「世界」 九月号
セルジュ ラトーシュという方の寄稿「『豊かな社会人』の欺瞞から『簡素な豊かさ』という逆説へ」
を興味深く読んだ。
著者は、現代の経済とそれを動かす人を「成長への『薬物依存患者』」であると論じている。
確かに「成長」という言葉は色々な場面で使われるようになった。「成長」という言葉には良い響き
著者は、現代の経済とそれを動かす人を「成長への『薬物依存患者』」であると論じている。
確かに「成長」という言葉は色々な場面で使われるようになった。「成長」という言葉には良い響き
がある。
人の成長、組織の成長、自分の成長というような言葉は毎日のように使われているし、僕自身も
人の成長、組織の成長、自分の成長というような言葉は毎日のように使われているし、僕自身も
使っている。但し、その「良い 響き」という部分がすでに麻薬ということなのだろう。
では 無限の成長とは可能なのだろうか。この質問に対する返事を考えることが、今の僕らの大きな
では 無限の成長とは可能なのだろうか。この質問に対する返事を考えることが、今の僕らの大きな
知的課題である。
人類の歴史は、その質問に対してYESと答えようとしてきた歴史である。自分の置かれた環境に
人類の歴史は、その質問に対してYESと答えようとしてきた歴史である。自分の置かれた環境に
満足せず、更に発展成長していきたいという思いが今日の僕らを産んでいる。
但し、これからはどうなのかということだ。
僕としてはここでは曖昧な返事をしてしまうかもしれない。つまりYESでもありNoでもあるというような
僕としてはここでは曖昧な返事をしてしまうかもしれない。つまりYESでもありNoでもあるというような
玉虫色の返事である。つまり 持続可能性な成長を希求することは避けられない一方、成長が本当に
毒薬になることも想定しておくという両面作戦である。
この曖昧な返事の味噌は、Noという返事をきちんと机上に載せたいという点にある。
この曖昧な返事の味噌は、Noという返事をきちんと机上に載せたいという点にある。
なにせ多くの局面において「成長を続けることはやめよう」ということ自体を発言することはタブーに
なっているのではないかと思うからだ。例えば 株主総会である。経営者が「無限の成長等は不可能だ」
とでも発言したとしたら、株主から更迭動議も出てきそうな気がする。それほど成長とは「しなくては
ならない」ものであるからだ。そして それを著者は「薬物依存」と表現しているわけである。
かかる状況を不健全と考えるようにすることはおそらく大きな課題であり、従い 無限の成長は
不可能だという議題もきちんと議論できる風土をつくらなくてはならない。それが今後10年間から
初めから何かに使うことを考えて拙速に進めると
「こう変えたいと考えて研究できるのは 大体すでにわかっていることをやる場合だ。
それが本当のイノベーションを起こすだろうか。
むしろ基礎的な研究をすれば 結果がイノベーションにつながっていく。
初めから何かに使うことを考えて拙速に進めると、今まで何もなかったところに新しく
生まれてくるような研究は出来ない」
2013年8月18日 日経新聞 益川敏英
下手に目標をもってしまうと視野狭窄になってしまうと僕もたまに思う。行き先もわからぬまま気儘に
歩いて行く散歩の豊穣性というものも、この言葉から理解可能だ。
「わが映画 の青春」 衣笠貞之助
著者の映画「狂った一頁 」を鑑賞したことで本書を読む機会を得た。本書を読むことで「狂った 一頁」
が当時いかに進んでいたかということがよく理解出来たと思う。
本書を読む限り、大正時代の映画製作は現代のそれとは全く異なっている。例えば著者は大正六年に
本書を読む限り、大正時代の映画製作は現代のそれとは全く異なっている。例えば著者は大正六年に
日活に入社し その後の5年間で約130本の映画に出演したという。
それだけの大量生産が出来たということは「映画の黄金時代」と呼べるのかもしれない。但し、当時の
それだけの大量生産が出来たということは「映画の黄金時代」と呼べるのかもしれない。但し、当時の
製作の様子を読む限り粗製乱造という言葉を思ってしまったことも確かだ。
もちろん かような「粗製乱造」の中で邦画が独自性を獲得し、その後に繋がったということも
もちろん かような「粗製乱造」の中で邦画が独自性を獲得し、その後に繋がったということも
歴史であろう。僕の私見では日本映画の真の黄金時代は1950年代から60年代に来たが、それも
それまでの蓄積があってのことだ。
そんな当時、「狂った一頁」の実験性は際立っていたろうと本書を読むことで強く感じた。
そんな当時、「狂った一頁」の実験性は際立っていたろうと本書を読むことで強く感じた。
やはり映画にしても製作された時代をきちんと踏まえることは大切なのだなと再度痛感した次第である。
「わが映画の青春」とは著者の青春時代を意味するだけではない。
「わが映画の青春」とは著者の青春時代を意味するだけではない。
「狂った一頁」 衣笠貞之助

戦前に作られたアバンギャルド映画として有名な作品だ。以前から観たいと思っていたがDVD等にもならず、全く見る機会が無かった。そんな中で YouTubeで公開されているのを発見し、漸く鑑賞する機会を得た。
無声映画にて内容を理解することは容易ではない。また そもそも 筋を追うような映画でもない。要は映像をぼんやりと眺めるということが本作を一番正しく鑑賞することなのだろう。似た映画というと
パトリック・ボカノウスキーというと方が監督した「天使」であるとか かのブニュエルの「アンダルシアの犬」あたりかと思う。
この映画には川端康成や横光利一が関わったという文学者と映像作家が闊達に交流して映画を創った幸せな時代が大正末期にあったことは興味深い。
人間の動態視力とは

僕の現在の通勤路は以下の通りである。
自宅→国立駅 徒歩15分
国立駅→信濃町駅
信濃町駅→会社 徒歩15分
従い、朝の徒歩の時間は合計30分となってい。
徒歩通勤30分というとなかなか疲れそうだが、「朝の散歩30分」と言い直すと
なかなか悪くないものがある。特に信濃町からの路は絵画館前を通り、
都内でも屈指の緑の多さだ。
散歩の好さは何なのだろうかと考えると、これは「速度」にあるのでは
ないかと思う。
「動態視力」という言葉がある。これは「動いているものを見る能力」と言う意味らしい。
例えば野球の選手は時速150kmで飛んでくるボールを見る力が優れているから、それを打ち返すことが出来ると聞く。自動車の運転でも速度が上がると視野が狭くなり、要は「見えて認識できるもの」が減少するということらしい。
その意味で歩く速度は周りの事物を見る速度として大変適しているのかもしれない。
実際、散歩の際には、しばしば「見物」している自分に気がつく。
散歩していると、周囲の物事がきちんと目に入ってくる。従い、色々な「気づき」
もそこにはある。
などと考えると、「速度」とはすぐれて人間の認識力に深く関わった問題なのかも
しれない。「速いか遅いか」という区別も人間の認識をベースに決めている気がする。
自動車の制限速度時速40kmと、人間が足で走る速度の限界の時速40km
(100m走の場合)がほぼ同じであるということも、要は「人間は自身で走れる最大の
速度(=40km)以上の速さでは、物事の認識力が極端に落ちる」という
ことなのだろうか。
「人間の建設」 小林秀雄 岡潔
「学問をたのしむ心」から本書は始まる。その後、本書は対話のお二人の半ば放言集のような様相も示しながら、最後は「素読教育の必要」という内容で締められている。

まず「放言」に関して。恥ずかしながら岡という方は今回初めて知った人である。世界的な数学者と紹介されているが、元来文系の僕として知る機会が無かった。本書における岡は、しかし、数学者の域を超えて発言されている。小林と二人で「特攻隊」の精神を別の角度から検証し、前向きに評価しようとされている場面は殊に印象的であった。僕の理解では数学とは極めてグローバルは「共通言語」である。数式はそのままで世界で通用する言葉だ。そんな言葉を操る方が自らを「日本主義」と断言する場面にはある種のすがすがしさもある。
次に「素読」に関して。「素読」とは優れて肉体的なものだと僕は思う。意味も分からず、ただ、声を出して四書五経を読むという作業は肉体的な訓練に他ならない。そうした、肉体を通じて本を読んでいくという作業は僕らが現在忘れてしまったものかもしれない。
そもそも座禅にしても同様かもしれないが、以前の「学問」には肉体を通じて行わせるという大きな方向性があったような気がする。それを対談されるお二人が再現されたいと考えている様が読み取れた。
1965年に収録された対談を、48年後の2013年に文庫化した出版社の志を買いたい。小林秀雄全集には入っているとのことだが全集とはまさに「象牙の塔」である。文庫という形態は、まさに象牙の塔から何かを解放するのにふさわしいメディアではないか。
それが今回最後にふと感じたことだ。
「ロボット化する子どもたち」 渡部信一

西垣通の著作にて本書の紹介を読み、今回読む機会を得た。本書のテーマは「学びとは何か」である。
本書に因ると西欧の教育は「教え込み」であるのに対し、東洋は「しみ込み」であるという。平たく言うと「教わる」のか「習う」のかという違いである。
「教わる」という言葉には受動の響きがある。「教える人」と「教わる人」があり、後者が自分であるという図式だ。この構図においては「教える人」とは「何か正しい知識や情報」を持ち、それを伝える人である。そこにおいては「何か正しい知識や情報」というものが存在するということが大きな前提となっている。著者はその前提の起源を一神教に求めている。
一方、「習う」という言葉には能動の響きがある。著者は「習い」に関しては、「弟子入り」を例に挙げている。師匠のもとで、雑巾がけやら掃除等を行いながら、師匠のすることやることを盗んでいくという伝統的な教育を示している。そこにおいては「何が正しいのか分からない」ということが大きな前提となっている。
師匠は何が正しいのかは教えてくれないし、もっと言うと「普遍的な正しいものなど無い」という地点で弟子と
対峙しているということだ。この極端な例が禅問答であろう。「正解が無い質問を考え抜く」ということが禅の「公案」だと僕は素人理解しているが、それが「しみ込み」の最大の要素だと思う。
「教え込み」と「しみ込み」を挙げた上で著者は今後、「しみ込み」こそが情報社会における「学び」だと断定する。この断定が正しいかどうかを判断する知見が今の僕には無い。但し、東洋人として直感的に大きく頷くものがあった。「教え込み」が「ロボット化」だという著者の指摘も読んでいて納得する点も多々有った。僕も中年にしていまだに「学び方」に関して分からないことが多いことも確かだ。
対峙しているということだ。この極端な例が禅問答であろう。「正解が無い質問を考え抜く」ということが禅の「公案」だと僕は素人理解しているが、それが「しみ込み」の最大の要素だと思う。
「教え込み」と「しみ込み」を挙げた上で著者は今後、「しみ込み」こそが情報社会における「学び」だと断定する。この断定が正しいかどうかを判断する知見が今の僕には無い。但し、東洋人として直感的に大きく頷くものがあった。「教え込み」が「ロボット化」だという著者の指摘も読んでいて納得する点も多々有った。僕も中年にしていまだに「学び方」に関して分からないことが多いことも確かだ。
理論とか体系とかは、欧米から学んだもので、以前はなかったものです

June 2013 Kukubunji , Tokyo
「理論とか体系とかは、欧米から学んだもので、以前はなかったものです」
-ー「人間の建設」 小林秀雄・岡潔 82頁ーー
数学者である岡の発言である。ここで以前とは明治以前をさしている。読んでちょっと驚いたところだ。驚いた理由とは、「それは本当なのだろうか」という疑問に因っている。
一方、そこで自分自身を省みることは大事な作業である。現段階の自分がどれだけ日頃「理論」や「体系」を意識しているのだろうか。そう問いかけてみると、これはこれで心もとないものだ。考えてみると、日頃の僕は理論や体系には無関係に過ごしている。
となると、日頃の僕が自分自身を動かしているロジックとは何なのか。かようなロジックがあるかどうかも含めて
考えてみるべきである気もしてきた。
「プレイズ バッハ」 マルティン・シュタットフェルト

他の方の書かれたブログでマルティン・シュタットフェルトという方を知り、このCDを購入した。
他レビュアーの方と同様、この奏者はグレングールドを意識していることは間違いない。ここで「意識している」
と簡単に書いたわけだが、そもそも「意識している」という言葉の意味は案外色々な意味があると思う。
「グレングールドを真似ようとしている」ことも「意識している」の1バージョンであろうし、「グレングールド
とは全く違う演奏をしようとしている」ということも「意識している」の1バージョンである。そういう
色々な「意識」の中で、この奏者が何を選んでいるのか。それを考えることがこのアルバムを聴く知的な作業の
一つだと思う。
グレングールドがバッハに持ち込んだものは「演奏のスピードの変化」というものだったと仮定してみる。
名高いグールドの二つの「ゴルドベルグ変奏曲」も、その二つの演奏時間の違いという点で際立った特徴
がある。端的に言うと「早く演奏すること」と「遅く演奏すること」の二つを提示して、演奏の速度が
いかに同じ曲の表情を劇的に変えるかということを見せつけたのだと思う。
マルティン・シュタットフェルトという方も速度への拘りが強い方だと僕は聴いた。その意味では「グールド
を真似する」ということが大きな方向性として感じられる。若しくは、方向性ではなく彼の戦略なのかも
しれないが。
いずれにせよ1アルバムだけで判断することは難しい。もう少し聴いてみようと強く思った次第だ。その
意味では僕は十分にマルティン・シュタットフェルトに絡めとられたとも言える。
他レビュアーの方と同様、この奏者はグレングールドを意識していることは間違いない。ここで「意識している」
と簡単に書いたわけだが、そもそも「意識している」という言葉の意味は案外色々な意味があると思う。
「グレングールドを真似ようとしている」ことも「意識している」の1バージョンであろうし、「グレングールド
とは全く違う演奏をしようとしている」ということも「意識している」の1バージョンである。そういう
色々な「意識」の中で、この奏者が何を選んでいるのか。それを考えることがこのアルバムを聴く知的な作業の
一つだと思う。
グレングールドがバッハに持ち込んだものは「演奏のスピードの変化」というものだったと仮定してみる。
名高いグールドの二つの「ゴルドベルグ変奏曲」も、その二つの演奏時間の違いという点で際立った特徴
がある。端的に言うと「早く演奏すること」と「遅く演奏すること」の二つを提示して、演奏の速度が
いかに同じ曲の表情を劇的に変えるかということを見せつけたのだと思う。
マルティン・シュタットフェルトという方も速度への拘りが強い方だと僕は聴いた。その意味では「グールド
を真似する」ということが大きな方向性として感じられる。若しくは、方向性ではなく彼の戦略なのかも
しれないが。
いずれにせよ1アルバムだけで判断することは難しい。もう少し聴いてみようと強く思った次第だ。その
意味では僕は十分にマルティン・シュタットフェルトに絡めとられたとも言える。
「飛んでいる」ということ

June 2013 Sri Lanka
「飛んでいる」という言葉の定義を考えているところだ。
例えば「足の裏と地面との間に空気がある」という状況を「飛んでいる」という状態だと考えてみる。これは
これで確かにそうだろう。但し「足の裏と地面との間に靴がある」という状況を考えてみると、
「空気と靴とは何が違うのか」という疑問を呼ぶことになる。
空気も靴も「物質」という点で同じだとしたら、足の裏と地面との間に「物質」があるだけであり何ら
違いはないのではないか。
答えは中々出ない。そもそも地面とは何かということすらよく分からなくなってくる。