合法的な戦争だとかテロというもの
戦争に関しては「戦争法」というものがある。戦争に際してやっていい事と悪い事を定めて
いるとのことだ。裏を返すと、かような法律があるということは、戦争自体は「合法」であるという
ことを意味する。これは佐藤優の何かの著作で読んで知った話ではある。
最近日本でもテロ未遂があった。N党の党首の方が暴漢に襲われたという話である。その
党首の方の言説には多くの方が眉をひそめていると聞く一方で、そのテロ行為に関しては
「言論の自由を犯す犯罪行為である」という報道が多い。
僕には戦争とテロの本質的な違いが良く分からない。従い「合法的な戦争」があるので
あるなら「合法的なテロ」があるような気がしてくる。そもそも人類の歴史は戦争やテロの
歴史だと僕には思えるからだ。かような歴史に対して、戦争を法制化しようという動きが
あったとしたら、それはそれで「初めの一歩」だったのかもしれない。だとすると二歩目
とは何なのか。それを問われているのが今の時代なのかもしれない。
「ウクライナ戦争の嘘」 手嶋龍一 佐藤優
発行されたのは2023年6月である。一年半前の本であり、この手の時々刻々変わっていく
地政学を扱う本としては、ある意味「古い本」と言える。但し、本質的な部分において本書は
十分に読み応えがあった。その「本質」とは「真実の在り方」である。
日本でメディアに接している限り、ロシアが悪でウクライナが善であるという単純な話が多い。
「ロシアが悪」という点では本書も一致している訳だが、「ではなぜロシアは悪に走ったのか」
という点を詰めて行くと「ウクライナが善」という点においても、必ずしも正しいかどうかが
揺らいでくる。
本書の著者のお二人の意見が正しいかどうかは地政学にうとい僕には分からない。但し、
上記のように「日本のメディアだけに頼っていると物の見方が偏向される」というリスクは
本書を読んで強く感じた。先般の米国とウクライナのトップ同士の罵りあいを日本にいて
どのように見るのか一つも大きく変わってくる。
米国のトップの方は自身の都合の悪い報道に関しては全て「フェイクニュースだ」と断定
すると言われている。滅茶苦茶な話である一方、かような報道が正しいのかどうかはまた
別問題である。「正しいのかどうか分からない」報道をフェイクニュースと言い切るのは確かに
一つの「正しい対応策」ではないかという逆説も成り立たないでもないのではないか。かように
我々にとって何が正しいのかは分からないものだ。但し「何が正しいのか分からない」という
認識は常に心の隅においておくべきだ。本書を読むことで改めて日頃の報道に対しても
一定の距離感を置いて冷静に見ることが大事ではないかと思ったところである。
西郷隆盛の言葉から
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人
ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
この言葉は「無欲」の強さというように読むことが一般的だろう。但し、それだけなのかと
考えることは頭の体操になる。例えば西郷が言いたいのは前段の「仕末に困るもの也」
という部分だったのではないかというように。つまり命も名誉も地位も金も要らないという
人はある意味では極めて扱いにくく、そんな方が大勢いたらぐしゃぐしゃになるという
話しではないか。
「国家の大業」を成し遂げる事は「善」なのだと思う。但し、かような「国家の大業」は
そんなに頻繁に行われるものではなかろう。もっと言うと頻繁に行ってはいけないとも
思う。大技ばかり横行すると、社会や国は混乱に陥るに違いあるまい。平凡なことを
言う訳だが、やはり安定性や安寧性は死活的に大事である局面も多い。
そう考えると「仕末に困る」人とは、いわば「劇薬」であり、決して「常備薬」には
ならない方なのだと僕は思う。「毒をもって毒を制す」というような言葉も浮かんでくる。
「いまだならず 羽生善治の譜」 鈴木忠平
将棋や棋界には詳しくない僕としても十分惹きこまれる一冊である。鈴木忠平の著作はどれも
かような磁力に満ちている。
本書の主人公は羽生善治である。但し、羽生自身に語らせるのではなく、羽生の周囲の人々
の群像劇が本書である。
例えばある「山」を描き出そうとする場合、どうすれば良いのか。おそらくは、その「山」
に拘わったものに語らせるしかないのではないか。その「山」を挑戦する登山家、
登山家をサポートするバックヤードの人々、その「山」を有する国や地域。山自体ではなく、
その山の関係者を描きだすことで、物言わぬその「山」を浮かびあがらせることが出来る。
同じような手法が本書で採られていると僕は思った。「山」である「羽生」の周囲の一人一人の
登場人物の語りを通じて、その実体が浮かび上がってくる。それが本書の工夫であり、かつ、
おそらくは自身について寡黙であろう「羽生」という稀代の棋士を描き出す極めて有効な方法
だったに違いない。極論すると、羽生を打倒する藤井ですら、羽生の周囲の一風景に過ぎない。
藤井は「古い王」である羽生を打ち破る「新しい王」である。かようなギリシャ悲劇にも似た
構造でありながら、著者である鈴木の眼は「古い王」である羽生から離れることはない。羽生が
「敗北」をどのように消化していくのか。むしろ中年になっても敗北を踏みしめて坂の上の雲
に向けて歩いていく青年のような足取りではないのか。そんな清々しさが本書に満ちている。
それにしても鈴木という書き手は貴重な方なのだと思う。「勝負師」を描き出したら今の日本には
比肩するものがいないのではないか。それは鈴木という方は勝負師の勝負の先に「何か違う
もの」を観ようとしているからではないかということが最後の感想である。
日の下にあたらしきものはなし
世界が本当にきなくさくなってきた。
当たり前のことながら人類の歴史はきなくささの歴史である。そういう意味では、このところの
世界の動きを観ていると自分自身も歴史の中に生きているという実感が沸いてきた方も多い
のではないだろうか。「昨日の延長が明日になる」という平坦な感覚を持つ間は「歴史とは
読んだり聞いたり観たりするもの」だった。「明日はいったいどうなるのか不透明」という状況
となると俄然「歴史とは自分で生き抜くもの」に変わってきている。これは僕の全くの個人的な
私見ではあるが。
先日諏訪大社を訪問して驚いたことがある。大木・巨木が数多く残されていることだ。人間が
立てる御柱も含めて樹木信仰と言えるのではないか。かような樹木から見ると、今のきなくささ
も目新しくないのかもしれない。「日の下にあたらしきものはなし」とは旧約聖書の「コレヘトの
言葉」にある一文だが、巨木たちもかようにのっぺりと思っているのかもしれない。
諏訪大社を訪れて
週末の旅行。松本の翌日は諏訪に出かけた。諏訪大社のお参りである。
神社仏閣という言葉がある。神社と寺院を一緒にした言葉だ。観光旅行用の言葉なのだろうが、
その両者は似て非なるものだ。僕は元々仏像が好きなので寺院中心であり、あまり神社には興味
が無かった。但し、ここにきて神社の面白さに気が付き始めてきている。
寺院は仏教である。仏教は高度な哲学理論を構成している。言い換えると、少し説教じみている。
それに対して神道には哲学や理論は無いということが素人の僕の理解である。従い説教は
そこにはない。代わりにあるのは、ある種異様なアニミズムにも似た迫力である。
諏訪大社は御柱で有名だ。七年に一度の御柱祭では毎回のように死者が出る。死者が
出ても、御柱祭を止めようという話にはならない。いや、ネットで調べると弁護士の方が
2016年頃に御柱祭の今後の中止を訴訟で出した様子だが最高裁で棄却された模様
である。詳しい判決内容までは勉強していない僕ではあるが、皮膚感覚でかような判決は
正しい気がする。御柱や御柱祭は「神の領域」だと勝手に解釈している自分があるからだ。
4つある諏訪大社のいずれも四隅に御柱が立っている。同行頂いた大学時代の友人は
「結界を張っているのだな」と言っていたが、正にその通りなのだろう。仏像のような
目に見える本尊は無い。せいぜい鏡がある程度だが、そもそもなぜ鏡なのかもしれない。
かような訳の分からない不気味さが神社にはある。寺院とは全く違う空気が流れている。
言語化出来ない時間であり事象であるのだ。
松本市を訪れて 湧水の街
週末に妻と長野県の松本と諏訪を旅行した。学生時代の友人が住んでいるのを頼っての
一泊旅行である。
松本で一番驚いたのは湧き水が豊富であることだ。街のいくつかの場所で水が湧いていて
小さな流れをなしている。見廻すと全て山に囲まれている盆地であり、山々が濾してきた水が
自噴しているということらしい。
そんな湧き水は住んでいる方の生活の一部となっている。朝食に出かけた食堂でもすぐ隣で
湧き出ている水を使った朝ごはんが実に美味しかった。犬の散歩のお年寄りも、食事は全て
湧き水を使っていると誇らしげだった。
日頃は国立市に住んでいる。国立市に住み始めて、もう23年になる。多摩のところどころにも
湧き水があり、その近くには必ず古代の人々の住居跡が見つかる。当たり前のことながら
水は人間の生活には不可欠な訳だ。そんな人間の暮らしは今なお変わらない。松本の湧水を
見ていて、改めてそんな当たり前のことを想った。「当たり前のこと」とは案外普段忘れている
ことも多い。
乱世を迎えて
塩野七生によると、ローマ帝国の統治は以下だったという。すなわち平時は「執政官」が
二名体制で統治を行う一方で、戦争等の非常時には一人の「独裁官」体制となり、難局に
当たるようにしていたとのことだ。独裁官には任期がしっかりと決まっており、独裁体制が
長続きしないような制度設計も盛り込まれていたという。
「平時」と「乱世」という言葉がある。「乱世」となると状況の変化が速く、平時の体制では対応が
難しくなると一般的に言われている。合議制で物事を決めていくと議論に時間が掛かる事や、
総花的で平凡な対応策しか出てこないからだという。従い、乱世には独裁者タイプが望まれる
ことが多いらしい。これは国だけではなく、企業においても同様かもしれない。
いまの世界を見渡すと独裁者タイプのリーダーが増えてきている。これは世界が乱世時代を
迎えている証左なのかもしれない。裏を返すと独裁者は乱世を好み、乱世を作ろうとする
本能を持つのかもしれない。だとすると、今の「乱世」は当分続くに違いあるまい。そもそも
歴史を考えてみても、「平時」は限定的だったのではないか。
ところで「平時」とは何なのかと考えることも大事だ。「秩序立った状態」とでも言うのかも
しれない。但し「平時」の中にも見えにくい「独裁者」が存在することもしばしばではないだろうか。
そもそも「秩序立った」という、その「秩序」とは誰のためのどのような状態なのかを突き詰めて
考えることも大事なのだと思う。見えにくい「独裁者」にとっての都合の良い「秩序」というものが
こっそりと導入されていないだろうか。「乱世」とは、かような「秩序」を正す「世直し」であると
思う人が増えてくると、世の中は益々きなくさくなるだろう。
「音楽」 三島由紀夫
三島由紀夫は「近代能楽集」以外には殆ど読んできていない。少し反省して、今回本書を
読んだ。
本書を読んでいて思い出したのは芥川龍之介の「藪の中」である。色々な登場人物がそれぞれ
自分の話を主人公の精神科医である「私」にする訳だが、それらの話が真実なのかどうか
まるで分からない。あきらかな「嘘」から始まり、各自の「思い込み」であるとか「思い付き」
だらけであり、読者も混乱してくる。唯一読者が信を置くであろう主人公の「私」も、どこまで
本当のことを話しているのか分からなくなってくる。ここでアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」を
思い出す方もいらっしゃるかもしれない。
芥川やクリスティは、かような「語り口」に強く興味を持っていたはずだ。芥川にとって
「藪の中の強姦劇」とは物語の素材に過ぎない。あくまで登場人物各人がバラバラな告白を
していく中で事実と真実が揺らいでいく様が「藪の中」のテーマである。クリスティの目的も
似たような地平線にある。語り手が犯人だったということで「語り口」そのものに迫るミステリー
を思いついた時の彼女の興奮は想像できる。
三島はどうか。三島はあくまで本書の素材である「不感症」がテーマであり、「語り口」を
目的としているとは思わない。あくまで「性」を巡っての物語なのだと思う。「語り口」
は逆に「素材」ということだ。そう僕は読んだ。
初めに言った通り三島の本は殆ど読んでいない。逆に言うと、これから色々と読む余地が
ふんだんに残っているということでもある。それは楽しい。
市民大会が競技レースを飲み込み始めている
別府大分マラソンに次いで、昨日の大阪マラソンも見ごたえがあった。初マラソン記録更新、
青学旋風継続等の話題で盛り上がった大会だった。特に参加選手の記録がどんどん速くなって
いる点には目を見張らされる。シューズの進化等もあろうが、観ていて選手たちの「明るさ」が
近年目立つようになってきたのではないか。楽しそうに走っている感が強い。
一時代前のマラソンというとストイックなイメージが強かった。寡黙に練習をコツコツと重ね、
年に1回のレースに勝負をかけるという「修行僧の果し合い」のような悲壮感漂う競技に見えた
ものだ。不振に悩んで自ら命を絶つ日本代表選手が書いた遺書を寺山修司が激賞する
時代もあったことも思い出す。
マラソンという競技が変わった訳ではない。参加する人間側の考え方が変わったのだ。そもそも
日本は市民大会が多いマラソン大国である。市民レースと競技レースは元々は別物であった
と思うが、次第に垣根が崩れてきている。箱根駅伝に出た方が地方公務員となり、市民大会に
数多く参加しているうちに気が付いたら日本代表になってしまったというような痛快な事態が
出てきたのも最近である。端的に言うと市民大会が競技レースを飲み込み始めている。
市民大会の明るさが競技レースにもじわじわと浸透してきた。
「明るく楽しくやっていくことは簡単ではない」というように考えがちだが、それは実は間違って
いないかと考えることは「楽しい」。そんな風に思わせてくれるレースであった。
