くにたち蟄居日記 -80ページ目

大西順子の引退の弁

 
 
「もともと、17歳でジャズという音楽に初めて触れ、それ以来ジャズの巨人達の足跡をたどり、自分なりの解釈で作品を作ったり、ライブ、コンサートという活動の場を頂き幸運にもそれをお仕事にさせて頂いてくる事が出来ました。がしかし、それらで私が発表してきたものは果たして「自分の音楽」と呼べるものだったのでしょうか?
 結局既に存在するものを自分というフィルターを通して焼き直すだけだったようにも思われます。
 時として、それはオリジナルを台無しにすることも多々あったんではないでしょうか。要は自分のための勉強、もっと言えば、自分の為だけに、というエゴをそのまま仕事にさせて頂くという本来ショービジネスにはあってはならないことを生業にしてきたと今痛感しています」
 
 
 大西順子というジャズピアニストの引退の弁ということであるらしい。
 
 「結局既に存在するものを自分というフィルターを通して焼き直すだけだったよう
にも思われます」という言葉が印象的である。
 
 かつて池田晶子という哲学者は、自らを「思想の廊下」という表現をしていた。
端的に言うと、誰かが池田の口を通じて誰かの思想を語っているという感覚を「廊下」
と呼んだということらしい。池田の独創性は「廊下」という「通路」にあったという
ことだと理解した。
 これに対して大西は真逆のことを言っているようにも読めるし、実は同じことを
言っているのかもしれないとも読める。池田とて、「自分のフィルターを通して
焼き直す」だけをやったとは思っていなかったろうから。
 
 
 

表現されたもの自体はつまらぬものだ。

 
  「 芸術において 重要なことは表現すること。
 
   表現されたもの自体はつまらぬものだ」
 
             ーー「不穏の書、断章」  フェルナンド・ペソア ーー

「ラスト タンゴ イン パリ」 

 
 本作は公開当初は性描写で物議を醸したと聞く。制作後40年経った現在では別に驚くような描写ではない。性描写に気を取られないで本作を鑑賞することが出来る。
 
 本作の主演は誰か。当然ながら主人公とヒロインと言うべきだろう。但し、簡単にそうとも言えない。そこが本作の厚みになっている。僕であるなら自殺した主人公の妻を隠れた主人公と言いたい。
 
 主人公の妻は映画が始まる前に既に他界している。但し、主人公の精神を蝕む存在としてはれっきとして「生きている登場人物」である。映画では彼女に関しては多くは語られない。ほとんど手がかりがないとも言える。
 
それでも彼女が主人公とは別に愛人を設けており、主人公と愛人に同じパジャマを与えているなどは語られる。彼女がなぜ自殺したのかは最後まで不明だ。これは観ている僕らだけではなく、劇中の主人公にとっても全くの謎である様子だ。
 かくて主人公はその謎を追いかけて地獄めぐりの旅を強いられる。ヒロインとの性行為も、そんな地獄めぐりの一端に過ぎない。
 
  主人公は死体になった妻に対して自分も死にたいと涙ながらに訴える。かつ、死に方が分からないとも言っている。その望みを間もなく遂げさせるのがヒロインの最後の役割だ。ヒロインは彼に死を与えるためだけに登場した脇役とも言える。
 
 マーロンブランドが良い。狂人じみた役をやらせると実に上手い。「地獄の黙示録」のカーツ大佐をすぐに思い出した。
 

カモメのジョナサン 完成版

 
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 カモメのジョナサンを読んだのは高校二年生の時だ。高校二年というと、いわゆる青春時代
真っ盛りである。いずれ「人生とは何か」であるとか、好きな女性が気になって仕方がないという
あの時期である。すべての人がかかる病気みたいなものだ。もう30年前の話だ。

 あの時に読んだ本書には、幾分影響を受けたと今になって思う。30年後の自分がこうなって
いるとは当時の僕には想像も付かなかった。もう少し浪漫的な人生を歩むと思っていた。現在
の幾分無機質な生活を考えるといささか索漠たる思いもある。

但し、沢山の「出来なかったこと」と若干の「出来たこと」を経て今の自分が成り立っている。
それを否定しても何も始まらない。

 沢山の「出来なかったこと」の中に、本書がある。30年前の本書からは「自由であれ」という
メッセージを貰ったと記憶している。「自由である」ことがかように難しいと理解することを
通じて、「出来なかったこと」の中に本書のメッセージは入った。

  著者が今回第四章を加えた理由を考えることが本書を読む最大の理由である。教条的に
なっていくカモメたちを風景には既視感を覚える。第四章を著者はいつ書いたのかが議論に
なるくらい現実感のある章だ。但し、エンディングには明るさが漂う。ジョナサンがきちんと
「物語」を再開してくれる場面とは著者が四十年をかけて用意してきたハッピーエンドと読む
べきだと僕は思う。

  第四章を加えたことで「カモメのジョナサン」には 読み方が二種類出来たと言える。
すなわち「第三章で本を閉じる」という読み方と「第四章まで読み続ける」という読み方の
二種類だ。読み方が多い本は楽しい。もう十年経った僕が本書をどう読むのかにも
興味がある。その時に、本書が「若干の『出来たこと』」に入っていることをあったら
とかすかに思いながら。

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 

 村上と小澤の音楽談義である。僕自身はクラシック音楽に詳しくない。従いお二人が挙げる
作曲家、曲、演奏家には知らないものが多かった。それでも楽しく読了することが出来た。

 まず小澤について。もうすぐ80歳になられる巨匠にも関わらず実に若い。少年のような、とでも言うべき雰囲気が伝わってくる。

 例えば「もうめちゃ遅くやっているの」(61頁)、「それでもう超変わった人なんだ」(144頁)とい
ようなマエストロの言葉を村上は拾っている。

 80歳にならんとする方が使う言葉としてはいささか軽いかもしれない。但し、村上が敢えてそういう言葉を拾うことで小澤という方の「若さ」をまさに音楽的に挿入している。ここが村上の芸の一つなのだと思う。
 村上が描き出す小澤という芸術家の無限の好奇心と探求心を、かかる現代語で表現している点が心地よい。

 次に村上について。

 村上の語り口にはある種のリズムとスイングがある。これは音楽を語るからではない。村上が語る文学に関しても同様だ。村上は本書だけではなく、以前他の著作の中でも文章のリズムを大事にしたいと語っていたと記憶している、その考え方は音楽から来ているのかなと今回強く感じた

 では文章のリズムとは何か。

 僕の素人考えでは、まずは文章のうねらせ方である。文章の長さであり、句読点の置き方である。
 そういう「スキーム」を確立した上で、その「線路」に言葉を走らせているような感覚だ。走らせる言葉の選択も当然ながら「線路」の形状に合わせて選ぶ。小澤の語る「めちゃ」とか「超」も、かような「走らせる言葉」の一例である。その意味では楽器の選択と言葉の選択には似ている場面もあるのかもしれない。

 最後の大西順子を巡るエピソードは感動的だ。小澤と村上は追っかけに近い。そんな二人の子供のような対談が楽しい。

作務衣について

 作務衣が好きである。

 なぜ作務衣が好きなのかは自分で考えてみても中々これといった答えが出てこない。着ていて
楽であるなどの物理的な心地よさもある。但しそれだけとも思えない。

 作務衣を来ているとなんとなく引き締まる気がする。そもそも作務衣は言葉通り「作務」を
するための衣類だ。作務とは禅宗の言葉で日々の雑務を意味するらしい。具体的には掃除や
まき割り等とのことだ。

 雑務という以上、主務ではないという意味だろう。但し、そういう掃除やまき割りが重要な修行
であるとも言う。典座教訓では調理が大事な修行であった。従い作務衣を着ること自体が修行中を
意味するのかもしれない。

 夏に着る作務衣を探していた。現段階では梅雨であることもあり着ていて暑くない。梅雨明けの猛暑にも、いまの爽やかな着心地を期待したい。

「鑑定士と顔のない依頼人」 

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 こういう映画を観ていると、やはり欧州の映画はハリウッド映画とは違うなと改めて感じた。SFXCGに頼らない映画作りには正直好感を覚える。これはハリウッド映画を非難しているわけではない。そもそもの映画に対する思想の違いだ。
 
 本作を鑑賞するための切り口とは何か。色々あろうが、やはり本作がハッピーエンドな作品かどうかを考えることが一番だろう。
 ここから先はまともにネタバレとなる。
 
 僕はハッピーエンドと観る方が、本作に深みとコクを与えると考える。
 
 本作の主人公は女性の絵画をひたすら収集している。「女性を通じて絵画を収集している」のか、「絵画を通じて女性を希求しているのか」。これに関しては後者であると断じたい。主人公は現実の女性を獲得する機会も財力もあったろう。それでも理想的な女性を描いた多くの絵画に接しているうちに、現実の女性に対しては不能状態になってしまったように思える。
 
 そんな主人公が出会ったヒロインは、初めて肉体を持った女性であり、主人公を絵画の女性達から、いわば「解放」する役割を果たした。絵画から解放された主人公の活き活きとした様子は観ていても心温まるものがあった。
 
 但し、そんなヒロインが実は「亡霊」であったということが本作のいささか残酷な筋立てとなっている。もしくは、やはりヒロインも「絵画」であったとも言えるかもしれない。ラストで主人公がヒロインを描いた絵を抱えて旅する場面はそれを暗示している。乱歩の「押絵と旅する男」の影響をここに読み取ることも可能だ。
 
 それでも、やはり主人公は「絵画」から「解放」されたように見える。プラハの不思議な喫茶店で誰かを待つ主人公には、「活き活きとしたもの」の残響を聴き取っても良い。なにせ以前は主人公が「誰かを待つ」ことは無かったろうから。(冒頭で待たされて激怒していた主人公も思い出す)
 
 本作は不思議な作品だ。ラストシーンの解釈も沢山あるだろう。沢山ある解釈の中で、何を自分として選ぶのか。それによって冒頭からの一つ一つのシーンの味わいが変ってくる。二回鑑賞することを強くお勧めしたい。
 

「竜二」 川島 透 

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 以前からずっと観たいと思っていた一作である。DVDで借りて出張中に見る機会を得た。

 脚本・主演の金子が公開直後に胃癌で他界したことで本作は伝説化された。もし金子が健在であったならば、本作はかような高い評価を得たのだろうか。それを考えることは頭の訓練になる。

 例えば金子の他の脚本もいくつか映画化された。それらの作品の評価が現段階で高いとは思えない。むしろ
「チンピラ」や「師子王たちの夏」は徐々に忘れられつつあると思う。

 但し、それは金子の脚本家としての力量が低いと言っているわけではない。

 殆どの映画が「徐々に忘れられつつ」あるからだ。ある意味で量産されている映画の宿命と言って良い。鑑賞するに際して最低でも90分程度は必要とするという宿命を映画という芸術は背負っている。音楽が数分単位であることと対照的だ。従い、そもそも一作が長きに渡り人口に膾炙することが難しいのが映画なのだ。
  
 そう考えると「竜二」が今になっても人気がある理由は、やはり主演の金子が命を懸けて作った作品であったことが大きいのだと考える方が普通だ。

 金子と似た運命をたどったのは松田優作だ。松田は金子が息を引き取った際には病室で号泣したという。その松田が程なく膀胱癌で金子の後を辿ることになった。松田も自らの死を覚悟しつつ「ブラックレイン」に臨んだことは有名な話である。リドリースコット作品としてはブラックレインは印象が薄いが、松田の遺作としての異様な迫力が印象的だ。ブラックレインと竜二はその点で似ている面がある。

 桜金造が良かった。こういう作品から彼が出てきたことは知らなかった。

「ペコロスの母に会いに行く」  森崎東 

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 本作の表のテーマは「認知症の老母とその息子の物語」ということだろう。主人公である息子のペコロスと、その周辺の人々のユーモラスな言動は鮮やかだ。森崎という監督は喜劇で鳴らされた方だと聞く。僕は本作以外には20年前に「ローケーション」という作品を観ただけなので森崎映画を語る資格には欠けている。それでも本作の漂うある種の猥雑さも含んだ喜劇性は強く感じた。
 
 それでは裏のテーマは何か。僕は「生者と死者との対話」だと考える。
 
 本作でヒロイン(つまり、認知症の母親)が何を追い求めているのか。それは死者との対話である。具体的には夫であり、幼馴染の友人であり、妹である。
 
いずれも既に他界しており、当然ながら対話は不可能である対象だ。但し「対話が不可能」であることが本当なのか。それはどこでの「本当」なのかを考えていくと本作の深みが増してくる。
 
 ラストシーンの眼鏡橋の場面こそが、その答えだ。ヒロインは追い求めた死者たちと出会い、写真撮影に至る。現像された写真には死者は写っていないが、そんなことはヒロインには何ほどのものではない。大切なことは、死者たちに再会することが適ったということだ。
 
 ではヒロインにとってその死者たちとは何だったのか。それは彼女が生きてきた中で死活的に拘ざるを得なかった方であり、その拘りこそが彼女の人生を作ってきたものだと考える。
 
 家の経済的な事情で花柳界に身を置き、長崎の原爆で命を落とした幼馴染は、無理心中寸前のヒロインを救った。妹は体の弱さを無理強いしたことで夭折し、ヒロインは無理をさせた罪悪感を一生抱えることになった。無理心中を考える原因となった夫に対しても、その心の弱さを含めて添い遂げた妻としてのプライドと愛情があったということなのだろう。
 
 そんなヒロイン自身の人生を「死者との対話」で再確認したいとヒロインが強く願う姿が認知症という姿で現れているだけである。いや、認知症を患う前には、ヒロインはかかる思いを封じ込めておくしかなかったのだろうと言う方が正確かもしれない。
 
 森崎監督は86歳だという。長崎ご出身とのことだ。原作者も長崎育ちであるし、演じた原田喜和子、原田知世姉妹も長崎生まれだ。長崎の坂が美しく撮影されていた点も付け加えておきたい。
 

「中国の大問題」 丹羽 宇一郎

 
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 著者は民間から初めて中国大使になられた方である。どのような政治判断が当時働いてかよう
な人事が決まったのかは僕には分かりようもない。またその結果がどうだったのかに関しても
ある程度時間が経たないと結論は出ないだろう。歴史とは時の審判を受けなくてはならないからだ。

 一方、現段階で本書を読むとはっきりしている点がある。著者の言葉は非常に平易平明で
あるという点だ。

 「言葉が平易平明である」ということは実はかなり難しいことである。物事を多義的に語るの
ではなく端的に語るということは、相当の断定が必要だ。独断と言っても良い。その意味で「本書は
良くも悪くも著者の独断に満ちているはずだ」という推測が成り立つ。

 独断というと悪い響きがある。但し、それは本当なのだろうか。もっというと僕らは独断ばかり
行っているのではないか。その独断の精度によって英断にもなるし、愚案にもなるということなの
ではあるまいか。かつその「精度」というものを図るには時間も必要だ。それが「時の審判」の意味
である。

 著者は平明に中国を語る。ご自身で歩かれ、ご自身で考えられたことを分かり易く述べている。
かつ、ご自身が巻き込まれたであろう日中の政治問題から一歩引いた地点で語っている。
 勿論当事者として現段階若しくは将来に分かっても言えない話もあったはずだ。それらを
おそらくは注意深く避けつつも、一歩引いた大局から中国と、何より日本を語ろうという熱意に
溢れている。その熱意こそが本書の魅力である。