「ロラン・バルト」 石川美子
年始に楽しく読了した。
著者はロラン・バルトを呼ぶにあたり、巻頭から27頁までは「ロラン」と呼び、28頁から巻末まで
著者はロラン・バルトを呼ぶにあたり、巻頭から27頁までは「ロラン」と呼び、28頁から巻末まで
は「バルト」と呼んでいる。なぜ著者がロラン・バルトの呼称を途中で変えたのかを考えることはヒントになる。
28頁ではバルトが初めて新聞に論文を載せたことが紹介される。それを著者は「デビュー」と呼んでいる。
デビュー前をロランと呼び、デビュー後をバルトと呼ぶことにするという著者の決断があったはずだ。
では、それは何を意味するのだろうか。
例えばロランというファーストネームを「彼自身のプライベートな部分」を意味させ、バルトというファミリーネームを「批評家としてのパブリックな部分」を意味させると考える。この考えが著者にとって、しいてはバルトにとって、正しいかどうかは僕には分からない。但し、「何が正しいかを押し付けることを回避する」というバルトの精神に則るなら、僕のこの「前提」も「正しいものの一つ」と考えてもよかろう。
そう考えると、著者はバルトの「デビュー前のプライベートな部分」に重きを置いてきたと読めてくる。
本書の通奏低音として、著者はバルトの母親を選んでいる。バルトは母親の影響を強く受けてきた様子だ。それは幼少の体験だけではなく、その母の死の際も同様であったと描かれている。バルト自身が60歳を超えている年齢にも拘わらず、老母の死去に強く影響を受けた様は、美しい情景の一つとして本書の白眉である。
そんなプライベートな事象が、どれだけパブリックな「バルト」という存在に影響を与えてきたのかを
本書ではじっくり描かれている。であればこそ、著者は、デビュー前のバルトをロランと呼び、その重要性
を暗示したのではなかろうか。そんな風に読む読み方も許されるような気がする。なにせ、一つの意味を
迫ることを強く忌避した方について語る本であるのだから。
本書を読んでバルト自身の本も読もうと強く思った。
28頁ではバルトが初めて新聞に論文を載せたことが紹介される。それを著者は「デビュー」と呼んでいる。
デビュー前をロランと呼び、デビュー後をバルトと呼ぶことにするという著者の決断があったはずだ。
では、それは何を意味するのだろうか。
例えばロランというファーストネームを「彼自身のプライベートな部分」を意味させ、バルトというファミリーネームを「批評家としてのパブリックな部分」を意味させると考える。この考えが著者にとって、しいてはバルトにとって、正しいかどうかは僕には分からない。但し、「何が正しいかを押し付けることを回避する」というバルトの精神に則るなら、僕のこの「前提」も「正しいものの一つ」と考えてもよかろう。
そう考えると、著者はバルトの「デビュー前のプライベートな部分」に重きを置いてきたと読めてくる。
本書の通奏低音として、著者はバルトの母親を選んでいる。バルトは母親の影響を強く受けてきた様子だ。それは幼少の体験だけではなく、その母の死の際も同様であったと描かれている。バルト自身が60歳を超えている年齢にも拘わらず、老母の死去に強く影響を受けた様は、美しい情景の一つとして本書の白眉である。
そんなプライベートな事象が、どれだけパブリックな「バルト」という存在に影響を与えてきたのかを
本書ではじっくり描かれている。であればこそ、著者は、デビュー前のバルトをロランと呼び、その重要性
を暗示したのではなかろうか。そんな風に読む読み方も許されるような気がする。なにせ、一つの意味を
迫ることを強く忌避した方について語る本であるのだから。
本書を読んでバルト自身の本も読もうと強く思った。
俳句について その1
俳句という形式の詩について考えている。
俳句の特徴は、基本的には十七文字という制限を受けている点にある。
制限を受けるということは、不自由を意味することが普通であろう。但し俳句の場合には
かかる制限を受けていることこそが、真髄である。
俳句の本質とは「捨てること」だと考えてみる。
無数の文字と言葉があるなかから十七文字だけを選ぶことは、十七文字以外の全ての可能性を
捨てる作業でもある。
無限に捨てていく作業を通じて、俳句の作者は、俳句の読者に、自分が何を捨てているのかを
見せていくことになる。
その捨て方の手さばきが、即ち、俳句という詩である。
その意味では俳句は手さばきという「動作」を見せることなのかもしれない。
「糧は野に在り」 かくまつとむ
年初に一気に読み終えた。
本書を読んでいると、人間も獣の一種であることが良く分かる。雑食であるだけに
食べ物を集める方法は実にいろいろであるが、「食べ物を集める」ことに腐心している
姿は、食べ物を探してうろつく動物と基本的に同じであることが分かる。
もちろん、人間が今のように繁栄してこれたのは、「食べ物を集める」方法が洗練されて
きたからだ。本書で紹介される採集生活はついこの間まで日本全国で行われてきたことも
考えると、ここ50年の洗練さには目を瞠るものがあると言って良い。
但し、その「洗練」の過程において、見失ってきたものもある点が本書の読み応えと
なっている。ここで登場する人たちは、スタンドアローンで生活できる方ばかりだ。
一方、振り返って自分を考えてみると、ある意味ではまるで生活力がない。食べ物とは
「採集する」ものではなく、「買う」ものになってしまっている自分に気が付いて、やや
苦笑した次第だ。
自分が獣の一種であると考えることは自分を相対化することである。自分を絶対視している
ことは人間の大きな過ちの一つであると僕は考えている。従い、本書は面白い。
本書を読んでいると、人間も獣の一種であることが良く分かる。雑食であるだけに
食べ物を集める方法は実にいろいろであるが、「食べ物を集める」ことに腐心している
姿は、食べ物を探してうろつく動物と基本的に同じであることが分かる。
もちろん、人間が今のように繁栄してこれたのは、「食べ物を集める」方法が洗練されて
きたからだ。本書で紹介される採集生活はついこの間まで日本全国で行われてきたことも
考えると、ここ50年の洗練さには目を瞠るものがあると言って良い。
但し、その「洗練」の過程において、見失ってきたものもある点が本書の読み応えと
なっている。ここで登場する人たちは、スタンドアローンで生活できる方ばかりだ。
一方、振り返って自分を考えてみると、ある意味ではまるで生活力がない。食べ物とは
「採集する」ものではなく、「買う」ものになってしまっている自分に気が付いて、やや
苦笑した次第だ。
自分が獣の一種であると考えることは自分を相対化することである。自分を絶対視している
ことは人間の大きな過ちの一つであると僕は考えている。従い、本書は面白い。
「 i am sam 」
勤務先の方に紹介されて、元旦の朝3時から鑑賞した映画である。
障害者とその娘という設定は重い。正面から造ってしまうと、非常に理屈っぽいものか、
安易なお涙頂戴映画か、悲劇、になり下がってしまう可能性が高い。本作は「正面から造っている」
のだが、かかるリスクを免れた作品になっている。
まずショーンペンが理屈っぽさを避けさせている。
彼の演技力と、ある種の聡明さが堅苦しさを無くしていっている。障害を持つ彼が、実は周囲の人を救っている
という主題は本作の第一テーマである。例えばドストエフスキーの「白痴」をここで思いだしても良い。障害を
持つ方が、実は神に近い存在であるという話は世界でも共通している。
次に「お涙」部分である。
本作での法廷シーンは良く出来ている。主人公と弁護士を追い詰める
判事の見せるある種の苦悩は、ある意味では極めて現実的な部分だ。本作を観ている僕にしても
本当に、父親が娘を育てることができるのかどうか疑問がある。そういう「現実」を判事に
担わせることで、本作の重厚さが増している。安易な造りにはなっていない。
最後に「悲劇」である。
僕は本作を観ているうちに邦画の「くちづけ」という作品を思いだした。「くちづけ」は健常者の
父と障害を持つ娘の話である。最後は病気で余命が無い父が娘の将来を案じて娘を殺害してしまう
という悲劇だ。
本作は話を悲劇には持っていっていない。これは、米国という国が障害を持つ方に暖かい視線を
持っているからではないか。僕はそう考えた。
僕は米国人ではなく、米国に住んだこともない。従い、上記は僕の誤解なのかもしれない。それでも
たまに訪れる米国では障害を持つ方が働かれていたりする場面を結構目にしてきた。例えば、車椅子で
外出されている方を見ることは日本よりも米国での方が遥かに多い気がする。これは、「車椅子で外出すること」
への抵抗が米国の方が少ないからではないかと思っている。
丁寧に造られた作品だ。ハリウッドも、やれば出来るではないかと改めて思った。アクションシーンや
特撮だけに頼るのが映画ではないはずだ。
障害者とその娘という設定は重い。正面から造ってしまうと、非常に理屈っぽいものか、
安易なお涙頂戴映画か、悲劇、になり下がってしまう可能性が高い。本作は「正面から造っている」
のだが、かかるリスクを免れた作品になっている。
まずショーンペンが理屈っぽさを避けさせている。
彼の演技力と、ある種の聡明さが堅苦しさを無くしていっている。障害を持つ彼が、実は周囲の人を救っている
という主題は本作の第一テーマである。例えばドストエフスキーの「白痴」をここで思いだしても良い。障害を
持つ方が、実は神に近い存在であるという話は世界でも共通している。
次に「お涙」部分である。
本作での法廷シーンは良く出来ている。主人公と弁護士を追い詰める
判事の見せるある種の苦悩は、ある意味では極めて現実的な部分だ。本作を観ている僕にしても
本当に、父親が娘を育てることができるのかどうか疑問がある。そういう「現実」を判事に
担わせることで、本作の重厚さが増している。安易な造りにはなっていない。
最後に「悲劇」である。
僕は本作を観ているうちに邦画の「くちづけ」という作品を思いだした。「くちづけ」は健常者の
父と障害を持つ娘の話である。最後は病気で余命が無い父が娘の将来を案じて娘を殺害してしまう
という悲劇だ。
本作は話を悲劇には持っていっていない。これは、米国という国が障害を持つ方に暖かい視線を
持っているからではないか。僕はそう考えた。
僕は米国人ではなく、米国に住んだこともない。従い、上記は僕の誤解なのかもしれない。それでも
たまに訪れる米国では障害を持つ方が働かれていたりする場面を結構目にしてきた。例えば、車椅子で
外出されている方を見ることは日本よりも米国での方が遥かに多い気がする。これは、「車椅子で外出すること」
への抵抗が米国の方が少ないからではないかと思っている。
丁寧に造られた作品だ。ハリウッドも、やれば出来るではないかと改めて思った。アクションシーンや
特撮だけに頼るのが映画ではないはずだ。
「けもの道の歩き方」 千松信也
著者の前作が面白かったので本書を見つけると直ぐに購入した。
前作の際には著者の「遊び心」を強く感じ、それをレビューにも書いた。著者もまだ若く、
狩猟を「遊ぶ」気持ちが溢れている一冊であったことを覚えている。
前作はその後文庫化され、多くの方が読んだ様子だ。では今回も同様の内容なのだろうか。
結論的に言うと、かなり違った一冊となっている。内容の違いから著者の成熟が見えてくる。
その後も狩猟を続ける中で家族も成し、子供に自然の見方を教える著者の背中は、7年前の
遊び好きの若者のそれとはかなり違ってきている。
一番の変化は、猟師というものへの著者の見方なのだと思う。本作を読むと、著者は
猟師というものを、大きな自然のサイクルの中にきちんと入れこんでいることが分かる。
猟を行うという「人為」も、一歩引いて眺めていると「自然の営みの一つ」であることを
著者は繰り返し語っている。例えば205頁にて著者は以下を言う。
「僕が狩猟を続ける理由はいろいろあるが、そのうちの一つに自然界の生態系の中に
入っていきたい、野生動物の仲間に交ぜてもらいたいという気持ちがある」
ここで著者は猟師という存在も、自然界の一部の「自然な存在」として捉えている。この
ような人間を相対視する見方は、森の中で動物として歩いてきた猟師の経験から産まれて
きている。それを僕はある種の成熟と感じた。
著者は安っぽい自然保護に対して警鐘を鳴らしている。自然を知らない人が無責任に
「自然を守れ」という事に強く反発している。それはとりもなおさず、「本当の自然とは
何か」を突き詰める機会があった著者ならではの意見だ。僕自身は基本的には都市部に
住み、「無責任な」立場にある。であるがゆえに、本書は実に面白い。自分を相対化
することが出来るからである。
前作の際には著者の「遊び心」を強く感じ、それをレビューにも書いた。著者もまだ若く、
狩猟を「遊ぶ」気持ちが溢れている一冊であったことを覚えている。
前作はその後文庫化され、多くの方が読んだ様子だ。では今回も同様の内容なのだろうか。
結論的に言うと、かなり違った一冊となっている。内容の違いから著者の成熟が見えてくる。
その後も狩猟を続ける中で家族も成し、子供に自然の見方を教える著者の背中は、7年前の
遊び好きの若者のそれとはかなり違ってきている。
一番の変化は、猟師というものへの著者の見方なのだと思う。本作を読むと、著者は
猟師というものを、大きな自然のサイクルの中にきちんと入れこんでいることが分かる。
猟を行うという「人為」も、一歩引いて眺めていると「自然の営みの一つ」であることを
著者は繰り返し語っている。例えば205頁にて著者は以下を言う。
「僕が狩猟を続ける理由はいろいろあるが、そのうちの一つに自然界の生態系の中に
入っていきたい、野生動物の仲間に交ぜてもらいたいという気持ちがある」
ここで著者は猟師という存在も、自然界の一部の「自然な存在」として捉えている。この
ような人間を相対視する見方は、森の中で動物として歩いてきた猟師の経験から産まれて
きている。それを僕はある種の成熟と感じた。
著者は安っぽい自然保護に対して警鐘を鳴らしている。自然を知らない人が無責任に
「自然を守れ」という事に強く反発している。それはとりもなおさず、「本当の自然とは
何か」を突き詰める機会があった著者ならではの意見だ。僕自身は基本的には都市部に
住み、「無責任な」立場にある。であるがゆえに、本書は実に面白い。自分を相対化
することが出来るからである。
「ゴーン ガール」
会社の上司に推薦されたので観る機会を得た。自分の好みだけで映画を観ているとジャンルが
限られてしまう。時には、人の勧めで映画を観ることも大事である。本作もかかる推薦がなければ
出会わなかったかもしれない。結論的には非常に面白かった。
本作をミステリーや謎解き映画だと考えると、やや理解を誤る気がする。
本作の前半部分はミステリーとして、それなりに精緻な作り込みがある。しかるに、
ある段階で、監督はいきなり全て手の内をばらしてしまう。
手の内をばらした後の「犯罪」はいささか場当たり的な印象を受ける。ヒロインのその後の
行動は、前半部分のそれと比べると雑であり、稚拙である。警察にしても、弁護士にしても
ヒロインが虚偽の申告をしていることを正確に理解している。犯罪者としてはB級と言える。
従い、犯罪映画としての出来を問うなら、決して第一級ではない。
但し、監督はそれを承知の上で本作を作り込んでいる。本作のテーマを主人公のマザー
コンプレックスであると仮定すると、観ている風景が変わってくる。
主人公の母親は癌で亡くなったことが語られる。主人公が母の死をどう受け止めたのかは
はっきりとは描かれていない。但し、この物語は病気の母を看病しようと妻と共に故郷に
帰ったところから始まっているように思える。
同様に主人公は双子の姉に強く依存している。作中で「近親相姦」を噂する場面もあるが
「兄妹の相姦」ではなく、「母と息子の相姦」という見方をするとそう見えなくもない。
そして何よりヒロインと主人公の力関係を見ていると、マザコンの一種に見えてくる。
主人公は、ヒロインの悪魔性を理解しながらも、支配され、結局依存して行ってしまう。
そこが本作の一番の怖さだ。
ヒッチコックの「レベッカ」へのオマージュ作品である。「レベッカが生きていたらこうなったろう」
と強く思いながら鑑賞を続けた。その意味では、本作はヒッチコックを継承する一作とも言える。
限られてしまう。時には、人の勧めで映画を観ることも大事である。本作もかかる推薦がなければ
出会わなかったかもしれない。結論的には非常に面白かった。
本作をミステリーや謎解き映画だと考えると、やや理解を誤る気がする。
本作の前半部分はミステリーとして、それなりに精緻な作り込みがある。しかるに、
ある段階で、監督はいきなり全て手の内をばらしてしまう。
手の内をばらした後の「犯罪」はいささか場当たり的な印象を受ける。ヒロインのその後の
行動は、前半部分のそれと比べると雑であり、稚拙である。警察にしても、弁護士にしても
ヒロインが虚偽の申告をしていることを正確に理解している。犯罪者としてはB級と言える。
従い、犯罪映画としての出来を問うなら、決して第一級ではない。
但し、監督はそれを承知の上で本作を作り込んでいる。本作のテーマを主人公のマザー
コンプレックスであると仮定すると、観ている風景が変わってくる。
主人公の母親は癌で亡くなったことが語られる。主人公が母の死をどう受け止めたのかは
はっきりとは描かれていない。但し、この物語は病気の母を看病しようと妻と共に故郷に
帰ったところから始まっているように思える。
同様に主人公は双子の姉に強く依存している。作中で「近親相姦」を噂する場面もあるが
「兄妹の相姦」ではなく、「母と息子の相姦」という見方をするとそう見えなくもない。
そして何よりヒロインと主人公の力関係を見ていると、マザコンの一種に見えてくる。
主人公は、ヒロインの悪魔性を理解しながらも、支配され、結局依存して行ってしまう。
そこが本作の一番の怖さだ。
ヒッチコックの「レベッカ」へのオマージュ作品である。「レベッカが生きていたらこうなったろう」
と強く思いながら鑑賞を続けた。その意味では、本作はヒッチコックを継承する一作とも言える。
「スターウォーズ フォースの覚醒」
スターウォーズの新作を鑑賞した。映画館で映画を観るのも4年ぶりである。
スターウォーズを初めて観たのは僕が中学2年の際であった。あの体験が僕を決定的に映画好きに
したと思っている。その次の「帝国の逆襲」は高校2年、「ジェダイの帰還」が大学1年である。学生時代に
綺麗に重なっていた。
次の3部作が始まった1999年はタイに駐在中であった。社会人になって12年経ったころだ。タイの
映画館に、妻と見に行ったものだ。字幕がタイ語である点を除けば快適な映画館であった。次の作品は
2002年であり、タイから帰国した後である。次が2005年であり、会社でも初めて小さな管理職に
ついた頃である。そのころは映画館ではなく、DVDで鑑賞した。
今回の作品を観ていて、不覚ながら涙ぐんでしまう場面がいくつかあった。ハンソロが出て来た場面、レイア
が出て来た場面、そうしてルークが出て来た場面である。ハリソンフォードにしても、キャリーフィッシャーにしても、マークハミルにしてもきちんと年を取っていたことが分かったことに強い印象を受けたからだ。特に、キャリーやマークはスターウォーズの初期3部作以外には殆ど映画に出ていない。久しぶりに見た彼らが懐かしかった
ことも一因だろう。
但し、何が一番迫ってきたのかというと、年を取った彼らと、同じく年を取った自分自身が重なった点である。
彼らと同時代に生きて、同じ時間の中で年を取ってきた僕である。映画館で僕の隣に、中学の自分を見た
ような気がした。スターウォーズの1作目に魅入られていた、あのころの自分である。
次作は2017年らしい。楽しみだ。それまで更にきちんと自然に年を取ろう。
イノベーションの敵は ファイナンスである
「イノベーションの敵は ファイナンスである」
今朝の日経新聞で紹介されていた記事である。なかなか笑ってしまった。
ファイナンス理論自体は、かなりinnovatieであるとは思う。但し、それが一つの呪縛になる
可能性も否定すべきではないということなのだろう。
僕らは数字で物事を整理し、管理することを覚えてきた。それはそれでとても便利なのかと
思うが、数字では掬い取れないものに、やや鈍感になってきているのかもしれない。そう考える
ことは、常に大事だと思うべきではないか。

