「線は 僕を描く」 砥上裕將
映画を観た事で原作を読む機会を得た。
著者が実際に水墨画を描いている事が本書の説得力に繋がっている。僕自身は水墨画を描いた事は
無い素人であるので、上手に著者の語りに乗っていくしかない。著者の語り自体は、若干若書きだとは
感じたが、水墨画を語る部分においては実に心地よい。
僕は本書を読んで水墨画を描きたいとは思わなかった。但し、本書で水墨画を学んでいく主人公の様
に何かを「学んでいく」こと自体には憧れに近い感情を持った。では学ぶべき対象は何にすれば良いのか。
それに対する答えはおそらく無限にある。但し、選べるものは最終的にはひとつだけなのだろう。著者に
とって、それが水墨画なのか文学なのかは現段階では僕には分からない。
一方で僕にとっては何が対象になるのか。漠然とした対象物は見えているが、まだ決めきれるわけ
ではない。但し、早く決めていく事も必要だろう。残された時間もあまり無いだろうし。
「怪獣記」 高野秀行
久しぶりに高野の本を読んだ。高野の本にはある種の麻薬性がある。麻薬は常習化すると体に悪い
とも聞く。
高野はとてつもない旅行をやり遂げる方だ。「とてつもない」という言葉は誉め言葉ではあるが、僕は
高野の旅を羨ましいと思った事は一度もない。むしろ、かような旅行など全く試したくないとしか思わない。
僕としては高野がこれまで生き延びてきた事自体が奇跡に思えるからだ。
高野が目指しているものは何か。本書ではトルコの湖に噂される「怪獣」である訳だが、実際に高野が
丹念に書き込んでいるものは旅行の過程で出会った「人間」である。高野の本を読んでいると「人が
人に出会う」という事が、きわめて容易に思えてくる訳だが、実際にはそれはとても難しいものであると
僕は思う。かような困難事を涼しい顔でやってのけるのが高野の天才であり、高野の本を読むという
事である。
本書で高野は探していた怪獣らしきものを見てしまう。自身が目撃者になってしまう事で高野が混乱
する姿を正直に描き出している点が本書の白眉だ。今まで「尋ねる者」だった高野が「尋ねられる者」
になった 時の狼狽振りは実に楽しい。
渾沌ということ
よく仕事で「目鼻を付ける」という言い方をする。
何か新しい取組やプロジェクトを行う際には、ある程度以上の進め方や方向性を決める事は非常に
重要だ。
それらが決まらないと進むこと自体が難しい。若しくは、仕事がバラバラとなり、いつまでたっても何も
成果が出ない。それを避けるため、まずは「目鼻を付ける」事が肝要になる。
なんで「目鼻」なのかと不思議だ。やはり目と鼻が顔を大きく構成するからだろう。そういえば「顔認証」も
目や鼻が肝らしい。
ところでここで全く違う話を思い出す。中国で2000年以上前に書かれた「荘子」という本だ。そこ
には「渾沌」という言葉の由来となる以下のような寓話が書いてある。
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南海の帝王を儵と言い、北海の帝王を忽と言い、中央の帝王を渾沌と言いました。
儵と忽とが、ある時渾沌の血で出会いました。渾沌は両者を大変厚くもてなしました。
そこで儵と忽は渾沌の恩義に報いようと相談して言いました。
「人は皆7つの穴(目2つ、鼻2つ、耳2つ、口1つ)が備わっていて、これらをもって見たり、
聞いたり、食べたり、呼吸をしている。
しかし渾沌には7つの穴がない。ためしに、穴を開けてあげようではないか。」
1日に1つ穴を開け、7日たつと渾沌は死んでしまいました。
++++++++++++++++++
ここでは「目鼻を付ける」事に関しては極めて否定的に書かれている。目鼻とは付けた方が良いのか
付けない方が良いのか。分からなくなってくる。
結論的に言うと、仕事においては引き続き「目鼻を付ける」しかない。どのような目鼻を付ける
事が出来るのかということで結果も大きく変わる。正しい目鼻を付けることは死活的に重要だ。
但し、とも思う。
但し、それでも荘子が語りかけてくる話も重要なのかもしれない。
渾沌とは時に大変「豊饒」だ。「渾沌」の中から全く新しい物事が出てくる可能性は常にある。
渾沌という豊饒性を忘れていると、今までの延長上でしか物事を考える事が出来なくなるとのでは
ないか。
そんな反省を時にもたらしてくれるのが「荘子」という空前絶後の古典の魅力だ。
「マッチングアプリ症候群」 速水由紀子
身の回りでマッチングアプリで結婚する方が増えてきたので本書を読む機会を得た。著者の本を
読むのも15年振りだろうか。感想は3点だ。
まず著者の「身の入れ方」に驚いた。
マッチングアプリについて本を書こうと思ったので実際に体験としてマッチングアプリをやってみる
という事自体には驚きは無い。但し、著者の場合「体験入学」というようなレベルではない。
本書にいくどか「これにてお付き合いは終わった」というような記述が出てくるが、「終わる」までには
「比較的確りと付き合った」という事だったと想像する。観察者として参加するのではなく、プレーヤー
という立ち位置で事に当たったという事だとしたら、著者の体験の徹底ぶりには脱帽である。もっと言うと、
著者がプレーヤーである事を真剣に追求したという話なのだと思う。そこまで自分を投入してこその
記載には迫力がある。
2点目。著者は女性である。従い、マッチングアプリというものを女性の視点でしか描きえないという
点は已む無しだろう。
但し、本当にマッチングアプリというものを取り上げるなら、男性視点も本来不可欠である。それを
女性である著者に求めることはお門違いであり、従い、本書は「女性側からの言いっぱなし」
である面があることには違和感はない。本書を読んだ少なくない男性側が本書に異論を唱える
と僕は思うが、それも著者の「戦術」の一つなのだろうと考えると逆に腑に落ちたところだ。
3点目。著者は出会いの場としてのマッチングアプリには高い評価を下していると僕は読んだ。
結婚を目的とした出会いの場は歴史的に見ても複雑な変遷がある中で、比較的主体性のある
出会いの仕方ではないかと著者は主張しているように見える。
その評価が正しいかどうかは、もう少し時間を経ないと分からないとは思う。但し、出会いの場の
変化の速さも凄いものがある。仲人を立てて僕が結婚したのはたった30年弱前だった事も
思い出したところだ。
「複雑化の教育論」 内田樹
久しぶりに内田の著書を読んだ。このところ内田の著作を読まなかったのは自分自身の読書力
が衰えたからかもしれないし、電子図書に未だ慣れていないからかもしれない。
学校を卒業してから既に36年が経つ中で、久しぶりに学校生活を思い出した。特に思ったのは
高校である。
僕が通った東京都立立川高校は、とにかく受験勉強をさせてくれない学校だった。授業は
先生方の自身の好みで構成されており、受験を全く意識しないものばかりであった。一学期を
まるまる三角関数だけであったり、英語は英語で「十二人の怒れる男たち」のシナリオを読むだけ、
地理の授業は生徒の発表だけで一年が過ぎる等。しかも第二外国語まで選択できるという
カリキュラムである。 加えて学校行事が極めて重要視され、生徒たちの中には全人格を
掛けてしまう人も多かった。最後に、当たり前ながら部活動である。受験勉強など到底
入る隙間が無い。
といったハプニングだらけの高校時代の「豊かさ」にはいまでも本当に感謝している。今になって、
先生方が目指したものは真のエリート教育だったと断言できる。僕がここで意味する「エリート教育」
とは「自分で考えることを強いる教育」というようなイメージだ。僕自身も途方にくれながら
「十二人の怒れる男」を読んだものだ。おかげで今でも、その映画の大ファンでもある。
内田が展開する論と上記の僕の個人的な経緯の間には当然ながら大きな違いはある。但し、
内田が説く「教育の複雑化」に関して、なんらかシンクロするものが僕の皮膚感覚にはある。
少なくとも本作を読んで面白いと思えたのは高校時代の経験があるからだ。そう思えた事
だけで本作を読んだ収穫があったと僕は思う。
LOSE-LOSE
僕はWIN-WINという言葉が嫌いだ。なんとも胡散臭い言葉だと思う。色々な局面は往々にしてゼロサムゲームであり、本当にWIN-WINを考える人等がいるのだろうかと、怪しんできた訳だ。そんな際に以下の文章を見つけた。
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「合意形成」というのは要するに「落としどころを見つける」ということなんですけれど、それは「みんなが同じ程度に不満足な解を探りあてる」ということです。
勘違いしている人が多いんですけれど、合意形成というのは、「全員が満足する解」を探りあてることではありません。そんな都合の良いソリューションなんかありません。僕たちにできるのは「不満足の程度を均す」ということだけなんです。その「さじ加減」なんです。でも、それにはかなり高度な技術というか、かなりの気合が要る。
内田樹「複雑化の教育論」から
*************
要はWIN-WINではなくてLOSE-LOSEという話だ。これなら僕もかなり納得が行く気がする。
僕らの仕事のかなりの部分は「合意形成」にあると思う。「合意形成」には「かなり高度な技術というか、
かなりの気合が要る」と感じる方も多いのではないか。出来うる限り自分に有利な合意を形成しようと
する事は死活的に大事だが、一方「相手があり、相手も同じように自分に有利な合意を目指している」
ことも常に事実だ。
従い交渉は常に困難を極めるわけだが、それでも合意形成をしなくてはならない場合には
どこかでLOSE-LOSEを探すことになるのだろうと思う。それは「軟着陸」であるとか「妥協の産物」
というような言い方になってしまうにせよ。
「箱根駅伝 0区を駆ける者たち」 佐藤 駿
毎年の正月は箱根駅伝を観戦することが正月行事になっている事もあり、本書を知って
直ぐに購入した。読み始めると止まらなかった。
本書を読んで一番はっとさせられたのは、「目標」と「目的」の違いという東海大学の
両角監督の言葉である。具体的には目標は箱根駅伝優勝ではあるが、目的は選手一人
一人の成長にあるという主張である。
本書では東海大学を際立たせる為に、青山学院大学をカウンターパートとして立たせている。
青学陸上部は近年の箱根駅伝の歴史の中では、ある種のアメリカンドリームだ。サラリーマンを
経た原監督という方が一から同校の陸上部を作り直し、常勝軍団にならしめたという美談
である。現に本書が扱う2017年正月の箱根駅伝も青学の圧倒的な強さが有った事を本書も
確りと書き込んでいる。
但し、本書の著者は、かような青学にやや疑問視を持っている。青学の箱根至上主義が果して
正しいのかと言いたがっている部分が随所に見られる。
そんな著者が人間教育を目的とするという東海大の姿勢に惹かれるということは自然なの
かもしれない。同校に詳しくない僕としては、かような両角監督の言葉が本音なのかどうか
は分からない。むしろ本書で描かれているスーパールーキーの大量リクルートによる
戦闘力強化は、箱根駅伝での勝利への意思表示ではないのか。現に本書が描いた
2017年駅伝の翌年は東海大はかようなルーキーたちの大活躍で久しぶりの優勝を
遂げたのである。
0区ランナーとは駅伝の選手に選ばれなかった選手たちを指す。彼らが葛藤を
乗り越えてチームに貢献する姿は清々しい。但し、実際にはそんなすっきりした話でも無い
のだろうとは想像する。すっきりしないまま、やらなくてはならない事を粛々とやる。
そんな話は陸上だけではない。僕らが日々強いられている状況と同じと言える。である
からこそ、僕らは彼らに共感できる。僕らがそこに希望を持てるとしたら、まさに
両角監督が言ったという「目的」と同じものがそこに見いだせるかどうかだ。「成長」
という言葉には僕も注意しているのだが、常に甘美な響きがあることは否定できない。
「1100日の葛藤」 尾身茂
本書を読んでいて一番繰り返し語られていることは、著者が専門家の立ち位置と政治家の立ち位置の違いを常に
明確に意識してコロナに対処してきた点である。
専門家とは、ある事象を深く掘り下げ、その事象自体についての理解と対応策を考える役割
を担う。その事象だけをとことん考えぬく事が機能だ。本書に関して言うとコロナという伝染病の
本質に迫り、コロナの治療と防御だけを考えれば良い立場である。
勿論専門家についても色々な角度からの専門家が存在する。本書ではしばしば専門家同士の
意見の相違が描かれる。時として怒鳴りあいにもなった様子だが、著者は、そのような意見の
相違が有る事自体は当然であり、むしろ健全だと断言する。その断言の強さが著者のリーダー
シップである。
一方で政治家の役割は全く別である、コロナが齎す災厄は病気だけではなく、社会面、経済
面、外交面にも及んでくる。そんな全体を俯瞰した立場で最終的な政治判断を行う事が政治家
の仕事である。著者はかような政治家の立場を十分に理解しながら、専門家としての筋を通そうと
する。その筋を通す強さも、著者のリーダーシップとなっている。
かような2種類のリーダーシップの在り方が本書を読む醍醐味と言える。本書はたまたまコロナ
への対応を活写しているが、本書で描かれるリーダーシップはコロナ以外の事象に対しても
応用が効く。有事への対応という点で非常に貴重な一冊と言える。
「後藤新平 日本の羅針盤となった男」 山岡淳一郎
後藤新平という方の名前を聞く機会は良くあったが、どのような人だったのかを知らない事に
気が付いて本書を読む事にした。色々と勉強になった。
後藤新平の人生は忙しかった。日清戦争の出征した兵士の帰国の際の検疫責任者から始まり、
台湾総督、満鉄総裁、内務省大臣、東京市長等を歴任している。今の日本で、このように変遷
するキャリアを積む事等は不可能であったが、120年程度前には可能だったわけだ。それは
後藤が飛びぬけて優秀だった事もあろう。但し、人の活用という面で極めて柔軟性の高い時代
だったのかもしれないと考えることも出来るであろうし、なによりもそう考える方が楽しい。
本書の著者は後藤の生涯を通じたテーマは「公共性」だったとしている。「公共性」という言葉は
やや意味が広すぎる感はあるが、「個」や「私」という言葉と対比すると少し分かりやすく
なるのかもしれない。ネットを見ると、例えば共用の井戸をみんなで掘るという作業は「公共」
であり、それは結果として「個」や「私」に水を齎すという効用を持つ。従い、「公共」は「個」や
「私」と必ずしも対立関係にあるのではなく、むしろ補完関係を形成するものだとのことだ。
後藤が目指した「公共性」がかような補完関係だったのかどうかは僕には分からない。但し、
人間がここまで繁栄してきた大きな理由の一つは「公共性」を獲得してきたからではないだろうか。
その一つの証左が後藤の人生ではないかと考えると、なんとなく本書が腑に落ちたところだ。
映画 「水は海にむかって流れる」
田島列島の原作を読んだ事で本作を鑑賞した。田島列島の漫画は出版される都度、購入
している。実に面白い。映画化は上手く行くのだろうか。結論的に言うと、本作は成功している
とは言い難い。原作贔屓だからかもしれないが。難点は二点である。
一点目。田島の漫画の強い魅力は、その言葉使いにある。実際、田島の諸作を読んで声を
立てて笑ってしまうことは幾度もある。言葉の選択のセンスの良さと、使うタイミングの鋭さに
笑っているわけだが、同時に実は青ざめるような想いも僕には有った。言葉を煌めかせるには
特別のキラキラした言葉はいらない。普通の言葉でも使われる場面とタイミングで、時として
強い光を放つものだ。それが田島の真骨頂の一つだと僕は勝手に思っている。
では映画でそれが出来るのか。本作及び「子供はわかってあげない」の映画を通じて思う事は
田島のかような凄みは映画には向いていないのではないかという事だ。本作を観ていても
背中が寒くなるようなセリフは見つからなかった。漫画では煌めく言葉も映像で使われると
ぼやけてしまう。僕はそう感じた。
二点目。本作でもいくどかヒロインの「時」が16歳で止まっている点は言及される。これは
原作も同じだ。原作のテーマはヒロインの止まっていた時間が、最後に動き出す点にある。
映画でも時が止まっているところまでは上手に表現されていたが、「動き出す」ところ
は明快ではない。むしろ、意図的に曖昧にしたのかもしれない。だからこそ、ヒロインの最後
のセリフは「馬鹿じゃない」という一言で終わっている。主人公だけではなく。観客の僕らも
突き放されてしまっただけだ。