『2つ目の窓』 河瀬直美

河瀬の作品はわりと観てきた方だ。話によると本作を河瀬は自身の最高傑作と言っているらしい。
その話が本当かどうかは分からない。しかし、非常に面白く鑑賞出来た。
本作のテーマは母親と主人公の話ということなのだろう。
主人公は海を嫌っている。海に入るとべとべとして気持ち悪いと言っているらしい。
べたべたさは、そのまま、主人公が母親に持っている感情に繋がる。「男にだらしのない母親」
は即ち「べとべとした海」である。「海という字の中に母が居る」とは三好達治の詩にもあった
言葉だ。
では主人公にとってヒロインとは何か。一見して分かる通り、ヒロインと主人公の母親は
酷似している。主人公を誘惑しようとするヒロインに踏み込めない主人公は、ヒロインの中に
母親を見ていたはずだ。主人公がヒロインに誘われても、セックスに踏み出せない理由は
インセストタブーと言っても良い。
従い、ヒロインはもう一人の母親といえる。従い、本作は主人公が「母親」と
「ヒロイン」と「海」に囲まれてしまっているということが基本的な構図であり、その囲いから
抜け出るまでの物語が本作だ。
本作は「通過儀礼」に満ち満ちている。二回登場したヤギの屠殺場面やヒロインの母の死、
台風の到来などは全て通過儀礼と言える。主人公は、かかる通過儀礼を通り抜けることで
成長していく。最後の場面でヒロインと行う性行為も、通過儀礼の一つと言える。それを通り抜けた
ことで初めて主人公は、海で泳ぐことが出来る。「海を嫌った主人公」が「海を抱く」ところで本作は終わる。
奄美大島と、その海が美しい。河瀬は従来は奈良の山を描くのが上手だった。今回、海を
舞台としたことで、新しい境地を感じさせた。本作は従来の河瀬作品に比べると、物語性が
強くなっている。若干あざとい物語が、いささかの説教臭にもつながっている。それでも
主人公とヒロインの存在感によって脱臭出来ている。相変わらず横顔を撮らせると河瀬はうまい。
最後にヒロインの吉永という女優には感銘を受けたことを付け加えたい。ただしく「女優」である。
その話が本当かどうかは分からない。しかし、非常に面白く鑑賞出来た。
本作のテーマは母親と主人公の話ということなのだろう。
主人公は海を嫌っている。海に入るとべとべとして気持ち悪いと言っているらしい。
べたべたさは、そのまま、主人公が母親に持っている感情に繋がる。「男にだらしのない母親」
は即ち「べとべとした海」である。「海という字の中に母が居る」とは三好達治の詩にもあった
言葉だ。
では主人公にとってヒロインとは何か。一見して分かる通り、ヒロインと主人公の母親は
酷似している。主人公を誘惑しようとするヒロインに踏み込めない主人公は、ヒロインの中に
母親を見ていたはずだ。主人公がヒロインに誘われても、セックスに踏み出せない理由は
インセストタブーと言っても良い。
従い、ヒロインはもう一人の母親といえる。従い、本作は主人公が「母親」と
「ヒロイン」と「海」に囲まれてしまっているということが基本的な構図であり、その囲いから
抜け出るまでの物語が本作だ。
本作は「通過儀礼」に満ち満ちている。二回登場したヤギの屠殺場面やヒロインの母の死、
台風の到来などは全て通過儀礼と言える。主人公は、かかる通過儀礼を通り抜けることで
成長していく。最後の場面でヒロインと行う性行為も、通過儀礼の一つと言える。それを通り抜けた
ことで初めて主人公は、海で泳ぐことが出来る。「海を嫌った主人公」が「海を抱く」ところで本作は終わる。
奄美大島と、その海が美しい。河瀬は従来は奈良の山を描くのが上手だった。今回、海を
舞台としたことで、新しい境地を感じさせた。本作は従来の河瀬作品に比べると、物語性が
強くなっている。若干あざとい物語が、いささかの説教臭にもつながっている。それでも
主人公とヒロインの存在感によって脱臭出来ている。相変わらず横顔を撮らせると河瀬はうまい。
最後にヒロインの吉永という女優には感銘を受けたことを付け加えたい。ただしく「女優」である。