くにたち蟄居日記 -28ページ目

徒然草 第六十四段

 この段では兼好は、あるランクの牛車に乗れる人の話をしている。これは例えば「会社の役員である

ならば新幹線のグリーン席に乗っても良い」というような話と同じような話のようにも見える。

 

 新幹線のグリーン席や飛行機のビジネスクラスに乗ることが出来るランクは何かということは

サラリーマンにとっては普遍的な話題である。若しくは、欧米であるなら給与交渉の一部として、

「出張の際のフライトのクラス」であるとか「宿泊先のホテルの部屋のランク」が協議されるとも

聞く。個人的には余り本質的な話ではないと思ってきている。それは僕の体が大きくないので

スペースが死活的な問題ではないからかもしれない。

 

 一方、この手の話は「他人への見せ方」という点にも収斂する事は理解しやすい。「一定以上の

ランクの座席や部屋を使うことが許される立場である」ことが明示的にあることが心地よいという

点は分かりやすい話ではある。

 

 というような事を考えていると、兼好の時代も今の時代も、人間というものは余り変わっていない

という事と思わざるを得ない。虚栄心は人間の本能であると考える方が正しいのかもしれない。

徒然草 第六十三段

 この段では重要な仏教の会の警護に武者を集めることに兼好が疑問を呈している。仏の会に武力を

使うことがおかしいという趣旨なのだろう。

 

 言うまでもなく仏会とは宗教的な行事であるが、それは何かと更に考えると、所詮は政治的な背景が

あるか、私利私欲にたどり着くものではないかと思う。人間とはそんなものだと思う方が正しい

認識だろう。そう考えると、かような会を武力で警備することもさして違和感のない話では

ないだろうか。そんな風にも感じる次第だ。

 

 兼好がどのように仏教を捉えていたのかは僕には分からない。あれほど冷静かつ冷徹に物事を

見ることが出来た知性が、単純に、かつ楽観的に、仏教というものを信じていたのであろうか。

 

丁寧という言葉

 「丁寧」という言葉について考えている。

 

 政治家が何か問題を起こすと「丁寧に説明する」と言ったり「丁寧に説明すべし」と言われたりしている。

大概の場合、丁寧に説明されることは無い様子にて問題の原因究明にはほど遠い結果に終わる感も

あるが、その過程で繰り返される「丁寧」という言葉になんとなく胡散臭いものを感じるように

なってきた。

 言うまでもなく、彼らは極めて「丁寧」に説明しているのだと思う。但し、問題は何に丁寧になっているのか

という点だろう。彼らは、「いかに言質を捉えられないか」、若しくは、「いかに曖昧な説明に終始させるのか」

という点に極めて「丁寧」になっている。

 

 「丁寧」という語源を調べた。ネットで見ると以下とのことだ。

 

 「丁寧は、金属製の楽器の名前に由来する。 昔、中国の軍隊で、警戒や注意を知らせるために鳴らす

 楽器を『丁寧』といった。 そこから、注意深くすることを『丁寧』と言うようになり、細かい点まで注意が

 行き届いていることや、礼儀正しく手厚いことも意味するようになった。」

 

 中国の楽器が語源とは知らなかった。

 

 そういえば黒澤明という映画監督が「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」と言っていたことも

思い出した。丁寧や細心というような言葉には僕らもよくよく気を付けないといけないのかもしれない。

「クリスマスキャロル」 ディケンズ

クリスマス時に本書を再読した。もう今まで何回読んだのか分からない訳だが。

今回はしきりと「感謝される事と感謝する事」という事を思わされた。

 

本書の中のいくつかの感動的なエピソードの一つとしてスクルージの部下のボブクラチット家での

クリスマスの夕食のシーンがある。精霊に連れられたスクルージがクラチット家を訪れた時に、

ボブが「スクルージさんに乾杯」と言い、家族がしぶしぶながらも唱和する所だ。

 

 その場面においてはスクルージは「感謝される」立場にあり、クラチット家は「感謝する」立場に

ある。それまでの本書はスクルージがボブに対してパワハラ的にきつく当たる場面を描いてきているの

で読者としても、かようなボブの対応には驚きと感動を禁じ得ない。

 

 但し、その場面において「感謝される」スクルージは非常に居心地が悪いだろうし、「感謝する」ボブ

は、パワハラ上司を祝福する事で幸福を感じているように見える。それを見ていると「感謝」という

ものは、「される」以上に「する」ものではないかと思えてくる。

 

 「感謝される事」は通常心地よいものの、常にある種の陰があるような気がする。それは「本当に

感謝されるだけの事をやったのか」という反省を必ず強いられるからだ。一方「感謝する事」

にはかような邪念が生じることは少ない。何より、誰かに対して「感謝する事」は実にすがすがしい

ものではないだろうか。

 

 スクルージが三人の精霊に教わったことは「感謝する事」だと僕は読んだ。生まれ変わったスクルージは

ボブを始め、色々な人に感謝をし始めている。そんな「感謝する事」を通じて、スクルージ自身が浄化

されていく点が本書の最大の感動だ。今のハラスメントの時代においても同様だろう。あらゆる意味で

「ハラスメントを行う側」に「相手に・人に・物事に、感謝する」気持ちを注入出来たなら、世界の風景は

一変するのではないだろうか。

徒然草 第六十二段

この段は、ある種のなぞなぞの話の楊である。

 

なぞなぞとは何か。ウェブで調べると以下のように出ていた。

 

「平安中期の『枕草子』には、左右に分かれて謎を出す「なぞなぞあはせ」という遊戯があったことが

残されている。中世以降には、単に「なぞ」とも言うようになり、室町時代には「なぞだて」

など謎を集めたも多い。
なぞなぞの語源となる「謎」は、正体などが不明なものをさす代名詞「何(なに)」に、

助詞の「ぞ」がついた「なにぞ」という連語である。
「なにぞ」を音便化した「なんぞ」という語形も早くから生まれており、

「ん」を表記しない例も見られる。」

 

案外古いものである様子だ。またギリシャ悲劇の「オイディプス」にも、確かスフィンクスとの

なぞなぞの場面もあったことも思い出した。

 

なぞなぞは優れて「言葉」を扱う遊びである。人間は言葉を縦横無尽の扱う事でここまで繁栄して

きたことも確かであろう。一方、神はバビルの塔を建てた人間の傲慢さに対して「言葉をバラバラに

する」という罰を下したことは旧約聖書に出てくるエピソードである。

 

 

「国商  最後のフィクサー 葛西敬之」  森功

葛西という方の名前は良く聞く機会があったが、どのような方なのか知らなかった。本書が出版

されたので早速読むことにした次第である。

 

 読み込み方が甘かったのか、若しくは僕がもともと時事に疎いせいもあるのか、本書を読んで

今一つ葛西という方のイメージが湧かなかった。彼の実績等は分かった一方で、彼の

「息遣い」や「佇まい」のようなものが感じられなかったという方が僕の実感かもしれない。

 

 表紙には「黒幕」という言葉がある。最近の言葉で言うと「ラスボス」ということなのかも

しれない。いずれせよ、あまり表には出て来ないという役割なのだろう。そんな事で著者も

葛西という方に「肉迫」することは難しかったのかもしれない。また直接的な取材も限定的

だったろうとも想像される。

 

 そもそも「黒幕」という言葉とは何か。ウェブで調べると以下が出てきた。

 

 「語源は歌舞伎で、舞台裏で黒い幕を操作し進行に関わることから、背後で影響力を行使

する強力な人物をこの進行役になぞらえ、こう呼ぶようになった」

 

 「黒幕」とは何よりも「進行役」であることが肝心だと理解してよさそうである。その意味で本書で

描かれる葛西という方が「進行役」であったことは、疎い僕でも読み取ることは出来た。また、

「背後で」という部分で葛西という方が見えにくいということもやむを得ないと判断しても

よさそうである。

 

 ということで、葛西という人の評価が定まるのはもう少し先かもしれない。このレビューを

ここまで書いてきてなんとなくもどかしさを感じた次第だ。

「夫のちんぽが入らない」 こだま

 

 表題だけを見るといかにもキワモノの本かと思った。読んでみてかような先入観は間違っていた

と反省した。大変シリアスな一冊である。

 

 シリアスと書いたが、それは著者の生活がシリアスという意味である。一方、本書はシリアスな

生活を扱っていながらも読んでいて爆笑を禁じえなかった。なんといっても著者の文章力が

かような爆笑に繋がるのである。

 

 僕は本書を読んでいて何かに似ていると思った。記憶をたどると、さくらももこのいくつかの

エッセーに辿り着いた。

いうまでもなく、さくらももこは「ちびまる子ちゃん」で一世を風靡した訳だが、僕は彼女の

エッセーである「もものかんづめ」等の完成度の高さに当時も感銘を受けていた。本書の著者

である「こだま」さんの文章もさくらももこの文章に似ていないだろうか。

 

 本書は「私小説」だという。本書が果してすべてノンフィクションなのか、一部ないし全部が

フィクションなのか僕には分からない。むしろすべて本当の話であったとしたら、ここまで書いて

しまってよいのかと凡人である僕は思ってしまう。その意味では明治時代に出来た「私小説」

というジャンルへの新しい挑戦者が俄かに現れたという見方も可能である。

 

 ではフィクションであったとしたらどうか。そう考えても特に読後感は変わらない気がする。

フィクションであろうとノンフィクションであろうと、ここで語られている物語は、多くの人に

微かな既視感を与えるのではないだろうか。

 

 例え表題のような極端な事象ではなくても「人には言いずらいが、死活的に重要な何か」を

抱えている方は多いだろう。「人には言えない何か」を抱えて生きる姿では

著者も読者も同じ地平線に立っている。大笑いしながらも、最後に辿り着いた読後感は

そんなものであった。早速著者のいくつかのエッセーも購入したところだ。

 

映画「雪の断章」  相米慎二

 最近相米作品をぽつりぽつり観ている。

 

本作は斉藤由貴のアイドル映画という作りなのだろうが、アイドル映画とは思えない

ある種の異様さに満ち満ちている一作である。

 

 誰しもが指摘する冒頭の長回しはさておいても、本作には随所にアイドル映画とは思えない

ような場面が挿入されている。冒頭に出てくる奇怪な人形であるとか、ヒロインが延々と逃亡する

場面に登場するピエロだの、笠置シズ子の「買い物ブギ」が流れる川の場面であるとか。本来の

筋とは全く関係ない場面だ。敢えて言うなら、寺山修司のいくつかの作品にも似ているが、

そういえば相米は寺山修司の最高傑作「草迷宮」の助監督であった事も思い出した。

 

 こんな映画のヒロインをやらされた斉藤由貴も迷惑だったのではないかと思う一方でシャワーを

浴びた後に鏡の中の自分に見入る場面の斉藤由貴の美しさも凄まじい。後年「魔性の女」と

呼ばれることになる斎藤の、持って生まれた資質というものはこの場面こそが源流であったのでは

ないか。そんな想像をすること自体が楽しい。

 

 話の筋は陳腐である。謎解き映画としては大した謎ではない。アイドル映画にしては異様である。

そんな不思議な映画だからこそ、本作はある種のカルト映画と言える。斎藤にとっても迷惑では

無かったのかもしれない。彼女は1985年に「雪の断章」で主演を張り、13年後の1993年に

再度相米監督の「あ、春」でも主演級を務めた。後者に出演した理由は「相米映画に再度

出たかったから」と斎藤は言っていたという。

映画「マディソン群の橋」

 原作を読んだのは30年程度前。映画は今回初めての鑑賞である。

 

 本作がなぜ多くの人の感動を呼んだのかを考えることがこの映画を観るということだ。

話の筋としては「中年の男女の四日間の不倫恋愛」と言ってしまうと簡単だ。そんなに珍しい

話でも無いのかもしれない。であるがゆえに、人気の高さには逆に考え込んでしまう。

 

 当たり前の事ながら、人生とは不断の「選択」の連続である。僕らはごく若い時分から「選択」

を続けてきている。選択することを強いられてきているという言い方も出来るかもしれない。但し、

その結果として現在の自分が成り立っているという点では、どういう言い方をしてみても

同じである。

 

 「何を選択するのかは自分で決めることが出来る」ということは案外牧歌的な「誤解」でも

あるような気がする。僕らは本当に自分で決めた人生を生きてきているのか。自信を

持ってYESと言える方は案外少ないのではないか。少なくとも僕はとてもYESとは

言える気がしない。

 

 本作のヒロインが本当には何に「憑かれて」いるのか。

 

 勿論、ロバートとの出会いと別離の物語に「憑かれて」いる訳だが、ヒロインの視線はその先に

あるような気がしてならない。本作でもいくどか語られる自身の来し方への淡くて苦い想いは

彼女自身が自分の選択をどのように行えてきたのかという事への反省の色合いを帯びている。

 

 「イタリアから受動的に米国に住まわされている」とヒロインは考えている。それを一番理解

していたのはヒロインの夫だったという点も僕らは注意を払わなくてはならない。彼が亡くなる

間際のセリフにそれが良く表れている。

 

 ヒロインが自らの意思で「選択」したのは、ロバートではなく家族と暮らし続けるという事だ。

そこにおいて、ヒロインは自分で自分の人生を選び、かつ、狭めた。狭めたと言うと、否定的

な響きも感じてしまうかもしれない。但し、結局選ぶということはそういう事なのだと思う。

 

 そんな「選択」は僕らもしてきている。だからこそ、多くの方が本作に直接的にせよ

間接的にせよ、強く惹き付かされるのだろう。それが僕の感想である。

「夫 車谷長吉」 高橋順子

高橋順子という方は詩人であるが、彼女の詩集含めていままで読む機会も無かった。それ以前に

知らない方であった。本書を読んで、しまったと思った。もっと早く読むべきであったと思った

からだ。

 

 著者がどのように車谷長吉と知り合い、結婚し、見送ったのかという夫婦の記録である。彼女

の筆は車谷という方のある種の狂気を淡々と描き出す。「淡々と」と書いたが、そんな言葉では

本書の雰囲気は伝わらないかもしれない。非常に突き放しながらも、車谷に対する愛情に

溢れた記述は読んでいて不思議なくらいだ。

 

 読んでいて思い出したのは武田百合子の「富士日記」である。武田の書き方と高橋のそれは

僕にとっては重なるものが多かった。「書き方」とは書いている方の「見方」でもある。武田と

高橋は、もしかすると配偶者に対して似たような立ち位置を持っていたのではないかと

想像することは楽しい。武田泰淳と車谷長吉がどのくらい似ているのか、似ていないのかは

分からないが、少なくとも配偶者との距離感は案外同じようなものがあったのではないか。

これは完全に僕の妄想ではあるのだが。

 

 それにしても夫婦というものは難しいものだ。というか、夫婦の事はその夫婦にしか分からない。

それをつくづく思わされた一冊となった