「ペイチェック」

以前機内で鑑賞したはずだが、その記憶が削除された感もあり、レンタルで借りて観たところだ。
原作を読んだことはないが、話の筋立てが良く出来ている。手元に残されたガラクタ類が、実は
局面局面できちんと役立つ点等は、若干趣旨が違うが、わらしべ長者のような趣もある。観客も「あの
ガラクタは何に役立つのだろうか」と想像しながら物語を追いかけることになる。そこが楽しい。
それにしても原作者ディックの映画界に対する貢献は実に広くて大きいと言わざるを得ない。
ブレードランナーを頂点に(と僕は思っている)、彼の映画はハリウッドにとっても安心して
映画化することが出来るということなのかもしれない。
原作を読んだことはないが、話の筋立てが良く出来ている。手元に残されたガラクタ類が、実は
局面局面できちんと役立つ点等は、若干趣旨が違うが、わらしべ長者のような趣もある。観客も「あの
ガラクタは何に役立つのだろうか」と想像しながら物語を追いかけることになる。そこが楽しい。
それにしても原作者ディックの映画界に対する貢献は実に広くて大きいと言わざるを得ない。
ブレードランナーを頂点に(と僕は思っている)、彼の映画はハリウッドにとっても安心して
映画化することが出来るということなのかもしれない。
「夜がはじまるとき」 スティーブン・キング

久しぶりにキングを読んだ。相変わらずの筆達者ぶりにため息をつきながら。
本短編集は「N」と「どんづまりの窮地」が白眉なのだろうが、個人的には「ニューヨーク・タイムズを特別割引価格で」が好きになった。
キングによると本作は夜中に数時間で書きあげたという。天才のありかというものを感じさせるエピソードだと思う。
確かに、数時間で書いた「粗さ」というものはある。かつ、話の展開も設定の割には大きくない。主人公の夫が告げる将来の災難も大したものではない。もう少し書き込むことも出来るような気はする。
但し、そこまで精緻に書かなくても良い勢いがある。いや、粗削りの方が伝わってくるものがあるのかもしれない。そういうロマンス譚こそが本作なのである。
夫を亡くした主人公は再婚した。再婚させたことで、この短編のコクがぐっと上がっている気がする。なぜなのだろうか。
本短編集は「N」と「どんづまりの窮地」が白眉なのだろうが、個人的には「ニューヨーク・タイムズを特別割引価格で」が好きになった。
キングによると本作は夜中に数時間で書きあげたという。天才のありかというものを感じさせるエピソードだと思う。
確かに、数時間で書いた「粗さ」というものはある。かつ、話の展開も設定の割には大きくない。主人公の夫が告げる将来の災難も大したものではない。もう少し書き込むことも出来るような気はする。
但し、そこまで精緻に書かなくても良い勢いがある。いや、粗削りの方が伝わってくるものがあるのかもしれない。そういうロマンス譚こそが本作なのである。
夫を亡くした主人公は再婚した。再婚させたことで、この短編のコクがぐっと上がっている気がする。なぜなのだろうか。
キングはホラーの巨匠なのかもしれないが、彼のホラーの怖さは「人間の愛」にあることが多い。誰しもがどこかにかすかに持っている「良心」や「善」という部分を突き刺してくる事がキングの「恐怖」なのだと僕は思っている。 本作での再婚に関しても、夫を亡くした主人公がその後の孤独を埋める努力を放棄しなかったということを指していると僕は思う。新しい伴侶を得つつも、電話が掛かってくると、それが亡くなった夫からではないかと思ってしまう。そのリアリティーが、再婚したという事実によって、逆にしっかりと立ち上ってきている。
「バベル」

パシフィックリムで菊池凜子が好きになった。菊池というと本作が有名である。その程度の発想で本作を鑑賞
する機会を得た。
実験的な作品だ。アマゾンのレビューでの見事なまでの評価の別れ方を見てもそれが分かる。これはとりも
なおさず、色々な趣味・興味の方が本作を観たということを意味するのかもしれない。
実際、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといった出演者を見て、メジャーなハリウッド映画を想定して
観た方も多かったろう。
一方、役所広司等が米国映画に出ている点で観た人も多かったろう。菊池凜子のヌード目当ての人もいたに
違いない。
する機会を得た。
実験的な作品だ。アマゾンのレビューでの見事なまでの評価の別れ方を見てもそれが分かる。これはとりも
なおさず、色々な趣味・興味の方が本作を観たということを意味するのかもしれない。
実際、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといった出演者を見て、メジャーなハリウッド映画を想定して
観た方も多かったろう。
一方、役所広司等が米国映画に出ている点で観た人も多かったろう。菊池凜子のヌード目当ての人もいたに
違いない。
そういう方が「バベル」という映画をどう咀嚼するのか。それが僕の興味でもある。
バベルとは聖書に出てくる逸話だ。人がバベルの塔を建てようとしてことが神の逆鱗に触れ、雷で塔を破壊すると共に、それまで一か国語で話してきた人々に多国語を与え、人と人がコミュニケーション出来なくなったという
話だ。本作はその表題通り「言葉によるコミュニケーション」の問題を素直に扱っている。
仲違いをしていた米国人夫婦は妻がモロッコで銃撃される。言葉の通じないモロッコで妻を介抱する夫は
いらだち、苦悩する。それを優しく支えるのは現地の寒村のモロッコ人だ。結果的には的確な処置を行った
ことで妻は助かる。介抱の家庭で夫婦は会話を再開する。
聾唖者の菊池は、まさに話が出来ないという環境の中で東京を放浪している。言葉で伝えられないものを伝えようとする。言葉ではなく肉体を使ってコミュニケーションをしようともがく。そのもがき方が彼女のエピソードだ。
米国夫婦の子供たちのエピソードにも惹きこまれる。ベビーシッターの軽率な判断で国境を越えてメキシコに
行ってしまう。戻ろうとした際に米国の入国管理官とコミュニケーションが取れないことで砂漠に迷うことに
なってしまう。子供たちとベビーシッターとの間でも話は難しい。
以上のように考えながら、ゆっくり鑑賞した次第だ。決して簡単な映画ではない。見ていて楽しい映画でも
ない。ただ考えさせられた。
「亡国のイージス」

阪本という監督はデビュー作「どついたるねん」以来、好きな方である。どちらかというと
予算が少なそうな中で、手間を掛けて上質の作品を出してきた方だ。特に個人的には「王手」
が実に気に入っている。ある種の雰囲気を切り出す手さばきが素晴らしい。
あれから20年余たち、坂本もメジャーな監督だ。本作もどう見ても低予算とは思えない。
豪華な作品を作れるようになった阪本を見るとある種の感慨もある。
但し、と言ってしまう。
但し本作は過去の低予算作品と比較してどうなのだろうか。僕には疑問である。
何が無いのかと考えると、本作は人間の造形が実に薄いという点に尽きる。長い原作を
映画にする際の典型的な失敗として、原作で書きこまれた人間像が映画では出せないという
点にあるわけだが、本作も忠実にかような「映画の罠」に嵌っているとしか思えない。
それでは開き直って本作の主人公を人間ではなく、イージス艦だと設定して見直したら
どうか。
それはそれで一つの考え方かもしれない。但し、大抵が艦内を舞台としており、戦艦
としてのダイナミズムは見られない。これはしょうがないと思う。そもそも機密事項
であろうイージス艦をここまで撮影できただけでも大したものだからだ。それ以上を
期待することが間違っているということだ。
ということで、阪本映画としては僕は消化不良だった。むしろ近年の「大鹿村」あたり
の方がよほど阪本らしい映画だったから。
予算が少なそうな中で、手間を掛けて上質の作品を出してきた方だ。特に個人的には「王手」
が実に気に入っている。ある種の雰囲気を切り出す手さばきが素晴らしい。
あれから20年余たち、坂本もメジャーな監督だ。本作もどう見ても低予算とは思えない。
豪華な作品を作れるようになった阪本を見るとある種の感慨もある。
但し、と言ってしまう。
但し本作は過去の低予算作品と比較してどうなのだろうか。僕には疑問である。
何が無いのかと考えると、本作は人間の造形が実に薄いという点に尽きる。長い原作を
映画にする際の典型的な失敗として、原作で書きこまれた人間像が映画では出せないという
点にあるわけだが、本作も忠実にかような「映画の罠」に嵌っているとしか思えない。
それでは開き直って本作の主人公を人間ではなく、イージス艦だと設定して見直したら
どうか。
それはそれで一つの考え方かもしれない。但し、大抵が艦内を舞台としており、戦艦
としてのダイナミズムは見られない。これはしょうがないと思う。そもそも機密事項
であろうイージス艦をここまで撮影できただけでも大したものだからだ。それ以上を
期待することが間違っているということだ。
ということで、阪本映画としては僕は消化不良だった。むしろ近年の「大鹿村」あたり
の方がよほど阪本らしい映画だったから。
「モルツ」

国立の喫茶店「書簡集」のオーナーと休日の昼下がりに話す機会が多い。仕事にも家庭にも関係が
無い方とゆっくりと会話することは案外面白いものだ。
話の中でビールが出てきた。オーナーも僕も村上春樹の割とコアなファンである。
かつどちらかというと初期の作品への共感が強い。初期の村上というとビールである。
ということで夕方にビールを飲みながら村上の話をすることもある。
そのうちにモルツの話になった。
僕の理解ではモルツはプレミアムモルツに進化し、現在プレミアムしかないというもの
だった。オーナーは、プレミアムモルツとは別にオリジナルのモルツもごく一部ながら
販売継続しているという意見である。ということでアマゾンで探した結果、オーナー
のいう事が正しかったことが判明した。さっそく懐かしさのあまりに注文した。
プレミアムモルツはサントリーの成功譚の一つだ。品質的なイメージが非常に良い。
ヱビスビールと真っ向から対決出来るのは国産ビールではプレミアムモルツしかない
かもしれない。
一方、プレミアムモルツはしつこいことも確かだ。一度にたくさん飲めない。「美味しすぎる」
という言葉で言える。
そこでオリジナルのモルツである。久々に飲んでこれは旨いと思った。味わいがしっかり
しつつ、軽さがある。しつこくない。飽きが来ない。なるほど。
ということでオーナーに感謝しているところである。
無い方とゆっくりと会話することは案外面白いものだ。
話の中でビールが出てきた。オーナーも僕も村上春樹の割とコアなファンである。
かつどちらかというと初期の作品への共感が強い。初期の村上というとビールである。
ということで夕方にビールを飲みながら村上の話をすることもある。
そのうちにモルツの話になった。
僕の理解ではモルツはプレミアムモルツに進化し、現在プレミアムしかないというもの
だった。オーナーは、プレミアムモルツとは別にオリジナルのモルツもごく一部ながら
販売継続しているという意見である。ということでアマゾンで探した結果、オーナー
のいう事が正しかったことが判明した。さっそく懐かしさのあまりに注文した。
プレミアムモルツはサントリーの成功譚の一つだ。品質的なイメージが非常に良い。
ヱビスビールと真っ向から対決出来るのは国産ビールではプレミアムモルツしかない
かもしれない。
一方、プレミアムモルツはしつこいことも確かだ。一度にたくさん飲めない。「美味しすぎる」
という言葉で言える。
そこでオリジナルのモルツである。久々に飲んでこれは旨いと思った。味わいがしっかり
しつつ、軽さがある。しつこくない。飽きが来ない。なるほど。
ということでオーナーに感謝しているところである。
「向田邦子の恋文」
向田邦子というと美しい日本語の書き手であるわけだが、その彼女がプライベートに書いた
手紙の文章が楽しい。もっというとメール全盛時代に現在に「手紙」を読むことはある種の
新鮮な体験だ。
メールと手紙とは何が違うのか。そう考えるとなかなか楽しい。向田の書いている手紙を
読むと、実に散漫なものだ。だらだらと思いつくままに書いているとしか思えない。
「だらだらと」と言ったが、向田を貶める積りはない。むしろ、人の心の有り様こそが
そもそも「だらだら」としているという意味だ。勿論、何かに集中しているときは心の
有り様もだらだらしているわけではなかろう。向田も著作に向かっているときは
おそらく、研ぎ澄まされた心で書いていたはずだ。但し、向田は、今、好きな男に
対して「だらだら」と書き綴っている。そんな一個人としての向田の姿が可愛いし、
楽しいわけだ。
メールで同じようなことが出来るのか。向田がいま存命であったなら、恋人に
メールで同じようにだらだらと書いたのだろうか。おそらくそうはならない気がする。
メールと手紙との大きな違いは時間軸だ。メールは出した瞬間に相手に届く。手紙は早くても
一日程度かかる。メールを書く場合、宛先はこの瞬間の相手である。手紙の宛先は「近い将来
の相手」だ。そんなタイムラグが、手紙のある種の緩さを齎している。宛先が「近い将来の
相手」であるなら、だらだらと思いつくことを思いのままに書いても良いではないか。
手紙というメディアは今は重い。例えば妙齢の女性から、ずっしりとした封筒でも郵送されてきたら
かなり緊張するような気がする。その意味でも手紙は案外と見直される日もくるかもしれない。
向田もご本人が意識しなかったであろう中でご自身の手紙が文学として読まれてしまうわけだし。
手紙の文章が楽しい。もっというとメール全盛時代に現在に「手紙」を読むことはある種の
新鮮な体験だ。
メールと手紙とは何が違うのか。そう考えるとなかなか楽しい。向田の書いている手紙を
読むと、実に散漫なものだ。だらだらと思いつくままに書いているとしか思えない。
「だらだらと」と言ったが、向田を貶める積りはない。むしろ、人の心の有り様こそが
そもそも「だらだら」としているという意味だ。勿論、何かに集中しているときは心の
有り様もだらだらしているわけではなかろう。向田も著作に向かっているときは
おそらく、研ぎ澄まされた心で書いていたはずだ。但し、向田は、今、好きな男に
対して「だらだら」と書き綴っている。そんな一個人としての向田の姿が可愛いし、
楽しいわけだ。
メールで同じようなことが出来るのか。向田がいま存命であったなら、恋人に
メールで同じようにだらだらと書いたのだろうか。おそらくそうはならない気がする。
メールと手紙との大きな違いは時間軸だ。メールは出した瞬間に相手に届く。手紙は早くても
一日程度かかる。メールを書く場合、宛先はこの瞬間の相手である。手紙の宛先は「近い将来
の相手」だ。そんなタイムラグが、手紙のある種の緩さを齎している。宛先が「近い将来の
相手」であるなら、だらだらと思いつくことを思いのままに書いても良いではないか。
手紙というメディアは今は重い。例えば妙齢の女性から、ずっしりとした封筒でも郵送されてきたら
かなり緊張するような気がする。その意味でも手紙は案外と見直される日もくるかもしれない。
向田もご本人が意識しなかったであろう中でご自身の手紙が文学として読まれてしまうわけだし。
「売る力」 鈴木敏文
ビジネス書はさほど読まないがセブン関係の本は例外である。割と読んできているし、アマゾンのレビューも
結構書いてきている。本書もその流れで読む機会を得た。読後は以下二点だ。
一点目。著者の鈴木のセブン以前の話が新鮮だった。即ちトーハンでの勤務の回顧部分である。
著者によると、新刊本のPR誌を編集していたとのことだ。新刊本を紹介する無料の固い少部数の雑誌から
有料ながらも、軽さやインタビューを交えた幾分くだけた雑誌に変更した。結果として部数も
大きく伸びた話だ。著者はこの体験が「『客のために』ではなく『客の立場にたって』という『目線』を
獲得するきっかけとなった」と言っている。日本が今や世界に誇るコンビニエンスシステムが、本の出版社に
居た若者によって創造されたという点は、特筆されて良い。
二点目。著者のコメントはスティーブジョブスのそれに似ている部分があった。
著者は116頁にて客に欲しいものを聞いても「本当に欲しいもの」は聞きだせないと言っている。これは
スティーブジョブスが新製品の開発に際して、マーケットリサーチをしなかったという話を思い出す。
スティーブは、その理由を「まだ見たことがないものに興味があるかどうかを人に聞いても分かるわけがない」
としている。これは端的に言うと、自分達がこれから作ろうとしているものは「まだ誰も見たことがないものだ」
という強烈な自負心を表している。
鈴木は、そこまでは言っていないと思う。セブンにあるものは、大概はそれ以前にあったものだ。ATMにせよ、
コーヒーにせよ、金の食パンにせよ、既存のものを持ってきたと言って良い。勿論セブンプレミアムやセブンゴールド
といった形で品質面に拘ったものがあるにせよ、既存にあったものである。
但し「それらがコンビニに存在している」という点でスティーブが世界に与えた衝撃と同等の衝撃を
与えているとも言える。コンビニで24時間、週に七日お金がおろせるようになったということは
昔の銀行のATMを知っている世代としてはまさに衝撃だ。その意味では「まだ誰もそれがコンビニに
あるところを見たことがないもの」に関して、客に意見を聞いても意味が無いというと、まさに
スティーブの話に重なる。
先ほど「日本が今や世界に誇るコンビニエンスシステム」と書いた。これは本当にそうだと僕は
信じている。コンビニも米国発祥であるわけだが、日本にて進化した。車、即席麺、カラオケ等
と同列で語られても良いと思う。いや、商品(車と即席麺もカラオケも商品である)ではない
システムである点では更にユニークではなかろうか。
結構書いてきている。本書もその流れで読む機会を得た。読後は以下二点だ。
一点目。著者の鈴木のセブン以前の話が新鮮だった。即ちトーハンでの勤務の回顧部分である。
著者によると、新刊本のPR誌を編集していたとのことだ。新刊本を紹介する無料の固い少部数の雑誌から
有料ながらも、軽さやインタビューを交えた幾分くだけた雑誌に変更した。結果として部数も
大きく伸びた話だ。著者はこの体験が「『客のために』ではなく『客の立場にたって』という『目線』を
獲得するきっかけとなった」と言っている。日本が今や世界に誇るコンビニエンスシステムが、本の出版社に
居た若者によって創造されたという点は、特筆されて良い。
二点目。著者のコメントはスティーブジョブスのそれに似ている部分があった。
著者は116頁にて客に欲しいものを聞いても「本当に欲しいもの」は聞きだせないと言っている。これは
スティーブジョブスが新製品の開発に際して、マーケットリサーチをしなかったという話を思い出す。
スティーブは、その理由を「まだ見たことがないものに興味があるかどうかを人に聞いても分かるわけがない」
としている。これは端的に言うと、自分達がこれから作ろうとしているものは「まだ誰も見たことがないものだ」
という強烈な自負心を表している。
鈴木は、そこまでは言っていないと思う。セブンにあるものは、大概はそれ以前にあったものだ。ATMにせよ、
コーヒーにせよ、金の食パンにせよ、既存のものを持ってきたと言って良い。勿論セブンプレミアムやセブンゴールド
といった形で品質面に拘ったものがあるにせよ、既存にあったものである。
但し「それらがコンビニに存在している」という点でスティーブが世界に与えた衝撃と同等の衝撃を
与えているとも言える。コンビニで24時間、週に七日お金がおろせるようになったということは
昔の銀行のATMを知っている世代としてはまさに衝撃だ。その意味では「まだ誰もそれがコンビニに
あるところを見たことがないもの」に関して、客に意見を聞いても意味が無いというと、まさに
スティーブの話に重なる。
先ほど「日本が今や世界に誇るコンビニエンスシステム」と書いた。これは本当にそうだと僕は
信じている。コンビニも米国発祥であるわけだが、日本にて進化した。車、即席麺、カラオケ等
と同列で語られても良いと思う。いや、商品(車と即席麺もカラオケも商品である)ではない
システムである点では更にユニークではなかろうか。
パスタを茹でながら

円安進行もあって、パスタが値上がりしている。いちいち店で買っているとなんだか
腹立たしいこともあり、かつまとめ買いした方が安いだろうということで思い切って
購入した。
パスタを僕が作るのは休日の昼食である。どのような味付けやソースにするのかを考える
ことは休日の楽しみの一つだ。
腹立たしいこともあり、かつまとめ買いした方が安いだろうということで思い切って
購入した。
パスタを僕が作るのは休日の昼食である。どのような味付けやソースにするのかを考える
ことは休日の楽しみの一つだ。
当たり前のことながら冷蔵庫の在庫と相談しながら色々と考える。考えた結果を調理を通じて
試してみることは、ある種の芸術に通じるものもある等と大袈裟に考えながら、キッチンを
うろうろするわけだ。
パスタを茹でる時間の豊穣さは村上春樹の初期の作品にも良く出てきたではないか。
「別れの挨拶」 丸谷才一

丸谷才一という方の本を読むのは本書が初めてである。
淡淡な語り口と言うべきか。大柄な男がぼそぼそ話しているような印象も受ける。相手の声が小さいと
つい身を乗り出して聞きに行ってしまう。聞きに行った段階で、もうこちらの負けだ。
最後の一編が読ませる。「わが青春の一ページ」という題名だ。桐朋学園の祝賀会のスピーチである。音楽科の会のスピーチで丸谷は「たとへば、言論の自由が保証されてゐた点で、東アジアでは随一でせう」と日本を語っている。
日本で言論の自由があるかどうかはかなりの議論を呼ぶ可能性はあると思うが、老文筆家は軽やかにそう言い切っている。それがある種の明るさを齎している。
丸谷というかたはきっと「言論の自由」を満喫されたのだろうと思う。
淡淡な語り口と言うべきか。大柄な男がぼそぼそ話しているような印象も受ける。相手の声が小さいと
つい身を乗り出して聞きに行ってしまう。聞きに行った段階で、もうこちらの負けだ。
最後の一編が読ませる。「わが青春の一ページ」という題名だ。桐朋学園の祝賀会のスピーチである。音楽科の会のスピーチで丸谷は「たとへば、言論の自由が保証されてゐた点で、東アジアでは随一でせう」と日本を語っている。
日本で言論の自由があるかどうかはかなりの議論を呼ぶ可能性はあると思うが、老文筆家は軽やかにそう言い切っている。それがある種の明るさを齎している。
丸谷というかたはきっと「言論の自由」を満喫されたのだろうと思う。
本書に収録されたあまりにも多岐に渡った話題を観ていると、そう思わざるを得ない。そういえば丸谷は小林秀雄を「その小林秀雄の批評家としての最大の功績が、話題として取上げる領域の拡大であったことが、まことに皮肉なこととして思ひだされる」と書いているが、その言葉は皮肉抜きで丸谷にも捧げても良いのではないか。
上記に書いたスピーチを丸山は行うことは出来なかった。会の前日に倒れ、当日は代読されたという。言論の自由を語られた音楽家達が何を思ったのか。音楽にも「音楽の自由」というものがあるのか無いのか。丸谷のご意見も聞いて見たかった。それが最後の余韻である。
上記に書いたスピーチを丸山は行うことは出来なかった。会の前日に倒れ、当日は代読されたという。言論の自由を語られた音楽家達が何を思ったのか。音楽にも「音楽の自由」というものがあるのか無いのか。丸谷のご意見も聞いて見たかった。それが最後の余韻である。
なごみさんのご逝去の報に接して
ブログの友人であったなごみさんが逝去された。長らく乳癌を患われており、9月からブログのUPが無かったので心配していたところ、12月になってご友人の方の代筆でご逝去の報に接した。
なごみさんは僕のブログに最初にコメントを頂いた方である。2006年2月であるから、もう8年近い昔
になる。以降、折に触れて、ブログで話をする機会を得た。2008年から2012年の間の僕のインドネシア在住期間中も同様であり、たまに帰国した際には簡単なお土産をお互いが知っている古書屋を通じてお渡ししたことも
今では懐かしい。
結局一度もお会いすることは無かった。そういう友人の有り方というものは新鮮であったし、相手に会う事がないというルールにもある種の心地よさがあった。昔のペンフレンドもそんな感じだったのかもしれない。
一度もお会いしなかった方の逝去がかくも悲しいものである点にいささか驚いているところだ。ご冥福を
祈る前に、いささかうろたえている。