くにたち蟄居日記 -56ページ目

「黒い罠」 

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 赴任先のバンコクの休日に鑑賞した。単身赴任の良い面は休日に一人であることだ。勿論それは「悪い面」でも
あるのだが。

 本作は冒頭の長回しで有名だが、それに拘ると誤ると思う。本作の異様な魅力は、かかる撮影上の技量から来ているわけでは全く無い。登場人物の不可思議な愛憎の有り方こそが本作の心臓部だ。

 本作の主人公はチャールトンヘストンとなっている。但し彼はある種の狂言廻しに過ぎないことは誰の目にも
明白であろう。正義感に満ちた主人公は案外薄っぺらい造型に仕立てられている。ジャネットリー演じる、ヘストンの新妻も同様に平板に出来ていて、感情移入することは難しい。この善玉夫婦は、映画に出てくる安っぽいモーテルにやや似ていなくもない。

 一方、悪役側は異彩を放っている。

 オーソンウェルズは、そもそもその巨体が深みを与えている。彼は撮影に当たって衣服を工夫して実際以上の
肥満体に仕立てたという。「異人」が異様な風体で登場することは世界の民俗学に共通する事象であるが、
オーソンウェルズは正しく、その「民俗学」の延長上にある。

 加えて、裏のヒロインであるマレーネデートリッヒが素晴らしい。クールでタフという言葉はハンフリーボガード
だけに当てはまる言葉ではない。本作の彼女は正にそれにあたる。それにしても場末の女将をやらせたら彼女の右に出るものはいないのではないか。例えば小津あたりが彼女を起用したらどのような傑作が出来たのだろうかと考えることは案外楽しい。

 それにしても本作は長らく注目されない作品であったらしい。その経緯はオーソンウェルズにとっては惜しかったのかもしれない。但し、かような不遇な時期にある種の熟成があったのも本作ではないか。現在はカルト映画として不動の地位を得たと言われるが、それも、かかる不遇の時期があったことも一因だろう。カルト映画とは
そもそもそういう経緯を持つものが多い。

「シュナの旅」 

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 次女が「これを読みなよ」と勧めてくれたことで本書を読むきっかけを得た。18年前には
赤ん坊であった子供に本を推薦されるということ自体にやや感銘を受けた次第である。なぜなら
18年前は家で「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」といった、本書を元にした映画を
DVDで鑑賞していたわけだが、その傍らで、眠りこけていたのが当時0歳だった次女だから
である。

 本書を読んでいると、宮崎は自分の編んで来た「物語」をとても大事にしてきた
ことが良く分かる。これは例えば村上春樹に似ている。村上も以前に書いた短編を
その後膨らませて長編に仕立てることが多い。村上も自分の「物語」をゆっくり熟成させて
きている。宮崎も同様ではないだろうか。それが本書を読んだ第一印象である。

 宮崎の映画群の「強さ」は圧倒的な「物語」がある。つい宮崎の映像作家としての
技巧に目が行ってしまうわけだが、実は宮崎の心臓部は「オリジナルである物語を語ること」にある。
その意味では、宮崎は小説家に資質が近い。かつ「長編作家」である。これは例えば、新進気鋭といえる
新海誠が同様に物語を駆使しつつも「短編作家」であるように見える点と、良いコントラストを
成している。

 本書で宮崎が開陳した数々のテーマというものがある。それらに向きあい、熟成させてきたことで
宮崎の傑作映画群が成立してきた。従い、本書を味読することは、宮崎映画を鑑賞することに際して
実に役に立つ。そういう読み方が正しいと僕は思う。宮崎の旅は、本作から始まったのかもしれない。

所有から利用へ


 「所有」から「利用」へ。

 4月16日 日経新聞の記事から。中国でのカーシェアリングの普及に関して。

無人運転車


 最近新聞で連続して車の自動運転関係の記事を読んだ。昨近の人手不足と、物量増による物流問題の
解決策として、運転手が不要と出来る自動運転への期待も大きいのかもしれない。

 それにしても、と思う。

 それにしても、もし自動運転が実現した場合に、一番のリスクは人の運転する車かもしれない。

 人間のやる事の不可知性に関しては「さとり」という妖怪譚でも描かれている。次にどのような行動に
出るのかという点が予測不能であるのが人間の常であり、性である。
 そう考えると、無人運転車の群れの中で、一台だけ人が運転する車があるとしたら、その車が
その「群れ」の中で一番のリスクになるのではないか。

 2001年宇宙の旅のHALも同じ事を考えたのだろうなと思っているところだ。

「村上春樹 翻訳全仕事」

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 村上春樹の仕事は翻訳を抜きにして語ることは出来ない点に関してはあらかたコンセンサスに
なっていると僕は思う。

 懐かしさを一杯感じながら本書の頁をめくった。ここで紹介される一冊一冊を僕は
当時から読んできたからである。

 初めて村上の翻訳を読んだのは1984年頃であったから30年以上前の話だ。
本書を読むことは村上翻訳の30年を俯瞰することだけではない。僕自身が自分の30年を
思いだしていくことでもある。一つ一つの作品を読んだ時期を思いだしながら、「僕も遠い
ところまで歩いてきたな」と強い感慨を覚えた。これこそ、同時の作家の本を読み続ける
ということの醍醐味であると言って良い。村上が「翻訳することを通じて何を得てきたのか」
をリアルタイムで見ることが出来たことは幸福な読書体験である。

夜明け

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タイの夜明けである。既に暑い

タイの水かけ祭り

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タイに赴任しました

 このブログを始めてからもう10年以上経ちます。


「さいはてにて」 

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 日本人は「田舎にある飲食店」を舞台とした映画が好きだなと思いながら鑑賞した。

 思うのだが、映画で喫茶店の主人が出てくる場合、まず例外なく、その人は善人である。
喫茶店の主人が悪役であったような映画は寡聞にして知らない。想像するとわくわくする
というよりは妙に心が痛む気がする。これは喫茶店というものに対するある種の集合記憶に
近いのかもしれない。

 本作も正しく、その伝統上にある。永作演じる主人公は、どうやって生計が成り立っている
のかが良く分からない善人だ。もしかしたら通販専門のカリスマ珈琲ブレンダーなのかも
しれない。加えて、彼女の私生活も全く情報が出てこない。既婚・未婚・離婚等、誰でも
気になる部分も教えてくれない。勿論かような「情報欠落」が映画に複雑な隠し味を加える
わけなのだが、それらが欠落した中で「主人公は善人だ」と判断することは本来はおかしい。
但し、お約束事のように主人公は善人であり、僕らはそれに乗っかって本作を辿ることになる。

 佐々木が演じるシングルマザーは、前半と後半の人の変わり方がやや酷い。これは佐々木の
責任ではなく原作か脚本の問題である。但し、佐々木も悪女と善女を一作で演じ分ける機会が
あったことは案外良かったかもしれない。演技自体も、わりと抑えられていて、不自然な設定を
考慮すると「自然」に演じていた気がする。

 話の筋自体は荒唐無稽に近い。荒唐無稽なのだが、永作と佐々木がなんとなく、さらりと
語ってしまい、ありそうな話にも見える。その辺りが本作の「芸」だと思う。個人的には
もう少し陰影がほしかった。それには主人公をもう少し語り込む部分ということなのだろうか。

「玉姫様」  戸川純


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赤坂の居酒屋で海外転勤の送別会をやってもらった。居酒屋で流れたのが「玉姫様」である。大学時代に聴いてから30年ぶりに聴いたことになった。戸川純の歌唱を聞いているうちに再購入を決めた。

 「玉姫様」は女性の生理を謳った曲らしい。当時のコンサートでは生理用品が飛び交ったとも聞く。
完全にキワモノと言えるのかもしれない。但し、30年たって今聞くと、音楽としての躍動感にも
溢れており、実に良い。細野晴臣の才気走った音楽も、当時のYMOを彷彿させるものがあり
聴いていてわくわくする。

 なぜわくわくするのかを考えることも楽しい。例えば今の20歳前後の方が本作を聴いても
どのような感想を持つのかは分からない。但し、30年前の「あの時あの場所」において
キワモノながらもある種のカッティングエッジの一つが戸川であり、細野であったと僕は
思うのだ。30年を経ても、その当時のざわめきが僕の中にも残っていた。それが本作を再度
聴いた際のわくわくに違いないのだ。

 ということで明日からタイ転勤である。