くにたち蟄居日記 -72ページ目

カキ氷 ゆい

 カキ氷 ゆい の店に出かけた。外で並ぶ人も、並んでいるだけで大汗である。「カルダモン」の
カキ氷を頼んだ。カルダモンはカレーのスパイスであるが、カキ氷にもなるとは初耳ではあった。

 

「謝るならいつでもおいで」 

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 出張中に一気に読み終えた。本書の特徴は以下2点である。

まず著者が被害者と被害者家族に極めて近いところにいた点が際立つ。本来のノンフィクションならば
ある程度、書く対象との距離感があるわけだが、本書の場合は距離感がないに等しい。その点で著者は
本書を書くことに大変な苦労があったろう。ノンフィクションを書く上ではある程度以上の冷静さが
必要だと思うのだが、その「冷静さ」を保つことは非常に難しかったはずだ。著者が本書を書き上げるのに
10年要したのも、その距離感によるものであったに違いない。

次に本書の最後に収められている被害者の兄の一連の言葉が非常に際立っている。

「謝るなら いつでもおいで」という書名は彼の言葉だ。彼が家族として事件に非常に苦しみながら
最後に到達した言葉である。この言葉は、かかる状況にいたことがない僕には到底わかるものではない。
憎しみの果てにかような心境が有りえるのだろうかと考え込んでしまう。これを「許し」という言葉
で安易に片づけられない。但し、きっと「許し」の一つの形なのであろう。

著者は、おそらくは、本書を執筆し、「謝るならいつでもおいで」という言葉を聞いたことで救われたのでは
ないかと思う。加害者が本書を読む機会があることを強く祈る次第だ。 

徒然草 第六十段


 この段には僕の大好きな「しろうるり」の話が出てくる。

 主人公はある僧を「しろうるり」というあだ名で呼ぶ。他の人が「しろうるりとは何ですか」と問うと
「私にも しろうるりが何なのかわからないが、それがあれば、きっとあの僧に似ているに違いない」と
言ったという話だ。

 ある種のトートロジーと言える話だし、いまでも使える話であるとも言える。

『闘うための哲学書』 小川仁志 萱野稔人

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 「闘うための哲学書」という題名である。対談をされている小川と萱野という方が「闘う」ことで成立した本だ。
通常の対談には見られない応酬は、時として、読んでいてもハラハラするものがあった。

小川という方は「理想」を語る一方、萱野は「現実」を主張する。読んでいる限り、時として小川は滑稽な
主張も躊躇わない。かつ、それを冷徹に指摘する萱野も容赦ない。そんな二人のバトルが読みどころだ。

普通に読むと萱野のクールで切れ味鋭い議論に軍配を上げる方が多いだろう。但し、逆に「なぜ小川が
時としてホットで感情的な議論をやっているのか」を考えることが本書を読む上での隠れたポイントだと
思う。なぜなら小川はどう見ても確信犯的に議論をしているからだ。ある種のドンキホーテにも見える
小川の「戦略」というものも読み取るべきだと僕は思う。

端的に言うと、小川はアジテーションへの強い意志があるということなのだと思う。これは萱野が考える
「哲学」とは全く異なるアプローチである。萱野は「まず現実を冷静に分析し、その上で対応策を考える」
というスタイルだ。それに対して小川は「まず主張があるべきだ」と考える傾向が顕著にあるように僕には
見える。それを印象付けるためにも、本書で小川は敢えて、デフォルメした議論に持っていっているように
思えた。

面白い本だと思う。新書としては若干厚めではあるが、楽しく勉強できる本である。

『2つ目の窓』  河瀬直美 

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 河瀬の作品はわりと観てきた方だ。話によると本作を河瀬は自身の最高傑作と言っているらしい。
その話が本当かどうかは分からない。しかし、非常に面白く鑑賞出来た。

本作のテーマは母親と主人公の話ということなのだろう。

主人公は海を嫌っている。海に入るとべとべとして気持ち悪いと言っているらしい。
べたべたさは、そのまま、主人公が母親に持っている感情に繋がる。「男にだらしのない母親」
は即ち「べとべとした海」である。「海という字の中に母が居る」とは三好達治の詩にもあった
言葉だ。

では主人公にとってヒロインとは何か。一見して分かる通り、ヒロインと主人公の母親は
酷似している。主人公を誘惑しようとするヒロインに踏み込めない主人公は、ヒロインの中に
母親を見ていたはずだ。主人公がヒロインに誘われても、セックスに踏み出せない理由は
インセストタブーと言っても良い。
従い、ヒロインはもう一人の母親といえる。従い、本作は主人公が「母親」と
「ヒロイン」と「海」に囲まれてしまっているということが基本的な構図であり、その囲いから
抜け出るまでの物語が本作だ。

本作は「通過儀礼」に満ち満ちている。二回登場したヤギの屠殺場面やヒロインの母の死、
台風の到来などは全て通過儀礼と言える。主人公は、かかる通過儀礼を通り抜けることで
成長していく。最後の場面でヒロインと行う性行為も、通過儀礼の一つと言える。それを通り抜けた
ことで初めて主人公は、海で泳ぐことが出来る。「海を嫌った主人公」が「海を抱く」ところで本作は終わる。

奄美大島と、その海が美しい。河瀬は従来は奈良の山を描くのが上手だった。今回、海を
舞台としたことで、新しい境地を感じさせた。本作は従来の河瀬作品に比べると、物語性が
強くなっている。若干あざとい物語が、いささかの説教臭にもつながっている。それでも
主人公とヒロインの存在感によって脱臭出来ている。相変わらず横顔を撮らせると河瀬はうまい。
最後にヒロインの吉永という女優には感銘を受けたことを付け加えたい。ただしく「女優」である。

徒然草 第五十九段

  「大事を思ひ立たむ人は、さりがたく、心にかからむことの本意を遂げずしてさながら捨つべきなり」
 

  「仏教修行をするなら、目の前の課題などは全て棄ててしまい、修行すべきだ。」


 これは僕でも実感する話だ。何かをやろうと決める。但し、目の前の雑事が気になる。それを終えてからやろう
と思っていると、いつになってもやらない。まさに日々の自分ではないか。

 これは一つには時間をどう感じているかにもよる。時間が限られていると強く認識出来れば
かような自体にもならないのだろう。但し僕らにはなかなか時間の有限性が見えない。見えにくい。
見たくない。ということなのだろう。

 本日が人生最後の日だったら何をやるのか。スティーブジョブスが言った言葉を思いだした。

 



『シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと』

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 『人類が知っていることすべての短い歴史』を読んだことで著者を知り、その著者が書いた本書を読む機会を得た。

著者の本は良質のユーモアが特徴である。端的に言うと、爆笑しながら勉強になる。本書でも大笑いしながら
大変勉強になった。具体的には「シェイクスピアという方に関しては本当にわかっていることが少ない」という点が今回の勉強点である。

本書で著者は様々なシェイクスピア研究家を紹介している。中にはフロイトのような高名な方も出てくる。各々の研究家は、思い思いのシェイクスピア像を提出してきているらしい。但し、極めて根拠が薄い点を著者は丁寧に説明している。

「丁寧に説明している」とは僕としては、やや遠慮した言い方だったかもしれない。むしろ痛快に矛盾や問題点を指摘しているのが著者であり、本書であるのだ。

それにしてもシェイクスピアほどの方が、かように謎に包まれている点は不思議だとしかいいようがない。
想像するに、シェイクスピアが生存した時代には、劇というものは「通俗的な娯楽」であったということなの
だろうか。通俗的な娯楽であっただけに、著者に対しての注意も敬意も少なかったのかもしれない。

そう考えると、演劇という芸術が辿ってきた経緯も見えてくる気もしないでもない。考えてみれば、日本の歌舞伎等にしても、初めは極めて庶民的な芸であったと聞く。それと同じことなのかもしれない。

「僕はミドリムシで世界を救うことに決めました」 

 
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  ユーグレナに興味を持っていたことで読む機会を得た。
 
 僕としてはまず ミドリムシ自体に興味があった。本書においてミドリムシ自体への説明はいささか薄い。
従い、ミドリムシに「どのような可能性」が「何故秘められているのか」という点においては物足りなかった。
但し、おぼろげながらもミドリムシの占めるユニークなポジションは理解出来た。即ち

  ・動物と植物の間に存在する。
  ・太古の地球は今より二酸化炭素濃度が濃い中で生き延びながら光合成を行ってきた。
  ・石油も植物由来である点で、ミドリムシも大きな意味で同じ仲間である。

 という点である。

 次に本書をミドリムシから切り離して「起業」の本と読むことは当然可能ではある。それはそれで
面白いが、ユーグレナという会社はまだ若い分、歴史的な評価も難しい。端的に言うと「成功したのか
どうかは現段階では未定」ということだ。但し、上記のミドリムシのポジションを考えると、ここは
大いに成功してほしい。

「月のしずく」  浅田次郎

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 帰宅時に地元の本屋で購入し、こたつに寝転んで本書を読んだ。いくつかの浅田次郎の
作品はこたつで読むのに適している。本作もそんな「こたつ作品群」の一つである。

 本作の短編は1996年から1997年に発表された作品だ。解説によると、ちょうど
「鉄道員」と同じ時期であるという。浅田という方が、ある時期に集中して書いた短編群の
有り様が分かる気がした。

 浅田は大変「物語を語る」ことが上手である。現実を舞台としつつも、独自のファンタジー
を混ぜて、「物語」を作ってくる。現実とファンタジーをどう混ぜていくかというレシピが
この時期に浅田が作った作品の味わいを決定している。

 まず「地味な現実」を基本的な「食材」とする。舞台や設定は常に地味で始まる。

 そこに、スパイスのようなファンタジーを「隠し味」を混ぜてくる。食材が地味だけに
少々スパイスを混ぜていっても、いきなり味が変わるわけではない。

 但し、ある一点を超えた段階で突然香りが立ち上る。味がさっと目の前に開けてくる。
その瞬間の香り高さを楽しむことが浅田の短編を読むということだ。

 多くの方が浅田の短編を読んで涙を流している。大半の方にとって、後味が非常に良い
涙なのだと僕は思う。大人にとっても時として泣くことは大事だ。気持ちがすっきりする
ものだ。そんな僕らの心情にきちんと付けこんでくる浅田はずるい。但し、シェフ浅田の
腕が冴えわたっているのでしょうがない。ある種の演歌と同じではないだろうか。

徒然草 第五十八段

 
  「人と生まれたらむしるしには、いかにも世をのがれむことこそ あらまほしけれ」 
 
  「人として生まれているかいには、どんなにしても俗世を遁れることが望ましい」
 
 兼好のご意見ではあるが、個人的には同感できない。勿論それは俗世でのたうちまわっている
自分自身を正当化するという意味であるのだが。
 
 僕は来世というものを実感として信じることは出来ない。従い、今この瞬間の、この俗世しか
僕には無い。従い、そこから遁れるということ自体が分からないということなのかと思う。
 
 また、俗世は俗世でまた楽しいではないかと思う。
  
 煩悩は楽しいからこそ煩悩足りうるのかと思う。様々な欲を引きずりながら生きることも
また良しと考えるしかない。