
と思う。処女作と同じ事を70歳手前の村上が言っていることをどう理解すればよいのかと考えて
しまう。

 「ぶれなさ」という表現もあろう。「処女作にその作家の全てがある」という言い古された格言を
思い出す方もいるに違いない。

 但し、僕としては、その宣言こそが村上の無類のエネルギーの源泉であったからだと整理することが
一番腑に落ちる。デビュー当時の文壇の流れである「テーマ主義」に対するアンチテーゼが彼の
原動力であったのではないか。村上の上の世代の「純文学者」が「テーマ主義」に絡め取られた挙句に
「力の有る文章・文体」を失い、結局は「文学サロン」の中で小さく完結した経緯が多くないか。
例えば「芥川賞受賞者リスト」を見ていても「よく知らない人が多いな」と感じてしまうのは僕だけでも
ない気がする。

 村上は「テーマ」ではなく「文章」を武器として「サロン」に入らずに孤独な一人旅に出た。
そんな村上の味方は、普通の読者であったことも確かだ。村上が幾度もWEBを通じて普通の読者
と会話してきたことはそれの証左だと僕は思う。評論家でも批評家でもない普通の読者と語り合う
姿は、従来の作家には見られないものだ。そこにつぎ込んだエネルギーも膨大だったに違いない。

 というような村上の姿を浮き彫りにさせた川上の「ややミーハーな剛腕」が本書の魅力だ。
直ぐに川上の「乳と卵」を読んだことも付け加えたい。