くにたち蟄居日記 -88ページ目

「シュガーマン」 

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 全く予備知識なしに鑑賞した。二回くらいに分けて観ようかと思いながら見始めた。途中で中断することなど
到底不可能だった。

 真実は小説より奇なりという言葉がある。その好例である。本国アメリカでは全く売れず、ミュージシャンを諦めた主人公がいる。彼が、南アフリカで本人の知らないうちにスーパースターになっていたという話だ。

 その「スーパースター」の有り方も普通ではない。南アフリカのアパルトヘイトへのレジスタンスを支えてきた音楽を作ったという歴史は非常に重い。即ち、人気のあり方が通常の「スーパースター」とは全く違うということだ。南アフリカの人々がロドリゲスの音楽を聴く際に想うことは何なのかを想像しながらこのドキュメンタリーを鑑賞することが本作の正しい鑑賞姿勢なのだと思う。

 但し、本作の最大のテーマは南アフリカの政治問題ではない。

 「ミュージシャンを諦めた男が日々地に足のついた生活を送り、子供たちを育て上げる。音楽を離れてかなり時間が経った後に突然「スーパースター」であることを求められる。求められた通り「スーパースター」をこともなげに演じ、また以前の質素な生活に戻る。そんな話でもあるのだ。

 そこから立ち上るロドリゲスという男の矜持と立ち振る舞いの美しさが本作の最大のテーマである。

「人に強くなる極意」  佐藤優

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 ここ数年来、佐藤優の本は出る度にわりときちんと読んできている。博覧強記の方なので著作も多い。著作が多い以上、ある程度玉石混交であることは免れない。但し、佐藤の本はある一定の水準を保っているという印象がある。
 理由を考えてみると、要は、色々な本を書くにしても使っている題材・素材をきちんと限定しているからではないか。今回ふとそう思った。

 佐藤が使う題材・素材を書きだしてみる。ロシア(旧ソ連)。外務省及び国際情勢。神学及び神学をベースとした哲学。沖縄及びそこから派生される日本論・国家論。以上が主だろう。かつ、それらを自由に、かつ有機的に混ぜている点が持ち味である。

 これらの題材・素材を繰り返し使っていく。それを通じて、佐藤自身のそれらに対する理解と知識も日々高まっていく。そんなことが想像される。要は佐藤自身も、佐藤が使う題材・素材を通じて、佐藤自身を「現在進行形」に保つことが可能になっている。その「現在進行」をその時々に中間報告する。それが彼の著作の一つの有り方になっているのではないか。

 本作も上記題材を自由に駆使しながら、読みやすい一冊となっている。佐藤は冒頭で本書を「テーマのレベルはかなり高度である」と自負している。それはまさに佐藤が使う題材・素材のレベルを言っているのだろう。

「超訳 小説日米戦争」  佐藤優

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 佐藤優は忘れられた本を掘り出してくる名人である。特に戦中戦前の本を引っ張り出してくる点に特色がある。佐藤のお蔭で大川周明等の本を読む機会も得た。今回は樋口麗陽という方が大正9年に書いた本を21世紀の現在に読み返すことになった。

 本書では触れられていないが、ゴジラを思い出した。「小説日米戦争」では石仏博士が山にこもって新しい兵器を開発し、攻めてくる米国に対決しようとする場面が紹介される。これは映画「ゴジラ」で、ゴジラを退治する「オキシジェンデストロイヤー」という薬を芹沢博士と言う方が秘密開発する場面に実に似ている。

 考えてみるとゴジラは水爆実験で生じた怪獣が日本を攻めてくる話である。おそらくはゴジラに米国の姿を見る向きもあったはずだ。「米国に対決する化学兵器を隠遁した科学者が創る」と言い直すと、ほぼ同じ構造である。勿論「小説日米戦争」の方がゴジラより古い。従いゴジラが「小説日米戦争」を踏まえた可能性が大きいということだろう。

 前記の通り、佐藤の読解が面白いのは、古典を現代に読み返す点だ。佐藤は「小説日米戦争」が書かれた大正初期と現在の状況が似ていると説く。従い、大正で「その後に起こったこと」を見直すことが、現在の我々にとっても大きな「考えるヒント」であるとする。

 本書では佐藤は米国との距離感をいかに正しく保つのかという点をテーマにしている。ともすると、時代の流れやマスメディアの雰囲気で、世論が形成されてしまいがちな点を戒めている。そこに必要とされるのは「インテリ」であるという宇野弘蔵の言葉を肯定的に引用している。宇野によると「インテリ」とは「自分がいまいる場所」をきちんと把握できる人だという。その意味では例えば米国との距離感を図るにしても、自分のいる場所が分からないと不可能ということだ。

 ゴジラは東京湾で白骨化した。ゴジラを白骨化させた化学兵器を開発した芹沢博士も自ら命を絶った。ゴジラを現代で見直すことも自分のいる場所を確認する一つの知的作業かもしれないなと最後に思った。

「ルポ 虐殺」  杉山春

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 本作が扱う事件が発生した2010年、僕はインドネシアに住んでいた。インドネシアで新聞でこの事件を読み
置き去りにした母親に対して怒りを覚えたことを今でもおぼえている。今回本作が刊行されて直ぐ手に取ったのも
当時の記憶がまだ鮮明だったからだ。読後感は二点だ。

 一点目。本作は「親に捨てられた子供」の話だ。

 事件に即すると「母親に捨てられた子供」としても良いかもしれないが「母」という言葉はむしろ外すべきだと判断した。
 本作を読む限り、捨てられた子供の父親側も結局何もしなかったと思わざるを得ない。従い、子供を捨てたのは母親だけではなく、父親も同様ではなかったのか。

 更には、子供を捨てた母親自身が、昔「捨てられた子供」であったことも本作では描かれている。「子捨て」という物語が繰り返され積み重なり、その結末として、2010年の事件となったと思われてならなかった。

 二点目。子供を捨てた母親の行動を読んでいて、「繋がり」という言葉を強く意識させられた。

 彼女は常に「繋がり」を求めたのだと思う。

 例えば子供が置き去りされて泣いている中で彼女がW杯サッカーの観戦に興じる場面が描かれている。
著者は「ワールドカップでの『愛国主義』は他者同志がつながりやすいテーマだ」「プチ国粋主義になれば、スポーツバーで知り合った人たちと簡単につながれる」という。

 そこで彼女が求めた「繋がり先」とは「自分の家族や身内」に求心していくのではなく、むしろ「他者」であり「スポーツバーで知り合った人たち」という遠心であった点は留意すべきなのだろう。

 考えてみると、身長170センチ程度で走ることも早くなければ空も飛べない、いささか弱小弱力な哺乳類の人間がかように繁栄しているのは「繋がり」を武器としたからだ。個々では対応できないことも集団・組織で協力しあって対応していくことが人間の知恵だったという歴史だと思う。

 その武器は実に有効であるがゆえに、副作用も強い。「繋がり」というリンクから外れてしまった場合にその人は「弱小弱力な哺乳類」でしか無くなるということではないのか。本作で子供を捨てた母親は本来のリンクから外れてしまい、他者を遍歴することを強いられ、その結末が、かかる悲劇に終わったのではないか。そう思われてならなかった。

 2010年の事件に詳しいわけでもなく、本作の内容が本当なのかどうかを判断する知見は無いので、上記のコメントもいささか的外れなのかもしれない。但し、読後感は強烈だった。

「絶対音感」  最相葉月

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最相の本を読むのはこれが二冊目だ。初めは「なんといふ空」というエッセー集だった。切れ味の鋭さに感心して本作を読むことになった。

 本作の前半は読んでいて我ながら乗りが悪かった。話の展開が放射的であり、最相がどこに読者を連れて行こうとしているのかが僕としては見えにくかった点が原因だ。但し後半に入ってぐいぐいと焦点を絞ってくるように感じ始めた。結果としては大変勉強になった。

 本書を読む限り「絶対音感」とは一つの技術・才能であって、それ以上でもそれ以下でもないと理解した。そもそも「絶対」とは何なのかから考えることを強いるのも本書である。「絶対」という言葉にはある種の甘美さが伴う。人間だれしも「絶対」でありたいと思う場面は多い。それが例えば「自分の意見」であることもあるし「自分の才能」であることもある。最終的には自分自身が絶対でありたいという誘惑に駆られない人など居るまい。
 従い、その「絶対」音感が時として音楽家の耳を悩ませるというエピソードが興味深かった。「絶対」が「解ってしまう」ことがいかに「相対」に「弱い」のかということも本書が解明しようとしている一つのテーマだ。

 考えてみると音楽というものは「音が変化し、流れていく様」を耳で楽しむものだ。前の音があるからこそ次の音があり、次の音があるから前の音が隠し味のように後で効いてくる。音と音との相対的な距離感から和音・不協和音が生まれ、長調・単調が生まれる。
 その中で「絶対音感」を持つことの苦しさがある。それを告白する幾人かの音楽家のコメントには目からうろこが落ちる思いがした。「相対」の中で「絶対」を聴けてしまうことの不幸と言うべきなのかもしれない。従い、「絶対音感は音楽の才能とはある意味関係ない」と断言する方のコメントも頷けるものがあった。

 人間はなんで音楽に感動するのか。

 レヴィ・ストロースは「音楽の謎が解き明かされれば人間進化の謎の多くも解かれる」と言ったと本書で紹介されている。僕らはまず「音楽の謎」というものはなになのかをまず問題設定しなければならない。最相は「絶対音感」という切り口で「音楽の謎とは何か」に迫ろうとした。そんな一種の「冒険譚」が本書である。

アコーディオン バッハ 御喜美江


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住んでいる国立という街の小さな古レコード屋で購入した。バッハのコーナーを眺めていて偶然見つけたアルバムだ。バッハ
をアコーディオンで演奏するといういささかトリッキーな演奏がどのようなものか興味を覚えたからである。

トリッキーと考えたのは僕の不明であったことはアルバムを聞き始めて直ぐに思い知った。僕はアコーディオンという楽器はその
哀愁を帯びた音色に良さがあり、従いバッハに合わないと考えていた。それが否定されたわけだ。言うまでもなく嬉しい
誤算である。アコーディオンで演奏されるバッハは実に正統派であった。

それにしてもバッハくらい多くの演奏を呼んでいる作曲家はいない。これには驚きを禁じ得ない。

くにたちの かき氷  「ゆい」

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 そろそろ夏もお終いである。というか既に初秋なのかもしれない。夏の名残と思ってかき氷を食べに行った。
 
 国立には「ゆい」という方がかき氷店をお出しになっている。基本的にはたい焼き屋さんなのだが、夏の間はかき氷に専念されている。小さなお店なのだが、行例をなしている。避暑目的でかき氷を食べに来られた客が行例を為して 汗をかいていらっしゃる様はどこかおかしみがある。汗をかいた分だけかき氷も美味しくなるに違いない。そんな風に念じながら並ばれているのだろうか。
 
 かき氷は氷とシロップで出来ている。以前「美味しんぼ」という漫画を読んでいると本当の通は、氷を味わうため、シロップは「スイ」に限っているという。スイというとただの砂糖水で、要は氷の味を邪魔しないということらしい。
 
 ただし「ゆい」はシロップが楽しい。イチゴ、抹茶などの定番から始まり、リンゴやオレンジ等色もとりどりである。そう、かき氷とは色とりどりの色を楽しむ食べ物でもあるのだ。
 
 今回は「りんご」を選んだ。店の外ではまだ蝉も鳴いている。汗だくの行例の方もいる。それでももう秋なのだかと自分に言い聞かせながら。

「なんといふ空」 最相葉月

 
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 映画「ココニイルコト」を鑑賞し、その原作ということで手に取った。

 映画の原作は1200字程度のエッセーである。その「わが心の町、大阪君のこと」を読んで驚嘆した。実に簡潔で
鋭利な文章に驚いたからである。関西弁でなんとなくのんびり書きながらも陰影が濃い。なるほどプロの文章家というものはこうなのかと思い知った。比べるとするなら、川端康成の「掌の小説」あたりであろうか。

 一方、この1200字から映画を立ち上げた方も大したものだ。「わが心の町、大阪君のこと」の1200字の中に
二時間の映画を見出した眼力というものがそこにあると思う。むかしミケランジェロは黒い大理石を見て「この中に
ビーナスが閉じ込められている。従い私が助けてあげよう」と言ってその大理石をビーナスに彫ったという話も
思い出した。

 他のエッセーも切れ味が鋭い。大いに勉強になった。

「くちづけ」 

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 重い映画だ。映画を観てからレビューを書くまでにかなりの時間を要している。今なお書く事自体が難しいと思っている。

 本作の主人公である愛情いっぽんが最後に選択する「解決策」には言葉も出なかった。但し、考えてみると僕らは普段から同じような話を新聞等でも良く見ている。新聞での取扱いも普通はさほど大きくない。従い読み流してきた自分がいる。今回2時間という長丁場で見せつけられたことで、初めて障害を持った方とその周囲の方に関してある程度考える機会を得たことになった。

 いっぽんがそれを選んだ理由は何か。作中では「他人の負担を掛けたくないから」であったろうと語られる。
そう語っているのはいっぽんと共に生活を過ごしてきた方たちだ。彼らは「どうしていっぽんさんは相談してくれなかったのだろうか」と涙を流している。但し、もしいっぽんが彼らに相談していたとしたらどうなったのだろうかと考えることも大事だ。ここからはある程度想像を逞しくしなくてはならない。

 いっぽんが相談したら周りの方は間違いなく負担を背負うことを申し出たと思う。また負担に耐えることを決意
したに違いない。但し、そうであってもいっぽんは自分の娘の将来に確信を持てなかったのではなかろうか。
であるなら、自分自身で決断しうる道を選ぶしかなかったのかもしれない。周りに相談しなかったのは、相談
されること自体が周りの方の負担になるといういっぽんの思い遣りだったとも思える。

 繰り返すが、この話は、数ある似たような、但しひとつひとつどれもが特別な、話の一つなのだろう。
そもそも実話に基づいた原作であるとも聞く。

 自分が何が出来るのかを考えていささか途方にくれたが、それでも、ある種の認識を得られたことが本作を
鑑賞した結果であった。今はこのくらいしか言えない。今後考えていきたい。  

 竹中直人、嶋田久作等の演技達者ぶりには感銘を受けた。橋本愛もある種のリアリティーがあって良かった。

「戦士の休息」 落合博満

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 書店で偶然見かけた。衝動買いし、直ぐに読了した。感想は以下三点である。

 一点目。落合という方が映画に深くコミットしていた点を初めて知って新鮮だった。

 「コミット」という言い方が正しいかどうか解らない。但し 少なくとも落合が映画というものに
出会わなかったら、落合という方の人生の有り様もかなり変わっていたのかもしれないと思わされた。

 落合の映画との出会いは高校時代だという。野球の練習や学校をさぼって秋田の映画館で一人で一日を過ごしたという。天才的な野球選手のある種の孤独な姿が目に浮かぶような場面だ。その場面自体が映画的と言ってよい。

 一人で同じ映画を繰り返し見ていく。そのうちに、ある種の「物の見方」が養成されていく。その「物の見方」が落合の一生の「物の見方」に結晶していく。そんな歴史が新鮮だった。

 二点目。落合という方の淡淡とした語り口の絶妙さにうならされた。

 「采配」という野球論の際にも感じたことだ。肩肘を張らずにゆっくりと物事を語る、その語り口が妙に心地よい。
 元スター野球選手の本だ。ゴーストライターの方がお手伝いして書いていてもおかしくない。但し、、
この「語り口」は確かに選手時代の落合のそれに似ている。従い、本書もご自身で書かれているのだろうなと
考える次第だ。

 三点目。

 落合は野球におけるスーパースターは長島と王だけだと本書で断言している。自分ご自身もスーパースターではないと言っている。従い、例えば本日現在プロ野球で大活躍している選手もスーパースターとは呼べないと確信しているご様子だ。
 
 その理由としては「選手としての能力」ではなく、「時代性」を挙げる。例えば三船敏郎
を王と長島に並べて書く。それにははっとさせられた。その時代が要求するものがスーパースターだったという
ことか。現代がスーパースターを産み得ない時代ということか。

 落合は表紙に紅の豚のポルコロッソを起用している。スーパースターとはいえないポルコに自身をなぞらえている様が本書における落合の基本姿勢だ。以上、大変楽しい読書であった。最後の山田洋次との対談も興味深い。