「いまこそ読みたい哲学の名著」

在野の哲学者長谷川の著作を年始年末にゆっくり読んだところだ。
本書で一番注目したのは「論語」に対する長谷川の評価である。元来ヘーゲル研究で名高い著者が
中国の古典をどう読み解くのか。興味深いチャレンジである。
端的に言うと、長谷川は論語における孔子のいわば「上から目線」にかなり違和感を感じている。僕としては
そんな著者の違和感に対して、更に違和感を感じた。自分として長谷川の論に納得しがたいものがある点こそが
考えるに足る課題である。
確かに「女子と小人は養い難し」と論語は断言する。現代に読むと違和感を持つべきなのかも
しれない。但し、そのように長谷川に指摘される迄は気が付かなかった。孔子が厳密に設定してきた
上下関係に僕自身が絡め取られていたからだ。
論語における上下関係とは「師弟関係」である。日本において教師と生徒の間はかなり厳密なものが
歴史的にあったと思う。「仰げば尊し」を好例と言えるかもしれない。例えば米国におけるteacherと
studentの間にかような関係が築かれているのかどうか。直感的には日本のそれと米国のそれには
大きな違いがあるのではないか。
その「師弟関係」から「女子と小人は養い難し」という、ある種の暴言まで案外距離は近いような
気がしてきた。僕自身が、その路線を(若しくは袋小路を)歩いてきたからこそ、長谷川の論語批判を
聞いて、皮膚感覚で違和感を覚えたのではないかと考えたところだ。であるならば、僕は今その
違和感を大事にしなくてはならない。
在野の哲学者が師をどう持つことが出来たのか。若しくは象牙の塔にいる哲学者の方が本当に師を持ちやすい
のか。そもそも哲学においての師とはどのようなものなのか。それは僕には想像もつかない世界だ。但し、
長谷川は「師」というものに対してとても敏感になっているのかもしれない。そんな繊細な感覚が論語を
あぶりだしたと読めば良いのかもしれない。
本書で一番注目したのは「論語」に対する長谷川の評価である。元来ヘーゲル研究で名高い著者が
中国の古典をどう読み解くのか。興味深いチャレンジである。
端的に言うと、長谷川は論語における孔子のいわば「上から目線」にかなり違和感を感じている。僕としては
そんな著者の違和感に対して、更に違和感を感じた。自分として長谷川の論に納得しがたいものがある点こそが
考えるに足る課題である。
確かに「女子と小人は養い難し」と論語は断言する。現代に読むと違和感を持つべきなのかも
しれない。但し、そのように長谷川に指摘される迄は気が付かなかった。孔子が厳密に設定してきた
上下関係に僕自身が絡め取られていたからだ。
論語における上下関係とは「師弟関係」である。日本において教師と生徒の間はかなり厳密なものが
歴史的にあったと思う。「仰げば尊し」を好例と言えるかもしれない。例えば米国におけるteacherと
studentの間にかような関係が築かれているのかどうか。直感的には日本のそれと米国のそれには
大きな違いがあるのではないか。
その「師弟関係」から「女子と小人は養い難し」という、ある種の暴言まで案外距離は近いような
気がしてきた。僕自身が、その路線を(若しくは袋小路を)歩いてきたからこそ、長谷川の論語批判を
聞いて、皮膚感覚で違和感を覚えたのではないかと考えたところだ。であるならば、僕は今その
違和感を大事にしなくてはならない。
在野の哲学者が師をどう持つことが出来たのか。若しくは象牙の塔にいる哲学者の方が本当に師を持ちやすい
のか。そもそも哲学においての師とはどのようなものなのか。それは僕には想像もつかない世界だ。但し、
長谷川は「師」というものに対してとても敏感になっているのかもしれない。そんな繊細な感覚が論語を
あぶりだしたと読めば良いのかもしれない。