くにたち蟄居日記 -85ページ目

国立の鎌倉

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死者とは

  若松英輔という方の「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」という本を読んでいる。

   まだ読了したわけではないが、若松という方は絶えず「死者」というものに思いを凝らされている。
いや、むしろ死者が若松という方に思いを凝らしているという言い方が正しいのかもしれない。つまり
端的に言うと、死者が生きているということを繰り返し書かれているのだ。

   死者が生きているということはどういうことか。それを考えるには、「生きている」ということ
は何なのかという点をまず考えないといけないに違いない。自分にとって生きている他者とは何なのかを
突き詰めて行くと、それは死者でも全く構わないし、むしろ死者の方が、もっとも自分の身近にいる生きている他者なのかもしれないということか。

   日本ですら毎日300名程度亡くなっている。その殆どの方は僕にとっての死者ではないかもしれない。
知り合えなかった方は僕にとって死者ではあり得ないということなのだろうか。


   

谷川書店の閉店

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 いつかはその日も来ると思っていたが、来てみると大変寂しい。

「はじまりのみち」

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 邦画がもともと好きなのだが、本作を観てやはり邦画は良いと再確認した。

 本作は実話の映画化だという。実話でなかったらいささかあざとい筋立てとも言える。実際にあった話である
点が本作の静かな迫力を生んでいる。

 「旅行」という言葉と「旅」という言葉を並べてみる。二つの言葉の間には微妙な、若しくは、明白な違いを感じる。

 「旅行」という言葉にはいささか華やいだ響きがある。楽しさがある。それに対して「旅」という言葉にはある種の精神性がある。重さがある。本作は言うまでもなく「旅」の映画だ。日数としては三日程度なので「旅」としては短い部類に入ろう。但し主人公にとって充分に「旅」であったことが本作のテーマである。

 主人公は言葉通り母親を背負って「旅」をする。但し主人公が背負ったものはそれだけではない。「映画監督を挫折した自分自身」も背負っている。「母親をリヤカーに載せて疎開すること」を頑固に主張した主人公は、まさに自分の挫折もリヤカーに載せたことになる。それに初めから意識的に気が付いているのは母親だ。主人公は気が付いていたのかもしれないがあくまで無意識に気が付いていただけだ。

 「旅」は成功する。主人公の努力だけが成功の原因ではない。途中の旅館の人達、主人公の兄、そうして荷物を運ぶ便利屋のお蔭でもある。
 特に便利屋のトリックスターぶりが本作の白眉だ。「自分の挫折もリヤカーに載せた」ことを主人公に初めて
意識させたのは便利屋が河原で主人公に話した木下映画への想いである。

 「旅」を成功させたことで主人公は自分の挫折を克服した。エンドタイトル前に紹介される木下映画のいくつかの場面を見ていて、木下という方が幸福な映画監督であったことが伝わってくる。それが心地よさに繋がっている。そう、本作は観ていて心地よい映画であるのだ。

「世界と闘う「読書術」  思想を鍛える一〇〇〇冊

 
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博覧強記の佐藤は相変わらずだが、佐高という方は「逆命利君」という著作だけを読んだだけであったので新鮮であった。

 本書で一番はっとしたのは176頁にて紹介されているドイツ・イデオロギーに関する佐藤の見解である。佐藤によると同書に原本には2種類あるという。一つはマルクスが書いたオリジナルであり、もう一つは他人が切り貼りしてしまったものであるという。

 問題は、後者の方が圧倒的に流布されてしまったという経緯である。岩波書店は日本語訳書を以前は後者の翻訳であったがそれを前者に切り換えたという。その点を佐藤は「思想については流布したものを読まないとダメなんです」と主張している。

 その主張に驚かされた。

 本は出版された後は一人歩きすると言われる。著者が意図しない読まれ方をすることも多いはずだ。それを「誤読」というのかもしれないが、そもそも本は自由に読まれる権利を持っていると言っても良いと思う。
 佐藤の指摘はその点にある。つまり「本が何を語っているか」ではなく「本がどのように読まれたのか」に軸を置くと、切り貼りされた方を重視することはある意味で自然なのだと思う。

 お二人は縦横無尽に本を語っている。おそらくは、著者の意図とは違う読み方もしているだろう。その「読み方」
こそがその方の個性である。「本を読むことを語る本」というメタな本が出来たということは人類の大きな功績
ではないだろうか。

谷保天満宮

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 谷保天満宮に初詣に出かけた。 正月も三日となると人も少なくなっている。大して並ばずにお詣りが出来るのは有り難い。
 
 惰性ながらおみくじを引いた。大吉だったのでなんとなくほっとした次第だ。そういえばいままでたくさんおみくじを引いてきたが一度も凶が出た事がない。まあ考えてみると確かに人生ここまでは割と運が良かったという
気もした。
 
 
 
 
 

「涙の数だけ大きくなれる」 木下晴弘

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年末にさっと読めた。読後感は二点である。

 一点目。著者が塾の教師という立場であったという点に興味を覚えた。

 僕の理解では塾の教師とは、テストの成績を良くすることだけがミッションだという特殊で限定的な「先生」である。所謂学校の先生は、より全人格的な教育を期待されるミッションと全く異なる存在だ。
 そういう方が、ある種の人格教育に出てきているということが本書の背景である。その意味をどのように理解すべきなのかを考えることは本書の読み方の一つだろう。
 ある意味で生徒をどう見るのかという点で著者に「気づき」があったのだと思う。目の前にいる生徒は勉強する機械ではなく感情を備えた人格であると考えたとする。その場合、その生徒の人格に迫る事が結果としてその生徒の「テストの成績を良くすること」という卑近ながら現実的な目標に届く。そういう「受験のテクニック」として著者の立場があるのではないか。

 二点目。本書へのアマゾン・レビューが興味深かった。

 かなりのレビューが絶賛に近い中で、いくつかのレビュアーの方は本書に取り上げられるエピソードを小学生レベルの話ではないかと指摘されている。

 初めに言っておくと僕自身も、紹介されたエピソードに関していささか斜に構えて読んだ局面も多かった。その意味では前記のご指摘にはいささか頷いた次第だ。但し、「では話のレベルとは何なのか」と考え直すことは実は頭の体操になるはずだ。

 紹介されたエピソードが完全に実話だとする。実話を「小学生レベルなのか、それ以上なのか」と考えることには意味はない。現実の実話にかような評価は有りえない。有るとしたら「実話を読んだ自分自身が、それをどう感じるのか」という一点だけだ。
 その意味では、本書のエピソードを素直に読めない僕がいたとしたら、それは僕の問題である。そう考え直すと、本書も一種のロールシャッハテストだとも言える。 

「いまこそ読みたい哲学の名著」

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 在野の哲学者長谷川の著作を年始年末にゆっくり読んだところだ。

 本書で一番注目したのは「論語」に対する長谷川の評価である。元来ヘーゲル研究で名高い著者が
中国の古典をどう読み解くのか。興味深いチャレンジである。

 端的に言うと、長谷川は論語における孔子のいわば「上から目線」にかなり違和感を感じている。僕としては
そんな著者の違和感に対して、更に違和感を感じた。自分として長谷川の論に納得しがたいものがある点こそが
考えるに足る課題である。

 確かに「女子と小人は養い難し」と論語は断言する。現代に読むと違和感を持つべきなのかも
しれない。但し、そのように長谷川に指摘される迄は気が付かなかった。孔子が厳密に設定してきた
上下関係に僕自身が絡め取られていたからだ。

 論語における上下関係とは「師弟関係」である。日本において教師と生徒の間はかなり厳密なものが
歴史的にあったと思う。「仰げば尊し」を好例と言えるかもしれない。例えば米国におけるteacherと
studentの間にかような関係が築かれているのかどうか。直感的には日本のそれと米国のそれには
大きな違いがあるのではないか。

 その「師弟関係」から「女子と小人は養い難し」という、ある種の暴言まで案外距離は近いような
気がしてきた。僕自身が、その路線を(若しくは袋小路を)歩いてきたからこそ、長谷川の論語批判を
聞いて、皮膚感覚で違和感を覚えたのではないかと考えたところだ。であるならば、僕は今その
違和感を大事にしなくてはならない。

 在野の哲学者が師をどう持つことが出来たのか。若しくは象牙の塔にいる哲学者の方が本当に師を持ちやすい
のか。そもそも哲学においての師とはどのようなものなのか。それは僕には想像もつかない世界だ。但し、
長谷川は「師」というものに対してとても敏感になっているのかもしれない。そんな繊細な感覚が論語を
あぶりだしたと読めば良いのかもしれない。

年末の散歩

 立川に行ってPCの買い替えを検討しようと思った。国立の自宅から立川までは歩いて20分強である。運動不足
も兼ねて、歩き始めた。
 
 立川駅前になって気が変った。九十度左に曲がり、多摩川方面に向かった。
 
 立川の南にある都立立川高校は僕の母校である。当時の通学路をゆっくり歩いた。立川の南口は再開発が
進み、30年前の面影を探すことはいささか容易ではない。それでもいくつかの建物や店名に記憶が有った。
30年前の僕は、30年後に中年となった自分自身がこのように年末の休みに通学路を歩く等ということ
は想像することすらなかったろう。十代後半のあの頃は、目の前の現実だけが一番大事だった。それは
受験であったり、好きな女の子であったりだ。ごく平凡な高校生の「現実」である。
 
 「今でも目の前に追われている点は同じじゃないか」と独り言を言っていささか苦笑いした。年末休みとて
色々と仕事も気になる。メールもチェックする。せめてぶらぶら歩くくらいが休暇なのだ。
 
 日野橋を渡った。日野橋から見下ろす多摩川は水面は広いが水量は少ない。ところどころに
黒い粒があるが、鯉であった。師走の鯉は餌を求めて上流目指してゆっくり泳いでいる。水深が浅い川
を淡水魚の王と言われる鯉が窮屈そうに泳いでいる。その様ですら、今の自分に重ねてしまう。
 
 一生懸命泳ぐ鯉も上から俯瞰すると可愛いものだ。そう思いついて、僕のいささかの憂鬱さが晴れた。
 
 日野橋を渡った先から日野市だ。余り知らない場所である。高校時代も多摩川を渡ることは殆ど無かった
ことにも気が付いた。日野は水の街とのことだ。歩いていてもいくつかの用水を見た。
 
 そんな風にぼんやり歩いていると日野駅に到着した。JRは武蔵小金井の人身事故で遅れていた。大晦日
の前日の昼下がりである。
 
 
 
 
 

「ドラゴンタトゥーの女」 

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 映像には惹きこまれたが、中途半端な作品だと思われた。原作を読んでおらず、他の作品も観ていないという
前提であるが。

 本作のテーマを「猟奇殺人事件の謎解き」と設定した場合どうか。雰囲気は悪くない。他のレビュアーの方の言われる通り、横溝正史のいくつかの傑作に似ている部分もある。本来ならかなり面白くなってもおかしくない。
 但し、そこからが問題だ。肝心の「謎」の部分がひねりが足りない。例えば「羊たちの沈黙」あたりと比較してもいかにも平板である。意外性と深みがない。殺人事件解決後の展開がいかにも長い。これは脚本か原作の問題だろう。

 それではテーマを「天才的な女性探偵」と設定するとどうか。これも悪くない。「蛇とピアス」を思わせるヒロインの風貌にある種のリアリティーもある。(但しパンクはそもそも北欧が本家とのことにて「蛇とピアス」の方が、それをなぞったとも言えるのだろうが)
 但し、その「謎解き」の部分に突っこみが足りない。女性探偵の天才的な調査は分かるのだが、「なぜどのように天才なのか」が書き込まれていない。これはいささか不親切ではないか。

 最後に「純情なヒロインの悲恋」というテーマで読み取ろうとしたらどうか。これも一定のレベルに達している。
心にある種の歪みを抱えたヒロインが愛情を表現しようとする姿はかわいらしくある。但し、それに対して
主人公がどう考えているのかが表現されていない。従い、一方通行のロマンスに終わっている。「片想い」と
言ってしまえば、そう読み取ることも可能だが、深みがない。これは主人公の造型が薄いからだろう。

 ということで実に惜しい作品だ。冒頭に言った通り、映像美については、これはかなりの水準だと思う。
抑えの聞いた雪景色等、観ていて底冷えのしてくる映像にはかなりしびれた。従い、惜しいのである。