くにたち蟄居日記 -82ページ目

「高級化するエビ・簡便化するエビ―グローバル時代の冷凍食」 祖父江智壮

 
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 本書は祖父江という大学生の著者と赤嶺という指導教官の共著である。具体的には著者が書いた卒業論文「高級化するエビ・簡便化するエビ」を冒頭に置き、赤嶺が自身の論文と著者論文の解説の載せた構成となっている。僕は、祖父江という方と知り合う機会があったことで本書を読むきっかけを得た。

 僕にはいままで鶴見良行及び村井吉敬という方の本をいくつか読む機会があり、その感想をアマゾンのレビューとして書いた経緯がある。今回本書を読んでいて鶴見・村井の後継者がいらっしゃることが良く分かった。本書を読んだ感想は以下二点だ。

 一点目。著者である祖父江の出発点はインドネシアのエビ養殖池で養殖業者から「お前は、日本でどうやってエビを食べるんだ?」と聞かれたことにあるという。インドネシアの養殖と日本の食卓との間のある種の遠大な「距離」をいきなり突きつけられたということなのだろう。

その「距離」を縮める前に、まずその「距離」自体を計測し理解しなくてはならなかったことは想像できる。その為に著者は主に日本でのフィールドワークを行い、同時に日本の冷凍食品の歴史をさかのぼることになった。そのある種の「旅行記」が「高級化するエビ・簡便化するエビ」という論文である。

 指導教官である赤嶺は解説において「祖父江さんが消費現場の調査に没頭したのは、実は、調査資金にめぐまれていなかったからかもしれない」」と書いている。ここで言っている「消費現場」とは即ち日本だ。赤嶺は著者の論文の「現段階での限界」をここで述べていると読んだ。但し、それは著者の論文を貶めているものでは全く無い。大学を卒業し、社会人として旅立つ著者へのエールに満ちた解説であることは明白だからだ。

 二点目。「著者は今後社会人として東南アジアに関わった仕事をしていく」と赤嶺が解説で言っている。
 著者は論文をまとめるに当たって食品会社や水産会社に問い合わせる機会があったが、必ずしも全ての答えを貰えたわけではなかったと書いている。これはある意味ではしょうがない現実であろう。
  ここで微妙なのは著者がこれからは「問い合わせる立場」から「問い合わせを受ける立場」に移るという点にある。そこで著者には色々な葛藤も出てくることも想像される。若しくは自身が過去に行った「問いかけ」が実は非常に答えにくい質問であったことに気が付く場面もあるかもしれない。
 但し、赤嶺は「大学では人は育たない」という恩師の鶴見の言葉も解説で引用している。著者が大学を卒業し、実際の仕事の現場に行くことで著者が育つということを言いたいのだろう。その意味でもこの解説は著者へのエールに満ちていると言える。

 「バナナと日本人」「エビと日本人」という著作は全く新しい視点・切口を僕らに提供したと思っている。本書もその伝統を正統に継いだ著作だと僕は読んだ。今後の著作も楽しみである。

「ワンダフルライフ」 

 
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 このところ纏めて是枝監督の作品を鑑賞している。本作で三作目だ。

 本作はファンタジーという分野なのだろう。但し、是枝はドキュメンタリーの手法を取り入れて撮影している。それが大きなトリックとなって観ている僕らを混乱させる。観ていてだんだんと現実感が出てきてしまう。映画のスクリーンに映し出される映像を観ているのではなく、登場人物の真横に自分が座って現実の場面に参加しているかのように感じる。これは一種のマジックと言える。

 本作のテーマは観ている人によって異なるはずだ。「ヒロインの成長譚」を暖かい気持ちで見守ることも出来れば、「映画の本質とは何か」を考え込むことも出来る。「何かを選ぶことは、それ以外の全てを捨てることだ」という人生論を語ることも出来る。

 そういう自由な観方を許すのも、本作が何かを声高に主張していないからだろう。実際に、ここまで観てきた二本の是枝作品(「歩いても歩いても」「そして父になる」)でも、決してテーマは明示的ではない。淡々とした映像の向こうに、自分で目を凝らすしかない。そんな自分自身の視線の有り様が、その人にとってのテーマだ。

 本作を観ていて既視感を覚えた。村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終り」の舞台に似ている気がした。本作の舞台も、ある意味では「終わっている世界」ではある。村上の作品でも「そんな世界に留まるのか、そこから出ていくのか」がテーマであった記憶がある。本作でも「留まること、と、出ていくこと」は、第一義的なテーマであるとは言える。そこが僕の既視感になったのだろうか。それが最後の感想だった。

「隠し剣 鬼の爪」 

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 山田洋次の武士三部作で見損ねていたのが本作である。今回鑑賞する事が出来て少しほっとした。

 山田洋次の時代劇は非常に観やすい作品群だ。観ていても感情移入が容易であると思う。その点で、例えば
黒澤明の時代劇とは全く異なる。

 黒沢の場合、時代劇の主人公は、現代の我々にとってはある意味では「異星人」に近い。比較的分かりやすい「椿三十郎」等にしても、主人公の心の動きは現代の我々のそれとはかなり違っているように見える。従い我々は黒澤の映画を「その時代の劇」として鑑賞するしかない。これは決して黒澤の時代劇を貶めているわけではない。映画とは時として自分の現実から離れた世界を経験させるものであるからだ。黒澤は正しく我々を未知の世界に招いてくれたのだと思う。

 それに対して山田の時代劇は、端的に言うと、我々の既知の世界を描き出している。描かれる下級武士は日本のサラリーマンの姿に綺麗に重なる。得てして ご無体な「海坂藩」は、そのまま現代の企業や役所といった「組織」に実に良く似ている。従い我々は時代劇という設定の中で現代の我々自身を見せつけられている気がする。そこが山田の時代劇の見易さの理由ではないだろうか。

 本作の俳優で感心したのは、永瀬や松たか子というよりは、緒方拳と田中泯だ。

 緒方は実に堂々とした悪党であり、観ていてある種の爽快感を覚えたくらいである。田中も凄味のある
剣術の師範が実に似合っていた。このような脇役に重みがあることが本作に重厚さを与える。三部作の中では
若干中だるみ感も否めないが、充分見応えある作品となっている。

「そして父になる」

 
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  是枝という監督の作品は「歩いても歩いても」に続いて二作目である。厳密に言うと、10年以上前にタイに
住んでいた時に「幻の光」をレンタルショップで借りて観たことはあった。但し異国の地の海賊版ビデオ
だったので画質が悪かった。いずれ再見すべきだと思っている。

 本作の表のテーマは題名通り主人公の福山が「父親になっていく」というように言われるだろう。但し
もう少し考えてみると本作は「父の定義」を巡る映画だとも言える。

 少なくとも福山にも彼なりの「父の定義」というものは有った。例え、それがいささか「冷たく」
エリート然としていたとしても、定義を持って子供に臨んできたことも確かだ。
 一方、リリーフランキー演じる父親は全く違う「父の定義」を持っている。彼の場合には「父親とは
子供に接しているべき存在だ」という単純ながらも、とても「暖かい」定義になっている。
 この二人の父親の「温度感」が、本作の表の見所だ。

 では裏の見所とは何か。これは血の繋がっていない母と息子の話だ。

 福山は継母に育てられた。継母を「おかあさん」と呼べない息子であったことがさらりと語られる。福山の弟が
ごく自然に継母を「おかあさん」と呼び、その継母から「お前は私に似たね」と言われる関係である。この
福山の弟は本作に結構スパイスを与えている。

 また、赤ちゃんの取り違えを意識して行った看護婦も夫の連れ子を育てている。福山に対して、連れ子が継母を庇う場面は本作の白眉だ。

 加えて、尾野と真木の二人の母親も同様だ。二人共に実は血の繋がっていなかった息子を育ててきたことに
なった。自分の息子が血の繋がらない子供だったと知った後に彼女らが見せる無言の連帯は、実は
福山の継母や看護婦にも繋がるものがある。

 多くの方が指摘されている通り、リリーと真木の夫婦が実に上手い。初めにこの二人が出てきた時は
若干悪役染みた感もあってはらはらしたが、中盤以降は惹きつけられた。

「ウォール フラワー」 

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 青春映画という分野なのだろうが、なんとも奇妙な味わいの一作である。音楽の使い方や、話の展開は「アメリカン・グラフィティ」を思わせるものはある。但し、「アメリカングラフィティ」のようなイノセントな映画に終わっていない。苦みが効いていて観ていても安心できない。

 主人公はどうやら幼少の頃に受けたセクシャルハラスメントのトラウマで心を病んた経緯がある様子だ。

 主人公の親友はゲイだ。主人公にどのような愛情なり性欲なりを感じているのかは最後まで良く分からない。

 ゲイの義妹がヒロインということなのだろうが、彼女自身が小さいころにセクシャルハラスメントを受けてきたことも語られる。

 というようないささか複雑な背景の中で語られる物語自体は青春映画のステレオタイプである。孤独な高校の新入生が仲間と恋を得ていく話だ。別に珍しい展開でもない。むしろ珍しい展開でないこと自体が異様さを際立たせる。

 ある種の破たんした映画だと僕は思る。作者は色々なものを詰め込もうと思ったのだろう。但し詰め込み方がいささか異様だ。それが破綻感に繋がっている。そう思った。 

「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」 青木薫

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 青木薫という方の翻訳した本をいくつか読む機会はあった。岩波新書「面白い本」で青木の初めての
描き下ろしである本書を知った次第だ。

 本書は面白いし、感動的である。僕が一番感動したのは以下文章だ。

 「後世から見れば的外れだったり、トンデモだったりするような問題意識に駆り立てられていたとしても
それぞれの時代の深い問題に立ち向かうことで、科学者は知識の更新に貢献することができる。
 過去の巨人たちがどんな色眼鏡をかけていたとしても、続く世代の科学者はその肩の上に立ち上がり
新たな眼差しで少し遠くを見ることができるのである。現代の科学者たちもまた、この時代に特有な
色眼鏡をかけているにしても。」

 これは247頁の終章におかれた美しい言葉たちである。「終章」や「あとがき」には著者の
心情が描かれることが多いが、まさに青木が過去の科学者に向ける暖かいまなざしが見える様な
気がしてならない。

 おそらくは青木が理解する「科学者」とは「永遠に真理に到達することは出来ない」ということを
自覚的若しくは無自覚的に知りながらも、一歩でも先に行こうとする人たちなのかもしれない。
 そんな小さな前進が、しかし、全く間違っていたとしても、それが間違いだったと分かることも進歩なの
だろう。かつ、これも想像なのだが、青木はそんな一歩を進もうとする方の心意気に惚れて、
本書を書いたのかもしれない。本書に登場する古代からの科学者の多さを見ていてもそんな気がした。

 物理学の素人の僕としても楽しく読めた。これからの青木の著作に大いに期待する。

「恐怖と欲望」  スタンリーキューブリック

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 スタンリーキューブリック幻の処女作である。彼自身が封印したことで幻であったが最近発見されて
公開され、DVD化されたという。英語のウィキペディアを見ているとプエルトリコの図書館かフィルムセンター
で発見されたらしい。

 確かに後年のキューブリックの作品と比較しようは無い。但し、封印するほどの凡作ではない。その後の
キューブリックを知っている僕らとしては彼の「萌芽」を探すだけでも鑑賞する意義がある。

 この作品のテーマは戦場における狂気の有り様だろう。捕虜の娘を凌辱しようとして逃げられ、その娘を
闇雲に射殺してしまう兵士は完全に狂気に陥っている姿が描かれている。その兵士以外にも、例えば
敵の将軍を殺害することに異様に固執する兵士、その狙われている将軍等も軒並み狂気染みている。
 
 考えてみるとキューブリックは戦場を舞台とした作品は多い。本作に始まり、「突撃」「フルメタルジャケット」
などは完全に戦争映画であるし、「バリーリンドン」でも戦場シーンが印象的である。

 キューブリックが描く戦場は人間の狂気に満ちている場面が多いことも確かだ。少なくともいわゆる「戦争映画」のようなダイナミックな場面も無ければ、ヒーローも不在であり、センチメンタルな悲劇も無い。あるのは戦場という舞台で発揮される普通の人の「狂気」である。キューブリックは人間の狂気の有り様を描く為に戦場を選んでいるのかもしれない。他にも山の中のホテルであるとか、宇宙空間での孤独な狂気であるとか、ニューヨークの富豪連中の狂気であるとか、色々な舞台で人間の狂気を描いてきた彼だが、戦場が一番お気に入りだったのかもしれない。

 ということでキューブリックファンならやはり本作は観ておきたいと思う。またキューブリックを知らない方でも
充分興味深く鑑賞できるはずだ。

「永遠の0」

 現在と戦時中の二つの話を並行して物語が進行する。二つの物語が絡み合いながら映画が進んでいくという
映画の「語り口」が上手であり、二時間半という長丁場を一気に見せる作品である。

端的にいうと「現在」が語り部であり、「現在」が語る「戦時中」の物語が本作の表の主題である。
但し、次第にじわじわと「現在」が物語を覆っていく。最後は「戦時中」以上の物語が、「戦後」から
「現在」に至る時間の中にあったことが現れる。その話の、ある種のどんでん返しがこの映画の
カラクリと言って良い。

物語の表のテーマは「戦時中」の特攻隊だ。宮部という稀有の飛行技術と、それ以上に稀有だった人生観と
死生観を持った主人公の人生が語られる。

宮部自身が最後に特攻隊に志願した理由は、分かるようで分からない。

死に向かう部下をひたすら見送る作業に罪を感じ、その贖罪として志願したのかもしれない。
若しくは、戦闘機乗りとしてのある種の本能が死を前提とした戦闘に強烈に惹かれたのかもしれない。若しくは
本作には表立って描かれていないが、同時代の愛国精神に最後に絡め取られたのかもしれない。

そんな宮部に命を救われた大石が戦後を生き抜いたというテーマが裏のテーマである。大石という方の
人生観や死生観は声高に語られることは無い。平凡な方の非凡な人生が本作を豊かに「どんでん返し」をしている。
そこが本作の肝だ。

本作に対して「特攻隊を美化しているかどうか」という地点で論争が色々と起こっているらしい。
そういう議論の建て方が本作を鑑賞するに当たっての正しい切り口かどうかはいささか僕には
分からない気もする。それは戦後から現代に至る過程の物語の方が本作を支配している
からだと僕は思っているからだ。多くの日本人にとっての戦争とは実は戦後にあったのかも
しれないと考えた段階で漸く自分で少し納得したところだ。

「ノアの洪水」

    岩波新書「面白い本」に紹介されていたことで本書を探した。絶版本にて地元の図書館で
借りて読んだところだ。

   本書の欠点は冗長である点だ。小説じみた記述が多い。もちろん時として小説風の書き方が一服の涼風を呼ぶこともある。但し、風にも心地よい風と淀んだ風がある。本書の場合には後者に近い。従い、飛ばしながら読む場面があった。題材として面白いながらも本書が絶版本になっている一つの理由はそこにあるのではないか。結果としてもう少し簡潔に書けたはずだ。不必要に分厚くなっている点が惜しい。

   一方、面白い題材であることは間違いない。かつて淡水であった黒海に海水がなだれ込んだことが
聖書やギルガメシュの洪水であったのではないかという推定自体が楽しい。
  著者たちの主張に対しては、その後反証反論が起こりつつも、比較的可能性が高いという方向性で
研究が進んでいるという。結論が出るまでまだ時間が掛かるのかもしれないが、楽しみである。その点
ではグレアムハンコック等の、いささか怪しい著作とは一線を画す作品であるとは考えた。

「清須会議」 三谷幸喜

    三谷幸喜という方は才人だ。但し、才能をいささか浪費している気がし始めて長くなった。本作を見てもその感を免れなかった。

   まずキャストが豪華すぎる点だ。三谷という名前で役者が集まることは理解出来る。三谷が「役者を集めて使う」というなら解る。但し、見ていると「集まった役者に使われていないか」という印象が強い。最近の彼の作品では集めすぎた役者に振り回されている気がする。本作も同様だった。

   次に脚本について。
    本来の三谷の肝はここに有った。彼の初期の作品を見ていると今でも天馬空を駆けるといってよい。
三谷の作品くらい腹を抱えて笑ったものは少ない。それが最近の作品では正直見られなくなったと僕は
思う。

    三谷は脚本ではなくて役者に頼っているようになったとは思わない。いや、思いたくない。例えば森田芳光が「それから」以降、長いトンネルに入ってしまい、遂に出て来れなかった。それは森田の才気が活発であっても小さい器だったからだと僕は思っている。三谷はそんなものではないと思う。その意味でももう一度小さな作品で良いからじっくり脚本を作って頂きたい。そう強く思う。なにせ僕は彼の大ファンであるからだ。