花見
花見の季節となった。
と言うと、大概の人は訝しがる気がする。花見というと普通は桜の花を見ることを指すからだ。
確かに日本で花の王というと桜だろう。いや、櫻と書いた方が漢字としても美しい。
但し、と考えることは常に大事である。但し、花見は本当に櫻だけなのだろうか。
五月の時期に散歩していると、家々で色々な花を咲かせていることに感心する。家ごとの好みや、
ちょっと大げさに言うと、哲学めいたものも感じ取れる。
鉢植えをこまめに置いて、色々な色合を楽しんでいる家がある。
その昔にスイスのベルンに行った際にベランダに鉢植えを置いて、石畳の街を彩っていたことを思いだす。アインシュタインの住んでいた家も、クレーの絵を置いた美術館も、石とゼラニウムに囲まれていた。
一方、庭に野放図に花を咲かせている家もある。まるで一筆書きのように花が咲いている。乱暴といえば
乱暴にも見える。但し、植物の勢いを感じることも確かだ。
植物は移動できないが、茎や葉を伸ばす際に時として暴力的なものを感じさせることもある。実際に
植物がアスファルトを持ちあげているような場面もあるではないか。庭を蹂躙しているかのように花が
咲いているのを見ることも結構楽しいものだ。
そんな風にして街を散歩する。これを花見と言わずして何というべきなのだろうか。
ヒコイワシに巡り合えない日々
4月の終わりから5月の初めの時期に鎌倉に出かけることが習慣となっている。正確に言うと
小田急線の片瀬江ノ島駅で降りて、ぶらぶらと江ノ電の江ノ島駅まで歩き、腰越という地名に
なったあたりにある鮨屋「東家」に入ってお昼ご飯に刺身と麦酒を飲むというものだ。
もう10年以上も繰り返してきている。その間に海外に住んでいた時期は別ではあるが。
東家ではいつも、ヒコイワシを頼む。といっても、めったにないので、いつも「今日も無いのですよ」
という答えを貰うだけだ。それでも、なんとなく食べた気になるから不思議である。
麦酒を数杯飲んで腰越の海岸に出かける。その時期の海風はまだ肌寒いこともあるが、水平線を
ぼんやり眺めているにはちょうど良い時期だ。もうすぐ暑くて、砂浜に立っていることも出来なくなる。
それにしても海も変わらないし、海に浮かんでいる江ノ島も変わらない。変わってきたのは、ぼんやり
している僕自身と、大概は一緒に来ている、妻だけかもしれない。そう考えることは無常を思う事
なのかもしれない。そういえば小林秀雄は「常なるものを見失った」と現代人を評していたことも
思いだした。麦酒を飲むとどうでもよいことを思いだすものだ。
夢は、個人に属する神話で、神話は個人を排した夢である
「夢は、個人に属する神話で、神話は個人を排した夢である」
-「千の顔を持つ英雄」-
読んでいてなるほどと唸ったところである。神話と夢との相似性と相違性がきれいに
書かれた一文だと思った。
「闇を裂く道」 吉村昭

書店で偶然本作を見つけて購入し読み始めた。一気に読み終わった。本作の感想は二点である。
一点目。
吉村の作品では「名も無い英雄」が登場することが多い。歴史に名前が残ったわけでもなく、むしろ市井の人が
極限の状況の中で見事な力と人間性を発揮する姿を吉村は好んで書いて来ている。
本作においてもかかる「英雄」は何人か出てくる。
落盤でトンネルの中に取り残された現場責任者は仲間を励まし続けて全員無事救助にこぎつける。
トンネル工事の影響で渇水に追い込まれた地上の村を纏めようとする地元の重鎮は最後まで矜持を
持ち続けて国と対峙する。
そんな村を共に救おうと国と闘う県の職員は大臣の面前で手を骨折するほど机にたたきつけ、
村を救うことを迫り、成し遂げる。
どの方も歴史には残らないかもしれないが、その毅然とした所作を吉村は愛情と尊敬を込めて
描き出している。そんな吉村の視線が読んでいて厳しくも暖かい。
二点目。
本作は丹那隧道を掘り続ける話だが、同時に、その時代の日本をきちんと書き込んでいる。
第一次大戦後に混乱に陥る日本と、困窮を極めるトンネル事業は重なるものがある。どちらも
時代に翻弄されているという点では実は同じと言える
国策を背負って丹那の地下に挑戦する群像は、世界に対して挑戦していく日本を綺麗に象徴している。
その後の歴史を知っている僕らとしては読んでいて辛いものがあるにせよ、時代と闘ったという
姿にはある種の清々しさを読み取っても良いのではなかろうか。
吉村の本は面白いと改めて感じ入った次第だ。こういう作家を今の日本は持っているのだろうか。
一点目。
吉村の作品では「名も無い英雄」が登場することが多い。歴史に名前が残ったわけでもなく、むしろ市井の人が
極限の状況の中で見事な力と人間性を発揮する姿を吉村は好んで書いて来ている。
本作においてもかかる「英雄」は何人か出てくる。
落盤でトンネルの中に取り残された現場責任者は仲間を励まし続けて全員無事救助にこぎつける。
トンネル工事の影響で渇水に追い込まれた地上の村を纏めようとする地元の重鎮は最後まで矜持を
持ち続けて国と対峙する。
そんな村を共に救おうと国と闘う県の職員は大臣の面前で手を骨折するほど机にたたきつけ、
村を救うことを迫り、成し遂げる。
どの方も歴史には残らないかもしれないが、その毅然とした所作を吉村は愛情と尊敬を込めて
描き出している。そんな吉村の視線が読んでいて厳しくも暖かい。
二点目。
本作は丹那隧道を掘り続ける話だが、同時に、その時代の日本をきちんと書き込んでいる。
第一次大戦後に混乱に陥る日本と、困窮を極めるトンネル事業は重なるものがある。どちらも
時代に翻弄されているという点では実は同じと言える
国策を背負って丹那の地下に挑戦する群像は、世界に対して挑戦していく日本を綺麗に象徴している。
その後の歴史を知っている僕らとしては読んでいて辛いものがあるにせよ、時代と闘ったという
姿にはある種の清々しさを読み取っても良いのではなかろうか。
吉村の本は面白いと改めて感じ入った次第だ。こういう作家を今の日本は持っているのだろうか。
「白蛇抄」 伊藤俊也

小柳ルミ子が脱いだことで名高い映画と聞くが、正直それだけに終わっている。
小柳ルミ子以外にも、夏八木勲、若山富三郎、北村谷栄等の名優が脇を固めているが、
いかんせん脚本が映画の呈を為していない。何より「死」というものを描ききれていない。
僕は鑑賞しながら、いつ主人公が死ぬのだろうとずっと思っていた。いくつかの場面で
主人公の死が強く示唆されたが、いずれも次の場面で主人公は涼しい顔をしている。
死を示唆していた場面が大ケレンであったことより、落差の大きい設定となってしまっている。
時として落差は映画にスパイスと、なにがしかの真実味を与えるのであるが本作では
そうなっていない。
こうなると感情移入自体が難しくなる。一言で言うと、「作品を信じられなくなる」
ということだ。正しい観客としての資格と視覚を欠いたまま、ぼんやりと時間が過ぎて
しまうだけである。
小柳ルミ子ご本人が本作をどう評価されているのだろうか。美しさは際立っていただけに
ちょっと惜しい気がした。
小柳ルミ子以外にも、夏八木勲、若山富三郎、北村谷栄等の名優が脇を固めているが、
いかんせん脚本が映画の呈を為していない。何より「死」というものを描ききれていない。
僕は鑑賞しながら、いつ主人公が死ぬのだろうとずっと思っていた。いくつかの場面で
主人公の死が強く示唆されたが、いずれも次の場面で主人公は涼しい顔をしている。
死を示唆していた場面が大ケレンであったことより、落差の大きい設定となってしまっている。
時として落差は映画にスパイスと、なにがしかの真実味を与えるのであるが本作では
そうなっていない。
こうなると感情移入自体が難しくなる。一言で言うと、「作品を信じられなくなる」
ということだ。正しい観客としての資格と視覚を欠いたまま、ぼんやりと時間が過ぎて
しまうだけである。
小柳ルミ子ご本人が本作をどう評価されているのだろうか。美しさは際立っていただけに
ちょっと惜しい気がした。
「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾 」 角田房子

考えながら読んでいた。
誤解を恐れずにいうと、敗戦時に陸軍大臣でなかったら、いささか凡庸な軍人で
終わった可能性が高い気がする。本書を読む限り、阿南という方は目から鼻に抜ける
ような怜悧さも持ち合わせていなかった様に見える。また本書においても「阿南は
政治家ではなかった」という記述もあった。策を弄して、政治の場面で活躍する
こともなったろう。
そういう、やや平凡な方が時と状況を得て、特別な働きをするに至る過程が
本書である。
阿南が降伏を望んだのかどうか。著者は、真相は分からないとする一方、「降伏を
望んでいた」ということを強く希求していることはよく伝わってくる。著者が歴史家
であったのなら、かかる姿勢は「予断」と言える。但し、著者は小説家であり、「阿南が
好きになった」とあとがきで断言する女性でもある。掛かる立場の方が、愛する男性を
いささか自分の望む方向に描き出すことはだれにも責められないはずだ。
僕も著者の阿南に対する偏愛に乗って本書を読んだ。阿南が終戦に際して陸軍を抑え込む
代わりに腹芸で勇ましいことを言い放ち、最後は自刃することで、陸軍を纏めたという
話は読んでいて感動的である。是非、真実もそうあってほしいと心から思わされた。
繰り返すが、阿南は敗戦時の陸軍大臣であったことである種の光芒を放った。結果として
自刃に至ったにせよ、阿南は幸せだったと僕は思う。戦後の復興は、かかる、平凡な男の
非凡な功績の上になりたったことを忘れるべきではない。
インターネットの基本哲学が『オープン』だったからだ
「インターネットが世の中を大きく変えたのは、インターネットの基本哲学が『オープン』だった
からだと言っても過言ではない。『オープン』とは、所与の公的ルールに従うことを条件に
誰もが参加し何にでも利用できるということだ」
ーー「IOTとは何か」 113頁 坂村健 --
「オープン」という言葉を考えることは頭の訓練になる。
個人情報という言い方がある。個人的なことを「オープン」しないという意味で使われる言葉なのだと
思う。「それは個人情報です」という言葉と「それは公開出来ません」という言葉はほぼ同意義である。
但し、面白いのは、そう言いながらも僕らは正に個人情報をネットというツールで自ら公にしている面
もあるという点だ。例えば、その人のグーグル検索履歴は、その人の興味の有り様を端的に示すものだ。
その「検索履歴」は、その人自身が入力してきたことを考えると、とても不思議な行為とも思えて
しまう。
僕らは結局のところ、自身をオープンにしている。そうせざるを得なくなっていると言っても良い。
その上で、上記の「基本哲学」がなりたっているわけだ。そう考えると、案外業の深い話かも
しれない。
人文学は繰り返さない現象を扱うからだ
「人文学という営みはなくならないだろう。
なぜなら自然科学が繰り返す現象を扱うのに対して
人文学は繰り返さない現象を扱うからだ」
いま読んでいる「考える人」という雑誌で紹介された東浩紀の言葉である。
ラッセルの本でも「科学とはわたくしたちに分かっているもの、哲学とはわたくしたち
には分からないものを扱っている」という言葉があった。それと素直に響きあっている
ような気がする。
「海と毒薬」 遠藤周作
遠藤周作の「沈黙」を読んだことで本作を読むことにした。
遠藤の作品は狐狸庵物ばかり読んできたので、「沈黙」は新鮮に読めた。続いて読んだ本作で
今更ながら遠藤という作家のシリアスさが良く分かったところである。
本作の表題は「海と毒薬」である。
「海」は本作では繰り返し描かれる。登場人物を飲みこんでいく「暗い海」は本作の主人公の
一人だ。その「暗い海」とは第二次世界大戦の暗喩であるとも言える。また登場人物一人一人の
心象風景かもしれない。「暗い海」をどう読み取るかは読者の自由に任せられている。
それでは「毒薬」とは何なのだろうか。
本作の登場人物に共通しているのは、ある種の「悪意」である。遠藤なら「罪」と表現するのかも
しれない。時代や状況に流されて「暴力」をふるってきている姿はどの登場人物にも見られる。
ここでおそらく気を付けなくてはならないのは「本当に時代や状況に流されていることが、かかる
暴力の原因なのか」という点なのだと、僕は思う。一見、強いられて暴力を振るっているかのように
見えるが、本当は時代や状況を利用して、元々人間の心にビルドインされている「暴力」を解き放っている
だけではないか。そんな「暴力」を「毒薬」と呼んでいるのではないか。僕にはそう読めた。
本作も怖ろしい作品と言える。遠藤が「沈黙」や本作を通じて何かを凝視している姿が目に
浮かぶ。その凝視には彼が由っていたキリスト教もあるのかもしれない。信者ではない僕には
そこは分からない。
遠藤の作品は狐狸庵物ばかり読んできたので、「沈黙」は新鮮に読めた。続いて読んだ本作で
今更ながら遠藤という作家のシリアスさが良く分かったところである。
本作の表題は「海と毒薬」である。
「海」は本作では繰り返し描かれる。登場人物を飲みこんでいく「暗い海」は本作の主人公の
一人だ。その「暗い海」とは第二次世界大戦の暗喩であるとも言える。また登場人物一人一人の
心象風景かもしれない。「暗い海」をどう読み取るかは読者の自由に任せられている。
それでは「毒薬」とは何なのだろうか。
本作の登場人物に共通しているのは、ある種の「悪意」である。遠藤なら「罪」と表現するのかも
しれない。時代や状況に流されて「暴力」をふるってきている姿はどの登場人物にも見られる。
ここでおそらく気を付けなくてはならないのは「本当に時代や状況に流されていることが、かかる
暴力の原因なのか」という点なのだと、僕は思う。一見、強いられて暴力を振るっているかのように
見えるが、本当は時代や状況を利用して、元々人間の心にビルドインされている「暴力」を解き放っている
だけではないか。そんな「暴力」を「毒薬」と呼んでいるのではないか。僕にはそう読めた。
本作も怖ろしい作品と言える。遠藤が「沈黙」や本作を通じて何かを凝視している姿が目に
浮かぶ。その凝視には彼が由っていたキリスト教もあるのかもしれない。信者ではない僕には
そこは分からない。
忘れなくてはならないこと
ある雑誌を読んでいたら、河瀬直美監督の映画「沙羅双樹」の中のセリフを紹介している
文章に出会った。
その映画は見ているし、DVDで持っている。かかるセリフを忘れていたことは
やや恥じている。こんなセリフだ
「忘れてええことと、忘れたらあかんことと、ほいから忘れなあかんこと」
当たり前なのだが、3つ目の「忘れなあかんこと」という言葉が考えさせるわけである。
「忘れなくてはならないこと」がどのくらいあるのかを考えだすと、結構難しい。僕も50余歳となり
色々と経験してきたわけだが、その中で何を「忘れなくてはならない」のかと問われると
簡単ではない。
但し、皮膚感覚で「忘れなくてはならないもの」があることも確かであると確信している。いつまでも
憶えていてはいけないこと、憶えていることで自分ががんじがらめになってしまっていること。
そんなものはきっと結構あるに違いない。