くにたち蟄居日記 -71ページ目

「悪い奴らほどよく眠る」


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 20年ぶりに本作を見直した。殆ど覚えていなかったので、新たに鑑賞するようなものである。

 この話は自殺させられた父の復讐を果たそうとして、失敗した男の話である。そう書いてしまうと
有りがちな話にも見える。但し、黒澤らしいひねりは「自殺させられた父」の造型にある。僕は
そう見た。

 主人公が愛情を抱き、復讐を誓った「父」とは、実は、復讐しようとしている相手とほぼ同類項
である。主人公の父も、出世の為に、子供と妻を捨てて別の女性と結婚している。汚職に加担し、
トカゲの尻尾と同様に切り捨てられた「悪人」の一人だ。本作に登場する「悪人」達と、基本的には
同じ人たちなのである。そこに主人公の復讐譚の不毛さがある。主人公が彷徨する廃墟の風景は、
そのまま、主人公の「不毛さ」の心象風景と言って良い。

 その「悪人だらけ」の中で、純粋さを持った人たちがどうなるか。主人公は惨殺され、その妻は
正気を失った。善人たちの敗北ぶりは、他の黒澤映画と比較しても、突出している。敗北の美学すら
許されない、極めて索漠とした救いのない作品と言える。

 僕は、黒澤が汚職に憤慨して本作を撮ったとは思わない。汚職という素材が黒澤の目的に合った
だけのことだ。黒澤が本作で描きたかったのは、「完膚なきまでの美しくもない敗北」ではなかろうか。
蜘蛛巣城よりも、更に冷たい映画だ。冷たくて面白い映画というのも有りえることが今回
よく分かったところである。

マヨネーズの語源


18世紀半ば、地中海に浮かぶ英領メノルカ島をリシュリュー公爵率いる仏軍が攻めた。公爵が港町マオンの料理屋で食事をした際、肉に添えられていたソースが気に入り、パリで「マオンのソース」として紹介した。それがマオンネーズからマヨネーズとなったというのが最も有力な説とされる。

2015年10月11日  日経新聞朝刊から

「国分寺 国立 本」  





















 
僕の住んでいる街が国立であるので、本書を手に取った。

 勤務地から考えると国立とは決して近い場所ではない。勤務先の同僚と比較しても
遠いところに住んでいる部類に入る。それでも国立から離れる気がしないのは、やはり
国立という街への偏愛ということかと思う。

 本書に見られる通り、国立とはスノビズムを帯びている。品の良い街と言われる
ことが多い国立に住んでいると、ある種の鼻持ちならない部分も出てくるという点は僕も
承知しているし、また承知していなくてはならない。
 そんな嫌味があるにせよ、それでも国立は魅力的な場所だと、僕は、思う。こじゃれた店
だけではなく、例えば南に下がれば湧き水と里山が散在する、自然豊かな地方都市でも
あるからだ。

 僕はこれからどのくらい国立に棲むのか。当然答えはないわけだが、例えば本書を
携えて、ある程度の年数を楽しむ積りだ。それを僕は「くにたち蟄居」と呼んでいる
わけだが。

「ハル」  森田芳光

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 森田は「それから」以降は傑作が無いと決めつけていたが、本作を観ていなかった点は僕の落ち度
である。本作はかなり良い作品だ。

 車と鉄道の映画である。

 岩手に住むほしは徹底的に車でのシーンが多い。そもそも彼女の昔の恋人も交通事故で亡くなったわけだが
その事故が車の事故であった点は音で表現されている。ほしとハルが初めて相手を目視する場面でも
ほしは車側である。

 一方、東京の場面は、これもまた徹底して鉄道のシーンが多い。ハルは常に鉄道とともにある。ハルとローズが
出会うのも駅だ。新幹線からほしを見る場面でも、彼は当然新幹線に乗っている。

 そんなほしが「鉄道」に乗って東京へ行く場面がラストである。常に一人で車に乗っていたヒロインが
「鉄道で東京へ行く」と決断するまでの成長譚が本作であるとも言える。本作の主人公はお二人に見えるが、
断じて「ほし」が本作の主人公である。ハルが岩手に行くのではなく、ほしが東京に、しかも相手の
乗り物=鉄道に乗って行くのだから。

 森田の夭折は惜しかった。

「潮目の予兆」   原武史


 日記とは書くものなのか、読むものなのか。結構難しい質問である。

 第一義的には書くものなのだろうが、それにしても、他人が書いた日記を読むことは
案外と面白いものだ。何が面白いのかは言葉では言い難いものはある。「断腸亭日乗」
等も、何が面白いのかわからないが、何となく読んでしまう。「永井が切り取った歴史の
断面」とでも言えば収まりが良いかもしれないが、実感としてはそういう感じではない。
永井という一個人が、時代の中をうろうろとしている様が面白いのだ。

 本書も同じ視点で読める。原という方が、2013年から2014年という時期に
うろうろしている様が楽しい。読んでいると、結構下世話な場面も出てくる。人間臭さが
楽しい。勿論、本日記は発表されることを前提として書かれたものゆえ、原なりの色々な
計算もあったとは思う。但し、そんなことも忘れて読んでしまったとしたら、これは
原の「芸」に取り込まれたということか。

「山の上ホテル」  常盤新平


 山の上ホテルには2回宿泊したことがあることで本書を手に取る機会を得た。

 ホテルと作家は結構セットになっていると思う。奈良ホテル等が好例だ。僕は、堀辰雄の
本が好きであることより、堀が定宿にした奈良ホテルに憧れ、いままで3回宿泊したことが
ある。そういうのも一種のスノッブであるとしか言いようが無いが、趣味にはスノビズムは
付き物である。それはそれで割り切るしかない。

 東京で「作家とホテル」を考えると、山の上ホテルは代表格である。

 山の上ホテルは奈良ホテルと比べると歴史が浅い。昭和30年代から50年代に作家を
集めたホテルと解すべきかと思う。それでもスノビズムは十分に香り立っている。
ある種の「クラブ」とも言うべきかもしれない。山の上ホテルに集うことは「クラブに入会する」
ということも意味している一面もあるような気がしてきた。

 著作としては若干散漫な気がする。常盤新平は翻訳者であり、文学者ではないということ
なのかもしれない。但し、ある種の香しさが本書には漂っている。これは僕自身が
既にスノッブなので、そう感じるだけかもしれないが。

「職業としての小説家」 村上春樹

 村上春樹を読み始めたのは1984年ぐらいだ。大学2年生の頃で、まだ村上はカルト作家であった。
喫茶店で麦酒を飲みながら読んだことを覚えている。麦酒もバドワイザーかハイネケンだった。

 それから30年経ったわけだ。その間、僕は、就職し、結婚し、子供を二人授かり、海外に2回住む機会を
得た。そうして何より50歳になった。
 そうして、いまなお村上の新作は読んでいる。僕自身が 村上が本書で感謝している「読者」の一人であるという自覚を強く感じた次第だ。

 本書を読んでいて常に思わされたのは「なぜ村上は今本書を出したのか」という点に尽きる。

 本書で村上は自身の仕事について実に率直の語っている。小説家としての村上が語るのは「物語」
であるが、本作では、一人の社会人としての村上が自身の職業である「小説家」に関して語っている。
いや、「自分が小説家であること」という極私的な話を広く僕らに語りかけている。
 その話は大変示唆に富んでいる一方「なぜ村上は今本書を出したのか」に関しては何も村上は
説明していない。それを考えることが本書を読むことではないのか。僕にはそう思える。

 僕は、村上が自身の死を意識して本書を書いたと思う。まもなく時間切れになる自身の創作
活動を、時間が切れる前に、彼は一度語りたかったのだと思う。あれだけのヒットメーカーで
ありながら、私生活を見せない村上が、人生の最後を意識した段階で、敢えて、「私生活」を
さらけ出してきたという読み方は可能だと思うのだ。

 村上はあと何冊書けるのだろうか。コアなファンを自称する僕としては気になるところだが
こればかりは分からない。そもそも、僕が先に向こう側に行ってしまう可能性も常に
あるわけだし。

「山本五十六」 下巻   阿川弘之

  上巻に続いて下巻も読了した。

 下巻で描かれる山本は、上巻で見せるお茶目な山本ではない。自由奔放な精神とユーモアは忘れないにしても
苦悩も隠せない山本である。

 苦悩の原因としては、思う様にいかない戦局もあったろうし、戦死していく知り合いへの哀悼もあったと
思う。但し、一番大きな理由としては、時代の精神と山本の精神の間に越えがたい溝が出来てしまい、その時代を
生きていくこと自体に山本本人が疑問を感じたのではないか。それが僕の印象であった。

 翻って、山本が21世紀の現在に生を受けていたらどうだったろうか。

 山本が持っていた自由な精神は、今の日本においても、いささか難しいかもしれない。むしろ戦前の
ある時期の日本よりも今の方が、不自由ということはないだろうか。上巻で展開された山本の自由奔放さは
それを許した時代もあったはずだ。下世話な話、今の日本で山本がかように妾や愛人に囲まれることが
容易だったのだろうか。そんなことを考えることは楽しいし、かつ、案外シリアスな気もしてくる。

 面白い本である。こういう本があることをいままで知らなかったことは不幸だが、いま読めたことは
幸せなことでもある。

「山本五十六」  阿川弘之 

  会社の上司から本作を教えて貰い読む機会を得た。週末で上下2巻を読了した次第である。最近本を読む
力が落ちていただけに楽しかった。

 黒澤明がハリウッドと組んで「虎虎虎」という映画を作ろうとした歴史は有名である。正確に言うと
ハリウッド側が黒澤を日本シークエンスの監督として雇おうとした話だ。但し黒澤は自分が総監督
であると理解しており、結果的には黒澤はノイローゼの末降板することになる。最終的には
「トラ・トラ・トラ」という凡作が残っただけとなった。黒澤が撮影していたら面白い作品になった
気もするが、既に盛りを過ぎていた黒澤でもあったので、この歴史のIFは何とも言えない。

 当時黒澤は、山本五十六を剽軽な男として描き出そうとしていた節がある。おそらくは本作が
黒澤の念頭にあったはずだ。それほど本作で描かれる山本という方は人間臭い天真爛漫な人である。
著者はCHILDISHという言い方もしているが、CHILDISHという言葉をこのように肯定的に使える
のだなという点には感心してしまった。

 僕には知見がないので山本という方の真の姿が、著者の描写通りなのかは分からない。但し
そうあってほしいという気持ちを強く持ったことも確かだ。その意味で本作は実に楽しく読めるし、
楽しい中にもジワリと怖さを感じさせる作品である。
 
 その怖さとは何か。日米戦争をあれほど恐れていた山本が、その口火を切る羽目になったという
運命の皮肉と、それを強いた時代の怖さである。

台北

 久しぶりに台湾に出かけた。金曜の午後からである。

 と書いてみたが、考えてみると2月に出かけたばかりとも言える。但し、いままでは南の高雄ばかりで
台北ではなかった。台北に宿泊するのは10年ぶりかもしれない。

 台北では、客先の「社長のお別れの会」に参加した。一度もあったことがない方の葬儀に出ることは
余り無い体験ではある。但し、ご家族の痛みがきちんと伝わってくる良い会であった。葬儀を「良い会」
ということ自体、本来は不謹慎かもしれないが、そう素直に感じたからしょうがない。

 土曜日の22時に羽田に着いた。東京は台北より遥かに暑かった。