「ルポ 虐殺」 杉山春

本作が扱う事件が発生した2010年、僕はインドネシアに住んでいた。インドネシアで新聞でこの事件を読み
置き去りにした母親に対して怒りを覚えたことを今でもおぼえている。今回本作が刊行されて直ぐ手に取ったのも
当時の記憶がまだ鮮明だったからだ。読後感は二点だ。
一点目。本作は「親に捨てられた子供」の話だ。
事件に即すると「母親に捨てられた子供」としても良いかもしれないが「母」という言葉はむしろ外すべきだと判断した。
本作を読む限り、捨てられた子供の父親側も結局何もしなかったと思わざるを得ない。従い、子供を捨てたのは母親だけではなく、父親も同様ではなかったのか。
更には、子供を捨てた母親自身が、昔「捨てられた子供」であったことも本作では描かれている。「子捨て」という物語が繰り返され積み重なり、その結末として、2010年の事件となったと思われてならなかった。
二点目。子供を捨てた母親の行動を読んでいて、「繋がり」という言葉を強く意識させられた。
彼女は常に「繋がり」を求めたのだと思う。
例えば子供が置き去りされて泣いている中で彼女がW杯サッカーの観戦に興じる場面が描かれている。
著者は「ワールドカップでの『愛国主義』は他者同志がつながりやすいテーマだ」「プチ国粋主義になれば、スポーツバーで知り合った人たちと簡単につながれる」という。
そこで彼女が求めた「繋がり先」とは「自分の家族や身内」に求心していくのではなく、むしろ「他者」であり「スポーツバーで知り合った人たち」という遠心であった点は留意すべきなのだろう。
考えてみると、身長170センチ程度で走ることも早くなければ空も飛べない、いささか弱小弱力な哺乳類の人間がかように繁栄しているのは「繋がり」を武器としたからだ。個々では対応できないことも集団・組織で協力しあって対応していくことが人間の知恵だったという歴史だと思う。
置き去りにした母親に対して怒りを覚えたことを今でもおぼえている。今回本作が刊行されて直ぐ手に取ったのも
当時の記憶がまだ鮮明だったからだ。読後感は二点だ。
一点目。本作は「親に捨てられた子供」の話だ。
事件に即すると「母親に捨てられた子供」としても良いかもしれないが「母」という言葉はむしろ外すべきだと判断した。
本作を読む限り、捨てられた子供の父親側も結局何もしなかったと思わざるを得ない。従い、子供を捨てたのは母親だけではなく、父親も同様ではなかったのか。
更には、子供を捨てた母親自身が、昔「捨てられた子供」であったことも本作では描かれている。「子捨て」という物語が繰り返され積み重なり、その結末として、2010年の事件となったと思われてならなかった。
二点目。子供を捨てた母親の行動を読んでいて、「繋がり」という言葉を強く意識させられた。
彼女は常に「繋がり」を求めたのだと思う。
例えば子供が置き去りされて泣いている中で彼女がW杯サッカーの観戦に興じる場面が描かれている。
著者は「ワールドカップでの『愛国主義』は他者同志がつながりやすいテーマだ」「プチ国粋主義になれば、スポーツバーで知り合った人たちと簡単につながれる」という。
そこで彼女が求めた「繋がり先」とは「自分の家族や身内」に求心していくのではなく、むしろ「他者」であり「スポーツバーで知り合った人たち」という遠心であった点は留意すべきなのだろう。
考えてみると、身長170センチ程度で走ることも早くなければ空も飛べない、いささか弱小弱力な哺乳類の人間がかように繁栄しているのは「繋がり」を武器としたからだ。個々では対応できないことも集団・組織で協力しあって対応していくことが人間の知恵だったという歴史だと思う。
その武器は実に有効であるがゆえに、副作用も強い。「繋がり」というリンクから外れてしまった場合にその人は「弱小弱力な哺乳類」でしか無くなるということではないのか。本作で子供を捨てた母親は本来のリンクから外れてしまい、他者を遍歴することを強いられ、その結末が、かかる悲劇に終わったのではないか。そう思われてならなかった。
2010年の事件に詳しいわけでもなく、本作の内容が本当なのかどうかを判断する知見は無いので、上記のコメントもいささか的外れなのかもしれない。但し、読後感は強烈だった。