前回からの続き(令和5年11月23日のこと)です
千本丸太町の信号を左側の歩道で上がって行くと、こちらの石碑があります
大極殿遺址道
ちょうどバス停があったので、入り口部分の全体は撮れてません
少し入ったとこから
こちらは公園になってます
大極殿遺阯
住所・京都市上京区小山町889-18
HP・上京区の史蹟百選
駐車場・なし
解説
史跡 平安宮跡 内裏跡 朝堂院跡 豊楽院跡
平成26年2月9日追加指定
延暦13年(794)、 桓武天皇によって都が平安京に定められました。その北辺中央にあった平安宮は、天皇が住む内裏(現在の皇居)や、役所が集まる国家の中枢部でした。この内野公園は、 天皇が即位の儀式や政治を執り行う大極殿があった朝堂院の北西部で、公園北半は大極殿を囲む北回廊と昭慶門に当たります。北回廊は、基壇の上に築かれ、中央に築地を設けた格式の高い築地回廊で、これまでの発掘調査成果から幅4丈(約12m)、柱間は陽明文庫本 「宮城図」の記載から1丈2尺(約3.6m) とされています(図1)。ここでは、基壇の両端を縁石、柱位置を礎石風ベンチ、築地の位置を生垣で明示しています。
「大極殿遺址」碑
明治時代に入り、東京に都が遷されると、人口が激減し大きな衝撃を受けた京都では、礎となる平安京への関心が大いに高まりました。そこで、平安京遷都千百年に当たる明治28年(1895) を記念して、大極殿の復元や、桓武天皇を祭神とした神社の創建などが計画されました。大極殿の位置は、平安京の規模や道幅の記載がある 『延喜式』を基に、平安時代から続く東寺や堀川を定点として計算され、現在石碑が建つ場所に求められたのです。結果として大極殿は岡崎に建立(現在の平安神宮)されますが、大極殿跡を保存、顕彰するため周辺の土地を買い足して公園化し、石碑が建立されました。 これが現在の内野公園です。当時は、平安時代の尺の長さと磁北の変化などが考慮されなかったため、実際の大極殿跡は石碑の南南東約60mの位 置(千本丸太町交差点北側)であることが後に分かりますが、初めて測量を基に平安京を復元し、地図に重ね合わせたことで、平安京の研究は大 きく進展しました。この成果を踏まえ、昭和34年(1959) に平安京内で初めてとなる本格的な発掘調査が公園内で実施されました。このように、 内野公園は平安京の研究と発掘調査の歴史に刻まれる重要な場所であるため、平成29年に国の史跡に追加指定されました。
京都市(原文のまま)
公園内の史跡部分はこんな感じ
(原文のまま)
公園の中央には大きな石碑
その周りには礎石を表したベンチなとがあります
横から
公園内にはもう1つ解説板がありました
アップ
源氏物語ゆかりの地
平安宮 朝堂院 大極殿跡
平安宮は大内裏(だいだいり)とも称し、国政・儀式・年中 行事などを行う宮殿や諸官衙(かんが・役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞ヶ関界隈に点在する役所を合わせたようなものである。その規模は南北約1.4km、東西約1.2kmあり、周囲は築地やぜん(土偏に需)地 (犬走)・隍(ほり・濠)で重に囲み、一四の門があった。
平安宮の正門の朱雀門を入ると応天門をもつ朝堂院(八省院)があり、この正殿が大極殿である。東西九間、南北二間の母屋の四面に庇(ひさし)をもち、四周に朱欄(しゅらん)をめぐらせ、屋根は緑釉瓦(りょくゆうがわら)で縁取られ、大棟には一対の鴟尾がのる平安宮最大の建物である。床は塼敷(せんじ)きで母屋中央に玉座の高御座(たかみくら)が置かれる。斎宮(さいぐう)が伊勢下向に際して、大極殿において天皇から「別れの御櫛(おぐし)」を額(ひたい)に挿してもらうが、『源氏物語』 「賢木(さかき)」でも朱雀帝が斎宮(後の秋好中宮) 別れの御櫛を挿す描写がある。
大極限は、安元3年(1177)の大火後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。
朝堂院の西には饗宴(きょうえん)施設である豊楽院、北東には天皇の居所である内裏がある。そのほか平安宮内には、二官八省をはじめとする政治を掌るる官衙が建ち並び、内裏の西には宴松原(えんのまつばら)と呼ぶ空閑地があった。
大極殿の発掘調査では、南辺と東軒廊(こんろう)跡、昭慶門(しょうけいもん)に取り付く東側回廊跡の凝灰岩の基壇石などが検出され、その成果から現在の「大極殿遺蹟の碑」は、 大極殿の北にあ った昭慶門の西側回廊の上に立っていることが 判明している。
平成20年3月 京都市
(原文のまま)
画像部分のアップ
解説板
平安宮朝堂院跡
朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国寺の行なわれるところで、 朝政の中心の場であった。宮城の正面の朱雀門を入ったところに位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。
その規模は、東西約六十丈(約180m)南北約百五十丈(約450m)で、全体が回廊で囲まれていた。正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の二楼が建ち、 応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司宮人の列した十二堂が建ち並び、 正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西十一間・南北四間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦で葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。
朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14年(795)にまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。
その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3年(1177)の大火で全焼し、以後 再び建てられることはなかった。
現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年に平安博物館が発掘調査を行なった。後世の撹乱が著しく、遺構を確認すること はできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鴟尾の破片などが出土した。
平安博物館
(原文のまま)
その傍らに平安宮朝堂院跡の石碑もありました
現在放映されてる大河ドラマ『光る君へ』の第4話「五節の舞姫」でまひろ(紫式部・吉高由里子)が舞を披露した場所が
大河のHPを読んでいたら、まさに大極殿ということなんだそうです
(上記2枚、大河ドラマ「光る君へ」Xより)
そう思うと、何も無くても石碑があるだけでワクワクしちゃいます🎶
(*´艸`*)
ちなみに、現物に近い建物が現代でも見れます
知ってる人は知っておられますが、平安神宮がそれです
ちなみに、今まで紹介した史跡のことが書かれている本を去年買っていました
僕は去年城南宮で買ってますが、後日紹介する京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)とかでも取り扱われているようです
そんな話が続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ