くにたち蟄居日記 -74ページ目

「日本語の最後の砦」

 
  「翻訳者は、日本語の最後の砦にならなくてはならない」   
 
 この言葉は東江一紀という翻訳家の方の言葉だという。「人類が知っていることすべての短い歴史」(下)
にて 成毛眞という方が解説で紹介している言葉だ。成毛という方は、日本マイクロソフトの社長をおやりに
なった人であるが、無類の読書家である。岩波新書から「面白い本」「もっと面白い本」を出されているのを
読んだことがある。
 
 僕は日本語にはうるさくありたいと思っている。「言葉にうるさくありたい」と言いたいところではあるが、
あいにく日本語以外の言葉で、そこまで言い切る自信も能力もないので、まずは日本語に関してそう
考えている。
 
 翻訳された本を読んでいると、日本語として意味が不明で困惑する場面が多い経験を持つ方も
多いだろう。おそらくは、出来うる限り原文を、原文に正確に、日本語にしようとすることが原因である
ような気がする。勿論、日本語にはないニュアンスの言葉は外国語にはいくらでもあろうし、それを
日本語に翻訳することの困難さも想像できる。
 
 但し、「翻訳された」とはいえ、日本語になっているものは、日本語の論理とリズムと読むしかないのも
僕ら日本人ではある。従い、論理が辿れないものは「わけがわからない」ということになるし、リズムが
合わないものは「乗れない」ということになってしまう。「意味不明で乗れない」文章を長く読み続けることは
普通はとても難しいものだ。
 
 ということで、東江という方の言葉には大変賛同した次第である。

徒然草 第五十四段

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 「あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり」
 
 
 「普通以上に趣向を凝らそうとすると、かえってつまらない結果に終わるものだ」という兼好の結論
が光る段である。
 
 例えば食事をしていても、「美味しすぎる味」というものがある。「美味しすぎる」とは一見は褒め言葉
であるが、僕は褒め言葉としては使わない。むしろ否定的な意味で使う場面が多い。
 
 これはセブンイレブンの鈴木という方の受け売りであるのだが、「美味しすぎるもの」は必ず「飽きる」
ものであるという面がある。鈴木という方はコンビニの弁当の味を表現する際に「美味しすぎてはいけない」
と言われるそうだが、その感覚はなんとなく理解できる気がしている。結局、際立つ味というものは
その「際立ち」の為に、いつしか「くどさ」に変わってしまうのだと思っている。
 
 兼好の話は食べ物の味についてではない。但し、どこか通底するものがあると僕は思っている。
 
 なお本段には「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」という白居易の詩文も引用されている。今読んでいても
美しい風景ではある。冒頭の写真はネットで探してきたものだ。

対話と会話の不思議

 
 人と話をしているうちに、自分で考えてもいなかったことを話している自分がいることに
気が付くことがある。自分で話しているうちに「あれ、僕はこんなことを考えているのか」と
不思議になるような経験は僕だけのものではないに違いない。
 
 池田晶子という哲学者は「自分は言葉の通路だ」というような話をどこかでしていた記憶がある。
もしかしたら、池田の良き「解説者」である若松英輔という方からの又聞きかもしれない。
 
 端的に言うと、「まず何か自分の外部があり、その外部が考えたことを自分の口が語っているだけだ」
というようなことらしい。自分が何かを語っているのではなく、何かが自分をして語らしめているというような
イメージなのかもしれない。
 

ホビット 竜に奪われた王国

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ホビットシリーズ2作目である。

 まず竜の造型は素晴らしい。原作を遠い30年以上前に読んでいた頃は竜の場面を
どう想像すればよいのかは結構難しい課題だった。特に竜とビルボの会話の場面が微妙である。
本来恐ろしいはずの竜が会話に応じている点で、原作での竜の恐ろしさは半減していた。それは
竜を擬人化したことによるやむを得ない「副作用」であったと今思う。

 翻って映画を観ると、その部分は、かなり改善されている。会話自体と竜の恐ろしさは
綺麗に両立している印象が強い。これがCGの威力ということなのだろう。ロードオブザリング
でも同様であったが、やはり今日の技術を待つしかなかったということなのだろう。

 では「映画」としての出来はどうか。

 映画としては良く出来ているものの、やはり、アクションに流れている感が強い。これこそが
CGの「副作用」だと思うのだが、次から次へと展開するアクションを2時間以上観ていると
かなり疲労してくる。アクションシーンを観ること自体に緊張を強いられるわけであり、
2時間緊張を強いられることが映画鑑賞として正しいかどうかは疑問である。端的に言うと
メリハリがなくなるわけだ。

 但し、それでもトールキンの割とコアなファンとしては本作が出来たこと自体が非常に
嬉しい。最終作を観ることがやや寂しく感じることも確かだ。

徒然草 第五十三段

 
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 この段では酒席の余興で頭に「足鼎」をかぶったところ抜けなくなって困ったお坊さんの話である。
医者に行っても抜けず、最後は命まではとられまいと腹を括って強引に引っ張りだしたという話だ。
ユーモラスな話であり、兼好も書きながら、失笑していたに違いない。
 
 僕としては、「当時の酒席も今の酒席も変わりないな」という印象を強く持った。酒に酔ってかぶり物を
取りだす等の風景は日常である。さすがに取れなくなるというようなことは余り無いにしても。
 
 そう考えると750年前の人間も今の我々も同じなのかなという親近感もふと湧く。750年程度では
人間は進化しないのだろうか。

「サードマン」 

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年末に一気に読了した。

 本書は「人間が極限状態に置かれたときに、存在しない他者が現れ、導いてくれる」という
例を膨大に集めた本だ。日本の登山家である山野井という方の本でも同様の体験が語られていたが
他の実例も多いようだ。

 僕自身はかかる極限状態に陥ったことはない。従い存在しない他者=サードマンが現れたという
経験も持たない。もっと言うとサードマンが必要になる状況に置かれたくないわけだ。
 但し、万が一かような状況になった場合、誰からが助けてくれるかもしれないと思っていること
は実は大事なのではなかろうか。

 僕らは日々自助努力という言葉を多用している。自己責任という言葉も、意味は違えど、ニュアンス
は似ている・「自助」「自己」という言葉には同じ響きがある。「自分で何かを為さなければならない」
という趣旨だ。

 言葉の響きは良い。但し、それらの言葉が多くの人を苦しめてきたことも確かだ。物事の結果を
全てその人個人の努力や能力に帰してしまう場合、失敗に対して、救われなくなるからだ。

 そう考えると、サードマンがいるかもしれないと思うことの重要性は理解できる。おそらくは
宗教の一つの可能性は、サードマンを信じるところから始まると僕は思う。それは所謂の教義宗教
ではなく、素朴で原始的な心の有り方であろうが。

 ということで僕はこの本を読んで、少し心が楽になった。何かあったらきっとサードマンが
来てくれると考えることはとても心地よいからだ。 

「ノンフィクションは死なない」  佐野眞一

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 佐野眞一の久々の著作である。本作は以下2点がポイントだ。

 一点目。佐野はノンフィクションというジャンルが今の日本で死にかかっていると言う。
本書を読む限り、最大の原因はノンフィクションというものが読まれなくなった点にあるようだ。
良質のノンフィクションを掲載してきた雑誌の休刊にしても、書き手の減少にしても、端的に言うと
「人気がなくなってきた」点にある様子だ。

 ノンフィクションの人気がなくなってきた原因は、良質の作品が減少したのか、読み手の興味が
他に移っているのかのどちらか、若しくは両方、ということになろう。佐野としては当然ながら
後者を懸念し、今後の日本の精神風土への警鐘も鳴らしているはずだ。また、それを増長している
のがマスメディアの有り方であるとも言っている。

 佐野の主張を聞いていて特に違和感は無かった。但し、大きな時代の流れを押し止めるだけの
説得力があったわけでもない。本書の題名である「ノンフィクションは死なない」とは、佐野の
「説得」というよりは「祈り」に近い。僕自身はノンフィクションというジャンルは好きなので
「祈り」に参加することはやぶさかではないが、「祈り」に過ぎない点も確かだった。

 二点目。佐野自身の書きっぷりはどうか。

 佐野は盗作疑惑を起こした。僕はそれまで佐野のかなりの著作に引き込まれていたので正直
当時はショックを覚えた。
 本作で佐野は当時の疑惑に対して、具体的にある程度の反論をしている。反論部分はいささか読みづらく
これで疑惑を晴らしたのかどうかは僕自身としては良く分からなかった。
 但し、考えてみると当時の疑惑も「盗作」部分に集中しており、作品自体の質に対する攻撃は余り
なかった気もする。「盗作しているかどうか」は著者にとっては死活問題だとしても「作品」に
とってはまた別の話かもしれない。そう考えると当時の僕が受けたショック自体がいささか軽薄だったのかも
しれない。

 一方、佐野の筆は荒れてきていることも確かだ。佐野自身も本書で言っているが、「あんぽん」の
成功が、彼の筆を変えてしまった感がある。要は、「情緒的で攻撃的な書き方」に染まってしまっては
いないかということだ。端的に言うと品が無くなっている。

 佐野の著作を愛読してきた僕としては、彼の筆の品を懸念すること自体が悲しい話である。
ノンフィクションの人気を上げようという真面目な志が、その方法として「情緒的で攻撃的な書き方」
を産んでしまったとしたら、悲劇だ。それこそがノンフィクションの死を加速しないだろうか。

「情婦」 

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 中学3年生の次女と年末こたつに入って本作を鑑賞した。

 僕の次女は1999年生まれだ。どうしたことか、刑事コロンボ、初期のルパン三世、映画では「カサブランカ」
等を好んでいる。1964年生まれの僕としても有りがたい娘であると言える。従い、本作も自信を持って
推薦し、結果として大絶賛を受けた。

 まず、原作がアガサクリスティである。ミステリーの女王という言い方をされる彼女であるが、僕は
彼女の作品の持つ高い文学性に惹かれている。犯人が分かった後も、再読に足る探偵小説は余り無い。
彼女のいくつかの作品はなんどでも読める。本作もその一つである。原作がしっかりしていることが
本作の「足腰」を鍛えていると言える。

 次には俳優だ。マレーネ・デートリッヒは言わずもがなであるがその他の俳優も素晴らしい。老弁護士と
看護婦の役者が実際には夫婦だったとは本作のレビュアーの方に教えてもらった。映画のラストで
「あの弁護士と看護婦はきっと結婚するぞ」と娘に言ったことを僕は誇りに思ったくらいである。

 ということで、最後に来るのはいつもの嘆息である。「昔の映画は本当に良く出来ている!」
困ったことは娘もそれに同意している点だ。彼女はこれからの人生、先が長いのに!!

「ホテルローヤル」 桜木 柴乃

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 話題の本を図書館で予約して半年して漸く借りることが出来た。

 ラブホテルを舞台とした短編集である。映画でいうとオムニバスというところか。各編の主人公たちは
他の短編でもちらりと脇役で出てくる。その連続性の中で本書は成り立っており、従い徐々に本当の
主役であるホテルローヤルが僕らの視界に立ちあがってくる。

 ラブホテルとは何か。人々が性を為す場であるとでも言えばよいのだろうか。随所に存在しながら
なんとなく話題に乗せにくい不思議な場である。
 話題に乗せにくい理由とは性そのものがある種のタブーを帯びているからだ。食欲、睡眠欲と並んで
三大欲の一つである性欲がタブー視されがちなのは、人類だけが発明した発想だ。動物や植物が交尾
や繁殖に勤しむ姿にはなんらタブーはない。何故か人間だけが、性を特殊なものに仕立て上げたのが
歴史である。

 「ホテルローヤル」もそんな歴史の延長上に書かれた本である。本作において性は主要テーマではなく
素材である。ある種の性的刺激を期待して本書を読んだ方にとっては、肩透かしにあった気がするはずだ。
本書を読み終えてざらりと残るのはホテルローヤルの残骸の風景である。繰り返されてきたであろう
性を見つめながら釧路にたたずんでいた老ラブホテルの立っている姿がぼんやりと浮かんでくる。そんな
心象風景が本書を読む快感である

「羆嵐」  吉村昭

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読む出すと止まらず、あっという間に読了した。読後感は二点である。

 一点目。本書の主役は銀四朗なのであろうが、区長の存在感も大きい。実際本書は「区長のリーダーシップ」
の話としても十分に読み応えがある。そう見えないのは、時として区長が熊に怯えてしまう場面が
あり、その際の冷静な銀四朗との対比があるからだ。但し、本編を通じて区長が果たしてきたリーダー
としての資質の高さにはかなりのものがある。随所に見せた彼の決断には感銘を受けた。また
一匹狼である銀四朗を正確に理解したのも区長だけだった。区長のその後が本書では書かれていない
ところを見ると、フィクションだったのかもしれないが。

 二点目。では主役の銀四朗はどうなのか。本書を読みながら、しきりと宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思いだした。

 「なめとこ山の熊」の主人公である小十郎は銀四朗とは全く逆に造型されている。小十郎は熊と会話できる
能力を持つ一方、世間では肩身が狭い弱い存在である。最後は、誤った熊の一撃で死んでいく。
 銀四朗は全く逆だ。熊は斃す相手であり、世間に対しても強い態度で立ち向かう。最後まで熊に負けることは
ない。
 但し、この両者にも通底する共通項があることも確かだ。それは、山の中で孤独と孤高に耐えていく
姿である。もっと言うと、人間社会からの「距離感」という点では両者は似たようなものだ。「人間社会」
への対応の方法が弱いか強いかという違いはあっても、抱えている「距離感」は同質である。
 そう考えていくと、本書と「なめとこ山の熊」は表裏の関係にあると言える。賢治の童話と、冷徹とも
言える本書が山のかなたで交差している風景も目に浮かぶ。

 凄い作品だ。