タイのオリエンタルホテル

Sept.2014 at Bangkok
出張での会議がオリエンタルホテルだったので宿泊した。
この高名なホテルに宿泊するのは2001年以来である。13年前は、タイに在住していて、帰国が決まった際
に家族で一泊だけしたことがあった。当時は長女が5歳、次女が2歳である、僕も若かったわけだ。
今回ホテルにチェックインして驚いたことがある。登録されていた住所が、タイに住んでいた場所であった
からだ。13年前にチェックインした際に記入した住所が残ったいたわけだ。それにしても僕の名前は珍しくも
なんともないものである。なんで13年前に宿泊していたことを見つけ出してきたのだろうか。
オリエンタルホテルは客の名前を憶えていることで有名だ。なるほどなと今回思った次第である。
人に致して人に致されず
「孫子に経営を読む」という本を読んだ。著者は伊丹敬之という経営学者
である。
その中で「善く戦う者は、人に致して人に致されず」という言葉の紹介があった。
これは現代語に直すと「相手を自分のペースに乗せることが大事であり、相手の
ペースに乗ってはいけない」という意味だろう。
似た言葉は多い。
「相手の土俵で戦うな!」
「相手のゲームになっていないか?」
というような言葉は仕事でも結構使う。家庭においても配偶者とのパワー
バランスは、まさにこの「孫子」の言葉が強く思われるではないか。
ディファクトスタンダードを作るというのも同じ事を意味している。
de facto standardとは 「事実上の世界標準」という意味だ。例えば
一時期のマイクロソフト社のWINDOWSがそうだった。
もっと言うと「時間」もそうなのだろう。
なんで英国のグリニッジ天文台の時間が世界標準だったのかというと、
そのころの英国が世界一位だったからだろう。そういう「標準」
を作ってしまう、ゲームのルールを作ってしまう、というようなことが 物事に
於いて「勝つ」ための方法なのだと孫子という方は2000年以上も前に言っていた
わけだ。まだ日本は縄文時代の頃に。
「安曇野」 安野光雄

夏休みと称して一人で安曇野に出かけたことで本書を購入した。現状絶版らしく、中古で購入した。綺麗に保管されていたので楽しく読めた。
本書は絵本というよりは随筆集である。安野が折々に訪れた安曇野に関して徒然なるままに書いた旅行記とも言える。取り上げられた諸々のテーマは「安曇野」という点だけが共通しているが、後は安野が心赴くままに書いている。
安曇野に行く前に、本書を読めば僕の安曇野訪問ももっと見どころが増えたに違いない。但し、見どころを見廻ることが苦手でもあるので、それはそれで良かったのだろう。そんなことをぼんやり思いながら安野の語る言葉に耳を傾けるような読書体験となった。
読み終えてから、改めて挿入されている安野の絵を見返した。安野の本業は絵である。遠景が多く、ほっとさせるような風景が、これもまた、心赴くままに描かれている。安野の書く文章と絵は似ていると思った。これは著者の安野にとってはおせっかいな感想なのだろうが。
安曇野を再訪することはあるのだろうか。
旅行する度に、いつもそう思う癖がある。僕は一度出かけたところには再度行きたいと考える習性がある。そう思いながらも再訪しないところばかりなのだろうと思う。人生の時間は限定されているからしょうがないといえばしょうがない。
お茶とゴルフとオペラとワインと
先日勅使河原宏の「利休」という映画を鑑賞した。その映画で感心したのは戦国時代の大名たちが
皆さん茶道を一生懸命にやっていた様子であった点だ。
戦国時代の大名や武将には幸か不幸か会ったことはないし、これからも会わないだろう。
従い、これは僕の想像だが、彼らが茶の湯に耽溺するほど雅な方、もしくはスノッブな方では
なかったろうということだ。そう考えるとなんでかようにお茶がはやったのか。
ここで現代を考えると、例えばオペラやゴルフ等が、同じような雰囲気を持っていないだろうか。
社交の場として昔は茶室があり、今ではゴルフ場や劇場があるとしたら、なんとなく腑に落ちる
思いもする。そういえばワイン趣味にも少し似たものがある。だいたい日本人がそんなにワインを
分かるのだろうか?
世界で一番短い小説
世界で一番短い小説と言われている作品を知っていますか?作者はあのヘミングウェイである。友人との賭けで作ったものと聞く。具体的には
「 For sale, Baby shows, Never worn 」
だ。この6文字だけである。これが小説だそうだ。
訳してみよう。
「売り物! 新生児用の靴! 新品同様!」
こういうと別になんてことはない話だ。なにが小説なのかわからない。
ただのポップみたいにも見える。
それではもう少し表現を変えてみよう。
「売ります、赤ちゃん用の靴、 未使用です」
更に表現を変える。
「お譲りします。赤ん坊の靴です。結局履かれることはありませんでした」
ここまで書くと情景が浮かび上がってくる。例えば「貧しい若夫婦が
涙にくれながらガレージセールをやっている」というような風景が立ち上ってくる
わけだ。これなら小説と言えるかもしれない。
言葉の力は凄い。我々の生活もすべて言葉を通じて行われていると僕は思う。
その中で言葉はやはり大切なのだと 改めてヘミングウェイに教わった気もした。
「神の数式」 DVD
機内で一部を鑑賞したことでDVD BOXを購入した。大変面白かった。
大変面白かったと言ったが、当然のことながら物理学者ではない僕が内容を理解できたわけではない。また、そもそも製作者側としても物理学を知らない方を想定して制作しているであろうゆえ、素人の僕が面白いと思う事にもいくばくかの正当性はあろう。
僕が一番面白いと感じたのは、これも誤解であろうが、「物理学とは端的に言うと世界をきちんと説明出来る理論を探している学問なのか」という点だ。要は「目の前の現象を整理して理解する」という話になっていく。この話はコンビニの「仮設と検証」理論に似ている。
コンビニがあれだけ伸びたのは人々の行動に関してある種の仮設を打ち立て、それを検証することで、その仮説が正しいかどうかを決めていくというものだ。例えば「日本人はおにぎりを買うようになる」という仮説を立て、最終的には検証に成功している。おにぎり販売当初は売れるわけがないという反対論が大半であったらしいが、当時の経営者が売れると判断し、それが正しいことが証明されたことになる。
それをもう少し突き詰めると「日本人は、自分がおにぎりを外で買う人種であることを、コンビニを通じて理解した」ということになる。これは「世界の有り様を求める物理学」に、僕の目からは重なって見えるのだ。
そう考えると、人間の持つ一つの能力はその当たりにあるのではないかという気がしてくる。
「なぜ、そうなっているのか?」という質問が出来る才能とは実は極めて豊かなものなのだろう。本DVDでもホーキンズが提出した「質問」が大きな推進力となった様も描きだされている。そういう「質問」力の力というものが非常に楽しく鑑賞出来た理由であった
「『風立ちぬ』を語る」 岡田斗司夫

映画「風立ちぬ」を観たことで本書を読む機会を得た。
まず本書は内部からジブリとアニメを描き出している点が面白い。カリオストロの城の画面の
分析は素人にとっても説得力があり、アニメを作るということ自体を垣間見せるものがある。
また本書の白眉としては人間としての宮崎駿を描き出している点にある。著者が描き出す宮崎
とは「世界屈指の映像作家」だけではない。ある種の破たんした人間としての宮崎を紹介
している。宮崎とその息子との葛藤と確執を描く場面はかなりの迫力がある。
一方、映画の解説としての本書はどうだろうか。
僕が読む限りは、ある種の解説としての本書は面白い。但し、この本の解釈が正しいかどうか
は現段階では疑問でもある。例えば以下のくだりだ。
「そして二人の再会シーンです。
駅構内の雑踏の中で再び二人は出会い、抱き合い、二郎は菜穂子にやさしくこう言います。『よかった、
見つけられなかったらどうしようかと思った』
自分のことを好きな女の子が、自分に会うためにサナトリウムから必死に抜け出してきたのです。
それなのに、二郎はこの期に及んでも自分の心配だけをしているんです」
僕が読む限りでは二郎が「自分の心配」をしているようには思えない。「どうしようかと思った」
という発言は普通に考えると、菜穂子への懸念ではないのだろうか。
もちろんこれは単なる揚げ足取りなのかもしれない。但し、作者のロジックをなぞりながら読む方
にとっては、こういう細部もいささか気になる。また作者の牽強付会を感じてしまうとその後の
読み方にも影響が出てしまうものだ。
いずれにせよ、「風立ちぬ」という映画を解釈することは面白いのだと思う。もう少し堀辰夫側
からの分析も必要ではないか。「菜穂子」という名前は堀の書いた「風立ちぬ」の主人公には
使われていない点も含めて。
まず本書は内部からジブリとアニメを描き出している点が面白い。カリオストロの城の画面の
分析は素人にとっても説得力があり、アニメを作るということ自体を垣間見せるものがある。
また本書の白眉としては人間としての宮崎駿を描き出している点にある。著者が描き出す宮崎
とは「世界屈指の映像作家」だけではない。ある種の破たんした人間としての宮崎を紹介
している。宮崎とその息子との葛藤と確執を描く場面はかなりの迫力がある。
一方、映画の解説としての本書はどうだろうか。
僕が読む限りは、ある種の解説としての本書は面白い。但し、この本の解釈が正しいかどうか
は現段階では疑問でもある。例えば以下のくだりだ。
「そして二人の再会シーンです。
駅構内の雑踏の中で再び二人は出会い、抱き合い、二郎は菜穂子にやさしくこう言います。『よかった、
見つけられなかったらどうしようかと思った』
自分のことを好きな女の子が、自分に会うためにサナトリウムから必死に抜け出してきたのです。
それなのに、二郎はこの期に及んでも自分の心配だけをしているんです」
僕が読む限りでは二郎が「自分の心配」をしているようには思えない。「どうしようかと思った」
という発言は普通に考えると、菜穂子への懸念ではないのだろうか。
もちろんこれは単なる揚げ足取りなのかもしれない。但し、作者のロジックをなぞりながら読む方
にとっては、こういう細部もいささか気になる。また作者の牽強付会を感じてしまうとその後の
読み方にも影響が出てしまうものだ。
いずれにせよ、「風立ちぬ」という映画を解釈することは面白いのだと思う。もう少し堀辰夫側
からの分析も必要ではないか。「菜穂子」という名前は堀の書いた「風立ちぬ」の主人公には
使われていない点も含めて。
「ハンナ・アーレント」 矢野久美子

やはりアイヒマンを巡る議論が特に心に残った。僕はナチス関係には知見が乏しいので理解が十分だとは
思えない。但し、その中でも自分なりに感じた点を以下記したい。
アイヒマンとは多くの方にとっては「悪魔」であった。それに対してハンナは、アイヒマンとは悪魔等ではなく、
ただの凡庸な一般市民であったと喝破したのだと思う。「悪魔を探していた」観衆が、かかるハンナの指摘に不満が募った点は容易に想像がつく。
更にハンナは、ユダヤ人側にもナチスに協力した面があったと指摘した。「観衆」が激怒したのは更に容易に想像される。
「アイヒマン裁判」とは、おそらくはある種の「悪魔祓い」であったはずだ。観衆は公正さを期待して
悪魔祓いに参加したとは思わない。むしろ、「悪魔を見つけて火あぶりにする」という一大スペクタクルであった
のではないか。
そんな観衆の眼差しとは、実はナチスがユダヤに向けた眼差しと親和感があったということはないだろうか。
何かを排除することで、排除する側の団結を図るということは人間の基本的なパワーゲームの一つである。
ナチスが行った行為もその一つだったかもしれないし、アイヒマン裁判もその一つだったように見える。
だからこそハンナは圧倒的な批難を受けたのではないかと僕は想像した。彼女の指摘は団結を解体する
ことになるからである。ましてやユダヤ側がナチスに協力した等という指摘は「解体」等では済まない
話だ。それこそハンナからの「批難」に感じたに違いない。
ハンナは冷静に「批判」したのだと思う。但し受け取るほうが「批難」に感じてしまう。批難に感じてしまう
人たちをハンナがどう見たのかを考えることも興味深いと思う。いずれにせよ、ハンナはアイヒマンを巡る
議論を通じて多くの友人を無くしたと本書で描かれている。そこにある種の人間の業の深さも読み取るべき
だろう。また、アイヒマンに悪魔を見つけなかったハンナの透徹な視線こそが彼女の一生であったとも
僕は思った次第だ。
思えない。但し、その中でも自分なりに感じた点を以下記したい。
アイヒマンとは多くの方にとっては「悪魔」であった。それに対してハンナは、アイヒマンとは悪魔等ではなく、
ただの凡庸な一般市民であったと喝破したのだと思う。「悪魔を探していた」観衆が、かかるハンナの指摘に不満が募った点は容易に想像がつく。
更にハンナは、ユダヤ人側にもナチスに協力した面があったと指摘した。「観衆」が激怒したのは更に容易に想像される。
「アイヒマン裁判」とは、おそらくはある種の「悪魔祓い」であったはずだ。観衆は公正さを期待して
悪魔祓いに参加したとは思わない。むしろ、「悪魔を見つけて火あぶりにする」という一大スペクタクルであった
のではないか。
そんな観衆の眼差しとは、実はナチスがユダヤに向けた眼差しと親和感があったということはないだろうか。
何かを排除することで、排除する側の団結を図るということは人間の基本的なパワーゲームの一つである。
ナチスが行った行為もその一つだったかもしれないし、アイヒマン裁判もその一つだったように見える。
だからこそハンナは圧倒的な批難を受けたのではないかと僕は想像した。彼女の指摘は団結を解体する
ことになるからである。ましてやユダヤ側がナチスに協力した等という指摘は「解体」等では済まない
話だ。それこそハンナからの「批難」に感じたに違いない。
ハンナは冷静に「批判」したのだと思う。但し受け取るほうが「批難」に感じてしまう。批難に感じてしまう
人たちをハンナがどう見たのかを考えることも興味深いと思う。いずれにせよ、ハンナはアイヒマンを巡る
議論を通じて多くの友人を無くしたと本書で描かれている。そこにある種の人間の業の深さも読み取るべき
だろう。また、アイヒマンに悪魔を見つけなかったハンナの透徹な視線こそが彼女の一生であったとも
僕は思った次第だ。
「風立ちぬ」 宮崎駿

宮崎の最終作を鑑賞した。この作品では宮崎は以下二点の新しい試みに臨んだと理解した。
一点目。本作は子供を対象としていない点である。
宮崎は作品を子供向けに作ってきたとは思わない。むしろ大人でないと分からない作品の
方が多い。但し、「子供が観ても面白い」作品にしてきたことも間違いない。
本作では、しかし、宮崎は「子供が観ても面白い」作品にしようとしているとは思えない。これは
想像だが、実際の劇場においても子供は退屈したのではないだろうか。なお、ここでいう子供とは
小学生以下を僕は意味している。
「子供が観ても面白い大人向けの作品」を作ることが出来たのが宮崎の大きな才能の一つで
ある。それを今回敢えて路線を変えた理由は何だったのかは僕には、未だ、分からない。言える
とするなら、そうすることで現実性が強く付加されたという点か。従来の宮崎作品に有った
ファンタジー性を排した語り口は本作の特徴だ。
二点目。語られる期間の長さである。
従来の宮崎の作品は比較的短期間での出来事を描いてきている。数日から、長くても一年
未満が通常の宮崎映画の「期間」だ。本作では10年単位の長さに宮崎は挑んでいる。
短い時間軸の語り口と、長い時間軸の語り口はおのずと異なると僕は思う。映画にとっては
おそらくは後者は難しいはずだ。上映時間という大きな縛りがあるからである。そこが文学と
の大きな違いだろう。文学であるなら、とてつもない長い物語を語ることが出来る。ページ数に
制限がないからだ。映画はせいぜい2時間半程度しか時間は与えられていない。若しくは
いくつかの作品に分ける手もあろうが、限界がある。ロードオブザリングなどは幸せな成功例
かもしれないが、あの作品にしても期間は一年間程度を扱った作品だ。
宮崎の語り口は成功しているのだろうか。これはもう幾度か観ないと分からないが、特色がある
語り口にはなっていない。いくつかのエピソードがいささか冗長に流れていると僕は思った。
以上の二点の挑戦を経て、本作は比較的特徴の無い作品になったとは思う。但し、「高いレベル
においての特徴の無さ」であることも確かだ。宮崎が本作で引退することに関しては個人的
には反対したい。但し、最後の最後に宮崎が挑戦した点を観ていると、ご本人の覚悟も看て
取れる気はした。従来の語り口と物語を捨てた姿が見えるからである。
一点目。本作は子供を対象としていない点である。
宮崎は作品を子供向けに作ってきたとは思わない。むしろ大人でないと分からない作品の
方が多い。但し、「子供が観ても面白い」作品にしてきたことも間違いない。
本作では、しかし、宮崎は「子供が観ても面白い」作品にしようとしているとは思えない。これは
想像だが、実際の劇場においても子供は退屈したのではないだろうか。なお、ここでいう子供とは
小学生以下を僕は意味している。
「子供が観ても面白い大人向けの作品」を作ることが出来たのが宮崎の大きな才能の一つで
ある。それを今回敢えて路線を変えた理由は何だったのかは僕には、未だ、分からない。言える
とするなら、そうすることで現実性が強く付加されたという点か。従来の宮崎作品に有った
ファンタジー性を排した語り口は本作の特徴だ。
二点目。語られる期間の長さである。
従来の宮崎の作品は比較的短期間での出来事を描いてきている。数日から、長くても一年
未満が通常の宮崎映画の「期間」だ。本作では10年単位の長さに宮崎は挑んでいる。
短い時間軸の語り口と、長い時間軸の語り口はおのずと異なると僕は思う。映画にとっては
おそらくは後者は難しいはずだ。上映時間という大きな縛りがあるからである。そこが文学と
の大きな違いだろう。文学であるなら、とてつもない長い物語を語ることが出来る。ページ数に
制限がないからだ。映画はせいぜい2時間半程度しか時間は与えられていない。若しくは
いくつかの作品に分ける手もあろうが、限界がある。ロードオブザリングなどは幸せな成功例
かもしれないが、あの作品にしても期間は一年間程度を扱った作品だ。
宮崎の語り口は成功しているのだろうか。これはもう幾度か観ないと分からないが、特色がある
語り口にはなっていない。いくつかのエピソードがいささか冗長に流れていると僕は思った。
以上の二点の挑戦を経て、本作は比較的特徴の無い作品になったとは思う。但し、「高いレベル
においての特徴の無さ」であることも確かだ。宮崎が本作で引退することに関しては個人的
には反対したい。但し、最後の最後に宮崎が挑戦した点を観ていると、ご本人の覚悟も看て
取れる気はした。従来の語り口と物語を捨てた姿が見えるからである。