くにたち蟄居日記 -62ページ目

深大寺訪問


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 Aug. 2016   Tokyo

 深大寺に出かけた。

 目当ての釈迦如来はイタリアに出張中であった。欧州まで出張されるとは出世されたものだと
感心することしきりである。思えば中学時代からあの仏像を観てきたからである。

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 晩夏の深大寺を歩く。

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 晩夏だからか。やや人影が薄いようにも見える。

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 最後の神代水生植物園にも行ってみた。昔は湿原であったが、今はこぎれいな公園になっている。
すっぽん、ウシガエル、ギンヤンマを見る機会を得た。



「禅と食」  枡野俊明

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 晩夏の早朝に読み終わった。ここでわざわざ晩夏と書いたのは本書で季節感の大事さが語られているからである。

 僕もことほど左様に影響されやすい。

 食べ物を書いた本は多い。食を語る切り口は無数にあると言って良い。これは食というものがいかに
人にとって大事なのかということの証左である。

 食が人生の一大事であることは言うまでもない。そもそも人類は飢えとの闘いの歴史といって良い。
「食える」「食えない」という言葉は、その言葉通りであったということはつい最近までの僕らの
歴史である。

 「食」という漢字より「喰」という漢字の方が臨場感がある。「どうやって喰っていくか」
はある意味では最大の関心事だ。これは現代の日本の飽食の時代には見失われた感覚だが、世界を
見渡せば、いまなお喫緊の課題である。

 そういう問題意識を持って本書を読むと興味深く読める。「禅」という宗教が「食」に見出した
ものは何なのかを軽やかな文体で描かれている。食にとことん拘ることで見えてくる人間の姿という
ものがあり、それをどう見るかという地点で「禅」が成立している。僕は、そのような印象を強く
持った次第だ。

「水中考古学」 

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 水中考古学という学問が存在することは前からTVの番組を通じて知っていた。今回本を読む
ことで知識が深まった。非常に興味深い。感想は2点である。

 一点目。
 いつものことではあるが、「海」というものが内包している物は多く、かつ大きいということを
実感した。
 今回海が内包していたものは昔の遺跡である。海中に遺跡や船があったことで、保存出来てきた
ものがあるということは深く考えることも出来る。酸素呼吸を選んだ人類というものが中々
行くことが出来ない海中にひっそりと収納されてきた遺跡や船の物語は読んでいて新鮮である。
例えば沈船が陸上にあったとしたら、人間が再利用すべく解体したろう。そうして何も残らない
だけになったはずだ。海が隠してくれたおかげで今見ることが出来るものがあるという事実がある。

 二点目。
 「形あるものはいつか壊れる」という言葉を思いだした。
 その言葉は一休和尚が言ったということらしい。言われてみると当たり前とも思うが、底流に
横たわる無常観は、苦味を帯びている。「形あるもの」の中に自分自身もどうしようもなく
含まれているからだ。

 本書で紹介される数々の事例は「かなり壊れていても、まだ完全には壊れていない」ものばかり
である。それは上記の通り海が保護してきたという一面もある。また、そもそもそんなに時代や
時間が経った話でもないからだ。2~3000年程度という時間は、大した長さでもない。従い
海の底で見つかる事物も「まだ新しいもの」と言っても良い。

 但し、それでもいつかは壊れることも確かだ。「壊れる過程にあるもの」を愛惜する気持ちは
考古学者の心にあるような気がしている。そう感じたのは本書のおかげである。本書で最後に
紹介される黒船の事例には著者自身の深い思い入れがある。それは著者自身が見つけた沈船である
こともあろう。但し、それ以上に「いつか壊れ行くもの」を見据える著者の視線も感じた次第だ。

前衛とは


「前衛は売れ始めてしまったらもう前衛ではないのです。だから前衛の悲劇といふのは、前衛が
 商売になるといふことなのです」

                                        --福田恒存ーー

 一読してなるほどと思っているところだ。端的に言うと、「前衛とは内容というよりはポジションにある」
と理解すると上記の一文もなんとなく腹に落ちる。

 そもそも「前衛」という言葉の意味を考えるべきなのだろう。ネットで調べると
 
 警戒・護衛・攻撃のために前方に置く人員

 階級闘争・芸術運動で、時流のさきがけとなって活動するもの

 ということらしい。やはり「前方」であるとか「さきがけ」であるとか、位置を意味する言葉だ。英語
ではVANGUARDであり、これを直訳したものが「前衛」だったと思われる。

  「前にあるもの」が「売れるもの=主流」になってしまうと前衛ではないわけだ。前衛とは常に何かの先頭に
立って戦う者なのだろう。それもいささか疲れる気もしないでもないが。

「東京湧水せせらぎ散歩」 

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 どうしたことが小学校時代から湧水が気になってきている。50歳代になった今も基本的には
その気持ちは同じである。以前早川光という方の湧き水本を読んだ時期があった。今回は
高村という方の著作である。

 湧水が好きな理由は何か。考えてみると2つ程度理由がありそうである。

 一点目。綺麗な水に強く惹かれる。
 透明度の高い水を見ると心が洗われる。これも更に理由を考えてみると案外本能的なもの
かもしれない。人間は動物として水を必要とする。水を摂取する為には口から飲むしかない。
口から体内に異物を入れることは常にリスクが高い。その意味でも綺麗に澄んだ水は、そもそも
貴重な物であったはずだ。その為に、人間として綺麗な水に惹かれるということは正しいと
判断される。僕の志向もそこに起因していてもおかしくない。

 二点目。湧水の付近は大概、里山に近いことが多い。
 これはそもそも湧水とはある程度の高低差のあるところに湧き出ていることと、そこから
小川を形成することに原因があると思う。崖の下に川が流れている風景はそもそも里山に
近い風景である。そんな風物を見ていると、なんとなくほっとする。これも、水辺に住んできた
人間の本能と言えるのではないか。

 などと考えながら本書のページをめくった。カラー写真を数多く掲載した本書は眺めている
だけで楽しい。妻に「引退したら湧き水巡りをしよう」と提案したが、残念ながら、彼女には
余り感銘を与えることは出来なかったようだ。

「少年たちは花火を横から見たかった 」  岩井俊二

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 他の方と同じ動機だと思うが、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」を観たことで
本作を観ることになったものだ。

 「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」という作品は中々不思議な映画である。もともとは
TVのドラマで放映されたが、人気が高じて劇場上映された経緯と聞く。本作は、その6年後に、
主演の二人がロケ地を訪れるという趣向だ。

 本作を観ていると、6年間という時間を噛みしめている主人公二人の心の有り様が見えてくる。
6年間を経て、再度当時の脚本を読む二人は、しかし6年前の二人では無い。その事実を
どれだけ二人が感じているのか、いないのか。それが本作における岩井の挑戦であったと僕は
思った。

 「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」の舞台裏を見せる作品などでは全くない。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」というある種のお祭りが6年前に終わり、
そのかすかな余韻を6年後に楽しむというようなある種の寂しさが味わいである。

責任のある独断


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Nara, July 2016


 「責任のある独断の方が責任を回避した『公正の美徳』よりも遥かに生産的である」
                      --福田恒存ーー

 甘美な言葉である。なんとなく頷いてしまいそうだが、僕は案外この言葉に危険な香りも感じる。

 ここで福田は「責任」という言葉をやや簡単に使っているような気がしてならない。

 「責任」というと「取るもの」かもしれないが、「責任を取る」ことが出来ることは実は非常に難しいからだ。僕自身も自らを振り返って、自分で取れる責任の少なさに驚く次第である。

 取れもしない責任を「自分は取れる」と誤解して、何かを独断してしまうことが本当に生産的なのかどうか
はよく考えるべきだ。

 但し繰り返すが、この福田の言葉には甘美さも含まれている。そこが実は一番興味深い。

 

「リトル ダンサー」 

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 会社の同僚に勧められ、お借りして鑑賞したところである。

 この映画の筋立て等が感動的である点は他のレビュアーの言われる通りだが、僕が
感じたのはある種の実験映画の精神がこの映画に満ちている点にある。例えば

 ・通りの歩道を少女が立って主人公に声を掛ける。バスが車道を走ってきて少女
  の前を通り過ぎると少女は忽然と消えてしまっている。

 ・主人公が踊っているうちにいきなり冬になっている。

 ・脈絡のない風景が時折挟み込まれる。

 あざとさが無いので、案外と観客は気が付いていないと思うが、よく考えてみると
かなり不思議な造りになっている。その他にも、タルコフスキーを思わせるような
トンネルと水の配置であるとか、はっとするような映像美が結構隠されている。従い
見ているうちに、ある種の実験映画を鑑賞していくような気になってしまう。その点で
油断ならない作品と言える。

 不在の母親が実に効いている。不在の母親をみんなで補っていく話が本作の筋と
言えるのではないか。

安曇野 再訪

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 妻と二人で安曇野に出かけた。日帰りでの旅行である。子供たちが大学や高校に行くようになると
親も勝手に出歩けるから楽だ。

 

「I COULD BE FREE」  原田知世


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 原田知世というと「時をかける少女」という角川映画でデビューした「アイドル」だった。

 普通のアイドルは、なんとなく消えていく方も多いと思うが、原田は好ましい例外として
いまなお女優として活躍されている。
 役柄は広いとは言い難いと思う。彼女が上手なコメディエンヌだとも思わない。そんな原田を
観たいと思うが、そこは今後も難しいかもしれない。

 一方、ミュージシャンとしての原田は素晴らしい。凄い歌唱力や表現力があるわけではないものの
とぼとぼと、かつ、透明感に溢れた原田の音楽は聴いていて気持ちが強くなごむ。「なごむ」という
感情に「強い」という言葉は本来は似合わないと思うが、原田の歌を聴いているとそう思ってしまうから
不思議だ。

 本作は明るい。まだ現在の原田には届いていないが、進化の途中に当時在ったことが聴いてとれる。
こういう作品を経て今の原田が出来ていることはとても大事なことなのだろう。

 ぼんやりと明るい音楽を聴いていると強くなごめるものだ。