くにたち蟄居日記 -77ページ目

「ラブレター」 岩井俊二

 名高い本作を漸く鑑賞する機会を得た。
 
 本作のテーマは題名通りラブレターである。「一番初めに書かれたラブレターが時を経て一番最後に漸く届いた」という物語が本作の筋であると僕は理解した。
 
 本作の主人公は既に亡くなっている。ではヒロインは誰なのか。博子と樹と二人の女性ともにヒロインにも見える。但し、博子の役割を見ていると本当のヒロインは樹である。
 
 実際、樹は博子と知り合わない限りは、中学時代の主人公(男性の樹)を思いだすことは無かったはずだ。博子からの手紙に返事を書くことで、ヒロインは過去を辿りはじめる。辿っていくうちにヒロインは過去に一つ一つの小さなエピソードを思いだしていく。それらのエピソードに込められた意味を辿っていくうちに、ヒロインは困惑していく。
 
一つ一つのエピソードが意味していたものは明確だ。明確であるはずなのにヒロインはそれを理解しない。いや理解しようとしていないようにも見える。
 
 そんなヒロインを最後に「謎めいた過去」から解放させたのが、冒頭言った「一番初めに書かれたラブレター」である。遅配されたラブレターが一つの絵であったことは印象的である。なぜなら、それまで映画でやりとりされていたのは全て文字であったからだ。
 
 ヒロインは「一番初めに書かれたラブレター」の内容を博子に告げないことに決めたところで本作は終わる。博子から始まったロマンスを最終的に受け止めたのはヒロインだからであろう。博子は吹っ切れたように見える一方、ヒロインはこれからどう生きていくのだろうか。そんな余韻が楽しい。
 
 雪の場面が美しい。冒頭の神戸が雪景色で始まったことに軽く驚いたが、全編を雪が覆っている。岩井という監督は桜を美しく撮る監督だと思っていたが、雪も美しい。雪と桜は似ているのかもしれない。そういえば桜に関する会話も本作には有った。

ロゼッタストーン

 
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阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」をキンドルで購入し、IPADで読んでいる。便利な時代になったものである。
 
 電子図書というものにはなかなか慣れない。本とは物理的に本であった時代が長かったからだと
思う。
 
 本には魔力がある。読書家、蔵書家、愛書家等という漢字を並べて見ているとそれが良く分かる。そういえば
「薔薇の名前」という本があったことも思い出した。あの本も、突き詰めると、本への愛情の話だったのかも
しれない。
 
 焚書というような言葉も思いだす。かつて、本は体制にとって危険な存在であったわけだ。今でも
発禁の本がある国もあるわけだし。
 
 大英博物館に先日行った。入り口にはロゼッタストーンが置いてあった。あれも石でできた本なのだろう。
かように固い石に文字を彫り付けるという暗い情熱を持った人も居たわけだ。これまた不思議ではある。
 
 本に関してぼんやり考えると色々と勉強になる。
 
 
 
 

「ローマ亡きあとの地中海世界」 2 塩野七生

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塩野七生の地中海を巡るキリスト教とイスラム教のパワーゲームの第二巻である。

 本巻ではキリスト教側の騎士団が、北アフリカに出向いて、海賊に拉致されたキリスト教徒を
救出する場面が繰り返し書かれている。救出すること自体には違和感は無い。但し、救出の
具体的な方法がお金で買い戻すという「商行為」であった点にはいささか驚いた。

 僕の理解では商行為とは相手に対する信頼が不可欠というものだ。たとえ相手が悪人であって
も商売は出来るということは現在の世界でも同様である。悪人同志が、お互いに自分と相手の両方
を悪人だと理解した上で、信頼関係を結ぶことも可能である。これは「自分がこれを
やったら、相手はこれをやる」という理解の「共有」にほかならない。マフィア同志の連携や連合等も
その一つに違いない。

 そう考えると拉致された人を金で売買するという商行為も、キリスト教側とイスラム教側
の間にある種の信頼関係があることが前提であったはずだ。現に本書でも、お金が届くまでの間に
自らが人質となる騎士の方の姿も描かれている。

 ここまで読むと、今の日本も拉致問題を抱えていることを思いだすしかない。拉致問題が
純粋な人権問題だけでは解決されず、政治問題や経済問題に拡散していく様は、中世の地中海
と余り変わらないのかもしれない。

「ローマ亡き後の地中海世界」 1 塩野七生

 
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久 しぶりに塩野七生の長編を読み始めたところだ。取りあえず本巻はイスラムがアフリカから地中海を
渡ってイタリアを攻める話である。

 僕はインドネシアに4年住んだ。インドネシアはイスラム教国としては人口最大の国だ。職場は2000名
を超える工場であり、98%程度の従業員がイスラム教徒である。
 イスラム教を見ていると「生きている宗教」であることが良く分かる。礼拝や断食をきちんと行っている
姿は「敬虔」と言って良い。中東でのイスラムはいささかイメージが悪いが、インドネシアで見たイスラム教は
穏やかであり、むしろ好ましく感じたものだ。

 本書で描く歴史はインドネシアにイスラム教が入る前だ。イスラム教が新興宗教であった頃である。

 本書を読むと、イスラム教の持つ力を感じる。イタリアがかようにイスラム教徒に攻められていたとは
正直知らなかった。それを理解しないと十字軍も理解出来ないのであろう。もっと言うと、現代の
「キリスト教 VS イスラム教」も見えてこないということなのだろう。インドネシアに居て、イスラム教を
若干理解していた積りになっていた自分には反省している次第だ。

 あと3巻残っているのでゆっくり読み続ける所存である。

「なぜ中国からはなれると日本はうまくいくのか」 石平

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 本書の面白さは中国と日本との関係の歴史を魏志倭人伝から現代まで鷲掴みにして
解説している点にある。

 著者によると、日本は中国と距離を置いた時には比較的物事がうまく行き、中国に接近した
場合には問題が種々発生してきたことがここまでの歴史だと主張する。著者が挙げる具体的な
歴史を見ていると説得性がある点は確かだ。但し、あくまで帰納法的な説明であり、
「それではなぜ中国との距離感がかように日本の社会・政治に影響が大きかったのか」という
理論には乏しい。従い、ここまでの2000年という比較的短い期間での出来事だけで
決めつけるべきではないとも思った。

 また本書は現在の安倍外交をかなりの程度に渡り賛美しているが、実感として、今の
日本外交が目に見えて従来より上手になっているかどうかは僕には分からない。これは
僕のニュースソースが新聞程度であることもあるのかもしれないが。

 但し、繰り返すが歴史を鷲掴みする著者の書き方は読んでいて十分に面白い。

「壇蜜日記」 壇蜜 

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 壇蜜という方の存在の有り方が不思議だと思っていたので本書を読むきっかけを得た。

 本書を読むと著者は「壇蜜」というロールプレイングゲームをやっているということが分かる。
いくどか「私が壇蜜になったころに」であるとか「いつまで壇蜜をやっているのか」という表現が
出てくる。「壇蜜」とは「なったり」「やったり」するものなのだなと理解した。では壇蜜をやっているのは
どなたなのかというと本名が斎藤という女性である。

 例えば 本書で著者である壇蜜が言及する男女の事は、当然ながら斎藤という方の所作なのであろう。
斎藤という方の所作を壇蜜が語っているという点で既に二重構造になっている。その二重構造を彼女
自身が良く分かった上で、「そもそもの壇蜜」というものを演じている。そこに自覚的である著者の
鋭い知性を感じる。

 著者は自身を偽悪的に語っている。斎藤が偽悪的なのか、壇蜜が偽悪的なのか。おそらくは後者
なのだろう。壇蜜というロールには、ある程度以上の「悪」の記号が必要なのだと思う。但し、
時として壇蜜をけなす斎藤という方はどのような心境なのだろうかと不思議にもなってくる。
「自身は断じて壇蜜ではない」という地点から語られているのだろうか。それとも「自分は本当は
壇蜜かもしれない」と思っていらっしゃるのだろうか。そこまでは本書は教えてくれない。

 文章が素晴らしい。斎藤は文章を武器に出来る方なのだと思った。彼女が壇蜜をやめた後に
どうされるのかも少し気になってきた。

「植田正治の世界」 

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 「砂丘の写真家」と紹介すれば良いのだろうか。植田の写真集を見ながら誰しもが考えることなのだと思う。
 
 植田の写真での砂丘とは、背景である。砂丘を舞台として様々なオブジェが撮影されている。人も傘も仮面も自転車も家族も全てがオブジェだ。
 
家族をオブジェとして突き放す視線の冷たさを感じる人もいるかもしれない。但し、そういう印象を与えているものは何かと考えると、これはやはり砂丘という舞台のせいではないかと思うしかない。
砂丘は背景でありながらどうしょうもなく植田の世界全体を覆っている。砂丘とは背景ではなく主人公だと思わざるを得ない。
 
 キリコの絵を想い出すという人も多いようだ。キリコに似ているのは、植田の写真の持つ静寂性とキリコのそれが似ているからかもしれない。人類が滅亡した後の風景を想わせるものが両者にはある。そんな風景に懐かしさも覚える。それは何故なのだろうか。
 

「しづ子   娼婦と呼ばれた俳人を追って」  

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 新聞の連載で「しづ子」という俳人を知り、本書を読む機会を得た。何かを偶然する媒体としての新聞はいまだに得難い存在である。
 
 本書は「鈴木しづ子」という一つの謎を探求した一種の探偵譚である。彗星のように登場し、生々しい俳句を大量に作り、昭和27年以来33歳で消息不明になった俳人を著者は執拗に追い求める。俳句の生々しさと消息不明ぶりがいかにも騒がしく、幾分色物めいた印象をしづ子は我々に与える。
 但し、読み取るべきは、戦後という時期に有りがちな一人の女性像であるの
かもしれない。何時の時代の、誰の俳句でも同じ事は言えると思うのだが、「その時代、その場所」で詠まれた句は、どうしようもなく時代と場所に影響されてしまうからだ。
 
 しづ子の俳句を見ていて、一番驚くのは、その「量」である。
 
 しづ子は短期間に大量の句を作っている。粗製濫造という言い方が正しいかどうかは分からないが、そうしづ子にさせたものは何なのかを考えることには意義があると思う。
 その部分に関しては本書は若干弱い気がする。但し、ご本人に会う事が叶わなかった著者にそんなことを言ってもフェアーではないことも
確かだろう。敢えていうならば、俳句とは「そういうある種の狂気の行きつく先の一つでありえる」ということだ。十七文字しか許されないという過酷な条件の下で、言葉を研いでいく作業はある種の狂気に繋がるものだと僕は思う。
 
 現段階でしづ子が生存している可能性はある。もしかしたらどこからか名乗り出てくる日も来るのかもしれない。そんな日が来ないでほしいと思わせるのが、この探偵譚の面白さでもある。迷宮入りした事件は時として魅惑的だ。
 

「50歳からの知的生活術」 三輪 裕範

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  出張中に読了した。著者の本は刊行される度に読む機会を得ている。

 著者はこれまでいくつかの読書案内を刊行されてきている。一人の方が幾度も読書案内を世に
問うということは有りそうで余りないかもしれない。著者はご自身が年齢を重ねていく中で、
その時々の「中間報告」として読書を語っていると考えると興味が深まる。著者と同時代に生きて、
著者と同じ時代の空気を吸いながら、著者の「中間報告」を拝読することは楽しい。

 年齢を重ねてきた著者は「50歳からの知的生活術」を説く。ここで著者が意味する「50歳」とは、
60歳以降の人生の終盤期を迎える前の、ある種の「揺籃期」であると僕は読んだ。

人生が長くなってきた中で、リタイヤした後の時間も長くなってきている。その時間を
どのように豊穣に過ごすのか。これは案外難しいのだろう。なにせ、人類史上、このように
人生が長かったことは無かったわけであり、従い、前例がない「時間帯」とも言えるだろうから。

 従い、それの準備は今後肝要であり、その準備のスタート地点を50歳に置いたのが今回の著者
の狙いである。僕はそう理解した。

 「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て滅せぬものの
あるべきか」と謡って舞ったのは信長である。信長は50歳を得ることは無かった。それから
480年後の現在、50歳を揺籃期と考えることも出来るようになった。不思議な思いもしない
でもない。

 最後に予言してしまおう。「60歳からの知的生活術」という本を著者は準備しているに違いない。
その日まで時代も更に変遷されよう。時代の空気が今後どのような香りをまとっていくのだろうか。

「日の名残り」 

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 購入して二年たち、漸く鑑賞する機会を得た。もっと早く観るべきであった。

今まで観たラブストーリーの中でも、もっとも抑えられたラブストーリーである。 抑えられることで旨みが
増すものは案外多い。

 例えば、和菓子がそうだ。甘味を抑えた和菓子を食べると本当に甘さを感じさせる。あるかないかの甘味を
探す舌を僕らは持っている。探すことで甘味を強く意識することになる。
 従い、かすかな甘味を見つけた時の喜びがある。だからこそ,例えば魚や野菜にも「甘味」を見つけることが
出来る。「この魚には甘味がある」という表現は、間違いなく和菓子で鍛えられた舌によるものだ。
英語に翻訳してもまず理解されないと思う。

 本作も同様に甘味が抑えられた菓子である。洋画ゆえ「洋菓子」というべきなのだろう。但し
和菓子を強く思わせる洋菓子だ。

 本作での見どころはいくつもある。大概の方が指摘される主人公とヒロインの本の取り合いの
場面だけではない。一瞬の視線の絡み合いや、会話の妙等が実によく出来ている。観ていて
見逃してはならないと強く緊張を強いられる映画だ。

 本作の最後の場面。ヒロインは間もなく孫が産まれる年齢になっている。そんなヒロインは
主人公に「自分は夫を愛していることに気付いた」と言う。そう言いながらもヒロインは主人公を
今でも愛していることもはっきり伝わってくる。

 ヒロインが本当に愛しているのは誰だったのかということを問うことは野暮であろう。ここでの
ヒロインの発言はどれも真実であるからだ。
 「人は一人の人しか愛さない」と考えることはドラマの前提かもしれないが、案外薄い話である。
「甘味がきつい菓子」になってしまう。それに比べると本作の深みには感嘆するしかない。

 本作をラブストーリーと冒頭に言った。但し、本作にはもっと苦味ある歴史も書き込まれている。
そこもきちんと観ないとラブストーリーも活きてこない。「苦味」も「五味」の一つでありスパイス
としても非常に大事だ。