くにたち蟄居日記 -91ページ目

みんなと同じ物が食べられない日も多い中

 先日朝日新聞のWEBで以下の記事を読んだ。
読まれた方も多いかもしれないが。
 
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「おかわり、進んで手上げた娘」 女児両親がメッセージ
 
 東京都調布市立小学校で昨年12月、食物アレルギーのある女児が給食を食べ
死亡した事故で、23日午前、亡くなった女児の両親が寄せたメッセージを、
検討会委員らの前で調布市教育委員会の職員が泣きながら代読した。「報告書の
完成にあたって」と題したメッセージの全文は次の通り。
 
 
 先頃、娘の新盆を迎えました。
 
 送り火に乗って娘の精霊がまた天に戻って行くのを感じ、耐え難い寂しさをひしひしと
感じるとともに、失われた命に対する悲しみを新たにする日々です。
 
 お盆に戻ってきた娘に会いに、クラスメートたちが自宅に訪れてくれました。
ひとしきり思い出話をした後、ひとりの女の子が、娘の死因となった「おかわり」の
理由について教えてくれました。
 
 とりわけおいしくないと子どもたちに不人気だったその日の献立に、おかわりを勧める
呼びかけに手を挙げる子はほとんどなかった中、滅多におかわりを希望しない娘が進んで
手を上げたのだそうです。
 
 給食後、不思議に思ったその女の子が、「どうしておかわりをしたの?」と尋ねると、娘は「給食の
完食記録に貢献したかったから」と答えたそうです。
 
 女の子は、泣きながらそう私たちに教えてくれました。
 
 クラスでは、給食の残菜をゼロにする「給食完食」を日々の目標にしていました。みんなと
同じ物が食べられない日も多い中、何かできることがあれば周囲の役に立ちたい――家族が常日頃目にしていた、娘の物事すべてに対する前向きな姿勢、いつも誰かの役に立つ人でいたい
という思いが、このような結果を引き起こす事になろうとは。
 
 残念でなりませんが、今は娘の強い遺志がこの報告書に反映されていると信じたく思います。
今後はこれが関係各位によって十分認識され、万全に現場の施策に活かされ、さらに継続して
改善されて行くであろうことを、引き続き娘と共に見守りたいと考えます。
 
 委員の方々には、ご努力に対し御礼を申し上げます。
 
 2013年7月23日両親より
 
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 電車の車中で読んでいたのですが、泣いてしまって困った。
但し これは哀しい話だけではなく 明るい話であることも確かだ。
 

「ウェブ社会をどう生きるか」 西垣 通

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 2007年に発行された本である。2012年5月に第六刷が出ている。

「ウェブ社会をどう生きるか」という題名の本が六年間生き永らえ、増刷を繰り返しているという事実は案外
珍しい気がする。それはとりもなおさずWEB社会の進化の早さにも因っている。書いた段階では最新の知見
であったとしても、一年後には時代遅れになっているものも多い。「進化の早さ」自体がWEBの大きな
特徴である中で、六年も読み継がれている点に感心した。

 本書で語られる事例は流石に古い。本書の150頁以降で語られている日本の地域社会でのWEBの可能性は
僕の理解では大きな展開にはなっていないと思う。著者はITを通じて地域分散の可能性を指摘していると
読んだが、結論的には実現されていないと考える。勿論、それは本日段階の僕の理解であり、そもそも
理解が間違っているかもしれないし、また理解が正しくても、来年の展開は全く違っているかもしれないが。

 一方、本書が今なお新鮮なのは、WEBというものの本質に迫ろうという著者の迫力にある。

 著者はWEBを手放しに礼賛していない。むしろ、かなり疑問視しながら語っている。その理由を僕なり
に端的に言うと「人間は二進法では翻訳できない」ということである。

 僕らは物事を理解したがる。人間というものを把握したがる。そういう一種の「焦り」がここまでの
人間社会の発達に寄与してきたことは間違いないとは思う。但し、ここにきて「拙速」に陥っていないか
どうかを考えることも大事だ。著者が142頁から150頁で語る「しみ込み教育」の場面は
非常に説得的かつ感動的である。「早ければ良い」というものではないということを強く思わされる
場面だ。その意味で本質的には本書は「WEB進化の早さへの疑問」というテーマも背負っていると
思った次第である。

人間いうのは物事を理解できると安定するんです

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June, 2013    Kokubunji  Japan
 
 「人間いうのは物事を理解できると安定するんです。
 
  今この部屋にある物みんな、どれも了解可能でしょう。だから安心して座っていられる。
 
  ところが僕が何か仕掛けをして、突然風船がパアっと飛んで来たとする。それでも
 
  僕が平気で話していたら、皆さんもう気になって木になって しかたないでしょう(笑)。
 
  了解不能のことというのは、人間を不安にするんです。そういう時下手な人ほど、自分が
 
  早く了解して安心したいんです。」 
    (「生きるとは自分の物語をつくること」 小川洋子・河合隼雄  60頁)
 
 
  上記は僕が考えている宗教の発生とほぼ同じである。宗教は理解できないことを理解
するための考えのフレームワークではないかと思っている。
  
 

はじめまして

 「国立」と書いて「くにたち」と読める人は この地球という 小さな惑星には ほとんどいらっしゃらないと
思います。

  僕の住んでいる街の くにたちは 東京の西部にあります。休日は 綺麗で長い並木通りを歩きながら ぼんやりとしているのが 僕の閑居にして蟄居な生活です。このブログも2006年2月から始めて、もう10年を越えました。


メールアドレス kunitachisurabaya@yahoo.co.jp

「世界」8月号

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 「世界」で連載を続ける「脳力のレッスン」を興味深く読んだ。

 本稿では以下の言葉が印象に残った。

   「学生も自らの就職に奔走し、自己実現に専心するのみで、社会的課題に対峙する気迫などない」
 
   「『自分の私的生活へのこだわり』という、ライフスタイルにおける私生活主義の次元を彷徨い、半世紀が
        過ぎたといえるのではないか」

   「『自己過信』『自我狂』ともいえる自分へのこだわりと自己主張」

   「我々はよく『官対民』の対立という構図で議論し、官主導からの脱却を語る。しかし、官と民の間には『公』
    という概念が存在し、原始共産社会から今日まで、人間社会を維持するには『公共』というテーマを
    誰かが担う必要がある」

 以上を著者は述べた上で「我々はこの恐るべき視野狭窄から脱却しなければならない」と結ぶ。

 著者の言う「視野狭窄」とは、最終的には「個」に拘りすぎている僕らの「視力」を指していると設定する。確かに時代は「個」を称賛し、励ます方向性にある。本屋で並んでいる「自己実現」関係の書籍、若しくは「自己研修」関係もこのジャンルにいれることも出来るのかもしれない。
 本屋で並んでいる風景自体には慣れてしまったせいか、特に違和感も覚えない。但し、考えて見ると「自己実現」のマニュアルというものが存在し、かようなマニュアルが売れていること自体は本来異様な話なのかも
しれない。本稿を読んで、ふとかようなことを思ったところだ。

 著者が主張する「公共」とは何か。これに関しては著者は「NPOやNGOに参加すること」を推奨している。かかる団体の属していない僕として著者の主張が適切なのかどうか今一つ判断できない。但し、「他者との何らかの運動に参加すること」は確かに視力回復につながる可能性はある気はした。

 取りあえず現段階で僕が思った点を漫然と書きだしただけで纏まらないが、考えるヒントになった。

「ナショナリズムの復権」から 

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June, 2013 at Columbo, Sri Lanka
 
 
 第一にナショナリズムは「全体主義」と完璧なまでに混同されている(17頁)
 
 たとえば、人はなぜ、所属する企業の業績拡大を目指すのか。何を目的に、つねに企業は拡大を続ける
 のか。縮小=悪である限り、私たちはただひたすら永久に利益の拡大を善だと見なし続けなければならない。
 だがこのとき、利潤追求=金を稼ぐという「手段」は、「目的」そのものになってしまっているのだ。(45頁)
 
 伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心の
 なかに、何かを受け入れることで安心使用とするのだ。(71頁)
 
 死は個人的なものではない、むしろ共同幻想に心奪われることで、かすり傷を共同幻想に結びつけ人は
 死に至る、吉本はそう思った。(129頁)
 
 民主主義とは、実は自分の正しさで人々を飲みこもうという欲望のことではないのか。(208頁)
 

「ナショナリズムの復権」  先崎彰容

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 大震災から二年半経った。本屋では今でも震災関係の本が溢れている。「国語・算数・理科・社会・音楽・体育・図工」というような小学校の勉強科目があるが、それらの全ての科目から震災関係の本が出ている。

 
 
 これは何を意味するのか。

 考えるに、僕らは限られた知見を総動員して大震災を「分類」し、「理解」し、「消化」しようとしているということだと思う。
 
 人間の知的作業の多くは、目の前の不可思議を整理し、名前を付け、理解することを目的としていると思う。要は理解不能なものを無くすことで、理解不能なものへの怖れを無くすということだ。本屋に並ぶ大震災関係の書籍を見ていると、今なお僕らは全力を挙げて大震災という一種の不条理を理解しようとしているのだと思う。

 本書は「社会」という科目から大震災を把握しようとする著作だ。

 著者は、1600年、1945年8月15日という歴史の転換点を説明する。その上で、2011年3月11日を新しい
歴史の転換点として読み込む作業を行っている。

 歴史家として歴史の転換点に立ち会うということは稀有の幸せの一つなのかもしれないと本書を読んで強く思った。著者のある種の躍動感ある文章は「歴史の転換点に立ち会えた」という一種の高揚感から齎されているのではないか。過去に丸山真男、江藤淳、小林秀雄、吉本隆明、柳田國男、林羅山、藤原惺窩らが立ち会ったであろう歴史の転換点に自分も立ち会えるとしたら歴史家としては望外なのかもしれない。そんな一種の野心が本書から立ち上る。
 野心とは決して非難でも批判でもない。健全な野心は多くの場合推進力となるからだ。

 但し、と思う。

 但し、大震災はまだ続いているのではないか。今なお福島第一原発の危機的な状況は続いている。僕らは忘れがちなのだが今なお震災のど真ん中にいる可能性もある。その意味では、本日この瞬間もいまだに3月11日なのかもしれないのだ。

 そう考えると「転換点に立ち会う」といういささか客観的な立場に立つことは尚早である気もしないでもない。

何をしたいのか

「貴方が何をしたいのかが見えない」という言い方がある。
 これを言われるとある種の恐怖感を持つ方も多いのではなかろうか。


  何が怖いのか。色々と突き詰めて考えていくと 要は「自分は自分のやりたいことがわかっている
べきだ」というある種の強迫観念が そこにあるように見える。逆をいうと「自分のやりたいことも
わかっていないような人間は駄目た」という考え方があるような気がする。

 でも、それは本当なのだろうか 。僕にはそこに何か大きな落とし穴があるような気がしてならない。 







「ローマの休日」

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 久しぶりに本作を見直したところだ。

 本作を喜劇と見るのか、悲劇と見るのかで味わいもかなり変わってくる。ふつうに考えると、ラブコメディーであり
喜劇とする方が一般的だろう。但し、悲劇として見ているといくつかの場面がぐっと味わい深くなる。

 例えば「祈りの壁」で何かを祈る場面である。何を祈っているかについてはヒロインは教えてくれない。おそらくは
「自由」を願っていたのかもしれない。但し、若しかしたら、それと同時にヒロインは祖国と国民を祈っていた
のかもしれないのだ。あの場面でヒロインが、かような祈りを行っていたからこそ、彼女は自らの意思で自由を捨て、
王女の地位に戻ることを選んだのかもしれない。

 ヒロインは「かぼちゃの車で家に戻る」と言明する場面がある。言うまでもなくシンデレラを意味しているわけだが
大きく違うのは「設定が全く逆転している」点にある。シンデレラでは「貧しい女の子が魔法で素敵な舞踏会に出かける
話」だ。そこで王子に見初められ、ハッピーエンドを迎える。
 本作は全く逆だ。「身分の高い王女が、身をやつして世俗の街をさまよい、男性と知り合うが別離せざるを得なくなる」
という話である。従い、結末もハッピーエンドとは言えない。従い、本作は悲劇と見ることが十分に出来るということ
なのだと思う。

 それにしてもオードリーは美しい。彼女のベストは本作であると僕は思っている。こういう映画を見ていると
最近のハリウッド映画は、映像こそ凄いが、実は豊かさにおいてはむしろ後退していると思う。こういう映画
を再度作れる時代はこないものか。

タイのハジャイという街で

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July 2013 at Hatyai , Thailand
 
 
タイのハジャイという南部の街で。