「ロボット化する子どもたち」 渡部信一

西垣通の著作にて本書の紹介を読み、今回読む機会を得た。本書のテーマは「学びとは何か」である。
本書に因ると西欧の教育は「教え込み」であるのに対し、東洋は「しみ込み」であるという。平たく言うと「教わる」のか「習う」のかという違いである。
「教わる」という言葉には受動の響きがある。「教える人」と「教わる人」があり、後者が自分であるという図式だ。この構図においては「教える人」とは「何か正しい知識や情報」を持ち、それを伝える人である。そこにおいては「何か正しい知識や情報」というものが存在するということが大きな前提となっている。著者はその前提の起源を一神教に求めている。
一方、「習う」という言葉には能動の響きがある。著者は「習い」に関しては、「弟子入り」を例に挙げている。師匠のもとで、雑巾がけやら掃除等を行いながら、師匠のすることやることを盗んでいくという伝統的な教育を示している。そこにおいては「何が正しいのか分からない」ということが大きな前提となっている。
師匠は何が正しいのかは教えてくれないし、もっと言うと「普遍的な正しいものなど無い」という地点で弟子と
対峙しているということだ。この極端な例が禅問答であろう。「正解が無い質問を考え抜く」ということが禅の「公案」だと僕は素人理解しているが、それが「しみ込み」の最大の要素だと思う。
「教え込み」と「しみ込み」を挙げた上で著者は今後、「しみ込み」こそが情報社会における「学び」だと断定する。この断定が正しいかどうかを判断する知見が今の僕には無い。但し、東洋人として直感的に大きく頷くものがあった。「教え込み」が「ロボット化」だという著者の指摘も読んでいて納得する点も多々有った。僕も中年にしていまだに「学び方」に関して分からないことが多いことも確かだ。
対峙しているということだ。この極端な例が禅問答であろう。「正解が無い質問を考え抜く」ということが禅の「公案」だと僕は素人理解しているが、それが「しみ込み」の最大の要素だと思う。
「教え込み」と「しみ込み」を挙げた上で著者は今後、「しみ込み」こそが情報社会における「学び」だと断定する。この断定が正しいかどうかを判断する知見が今の僕には無い。但し、東洋人として直感的に大きく頷くものがあった。「教え込み」が「ロボット化」だという著者の指摘も読んでいて納得する点も多々有った。僕も中年にしていまだに「学び方」に関して分からないことが多いことも確かだ。