高校の同窓会
先週高校の同窓会が有った。
1学年380名の同期がいた中で120名の参加である。この
参加率がどのくらい高いのかは比較するものがないので僕には分からないが、個人的には
良く集まったと思う。また連絡先不明者が少ないとも聞いた。これは携帯電話のお陰なのだろう。
卒業アルバムの住所録等などはとうに役に立たないに決まっている。
僕らの同期は今年度還暦である。お互いの年齢を確認したり想像したりする必要が無いことは
同窓会の大きなメリットとも言える。同じ年齢ゆえ、ある意味で平たく話す事ができる。「平たい」
という言葉をそのように使うことが正しいかどうか僕には分からない。ただ、いまこれを書いて
いて「平たい」という言葉が出てきただけである。
120名の宴会ゆえ立食である。数時間もの立ち話をする機会は久しぶりだが、話に夢中なせいか
案外と足は疲れない。
高校時代のあだ名がするりと出てくることにも驚いた。数十年ぶりに会った人のあだ名を
本能的に覚えているということなのだろうか。最近の事が覚えにくくなりつつある中で、かように
記憶の深層にあだ名なぞが刻まれているということは人間の記憶の不思議でもある。
4年に一度の会だ。次回も数時間立ち話が出来ることが出来るのだろうか。あだ名だけは
出てくる自信はある。自信過剰かもしれないのだが。
立石寺を訪ねて
妻と山形の立石寺に出向いた。
「立石寺」とは「りゅうしゃくじ」と読むのか「りっしゃくじ」と読むのか良く分からない。芭蕉の
「奥の細道」では「りうしゃくじ」とあったので前者かと思うのだが、後者を言う人もある。
ウィキペディアでも昔は「りゅうしゃくじ」だったというように書いてあった。はっきりしない訳だ。
僕も、その時々で言い分けるながら寺を参拝した。
参拝といっても雨の中の石段登りである。一番上の奥の院まで約1000段である。リュックを
担いで傘をさして歩くのは容易とは言い難い。滑るので足もとばかり見ることになったのも
しょうがない。妻の方が登るのも降りるのも早いのだが、彼女はひとつ年上なので歳の
せいにも出来ない。還暦ともなると脚力の差がはっきりしてくるということなのだろうか・
いくつかある展望できる場所から見下ろす風景は雨と霧でけぶっていた。長谷川等伯の絵を
少し思い出したりできたのは悪天候のお陰である。景色は良く見えるだけが良いことでもないと
改めて思った。
「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」と芭蕉は詠んだ。僕らもかような蝉の音を期待して時期
を選んだのだが、思いもしない雨で蝉は鳴かない。但し、雨や水の音には恵まれた。久しぶりに
じっくり雨の音を山寺で聴いた。
山を降りて駅前の喫茶店で、20年ぶりにクリームソーダを飲んだ。味は昔と同じだ。飲んでいる
自分だけが歳を取ったのだなと気が付いて苦笑した。苦く笑うというのも歳を取る醍醐味の一つ
なのかもしれない。
映画「あんのこと」
雑誌で河合優実の特集を読んだ事で本作を鑑賞する機会を得た。近年観た映画の中で最も
重い映画だ。実話に基づいているということが本作の重みを格段のものにしている。
本作は「父の不在」という角度で見直すことが出来る。ヒロイン自身の父親は一切語られない。
ヒロインに父の記憶があったかどうかすら分からない。
一方で、別の意味でヒロインの「父」になろうとした人物は二人いた。言うまでもなく佐藤演じる
刑事であり、稲垣演じる雑誌記者である。この二人に心を開くことでヒロインは更生へと進んでいく。
ヒロインのかような健気さは、本作に数少ない明るさを与えている。
但し、その二人は「挫折」することになる。佐藤の「悪の一面」と、それを書かずにはいられ
なかった稲垣の記者としての職業的誠実が、ヒロインから第二の「父親」を奪うことになる。その
二人が持つ善悪さが本作に途方もない現実感を与える。善だけではない人間像をここで確りと
描き出した本作の作り手の強い意志が試されたことは想像に難くない。
「父」を失ったヒロインは、それでも押し付けられた幼児を世話することを通じて、再度の人生を
目指した。但し、それを取り上げられた瞬間に彼女が少しづつ築いてきたものが失われた。
既に収監されていた佐藤がそれを絞り出すように話す場面が本作の白眉である。
重い映画だが、実はそんなに珍しい話でもないのかもしれない。そう考えることが本作を
正しく鑑賞することなのかもしれない。鑑賞後に暫くは感想を言語化出来なかった。いうまでも
無いが、言語化出来ないことはいくらでもある。
「ブータン、これでいいのだ」 御手洗瑞子
著者の「気仙沼ニッティング物語」を読んだ事で本書を読む機会となった。初めて聞くブータンの物語である。
ブータンは「国民総幸福量」という指標を掲げている事で世界的にも有名である。何が「幸福」
なのかという事自体が既に禅問答か神学論争のような気もしないでもない。但し、それを
「掲げる」事自体にはそれなりの「国としての戦略」もあるだろうし、著者も肯定的に受け止めて
いることは本書を通じて強く伝わってきた。
但し、それがいつまで続くのだろうか。ネットで見ても、ブータンの幸福度は他国に比して
落ちてきているという記事も出ている。情報化が進む中で、他国と比較する事自体も容易に
なったであろうし、その結果として色々な考え方が出てくることも想像に難くない。特に
地政学的にも世界の流動化が激しくなる中で中国とインドに地理的に挟まれるブータンの難しさ
は増すに違いない。そんな、やや複雑な思いで本書を読了した。
冒頭記載した通り、ブータンから帰国した著者は震 災後の気仙沼を目指した。「幸福な国」
から「悲劇の被災地」に向かった訳だ。そのエネルギーには改めて感心させられた。まだ若い
著者の今後の活躍を強く期待する次第だ。
「挑発する少女小説」 斎藤美奈子
会社時代の同僚だった畏友の紹介で本書を読んだ。60歳強の男性である畏友が本書を
手に取った事自体が既に十分不思議であると思って読み始めたが、あっという間に読んで
しまった。
著者の斎藤によると本書で取り上げられている9つの少女小説は大半の男性は殆ど読んだ事
が無いらしい。その点僕は3作を実際に読み、映画やTVで観た更なる3作、合計6作に触れた
経験が有ったので本書を読み易かったという幸運に恵まれた。これはそういう機会を与えてくれた
自分の母親に感謝すべきだと、今にして思った次第だ。残念ながら9年前に亡くなった母親に
感謝の言葉を伝えられないのだが。
著者の斎藤の分析は快刀乱麻と言ってよい。当時はただ楽しく読んだり鑑賞していた
作品の裏にじわりと潜んでいた物を目の前に突き付けられて、時として寒気を感じた次第だ。
9つの作品(そういえばサリンジャーの代表作も「ナインストーリーズ」だが、これは数の偶然
の遊びなのだろう)の一つ一つに、「その時代の背景」なり「ジェンダー観」なり「教育観」なり、
つまりは当時の人間観が詰まっていることがよく分かった。また、それを読むことで発刊当時
の読者に刷り込まれていくものがあったであろうという斎藤の指摘は実に新しかった。
「新しい」と僕が今言ったのは、50年前にそれらに触れていた自分にとって、いまかような
指摘を受けた点が僕にとって「新しい」からである。
畏友がどうして本書を手に取ったのかは別途確認しなくてはならないが、本書を紹介
してくれたことには大変感謝している。
腰越の寿司屋
妻と二人で江の島に出かけた。
江の島の神社で朱印を書いて貰った後に、予約していた腰越のお寿司屋さんに出向いた。15年くらい前に
偶然入った店でシラスとかヒコイワシが絶品だった。以来、時折出かける店である。国立から腰越まで
お寿司を食べるだけに出向くのも「粋」ではないかとなんとなく思っている自分だ。今回はランチである。
板前さんの話では今回の台風で漁船が出ておらず、従いいつもは色々ある地魚が無い事に大変恐縮されていた。
特にそのお店は生シラスが美味しい。今回はシラスを採る船も台風からの避難で地元を離れてしまったらしい。
それは残念だった。来週には船も戻ってくるらしいが、そんなしょっちゅう腰越に来る訳にも行かない。それにしても
正直なお店だと改めて感心した。
イワシ、コチ、赤貝等をつまみにしてビールを飲んだ。ビールはいつでも美味しい。
ほろ酔いで江ノ電で長谷に行き、長谷寺の十二面観音と、高徳院の大仏を拝観した。外国人の方も
多い。長谷に来るのも人生何回目なのだろうか。還暦間近であること も思い出したところである。
「気仙沼ニッティング物語」 御手洗瑞子
新聞で著者が紹介されていた事で本書を読む機会を得た。実に面白くあっという間に
読了した。「面白い」という表現は実際にはあったであろう大変な苦労を見せない著者には
失礼なのかもしれないが、それも著者の戦略なのだろう。
著者は大変な戦略家である。僕自身、気仙沼に行く機会は数回有ったのだが、著者が
分析する「気仙沼」というものには全く気が付く事は出来なかった。遠洋漁業の基地である
からこその「国際性」であるとか、漁網繕いを通じて編み物への親近感が強い事。これは
著者が書いている訳ではないが、夫が漁業で不在がちの中で培われた女性陣の強さ
(勁いという言葉の方が適切かもしれない。
その気仙沼の持っていた特性に加えて、東日本大震災という大変な被害を受けた経緯を
踏まえて著者が選んだものがセーター作りである。かつ、手作りという事を通じて見事に
ブランド化に成功したという物語は見事としかいいようが無い。
それにしても、繰り返すがそこまでたどり着くまでには大変な苦労があったはずだ。それを
敢えて書かない著者は、気仙沼を悲劇の地とはしたくないという著者の思いを反映してだと
僕は理解した。
天災で大きな被害を受けたのは気仙沼だけではない。また天災は必ず繰り返すのが日本の
宿命である。そんな中で著者が繰り広げた戦略には本当に学ぶべき点は多い。いや、天災
だけが災害ではない。世の中にも人災であるとか、色々な災害がある。そこまで見据えて本書を
読む事には大きな意義が僕には有った。
「カサブランカ 偶然が生んだ名画」 瀬川裕司
映画「カサブランカ」は何回鑑賞したのか分からない。TVで観て、レーザーディスク(懐かしい)
で購入し、DVDでも購入した。本作はその舞台裏の話だ。
とにかくバタバタである。良く言えばフレキシブルということなのだろうが、悪く言えば、思い付きの連続である。
配役自体もそうだが(なにせロナルドレーガンが主役とされた時期すら有ったらしい)、
シナリオもころころ変わってきた経緯が分かって笑ってしまった。また、この映画のイングリッド
バーグマンは輝くような美女だと昔から思ってきているのだが、バーグマン本人は決して本作を
自分の代表作だと言わなかったという点にも驚いた。誰がどう見ても凄い当たり役だと思うのだが。
映画現場の一幕を垣間見るには面白い一作だ。「カサブランカ」を偏愛してきた著者の思い
入れは良く伝わってきた。
映画 「きみの鳥はうたえる」
言うまでもないが、この映画の最大の場面はラストシーンである。石橋静河のアップだ。
そのラストシーンまでのこの映画はある意味難解だ。若者たちの移ろいやすいひと夏とでも
言ってしまえば、それまでかもしれない。但し、登場する人物はおしなべて何を考えているのか
分からない。もっと言うと何かを考えているのかどうかも分からない。「その時々の感情に
押し流されて動いているだけだ」という言い方も出来るのかもしれないが、そんな陳腐な解説
がぴたりとこの映画に当てはまるとも思えない。そんなある種の異様さが本作の通奏低音
である。
石橋の最後の表情は何を物語っているのか。本作品では結論も結果も教えてくれない。
従い、それらは観る側に委ねられている。観ている自分が石橋の考えているであろうことを
考える事を強いられる。これは簡単なようで難しい。おそらくは観客の一人一人は各々
違った解釈をするに違いない。そんな解釈の仕方が、すなわちその人自身である。
そう考えると怖い話でもあるのだ。
かような緊張を強いる石橋の表現力は、相当なものだと思う。石橋のこれからの映画が
楽しみとなったのは僕だけではあるまい。
「緑の光線」 エリック・ロメール
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以前からロメールという名前は聞いていたが、今回の「緑の光線」が初めての鑑賞である。
なんとも不思議な味わいの映画であった。
主人公のヒロインは人間関係に苦しんでいる。相手は友人であり、旅先で知り合いとなった
見知らぬ人であり、究極的には「自分自身」である。ヒロインがいかに自分自身に付き合い
あぐねているのか。それは本作の最大のテーマだと言ってよい。
ヒロインは自分を持て余しながら放浪する。放浪先には、ヒロインを案じてくれる
心優しい人も多いのだが、自分自身に自家中毒中のヒロインはかような厚意と好意に
応えるだけの余裕が無い。時として自分の中に閉じこもってしまい、「心の友人」は
抱えているドストエフスキーの「白痴」だけだ。僕は「白痴」とは「無垢の魂が現実に生きていく事
の残酷さと乱暴さを描いている」と勝手に思っているのだが、それだけにヒロインと重なるもの
があった。
そんなヒロインは最後に救われる。そんなハッピーエンドが本作の温かみだ。
何がヒロインを救ったのか。旅先で初めてヒロインが素直かつ率直に自分を話すことが出来るヒーローと
出会うことが合った事。そのヒーローと、伝説とも言うべき「緑の光線」を水平線の彼方に見ることが出来た事。
この二点でヒロインは救われたのだ。この先のヒロインがどうなるかは 僕ら観客の想像に任されている訳だが、
明るいものを思う方が大多数ではなかろうか。