「ナショナリズムの復権」 先崎彰容

大震災から二年半経った。本屋では今でも震災関係の本が溢れている。「国語・算数・理科・社会・音楽・体育・図工」というような小学校の勉強科目があるが、それらの全ての科目から震災関係の本が出ている。
これは何を意味するのか。
考えるに、僕らは限られた知見を総動員して大震災を「分類」し、「理解」し、「消化」しようとしているということだと思う。
考えるに、僕らは限られた知見を総動員して大震災を「分類」し、「理解」し、「消化」しようとしているということだと思う。
人間の知的作業の多くは、目の前の不可思議を整理し、名前を付け、理解することを目的としていると思う。要は理解不能なものを無くすことで、理解不能なものへの怖れを無くすということだ。本屋に並ぶ大震災関係の書籍を見ていると、今なお僕らは全力を挙げて大震災という一種の不条理を理解しようとしているのだと思う。
本書は「社会」という科目から大震災を把握しようとする著作だ。
著者は、1600年、1945年8月15日という歴史の転換点を説明する。その上で、2011年3月11日を新しい
歴史の転換点として読み込む作業を行っている。
歴史家として歴史の転換点に立ち会うということは稀有の幸せの一つなのかもしれないと本書を読んで強く思った。著者のある種の躍動感ある文章は「歴史の転換点に立ち会えた」という一種の高揚感から齎されているのではないか。過去に丸山真男、江藤淳、小林秀雄、吉本隆明、柳田國男、林羅山、藤原惺窩らが立ち会ったであろう歴史の転換点に自分も立ち会えるとしたら歴史家としては望外なのかもしれない。そんな一種の野心が本書から立ち上る。
本書は「社会」という科目から大震災を把握しようとする著作だ。
著者は、1600年、1945年8月15日という歴史の転換点を説明する。その上で、2011年3月11日を新しい
歴史の転換点として読み込む作業を行っている。
歴史家として歴史の転換点に立ち会うということは稀有の幸せの一つなのかもしれないと本書を読んで強く思った。著者のある種の躍動感ある文章は「歴史の転換点に立ち会えた」という一種の高揚感から齎されているのではないか。過去に丸山真男、江藤淳、小林秀雄、吉本隆明、柳田國男、林羅山、藤原惺窩らが立ち会ったであろう歴史の転換点に自分も立ち会えるとしたら歴史家としては望外なのかもしれない。そんな一種の野心が本書から立ち上る。
野心とは決して非難でも批判でもない。健全な野心は多くの場合推進力となるからだ。
但し、と思う。
但し、大震災はまだ続いているのではないか。今なお福島第一原発の危機的な状況は続いている。僕らは忘れがちなのだが今なお震災のど真ん中にいる可能性もある。その意味では、本日この瞬間もいまだに3月11日なのかもしれないのだ。
但し、と思う。
但し、大震災はまだ続いているのではないか。今なお福島第一原発の危機的な状況は続いている。僕らは忘れがちなのだが今なお震災のど真ん中にいる可能性もある。その意味では、本日この瞬間もいまだに3月11日なのかもしれないのだ。
そう考えると「転換点に立ち会う」といういささか客観的な立場に立つことは尚早である気もしないでもない。