「若者たちの反乱」
NHKスペシャル「映像の世紀」で「若者たちの反乱」を鑑賞した。1950年代から90年代に
かけて、世界各地で発生した若者たちの「反乱」をまとめたものである。
1964年生まれの僕として、例えば、チェゲバラ等をリアルタイムで観るすべもなく、番組で
繰り広げられる若者たちの反乱の場面に共感することは難しい。但し、やや他人事ながらも、当時
の若者が何かに憑かれたかのように「反乱」を繰り返したという事実にはなにがしか感じる点もあった。
「革命」という言葉がある。
「革命」はかつて実現したことがあり、今後も実現する国や場面もあるだろう。戦後の日本に生まれた僕に
とっては現実感に乏しい言葉ではあるが、今後の何世紀かの間にも日本に「革命」が起る可能性はある
と思う。勿論、それは「社会主義革命」であるとか「共産革命」などの、20世紀型の革命ではないだろう。
まだ見ぬ新しい「革命」に違いあるまい。
そう考えていると、将来の「若者たちの反乱」というものがどのようなものなのだろうかと想像することも
楽しいと言えば楽しい。やや、他人事のような言い方ではあるが。
ブログを始めて10年経った
ブログを始めて10年たったことに気が付いた。始めたのは2006年2月である。
この10年間色々なことが、世界や日本で起こった。勿論、僕自身にも色々なことがあった。
但し、と考えてみる。
但し、色々とあったにせよ、世界や日本や僕は大して変わっていないかなとも思う。10年の年月で
人間や僕が賢くなったわけでもない。技術の進歩の速さはあっても、人間はそんなに早く進歩するべくもない。
いや、むしろ後退しているのかもしれないのだ。
そんな風に考えてみることは、多少の苦味はあるにせよ、楽しいとも言えるのではないだろうか。
蟄居するとはそういうことを考えるということでもあるのだから。
秘仏とは何なのか
秘仏というものがある。
秘仏にも色々ある。年に1回公開するものもあれば、数年に一回、若しくは数十年に一回というものまで
ある。勿論、絶対秘仏といって、一切公開されないものもある。
全国に何体秘仏があるのかをネットで調べてみたが、なかなか数も出てこない。要はたくさんあるということ
らしい。
僕の興味は、どのような思想が「仏を秘する」ということにしているのかということだ。僕の理解では、仏像とは
文字が読めない人にも仏教を学ばせるためのある種の「本」であるというものだ。百聞は一見に如かずという
言葉をそのまま援用したのが、仏像なのだと思う。
そんな「本」を読ませないということが、秘仏だとしたら、これはいかなる理由があるのか。そう考えることは
案外楽しいものだ。
「観てはいけないもの」と書いている。人間は「観てはいけないもの」に対して非常なる好奇心が湧く。
「鶴の恩返し」等もその一つであるし、いささか下世話だが、「ヘアヌード」もその一つだったという歴史
でもある。「観れない」ことで高まる権威とでもいうべきか。秘仏を思いついた日本人は、見せないことで
高まる宗教心等も考えていたのかもしれない。
「南海トラフ地震」

南海トラフ地震という言葉をよく聞く。大きな被害が予測されていると言われている。一方、僕は南海トラフ
については全く無知である。という背景で本書を読むことにした。
東日本大震災の時には僕はインドネシアに住んでいた。あの災害を日本で経験した友人や会社の同僚と、経験していない僕は、ある意味では話が合わない。彼らの体験したものが僕にはない。これはある種の欠落感にも
なっている。
については全く無知である。という背景で本書を読むことにした。
東日本大震災の時には僕はインドネシアに住んでいた。あの災害を日本で経験した友人や会社の同僚と、経験していない僕は、ある意味では話が合わない。彼らの体験したものが僕にはない。これはある種の欠落感にも
なっている。
そんな僕だけに、本書を読んでいても現実感にやや欠けるのはしょうがないと思う。但し、本書で
展開される「想定される被害」の大きさにはいささか驚いた。
本書の最後の部分で著者は以下のように言っている。
「技術の進歩により、小さくて頻度の高い現象から徐々に災害防止がなされてきた。自然のままならば
毎年土砂災害や洪水に見舞われる地域でも、一生に一度も災害を受けないで済むようになってきた。
そのため、私たちは自然を克服してしまったかのような錯覚に陥っている」(206頁)
著者が指摘されている「錯覚」はまさにその通りだろう。僕ら人間は弱い存在である。地表がちょっとくしゃみを
しただけで、大災害に遭ってしまう存在だ。地球からしてみるとなんということもない事象が致命的になってしまう
人間というものをよく再認識すべきだ。それが本書を読んだ読後感になった。
「東京物語」と日本人
久しぶりに小津関係の本を読んだ。
小津の映画を観始めたのは大学時代である。1980年代のある種のスノッブな映画ファンは
小津を観たものだ。僕もそんなスノビズムで小津を知り、池袋の文芸座や銀座の並木座で2本建て
で観に行ったことを今でも覚えている。周りでは蓮見重彦の「監督 小津安二郎」という本を
抱えた学生も多かった。
そんな僕ではあるが、小津との付き合いは長くなってきている。というか、スノッブを超えて
小津の映画は面白いとシンプルに思えるようになってきたからだ。別に「世界の小津」だから鑑賞
するのではなく、「隣にいる小津」のような肩の凝らない観方が出来るようになってきた。これは
僕自身の変化なのかもしれないが、何より小津の映画の持つそもそもの力なのだろうと思っている。
本書は、ややトリビアに流れている部分がある。個人的には原節子演じる「紀子」の分析が
非常に納得感があっただけに、それ以外のややこじつけに近い解釈が勿体ないと感じた次第だ。
但し、今なおこのように小津の映画を解釈する本が出続けている点 には感心する。これは
とりもなおさず小津が多くの方にとって「隣にいる」からではないかなと思っている。
考えすぎかもしれないが。
小津の映画を観始めたのは大学時代である。1980年代のある種のスノッブな映画ファンは
小津を観たものだ。僕もそんなスノビズムで小津を知り、池袋の文芸座や銀座の並木座で2本建て
で観に行ったことを今でも覚えている。周りでは蓮見重彦の「監督 小津安二郎」という本を
抱えた学生も多かった。
そんな僕ではあるが、小津との付き合いは長くなってきている。というか、スノッブを超えて
小津の映画は面白いとシンプルに思えるようになってきたからだ。別に「世界の小津」だから鑑賞
するのではなく、「隣にいる小津」のような肩の凝らない観方が出来るようになってきた。これは
僕自身の変化なのかもしれないが、何より小津の映画の持つそもそもの力なのだろうと思っている。
本書は、ややトリビアに流れている部分がある。個人的には原節子演じる「紀子」の分析が
非常に納得感があっただけに、それ以外のややこじつけに近い解釈が勿体ないと感じた次第だ。
但し、今なおこのように小津の映画を解釈する本が出続けている点 には感心する。これは
とりもなおさず小津が多くの方にとって「隣にいる」からではないかなと思っている。
考えすぎかもしれないが。
「ロケーション」 森崎東
20年ぶりに本作を見直した。ほとんどの場面を忘れていたので、ほぼ初見に近い鑑賞となった。
本作は「わけがわからない」と評されたと聞く。非常に、的を得た批評だと僕は思う。
観ていても、そもそも何を観ているのかが分からなくなってくる。「映画を撮っている人」を撮っている
映画であるというところまでは分かるのだが、一体どちらの映画を観ているのかが自分の中で混乱し
わけがわからなくなっていく。その混乱さが、本作を観る本当の面白さであるのだ。
加えて、挿入される不思議な幻想シーンが楽しい。紙風船がかように美しく撮られている映画も
余り類を見ない。そういう場面が組み込まれていくうちに、更に本作は「わけがわからない」作品に
なっていくのだ。
本作は喜劇に分類されるのかもしれないが、そんな範疇を軽々と超えてしまっている。
随所で笑いつつも、だんだんと「わけがわからない」状態に陥っていく。それが
正しい鑑賞なのだろう。真に「わけがわからない」という評価は、正当かつ極めて肯定的な
評価である。
本作は「わけがわからない」と評されたと聞く。非常に、的を得た批評だと僕は思う。
観ていても、そもそも何を観ているのかが分からなくなってくる。「映画を撮っている人」を撮っている
映画であるというところまでは分かるのだが、一体どちらの映画を観ているのかが自分の中で混乱し
わけがわからなくなっていく。その混乱さが、本作を観る本当の面白さであるのだ。
加えて、挿入される不思議な幻想シーンが楽しい。紙風船がかように美しく撮られている映画も
余り類を見ない。そういう場面が組み込まれていくうちに、更に本作は「わけがわからない」作品に
なっていくのだ。
本作は喜劇に分類されるのかもしれないが、そんな範疇を軽々と超えてしまっている。
随所で笑いつつも、だんだんと「わけがわからない」状態に陥っていく。それが
正しい鑑賞なのだろう。真に「わけがわからない」という評価は、正当かつ極めて肯定的な
評価である。
人事の季節
人事の季節である。
この時期になると、かなりの年配の方でも「男の子」になっているように見える。色々なところで
ひそひそ話が多く、小会議室は常に使用中になっている。結果が出てくると悲喜こもごもだ。微笑ましいと
言ってもよいかもしれない。
人事が大きな関心事であることは昔からだろう。人間が人間としての意識を持って以来なのだと
僕は思っている。中国の歴史にしてもギリシャ・ローマの歴史にしても同様ではないか。
人間は自分の人生を自分の努力や力で変えていくことが出来ると考えている。その努力や力が
人間をここまで押し上げてきたと言える。但し、当たり前のことながら、自分の人生などは偶然の産物
である。それをきちんと意識していくことは自分を相対化する大きな効果に繋がる。
「結局最後は死ぬ」と考えていると、少々の人事異動等、とるに足らない話では あるのだ。但し、そう
達観することもこれまた難しい。僕自身も偉そうに言っていても、達観にはほど遠いのであろう。
「村上春樹は、むずかしい」
僕は1984年頃の大学生の頃に村上を読み始めた。従い、コアなファンだと自分では思っている。本書も
その流れで読んだ。非常に読み応えがあった。感想は三点である。
一点目。著者が村上の初期の短編を読みこんでいる点が興味深かった。村上は短編をある種の実験として書いていることが多いと思っている。短編をまず書き上げ、その後それを膨らませて長編を書くことがある。「ノルウェイの森」や、「ねじまき鳥」等がその好例である。但し、著者の分析は更に詳細にわたっている。「中国行きのスロウボート」を丹念に読みこむことで見えているものが多く、かつ、深い。本書を読んでいて、なるほどと膝を叩く場面がしばしば有った。
二点目。村上の著作を時代別に骨太に分類している点に納得性があった。その時々の時代を村上がどう
踏まえて本を書いてきたのかが非常に綺麗に整理されている。ある意味「綺麗すぎる」感もある。村上が
本書を読んで納得するかどうかは分からない。但し、少なくとも、ある種の真実性を感じさせるものは
ある。
三点目。同時代の作家を、読んでいくことは楽しい。作家が作風を変えていく一方、読者である僕自身も変わっていくからだ。本は読み手によって自由に解釈される権利がある。読み手の僕自身の変化を村上という同時代の
作家の著作から読み取るという作業も可能だ。例えば「風の歌を聴け」も20歳代と50歳代の僕では
まるで読み方が変わっている。それを僕自身の成長と言えるとしたら、それが読書の醍醐味である。
その流れで読んだ。非常に読み応えがあった。感想は三点である。
一点目。著者が村上の初期の短編を読みこんでいる点が興味深かった。村上は短編をある種の実験として書いていることが多いと思っている。短編をまず書き上げ、その後それを膨らませて長編を書くことがある。「ノルウェイの森」や、「ねじまき鳥」等がその好例である。但し、著者の分析は更に詳細にわたっている。「中国行きのスロウボート」を丹念に読みこむことで見えているものが多く、かつ、深い。本書を読んでいて、なるほどと膝を叩く場面がしばしば有った。
二点目。村上の著作を時代別に骨太に分類している点に納得性があった。その時々の時代を村上がどう
踏まえて本を書いてきたのかが非常に綺麗に整理されている。ある意味「綺麗すぎる」感もある。村上が
本書を読んで納得するかどうかは分からない。但し、少なくとも、ある種の真実性を感じさせるものは
ある。
三点目。同時代の作家を、読んでいくことは楽しい。作家が作風を変えていく一方、読者である僕自身も変わっていくからだ。本は読み手によって自由に解釈される権利がある。読み手の僕自身の変化を村上という同時代の
作家の著作から読み取るという作業も可能だ。例えば「風の歌を聴け」も20歳代と50歳代の僕では
まるで読み方が変わっている。それを僕自身の成長と言えるとしたら、それが読書の醍醐味である。
「村上春樹は、むずかしい」から 小説を読む意味
「現実のもつ現実性が、時の経過の中でリアルな意味をすり減らしてしまう。
そういう場合、その現実性は、いまやフィクションを通してしか、リアルな意味を
回復できないのである」
ーー「村上春樹は、むずかしい」 145頁 加藤典洋ーー
フィクションを小説と起き直すことは出来る。僕も小説の力はそこにあると思う事がある。
人はなぜ小説を読むのかを考えることは楽しい。僕の理解では「小説という物語を通じて、自分では
体験しえない体験を追体験することが小説を読むという作業である」というものだ。
疑似体験といっても良い。人は自分の経験だけでは所詮貧しいという言い方も可能なのかもしれない。
篠田桃紅と日野原重明の対談
会社の上司に推薦されて、NHKオンデマンドで鑑賞した。TVを観る癖がないので面白い番組を全て
見逃している僕には有りがたい推薦である。
100歳を超えるお二人の対談は、殆ど対談の呈を為していない点が実に面白い。それは年齢による
ものではなく。お二人が全く両極端だからだ。従い、相手の言う事がお互いに理解出来ないような
場面が続く。というか、相手の言う事に退屈していることも多かったのではないか。
日野原は常識人である。聖路加病院という大きな組織の中で、組織人として成功してきた方だ。
彼が対談で語る言葉は、かかる組織人としての「建前」に満ちていると僕は聞いた。ある種の偽善を
時として感じたことも正直に付け加えておく。
一方、篠田が面白い。自身を「自堕落で謙虚さがない」と断言する103歳は痛快といって良い。ある種の
偽悪を感じたくらいだ。
医師と芸術家というものの違いと言えばよいのかもしれない。医師には対峙すべき患者という他者が
いる。
一方、芸術家にとって他者がいるのか。少なくとも篠田という方が何か他者を想定して
芸術を練り上げてきたとはとても思えない。彼女にとっては、乗り越えるべき「本日の自分」がいるだけに
見える。わがままと言えばわがままなのだろう。但し、かなり辛いわがままにも思える。
本作は篠田が主人公である。篠田に驚く人は、自身が日野原側の常識人だからであろう。それが
本作を観ている上での、自分に関する発見であった。