くにたち蟄居日記 -17ページ目

トランプ大統領なるもの

米国の新大統領が就任して一週間経った。新聞を読んでいる限り、世界中がトランプ大統領

にどのように対応するのかに右往左往している。「トランプ大統領なるものは何なのか」という

分析は一部のアカデミズムを中心にあるていどは進んでいるようではあるようだ。但し、各国のリーダーや

大企業のトップは「トランプ大統領なるもの」ではなく「トランプ大統領個人」への対応に終始して

いる感がある。未来になって、2025年のいま現在を歴史として振り返ると、今のリーダーや

トップのバタバタは喜劇にしか見えないのかもしれない。但し、現実家であることを求められる

彼らとしては目先対応に必死であることもやむを得ないということなのだろう。

 

 「トランプ大統領なるもの」と「トランプ大統領個人」とは「似て非なるもの」として分けて

考えないと本質を誤ると僕は思う。「トランプ大統領なるもの」の背後にはおそろしいくらい

多数の人間が存在している。今の北米の「民意」を人格化すると「トランプ大統領なるもの」

になると考えると、それも怖ろしい。但し、僕はなぜ「それも怖ろしい」と思ってしまうのか。

そこを考えることはまさしく僕の自分に対する義務である。

「声の怖ろしさ」

「中ロのような権威主義はともかく、米欧などの民主主義をむしばむポピュリズム(大衆迎合

主義)に、かつての全体主義ほどの脅威はない」

 

 昨日の日経新聞の記事からの一文である。本当にかつての全体主義ほどの脅威はないと

言い切れるのかどうか。ちょっと考えさせられているところだ。

 

 かつての「脅威」は上から降ってくるものだったと僕は勝手に思っている。権威主義は

おそらくは必ず上から下に対するベクトルを持っているのではないか。そう考えると

ポピュリズムは下から上を志向するベクトルを持っていると言えるような気がする。

 

 であるとするなら、その「下」がどうなっているのか。かつてない程に「分断」「孤立」を

抱えた「下」があるのではないか。勿論昔から分断、格差、不平等はあったのだろう。今より

激しく存在していたのではないかとも思う。但し、今は以前にはない「激しい」コミュニケーション

ツールを持つようになってきている。声なき声が上がる時代は悪くないとシンプルに考えたいが

「声の怖ろしさ」も良く見えてきている気もする。

深い教養

 今朝の日経新聞に「深い教養」の記事があった。日本の上場企業幹部を京都の瓢亭に

集めて懐石料理を学ぶ食事会を開いたという話である。また、日本駐在の外国企業幹部の

中にも日本での商談の為に「深い教養」への需要があるということだ。

 

 「深い教養」を求める動機としてビジネス拡大の為の「道具」を手に入れたいという話と

理解した。教養とはそんなものかというシンプルな疑問も湧かないでもない。但し、歴史

を振り返っても金持ちのパトロンを背景として文化的な事物が伸びてきたということも確か

ではないか。かようなパトロンは単純な見栄であったり他者へのマウント取りの為であったと

しても、結果的には今僕らがその結果を享受している訳だろう。従い、上記の記事に感じた

若干の違和感も、逆にスノッブなのだろうと反省した次第だ。

 

 「教養」とは何かというテーマは古典的であろうし、その答えも無数にあると思う。僕が

最近とみに感じているのは「教養とは『他の人は他の考え方を持っていること』を理解する

ことではないか」という事だ。英語にはAgree to disagreeという言葉もある。「お互いに

合意できないということ」をお互いに合意するという話だ。

 

 真実や正解は無数にある。僕が考える真実や正解と他の人の考える真実や正解は違う。

他の人が考える真実や正解は、その人にとっては真実で正解である。当たり前といえば

当たり前なのだが、それは結構難しい。今書いている僕自身が出来ているとも全く思わない。

世界を見まわしても、真実と正解を巡って起こっている諍いや問題だらけだ。そんな

際にお互いにagree to disagreeという地点に立った上で、議論を再構築出来ないものか。

それが「深い教養」ではないだろうか

新しい日本の「敗戦」の可能性

某テレビ会社の騒動で興味深いのは、株主の外資系アクティビスト関連だ。彼らが同社に

対して厳しい勧告を突き付け、物事が動き出したように見える点である。「株主とは何か」という

普遍的かつ古典的テーマを再度考えさせられている人や企業も多いように見える。

 

 アクティビストがかような厳しい勧告を出しているのはシンプルに株主としてテレビ会社の

企業価値が下がることを懸念しているからであろう。別に「正義の味方」になろうとしている

訳でもあるまい。投資家として「利益の極大化」を狙うという、ごく当然の話だ。善悪の

話ではない。

 

 僕が興味深いのは日本側の反応である。かようなアクティビストの対応に拍手喝采を

送っているような気もしないでもない。若しくは彼らと比較して他の日系株主、政府等に

いわゆるステークスホルダーの対応振りに批判的になりつつある気もする。そこには

妙に善悪の匂いも出てくるのではないだろうか。

 

 今回のアクティビストの反応を「黒船」と表現する記事もどこかで読んだ。今なお

日本は世界の中で「鎖国」ないし「ガラパゴス」だと考える方も結構多いのかも

しれない。開国後170年経った今なお、である。それが現段階では一番印象的だ。

 

今回の騒動は結構本質的なものを孕んでいる。もはや「一人のタレントが起こしたハラス

メント」では終わらないだろうし、終わらしてもいけないだろう。ここで終わらしたら、

ある種の日本の「敗戦」にもなるかもしれない。

「天才の光と影  ノーベル賞受賞者23人の狂気」 高橋昌一郎

本書の題名「天才の光と影 ノーベル賞受賞者23名の狂気」の中の「狂気」という言葉を

考えてみた。

 

  題名通り本書はノーベル賞の数多くの受賞者の「狂気」を描いている。狂気の内容は

人さまざまだ。圧倒的なライバルへの悪意、繰り返される男女問題、その時々の地政学

や政府への迎合等である。「天才」ではなくても、普通の世間一般にも見られる話だ。陳腐

といっても良いのかもしれない。

 

 面白いのは「天才がかような陳腐を有する」という話が一冊の本を成立させるという

事実だ。要は天才だからこそ読者の興味を引くということであり、これが「凡人がかような

陳腐を有する」という話だったら誰も読まないのではないかということだ。端的に言うと

「天才とは有徳、高潔の士であるはずだ」という暗黙の理解があり、それゆえ逸脱した

話は面白いという展開になっていないだろうか。

 

 天才とは一芸に秀でた方なのだと思う。本書で取り上げられた天才は物理学や化学等の

「理系」の方が多いが、天才は理系だけではない。文系もいらっしゃる訳だし、そもそも

アカデミズムだけではなく、例えば運動の天才もある。百メートルを10秒を切って走れる方は

天才なのだと僕は思う。

 面白いのは「天才である以上、人格的にも極めて優れた方であろう」という思い込みが

あるのではないかということだ。これをつき詰めて行くと、マイケル・サンデル等が警戒する

「能力主義」に繋がる。「能力のある人は、能力を獲得する努力を通じて『優れた人』であり、

能力不足の方は、かような努力をしない方である」という話に帰着しないだろうか。

 

 本書を読むと「能力」と「人格」は別物であることを強く感じる。物理学での大発見をした

方が異性にだらしないというのも本来であるなら違和感の対象ではなく、従いわざわざ本に

するような話でもない。そのように考えるべきなのではなかろうか。そんな思いを強く

持った次第だ。

 

 「天才」にはえてして権威と権力を与えられることになる。与えられた権威と権力を

健全に行使することは、どんな天才にも難しいのかもしれない。そんなところにも

「指輪物語」の「力の指輪」を見出しても良い。保有した「力の指輪」を放棄することの

難しさこそが「指輪物語」のテーマだったと僕は個人的に思っている。

地下鉄の車中で  無人の舟

 地下鉄に乗っていると車中で延々と携帯電話を掛けている方を見かけた。おそらくは欧州の

方だと思われた。凡そ10分程度であったろうか。車中の携帯電話通話は日本においてはマナー

に反していると一般的に思われている。従い、なんとなく僕もいらだちを覚えた次第だが、

ところでなんで自分がいらだちを覚えるのかを考えるきっかけとなった。

 

 声がうるさいからだろうか?だとすると、地下鉄車中はそもそも電車の音で大騒音である。

今更話し声が加わっても騒音面では大した話ではない。電車の音にはいらだたない癖に

人の声には腹が立つというのもそもそも変な話だ。

 

 ここで思い出したのは「荘子」のエピソードの一つだ。

「ある人が船に乗って川を渡ろうとしたとき、向こうから一艘の船がやってきてこちらの船と

ぶつかりそうになった。その人は大声で何度も向こうの船の人に呼びかけたが、反応がまるでなかった。そこでその人は向こうの船の人を大声で非難した。しかし、向こうの船が近づいてきたとき、船の上には誰も乗っておらず、「無人の船」であることがわかった。そこでその人の怒りもすぐに収まった。」  (荘子 山木篇)

 

 「意思を持った他人の有無」が怒りの有無に繋がっている。地下鉄の車中の音も、人の

意思のない通行音なら腹が立たないが、「電話をする」という意思を持った他人の立てる音

だと気に障るということなのかもしれない。音には変わりないのだが。

 

 「車中で携帯電話の通話をしない」ということは法律で明示されていないと思う。マナー

とかエチケットという法律で定められていない「暗黙の決まり」だ。

 「暗黙のルール」とは習慣や文化に起源のあるものだろう。地下鉄で通話していた方の

習慣や文化と僕らのそれらが違うだけとも言える。明文化された法律やルールは明示

されている分だけはっきりしている。修正や改訂も可能だ。黙示されたルールは修正は

難しいだろう。それだけに根深いものがあるのではないか。

 

そんな事を考えているうちに目的の駅に着いた。地上は雨模様である

「平等について いま話したいこと」 トマ・ピケティ  マイケル・サンデル

トランプ大統領が誕生する1月20日の朝に本書を読み終えた。まさに「旬」と言える読書と

なった。

 

 題名の通り、本書では「平等」が議論されている。平等を議論する事は当然ながら「不平等」

を議論することになる。不平等を議論することは、それを「是正」する方策を議論することになる。

その是正の途方もない難しさを本書を通じて改めて思った次第だ。

 

 これを今書いている自分自身を考えてみる。「日本という国に産まれ、それなりの教育の機会を

与えられ、それなりの仕事に恵まれた」という事は自分自身の努力以上に、偶然と幸運

の産物である。

 

その偶然と幸運の産物である僕自身が「自分は本書を曇りなき目で読める」と思ったと

したら、その瞬間に僕自身が何かに搦めとられていると考えるべきなのだと思う。それだけ

本書を読むということは難しい。まず本書を理解すること自体が容易ではないのだ。

 

 その上で本書で対談のお二人が目指すものを考えると、その困難さは想像を絶する。

人類が抱え込んでいる業の深さと宿痾から本当に人類を解放出来るのか。読んでいる間

常にそれが頭を去来した。誤解を恐れずに言うと、本当にそれらを達成しようとしたら、

世界全体レベルで強権を振るう事が出来る体制と指導者が不可欠な気がしてきてしまう。

 

言うまでもなく、それは「1984」の世界ではないかと思うが、そろそろ「『1984』の世界も

一つの選択肢」というような考えも必要ではないか。そんな突っ込んだ議論を本書のお二人

にやって頂けたらどうか。

 

 さて本日からトランプ劇場が始まる。予測不能な未来が待っていると言う方も多い。

そもそも未来を予測可能だとする方が楽観的過ぎるのだろうが。

映画「茶飲友達」  

 非常に重い映画である。

 

 本作のテーマは「高齢者の性の問題・課題」と「家族ということ」の二兎である。二兎を追うと

一兎も得ずというリスクもあるだろうが、本作は上手に兎たちを整理している。具体的には

「高齢者の性」を「性欲」だけで終わらさず「家族ということ」に結び付けていくことでテーマを

一つに収斂させていくという荒業に成功している。そのように僕は理解した。

 

 テーマへの具体的な感想は、テーマが重いだけに中々まとめ切れない。但し、すぐに

かんがえた点は一点である。本作の主人公は「人類」である訳だが、例えば他の動植物

を主人公に出来るのかという設問があったとしたら、答えはNOということだろうという事だ。

動物たちは基本的には「家族」ではなく「一人」で生きていると思う。勿論「群れ」で生きていく

ことはあっても「人類の家族」のような複雑な組織や感情がどこまであるのかは分からない。

 

 また動植物にとって基本的には「性」とは「生殖」に他ならない。「生殖」が終わった後の

動植物に「性」があるようにも見えない。勿論例外もあるのだろうが、それでも「高齢者の性」

が、切実なテーマとなる動物は人類しかいないように僕には思える。

 

 そう考えると本作は「進化の果てに動植物が辿り着いた人類という一生物の悲喜劇」

と言える気がする。僕は「喜」という言葉を、この重い映画に使ってみた。それが

正しい表現かどうかはもう少し考えなくてはならないのだが、悲劇を突き詰めると最後は

喜劇になるのではないだろうか。

貸金庫について

三菱UFJが貸金庫事業からの撤退も視野に入れると報道があった。たまたま昨日他の

銀行の方と話す機会があったが、やはりリスクとリターンが一気に合わなくなってきたと。

まもなく銀行の貸金庫業も終焉を迎えるのかもしれない。

 

 貸金庫の本質は何なのかを考えることは頭の体操になる。「安全な保管場所」ということが

元々の目的なのだろうが、「何から安全なのか」という点を突き詰めると面白い。もともとは

「泥棒から安全」という話なのだと思うが、気が付くと「世間や社会から安全」という展開に

なってきている気がする。つまり世間や社会といった「公の場所」から隠しておきたいものを

保管するという使われ方が増えてきているのではということだ。ある意味では隠し口座で

有名なスイスの銀行の卑小バージョンとして、今の銀行の貸金庫が存在しているようにも

見える。

 

 公から隠したいものは無数のものがあるだろう。お金であったり、保有が禁じられているもの

であったり、人には恥ずかしくて見せられないものであったり。但し、共通している点は

「本音」ということなのだろう。自分の本音というものはえてして隠したいものである。それは

ある意味ではごく自然な話であり、隠すことを禁じることには無理がある。勿論「無理」を

規制する法規やルールも時として必要かもしれないが、そうなると法規・ルール破りの

手法も必ず開発されるだろう。いたちごっこではないだろうか。

 

 そんな中で、もし銀行の貸金庫業がなくなったとしたらどうなるのか。大きな声では

語られないだろうが、結構な影響が水面下で出てくるのではないか。「隠す」ことは

ある意味人間の本能でもあろうから。

「地図なき山 日高山脈49日漂泊行」 角幡唯介

 

 

著者は「冒険」の定義を「脱システム」としている。

 

 システムとは人間が作り出した「生きる為の道具」である。本書で語られる「道具」とは

携帯電話であり、地図であり、GPSである。広い意味で「システム」を考えると他にもいくらでも

ある。「電気」にしても「本」にしても全て「システム」と言える。

 

「システム」構築が出来たことが人類の現在の繁栄を齎したと言ってよい。但し、物事には

常に代償も伴う。システムの中で生きることを選んだ人類は多くの物事や事象を

システムというフィルターを通して感じたり理解することになった。従い野生の「裸眼」で

観ることが出来なくなっている。著者は、それに飽き足らなさを感じてきた。それが著者

のいくつかのとてつもない「冒険」に繋がってきたのだと思う。

 

 そうはいっても著者自身もどうしようもなく「システム」の中にいる。それは著者自身が

いちばん感じているのだと僕は思う。例えば僕は上記で「本」もシステムの一つだと言った。

その僕の意見に著者が賛成するのかどうか。少なくても自分の冒険を本という形で

表現せざるを得ない、若しくは表現したい著者の立場として「脱本」が可能なのかどうか。

 

 「冒険」とは「険を冒す」と書く。英語のADVENTUREの訳なのだろう。ADVENTUREの

語源も、正に「リスクを取って前に進む」というような意味らしい。

 「リスクを取って前に進む」ということはあらゆる生物も進化の過程でやってきたのかと

思う。但し、リスクを取った後の「システム」化をきっちりやれたのは人類が筆頭なのだと

思う。これからも我々は更にシステム化に向かうだろう。その中で喪っていくものは

何なのか。それを語りかけているのが本書ではないか。著者の問題提起は大きくて

深い。