「身体を売ったら サヨウナラ」 鈴木涼美

本屋で平積みされているのを見つけて衝動買いした。リアルな書店に行く愉しみは、かかる衝動買いにある。
衝動買いといっても著者の本を買うのは2冊目である。一冊目は著者の修士論文を本にした「AV女優の社会学」である。最早内容はかなり忘れてしまったが、面白く読んだことは覚えている。
衝動買いといっても著者の本を買うのは2冊目である。一冊目は著者の修士論文を本にした「AV女優の社会学」である。最早内容はかなり忘れてしまったが、面白く読んだことは覚えている。
その後著者が実際にAV女優であったという騒ぎもあった。東大の大学院生がAVに出ていたという話は、東電OL事件をやや思いださせるものがあった。要は社会的ステータスとのギャップに人々が「欲望した」という話なのだと思う。
これを突き詰めていくと、そもそも社会的ステータスという些か胡散臭いものとは何かという議論に必ず
突き当たるはずだが、今日のところは、これ以上深追いはすまい。
ある種の「地獄巡り」譚であると言って良い。著者が語る著者の生活に僕は全く共感出来なかった。但し、共感するかしないかはもはや好みの問題だけである。従い、それだけで本作を評価することはフェアーではない。
著者の男性遍歴、風俗遍歴はどこから来ているのだろうか。時折語られる一種のエリート意識の裏返しなのかもしれないと僕は読みながら思った。僕が読む限り、著者は自らをかなりのエリートとして素直に書き出している。素直である分、鼻に付かない。これは著者のある種の人徳だろう。読めば読むほどに、「こういう形で自らのエリート意識を語る人もあり得るのか」と感心した次第だ。
著者はこれからどこに行くのだろうか。これが本書を読み終えた最後の感想である。風俗産業と、そこに従事する方を社会学者として追求していくのだろうか。それとも、著者の知り合いの風俗嬢たちが時折見せているすっぱりとした足抜けなのだろうか。そこは今後の著者の活躍を、若しくは、引退を、興味深く見ていくしかない。
「ニッポン国 古屋敷村」

以前から観たいと思っていた映画である。上映される機会を知ることも難しく、ビデオ化もされたなかった
ことで僕の中では幻の作品だった。今回DVD化された事を知ってすぐに購入した。
この映画を観ていると、時間の感覚が失われてくる。
まず稲の生育についてじっくりと語られる。冷害と稲の育成の関係を科学的に見せる。僕らは
稲の勉強をさせられるように思える。だが、実は「冷害に遇う村」という古屋敷村の置かれた位置
が刷り込まれていく仕掛けになっている。ここで僕らは不思議な空間にさ迷い出すことになる。
冷害に苦しむ厳しい環境の中で次は炭焼きが語られる。僕も炭焼きをこれだけ見せてもらったのは
初めてだ。この炭焼きを見ているうちに、この映画が1980年代であることを次第に忘れていく。
見ているうちに、舞台は明治なのか大正なのか昭和初期なのかが分からなくなってくる。
その上で、養蚕に話が展開する。養蚕と太平洋戦争が絡んでくる。ある方は自身の
戦争の経験を語った後に、草原で軍服を着てラッパを吹く。ここにおいて、登場人物が現代の人なのか
昭和20年頃の人なのかが区別がつかなくなってくる。
この「分からなくなっていく」という感覚がこの映画の神髄だと僕は思う。繰り返される「花屋」という
美しい屋号を担った色々な方が暗闇から浮き出ては消えていく。徐々にある種の神話を滔々と
語られているような気がしてくる。
本作は反戦映画と観る人もいるだろう。過去の貧しい山村の生業を描いた作品と観る人もいるだろう。
若しくは稲作・炭焼・養蚕といった日本古来の産業を紹介する映画だと思う人もいるかもしれない。
但し、僕はそんな話ではないと思う。監督の小川が何に惹かれて古屋敷村の一年を撮影したのか。
僕は、「時間と空間が捻じれ、過去と現在が混在する不思議な空間」に小川が強く惹かれたのだと
断言したい。憑かれたと言う方が正しいかもしれない。
古屋敷村には時空を超えた語り部たちがいた。ニッポン国とカタカナを使った小川の気持ちも
分かる。今の日本とは違った、ニッポンとも表記すべき不思議な空間を見つけたという新鮮な
驚きを映画の題名に使ったということだ。
漸く鑑賞できることが出来てとてもほっとした。
ことで僕の中では幻の作品だった。今回DVD化された事を知ってすぐに購入した。
この映画を観ていると、時間の感覚が失われてくる。
まず稲の生育についてじっくりと語られる。冷害と稲の育成の関係を科学的に見せる。僕らは
稲の勉強をさせられるように思える。だが、実は「冷害に遇う村」という古屋敷村の置かれた位置
が刷り込まれていく仕掛けになっている。ここで僕らは不思議な空間にさ迷い出すことになる。
冷害に苦しむ厳しい環境の中で次は炭焼きが語られる。僕も炭焼きをこれだけ見せてもらったのは
初めてだ。この炭焼きを見ているうちに、この映画が1980年代であることを次第に忘れていく。
見ているうちに、舞台は明治なのか大正なのか昭和初期なのかが分からなくなってくる。
その上で、養蚕に話が展開する。養蚕と太平洋戦争が絡んでくる。ある方は自身の
戦争の経験を語った後に、草原で軍服を着てラッパを吹く。ここにおいて、登場人物が現代の人なのか
昭和20年頃の人なのかが区別がつかなくなってくる。
この「分からなくなっていく」という感覚がこの映画の神髄だと僕は思う。繰り返される「花屋」という
美しい屋号を担った色々な方が暗闇から浮き出ては消えていく。徐々にある種の神話を滔々と
語られているような気がしてくる。
本作は反戦映画と観る人もいるだろう。過去の貧しい山村の生業を描いた作品と観る人もいるだろう。
若しくは稲作・炭焼・養蚕といった日本古来の産業を紹介する映画だと思う人もいるかもしれない。
但し、僕はそんな話ではないと思う。監督の小川が何に惹かれて古屋敷村の一年を撮影したのか。
僕は、「時間と空間が捻じれ、過去と現在が混在する不思議な空間」に小川が強く惹かれたのだと
断言したい。憑かれたと言う方が正しいかもしれない。
古屋敷村には時空を超えた語り部たちがいた。ニッポン国とカタカナを使った小川の気持ちも
分かる。今の日本とは違った、ニッポンとも表記すべき不思議な空間を見つけたという新鮮な
驚きを映画の題名に使ったということだ。
漸く鑑賞できることが出来てとてもほっとした。
「オはオオタカのオ」

新聞の書評で本書を知り、読む機会を得た。読み終えるのに時間が妙に掛かった。その理由はよく分からない。
本書はノンフィクションである。著者は父親を亡くした哀しみを癒そうとする。その方法としてオオタカを飼い、オオタカと二人で孤独に自然に「逃避」というものである。
本書はノンフィクションである。著者は父親を亡くした哀しみを癒そうとする。その方法としてオオタカを飼い、オオタカと二人で孤独に自然に「逃避」というものである。
というように書いても本書に関しては何も伝わらないだろう。あらすじはそうであっても、内容ははるかに複雑だからだ。
登場人物は4人と言い切って良い。著者、亡くなった著者の父、ホワイトという20世紀の中頃に亡くなった作家、そうしてオオタカのメーベルである。
著者はメーベルを片手に止まらせながら孤独な自然に分け入っていく。その中で心象風景として父親とホワイトが重層的に語られていく。特にホワイトという作家に対する著者のある種の愛憎交じった想いは本書に深い青みを齎している。
読んでいくうちに、その4人が互いに交じり合ったり、同化したりする様を見ているような気すらしてくる。そんな不思議な風景が本書を読むということだ。
その中で著者は救われていく。父親を亡くした衝撃から、少しづつ回復していく。一羽の鳥が人間を回復させていく様がはっきりと看て取れる。
動物と人間の交流という話は別に目新しいものではない。但し、本書では著者自身が鷹に同化していき、鷹の視点で自分自身を再度見つめなおすという点で新鮮だ。著者は「鷹と狩りをしていると、私は人間でいられるぎりぎりのところまで連れていかれた」(239頁)と書く。僕には正直その感覚は分からない。但し、本書のテーマはこの一文に凝縮されているようにも思える。「人間でいられるぎりぎりのところ」というものは何なのかを考えることが本書なのかもしれないからだ。
とても良い本だ。多くの方に読んでいただきたい。
とても良い本だ。多くの方に読んでいただきたい。
「会議のマネジメント 」

職場で会議に出る機会が多いことで本書を手に取る機会を得た。
本書は会議の進め方やファシリテーターの役割等を具体的に書いている点は確かである。僕の興味も
そもそもはそこにあった。但し、読み続けるにつれて、かような技術論以上に、著者が追いかけている
ものはコミュニケーションの在り方という、やや重いテーマであると思う様になった。
著者は時として「居心地の悪さ」の効用を説く。「居心地の良い会義」は、ある種の「共有」が為される
という点では良い一方、「思考停止」にもつながるリスクがあると主張している。
コミュニケーションとは、ある意味では「思考を活発化」させるものだ。他人の思いがけない意見を
聞いて目から鱗が落ちることもある。また、そもそも自分以外の他者というものが歴然として存在することを理解し、その他者という存在を尊重しながら、一方、自分を押し出していくという作業も僕らの日々のコミュニケーションと言える。当然ながらかなりの知的作業である。著者も本書で様々なコミュニケーションの有り様をサンプル的に提出しているが、そのバリエーションの豊富さには、いまさらながら感心する。
そういう文脈で「会議」を見直すと、「思考停止」に繋がる要素を取り除くことは重要な作業であるし、
その為の「居心地の悪さ」の導入という発想は面白い。
やや話が変わるが、僕の上司は自分の感じる「不安」を重要視するという。自分がなぜ何かに不安を感じているのかを突き詰めると自分が見えてくるという。その「不安」と「居心地の悪さ」はよく重なっている気がする。
要は、「靴の中の小石」であり、その小石を探すことで「思考停止」を回避することが可能となり、それが最終的
には他者と自己を再度発見するというコミュニケーションとなるということなのだろう。
そう考えて読むことで本書を読んだ意義を感じているところだ。むしろ途中の「会議の技術」部分はやや飛ばし読みになったのは、当初の本書への期待(会議の進め方やファシリテーターの役割)と全く違った展開であった点は我ながら興味深い現象にもなった。
本書は会議の進め方やファシリテーターの役割等を具体的に書いている点は確かである。僕の興味も
そもそもはそこにあった。但し、読み続けるにつれて、かような技術論以上に、著者が追いかけている
ものはコミュニケーションの在り方という、やや重いテーマであると思う様になった。
著者は時として「居心地の悪さ」の効用を説く。「居心地の良い会義」は、ある種の「共有」が為される
という点では良い一方、「思考停止」にもつながるリスクがあると主張している。
コミュニケーションとは、ある意味では「思考を活発化」させるものだ。他人の思いがけない意見を
聞いて目から鱗が落ちることもある。また、そもそも自分以外の他者というものが歴然として存在することを理解し、その他者という存在を尊重しながら、一方、自分を押し出していくという作業も僕らの日々のコミュニケーションと言える。当然ながらかなりの知的作業である。著者も本書で様々なコミュニケーションの有り様をサンプル的に提出しているが、そのバリエーションの豊富さには、いまさらながら感心する。
そういう文脈で「会議」を見直すと、「思考停止」に繋がる要素を取り除くことは重要な作業であるし、
その為の「居心地の悪さ」の導入という発想は面白い。
やや話が変わるが、僕の上司は自分の感じる「不安」を重要視するという。自分がなぜ何かに不安を感じているのかを突き詰めると自分が見えてくるという。その「不安」と「居心地の悪さ」はよく重なっている気がする。
要は、「靴の中の小石」であり、その小石を探すことで「思考停止」を回避することが可能となり、それが最終的
には他者と自己を再度発見するというコミュニケーションとなるということなのだろう。
そう考えて読むことで本書を読んだ意義を感じているところだ。むしろ途中の「会議の技術」部分はやや飛ばし読みになったのは、当初の本書への期待(会議の進め方やファシリテーターの役割)と全く違った展開であった点は我ながら興味深い現象にもなった。
サティ:ピアノ作品集1 高橋悠治

大学4年生ごろにサティが流行った時期がある。1986年頃の話だ。やや大げさだが巷にサティが溢れていた。
確か「白い音楽」というような言われ方をしていたと思う。
ブームはブームゆえ、沈静化することはやむを得ない。但し沈静化した今でも、サティはしっかりと聴かれている。ブームのせいでやや陳腐化してしまった感もあるが、それでも、きちんと聴いていると今なお魔力が残っていることは分かる。
何が魔力なのか。僕にとっては、まず「静かさ」である。音を出す芸術である音楽が「静か」ということは
本来なら矛盾した話であるわけだが、現実として「静かな音楽」というものは存在する。サティだけではなく。
「静かな音楽」とは何か。僕らはいつも色々な音に囲まれている。耳を澄ませて見れば、実に多くの音が
ある。僕らの耳はそれを「聞いている」。但し「聴いていない」。それが僕らの聴覚の素晴らしさだ。何を聞くかというよりも聞かないものを脳が自動的に選んで意識に昇らせないわけだ。さもないと、全部を聞いてしまって
情報処理が不可能になるだろう。
音楽を聴いていると、他の音は、まず聴こえなくなる。その音楽がサティである場合には「サティだけの音世界」
に入ることになる。その音世界が、サティの場合には「とても静かだ」ということである。いささか言葉にしにくく
説明が難しいことはお詫びするが、そういうことなのですよね。
大学時代に聴いたサティがこのアルバムであったかどうか。それは覚えていない。そんな気もするのだが。
確か「白い音楽」というような言われ方をしていたと思う。
ブームはブームゆえ、沈静化することはやむを得ない。但し沈静化した今でも、サティはしっかりと聴かれている。ブームのせいでやや陳腐化してしまった感もあるが、それでも、きちんと聴いていると今なお魔力が残っていることは分かる。
何が魔力なのか。僕にとっては、まず「静かさ」である。音を出す芸術である音楽が「静か」ということは
本来なら矛盾した話であるわけだが、現実として「静かな音楽」というものは存在する。サティだけではなく。
「静かな音楽」とは何か。僕らはいつも色々な音に囲まれている。耳を澄ませて見れば、実に多くの音が
ある。僕らの耳はそれを「聞いている」。但し「聴いていない」。それが僕らの聴覚の素晴らしさだ。何を聞くかというよりも聞かないものを脳が自動的に選んで意識に昇らせないわけだ。さもないと、全部を聞いてしまって
情報処理が不可能になるだろう。
音楽を聴いていると、他の音は、まず聴こえなくなる。その音楽がサティである場合には「サティだけの音世界」
に入ることになる。その音世界が、サティの場合には「とても静かだ」ということである。いささか言葉にしにくく
説明が難しいことはお詫びするが、そういうことなのですよね。
大学時代に聴いたサティがこのアルバムであったかどうか。それは覚えていない。そんな気もするのだが。
街路樹
「日本で近代的な街路樹の整備が始まったのは明治時代に入ってから。関東大震災や
第二次世界大戦で焼失した時期もあるが、高度経済成長期以降は大気汚染の緩和
や開発の緑の減少を補うため、全国で植えられるようになった。
ただ国土技術政策総合研究所によると、全国の街路樹(高さ3メートル以上)は1987年に
371万本だったのが2002年に679万本に達した後は、おおむね横ばいに推移している」
12月4日の日経から。結果として、日本の都市は世界の都市の中でも緑が豊かである印象が
僕としても強い。
ポピュリズム
「ポピュリズムは経済が低迷し、雇用が奪われたときに出現するもの。支配階級への不満表明でもあり
反乱でもある」
「ポピュリズムがもっとも表出しやすいのは国民投票である」
「権力の分散はファシズム独裁再現を抑える歴史の知恵」
「ポピュリズムは体制批判が存在理由なので権力を握れば変節するか、立ち往生する可能性が大きい」
2016年12月4日の日経新聞から。元イタリア首相のランベルト・ディーニの発言。
居心地の悪さ とは
「居心地の悪さ」を感じることこそが、「文化」を知るためには最良の方法なのです。
居心地がよいこと、つまり、ある文化の枠組みにしっくりとはまって生活するということは、
その文化における決まり事や約束事をはじめ実に多くのことについてそれほど深く考えないで
ほとんど無意識のうちに処理できるかということに他なりません。
-会議のマネジメント P163~164頁 -
本書では会議の有り方の一つとして「居心地が悪い会議」の効用も述べている。居心地の悪さが
時としてコミュニケーションを質を上げることもあるという点が著者の主張だ。
僕も会議に出る場合が多い中で、居心地を悪く持っていくということも大事かなと思う方だと思う。上記の
通り予定調和的に持っていくことが正しくない場面も結構多いからだ。
ポイントとしては、多くの方が、会議において予定調和を好むという点である。そこをひっくり返すのは
決して楽な作業でもないわけだが、一方、予定調和の中から「知恵」などは出てこないとも思う。調和が
壊れた段階で本音が出てくる場面も多いからだ。
それにしても、と思う。村上春樹ならそもそもコミュニケーションが成り立つということ自体が幻想ではないか
と言いかねないかと思ってしまう。業務上でコミュニケーションが大事である点は言うまでもない一方、
人間の性としてのコミュニケーションの困難さは厳として存在するのだろう。