くにたち蟄居日記 -57ページ目

「首相官邸の前で」 小熊英二 から



社会というのは、ある種の記憶の共有をした人によって作られる。

記録というものは、共有されることによって 初めて記憶になる。

「風化」という言葉


 昨日は3月11日だった。

 「風化」という言葉を思っているところだ。風化の元来の意味は、雨や風で岩の表面が崩れていく意味だ。
それを転じて、次第に記憶が曖昧になっていくことを意味するようになっている。「風に化する」という漢字を
観ていると、穏やかなようで、何か寒風にあたっているような厳しさも感じるから不思議である。物事が
ゆっくりと形を失っていく様は、その速度において「穏やか」かもしれないが、形を失うという点で「厳しい」
のかもしれない。

 「大震災を風化させるな」という論調は、毎年この時期になると繰り返される。僕は、時々かかる言葉に
小さな違和感を覚える。「風化」させることは、不可避であるし、もっというと、必要かもしれないからだ。

 とても多くの人が各々いろいろな大事なものを無くした。強い痛みを覚えた方は一生その痛みを
忘れることはできないだろう。ただし、「強い痛み」というものは決して良いものではない。体で感じる
「痛み」とは、体の何かが損傷することを知らせるアラームである。アラームは役割を終えたら、消さなくては
ならない。心の痛みもおそらく同じではなかろうか。

 心の痛みを消すことは無理だ。ただし、消えるのをゆっくり待つことは不可能ではない。その時に
「風化」という言葉を充てたら、これはとてもしっくりくるのではなかろうか。

 僕らはいろいろな物事を日々学び、同じくらいいろいろな物事を忘れていっている。忘れたいことも
忘れてはいけないことも、いずれ、忘れていくのだ。忘れるということの浄化作用は大きい。その忘却の
一つが「風化」である。風と化して飛んでいってしまうものを穏やかな視線で見ていることは時として
安らぎにならないだろうか。
 

「騎士団長殺し」 第一巻

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 本作の僕なりの感想は第二巻のレビューに先ほど書いた。下巻を読み終えて再度
上巻の冒頭のプロローグを読んだところだ。多くの読者が同じようにプロローグに戻ってきているで
あろうことを僕は想像している。戻らざるを得ないと言って良い。

 プロローグを再度読んで、モーツァルトのレクイエムの挿話を思いだした。かの曲は素性不明な
依頼人によってモーツァルトに注文された。モーツァルトは、その使者を自身の冥途への案内人である
と信じた。モーツァルトは自身の鎮魂歌に取り掛かったが完成出来ずに亡くなった。小林秀雄の
「モーツァルト」にて紹介される美しいエピソードである。

 「顔の無い男」が注文する肖像画も同じではないか。語り手である「私」の自画像を描かなくては
ならないという話ではないのか。もっと言うと、村上が「村上春樹という男の肖像画」を書けと
冥途の使者から依頼されているような気がする。

 プロローグを読み返した際の感想だ。初めにプロローグを読んだ際に何を思ったのかはもう憶えていない。

「騎士団長殺し」 第二巻

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 土曜日のお昼に地元の本屋で上巻を購入して読み始めた。夕方に、下巻も買って置いた方が良いと思った。
同じ本屋に出かけて下巻を買った。書店員の方から「もう上巻を読み終えたのですか」と訊かれた。
僕がお昼に上巻を買ったことを覚えてくれていたのかもしれないが、それは聞けなかった。聞くべきだったの
かもしれない。日曜日の朝4時から下巻に取り掛かり、7時に読了したところだ。

 村上春樹の昔からの世界が残らず登場している。

 井戸、闇、美少女、不思議な苗字、不思議な小人、不思議な妊娠、暴力、夢。

 加えて村上が翻訳してきた著作もくっきりと影を落としている。「華麗なるギャツビー」や、レイモンド・カーヴァ―を読み取る場面を見つけることも可能だ。チャンドラーの語り口も、本作の物語のストーリーテリングに見え隠れする。そういえばカーヴァ―とチャンドラーが同じ名前であったことに今初めて気が付いた。

 何が言いたいのか。端的に言うと、登場人物、設定から小道具に至るまで、非常に村上の集大成に近い作品のように思える。

 これは確信犯的な想像だが、いままで村上は彼自身が、かかる「登場人物、設定、小道具」の意味を探りながら色々な著作を書いてきた感がある。つまり村上自身も自分が何を書いているのか分からないままに書いてきた気がする。だからこそあれだけ多くの作品が結論と結末を出さずに終わってきたのではないかと僕は思う。村上の作品群は読者を謎の中に宙づりにしてきている。そもそも「風の歌を聴け」から、結末はさっぱり不明だったではないか。

 では本作はどうか。

 謎は全て謎のままに投げ出されている点は、正しく「村上作品」である。特に上巻の冒頭の場面は
実に、全くに、謎のままだ。あの冒頭を読む限り、本作の続編がありそうである。というか、続編が
無いと困ると読者が思ってしまうのではないか。
 但し、下巻の最後に見られる妙な纏まりは割と新鮮だ。あの部分だけが、ある意味で本作から
浮き上がっている気がする。僕は、村上自身も「結論と結末」を欲しがっているような気すら
した。村上自身が「村上春樹を巡る冒険」という長くて大きな物語を書いて来ている。但し、村上の目からは
「残された時間」にも先が見えてきていてもおかしくない。どこかで結末を付けたいと思っていても
おかしくないのだ。その意味で、そろそろペンギンの人形を返してほしがっているのは村上自身かも
しれない。

「海街 diary」

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 前から観たいと思っていた作品を漸く鑑賞する機会を得たい。

 本作は、やや登場人物に「毒」がない。樹木希林だけが毒を本作に添加しているが、隠し味程度にて
終わっている。それ以外の登場人物はやや善人に「流れている」きらいがあると僕は思う。設定
されている人間関係から考えると、もっと臭みがある展開になると思うのだが、そこはさらりと
かわしている。是枝の他作と比較しても、ちょっと登場人物がいい人すぎないか。

 と考える一方、本作は一体何の話なのかと思っているうちに、本作を「ゴジラ映画」として
考えたらどうなるかと思いついたところである。言うまでもないが、その場合のゴジラは広瀬すずである。
本作は「異物である広瀬すず」がたぐいまれな可憐さを湛えたゴジラとして
鎌倉に「上陸」したことで起こった混乱を描いている作品だと見ると、実は整理しやすい気がする。

 例えば綾瀬はるかの演じる長女は、広瀬すずが来たことで、「自分自身が、いかに自分の父親に
似ているか」ということを考えるようになったはずだ。綾瀬が実母を罵ることを通じて、実は実父を
代弁しているように見える。かつ綾瀬自身が不倫に落ちていっている点は、正確に実父にならっている。
それを彼女に思い知らしめたのは、広瀬すずが無邪気に言い放った「不倫の罪と罰」ではないのか。

 長澤まさみ演じる次女にしても、広瀬という異物を通じて、姉妹の関係に目覚めていく。本作で
一番変容を遂げるのは次女である。酒と男にだらしない前半から、後半の「しっかりもの」への
成長は広瀬の存在抜きでは考えにくい。小津映画の杉村春子の役を次女は担っている。この四姉妹
の下支えは間違いなく彼女がやっていくに違いない。これもゴジラに出会ったことで開けた路では
ないのか。

 海猫食堂の女将である風吹ジュンもゴジラに邂逅した一人と言えないか。自らの死を意識した
姿は広瀬の来る前からあったと思うが、広瀬に出会ったことで表情がさらに澄んできたように
見えなくもない。

 というような堅苦しい鑑賞をしてもしょうがない面はある。もっと言うと三原順の「はみだしっ子」
あたりとも比べたくなるが、そろそろやめるべきだ。本作は何より鎌倉の美しさが際立っている。
四季をじっくり切り取った是枝の執念と言えるのだろうが、「執念」というような「重さ」はない。

 むしろ軽やかである。

 いまや小津安二郎の後継者という感も強くなってきた是枝である。家庭劇で人を呼べる監督は貴重だ。
こういう作品が一定以上のヒットを飛ばせる日本というのも悪くない。やや日本の
えこひいきかもしれないが。

「秒速5センチメートル」

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 インフルエンザで自宅蟄居中に鑑賞した。新海の作品は「君の名は」「言の葉の庭」に続きて3作目である。

 3つの作品に通底しているものを探すと、「距離感」というような言葉に集まってくるような気がしてきた。
3作ともに、主人公とヒロインとの「距離」を巡る物語と読める気がする。二人の間の距離は、本作のような物理的な距離もあるし、「言の葉の庭」の場合には年齢的な距離となっている。「君の名は」に至っては「時空」
そのものが二人の間に立ちはだかっている。
 その距離感は縮まるのだろうか。新海という方は、そう簡単には縮ませてくれない。大概の映画が予定調和的
な結末を用意するであろう中で、本作にしても、新海は僕らを置いて物語を終わらしてしまう。他2作のエンドは
やや明るさを持たせているが、いずれどんな結末になるのかは分かりはしないのだ。

 本作は巧みな短編集と言える。これは新海が小説を書くこともあるという資質から来ているものだろう。
若しくは、短編小説のような映画を作る資質が新海に小説を書かしているのかもしれない。どちらでも
同じ事ではあるような気がする。

 本作のテーマは分かり易いようにも見える。初恋だの遠距離恋愛だのという言葉で括る事は容易だ。
かつ、それも正しそうだ。
 但し、新海が何に惹かれて本作を作ったのかを想像することは楽しい。圧倒的な映像を誇る新海の
作品である。テーマが用意されたにせよ、新海の興味は映像にあったと考える方が素直な気がする。
本作を観る限り、上から下に落ちてくる桜の花びらと雪がある一方、下から上に登っていくロケット
という「運動」があり、その「運動」を描き出した映像がある。

 落ちてくる速度を「秒速5センチメートル」と表現した新海だが、上に登っていくロケットに対しては
早さではなく、「宇宙の先に向かう」という「悠久の時間」を付与した印象だ。主人公の視線はしばしば
遠くに向かっているが「その先にはあかりがいる」というような安易な話でも無さそうだ。そんな主人公の
視線の「運動」を含めた、「距離感」と「速度」の映像が本作の心臓部にあると僕は思う。

 しかし新海という作家は不思議な映像作家だ。映像で闘える方が少ない中で、愉しみな方だと思う。 

「理系の子」 

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 HONZの紹介で本書に出会った。書評を集めた本を読むことの意義を強く認識したところである。
それほど本書は面白かった。米国の高校生達が「科学のオリンピック」に参加する姿を描き出す
ノンフィクションだ。読んでいて以下二点が感想となった。

 一点目。米国の力の源泉を垣間見た気がした。

 本書を読む限り、米国は極めて「開かれた」社会である。「科学のオリンピック」の参加者は
まさに「科学者」であることだけが条件である。いや、実際に参加している高校生達は、若しかしたら
自身を科学者だと思っていないかもしれない。ただ自分の好きなことに打ち込み、その結果を他人と
共有したいと思っているだけかもしれない。

 そんな「思い」に対して、機会を与え、結果に対しては真摯に評価する姿勢の清々しさは本書の
通奏低音である。米国がどこまで「開かれた社会」かどうかは僕には分からない。最近の大統領選挙の
結果を見ても、閉塞感が強い社会のような気もする。但し、かつ一方、本書が描き出している米国の
もう一つの一面を見る限り、まだまだ社会を「開こう」としていく基本的な姿勢は健在に見える。
日本にはまだまだ不足している部分だろう。

 二点目。改めて人間の持つ好奇心の強さに感銘を受けた。

 本書に登場する高校生達の好奇心は並大抵ではない。勿論、ここに登場する高校生達が特別に
好奇心が強いことは論を待たないだろう。但し、大なり小なり人というものは好奇心の動物
である。人間という哺乳類がここまで繁栄しているのは、好奇心を持つ点にあると僕は思う。
そんな人類の歴史の短縮版が本書の精髄と言える。

 好奇心とは、それにしても、何なのだろうか。「天才とは普通の人が問題を発見しないものに問題を
見出す人である」という定義をどこかで読んだ記憶がある。「好奇」とは「奇を好む」と書く。「奇」
とは何なのか。「常ではないもの」という意味なのかもしれない。「常」の中に「常ならざるもの」を見つけて
好むという姿勢は、本書で紹介される子供たちに通底しているのではないか。

「洲崎パラダイス  赤信号」 川島雄三

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 20年ぶりくらいに再鑑賞した。初めて観た際に傑作だと確信した記憶はあるが、全く中身を覚えて
いなかった事も今回痛感した。いったい、傑作だと断定した作品の中身を覚えていられないということ
などあるのだろうか。

 今回観ていて感じたのは当時の東京(若しくは日本の)の豊かさというものである。逆説的な
感想かもしれないが、観ていてそう思った。

 本作が描き出す東京はまだ貧しい時代である。現在と比較しようもない貧しい生活が描き出されている。
但し、それでも、多くの人が多様な生業で生活して行っている逞しい姿は印象的だ。小さな店、小さな仕事
一つ一つに人が付いていて、その小さな何かが人の生活を成り立たせている様は逆の意味で現在と比較しようもない。その瞬間が貧しくとも、「努力していけば生活が向上するに違いない」というある種の楽天性は
本作からも立ち上ってくる。

 橋のたもとの居酒屋のおかみ、蕎麦屋の女中、神田の電気屋のおやじ。彼らの仕事と生活は当時だからこそ
成り立っているように見える。小さな仕事でも希望を持って生きていける。開放感がある。それを僕は「豊かさ」と
感じてしまったことが今回の鑑賞だ。それに比較すると現在は閉塞感の方が強いのではないか。駅前の
シャッター通り一つ見ても、僕らの生業は多様性をどんどん失ってきているとしか思えない。

 1時間20分程度という短さが良い。短過ぎるという方も多い様子だが、伸ばしたところで印象が深くなったの
だろうか。短いがゆえの彫りの深さがあると僕は思う。本作はどうしょうもない男女の仲というものを、色々な
バリエーションで描き出した作品だ。「どうしょうもない男女の仲」という部分は当時も現在もあまり変わって
いないのかもしれない。主人公達が最後に乗ったバスの行先も大体予想が付く。もう一つの洲先パラダイスに
違いないのだ。

「去年 マリエンバートで」 

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20年ぶりに見直した。ブルーレイでの画質は素晴らしい。ブルーレイの威力は白黒映画において、その効果が
極まると僕は最近思う様になってきた。白黒映画は色彩を使わないだけに、白と黒の色の濃淡の見せ方が勝負
である。その繊細な再現に対してブルーレイの効果が大きいということなのだと思う。

 画面は美しいが、話の筋は難しい。そもそも本作は「映画の粗筋」という点では「人口に膾炙した映画の中では
世界最難関の一つ」と言える。勿論、難解な映画はいくらでも作れるし、あるだろう。但し、大半は独りよがりの
映画であり、誰も見ないで消えてしまっていく映画ばかりだ。本作くらい、息の長い難解な映画はなかなか少ない
ものだ。

 ところで何が難解なのかと考えることも必要だ。

 少なくとも僕らの人生は基本的には難解である。周りの人も全て難解だし、そもそも自分自身が一番自分にとって難解である方もとても多いだろう。天変地異の不条理さも難解としか言いようがない。つまり、僕らは日々の難解さには十分慣れてしまっていて、もはや難解だと感じることも稀になっているかもしれない。

 そう考えると本作の主人公二人の話も、ある意味では僕らの日常の難解さの範疇にあるのではないか。
夫婦の間でも「言った言わない」であるとか「行った行っていない」という議論はしょっちゅうある。
その延長上で本作を考えてみると、格段異常な話でもないのかもしれない。

 ここまで書いてきて、逆に考えることも出来るかもしれない。つまり、夫婦の間というものは
そもそも「去年マリエンバートで」と同じくらい難解であるにも関わらず、僕らが慣れ過ぎてしまい、
難解であることを忘れてしまっているという考え方だ。こちらの方がやや恐ろしい。

 結局、「分かっていること」も「分かること」も限定的であることが僕らの日々である。
「日々」を「人生」と書き直すと、少し重みが増えるかもしれないが同じことだ。僕らは
驚くほど難解な人生を送っている。但し、それを忘れてもいる。そこに本作のような
難解さをつきつけるものが出てくると、とても惹き付けられるか、とても拒否してしまうか
ということになるような気がする。

 もうすぐ60年近い昔の映画だ。ブルーレイで復活した画像はとても美しい。上記で
色々と書いたが、美しい画像を見ながら、時折うとうとすることが本作の一番
正しい鑑賞方法ではないかと僕は思う。映画をみながらうとうとすることは結構至福の
時間帯でもあるからだ。

「1000年刻みの日時計」  小川紳介

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 年末に「ニッポン古屋敷村」を鑑賞した。当時「1000年刻みの日時計」も続けて観ようと思ったが
4時間近い作品を連続してみる体力が無いと判断した。今回、インフルエンザを得て、自宅蟄居中に観る機会を
得た。

 冒頭はまたもや稲作の科学映画である。「ニッポン古屋敷村」で既に一度観た話ではある。但し、古屋敷村
では、気温と稲の関係が主体であったが、本作では水はけが注目されている。水はけが悪いと何が起こるのか
という点が勉強になった。湧き水や湿地が好きな僕としては水はけが悪い方が、幽玄ともいうべき「美」すら
感じてしまうので、本作が断定する「過剰な水」の否定は新鮮だ。タルコフスキーが観ていたらむっと
するかもしれない。
 ということで、またもや科学記録映画のように本作は始まり、僕も勉強するが如く映画に入っていく。

 ところがそこから、急に村の富豪の没落の話が始まる。かつての富豪を語るのは牧野村人なのだが
いつのまにか宮下順子や土方巽が主人公に扮して、それを牧野村のなかでこともなげに演じ始める。
観ていると宮下などはどうみても牧野村人にしか見えない。もしくは宮下がロマンポルノの女王であるなら
その前に富豪を語った牧野村人も実はプロの俳優だったのではないか。この辺から混乱してくるのだ。
自分が何を観ているのかに混乱し始めるのである。

 劇中劇の混乱は終盤の一揆騒動に極まる。牧野村人達が、一揆する百姓を演じている正面で、
幕府の役人たちは、田村正廣であったり石橋蓮司であったりする。これが普通の時代劇であるなら
田村や石橋が出てきても違和感はない。但し、確かこの作品は稲作の科学映画ではなかったか。
そんなことを考えるとますます自分の観ているものが分からなくなっていく。この辺の自分の
混乱が本作を観るということだ。

 小川の作品の登場人物は素人だとかプロだとかいう言葉を飛び越えさせられている。
飛び越えた上で、出てくる素の顔というものがある。
 勿論、飛び越えさせるのには時間もかかろう。本作を撮る為に8年近く小川プロは
牧野村に住みこんで、実際に農業を行ったと聞く。正気の沙汰ではない。その狂気を
「1000年刻みの日時計」という題名で表しているのだろう。何かとスピードを
求められる僕らとして、時に、このような4時間になんなんとする映画を観ることは
貴重な体験なのだ。

 それにしても古屋敷村と本作品で、漸く伝説だった小川映画を観ることが出来た。
一生観れないのではと危惧していた時期もあったので、ほっとしている。