くにたち蟄居日記 -61ページ目

ザ・会社改造

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 著者の本を読むのは3冊目である。相変わらず読み易い。

 著者の書き方の上手な点は、臨場感にある。それは、内容の臨場感もさながら、場面を映画のように
活写する点にある。いや、劇画といってもいいかもしれない。著者は、基本的にはノンフィクションである
と言っている。少々「盛り」が入っている気もしないでもない。但し、そうであっても本書を読み易く
させるとしたら、それでよいと思う。

 著者の本は役に立つ。色々技術的な面で役に立つというよりは、読んでいて人を元気にさせるものがある。
それが僕にとっての著者の一連の著作を読むモチベーションとなっている。

すべての音が同じ重要度で入ってきてしまううえ


 「私の場合、すべての音が同じ重要度で入ってきてしまううえ、絶対音感のため平均律の音階に当たる音程
 がすべて和音や音階で聞こえるので、疲れが倍増する」

                           -「現場の音スナップ」 三宮麻由子 「考える人」 16年秋号ー

 三宮さんは4歳で完全失明されたエッセイストである。

 僕らは日頃から視覚にかなり頼った生活をしている。勿論五感は常に発動しているが、目から入ってくる
情報が僕らの注意を惹く度数が高い。従い、例えば聴覚には案外注意は行っていないものだ。その瞬間
毎にいろいろな音は聴こえていても、意識には登らないことが多い。

 三宮さんは視覚を失ったことで聴覚が圧倒的に注意を惹く度数が高い点は容易に想像がつく。僕が
上記一文ではっとしたのは「疲れが倍増する」という部分だ。

 僕らは視覚に頼っているわけだが、物を見ていて「疲れる」ということは余りない。視覚に入っていても
切り離して捨て去る情報が多いからだろう。それに対して三宮さんは、聴いていて入ってくる情報を
捨て去っているわけではなさそうだ。だから「疲れが倍増する」ということなのだろう。これは三宮さん
という方の特殊な才能なのか、それとも視覚を失った方に共通する性向なのか。僕には
それは分からない。


「お洒落と何か」  他者を必要としているもの


 会社で昼食の際に「お洒落とは何か」という話になった。その場での結論は「趣味の一つ」
ということだった。

 僕が理解する限り、「お洒落」とは他者の目を必要とする。他者の群れの中で自分の存在が
どうあるべきかと考える一つの切り口が「お洒落」であるはずだ。

 勿論、お洒落な人は「他人がどう思うかではなくて、自分の美意識であるべき自分を表現している」
とでも言うに違いない。また、それも決して間違いでもないと思う。但し、宿命的にお洒落とは他者を
必要としている点からは免責されていない気がしてならない。

 「他者を必要としているもの」には何があるのか。それを考えているのだが、中々気が利いた事が
見つからない。僕らは他者を必要としているものをたくさん抱えている気はしている。但し、もう少し
突っ込んで考えないといけない。


「昭和史   1926-1945」 

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 会社の上司に勧められて読む機会を得た。

 僕は人に本を勧められたら出来るだけ読むようにしている。自分の好みだけで本を探すと
とりこぼす分野がどうしても出てきてしまうからだ。乱読という日本語を持っている僕らに
しても、実は、乱読というものの案外な難しさを理解していないという気がしてならない。
「乱れよう」とも、所詮自分の「範囲」の中だけでの乱れであったなら、それが自分の限界
になってしまうからだ。

 本書は面白い。まず文体が語りかけとなっているので、読み易いことが第一だ。加えて
歴史を単純化して語っている点が分かりやすいさに繋がっている。

 単純化というと、幾分批判的な響きも帯びてしまうかもしれないが、複雑な話は
とどのつまり頭に入ってこないことが多い。幾分蛮勇を振るって単純化することは、
作者としてはリスクもあろうが、重要な知的作業なのだと思う。

 そんな単純化された昭和史を通読していると、しかし、溜息をつくばかりである。
日本人の持つ業の深さと言うべきか。とにかく、レミングのように集団で破滅に向かった
ことが良く理解できた。頭脳明晰であったであろう方々がたどり着いた結論の数々は
痛々しい。頭に頼ることの危なさともいうべきかもしれない。

 かつ、これが一番恐ろしいのだが、読んでいて身につまされる場面も多かった。
今の日本も我々も、余り変わっていないではないか。

「アマゾンと物流戦争」



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 アマゾンのヘビーユーザーになってきた自分に気が付き、購入してみた。余り目新しい視点は無かったと思う。

 本書で著者はアマゾンと他のネット通販会社を比較している部分に力を割いている。具体的には楽天であり、
ウォルマート等だ。

 確かにネット通販業界でアマゾンを評価することは一つの切り口である。但し、今のアマゾンにとって本当の
ライバルが楽天なのだろうか。僕にはそう思えない。僕としては日本のコンビニこそがアマゾンの競合である
と考えている。

 本書ではネット通販会社がコンビニを利用する場面は出てくるが、まともにネット通販がコンビニと競合する
部分は書き込みが不足している。物流を生業としている著者にとってラストワンマイルをどう解決するのか
が死活的に大事であることは分かる。著者にとっては全てが自宅に届くことが理想であるのかもしれない。

 但し、人がコンビニに行きたがっている点をもう少し分析しても良い気がする。ネット通販が発達
しても、人は実店舗のコンビニには喜んでいくような気がしてならない。その集客力と、自宅で全て
受け取れる便利さとの競合があると僕は思う。おそらく切り口は心理学だと直観的に思う。人がなんで
大した用事もないのでコンビニに行くのか。そこはアマゾンがまだ達成できていない部分だと
思う。そんな風に思いながら本書を読むことは中々楽しかった

電話というもの

 新聞を読んでいたら、電話による世論調査に際しては、固定電話だけに電話していると出ていた。その記事
では固定電話だけでは携帯電話世代の意見を汲み上げることは出来ないのではないかと言っていた。

 結婚して新居を構えた際に電話加入権を購入したことを思いだした。1994年のことで、確か10万円
位かかったと思う。お金はかかったが、なんとなくこれで一人前になれたような気がしたことを覚えている。

 だからかもしれないが、最近の固定電話をそもそも持たないという若者たちの話を聞くと、本能的に
違和感を持ってしまう。世論調査を実施する方も、同様に思っているのではないか。一人前の大人は
固定電話を持っているべきではないかと。

 となりのトトロでも、村一台の電話を持っている大きな家があり、そこに電話を借りに行く場面があった
ことも思いだした。チチキトクというような緊急連絡も電報が主であった時代もあったわけだ。誠に、電話とは
高価なものであり、それを持つことが何かの象徴であったわけだ。

 今の若者にはそんな「時代の記憶」はあるまい。それどころか50歳を過ぎた僕にしても固定電話は
使わなくなってきた。また、固定電話にかかってくることも減っている。20年以上前に購入した電話加入権
は象徴性も失い、機能も限定的になったものだと、なんとなく感慨深いものがある。


「甘えている」のは、若者ではなく、もっと年上ではないかという指摘


 「信頼とは貴重な社会的資源である。信頼が摩耗すると、モラルの低下や治安の悪化が
 発生し、結果的にコストが高くつく。安易なコストカットは、信頼という資源を取り崩すことで
 一時的に損益表を改善する行為だが、中長期的には一を得て十を失いかねない行為でもある」

                          -「私たちはどこへ行こうとしているのか」 小熊英二 22頁ー

 小熊はアルバイトの労働条件が悪化し、アルバイトが大量に辞め、結果として閉店を迫られた飲食店に
関して述べている。端的に言うと、「信頼できるアルバイト」というものは、世界を見渡すと決して多い
わけではなく、それが豊富な日本は社会的資源に富んでいると断じている。

 その中で、かかる資源を摩耗させつつある企業の経営者は、実は「若者に甘えてきている」のではないか
と問題提起してきている。「甘えている」のは、若者ではなく、もっと年上ではないかという指摘だ。
 これには考えさせられた。

 信頼できる社会を日本に築いてきたのは誰か。おそらくは高度経済成長を遂げる中で、「信頼できる
社会」が最大公約数的にメリットがあった時代があったのではないか。勿論、それを支えてきた
「教育」という更に伝統的なインフラもあったのだとは思う。それこそ江戸時代の寺子屋等は脈々と
現代の信頼できる社会の中に生きているのではないか。

 但し、それをそろそろ使い果たしてきているとしたらどうか。それが小熊の指摘であると読むと
いささか怖い気もしてくる。

 

 

「生きて帰ってきた男」 小熊英二


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 自分が買ったが妻に先に読まれてしまった。妻からは大変面白い本だという感想を貰った。しばらく読む機会がなんとなく無かったが漸く購入後1年で読了した。妻の感想通りであった点をまず付け加えておく。僕の感想は以下三点だ。

 一点目。「ある一人の男性の人生を描き出すことで、その人が生きてきた時代を活写することが可能だ」ということが本書を通じてよく理解できた。

 ある時代を描き出すに際して、傑出した人物を描き出すという手法が従来の方法であったと思う。傑出した人物が「英雄」であるのか「極悪人」であるのかで、描き出し方は変わるだろう。但し「時代を代表する人物」に寄せてその時代を語ることはよくある話だ。

 それに比して、本書の主人公は「傑出していない」人物であるように見える。

 なぜ「であるように見える」と書いたかというと、著者が描き出していない「傑出」
が主人公のどこかに隠れている可能性は否定できないからだ。著者は主人公の息子である。
それだけに実は書けない何かがあってもおかしくないと僕は思う。但し、それはここでは
括弧に入れてしまおう。再度言うが、「傑出していない一人の人物の歴史を辿ること」
でも、その時代を描けるという点が本書の新しさである。

 二点目。これは個人的な思いである。

 僕は著者の2歳年下である。また、著者は高校の2年上の先輩である。即ち、時代と地域が
重なっている部分が多い。本書に出てくる多摩地区の住所は全て僕にもある程度実感がある。
また時代の風物も同様だ。
 読みながら「そうそう、そういう時代だった」と頷きながら読んだ。これは個人的な思い
としか言いようがない。但し、人は読書に際しても「個人的に」読むしかないことも事実だ。
その意味では本書の後半のある部分は自分に重なり、身につまされた。

 最後に、あとがきを読んでいて著者の思いを強く感じた点を指摘したい。

 本書は著者と、著者が大学で指導した林英一という方の共同作業で出来た部分が多い本である
様子があとがきにかかれている。著者は共同作業者である林英一を「林氏」という表記で
書いている。ところが384頁の一行目だけ「林君」と表記している。ここで「氏」ではなく
「君」と書いた理由は何かを考えることは楽しかった。
 言葉では表現しにくいが、著者が林英一に対して持っている距離感が一瞬垣間見える気がしたということだ。それは対象が著者の父親であることから生まれた距離感なのかもしれない。自分の父親を取材するに際しての
共同取材者に対する親近感とも言うような、ある種の「同志感」なのかもしれない。

「蓮華寺」  

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 京都の蓮華寺をご存じの方はどのくらいいらっしゃるのか。洛北の蓮華寺を訪問する際にいつも
思う事である。

 僕が初めて蓮華寺を訪問したのは高校二年の修学旅行の際だ。もう35年程度前になる。

 高校の担任の先生が、蓮華寺の住職と個人的に知り合いであったことでクラス全員で出かけた。蓮華寺は
基本的には修学旅行の生徒を受け付けていない。我々が初めての受入だったらしい。もしかしたら最初で
最後だったのかもしれない。この夏に一人で訪れた際にも門に修学旅行をお断りする札が立っていた。

 一目みてとても好きになった。小さいお寺であるが、庭を中心に妙に拡がりを感じさせる。小さいものに
目を凝らしているとだんだん大きく見えてくるということは案外にあるものだ。

 蓮華寺の書院に端座して池泉をぼんやりと眺めていると、目の前の風景が次第にせりあがってくる。
舟を擬した舟石がだんだん動いているようにも見えてくるし、須弥山をかたどった岩にも雲がかかって
いるように見えてくる。そんな幻視を楽しむことが、禅の精神で造られた庭園を見るということである。

 本書はネットで見つけた。蓮華寺という余り知られていないであろうお寺を綺麗に写真撮影している。
修学旅行を断る偏屈な住職の文章も楽しい。普段は東京にいて蓮華寺に行けない僕としてはとても
有りがたい。

 ところで高校以来、蓮華寺を訪問した回数は5回くらいになったろうか。夏と冬の蓮華寺を
訪れた僕としては、次回は秋に行こうと思っているところだ。

「弱いつながり」  東浩紀

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 頁数が少ないのですぐに読み終えた。勉強になった。

 著者は「観光」という言葉と行為に大きな意味を見出している。観光旅行に帯びているある種の無責任性
に積極的な意味があると断言している。

 「無責任」という言葉は重い。人に投げつけたり、人から投げつけられたりする言葉の中でも
「無責任」という言葉の重さは相当だ。逆に「責任を取る」「責任がある」という言葉にはある種の
甘美な美学がある。本当は「責任を取る」という事などはそう簡単にはできないにも係らず、である。

 責任という言葉で縛られてしまうと、例えば、著者が指摘する遊びや主観の無い無機質な博物館にも
繋がっていくであろう。そんな僕らが一度「責任」という言葉から自由になれたらどうなるのか。
それが「観光」であり、「観光客」としての自分である。

 「重さ」は時として大事である。但し、「重さ」に縛られると出来ることが少なくなる。出来ることが
少なくなるうちに、こぼれてしまう何かがある。
 著者の指摘する福島の原発事故も「重い」。但しその「重さ」にばかり拘ると、逆に誰もが掬い取れなくなる。
その掬い取れない状況が福島原発事故を忘却の海に送りだしてしまうことにならないか。著者が主張している
福島の「観光地化」は、対抗策として具体的に提案されている。僕はそう読んだ。

 本書は「哲学」を現在と現場に持ちだそうとしている。その心意気が楽しい。