徒然草 第五十七段
「すべて いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし」
「なにごとでも、大して知ってもいない方面の話をしているのは、傍らにもいにくいような気がして聞きづらい」
こういう兼好の感覚は、そのまま現代の僕らにも通じる気がする。いつの世にも知ったかぶりとはいたわけだ。
欧州での「反テロ」デモ
新聞によると、先般のテロに対する行為として、100~200万人規模のデモが行われるらしい。呼びかけは
フランスのオランド大統領とのことで、メルケル独首相、キャメロン英首相、レンツィ伊首相、イ スラエルや
パレスチナの首脳も参加したという。
僕が少し驚いたのは、デモ行進とは、どちらかというと反体制派が体制に対して行う抗議行動だと
理解していたからである。今回のデモはどちらかというと、(いや、どちらかと言わなくても)体制側が
行ったものである。
体制側がデモという行動を採ることの意味は案外深いかもしれない。ある種の危険な香りを嗅ぐことも
出来るような気が少しした。
「取る」と「ある」 「責任」 を巡って
散歩をしていて「責任」という言葉について考えた。正確に言うと「責任を取る」という
言葉と「責任がある」という言葉について、である。取ったり、あったりする「責任」とは何かなと。
「責任を取る」というと、なんとなく「無実だけれども罪を被る」というニュアンスがある。
そもそも「取る」という言葉自体が、「誰か他の人が持っていた何かを、取ってきて自分の
ものにする」という意味を感じる。
従い、「責任を取る」とは「他の人がやった何かを、取ってきて自分に持ってきた」という
ように聞こえる。
組織においても、何か問題があった場合に、そこのTOPが辞任するような場面でも「
責任を取って」という枕言葉が付いてくる。
「何かがあったら俺が責任を取る!」というような言い方もあるが、そこでも同様の
響きが木霊している気がする。
端的に言うと「本当は自分が悪いのではないのだけどな」というぎりぎりの
「逃げ」がそこにはないのだろうか。
一方「責任がある」という言葉はどうか。これはかなり重い。
何かの結果を完全に自分自身に引き受けている姿が見える気がする。
その言葉からは「逃げ」は見えてこない。
そう考えると、「責任」というものは「取る覚悟」だけでは本来不足しており
「あると認める覚悟」こそが、本当の意味なのかもしれないなと思ってきたところだ。
これは当然仕事だけではなく、プライベートな部分も同様だろう。
僕らは公私共に、毎日が「意思決定」ばかりだ。その中で「責任とは何なのか」を
考えることは、実は、結構大事なのかもしれない。
徒然草 第五十六段
「よき人の物語するは、人あまたあれど、ひとりに向かいていふを、おのづから人も聞くにこそあれ。」
「話が上手な人は、聴き手がおおぜいいても、その中の一人に話かけ、他の人が自然にそれに聴き入る
というものだ」
兼好はこの段では「話し方」について書いている。彼によると、自分の話ばかりをくどくどとする人は
教養のない下品な人ということらしい。
現代も同じだと思った。
自分の話をするのは良いが、それが話す相手にとってどのような意味があるのかを考えることが第一だ。
相手にとって意味が無い限り、聞かされるほうも、迷惑と言っても良い。それもコミュニケーションの
マナーの一つだろう。
それにしても兼好は誰に向かって、徒然草を書いたのだろうか。こうやって、800年後も読まれるということ
を想定していたとも思えない。但し、800年後の現在にいる僕には彼の肉声が聞こえる思いもする。
「虹の岬の喫茶店」 森沢明夫

映画を観たことで原作を読む機会を得た。
当たり前ではあるが原作と映画ではかなり異なる。映像があるせいかもしれないが、映画の方が
ややドラマティックであり、主人公の悦子さんの心境を大きく強調している。それは原作にほれ込んだ
吉永小百合の意向であったのかもしれないし、若しくは映画化するにあたっての監督の判断だったの
かもしれない。いずれにせよ、原作のままでは映画にならなかった気はする。
「原作のままでは映画にならなかった」と書いた点に関してはもう少し僕なりに説明が必要だろう。
原作は、穏やかに繋がるいくつかの短編で出来ている。各編の主人公は、ばらばらであり、他の編とは
繋がらず、独立している。独立した編同志を唯一繋いでいるのが悦子さんであり、岬の喫茶店である。
従い、このまま映画化するとオムニバス映画でしか有りえないと僕は思った。従い「映画に
ならなかった」と言った次第である。言うまでもないが、原作を貶めている積りは全く無い。むしろ
逆である。
本作の心地よさに関しては他のレビュアーの方のコメントを興味深く読んだ。人によって色々な
「心地よさ」がある様子だ。それは、各々のレビュアーの方のそれまでの生きてきた人生によって
感じる「心地よさ」が違うということなのだろう。例えば吉永小百合が、どう読んだのかを考える
ことも楽しい想像だ。
当たり前ではあるが原作と映画ではかなり異なる。映像があるせいかもしれないが、映画の方が
ややドラマティックであり、主人公の悦子さんの心境を大きく強調している。それは原作にほれ込んだ
吉永小百合の意向であったのかもしれないし、若しくは映画化するにあたっての監督の判断だったの
かもしれない。いずれにせよ、原作のままでは映画にならなかった気はする。
「原作のままでは映画にならなかった」と書いた点に関してはもう少し僕なりに説明が必要だろう。
原作は、穏やかに繋がるいくつかの短編で出来ている。各編の主人公は、ばらばらであり、他の編とは
繋がらず、独立している。独立した編同志を唯一繋いでいるのが悦子さんであり、岬の喫茶店である。
従い、このまま映画化するとオムニバス映画でしか有りえないと僕は思った。従い「映画に
ならなかった」と言った次第である。言うまでもないが、原作を貶めている積りは全く無い。むしろ
逆である。
本作の心地よさに関しては他のレビュアーの方のコメントを興味深く読んだ。人によって色々な
「心地よさ」がある様子だ。それは、各々のレビュアーの方のそれまでの生きてきた人生によって
感じる「心地よさ」が違うということなのだろう。例えば吉永小百合が、どう読んだのかを考える
ことも楽しい想像だ。
「評決」

機内上映で鑑賞した。機内では最新作だけではなく、旧作も選べることが増えてきた。旧作は時間に
耐えられたものであるだけに、むしろ面白い。本作もそんな一本である。感想は2点だ。なお以下は
完全にネタバレである。
1点目。法廷劇として本作を観るとどうか。案外、杜撰さが目立つ気がする。主人公の弁護は
ある意味では出たとこ勝負に過ぎない。最終的には勝訴するわけだが、裁判として見ていると
普通なら敗訴ではあるまいか。敗訴した上で(可能であるなら)上告するという筋の方が現実的
かと思う。
従い、例えば「12人の怒れる男」などと比較すると、法廷劇としての綿密には欠けると僕は
思う。但し、本作は法廷劇を目指していないと考えるなら、話はまた別である。おそらくは
作者は本作を法廷劇として完成させようとはしなかったのだろう。
2点目。不思議な登場人物がいる。
まずはヒロインのローラである。敵役が主人公に送り込んだ女スパイである。「女スパイが、相手を
愛してしまう」という紋切り型のエピソードにも見える。但し、それだけでは消化されない場面が
散見された。
ヒロインは挫折しそうになる主人公を励ます。あの励ましは、敵役の指示とも思えない。また、その励まし
の適格・厳格さにはいささか感動的なものがある。まぎれもなく主人公はヒロインの励ましによって勝訴
するだけではなく彼自身の人生を取り戻している。
勝訴した後に主人公は法廷でヒロインを見る。一瞬目をそらして再度見るとヒロインはかき消えている。
あの場面がヒロインの最後の登場であったとしたら、「ヒロインは実在していない神だったのではないか」
というニュアンスも出せたはずだ。従い、その後の電話のシーンは無くても良いという考え方もあろう。
もう一人。トンプソン医師という方は案外不思議な方である。
トンプソン医師は主人公が手配した証人である。かつ、結論的に言うと、「役に立たなかった証人」
という位置づけであり、映画途中から登場しなくなってしまう。
但し、彼の妙な存在感がある。彼の柔和な笑顔と、正直な話し方には何かがあるような気がして
ならない。根拠は無いが、彼に会ったことが主人公の勝訴の始まりであったような気がしないでも
ない。ここでもある種の「神」を感じさせるものがある。
いずれにせよ、実に面白い作品だった。やはり時間に耐えてきた作品は面白い。
耐えられたものであるだけに、むしろ面白い。本作もそんな一本である。感想は2点だ。なお以下は
完全にネタバレである。
1点目。法廷劇として本作を観るとどうか。案外、杜撰さが目立つ気がする。主人公の弁護は
ある意味では出たとこ勝負に過ぎない。最終的には勝訴するわけだが、裁判として見ていると
普通なら敗訴ではあるまいか。敗訴した上で(可能であるなら)上告するという筋の方が現実的
かと思う。
従い、例えば「12人の怒れる男」などと比較すると、法廷劇としての綿密には欠けると僕は
思う。但し、本作は法廷劇を目指していないと考えるなら、話はまた別である。おそらくは
作者は本作を法廷劇として完成させようとはしなかったのだろう。
2点目。不思議な登場人物がいる。
まずはヒロインのローラである。敵役が主人公に送り込んだ女スパイである。「女スパイが、相手を
愛してしまう」という紋切り型のエピソードにも見える。但し、それだけでは消化されない場面が
散見された。
ヒロインは挫折しそうになる主人公を励ます。あの励ましは、敵役の指示とも思えない。また、その励まし
の適格・厳格さにはいささか感動的なものがある。まぎれもなく主人公はヒロインの励ましによって勝訴
するだけではなく彼自身の人生を取り戻している。
勝訴した後に主人公は法廷でヒロインを見る。一瞬目をそらして再度見るとヒロインはかき消えている。
あの場面がヒロインの最後の登場であったとしたら、「ヒロインは実在していない神だったのではないか」
というニュアンスも出せたはずだ。従い、その後の電話のシーンは無くても良いという考え方もあろう。
もう一人。トンプソン医師という方は案外不思議な方である。
トンプソン医師は主人公が手配した証人である。かつ、結論的に言うと、「役に立たなかった証人」
という位置づけであり、映画途中から登場しなくなってしまう。
但し、彼の妙な存在感がある。彼の柔和な笑顔と、正直な話し方には何かがあるような気がして
ならない。根拠は無いが、彼に会ったことが主人公の勝訴の始まりであったような気がしないでも
ない。ここでもある種の「神」を感じさせるものがある。
いずれにせよ、実に面白い作品だった。やはり時間に耐えてきた作品は面白い。
徒然草 第五十五段

(ネットで見つけた写真)
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、
堪へ難き事なり」
家の造り方は、夏向きにするがいい。冬はどんなところにも住めば住める。暑い頃に、建て方の
悪い家は耐えられない
この一文を冬に読んでいると今一つ兼好の意見には承服しかねる思いがする。寒いより暑い
方が楽なのではないかと思ってしまう。まして、僕はタイとインドネシアに住んだ経験があり、暑い国
に住む楽さを合計9年近く味わってきたという経緯もあり。
但し、確かに寒さに関しては、炉辺を家に持ち込むということを昔の方々はおやりになった。
「火」を管理することは常に難しいにしても、それに挑戦してきたのも人類の挑戦だった。従い
寒さ対策は昔から有ったわけだ。
一方、冷房に関しては、ほぼお手上げで来ているのも歴史だ。扇風機が歴史に登場したのは
19世紀後半だという。火を持ち込んでから20世紀以上後に、漸く、いささかの暑さ対策が出来た
わけだ。
そう考えると兼好の話も分かる。そういえば前段である54段では、「紅葉でたき火して酒を温める」という
風流な話もあったことを思いだした。火は長きに渡って僕らの友人であったわけだ。
「5アンペア生活をやってみた: 斎藤健一郎

年始に本作を読了した。年始は一年の計であり、このように節約を旨とする本を読むには
比較的向いている時期ではある。
著者が指摘している通り、原発事故から3年以上過ぎた日本は、「のど元過ぎればなんとやら」
という状態にある。僕は事故当時はインドネシア在住であったので当時の節電状況などが分からない
が、少なくとも現在では事故以前となんら変わらない電力消費状況に見える。
一つには、電力会社としてもある程度以上に電力を使って貰わないと経営的に厳しいという点も
あるかと思う。著者が電力会社に5アンペア設定を依頼した際の対応を見ていると、なんとなく
電力会社の経営も見えてくる感もあった。
本書を原発から切り離して、「節約の書」として読むとどうか。それはそれで楽しく読める。
古くは山崎えり子という方の「節約のすすめ」という本が大ベストセラーになったことも
思いだした。その後、山崎という方は逮捕され、著作も地に堕ちてしまった経緯はあるにせよ、
そもそも「節約する」という事に関して、日本人はそもそもかなり興味を持つ民族であるような
気がする。そう考えると、本書は大きな伝統の延長上に成された本であるとも言えそうだ。
僕自身は5アンペアで生活する自信は余り無い。それでも本書を読んだ後は電気の無駄使いが
気になるようになってきた。それはそれで本書を読んだ徳である。
比較的向いている時期ではある。
著者が指摘している通り、原発事故から3年以上過ぎた日本は、「のど元過ぎればなんとやら」
という状態にある。僕は事故当時はインドネシア在住であったので当時の節電状況などが分からない
が、少なくとも現在では事故以前となんら変わらない電力消費状況に見える。
一つには、電力会社としてもある程度以上に電力を使って貰わないと経営的に厳しいという点も
あるかと思う。著者が電力会社に5アンペア設定を依頼した際の対応を見ていると、なんとなく
電力会社の経営も見えてくる感もあった。
本書を原発から切り離して、「節約の書」として読むとどうか。それはそれで楽しく読める。
古くは山崎えり子という方の「節約のすすめ」という本が大ベストセラーになったことも
思いだした。その後、山崎という方は逮捕され、著作も地に堕ちてしまった経緯はあるにせよ、
そもそも「節約する」という事に関して、日本人はそもそもかなり興味を持つ民族であるような
気がする。そう考えると、本書は大きな伝統の延長上に成された本であるとも言えそうだ。
僕自身は5アンペアで生活する自信は余り無い。それでも本書を読んだ後は電気の無駄使いが
気になるようになってきた。それはそれで本書を読んだ徳である。
「人類が知っていることすべての短い歴史(上)」

年末に書店で平積みとなっている本書を衝動買いし、すぐに読み始めた次第だ。「衝動買い」が出来る
ところがリアルな書店の大きな徳である。
本書は爆笑しながら読める本だ。著者は決して科学者ではない。むしろ旅行記などでユーモアを得意とした
方らしい。本書に随所にちりばめられている上質のジョークが、本来難しい素材で書かれている本書を読み易く
している。
本書を読む限り、人間が世界や宇宙に関して分かっていることは極めて限定的である。我々は宇宙について
知らないと同時に、地球に関しても殆ど分かっていない。自分自身を構成する分子なども今だに謎だらけで
ある。
何もわかっていなくとも生きていけるという点はなかなか凄みがある話だ。意識しなくても生きていける
ように体内のプログラムが出来ているということなのだろう。それを本能と呼べば良いのかもしれないが、
かかる本能をどうやって獲得したのか。
一方、限定的とはいえ、人間も徒手空拳でよく物事を分析してきたことも本書で理解出来る。「物事を
分析しよう」と思いついた段階で、それはそれでもう一つの凄みだ。
いずれにせよ下巻が楽しみになってきている。
ところがリアルな書店の大きな徳である。
本書は爆笑しながら読める本だ。著者は決して科学者ではない。むしろ旅行記などでユーモアを得意とした
方らしい。本書に随所にちりばめられている上質のジョークが、本来難しい素材で書かれている本書を読み易く
している。
本書を読む限り、人間が世界や宇宙に関して分かっていることは極めて限定的である。我々は宇宙について
知らないと同時に、地球に関しても殆ど分かっていない。自分自身を構成する分子なども今だに謎だらけで
ある。
何もわかっていなくとも生きていけるという点はなかなか凄みがある話だ。意識しなくても生きていける
ように体内のプログラムが出来ているということなのだろう。それを本能と呼べば良いのかもしれないが、
かかる本能をどうやって獲得したのか。
一方、限定的とはいえ、人間も徒手空拳でよく物事を分析してきたことも本書で理解出来る。「物事を
分析しよう」と思いついた段階で、それはそれでもう一つの凄みだ。
いずれにせよ下巻が楽しみになってきている。
「人類が知っていることすべての短い歴史(下) 」

年末に偶然上下巻にて購入した。上巻に続いて下巻もあっという間に読了した。以下は上下巻を読んだ後の
最終的な読後感である。
本書を読む限り、我々人類が今日このように生存していることは、極めて偶然が重なったことに因っていると
言いようがない。地球の歴史上の任意の時点で、ちょっとした違いがあれば、我々が、今の形で存在している
ことは誠に難しかったろう。その偶然の確率も天文学的な数字であることは、本書にて説明される様々な
「天文学的な数字」を見ていれば容易に想像が付く。
かつ、未来を展望すると、人類がいまのままで生存を続ける可能性は、これまた天文学的に低いと言わざるを
得ない。宇宙と地球のここまでの歴史は天変地異の連続であり、今後も同様の天変地異が続くであろうことは
避けられないとしか思えない。
そう考えていると、自分の日々の悩みや苦しみは実に小さいものに過ぎないと思えてくる。そう考える
ことは、大きな開放感にも繋がると言って良い。小さいことでくよくよしていても、大きな歴史の流れの
中では、どうでも良い問題だと笑い飛ばすことも可能になってくる。
もちろん、僕らの小さな悩みは大事であることは確かだ。人間は自身の小さな悩みを抱えることで
進化し進歩してきた面はあると思う。但し、時として、自分で自分を疲労させてしまい、せっかくの寿命を
縮めてしまうことも多い。本書を読んでいても、そもそも生を受けたこと自体が奇跡的であることは
分かる。従い、「小さな悩み」でそれを摩耗させるべきではない。
良く出来た一冊だと思う。年始年末に一気に読めて大変勉強になった。再読の効く本ゆえ、いつかゆっくり
もう一度読む所存だ。最後に付け加えると、本書を人前で読む際には気を付けた方が良い。良質のユーモア
で爆笑してしまう場面がかなりあるからだ。
最終的な読後感である。
本書を読む限り、我々人類が今日このように生存していることは、極めて偶然が重なったことに因っていると
言いようがない。地球の歴史上の任意の時点で、ちょっとした違いがあれば、我々が、今の形で存在している
ことは誠に難しかったろう。その偶然の確率も天文学的な数字であることは、本書にて説明される様々な
「天文学的な数字」を見ていれば容易に想像が付く。
かつ、未来を展望すると、人類がいまのままで生存を続ける可能性は、これまた天文学的に低いと言わざるを
得ない。宇宙と地球のここまでの歴史は天変地異の連続であり、今後も同様の天変地異が続くであろうことは
避けられないとしか思えない。
そう考えていると、自分の日々の悩みや苦しみは実に小さいものに過ぎないと思えてくる。そう考える
ことは、大きな開放感にも繋がると言って良い。小さいことでくよくよしていても、大きな歴史の流れの
中では、どうでも良い問題だと笑い飛ばすことも可能になってくる。
もちろん、僕らの小さな悩みは大事であることは確かだ。人間は自身の小さな悩みを抱えることで
進化し進歩してきた面はあると思う。但し、時として、自分で自分を疲労させてしまい、せっかくの寿命を
縮めてしまうことも多い。本書を読んでいても、そもそも生を受けたこと自体が奇跡的であることは
分かる。従い、「小さな悩み」でそれを摩耗させるべきではない。
良く出来た一冊だと思う。年始年末に一気に読めて大変勉強になった。再読の効く本ゆえ、いつかゆっくり
もう一度読む所存だ。最後に付け加えると、本書を人前で読む際には気を付けた方が良い。良質のユーモア
で爆笑してしまう場面がかなりあるからだ。