くにたち蟄居日記 -58ページ目

「津波と原発」 佐野眞一

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 興味深く読めたが、通読した印象としてはやや書き飛ばしに見えた。

 本書の面白さは原発の設立時を書き込んでいる点にある。これは既に正力伝を書いた佐野
ならではの知見だろう。原発というものは単なる発電所ではなく、極めて政治的なものである
という点は本書ならではの視角である。非常に多くの人の様々な、もっというと、生臭い
思惑の基に原発が造られたことはよく分かった。

 当該「非常に多くの人」たちが、当時どのくらい原発のリスクを理解していたのかは疑問だ。
但し、それを責めてもあまり意味はない。もっというと、その後にチェルノブイリを見てきた
僕らですら福島原発にかようにリスクがあることに気が付かなかった点の方が問題かもしれない
からだ。

 本書を書き飛ばしに見せているのは前半部分である。現場に入ったルポがやや小さく見える。
これは本書の刊行を急いだからだと僕は思う。いつもの佐野ならもう少し現場の人間を書き込んだ
上で、原発の歴史を書いたような気がする。そうなっていないことで前半の「ミクロさ」と後半の
「マクロさ」がミスマッチしているような印象を受けた。
 但し本にも鮮度はある。刊行を急いだとしても、それはある意味当然かもしれない。福島原発
が齎したものは実はまだ僕らには良く分かっていないのではないか。なぜなら、まだ事故は
本日段階でも続いているからである。

「宇宙が始まる前には何があったのか」 

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 訳者の青木という方ありきで本書を購入した。青木という方の訳した本は興味深いものが多い。ご本人も一冊著書を出されているが、そちらも面白かった。

 ところで本書である。全くの文系の僕の手に余るということは初めに断言せざるを得ない。平易に書かれている
らしいが、言葉使いが平易なだけであって、内容は難しい。というか、殆ど想像しがたいものばかりである。
それでも僕にとっての読む価値は以下である。

 一点目。宇宙の本を読むたびに、ある種の「癒し」が感じられる。僕らの日頃の「単位」と全く違う「単位」
で世界が記述されるからだ。例えば、140億年余前にビッグバンがあったそうだが、その140億年という
単位自体が理解しがたい。加えて、2兆年後には、宇宙の膨張で夜空に星も見えなくなるらしいが、2兆年後
という「単位」も良くわからない。そもそも40億年以上たつと太陽も消滅しているともある。140億年と
40億年と2兆年をどう考えれば良いのかさっぱり分からない。

 この分からなさから見えてくるものがあるとしたら、僕らの日頃の「単位」の小ささである。せいぜい長生きして
100年という僕らにとって、1年の重さというものがある。重いからこそ、僕らは日頃、色々なことに悩んだり
喜んだりしている。喜怒哀楽という言葉があるが、それを構成しているものは、実は大変に小さいものなのだ。そう考えると、なんだか少し気楽にならないだろうか。「荘子」が冒頭で巨大な魚や鳥を出して語り始めているのも
人間の小ささを読者に「衝撃」として与えることが狙いだと思う。それと同じ効果が本書にある。

 二点目。ではかような小さい僕らはどうしたら良いのか。どう小さい人生に処せば良いのか。
小さいからどうでも良い人生なのか。そんなことは全く無い。小さいからこそ、それを慈しむしか
ない。それが、僕らが一度しかない小さい人生を活きることに違いないのだ。そう考えると、これも
元気が出てくる話ではないか。

 ということで、宇宙を扱った本を時折読むことは僕にとっては大事な体験である。僕がこの世に
いない22世紀では宇宙に関してさらに何がわかっているのかを想像することも楽しい。いや、
僕が死んだ瞬間に、この宇宙自体も消滅するということもあるかもしれない。そんな妄想は
人間原理を突き詰めると出てこないものだろうか。

「唐牛伝」 

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 盗作問題で批難にさらされた佐野の新作である。佐野の著書が好きな僕としてすぐに購入した。
感想は二点である。

 一点目。佐野は回復したのかどうかが終始気になりながら読み進めた。結論的にいうと、かなりの復活の
度合いが感じられてうれしかった。

 僕にとって佐野が盗作したかどうかは二の次で佐野の本を読んできている。佐野の作品は時に薄い
ものも散見されるが、時折出される渾身の大作の迫力には息をのむものがあった。読売新聞の正力松太郎や
ダイエーの中内を扱った著作がそれにあたる。
 それらの記述の中に、ジャーナリストとしてあるまじき行為があったにしても、作品自体には、ある意味では
関係ない話ではある。佐野が叩かれてきた際にも「内容が間違っている」という批判は僕の聞いている中には
無かったと記憶している。

 本作での佐野の取材は執拗を極めていると僕は読んだ。徹底的に足で稼ぐ佐野の姿がくっきりと浮かんできた。そこに佐野の復活を見てもおかしくないと僕は思う。

 二点目。唐牛という方について。

 僕は唐牛という方は名前を知っているだけだったので今回彼の人生を俯瞰出来て良かった。但し、俯瞰した
結果として、唐牛という方の人生は何だったのかと考えこんでしまった。上手く言い表せないが、唐牛が何と闘おうとしたのかが分からないからだ。
 学生運動、漁師、パソコンの販売という脈絡の無さであるとか、彼がもっていた人脈の華麗さといかがわしさ。私生活に関しても、破天荒というしかないと小市民の僕は思う。但し、だからこそ、本書が面白く成立している。そう考えるしかないのだろう。

 いつの時にも、その時代が、その時代の寵児を作るものだと僕は思う。唐牛もそんな寵児の一人だったに違いない。彼にどこまでの思想や哲学があったのかは本書からは読み取れない。見えてくるのはある種のトリックスターとしての唐牛である。唐牛自身にもそれは分かっていたのではないかと、僕は、思う。そんなある種の虚しさも本書から立ち上る「妖気」の一つである。そこが本書の読みどころだ。

 佐野には頑張ってほしい。今後にも期待する。

「全裸監督 村西とおる伝」 

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 新聞の書評で本書を知り、読むことにした。

 本書を読んでいると、村西という方の狂気が良く伝わってくる。
 「狂」という言葉には色々な意味がある。「何かに狂う」という使い方をする時の「狂」とは正気の
人間の所作を表している。村西という方が正気であることは間違いない。その「正気の人」が何かに
狂う姿を狂気という表現で表すしかない。

 村西が狂ったものは何か。それを考えることは実は案外と難しい。普通に答えるなら、セックスであるとか
金銭ということになってしまうかもしれないが、とてもそうとも思えない。「裏返しの名誉欲」等を考えてみても
しっくりこない。なぜ分からないのかと考えているうちに、きっと、村西自身も自分が何を求め、何と闘って
いるのかが分からないのではないかと思うようになった。

 そこから村西の人間としての「闇」というものが噴き出しているように思う。本書で展開される、ガルガンチュアのような村西の過剰な言説と人生には「蕩尽」という言葉が似合う。自分の求めているものが見えないままに
金銭だけではなく人生そのものを「蕩尽」していく姿こそが、著者の描く村西である。ある種の清々しさすら
感じてしまう始末だ。闇の持つ清々しさというものも有りえるのかもしれない。

 本書を読むに当っての留意点は著者だ。

 著者はかつて村西ワールドの住民であったと言える。そんな著者の書きぶりにも村西と通底する
ある種の「蕩尽」を読み取るべきだと僕は思う。端的にいうと、本書にも「過剰感」があるという
ことだ。村西の人生がいくら面白いといっても、七百頁もの大作に仕立て上げてしまう著者は
「過剰」というべきだろう。この半分程度に纏めた方が、陰影に富んだ彫りの深い作品になった
ような気もしないでもない。
 
 但し、そこで著者は「過剰」を選んだのだと思う。そう思いながら本作を読むと、著者と村西が
やや重なって見えてくるから不思議である。

 それにしても村西という方の人生はまだ途中経過に過ぎない。これから何か起こるのか、何が起こるのか
は楽しみだ。著者が再度村西という方を書く日は、まだ先かもしれないが、必ず来るに違いない。

「雪見の善光寺」

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 今年一番の寒波が来たとニュースで言っている。土曜日の朝に雪見に行くことを思い立った。

行き先を決めずに鉄道に乗り込んだ。国立駅にいると、大宮行の「むさしの号」が来たので迷わず乗り込んだ。

 大宮に行く間に新潟に行こうか長野にしようかと少し考えたが、なんとなく長野に決めた。

 長野駅を降りてみると、善行寺が近いことが分かった。前から行きたいと思っていた寺だったので
これも迷わず善光寺行きのバスに乗り込んだ。

 ということで善行寺詣りとなった土曜日である。写真の通り、雪見にもなった。

 それにしても僕は雪見好きである。


「僕らが毎日やっている最強の読み方」 佐藤優 池上彰

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佐藤と池上という方の「情報収集の方法」という話である。楽しく読めた。

 昔何かで読んだ言葉として「情報過多と情報不足を比較すると、情報不足の方がまだ良い」というものがあった。確か、下手に情報が多いと判断が迷う懸念が大きいという点にフォーカスした話だったと思う。現代まさに情報過多の時代に再度考えてみても良い言葉だろう。

 考えてみると、情報とは「判断する材料」である。情報という「材料」を使って作り上げる「最終製品」は「判断」だ。材料と製品が似て非なるものだ。そう考えると、本書で開陳される「情報収集の方法」とは、最終製品では
全く無い。これを読者は良く気を付けるべきだ。僕はそう思いながら本書を読み進めた。

 「判断」とは、常に、誰に取っても、どのような状況でも、容易なものではない。判断とは「何かを選ぶ」
ことだが、裏を返すと「それ以外を全て棄てる」ことを意味するからだ。無数の選択肢の中で、1つ以外の
選択肢を全て棄てさることは、結構度胸がいる話だ。その怖さが分からない事を「蛮勇」という表現が
ある一方、余りに怖がり過ぎると「優柔不断」と表現する。
 僕らは常に、その二つの言葉の間でふらふらしていると言える。但し、最後は「決めないといけない」
ということも分かっている。その為に判断材料が欲しいわけであり、結果として本書のような本が
ゴマンとあるわけだ。

 本書は参考になる。面白かった。但し、所詮は「参考」である。目的はあくまで自分で考えて、自分で
判断することにある。本書でお二人はこの点を明示していないが、行間からはそんなご意見が立ち上って
いる。繰り返すが面白かった。

「宇宙が始まる前には何があったのか?」

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 訳者の青木という方ありきで本書を購入した。青木という方の訳した本は興味深いものが多い。ご本人も一冊著書を出されているが、そちらも面白かった。

 ところで本書である。全くの文系の僕の手に余るということは初めに断言せざるを得ない。平易に書かれている
らしいが、言葉使いが平易なだけであって、内容は難しい。というか、殆ど想像しがたいものばかりである。
それでも僕にとっての読む価値は以下である。

 一点目。宇宙の本を読むたびに、ある種の「癒し」が感じられる。僕らの日頃の「単位」と全く違う「単位」
で世界が記述されるからだ。例えば、140億年余前にビッグバンがあったそうだが、その140億年という
単位自体が理解しがたい。加えて、2兆年後には、宇宙の膨張で夜空に星も見えなくなるらしいが、2兆年後
という「単位」も良くわからない。そもそも40億年以上たつと太陽も消滅しているともある。140億年と
40億年と2兆年をどう考えれば良いのかさっぱり分からない。

 この分からなさから見えてくるものがあるとしたら、僕らの日頃の「単位」の小ささである。せいぜい長生きして
100年という僕らにとって、1年の重さというものがある。重いからこそ、僕らは日頃、色々なことに悩んだり
喜んだりしている。喜怒哀楽という言葉があるが、それを構成しているものは、実は大変に小さいものなのだ。そう考えると、なんだか少し気楽にならないだろうか。「荘子」が冒頭で巨大な魚や鳥を出して語り始めているのも
人間の小ささを読者に「衝撃」として与えることが狙いだと思う。それと同じ効果が本書にある。

 二点目。ではかような小さい僕らはどうしたら良いのか。どう小さい人生に処せば良いのか。
小さいからどうでも良い人生なのか。そんなことは全く無い。小さいからこそ、それを慈しむしか
ない。それが、僕らが一度しかない小さい人生を活きることに違いないのだ。そう考えると、これも
元気が出てくる話ではないか。

 ということで、宇宙を扱った本を時折読むことは僕にとっては大事な体験である。僕がこの世に
いない22世紀では宇宙に関してさらに何がわかっているのかを想像することも楽しい。いや、
僕が死んだ瞬間に、この宇宙自体も消滅するということもあるかもしれない。そんな妄想は
人間原理を突き詰めると出てこないものだろうか。

「最後の秘境  東京藝大」 

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 亡くなった叔父が藝大に通ったことを思いだして本書を手に取った。

 叔父は高松次郎という画家である。というか、彫刻みたいなものをやったり、路上パフォーマーみたいなことも
やったりした方である。子供の頃に叔父の家に行って、そのアトリエでも遊んだが、まあ訳が分からなかった。
子供だったから分からなかったと思っていたが、五十歳を超えた今でも、分からないものは分からない。
もっというと芸術とはそもそも分かるものではきっと無いのだろう。

 さて本書である。面白く読了した。何が面白かったかというと藝大生の「真面目さ」が良く伝わってきた点にある。

 僕は芸術家というものは真面目でないと到底務まらないと思う。例えば週休二日の芸術家などがいるかどうかを考えてみると、余りいないような気がする。

 「土日もなく芸術に没頭する狂気」は真面目という言葉に置き換えられるものだと僕は思う。本書を見ていても
芸術家の卵である生徒たちが既に十分に狂気に走っている姿が散見される。彼らが何を目指しているのかはよく分からない。彼ら自身も分かっていないようにも見える。目指すものが分からないままにそれを目指して走っていく足の筋肉の盛り上がりが本書を読む醍醐味だ。

 藝大の卒業生のその後の厳しさについても本書にて紹介されている。当然だと思う。芸術というものには
実用性が求められていないからだ。

 但し、芸術とは優れて人間的なものだ。僕自身は全く芸術家ではないが芸術があることにとても
助けられている。それは大半の方も同じ想いなのだと僕は断言したい。
 芸術というものが無いことは実はすでに有りえなくなっているのが人間である。そういう定義も人間や
人類には成り立つに違いない。本書で展開される真面目な奇人変人の方々を見ていて改めて、
人間の定義を思ったところである。

「ビッグデータと人工知能」 

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 本書も本屋の平積みで見つけて衝動買いした。読み始めると一気に読み終わってしまった。感想は2点である。

 一点目。
 著者が説くシンギュラリティの不可能性という部分には共感できる点が多かった。特に「人工知能は他律的であるのに対し、人間は自律的である」という主張は勉強になった。ここで他律的とは「他者=人間が情報を与えることによって動き出す」ということを意味し、自律的とは「自己で問題を設定して自ら動き出す」ということを意味していると僕は理解した。

 但し、僕がそう理解したのは2016年の年末という時点である点は明記しなくてはならないだろう。例えば、あと30年後にも自律と他律が同様の意味を持っているのだろうか。この点に関しては著者は、やや楽観的である。若しくは2世紀後にどうかと質問を変えても良い。「人工知能はいつまでも他律的だとは言えない」と考えることは、科学者として、若しくは哲学者として、大事なことではないだろうか。ここで科学者と哲学者を併記したのは、著者が自身に関して「かくして私は理系のコンピュータ工学研究者から転身し、情報社会や情報文化を論じる文系の学者になった」(206頁)と表現したことに呼応したからによる。

 二点目。
 著者が主張する欧米の一神教の影響や、特にユダヤ教に対する見方という点で違和感は残った。
 著者の主張は、シンギュラリティを信奉する考え方の根底に一神教があるというものだ。一人の神を想定する考え方が、例えば「1984」というような本に結実したという見方には納得性はある。
 但し、シンギュラリティを推進する急先鋒が全て一神教信者とも思えない。この点で著者の分析はやや感情に流されているように僕は読んだ。繰り返すが、かかる見方自体には納得性は感じられるが、それが検証されていないという点で説得性は無いということだ。
 ここにおいて著者の主張は、ややアジテーションに陥っているようにも読めてしまう。これは僕だけの偏狭な読み方なのかもしれないが。

 著者は情報というものの本質に迫るべきだと言う。この点に全く異論はない。また、人間の歴史を振り返ると、常に情報の本質に迫ろうとしてきたのも人間だと思う。これは一種の本能にも見える。そもそも地球が丸いかどうかを考えたいというような好奇心とは、目の前の情報(例えば日の長さであるとか)の本質に迫ろうとしたことから生まれて来ていると僕は思う。この点において、僕らの自律性というものはこれからも強く信じていきたい。それが最後の読後感となった。

「ソラリス」 

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 ソラリスの新訳が文庫化されたことで読んだ。映画「惑星ソラリス」の昔からのファンであることが
主たる動機である。

 僕にとって本書は読みにくい一冊となった。これは著者の文章のリズムが合わなかったこともある。
途中で延々と著者が語る「ソラリス学の系譜」に、ついていけなかったことも確かだ。著者がなぜ
かような系譜に、淫するが如く、拘ったのかは僕には正直理解不能であった。クトゥルー神話に溺れていった
ラヴクラフトに、少し重なるものも感じた次第だ。

 著者はタルコフスキーの「惑星ソラリス」をこき下ろしていたらしい。ソラリスを「郷愁」という狭い範囲に
閉じ込めてしまった点を難じている様子だ。それは僕にとって例えばキューブリックの「シャイニング」に
対するスティーブンキングの批難にも通じるようで面白い。

 キューブリックの「シャイニング」は僕にとっては大傑作である。キングは、キューブリックに対して「彼はホラーを分かっていない」と言ったらしいが、どう鑑賞していても映画「シャイニング」は怖い。

 文章で語る恐怖と映像で見せる恐怖の本質的な差がある。後者に関しては、より本能に近い。見た瞬間に総毛たつようなことは時として起こる。見たものを言語化する前に既に鳥肌が立っている状態だ。キューブリックはそこに訴える。キングの文章力とはまたフィールドが違う話だ。従い、キングの批難は僕には腹に落ちない。

 ではソラリスはどうか。著者がソラリスで語ろうとした、おそらくは、「膨大な何か」がある。それを言語化する
中で「ソラリス学の系譜」を用意しなくてはならなかったはずだ。それに対してタルコフスキーは、ごく一部を切
り取ったように見えたのだろう。

 但し、タルコフスキーの切り取った「ごく一部」の美しさというものがある。「惑星ソラリス」をSF映画だと
考えて観る人はいても、SF映画だと感じて観る人などいないだろう。そんな切り取り方をされたソラリスという
本や、その著者が不幸だとは僕は思わない。タルコフスキーに一部を切り取らせた段階で、本書の勝ちで
あるだろうから。