「クリエイティブな仕事はどこにある?」 是枝裕和 樋口景一
是枝という映画監督の作品は中々良く、纏めて見てきている。一方、樋口という方は本書を読むまで知らなかった。
表題通り、「クリエイティブな仕事」というものをお二人は四季を通じて語っている。本書の趣向としては
本当に春夏秋冬に対談時期を分けており、かつ、それを仕事における「春夏秋冬」に繋げている点にある。
即ち、新入社員時代を「春」と見立て、その後の季節を、社会人の各種ステージに見立てている点だ。
両名自体がクリエイターであると同時に管理職である。その事によって、本書の視点も「管理職から見た
仕事人」という展開になっている。
ここで難しいのは「クリエイティブ」という言葉の定義である。
この定義に関しては厳密に言うと、本書には明確に書かれてはいないと思う。クリエイターである
両者が語る「クリエイティブ」は、両者の持っているであろう定義を目合わせしたものとも思えない。
いわば勝手に自分の定義を基に対談しているように見える。但し、それでも対談は比較的噛み合っている。
考えてみると、ありとあらゆる会話自体が、お互い勝手に考えた「定義」に基づいて行われている。従い
本書で定義を明確にしないのも驚くには当たらないのかもしれない。そう考える方が分かりやすいの
かもしれない。
本書で是枝という監督への理解が深まった。僕は是枝映画のファンであったし、これからもおそらく
彼の作品は観続けるだろう。その為にも良い読書になった。
表題通り、「クリエイティブな仕事」というものをお二人は四季を通じて語っている。本書の趣向としては
本当に春夏秋冬に対談時期を分けており、かつ、それを仕事における「春夏秋冬」に繋げている点にある。
即ち、新入社員時代を「春」と見立て、その後の季節を、社会人の各種ステージに見立てている点だ。
両名自体がクリエイターであると同時に管理職である。その事によって、本書の視点も「管理職から見た
仕事人」という展開になっている。
ここで難しいのは「クリエイティブ」という言葉の定義である。
この定義に関しては厳密に言うと、本書には明確に書かれてはいないと思う。クリエイターである
両者が語る「クリエイティブ」は、両者の持っているであろう定義を目合わせしたものとも思えない。
いわば勝手に自分の定義を基に対談しているように見える。但し、それでも対談は比較的噛み合っている。
考えてみると、ありとあらゆる会話自体が、お互い勝手に考えた「定義」に基づいて行われている。従い
本書で定義を明確にしないのも驚くには当たらないのかもしれない。そう考える方が分かりやすいの
かもしれない。
本書で是枝という監督への理解が深まった。僕は是枝映画のファンであったし、これからもおそらく
彼の作品は観続けるだろう。その為にも良い読書になった。
靴供養
長年はいてきた靴がいい加減、形が崩れてきた。妻も捨てたらと言うので捨てることにした。
思い返してみると、購入して15年くらいたっている。その間、何度修繕に出したかわからない。
底を張り替え、中敷きを新しくし、縫い目も補強してきた。それで漸く15年履くことが出来たわけだ。
履きやすい靴だっただけに、出張にも散々履いていった。一体、何万足共に歩いたのか。
捨てようと決意した土曜日の外出に履いた。靴供養の積りだったのかもしれない。型が崩れて
いる分足には合う。その靴との最後の外出かと思うと、少し心が痛んだ。
「誘拐」 本田 靖春
地元の本屋で平積みされていた。全く知らない作者であり、本であったが、不図買ってみた。
読み始めると止まらなくなった。ノンフィクションの傑作である。
本書は、第一義的には吉展ちゃん誘拐事件を扱っている。但し、それだけではない点が本書を
凡百の犯罪記録文学とは一線を画している。本書で描き出しているのは、解説で佐野眞一が喝破
している通り、高度成長期の裏側である。
事件が発生したのは昭和38年だ。翌年に東京オリンピックが控えており、まさに日本が
経済的に成長を遂げた時期である。昭和20年の敗戦から実は20年もたっていない中で
日本があれだけの成長を遂げたことは奇跡の一つだ。勿論、朝鮮戦争等の外部要因は有ったにせよ、
日本が努力したことは間違いないと僕は思う。
但し、そんな明るい時代にも当然裏側はある。高度成長に取り残された人々はたくさんいたことを
本書は活写している。当該事件の犯人である小原も、その一人であったことは本書を読むと良く
分かる。
本書の後半部では、小原を著者は愛情を込めて描き出していると言える。自供し、死刑を
望み、死刑までの期間を短歌に精進していった小原の姿は清々しいとさえ言える。小原が残した
短歌を読むにつれて、小原という方のもっていた豊かな才能を感じてしまうのは僕だけではあるまい。
高度成長の裏でもがいた人にも、才能が発揮できなかった方も多かったのだろう。
高度成長期という「一時代」こそが本書の本当の主人公である。著者の極めて精緻な
文章からは時代の香り、というか時代の臭気が立ち上ってくる。僕らはかかる時代に生まれ、育って
きたことは忘れるべきではない。大変な作品である。
読み始めると止まらなくなった。ノンフィクションの傑作である。
本書は、第一義的には吉展ちゃん誘拐事件を扱っている。但し、それだけではない点が本書を
凡百の犯罪記録文学とは一線を画している。本書で描き出しているのは、解説で佐野眞一が喝破
している通り、高度成長期の裏側である。
事件が発生したのは昭和38年だ。翌年に東京オリンピックが控えており、まさに日本が
経済的に成長を遂げた時期である。昭和20年の敗戦から実は20年もたっていない中で
日本があれだけの成長を遂げたことは奇跡の一つだ。勿論、朝鮮戦争等の外部要因は有ったにせよ、
日本が努力したことは間違いないと僕は思う。
但し、そんな明るい時代にも当然裏側はある。高度成長に取り残された人々はたくさんいたことを
本書は活写している。当該事件の犯人である小原も、その一人であったことは本書を読むと良く
分かる。
本書の後半部では、小原を著者は愛情を込めて描き出していると言える。自供し、死刑を
望み、死刑までの期間を短歌に精進していった小原の姿は清々しいとさえ言える。小原が残した
短歌を読むにつれて、小原という方のもっていた豊かな才能を感じてしまうのは僕だけではあるまい。
高度成長の裏でもがいた人にも、才能が発揮できなかった方も多かったのだろう。
高度成長期という「一時代」こそが本書の本当の主人公である。著者の極めて精緻な
文章からは時代の香り、というか時代の臭気が立ち上ってくる。僕らはかかる時代に生まれ、育って
きたことは忘れるべきではない。大変な作品である。
「アナ・トレントの鞄」 クラフト・エヴィング商会
クラフト・エヴィング商会の本を久しぶりに読んだところだ。読むというよりは観るという方が
正しいかもしれないのだが。
クラフト・エヴィング商会の本はいずれも不思議な本ばかりである。本作はある種の商品の
カタログという造りなのだろうが、いずれも存在しない不思議なものばかりだ。この世に
存在していない商品を紹介する文章は散文詩だ。その意味では商品が小品になっているとも
言える。
本作で紹介される商品は、ありそうで無い物である。無いにしても、心の片隅に、実は
あるのではないかと思わせるものがある。その微妙さがクラフト・エヴィング商会の芸であろうし、
かつ、読者の工夫でもある。クラフト・エヴィング商会の本は読者もきちんと「参加」しないと
本当の面白さが出てこない。その意味では読者を選ぶ本とも言える。
写真が美しい。写真だけ観ていても楽しい。
正しいかもしれないのだが。
クラフト・エヴィング商会の本はいずれも不思議な本ばかりである。本作はある種の商品の
カタログという造りなのだろうが、いずれも存在しない不思議なものばかりだ。この世に
存在していない商品を紹介する文章は散文詩だ。その意味では商品が小品になっているとも
言える。
本作で紹介される商品は、ありそうで無い物である。無いにしても、心の片隅に、実は
あるのではないかと思わせるものがある。その微妙さがクラフト・エヴィング商会の芸であろうし、
かつ、読者の工夫でもある。クラフト・エヴィング商会の本は読者もきちんと「参加」しないと
本当の面白さが出てこない。その意味では読者を選ぶ本とも言える。
写真が美しい。写真だけ観ていても楽しい。
そしてテレビは“戦争”を煽(あお)った ~ロシアvsウクライナ 2年の記録

May 2016 at Kunitachi
NHKスペシャルの「そしてテレビは“戦争”を煽(あお)った ~ロシアvsウクライナ 2年の記録」を観た。
この特集はウクライナの内戦をロシアとウクライナ側のマスコミがどのように報道したのかを扱っている。
端的にいうと、お互いに都合の良い部分を強調する、若しくはねつ造する中で、国民がどのように
ミスリードされてきたのかを描き出している報道だ。
僕自身はウクライナの状況に関して見地がなく、従い、どちらが正しいのかも含めて良く分からない。
マスコミが、事実を歪曲して伝えるという話も今に始まった話というわけでもなく、その意味での目新しさ
というものも無い。スマホ等で手軽に映像化できる時代になったという一事例とも言えようが、それは
アラブの春で既に行われた事でもあり、その点で画期性があるわけでもない。
但し、僕はこの特集を観ながら、しきりと「人は自分の見たいと思っているものしか見ない」という
言葉を思いだしていた。塩野七生によると、かのカエサルが喝破したという言葉である。
僕は自分の見たいと思っているものしか見ていないのだろうか。そう自分自身に問いかけてみる。
答えは自分の中には無い。たぶんそうなのだろうと思う程度かもしれない。それでも、かかる問いかけを
自分自身に行うことはおそらくはとても重要なことなのだろうと思う。そうやって自分自身を相対化
している作業は誰にとっても必要なのだと思う。報道で紹介された多くの方が、かかる相対化をされている
ようには僕には見えなかった。
人間はそう簡単には進歩しないのだろう。そう思う事にはやや苦味はある。但し、訳の分からない
甘味料を加えた認識をするよりはきっとましに違いない。
国立のホタルブクロ

May 2016 at Kunitachi
国立にもホタルブクロの季節がまた来た。鉢によって、花が咲く時期が違う。これから7月末までの
二か月程度はなんとなくどこかでホタルブクロが咲いている。
「国立文庫」

「国立文庫」という本を買った。
国立市のお店を紹介する本とでも言えば一番正確かもしれない。但し、その店が何を扱っているのか
等は一切出ていない。そのお店にまつわる話をなんとなく紹介しているだけだ。かつ結末も結論も無い。
一篇だけご紹介しよう。「カナイシューズ」という大学通りの靴屋さんの話である。
「年老いて切り倒された店先の桜の枝を、男は記念として保管することにした。
やがて、その樹皮の質感や年輪は、祖父や父、そして幼かった自分の面影を鮮明に
示し始めるー。昭和八年、皇太子生誕を記念して植えられた桜と現在を生きる男の、
ゆるやかに時を遡る追憶の物語」
物語の続きは自分で聞きに行くしかない。
PAN と PANIC

May, Tokyo
「千の顔をもつ英雄」という本を読んでいたら以下の一文を見つけた。
「パン(ギリシャ神話の牧羊神)が、たまたま自分の領域に踏み込んできた人間にしみこませた
感情が『パニック』、理由のわからないまま突然起こる恐怖だ」 同署P124
パンをウィキペディアで引いて見た。
ニュムペーであるといわれている。
実際には古形「パオーン、Παων、Paon」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられた
ものだが、ギリシア語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パーン神は性格と名前が
誘惑的なものと思われるようになった」
なんとなくはっきりしない。但し、「パンズラビリンス」という映画や、マッケンの「パンの大神」というような
怪奇小説を思いだすと、それなりに不気味で、かつ性的イメージに満ちた存在である。ウィキペディアでも
「誘惑的なもの」という控えめな表現ではあるものの、そのイメージを示唆している。
PANICというものは、かような語源を持っていることに興味を覚える次第だ。

