くにたち蟄居日記 -81ページ目

「楼蘭王国」 赤松明彦

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本書でまず一番初めに驚かされたのは序章(8-9頁)である。

 著者の話では楼蘭は日本で発行されている地図や地球儀には表記されていることが多いが、それ以外の国ではほとんど表記されていないという。著者は「いまでは人も住んでいない荒涼たる大地の一地点の地名を、現代の世界地図の上に出すというのは、それにしても何か変ではないだろうか」と述べているが言われてみると
尤もである。

 端的に言うと日本人は楼蘭が気になるからということだろう。ではなぜ日本人は気になるのか。そこを
考えることは頭の体操になる。

 言うまでも無く楼蘭はシルクロードの一都市である。シルクロードはNHKスペシャルの特集で有名だ。
きたろうのシンセサイザーでのテーマ音楽も大ヒットした。あの番組でシルクロードはすっかり人口に
膾炙したと言える。

 では日本の地図に楼蘭が出ているのはNHKのお蔭なのだろうか。直感的に言うと逆である。楼蘭は
もっと前から地図に出ていたと思う。つまりNHKスペシャルの前から「気になる存在」だったはずだ。
楼蘭やシルクロードが「気になる存在」だったからこそNHKはかなりの経費を掛けて特集を組むという
「賭け」に出ることが出来たのではないか。僕にはそう思える。

 日本人がシルクロードを考える時に、どこかに「日本こそがシルクロードの終点だ」という
印象があると僕は思う。正倉院に保存されてきた遺物を見ても、シルクロードを通ってきたペルシャ
のグラス等が並んでいる。仏教や儒教と同様に西から伝播してきた文化の終着駅としての日本という
意識が僕らの中にあるのではないか。そこに琴線に触れるものがあるからこそ、日本人は地図にもはや存在
しない楼蘭という都市を記しているような気がしてならない。

 本書もそんな琴線に触れる一冊ということになろう。日本とはまるで異なる異国を描きながらも
どこか既視感を覚えることもあった。行ったこともないロプノール等の話に既視感を感じるとしたら、
それは日本人としてのある種の集合的無意識に触れるものがあるのかもしれない。 

「バルテュス  猫とアトリエ」  

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 図書館の新着図書に本書を見つけ、借りて通読したところだ。

 バルテュスという方はピカソが「20世紀最期の巨匠」と呼んだらしい。「巨匠」という言葉をピカソが使う
点にはなんとなく違和感は感じる。いわゆる「巨匠」を否定するところからピカソが出てきた
のではなかったかとも思うからだ。

 ではピカソは自分の事を巨匠だと思っていたのだろうか。

 それが分からないとピカソの評価の真意は分からない。ピカソにバルテュスへの悪意があった可能性だって
ある。もっと美しい言葉で言うと「嫉妬」があったのかもしれない。

 バルテュスの絵はスキャンダラスであるという。繰り返される少女の裸体の絵を見ていると誰しもが
「ロリータ」というような言葉も思い出すはずだ。これが例えば絵画ではなく写真だったらどうなるのか。
少なくとも「バルテュス写真展」には、その手の趣味の男性しか行かないに違いないし、女性の支持を
得られるとは到底思えない。

 従い、かかる絵を鑑賞するには、何等かの自分なりの翻訳が必要になる。自分が見ているものが「裸の少女」
ではなく、何かもっと霊的なものであると読み取る作業が必要になる。その作業を「鑑賞」と呼ぶのかもしれない。

 本作は写真が美しい。風景だけではなく、紹介されるバルテュスの絵も全て写真で写したものだ。そう
考えると、本で絵を鑑賞するということは写真集を見ることとも言える。バルテュスが好んで描いた「鏡」とは
ある種の加工を施した金属の表面に映し出された現実を見るための道具である。その意味で写真を通じて絵を見る作業にも似ている。バルテュス自身が鏡で絵を見ることの重要性も言っていたという点は本作でも紹介されているエピソードの一つだ。そんなことも踏まえながら本書をあっというまに読み終えたところだ。

「夜がまた来る」 石井隆

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 石井隆作品は「甘い蜜」「ラブホテル」に続いて三作目である。正確に言うと「ラブホテル」は監督が相米慎二であり石井隆は脚本なので石井隆作品とは言えない。但し描かれている世界はどうみても石井隆作品である。従い、石井隆作品の一つとしてカウントさせて頂いた。相米ファンには異論もあるとは思うのだが。

 石井隆作品はカルト映画である。万人向けではない。かなりの方が見ていて不快感を覚えるはずだ。但し一部の方は熱狂的に支持していると聞く。これは例えば激辛のカレーにも似ている。極端な味付けをすることで熱烈なファンを囲い込むことが出来る。一旦嵌るとなかなか止められない。

 正直に言うと、僕自身は石井隆の「熱烈なファン」ではないと思う。石井隆の特殊な世界を垣間見ることは楽しい。但し、そこに溺れるようなものまでは持っていない。本作を楽しみつつも、一歩引いた場所から鑑賞していることも確かだった。そういう「距離感」の置き方が、要は自分自身の映画の見方である。それ以上でもそれ以下でもない。

 石井隆作品にはある種の「ユートピア」感が溢れる場面がある。本作では夏川と根津が一時暮らした建築現場の場面がそれにあたる。暗くて汚い地下室に花が飾られている場面は非常に美しい。堕ちきった主人公たちがつかのまの日常を取り戻す様には幸福感すら漂う。但し、かかる「日常」は「おままごと」に過ぎないことも確かだ。エンディングになだれ込む前の一瞬の幸福でしかありえない。

 夏川結衣が凄い。何が凄いかというと本作に出演することを決意した点である。

 女優のキャリアとして本作に出ることはかなりのリスクだったはずだ。かつ、結果として裏目に出た可能性も
今なお残っているような気がする。彼女のコメディエンヌとしての才能をいささか偏愛している僕として、
夏川が本作に出る必然性は感じられない。但し、当時は清純派だった夏川が、女優としての第一歩を本作で
踏んだと考えることも楽しい。本作からコメディエンヌまでの距離はかなりあるとは思うが、その辺はご本人に
聞いてみたいものだ。

アレ という言葉を思って

週末に「アレ」という言葉が気になっている。
 
「アレ」という言葉は案外と不思議な使い方で使われている。
 
例えば
 
「最近は天気もアレですから、風邪にも気を付けて下さい」
 
「なんというか、気分もアレなんで、だからこうしたわけですよ」
 
「その辺の経理処理関係は、まあアレしておきますから」
 
「だから、予算もアレだろ! だからしょうがないんだよ」
 
「うちの社長は、ほら、アレでしょう?だから 今回は価格は
こうして下さいよ」
 
 
というような会話は結構聞くし、かつ何ら違和感が無い。
 
「アレ」が何を指すのかがその場の会話の空気で分かっているから
通用するのかもしれない。しかし、それにしても「アレ」の二文字で物事を
表現してしまうのも凄い。
 
もっというと「下ネタ」的にも使える。例えば
 
Aさん「Cさんは 最近大変らしいよ」
 
Bさん「何が大変なの?」
 
Aさん「アレだよ」
 
Bさん「アレって?」
 
Aさん「だから アレだって!笑 」
 
ということで最後は淫靡な笑顔をAさんとBさんが浮かべるという場面は良く
ある。 
 
更には「今度はあそこに行きます」「あの事業はあそこが難しいのだけどね」等
というような会話も気になってきた。気になった途端にその三文字の言葉が
非常に下ネタっぽく見えてくる。カタカナで表記したら完全にアウトだ。
これ以上はやめよう。
 
 
但しここで気を取り直して考えるべきは「何かを漠然と指す言葉が持つある種の魔力」
ということだろう。
 
僕らは仕事においてはしばしば「漠然ではなく具体的に表現すること」を求められる
ケースが多い。僕自身も「具体的にはどういうことですか?」と聞く場面も多い。
 
一方、生活の中では曖昧で漠然とした言葉を駆使することで「明示的ではなく
黙示的」ともいうべきコミュニケーションを取る能力があるということなのだと
思う。ウィンク、目つき、手ぶり といった「言葉を介在させない会話」
があることも確かだし、しばしば非常に有効だ。言葉より通じることすら
多々ある。誠に我々の持つコミュニケーション力は奥が深く、従い一筋縄では
行かないということなのだろう。

死語であるネットサーフィンという言葉を不図想って

 もう死語になったと思うとたまに見かける言葉に「ネットサーフィン」というものがある。
 
 ネットで漫然と色々なサイトを見廻ることをかかる言葉で表現したのだと思う。なんで「サーフィン」なのか
はついぞピンと来ないのは僕がサーフィンをやったことがないからに違いないと思うようにはしている。自分で
やったことが無いものに対して何かを断定したり批判することを避けるのは簡単なようで結構難しいものだ。
 
 「風が吹くと桶屋が儲かる」とは落語のネタだったのだろうか。あの話は、屁理屈の付け方を表現したものだろう
と長らく思ってきたが、本日不図違うことを考えた。
 あれは「会話の妙」ではないかと。
 
 会話というものを考えてみると不思議だ。何が不思議かというと、話をしている二人(の場合が多い)は
いったいどこにその会話が行くのかが分からないままに漫然と話していることが多い点だ。
 
 例えば初めは最近風が強いという話をしているかもしれない。すると話は風で舞い上がる塵が目に入って
痛かったということに続くかもしれない。その調子で、話の中の一要素を相手が取り上げて、次々と話が
変っていき、気が付くと「なんでこんな話をしているのだろう」と二人で笑ってしまうこともあるではないか。落語の終点の桶屋は、会話の中では容易に辿りつく地点ではあるまいか。そう考えると人の会話の展開の不思議さや玄妙さというものもあるのかもしれない。
 
 そんな会話の展開の仕方と、いわゆる「ネットサーフィン」なるものにもいささか似ている点も感じる。
 
 あるサイトを見始めて、最期に観ているサイトまで何をどう見ていくのかはまさに「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じ構造なのではないかと思った次第だ。
 
 
 
 

アウトソーシング出来ないもの

アウトソーシングというものを週末考えている。 人間の歴史はアウトソーシングの歴史ではないかなと。
 
例えば自動車とは「自分が移動すること」を自分の足ではなく 機械にやってもらうという形でアウトソーシングになっているとも言える。
 携帯電話、というか電話も同様かと。本来ならそこに行って口頭で直接話すべき行為を、二進法によって声を電子的に送ることにアウトソーシングしているのではないか。
 
 身の回りを観ていると大半の物が「アウトソーシングしたもの」に見えてくるから不思議だ。
 
 そう考えていると逆に「アウトソーシング出来ないものは何なのか」と考える方が分かりやすいのかもしれない。「調理自体はアウトソーシングは可能だが、食べること自体はちょっと無理か」であるとか「眠ることはアウトソーシング出来なさそうだな」であるとか。厳密に言うと「食べること」は全て点滴で可能かもしれないが、「食べること」の持つ豊穣性を望むべくもない。
 
 ということで答えのある話ではないが、「その人にとってアウトソーシング出来ないもの」を突き詰めていくことは「その人」の本質に迫る作業かもしれない。これは仕事や会社組織でも
きっと同じな一面もあるのだろうが。

長雨を眺めて

 週末の長雨だ。
 
 「折角の休みなのに雨だ」と思うが、「雨にも風情があって悪くないな」と思うのかによって
精神衛生が変ってくる。
 
 雨を眺めていると「目で見る雨」と「耳で聴く雨」の二要素があると思ってきた。
 
 前者は当たり前だが、聴覚に訴える気象は、他には「風」程度なのかもしれない。
「大雪」や「夕焼け」や「晴天」を耳で感知することは不可能だが、まさに「風雨」という二つの気象こそが耳で聴く気象なのかと思ったりもしている。
 
 さらにぼんやりと考えていると「なぜ雪は聴けず、雨は聴けるのか」と考え始めた。
(おそらく今回の長雨を今年二月の豪雪と比較している自分がどこかに居るからだろう。
 あれば四か月前だったが)
 
 雨の音は言うまでもなく、水滴が落ちてきて物に当たる際の音だ。雪も「天から落ちてきた水」という点では雨と同じだ。但し、雪という形状を取っているがために物に当たっても、その当たり方が柔らかいので音にならない。
 
「当たりが柔らかい」といっても積もることも出来る雪は重さを獲得し、例えば電線を切るというような芸当も出来る。その点、雨はさっぱりと地面に落ちるだけなので、電線を切ったり木の枝を折ったりすることはない。
 
 そう考えると「雨型の人」と「雪型の人」と2種類の人がいるのかなと思ってきてしまう。
 
 週末に雨をぼんやり眺めていると色々な考えがあぶくのように浮かんでは消えて行く。そういえばあぶくも下からたちのぼってくる雨のようにも見える。

「終の信託」 周防正行

 周防作品としてはいささか中途半端である。
 
 本作の扱い方は色々な切り口があったと思う。「検察との勝負」かもしれないし「医師と患者との間の命の交流」かもしれないし「尊厳死とは何か」かもしれない。端的に言うと、本作はそれらを全て盛り込もうとしたのだと思う。その志は分からないでもないが、結果として三兎を追ってしまってはいないだろうか。
 
 監督が盛り込んだエピソードから見ると「医師と患者との間の命の交流」に軸足は置いていたとは思う。ヒロインは不倫から自殺未遂を辿る過去を持っている。主人公は満州での原体験というトラウマを持っている。その二人が、お互いの心の傷を尊重していくことが本作の狙いだったのではないか。であるならば、もう少し掘り下げる余地はあったと思う。
 
 例えば主人公と家族との間の関係などは余りに希薄だ。主人公は目の前で妹が死んでいったことが原体験の肝であると思われる。であるなら、その後に自らが得た家族というものに対してどのような思い入れがあったのだろうかがもう少し出て来ても良い。それがあれば、主人公とヒロインとの間の心の触れ合いに味わいと深みが出てきたのではないか。本作で表現される主人公の家族は実に薄い。
 
 ではヒロイン側はどうか。病院での不倫場面や空港シーン等も、いささかステレオタイプに流れている。あの表現では見ているものとしてヒロインに感情移入することは難しい。むしろ間抜けな人として描かれている気すらする。勿論「間抜けな人」として書き込むことは否定しないが、それでは「医師と患者との間の命の交流」というテーマには全くそぐわなくなると思う。
 
 周防監督の「Shall we ダンス?」は実にすばらしい作品であった。起用俳優からみても 本作は同作の続編とも観ることも出来る。そういえば主人公の家族が薄いという面でも似ている。但し両作品を比べると、「Shall we ダンス?」は喜劇であるのに対し、本作はむしろ悲劇である。これは個人的な見解だが周防監督は喜劇の方にその才があるのではないか。それが最後の感想となった。

「抱きしめたい  真実の物語」 

 
 まず脇役の國村隼と風吹ジュンが実によかった。このお二人は最近の邦画では出ずっぱりと言って良い。こういう俳優がきちんと存在感があることが邦画の厚みを成している。

スター俳優はある種の映画を引っ張り上げることは出来るかもしれないが、オールラウンドで活躍できる方は限られている。主役を張るということはそもそもそういうことを意味する。
 一方名バイプレイヤーは全く違う。彼らには独自の存在感をオールラウンドで発揮できる方がおられる。そういう方は「ある種の映画を引っ張り上げる」のではなく「ある時代の邦画を引っ張り上げる」存在である。大変な努力、洞察力、教養が無いと務まらないだろう。

 一方、主役の北川景子はどうか。映画冒頭の登場場面での北川は素晴らしい。無愛想で攻撃的な彼女の存在は際立っていた。一方、その後の彼女がいささかとんがりが減ってしまい良い人になってしまいがちである点がむしろ残念である。笑顔より怒っていたり不機嫌な方が似合う女優というものは存在する。多くの北川ファンには申し訳ないが、本作でも彼女の笑顔よりも不機嫌な表情の方がしっくりしていた気がする。

 本作はノンフィクションであるということだ。ノンフィクションの重みは十分感じさせるものはある。但し、いくつかのシーンが若干安易な気がした。特に主人公が以前付き合っていた女性とレストランにいる場面をヒロインが見て嫉妬で怒る場面等は正直無くても良かったのではないか。折角の「重み」がいささか減じられた気もした。要は本作の「ラブストーリー」としての味付けだったろう。但し、本作は「ラブストーリー」では終わらない話だと思った次第だ。

「アナと雪の女王」 

  機内で本作を観る機会を得た。

 本作では主題歌のLet it goが二回出てくる。初回はエルザが雪山で歌う場面であり、次はエンドタイトル
部分だ。この二回で歌われるLet it goの意味は全く異なっている点が本作の筋である。

 初回に歌われるLet it goとは、エルザが今まで自分を縛ってきたものから決別し、自らを解き放つ場面である。
「このままで良い」とは、まさに「自分が持っている魔力を肯定する」意味だ。今まで王宮の中で幽閉されて
きた自分自身を解き放った行先は氷の宮殿であったことは象徴的である。自由の代償が絶対的な孤独を意味
することになった。しかも、魔力は制御を欠き、かくて自らの国は凍てつく場所となってしまう。ここに
スターウォーズのフォースと同じものを感じても良いと思う。アナキンがフォースのダークサイドに
引きずり込まれてた場面と重なる。エルザはまさにダースベイダーになったと言って良い。

 但し、そんなエルザが妹の愛を得て、自らの魔力を制御していく物語が本作の後半であり結論である。
本作の最後になってエルザは「魔力を持った自分自身」を漸く肯定できるようになる。「魔力を肯定する」
ということと「魔力を持った自分を肯定する」ということは似ているようで、実は全く異なる次元だ。
エルザは妹の愛を通じて自分を肯定することで 初めて魔力を制御することを習得したと言える。
ダースベイダーは自分の息子の愛情で最後に救われたわけだが、その部分は本作の結末ときちんと重なって
いる。

 良く出来た作品だ。下手なロマンスに話を持っていかなかった点が特に気に入った。