「 i am sam 」  | くにたち蟄居日記

「 i am sam 」 


 勤務先の方に紹介されて、元旦の朝3時から鑑賞した映画である。

 障害者とその娘という設定は重い。正面から造ってしまうと、非常に理屈っぽいものか、
安易なお涙頂戴映画か、悲劇、になり下がってしまう可能性が高い。本作は「正面から造っている」
のだが、かかるリスクを免れた作品になっている。

 まずショーンペンが理屈っぽさを避けさせている。
 彼の演技力と、ある種の聡明さが堅苦しさを無くしていっている。障害を持つ彼が、実は周囲の人を救っている
という主題は本作の第一テーマである。例えばドストエフスキーの「白痴」をここで思いだしても良い。障害を
持つ方が、実は神に近い存在であるという話は世界でも共通している。

 次に「お涙」部分である。
 本作での法廷シーンは良く出来ている。主人公と弁護士を追い詰める
判事の見せるある種の苦悩は、ある意味では極めて現実的な部分だ。本作を観ている僕にしても
本当に、父親が娘を育てることができるのかどうか疑問がある。そういう「現実」を判事に
担わせることで、本作の重厚さが増している。安易な造りにはなっていない。

 最後に「悲劇」である。
 僕は本作を観ているうちに邦画の「くちづけ」という作品を思いだした。「くちづけ」は健常者の
父と障害を持つ娘の話である。最後は病気で余命が無い父が娘の将来を案じて娘を殺害してしまう
という悲劇だ。
 本作は話を悲劇には持っていっていない。これは、米国という国が障害を持つ方に暖かい視線を
持っているからではないか。僕はそう考えた。
 僕は米国人ではなく、米国に住んだこともない。従い、上記は僕の誤解なのかもしれない。それでも
たまに訪れる米国では障害を持つ方が働かれていたりする場面を結構目にしてきた。例えば、車椅子で
外出されている方を見ることは日本よりも米国での方が遥かに多い気がする。これは、「車椅子で外出すること」
への抵抗が米国の方が少ないからではないかと思っている。

 丁寧に造られた作品だ。ハリウッドも、やれば出来るではないかと改めて思った。アクションシーンや
特撮だけに頼るのが映画ではないはずだ。