「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」 六車いちか

新聞の書評で本書を知り手に取る機会を得た。新聞の書評は実に得難く有り難いものである。本書もそういう
幸福な読書体験となった。
僕は森鴎外という方の本を余り読んだことはない。一方、森鴎外に関して読むのは本書が二冊目である。著作を余り読んでいない割に著者には興味があるということなのかもしれない。但し、彼の歴史はそれだけ面白みに
満ちている。前回読んだ「森鴎外と日清・日露戦争」では戦争と森鴎外との有り様が描かれていた。
陸軍医総監に上り詰めた官僚が文学者であるという点が面白かった。
それでは本作はどうなのか。
本作は言うまでも無く、森鴎外の恋愛について書かれている本だ。著者が森鴎外のドイツ時代の恋人を探して
いく様は探偵小説以外の何物でもない。それもノンフィクションであるだけにはらはらさせられる度合も
飛びぬけている。かつ、予定調和的に本人の記録が見つかる。読んでいてこちらまである種の達成感を感じた
くらいだ。
本書において著者が森鴎外をどう見ているのか。
一般的にいうと、恋人を捨てた悪い男としての森鴎外像があるようだ。僕の妻がまさにそのイメージを持っていた。しかるに、本書の著者は決してそこに陥っているわけではない。ある種の、もしくは、かなりのシンパシーを持って森鴎外を描き出している。僕はそう感じた。
それにしても映画化されてもよさそうな一冊かもしれない。昔の人を探すことは現代の尋ね人以上にエキサイティングなのかもしれないとふと思った。
幸福な読書体験となった。
僕は森鴎外という方の本を余り読んだことはない。一方、森鴎外に関して読むのは本書が二冊目である。著作を余り読んでいない割に著者には興味があるということなのかもしれない。但し、彼の歴史はそれだけ面白みに
満ちている。前回読んだ「森鴎外と日清・日露戦争」では戦争と森鴎外との有り様が描かれていた。
陸軍医総監に上り詰めた官僚が文学者であるという点が面白かった。
それでは本作はどうなのか。
本作は言うまでも無く、森鴎外の恋愛について書かれている本だ。著者が森鴎外のドイツ時代の恋人を探して
いく様は探偵小説以外の何物でもない。それもノンフィクションであるだけにはらはらさせられる度合も
飛びぬけている。かつ、予定調和的に本人の記録が見つかる。読んでいてこちらまである種の達成感を感じた
くらいだ。
本書において著者が森鴎外をどう見ているのか。
一般的にいうと、恋人を捨てた悪い男としての森鴎外像があるようだ。僕の妻がまさにそのイメージを持っていた。しかるに、本書の著者は決してそこに陥っているわけではない。ある種の、もしくは、かなりのシンパシーを持って森鴎外を描き出している。僕はそう感じた。
それにしても映画化されてもよさそうな一冊かもしれない。昔の人を探すことは現代の尋ね人以上にエキサイティングなのかもしれないとふと思った。
「ココニイルコト」

機内の映画には大きく分けて二つある。最新の映画とちょっと前に公開された映画だ。前者に関しては玉石混交である。一方、後者に関してはそれなりに選ばれてきた映画である。2001年に公開された本作を2013年に畿内で鑑賞した。選ばれるだけの映画であった。
本作のテーマは「祈ること」である。
本作のヒロインは子供時代に父親を病気で亡くしている。父親の回復を、自らが窓に描いた星に祈ったにも関わらず、その祈りは適わなかった。それ以降ヒロインは「祈ること」をやめた。そんなヒロインが再度「祈ること」を取り戻すことが本作のテーマである。
ヒロインが本当に学んだことは何か。それは「祈ること」でも「適わないこと」があるということだ。
まず祈る。但し、それが適うかどうかは自分の力を超えている。従い、「適わないこと」も多々ある。 ヒロインが言う「ミラクルはしょっちゅう起こらない」というセリフはそれを指している。しかし「祈ること」を諦めたら、そもそも何も適わない。それをヒロインが気が付く過程こそが本作である。
「ココニイルコト」が本作の題名だ。「ココ」とは何処なのかと考えることは本作においては興味深い。それは「ヒロインの職場」なのかもしれない。「関西地域」なのかもしれない。「この世」なのかもしれない。本作を観る人が自由に「ココ」を勝手に想像し、決定することが可能だ。そういう「自由さ」が本作の題名の中に込められている。
但し僕はやはり「この世」を選びたい。「空」と「星」がしばしば語られる本作においての「ココ」とは、おそらく地上である「この世」であると考えることが一番自然だからだ。「この世」で寝転んで「空」と「星」を見上げる場面の多さも本作では際立っている。「見上げること」とは地上にいるからこそできる仕草だ。
良い作品だ。くどくなくて薄味だがしっかりその薄味が立っている。こういう作品こそが邦画の強みだ。それが最後の感想であった。だから僕は機内では邦画から探し始める。
本作のテーマは「祈ること」である。
本作のヒロインは子供時代に父親を病気で亡くしている。父親の回復を、自らが窓に描いた星に祈ったにも関わらず、その祈りは適わなかった。それ以降ヒロインは「祈ること」をやめた。そんなヒロインが再度「祈ること」を取り戻すことが本作のテーマである。
ヒロインが本当に学んだことは何か。それは「祈ること」でも「適わないこと」があるということだ。
まず祈る。但し、それが適うかどうかは自分の力を超えている。従い、「適わないこと」も多々ある。 ヒロインが言う「ミラクルはしょっちゅう起こらない」というセリフはそれを指している。しかし「祈ること」を諦めたら、そもそも何も適わない。それをヒロインが気が付く過程こそが本作である。
「ココニイルコト」が本作の題名だ。「ココ」とは何処なのかと考えることは本作においては興味深い。それは「ヒロインの職場」なのかもしれない。「関西地域」なのかもしれない。「この世」なのかもしれない。本作を観る人が自由に「ココ」を勝手に想像し、決定することが可能だ。そういう「自由さ」が本作の題名の中に込められている。
但し僕はやはり「この世」を選びたい。「空」と「星」がしばしば語られる本作においての「ココ」とは、おそらく地上である「この世」であると考えることが一番自然だからだ。「この世」で寝転んで「空」と「星」を見上げる場面の多さも本作では際立っている。「見上げること」とは地上にいるからこそできる仕草だ。
良い作品だ。くどくなくて薄味だがしっかりその薄味が立っている。こういう作品こそが邦画の強みだ。それが最後の感想であった。だから僕は機内では邦画から探し始める。
「華麗なるギャツビー」

ギャツビーの原作は村上春樹経由で読んだ。本作で三回目の映画化と聞く。僕が見たのは本作だけであり、昔の作品との比較をする知見は無い。
ディカプリオの演じるギャツビーがどうなのかということがまずは本作の大きな見所だろう。
ディカプリオというと「タイタニック」を思い出す。
「タイタニック」当時は美少年であったディカプリオも本作では恰幅の好さが印象的であった。役柄もあるとは思うが、ハリウッドの第一線で十年以上走る続けることは容易でもなかろう。
結論的にいうと、主人公ギャツビーに原作者であるフィッツジェラルドが持たせたであろう「無垢性」とある種の「下品さ」が良く出ていた。
特に後者の「下品さ」は、上手に出すことが難しいものだ。例えば「太陽がいっぱい」で見せるアランドロンの「下品さ」にも通じるものがある。美青年が見せる「下品さ」には案外普遍性がある気がした。
但し、本作の最大の主人公は、「圧倒的な映像」である。本作ではCGと解らないようなCGで作り上げられていると聞いた。幾分誇張が強い気もするが、ある種の狂気を帯びた時代と場所が説得力を持って描写される。
CGやSFX等はSF映画やアクション映画ばかりで活躍するのでは無くなってきたのかもしれない。そうなると僕らのCG・SFX中毒にもいささか果てしがない気もしてきてしまう。いつも味付けが強い食事ばかりを摂りつづけると微妙な味わいが解らなくなってしまうかもしれない。
そういう危惧感も本作を観ていてちょっと感じた次第だ。
ディカプリオの演じるギャツビーがどうなのかということがまずは本作の大きな見所だろう。
ディカプリオというと「タイタニック」を思い出す。
「タイタニック」当時は美少年であったディカプリオも本作では恰幅の好さが印象的であった。役柄もあるとは思うが、ハリウッドの第一線で十年以上走る続けることは容易でもなかろう。
結論的にいうと、主人公ギャツビーに原作者であるフィッツジェラルドが持たせたであろう「無垢性」とある種の「下品さ」が良く出ていた。
特に後者の「下品さ」は、上手に出すことが難しいものだ。例えば「太陽がいっぱい」で見せるアランドロンの「下品さ」にも通じるものがある。美青年が見せる「下品さ」には案外普遍性がある気がした。
但し、本作の最大の主人公は、「圧倒的な映像」である。本作ではCGと解らないようなCGで作り上げられていると聞いた。幾分誇張が強い気もするが、ある種の狂気を帯びた時代と場所が説得力を持って描写される。
CGやSFX等はSF映画やアクション映画ばかりで活躍するのでは無くなってきたのかもしれない。そうなると僕らのCG・SFX中毒にもいささか果てしがない気もしてきてしまう。いつも味付けが強い食事ばかりを摂りつづけると微妙な味わいが解らなくなってしまうかもしれない。
そういう危惧感も本作を観ていてちょっと感じた次第だ。
「スタートレック Into Darkness」

スタートレックは名高いSFのシリーズであるが、今回初めて観た。知識が無い状態であったが結論的には楽しく鑑賞した。
話の筋としては特に複雑な捻りがあるわけではない。「友情」「父と娘」等のいくつかのテーマを含んでいるが、特に目新しいものはない。となるとやはり見所はSFXやCGということになってしまう。勿論ハリウッドが総力を挙げた(であろう)一本であるので、画像的には申し分ない。
但し、とも思ってしまう。
但し、「今回僕が目の当たりにした映像への驚き」と、スタートレックが初めに制作された頃に「当時の観客がその映像を観た際に感じた驚き」とは質的に同じなのだろうか。僕のほうが驚いているのか、当時の観客のほうが驚いているのか。
それを考えることは幾分か興味深い。
例えば、「宇宙戦争」というラジオ番組が引き起こした騒動は参考になる。1938年のハロウィンにオーソンウェルズがH.G.ウェルズの原作「宇宙戦争」をラジオドラマで放送したところ、本当に宇宙人が攻めてきたと信じた人が多数にのぼったという実話だ。
当時の状況・環境において、ラジオから流れる音声でのSFがいかに当時の人に驚愕と盲信を与えたのかということだろう。それを考えるとスタートレックに関しても、昔の方の方が驚きが大きかった気もする。逆に言うと僕らは驚かなくなってきているとも言えるかもしれない。
特殊撮影を駆使した映画は観客に驚きを与える点が、その成功の大きな要因である。その意味では映像的にすれてきている僕らは、映画製作者にとって難物になってきていると想像される。
「パンズ・ラビリンス」
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次女が借りてきたDVDで鑑賞した。中学二年生の娘にとってはいささか辛い鑑賞であったようだ。もう観ないとも言っていた。その気持ちは解る一方で、実に魅惑的な映画であることも確かだと僕は思った。闇に煌めく一筋の光の美しさとでも言うべきか。
「ダークファンタジー」というジャンルであるとされているようだ。「ダーク」と言われる理由はおそらく二点だろう。一つは本作でいくつか出てくる残虐シーンであり、もう一つは言うまでも無く主人公のラストシーンである。
ここからはネタバレとなる点をご容赦頂きたい。
残虐シーンが本作に必要だったかどうかは議論の余地があるかもしれない。但し本作の強烈な味わいはかような描写に因る部分も多々ある。ある種の食べ物には強いスパイスが必要であることと同じだ。従い、僕としては本作に関しては、かかる場面があることに賛意を表したい。
主人公のラストシーンはどうか。
昔、ファンタジー関係の本を読んだことを思い出した。その本に因ると話の主人公がこの世からファンタジーの世界へ移動するに際して、究極の移動方法はその主人公の死である。
その本ではナルニア国物語の最終編をその好例としていたが、本作もその一例となっている。今回本作を観て改めてその究極の移動方法を目の当たりにしたわけだが、不思議と違和感は無かった。
本作がハッピーエンドなのかどうかについてはかなり議論が出ている様だ。幸福とも不幸とも両方言える場面だとは思う。若しくは、観る人の心の有りようで、どちらかの判断に至るのかもしれない。その意味では本作は一種のロールシャッハテストである。僕個人としては前記の通り「違和感がなかった」分、ハッピーエンドに傾いた。
賛否両論がある作品だろう。製作者は確信犯と言えよう。僕としては大変魅了された。
「ダークファンタジー」というジャンルであるとされているようだ。「ダーク」と言われる理由はおそらく二点だろう。一つは本作でいくつか出てくる残虐シーンであり、もう一つは言うまでも無く主人公のラストシーンである。
ここからはネタバレとなる点をご容赦頂きたい。
残虐シーンが本作に必要だったかどうかは議論の余地があるかもしれない。但し本作の強烈な味わいはかような描写に因る部分も多々ある。ある種の食べ物には強いスパイスが必要であることと同じだ。従い、僕としては本作に関しては、かかる場面があることに賛意を表したい。
主人公のラストシーンはどうか。
昔、ファンタジー関係の本を読んだことを思い出した。その本に因ると話の主人公がこの世からファンタジーの世界へ移動するに際して、究極の移動方法はその主人公の死である。
その本ではナルニア国物語の最終編をその好例としていたが、本作もその一例となっている。今回本作を観て改めてその究極の移動方法を目の当たりにしたわけだが、不思議と違和感は無かった。
本作がハッピーエンドなのかどうかについてはかなり議論が出ている様だ。幸福とも不幸とも両方言える場面だとは思う。若しくは、観る人の心の有りようで、どちらかの判断に至るのかもしれない。その意味では本作は一種のロールシャッハテストである。僕個人としては前記の通り「違和感がなかった」分、ハッピーエンドに傾いた。
賛否両論がある作品だろう。製作者は確信犯と言えよう。僕としては大変魅了された。
「舟を編む」

余り期待しないで鑑賞し始めたが、途中から引き込まれた。邦画はやはり良いと思いながら見終わった。言うまでも無く幸福な映画鑑賞である。
以前に「大言海」に関する本を読んだことがある。大槻という方が明治時代に個人で作り上げた日本初の近代辞書の話だ。本作「舟を編む」では「大渡海」という辞書が編纂される。「舟」と「海」という言葉は「大言海」の「海」から来ていると僕は確信した。
「海は広いな大きいな」という歌がある。
「広くて大きい」という言葉には実は悪魔的な意味合いもある。それが本作の一つのテーマだ。本作を観ていて辞書を作ることがいかに悪魔的な作業であるのかを痛感した。きりがなく、はてもない作業だ。「広くて大きい」ことに耐えることが辞書を編むということなのだろう。そう思った時に、初めて「大言海」を一人で作った大槻という方の苦労も少し分かった気がした。
辞書作成が本作の縦糸なら、主人公とヒロインのロマンスが横糸だ。
その横糸は実にあっさりしている。ヒロインは京都で修業した板前だ。彼女が創る料理は薄味だと本作で幾度か語られる。まさに関西風の薄味が本作のロマンスの味付けとなっている。
但し主人公はヒロインと恋におち、結婚したことで「言葉」を獲得出来たことも分かる。本作のもう一つのテーマは他人とのコミュニケーションに困難が有った主人公が辞書の編纂とヒロインとの関わりでコミュニケーションを獲得していく成長譚である。
宮崎ますみが実に良い。宮崎が出演した作品をいくつか観てきたが一番気に入った作品であった。
「リアル~完全なる首長竜の日~」

黒沢清という監督の名前が懐かしくて 機内で鑑賞した。
僕にとっての黒沢とは「ドレミファ娘の血は騒ぐ」であるとか「神田川淫乱戦争」といった自主映画の作り手である。もう25年以上前の、彼のデビュー時の作品だ。
当時の黒沢は日活ロマンポルノが提供した場で、ポルノと称しながら例えばゴダールを意識した自主映画を作っていたはずだ。
「はず」と言ったのは僕自身が決してゴダールの作品をしっかり鑑賞しているわけではないからだ。僕は当時の映画評論を援用しただけに過ぎない。但し、かかる黒沢の初期の映画を当時観る機会を得たことは僕の幸福な映画体験の一部をなしている。
25年を経て黒沢の新作を鑑賞した。かなり実験的な映画を作っていた黒沢の初期作品と比較すると、本作はきちんと商業映画になっている点には素直に感心した。そういえば25年前にはいささか浮世離れした学生だった僕も今やしっかりとサラリーマンであり、中間管理職である。同じことかもしれない。
商業映画として本作を見ると、良く出来ている。機内で上映する映画に選ばれるだけのことはある。
映画の前半はホラー映画で鳴らした黒沢を思い出した。一方後半は「謎解き」となる展開である。前半と後半とは厳密に言うと「違う映画」になっている。ある意味では、その理由で「映画としての連続性にはいささか欠けている」面はある気がする。但し繰り返すが良く出来ているので余り苦にならないことも確かだ。
「謎解き」部分に関しては、しかし、大きな驚きが無い。ミステリーとしてもう一捻りがあっても良いと思ったが、「綾瀬はるかのラブストーリー」という一つの「背骨」がそれを邪魔している感もある。捻りの回数は余り必要ないのかもしれない。
本作のテーマは何か。僕は「首長龍」に拘りたい。
本作の「首長龍」とは、少年時代の「秘密」を意味している。「首長龍」という絶滅した生物に、「秘められた過去を封じ込めた」というストーリーが本作のもう一つの「背骨」だ。「秘められた過去」とは「クラスメートの事故」だけではない。「リゾート開発の失敗」もその一つだ。主人公とヒロインは環境破壊という十字架も背負わされている。
その「秘密」を「どうやって机の上に出し、整理し、消化するか」が「首長龍」の話なのだと僕は思う。本作を観る限り、きちんとした「消化」はされていない。従い、主人公たちのこれからにはまだまだ首長龍は現れるに違いない。
それが僕の最後の感想だった。まだ首長龍は暴れ続けるに違いないということだ。
僕にとっての黒沢とは「ドレミファ娘の血は騒ぐ」であるとか「神田川淫乱戦争」といった自主映画の作り手である。もう25年以上前の、彼のデビュー時の作品だ。
当時の黒沢は日活ロマンポルノが提供した場で、ポルノと称しながら例えばゴダールを意識した自主映画を作っていたはずだ。
「はず」と言ったのは僕自身が決してゴダールの作品をしっかり鑑賞しているわけではないからだ。僕は当時の映画評論を援用しただけに過ぎない。但し、かかる黒沢の初期の映画を当時観る機会を得たことは僕の幸福な映画体験の一部をなしている。
25年を経て黒沢の新作を鑑賞した。かなり実験的な映画を作っていた黒沢の初期作品と比較すると、本作はきちんと商業映画になっている点には素直に感心した。そういえば25年前にはいささか浮世離れした学生だった僕も今やしっかりとサラリーマンであり、中間管理職である。同じことかもしれない。
商業映画として本作を見ると、良く出来ている。機内で上映する映画に選ばれるだけのことはある。
映画の前半はホラー映画で鳴らした黒沢を思い出した。一方後半は「謎解き」となる展開である。前半と後半とは厳密に言うと「違う映画」になっている。ある意味では、その理由で「映画としての連続性にはいささか欠けている」面はある気がする。但し繰り返すが良く出来ているので余り苦にならないことも確かだ。
「謎解き」部分に関しては、しかし、大きな驚きが無い。ミステリーとしてもう一捻りがあっても良いと思ったが、「綾瀬はるかのラブストーリー」という一つの「背骨」がそれを邪魔している感もある。捻りの回数は余り必要ないのかもしれない。
本作のテーマは何か。僕は「首長龍」に拘りたい。
本作の「首長龍」とは、少年時代の「秘密」を意味している。「首長龍」という絶滅した生物に、「秘められた過去を封じ込めた」というストーリーが本作のもう一つの「背骨」だ。「秘められた過去」とは「クラスメートの事故」だけではない。「リゾート開発の失敗」もその一つだ。主人公とヒロインは環境破壊という十字架も背負わされている。
その「秘密」を「どうやって机の上に出し、整理し、消化するか」が「首長龍」の話なのだと僕は思う。本作を観る限り、きちんとした「消化」はされていない。従い、主人公たちのこれからにはまだまだ首長龍は現れるに違いない。
それが僕の最後の感想だった。まだ首長龍は暴れ続けるに違いないということだ。
「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?――言語と運命の社会学」

新聞の書評の紹介で本書を読むことにした。従いその前にまずクリスティの「アクロイド殺し」を読み、それから本書にとりかかった。難解な本ではあるが、楽しく読了出来た。
「アクロイド殺し」という探偵小説は、犯人が語り手であるという点で名高い作品だ。「アクロイド殺し」を読むに当たっては、僕自身が犯人を聞いて知っていたので、サプライズという点では不足していた。しかし、それでもクリスティの巧妙な語り口に十分感嘆するものがあった。ではその「巧妙な語り口」とは何なのか。それが本書の出発点である。
本書は「物語」=「物を語ること」における不確定さを書いた本だと僕は読んだ。例えば「アクロイド殺し」とは、「物を語る」主人公が実は犯人だったという点が肝である。これに一番驚くのは「読者」である。通常の探偵小説では語り手=私が犯人であることは有りえない。従い読者は「語り手は犯人では有りえない」という前提に安心して物語に聴き入ることになる。クリスティがひっくり返したのはまさにその「安心感」である。
本書はそこから更に話を発展させ、そもそも「物語とは何か」という地点に僕らを連れて行こうとする。「物語を読んでいる自分自身ですら、何かの物語の主人公に過ぎないかもしれない」というボルヘスという方の言葉も紹介されると、まさに自分自身がだんだん不安定な存在に思えてくる。
デカルトではないが、僕ら自身は少なくとも「自分自身は確固たる存在だ」という前提に安心して日々を過ごしている。しかし、その前提が本当かどうかは分からないのかもしれない。そう考えることはただの思考実験かもしれない。但し、なんとなく現実のどこかに歪みと亀裂が走った気がしないでもない。それは僕にとって不安としか言いようがないのだ。
本書を読んでクリスティという方が書いてきた探偵小説というものの「深さ」を垣間見た。もともと僕は彼女の作品が好きである。漠然と文学的であると考えてきた。その「文学的」のある種の具体性が本書で明かされた気がした次第だ。
「アクロイド殺し」という探偵小説は、犯人が語り手であるという点で名高い作品だ。「アクロイド殺し」を読むに当たっては、僕自身が犯人を聞いて知っていたので、サプライズという点では不足していた。しかし、それでもクリスティの巧妙な語り口に十分感嘆するものがあった。ではその「巧妙な語り口」とは何なのか。それが本書の出発点である。
本書は「物語」=「物を語ること」における不確定さを書いた本だと僕は読んだ。例えば「アクロイド殺し」とは、「物を語る」主人公が実は犯人だったという点が肝である。これに一番驚くのは「読者」である。通常の探偵小説では語り手=私が犯人であることは有りえない。従い読者は「語り手は犯人では有りえない」という前提に安心して物語に聴き入ることになる。クリスティがひっくり返したのはまさにその「安心感」である。
本書はそこから更に話を発展させ、そもそも「物語とは何か」という地点に僕らを連れて行こうとする。「物語を読んでいる自分自身ですら、何かの物語の主人公に過ぎないかもしれない」というボルヘスという方の言葉も紹介されると、まさに自分自身がだんだん不安定な存在に思えてくる。
デカルトではないが、僕ら自身は少なくとも「自分自身は確固たる存在だ」という前提に安心して日々を過ごしている。しかし、その前提が本当かどうかは分からないのかもしれない。そう考えることはただの思考実験かもしれない。但し、なんとなく現実のどこかに歪みと亀裂が走った気がしないでもない。それは僕にとって不安としか言いようがないのだ。
本書を読んでクリスティという方が書いてきた探偵小説というものの「深さ」を垣間見た。もともと僕は彼女の作品が好きである。漠然と文学的であると考えてきた。その「文学的」のある種の具体性が本書で明かされた気がした次第だ。
「いちばん伝えたい『ありがとう』」

「ありがとう」という言葉を考えさせられた。
僕らも日頃「ありがとう」という言葉は多く使っている。一日何回言っているか分からない。ある意味で
軽い言葉とも言える。軽い気持ちで「ありがとう」と言っている自分がいる。
一方、本書の「ありがとう」は実に重い。「ありがとう」という言葉の重さを再認識することが本書を読むということだ。何故本書の「ありがとう」は重いのか。
生まれたての赤ん坊を見ていると親や周りに感謝しているとは思えない。彼らはその場その瞬間を生きることで精いっぱいである。基本的には全くのエゴイストだ。
僕らも日頃「ありがとう」という言葉は多く使っている。一日何回言っているか分からない。ある意味で
軽い言葉とも言える。軽い気持ちで「ありがとう」と言っている自分がいる。
一方、本書の「ありがとう」は実に重い。「ありがとう」という言葉の重さを再認識することが本書を読むということだ。何故本書の「ありがとう」は重いのか。
生まれたての赤ん坊を見ていると親や周りに感謝しているとは思えない。彼らはその場その瞬間を生きることで精いっぱいである。基本的には全くのエゴイストだ。
そんな彼らが成長するにつれ、ある時点で感謝という概念を獲得する。周囲に感謝することを覚える。「ありがとう」という言葉をつかえるようになる。本書の書き手であるたくさんの子供たちは、まさに「ありがとう」という言葉を丁度使い出した時期にあると言ってよい。
いままでになかった概念である「ありがとう」という言葉を使えるようになってきたという子供たちのはじけるような喜びが彼らの「ありがとう」を重くしている。僕は本書を読んでそう感じた。
振り返って、僕らの「ありがとう」はどうなのか。手垢に汚れているのか。たんなる社交辞令なのか。そういう反省を迫るのも本書である。