「春宵十話」 岡潔
桜が満開である本日読了した。2016年4月2日の午後である。自宅のある国立市は満開の桜を目指した
人で満ちていた。そういう中で「春宵十話」という題名の本書を読むのも楽しい。
著者の岡という方は高名な数学者であるらしい。「らしい」と書いたのは僕が岡を全く知らない
からである。早々と文系を決め込んだ僕が岡を知らないことは無理もない。但し、エッセイストとしての
岡を知らなかったことに関しては、不明を少し恥じるべきかもしれない。
岡は数学者であるが、本書での語り口には数学というものを想わせるものはない。いや、おそらくは
岡に言わせると、数学という学問に対する偏見があるということなのだろう。本書では岡は数学を「最も近いのは百姓だといえる」と断言している。「種をまいて育てるのが仕事」「『ないもの』から『あるもの』を作る」という
岡の言葉は、正直頭ではちょっと理解しかねる一方、なんとなくそんなことをあるかもしれないという
気もする。
数学とは何かを作るものかどうかは僕には分からない。むしろ「既にあるもの」を「見つけ」て、「綺麗に整理
する」ような学問にも思える。「見つける」作業が種をまくということなのかもしれない。そんな風に読む
ことも僕の自由ではあるまいか。本書で岡が幾度か強調する「情緒」も、そのような「見つけ」が出来る
能力の一つと言っても良いのではないか。
花見気分ですらすらと読める本だ。岡の透き通った日本語は美しい。まさに桜を見ているような
風情すら有るといったらほめ過ぎだろうか。
人で満ちていた。そういう中で「春宵十話」という題名の本書を読むのも楽しい。
著者の岡という方は高名な数学者であるらしい。「らしい」と書いたのは僕が岡を全く知らない
からである。早々と文系を決め込んだ僕が岡を知らないことは無理もない。但し、エッセイストとしての
岡を知らなかったことに関しては、不明を少し恥じるべきかもしれない。
岡は数学者であるが、本書での語り口には数学というものを想わせるものはない。いや、おそらくは
岡に言わせると、数学という学問に対する偏見があるということなのだろう。本書では岡は数学を「最も近いのは百姓だといえる」と断言している。「種をまいて育てるのが仕事」「『ないもの』から『あるもの』を作る」という
岡の言葉は、正直頭ではちょっと理解しかねる一方、なんとなくそんなことをあるかもしれないという
気もする。
数学とは何かを作るものかどうかは僕には分からない。むしろ「既にあるもの」を「見つけ」て、「綺麗に整理
する」ような学問にも思える。「見つける」作業が種をまくということなのかもしれない。そんな風に読む
ことも僕の自由ではあるまいか。本書で岡が幾度か強調する「情緒」も、そのような「見つけ」が出来る
能力の一つと言っても良いのではないか。
花見気分ですらすらと読める本だ。岡の透き通った日本語は美しい。まさに桜を見ているような
風情すら有るといったらほめ過ぎだろうか。
「しあわせのパン」

観ていて惜しいと何度も思った。
映画のある種のジャンルとして「喫茶店もの」があると僕は思っている。舞台を「ある喫茶店」として、そこの
オーナーは固定する。訪れる客にバラエティーを持たせることでエピソードをいくつか用意する。結果ある種の
オムニバス映画のような出来上がりとなる。
映画のある種のジャンルとして「喫茶店もの」があると僕は思っている。舞台を「ある喫茶店」として、そこの
オーナーは固定する。訪れる客にバラエティーを持たせることでエピソードをいくつか用意する。結果ある種の
オムニバス映画のような出来上がりとなる。
例としては「カモメ食堂」「メガネ」「深夜食堂」「ふしぎな岬の物語」のような作品がある。やや
趣は異なるも、「幕末太陽伝」や「どん底」といった古い時代劇も同じ構造と言える。本作もその「山脈」に
繋がる一作だ。
惜しい理由は以下である。
一点目。訪れる客が齎すエピソードが紋切り型すぎる。「失恋した東京の女性が北海道に傷心旅行に来て癒される」であるとか、「離婚した夫と娘がお互いを支えあうようになる」であるとか「死に場所を求めた老夫婦が生に再度目覚める」というような話は、いずれも既視感を覚えてしまう。この点では例えば「メガネ」のように
「全くエピソードを見せない」という過激性の方が印象に残るというものだ。
二点目。主人公の夫婦が今一つ彫り込まれていない。何かがある点はニュアンスとして示されるが、それが
何なのかは説明されない。「敢えて説明しない」という手法はあろうが、そこまでのミステリアスな造形
でもない。従い中途半端である。
以上で惜しいと僕は思った。相変わらず横顔が圧倒的に美しい原田知世には感心しながらも、
物語にもう一歩説得性が無かった点は悔やまれた。
「わが記憶、わが記録」 堤清二x辻井喬オーラㇽヒストリー
堤清二関係の本はぽつりぽつりと読んできている。本書も久しぶりではあるが堤関係の本を読む機会を得た。
セゾン文化というものが1980年代から90年代にかけて喝采を浴びた歴史がある。セゾン文化の
特徴は反主流を謳っていた点にあったと理解している。
カウンターカルチャーであるだけにいろいろな人が「乗りやすい」という便利さがあった。
ニューアカデミズム等にかぶれがちな、ややスノッブな方も乗れるし、消費生活に敏感なバブルな人も
乗れるような、そんな便利な「文化」であった。
かつ、それをセゾングループという企業が営利事業として成立させようという壮大な実験であった点が
特徴である。詩人である辻井喬が構想したものを実業家堤清二が事業として進めた「文化」である。
こんな実験は他にはなかなか見られない。せいぜいいくつかの企業名を冠した美術館が類似例として
挙げられる程度であろう。
では21世紀の現在からセゾン文化を見直すとどうか。
グループとしてのセゾンはほぼ解体された。文化を標榜した色々な試みも姿を消したものが
多い。そう考えると、壮大な実験は失敗に終わったように見える。但し、21世紀の今でも
セゾン文化の残響のようなものは残っていることも確かだ。
以前、他の本のレビューにて「辻井喬は堤清二というペンネームで実業界で活躍した」という
ようなことを書いた記憶がある。今回もその想いは変わらなかった。加えて、堤康次郎という政治家
の子供であったという背景を基に、堤清二は政治界でも暗躍した点が新鮮であった。詩人と実業家と政治家
をやったような方は、明治時代には散見された気もするが、堤清二、あるいは 辻井喬は、その徹底度
において傑出している。
セゾン文化というものが1980年代から90年代にかけて喝采を浴びた歴史がある。セゾン文化の
特徴は反主流を謳っていた点にあったと理解している。
カウンターカルチャーであるだけにいろいろな人が「乗りやすい」という便利さがあった。
ニューアカデミズム等にかぶれがちな、ややスノッブな方も乗れるし、消費生活に敏感なバブルな人も
乗れるような、そんな便利な「文化」であった。
かつ、それをセゾングループという企業が営利事業として成立させようという壮大な実験であった点が
特徴である。詩人である辻井喬が構想したものを実業家堤清二が事業として進めた「文化」である。
こんな実験は他にはなかなか見られない。せいぜいいくつかの企業名を冠した美術館が類似例として
挙げられる程度であろう。
では21世紀の現在からセゾン文化を見直すとどうか。
グループとしてのセゾンはほぼ解体された。文化を標榜した色々な試みも姿を消したものが
多い。そう考えると、壮大な実験は失敗に終わったように見える。但し、21世紀の今でも
セゾン文化の残響のようなものは残っていることも確かだ。
以前、他の本のレビューにて「辻井喬は堤清二というペンネームで実業界で活躍した」という
ようなことを書いた記憶がある。今回もその想いは変わらなかった。加えて、堤康次郎という政治家
の子供であったという背景を基に、堤清二は政治界でも暗躍した点が新鮮であった。詩人と実業家と政治家
をやったような方は、明治時代には散見された気もするが、堤清二、あるいは 辻井喬は、その徹底度
において傑出している。
「沈黙」 遠藤周作

会社の上司の推薦で本書を読んだ。本書は名高い一冊ゆえ署名は前から知っていたが読む機会が
無かった。
僕はキリスト教徒ではない。従い、本書をどこまで深く読むことが出来るのだろうかと常に
思いながら頁をめくった。結論的にはキリスト教徒でなくても、この怖ろしい本の読者になれる
ことが分かった。
本書のテーマは「転ぶ」ということにある。これは僕らの日常にもよくあるテーマだ。自分で
不本意だと思うことをやらなくてはならない場面等はいくらでもある。「不本意な事をやらなくてはならない」
という状態を「転ぶ」と呼んでも良い。
やりたくないことをやる理由は何か。当然ながら無数の理由があるが、いずれにせよそこに
自分の弱さを見ることは容易である。本書を読む人が救いを得るとしたら、そんな「自分の弱さ」
に対するある種の肯定を本書に見出すからだと僕は思う。
但し、「転ぶ」にしても「積極的な転び」と「消極的な転び」の二種類がある。僕らが不本意な事を
やらされる場合には、明らかに後者である。では、本書の主人公の「転び」とはどちらなの
だろうか。僕は前者であると考える。若しくは、前者で無い限り本書は成立しないのではない
だろうか。
ロドリゴが「転んだ」理由は何か。自身の信仰が結果として自己満足でしか有り得ず、救おうと
してきた他者を滅ぼすという自己欺瞞に気が付き、そこから積極的に脱却する為に「転んだ」
と読むことが出来る。
「積極的」といっても、決してそこには明るさは無い。著者はその後のロドリゴに明るい人生を
与えていない。むしろ「沈黙」の中に沈んでいったであろうロドリゴのその後を淡々と描き出して
いる。そこが本書の怖しさである。
僕はキリスト教徒ではない。従い、本書をどこまで深く読むことが出来るのだろうかと常に
思いながら頁をめくった。結論的にはキリスト教徒でなくても、この怖ろしい本の読者になれる
ことが分かった。
本書のテーマは「転ぶ」ということにある。これは僕らの日常にもよくあるテーマだ。自分で
不本意だと思うことをやらなくてはならない場面等はいくらでもある。「不本意な事をやらなくてはならない」
という状態を「転ぶ」と呼んでも良い。
やりたくないことをやる理由は何か。当然ながら無数の理由があるが、いずれにせよそこに
自分の弱さを見ることは容易である。本書を読む人が救いを得るとしたら、そんな「自分の弱さ」
に対するある種の肯定を本書に見出すからだと僕は思う。
但し、「転ぶ」にしても「積極的な転び」と「消極的な転び」の二種類がある。僕らが不本意な事を
やらされる場合には、明らかに後者である。では、本書の主人公の「転び」とはどちらなの
だろうか。僕は前者であると考える。若しくは、前者で無い限り本書は成立しないのではない
だろうか。
ロドリゴが「転んだ」理由は何か。自身の信仰が結果として自己満足でしか有り得ず、救おうと
してきた他者を滅ぼすという自己欺瞞に気が付き、そこから積極的に脱却する為に「転んだ」
と読むことが出来る。
「積極的」といっても、決してそこには明るさは無い。著者はその後のロドリゴに明るい人生を
与えていない。むしろ「沈黙」の中に沈んでいったであろうロドリゴのその後を淡々と描き出して
いる。そこが本書の怖しさである。
不安を突き詰める
「自分で感じている『不安』を突き詰めていくと、自分というものが分かることが結構ある。なんで自分が
不安を感じているのかをずっと考える作業である。
数ある人間の感情の中で『不安』が一番面白い」
利口そうな子供
子供を見て「利口そうな子だ」という表現がある。それが不図気になった。
色々と考えているうちに、「大人の顔」になっている子を「利口そう」と感じるということは
ないだろうか。そんな一つの仮説が出来た。
赤ん坊などが顕著なケースだが、子供の顔は完成されていないわけであり、大人から
見ると、ある意味で、「人間の顔」ではないように見えることがある。勿論、だからこそ可愛げを
感じるわけだが、人の顔ではないように思える。
その中で大人びた顔をした子を見たら、「利口そう」に見えるのではあるまいか。大した仮設
ではないかもしれないが、顔を考えることは常に楽しい。
「チェルノブイリの祈り」

地元の本屋で平積みされていたことで本書を知り、購入した。3・11前に、同様の原発事故を扱った
本書を本屋として積んだのだろう。
本書は、しかし、原発事故を扱った本ではない。原発事故という一つの極限的な状況に
置かれた人間の行動と精神をテーマとしている。その意味ではチェルノブイリの事故は、「背景」
の一つに過ぎないと言える。
「極限的な状況」には色々な種類がある。分かりやすい例は「戦争」であろうし、「リーマンショック」
のような経済的な事象も時として「極限的な状況」になりえる。
かような状況に際して、その場にたまたま居合わせた人がどのように思ったのか。それが本書のテーマ
である。
本書で取り扱う「思い」とは何か。この質問に答えることがこの本をどう読むかということに
そのまま繋がる。「家族愛」や「夫婦愛」を読み取る方も多いだろう。「故郷を喪失する」ということを
考える方もいるに違いない。若しくは「科学や技術と人間」を見る人もいるだろう。それらの総体が
本書であり、従い、それらが「チェルノブイリの原発事故」を構成している。
逆説的に言うと、本書から何を読み取るかで、その読者の一人一人の心の有り様がわかるとも言える。
本書が読者に「強いる」ものは、そんな「心の有り様」を無意識な状態から掘り出して意識化する作業
と言える。本書を読むことはある意味では辛いのは、読んでいて自分自身が見えてくる点にある。
特に福島第一原発を抱えている日本人とはだれよりも本書の読者であるべきだ。
本書を本屋として積んだのだろう。
本書は、しかし、原発事故を扱った本ではない。原発事故という一つの極限的な状況に
置かれた人間の行動と精神をテーマとしている。その意味ではチェルノブイリの事故は、「背景」
の一つに過ぎないと言える。
「極限的な状況」には色々な種類がある。分かりやすい例は「戦争」であろうし、「リーマンショック」
のような経済的な事象も時として「極限的な状況」になりえる。
かような状況に際して、その場にたまたま居合わせた人がどのように思ったのか。それが本書のテーマ
である。
本書で取り扱う「思い」とは何か。この質問に答えることがこの本をどう読むかということに
そのまま繋がる。「家族愛」や「夫婦愛」を読み取る方も多いだろう。「故郷を喪失する」ということを
考える方もいるに違いない。若しくは「科学や技術と人間」を見る人もいるだろう。それらの総体が
本書であり、従い、それらが「チェルノブイリの原発事故」を構成している。
逆説的に言うと、本書から何を読み取るかで、その読者の一人一人の心の有り様がわかるとも言える。
本書が読者に「強いる」ものは、そんな「心の有り様」を無意識な状態から掘り出して意識化する作業
と言える。本書を読むことはある意味では辛いのは、読んでいて自分自身が見えてくる点にある。
特に福島第一原発を抱えている日本人とはだれよりも本書の読者であるべきだ。
人間の寿命
テレビで鮭の遡上の場面を見た。海から4年ぶりに生まれた川に戻ってきて産卵し、死んでいく場面である。
毎年秋から冬になると必ず放映される場面だ。
鮭を見ていると、産卵してからすぐ死んでいく様子である。真に生きものとは子孫を残すために
一生を過ごすのだろうかと思ってしまう。
ここでふと人間を考える。
人間は次世代を産むのはだいたい20歳代から30歳代である。一方、寿命は80歳になんなんとする。
次世代を送りだしてから、なお、かかる長期間生きるというシステムとは一体何なのだろうかと考える
ことは楽しい。
一つの答えとしては「子孫を残す」に際しての「方法」である。鮭の場合は卵から孵化した赤ちゃんの魚は
十分一人で生きていける。従い親がいなくても問題ない。もっというと、大半の赤ちゃんが死んでしまっても
良いくらいに多くの卵が産卵される。
人間の赤ちゃんは生まれた段階では何も出来ない。全く一人では生きていけない。従い、親が
育てることが必要であり、かくて、親も長生きとなることは当然なのだろう。
そう考えると、最近の晩婚化や、結婚しない方の増加の理由も見えてくるかもしれない。
昔は人間とて80歳まで生きることは難しい。それこそ人生50年程度がせいぜいだったのかもしれない。
であるなら、子供も、いつまでも一人でいるわけにもいかず、従い、早い段階で自らの家族を編成する
必要性は高かったのだと僕は思う。
親が長生きになったことで、一人でいることが出来る期間が長くなるという見方もあるのではないか。
人間がいまなお寿命が50歳だったとしたらと考えると色々な事が考えられる。「姨捨山」は
60歳の親を捨てるという話だが、あの話も単なる食料危機の話だけでもないのかも
しれない。
「植物はすごい」

本屋で偶然手に取り、購入した。本屋の醍醐味の一つは、かかる「衝動買い」が出来る点にある。今まで
読まなかったジャンルの本を見つけることは、しばしば本屋での散歩の間に起こる。
本書では植物の持つ「知恵」が紹介される。植物が精巧な仕組みで生きているであろうことは
なんとなく想像はついていたが、本書を読んだことで、その「想像」が正しいことが良く分かった。
植物は考えることは出来るのか。直観的に言うと、植物が考えているとは思いにくい。但し、本書を
読むと植物も考えていることが分かる。より正しく言うなら、僕らが「考えている」と呼ぶ知的作業は
実は様々なバリエーションを持っているというべきなのだと思う。
「考える」とは何か。例えば「考える」とは、「ある現実の事象に対してその対応策を
検討し、選択する」という定義を考えてみる。この定義であるなら、「植物が考える」ということを
説明つけられると僕は思う。
「検討し」という部分の「検討の仕方」が植物と人間とでは違う。但し、それは「時間軸」が違う
だけではあるまいか。
人間は比較的早く「検討」することが出来る。植物は、時間を掛け、進化や淘汰の中
で「検討」している。そう考えると、時間軸だけが違うと言っても良いのではないか。
「人間だけが考えることが出来る」と考えることは、人間の驕りであると言える。
「考える葦」である人間としても、他の生物も「考える」何かである点は理解すべきだ。そんな
ことを考えさせてくれる本書は刺激的な一冊と言える。
読まなかったジャンルの本を見つけることは、しばしば本屋での散歩の間に起こる。
本書では植物の持つ「知恵」が紹介される。植物が精巧な仕組みで生きているであろうことは
なんとなく想像はついていたが、本書を読んだことで、その「想像」が正しいことが良く分かった。
植物は考えることは出来るのか。直観的に言うと、植物が考えているとは思いにくい。但し、本書を
読むと植物も考えていることが分かる。より正しく言うなら、僕らが「考えている」と呼ぶ知的作業は
実は様々なバリエーションを持っているというべきなのだと思う。
「考える」とは何か。例えば「考える」とは、「ある現実の事象に対してその対応策を
検討し、選択する」という定義を考えてみる。この定義であるなら、「植物が考える」ということを
説明つけられると僕は思う。
「検討し」という部分の「検討の仕方」が植物と人間とでは違う。但し、それは「時間軸」が違う
だけではあるまいか。
人間は比較的早く「検討」することが出来る。植物は、時間を掛け、進化や淘汰の中
で「検討」している。そう考えると、時間軸だけが違うと言っても良いのではないか。
「人間だけが考えることが出来る」と考えることは、人間の驕りであると言える。
「考える葦」である人間としても、他の生物も「考える」何かである点は理解すべきだ。そんな
ことを考えさせてくれる本書は刺激的な一冊と言える。
「資本主義の極意」 佐藤優
資本主義というものの本質に迫ることで、現代の事象をまとめて読み解こうとする一冊である。「現代の事象」
とは、例えばイスラム国の問題であったり、TPPへの理解であったり、少子高齢化の傾向であったりする。
僕は物理学には詳しくない。但し、物理学の大きな欲望として「大統一理論の構築」というものがあると
聞いている。平たく言うと、一つの方程式ですべての物理学の事象を説明出来ないかというものだ。
この「大統一理論」を志向する思考は、結構人間の普遍的な方向性だと思う。
例えば、やや大雑把かもしれないが、「宗教」というものも好例だと思う。僕が理解する「宗教」
とは、人間が自分の身の回りに満ちている「訳のわからない物事」を、ワンストップ的に解決する
ための一つの装置である。理解出来ないことを「神」に持っていったことで、「理解してしまった」気に
なるということは、実はかなり高度な知的作業だ。そのおかげでどれだけ人間が救われたのかを考える
ことは宗教への理解には不可欠だと僕は思っている。
その前提に本書も乗っている。本書で佐藤は「資本主義」を「大統一理論」の一つとして
援用しようとしていると僕は考える。色々な物事を「資本主義」で整理することの快刀乱麻が
本書を読む面白さである。
では、その「援用」が正当なものかどうか。そこは留意と留保が必要であろう。但し、
本書の切れ味はまずは鋭いと僕は思う。それだけ楽しい読書であったからだ。この本のおかげで
日経新聞をやや深読みできる気がしてきた。
とは、例えばイスラム国の問題であったり、TPPへの理解であったり、少子高齢化の傾向であったりする。
僕は物理学には詳しくない。但し、物理学の大きな欲望として「大統一理論の構築」というものがあると
聞いている。平たく言うと、一つの方程式ですべての物理学の事象を説明出来ないかというものだ。
この「大統一理論」を志向する思考は、結構人間の普遍的な方向性だと思う。
例えば、やや大雑把かもしれないが、「宗教」というものも好例だと思う。僕が理解する「宗教」
とは、人間が自分の身の回りに満ちている「訳のわからない物事」を、ワンストップ的に解決する
ための一つの装置である。理解出来ないことを「神」に持っていったことで、「理解してしまった」気に
なるということは、実はかなり高度な知的作業だ。そのおかげでどれだけ人間が救われたのかを考える
ことは宗教への理解には不可欠だと僕は思っている。
その前提に本書も乗っている。本書で佐藤は「資本主義」を「大統一理論」の一つとして
援用しようとしていると僕は考える。色々な物事を「資本主義」で整理することの快刀乱麻が
本書を読む面白さである。
では、その「援用」が正当なものかどうか。そこは留意と留保が必要であろう。但し、
本書の切れ味はまずは鋭いと僕は思う。それだけ楽しい読書であったからだ。この本のおかげで
日経新聞をやや深読みできる気がしてきた。