「本の中の世界」 湯川秀樹
高校時代の教科書で湯川秀樹が、色紙を頼まれると「知魚楽」と書いたという話が出ていたことを
今でも覚えている。教科書には、湯川の色紙も写真で出ていた。大変端正な筆で書いてあった。その当時から「荘子」が好きであった僕は、「知魚楽」が「荘子」の挿話であることも知っていた。
「荘子」を愛読する人は少なくないと思う。僕の父もそうである。会社の上司と話していたら、その人
も「荘子」が好きだと言っていた。2000年以上前の人が書いた本が、21世紀の現在に生きている
僕らにとって面白いという事実は大したものと言える。
本書を読んで、湯川のバックボーンが中国の古典にあることが良く分かった。特に老荘思想に
強く惹かれ、かつ、彼が研究した素粒子に老荘思想を重ねている点が印象的である。それは
牽強付会ではなく。ごく自然にそう感じたと湯川は書いている。素粒子の素人である僕には
直接的には理解は難しい。但し、同じく老荘が好きな僕としては、直観的には分からない
話でもない。それだけ老荘の間口と懐は広いからだ。
本書を読んで、湯川を「読書する物理学者」と理解してもいけない気がする。「物理を学ぶ読書家」
と言ったほうが正しいのではあるまいか。おそらくは湯川自身は、そう呼ばれたかったのではないかと
思う。老荘以外にも縦横無尽に紹介される数々の本のジャンルの広さと、それを闊達に語る湯川の
練達の語り口を見ていると僕にはそうとしか思えない。
今でも覚えている。教科書には、湯川の色紙も写真で出ていた。大変端正な筆で書いてあった。その当時から「荘子」が好きであった僕は、「知魚楽」が「荘子」の挿話であることも知っていた。
「荘子」を愛読する人は少なくないと思う。僕の父もそうである。会社の上司と話していたら、その人
も「荘子」が好きだと言っていた。2000年以上前の人が書いた本が、21世紀の現在に生きている
僕らにとって面白いという事実は大したものと言える。
本書を読んで、湯川のバックボーンが中国の古典にあることが良く分かった。特に老荘思想に
強く惹かれ、かつ、彼が研究した素粒子に老荘思想を重ねている点が印象的である。それは
牽強付会ではなく。ごく自然にそう感じたと湯川は書いている。素粒子の素人である僕には
直接的には理解は難しい。但し、同じく老荘が好きな僕としては、直観的には分からない
話でもない。それだけ老荘の間口と懐は広いからだ。
本書を読んで、湯川を「読書する物理学者」と理解してもいけない気がする。「物理を学ぶ読書家」
と言ったほうが正しいのではあるまいか。おそらくは湯川自身は、そう呼ばれたかったのではないかと
思う。老荘以外にも縦横無尽に紹介される数々の本のジャンルの広さと、それを闊達に語る湯川の
練達の語り口を見ていると僕にはそうとしか思えない。
「ラッセルは語る」
湯川秀樹が本書を激賞していたことで購入した。絶版になっていることで古書で購入した。本の奥付を見ると
昭和39年である。僕が産まれた年に出た本ということだ。
ラッセルの言葉は実に面白い。例えば
「科学とはわたくしたちに分かっているもの、哲学とはわたくしたちには分からないものを扱っている」
「誰でもどんなことについても確信を持つべきではないとわたくしは思うのです。確信を持てば必ず
間違うのです」
「歴史の上での宗教の効果はあらかた有害だったと思います」
というような言葉を読んでいると、はっとさせられることが多い。例えば、現在のイスラム国を巡って考える際に
上記の言葉は、そのまま今にも通用する。それは例えば「イスラム国は悪だ」と「確信」することすら、実は間違っているという視点に繋がるからだ。
ラッセルの言葉は実に面白い。例えば
「科学とはわたくしたちに分かっているもの、哲学とはわたくしたちには分からないものを扱っている」
「誰でもどんなことについても確信を持つべきではないとわたくしは思うのです。確信を持てば必ず
間違うのです」
「歴史の上での宗教の効果はあらかた有害だったと思います」
というような言葉を読んでいると、はっとさせられることが多い。例えば、現在のイスラム国を巡って考える際に
上記の言葉は、そのまま今にも通用する。それは例えば「イスラム国は悪だ」と「確信」することすら、実は間違っているという視点に繋がるからだ。
僕らは「確信」することが好きである。いや、正確に言うと「確信した」と考えている状態が心地よいということなのだと思う。「確信」した段階で、思考停止が始まっているからだ。
それにしても物理学者であった湯川が本書をどう読んだのかは興味深い。科学とは湯川にとって「分かっているものを扱う」ものだったのかどうか。
それにしても物理学者であった湯川が本書をどう読んだのかは興味深い。科学とは湯川にとって「分かっているものを扱う」ものだったのかどうか。
自然は曲線を創り、人間は直線を創る
「自然は曲線を創り、人間は直線を創る」
ーー 「本の中の世界」 177頁 湯川秀樹 --
理由を湯川はこう説明している・
「特別の理由なくして、偶然に直線が実現される確率は、その他一般の曲線が実現される
確率に比して無限に小さいからである。しからば人間は何故に直線を選ぶのか。それが最も
簡単な規則に従う意味において、取扱いに最も便利だからである」
取扱いに便利なものという言葉に湯川の人間観が出ているとも言えるかもしれない。便利さを
求める心は人間の進化の大きな要因であったことは間違いないからだ。その結果「直線」という
極めて非自然的なものを創ったということなのだろう。そう考えると身近にいくらでも転がっている
「直 線」もなにやら不思議なものに見えてくるから、不思議ではある。
母の死
12月4日に母が亡くなった。79歳という年齢は、平均寿命からみて、やや若いとは思う。但し、
若いころから結核で大学を休学した等の経緯を考えると、よくそこまでこれたのかなと思っている。
最後の一ヶ月は余り意識がなかったので話が出来なかった。今年初めに余命宣告が出ていたので
いずれ、最後に近くなったら色々と話そうと思っていたこともあった。それが果たせなかったわけだが、
考えてみると、僕らもいつどうなるか分からないわけであり、時機を見て考えようと思っていたこと自体が
少々呑気だったということだろう。
故人の意志でお通夜も告別式も無しである。僕自身も結婚した際には結婚式をしなかった経緯があり、
この度の母の意志にも大いに賛成である。別に儀式が嫌いなわけではないが、意味が無いと思っている
儀式は嫌いだというだけである。
勿論、お通夜や告別式は故人だけのためにあるのではない。むしろ、残された人の為にあると言える。
その点、今回は周囲の人もそれで良いから、シンプルなものである。そういう意見の一致は気持ちが
良い物だ。
集まった関係者は13名である。荼毘に付し、そこから墓地に直行してお墓の中に安置した。
そのまま吉祥寺の中華料理屋に出かけて宴会となった。最後は皆で笑顔の記念写真である。僕は
葬式後の宴会を笑顔で終わることが出来る家系に連なっていることに自分の幸せを感じている。
「対談」
湯川秀樹の「本の中の世界」というエッセー集を読んでいたら「 『論語』などは孔子と弟子との問答に
なっている」という一文を見つけた。言われてみると、その通りだが、いままで論語が「対話集」である
と思ったことが無かったので新鮮に思えた。
「対談本」というものは結構ある。ある意味では安易な本と言ってもよいかもしれない。但し「対談」や
「対話」というものが持つある種の不思議な効用は見逃してはいけない。
僕自身がそうなのだが、人と話していて、自分が「自分でも思いがけない事」を言っていることがあるような
気がしている。話をしながら「おや、自分はこんなことを考えていたのか」と自分で自分に不思議さを感じる
ような経験は誰しももっているのではないか。対話とは、相手の意見を聞くだけではなく、自分の中に
埋もれていた意識が浮かび上がらせる作業であるとも言えるのかもしれない。
そう考えると、対談本というものの価値と可能性も分からなくもない。そんなことを考えている休日も楽しい。
はじめて歩こうとした あの時
君はこれまでに
何度も失敗した。
きっと覚えていにだろうが。
はじめて歩こうとしたあの時
君は転んでしまった。
はじめて泳ごうとしたあの時
君はおぼれそうになった。
そうじゃなかったかい?
はじめてバットを振った時
バットはボールに当ったかい?
--GRAY MATTER ーー
「真剣師 小池重明」 団鬼六
「赦す人」で団鬼六の伝記を読んだ。
SMに興味がないので 団という方の著作を読んだことはなかったが、「赦す人」を
読んで気が変わり、本作を読んだ。団という方を誤解していたことが良く分かった。不明を恥じるしかない。
本作は面白い。ピカレスク伝記ということなのだろうが、主人公の悪漢ぶりが実に魅力的である。
読んで気が変わり、本作を読んだ。団という方を誤解していたことが良く分かった。不明を恥じるしかない。
本作は面白い。ピカレスク伝記ということなのだろうが、主人公の悪漢ぶりが実に魅力的である。
著者の団自身が主人公に強く共感している点が素直に伝わってくる。
ないしろ、そもそも団の人生自体が、主人公の小池のそれと非常に似ている。団自身も十分破たんした人生を送ってきたことは「赦す人」で活写されている。
破たんする作家というのも結構いる。太宰や芥川等が好例かと思う。但し、団の破たんぶりは太宰や芥川とは違っている。なんというか、ある種の明るさがそこにはある。その団が描き出す小池の人生も、これまた無類の明るさに満ちている。それがさわやかな読後感につながっている。
それにしても、小池という方がプロの棋士になっていたらどうだったのだろうか。大変な強豪になったろうが、その人生の光芒という点では、圧倒的に「破たんした天才アマ棋士」という小池の実人生に軍配はあがるだろう。こういう方がいたことを今回初めて知った。描き出した団の筆力にも驚嘆した。
ないしろ、そもそも団の人生自体が、主人公の小池のそれと非常に似ている。団自身も十分破たんした人生を送ってきたことは「赦す人」で活写されている。
破たんする作家というのも結構いる。太宰や芥川等が好例かと思う。但し、団の破たんぶりは太宰や芥川とは違っている。なんというか、ある種の明るさがそこにはある。その団が描き出す小池の人生も、これまた無類の明るさに満ちている。それがさわやかな読後感につながっている。
それにしても、小池という方がプロの棋士になっていたらどうだったのだろうか。大変な強豪になったろうが、その人生の光芒という点では、圧倒的に「破たんした天才アマ棋士」という小池の実人生に軍配はあがるだろう。こういう方がいたことを今回初めて知った。描き出した団の筆力にも驚嘆した。
「 赦す人 団鬼六伝 」 大崎善生
本書は団という方の破天荒な人生を描き出しているわけだが、同時に著者自身の人生の点景も含まれている。
著者自身が、ある部分では団に似ている部分があることも確かだ。
但し、著者には団のような「徹底性」はなく むしろ破たんしかけた自身を制御出来た様子が描かれる。
そんな著者であるからこそ、団の「徹底性」に かなりの憧憬があることも本書から読み取れる。著者にとって、
団と語り合うことは、自らの中にある 「団」との対談であったのではないか。
そんな著者と団との距離感が本書の底辺に常に流れている通奏低音と なっている。
「赦す人」の「赦」という漢字が良い。「許」ではないところが著者の団への思い入れである。
「赦す」という行為の途方もなさが本書で良く分かった。ある種の宗教者のような姿も見えると
言ってよい。
ということで 団の作品も読もうと思っているところだ。
著者自身が、ある部分では団に似ている部分があることも確かだ。
但し、著者には団のような「徹底性」はなく むしろ破たんしかけた自身を制御出来た様子が描かれる。
そんな著者であるからこそ、団の「徹底性」に かなりの憧憬があることも本書から読み取れる。著者にとって、
団と語り合うことは、自らの中にある 「団」との対談であったのではないか。
そんな著者と団との距離感が本書の底辺に常に流れている通奏低音と なっている。
「赦す人」の「赦」という漢字が良い。「許」ではないところが著者の団への思い入れである。
「赦す」という行為の途方もなさが本書で良く分かった。ある種の宗教者のような姿も見えると
言ってよい。
ということで 団の作品も読もうと思っているところだ。
同床異夢の文章
「この文章の優れているところは、双方が自分にとって都合が良い解釈ができる余地があるという点
であり、その意味で典型的な同床異夢の文章と言える。お互いの立場が非常に乖離していて埋められない
場合に、そのような形で問題を処理するというのは外交上の知恵だといってもよい」
--「危機の外交」 東郷和彦 --
AGREE TO DISAGREEという言葉も思いだした。
人と人が完全に合意することは基本的にはなかなかあり得ない。そう考えておくことはある種の「大人の
知恵」である。その場合には、お互いが勝手に納得し合い、かつ、相手の納得は自分の納得とは違う
という点を理解することは、実は現実的であるということだと思う。
僕は教養とは「自分とは違う考え方を持つ他人がいるということを認める」ということだと
思っている。その意味でも上記言葉には響くものがあった。