「絶対音感」 最相葉月

最相の本を読むのはこれが二冊目だ。初めは「なんといふ空」というエッセー集だった。切れ味の鋭さに感心して本作を読むことになった。
本作の前半は読んでいて我ながら乗りが悪かった。話の展開が放射的であり、最相がどこに読者を連れて行こうとしているのかが僕としては見えにくかった点が原因だ。但し後半に入ってぐいぐいと焦点を絞ってくるように感じ始めた。結果としては大変勉強になった。
本書を読む限り「絶対音感」とは一つの技術・才能であって、それ以上でもそれ以下でもないと理解した。そもそも「絶対」とは何なのかから考えることを強いるのも本書である。「絶対」という言葉にはある種の甘美さが伴う。人間だれしも「絶対」でありたいと思う場面は多い。それが例えば「自分の意見」であることもあるし「自分の才能」であることもある。最終的には自分自身が絶対でありたいという誘惑に駆られない人など居るまい。
従い、その「絶対」音感が時として音楽家の耳を悩ませるというエピソードが興味深かった。「絶対」が「解ってしまう」ことがいかに「相対」に「弱い」のかということも本書が解明しようとしている一つのテーマだ。
考えてみると音楽というものは「音が変化し、流れていく様」を耳で楽しむものだ。前の音があるからこそ次の音があり、次の音があるから前の音が隠し味のように後で効いてくる。音と音との相対的な距離感から和音・不協和音が生まれ、長調・単調が生まれる。
その中で「絶対音感」を持つことの苦しさがある。それを告白する幾人かの音楽家のコメントには目からうろこが落ちる思いがした。「相対」の中で「絶対」を聴けてしまうことの不幸と言うべきなのかもしれない。従い、「絶対音感は音楽の才能とはある意味関係ない」と断言する方のコメントも頷けるものがあった。
人間はなんで音楽に感動するのか。
レヴィ・ストロースは「音楽の謎が解き明かされれば人間進化の謎の多くも解かれる」と言ったと本書で紹介されている。僕らはまず「音楽の謎」というものはなになのかをまず問題設定しなければならない。最相は「絶対音感」という切り口で「音楽の謎とは何か」に迫ろうとした。そんな一種の「冒険譚」が本書である。
本作の前半は読んでいて我ながら乗りが悪かった。話の展開が放射的であり、最相がどこに読者を連れて行こうとしているのかが僕としては見えにくかった点が原因だ。但し後半に入ってぐいぐいと焦点を絞ってくるように感じ始めた。結果としては大変勉強になった。
本書を読む限り「絶対音感」とは一つの技術・才能であって、それ以上でもそれ以下でもないと理解した。そもそも「絶対」とは何なのかから考えることを強いるのも本書である。「絶対」という言葉にはある種の甘美さが伴う。人間だれしも「絶対」でありたいと思う場面は多い。それが例えば「自分の意見」であることもあるし「自分の才能」であることもある。最終的には自分自身が絶対でありたいという誘惑に駆られない人など居るまい。
従い、その「絶対」音感が時として音楽家の耳を悩ませるというエピソードが興味深かった。「絶対」が「解ってしまう」ことがいかに「相対」に「弱い」のかということも本書が解明しようとしている一つのテーマだ。
考えてみると音楽というものは「音が変化し、流れていく様」を耳で楽しむものだ。前の音があるからこそ次の音があり、次の音があるから前の音が隠し味のように後で効いてくる。音と音との相対的な距離感から和音・不協和音が生まれ、長調・単調が生まれる。
その中で「絶対音感」を持つことの苦しさがある。それを告白する幾人かの音楽家のコメントには目からうろこが落ちる思いがした。「相対」の中で「絶対」を聴けてしまうことの不幸と言うべきなのかもしれない。従い、「絶対音感は音楽の才能とはある意味関係ない」と断言する方のコメントも頷けるものがあった。
人間はなんで音楽に感動するのか。
レヴィ・ストロースは「音楽の謎が解き明かされれば人間進化の謎の多くも解かれる」と言ったと本書で紹介されている。僕らはまず「音楽の謎」というものはなになのかをまず問題設定しなければならない。最相は「絶対音感」という切り口で「音楽の謎とは何か」に迫ろうとした。そんな一種の「冒険譚」が本書である。