「冷血」 下巻 高村薫
「照柿」の書評にて以下を書いた。2004年11月の事である。もう14年前だ。
「マークスの山までは 彼女はミステリー作家というジャンルで大活躍する作家『だけ』であったと思う。但し 彼女の硬質な文体から立ち上る文学性に酔っていた僕として
この『照柿』で完全に彼女の『野心』が分かったと思った。即ち 現代のドストエフスキーとも言うべき 一大文学者魂がベールを脱いだ瞬間である。」
14年たった現在として当時の僕の直観は間違っていなかったと本書を読んで思った
ところである。
本書は犯罪小説ではあるものの、謎解きから程遠い作品である。高村はしばしば犯罪を
舞台としているが、それは犯罪というものが極めて人間的であるからだと僕は解して
いる。「人間的」という言葉は曖昧な言葉だ。本作ではまさに主人公の合田は犯人二人
と対峙し、彼らの「人間」というものにいかに迫ろうかということが、合田も含めた
「人間くささ」の中で語られている。
合田は犯人を「理解」しようとしている。その志の高さには感銘を受ける一方、
なぜ合田がそうしたいのかを考えることが僕ら読者側の仕事である。今回取り扱った
残虐な一家惨殺事件は、その動機において最後まで不明となっている。単純にお金目的
だったと整理してファイルにしまってしまえばそれで済む話だ。犯人達は確定しており
刑に処せば終わりである。
但し、合田はそこで腹落ちしない。人が人を意味もなく殺してしまうという
ことが有り得るという事態に驚愕しているようにも見える。合田が犯人達の心の
底に少しづつ降りていく中で見つけたものは、平凡なものばかりであり、それが
惨殺事件に繋がってしまうのかどうかは合田には理解不能だったのではないか。
もっというと合田は自分の中に彼らに似たものも見えたのではないか。そのように
考えていくことが本書を読む醍醐味ではなかろうか。
そんな合田を描くことで高村は何を言いたいのか。僕としてまだ言葉に出来る
段階ではない。14年前の直観があり、今回の一冊がある。次回はいつどのように
高村と出会うのだろうか。これが同時代の作者を読む愉しみである。
「マークスの山までは 彼女はミステリー作家というジャンルで大活躍する作家『だけ』であったと思う。但し 彼女の硬質な文体から立ち上る文学性に酔っていた僕として
この『照柿』で完全に彼女の『野心』が分かったと思った。即ち 現代のドストエフスキーとも言うべき 一大文学者魂がベールを脱いだ瞬間である。」
14年たった現在として当時の僕の直観は間違っていなかったと本書を読んで思った
ところである。
本書は犯罪小説ではあるものの、謎解きから程遠い作品である。高村はしばしば犯罪を
舞台としているが、それは犯罪というものが極めて人間的であるからだと僕は解して
いる。「人間的」という言葉は曖昧な言葉だ。本作ではまさに主人公の合田は犯人二人
と対峙し、彼らの「人間」というものにいかに迫ろうかということが、合田も含めた
「人間くささ」の中で語られている。
合田は犯人を「理解」しようとしている。その志の高さには感銘を受ける一方、
なぜ合田がそうしたいのかを考えることが僕ら読者側の仕事である。今回取り扱った
残虐な一家惨殺事件は、その動機において最後まで不明となっている。単純にお金目的
だったと整理してファイルにしまってしまえばそれで済む話だ。犯人達は確定しており
刑に処せば終わりである。
但し、合田はそこで腹落ちしない。人が人を意味もなく殺してしまうという
ことが有り得るという事態に驚愕しているようにも見える。合田が犯人達の心の
底に少しづつ降りていく中で見つけたものは、平凡なものばかりであり、それが
惨殺事件に繋がってしまうのかどうかは合田には理解不能だったのではないか。
もっというと合田は自分の中に彼らに似たものも見えたのではないか。そのように
考えていくことが本書を読む醍醐味ではなかろうか。
そんな合田を描くことで高村は何を言いたいのか。僕としてまだ言葉に出来る
段階ではない。14年前の直観があり、今回の一冊がある。次回はいつどのように
高村と出会うのだろうか。これが同時代の作者を読む愉しみである。