映 像 & 史 跡 fun
  • 大河ドラマ「麒麟がくる」関連の、コラム一覧はこちら

  • 天乃みそ汁(あまのみそしる)の、歴史や映像、音楽などを中心に、ちょっとだけ時勢を盛り込んだ長文のコラムです。読書気分で読んでみてください。
    ***
    「歴史は勝者がつくったもの」とは、あえて片側から見た、どこかの宣伝文句。だれが作っても、だれが作り変えても、だれが隠しても、だれが思い込ませても、自然に消えてしまっても、そのすべてが「歴史」。
    歴史には、人生や仕事に役立つことがいっぱい…。
    さあ、あなたにプラスになる歴史の事実は、解釈は…何?
    さまざまな歴史を、時に、現代人の人生や社会に照らして書いていきたいと思います。



  • ご意見 ご感想(掲載されません)

  • Twitter
    • 09Aug
      • 麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)「オレについてこい」の画像

        麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)「オレについてこい」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。千秋季忠と佐々政次。信長の檄文。千秋一族と佐々一族。熱田衆と津島衆。熱田神宮・善照寺砦・中島砦。麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)「オレについてこい」前回コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」では、比叡山延暦寺と本能寺、恵林寺の焼き討ち、快川紹喜、心頭滅却すれば火もまた涼し、仏教と戦国武将、本願寺と一向一揆、家康と駿府、家康の今川家供養などについて書きました。さて、以前のコラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」で、1560年5月19日(今の6月12日)の午前11時頃までの展開を書きましので、今回のコラムは、その後の展開を書きたいと思います。もう一度、11時頃の状況を簡単に書きます。〔午前11時頃〕午前9時頃に熱田神宮を出発した、信長率いる織田軍の主力部隊は、丹下砦を経て、おそらく午前11時頃には、「善照寺砦」に到着したと思われます。善照寺砦には、織田軍団の総司令官のような存在である佐久間信盛がいました。おそらく信長は、彼から、鷲津砦、丸根砦、善照寺砦、中島砦、そして鳴海城と沓掛城の今川軍の状況報告を受けたと思います。善照寺砦から中島砦までは、直線で約700mですから、通常であれば10分ほどで行ける距離です。* * *中島砦から桶狭間の義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。この両砦から、義元がいた桶狭間の本陣までは、普段どおりの徒歩(時速4キロ程)であれば、1時間はかからない距離ということになります。馬なら尚早く到着できますね。中島砦から、陥落した織田軍の丸根砦までは、直線で約1.7km(徒歩約25分)です。丸根砦や、大高城南側の織田軍の砦群から、中島砦に兵士が向かっている最中だったと思います。今川義元は、沓掛城を出発し、午前11時頃に、桶狭間に到着していたと思われます。上記マップの「C」の地域が桶狭間です。この午前11時頃の今川軍の状況を列挙します。◎今川義元が桶狭間に到着。◎義元は、桶狭間にある寺で昼食。◎義元は、鷲津と丸根の両砦陥落の知らせに、軽くお祝いの酒宴。◎松井宗信や井伊直盛などの遠江国勢が、義元本陣の前の丘あたりに着陣。◎義元本陣の南側あたりに瀬名氏俊が着陣。◎今川軍の三浦義就軍が、手越川の北側の山麓に着陣(マップの「D」の北側あたり?)◎松平忠政ら多くの武将が義元本陣の周辺あたり(マップ「D」と「E」のあたり)に着陣(?)◇織田軍の攻撃準備〔午前11時過ぎ〕午前11時頃から正午頃にかけて、大高城の南側の砦にいた、千秋季忠(せんしゅう すえただ)と佐々政次(ささ まさつぐ)、丸根砦を脱出した兵らが、中島砦あたりにやってきて、信長と面会した可能性もあります。はっきりとは判明していません。戦闘時刻や戦闘場所から想像すると、千秋と佐々は、近くにいた信長と、最後の別れを行った可能性は十分にあるようにも感じます。千秋季忠、佐々政次ら300名が、桶狭間に向け出撃の準備を始めたのは、午前11時過ぎ頃だったのかもしれません。ここで、この二人のことを簡単に書きます。◇千秋季忠歴史に残る大きな戦では、段階的に戦局が進む中で、順番に主要な武士が亡くなっていったりしますね。「桶狭間の戦い」では、ここまでに、織田秀敏、飯尾定宗、佐久間盛重が亡くなっています。この千秋李忠(せんしゅう すえただ)とは、この時に、熱田神宮の大宮司であり、武士だった人物です。彼の父の李光(すえみつ)も、大宮司であり武士として、信長の父の信秀に仕えていました。大宮司とは、神職である神主というだけでなく、さまざま職務や権利のトップの地位といえます。そこに武士の役割が加わるということになります。熱田神宮は尾張氏が代々、大宮司を務めていましたが、ある時から、名門の藤原氏が大宮司を務めるようになりました。千秋氏は、その藤原氏の流れの名家です。ですから、織田氏とは比べものにならない歴史ある名門です。前回コラムで、仏教の寺の武装化のことを書きましたが、今回は神社の武装化です。千秋氏は、かつて尾張、美濃、三河のあたりにたくさんの領地を持っていたのですが、地元の武力勢力にどんどん侵略されてしまいます。そこで、武力で、尾張の熱田神宮を守るために、京よりこの地にやってきて、織田氏と手を組むことになります。ですから、この頃は、大宮司とはいっても、武将の性格のほうが強かったようです。熱田神宮は、「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を祀る神社として知られていますが、まさに戦いの神のいる聖地です。信長が、ここを軍事基地化し、武士たちの精神的な拠点としたのも、わかる気がします。実際に、織田の主力軍は、ここで戦勝祈願をしてから桶狭間に向かいました。* * *尾張国で織田氏を経済的、軍事的に支えていたのは、熱田神宮近くの熱田衆や、津島湊近くの津島衆の、商人や町衆であったようです。「桶狭間の戦い」直後のどさくさの中、伊勢の服部一族による尾張攻撃では、彼ら町衆が対抗し、撃退します。熱田神宮の軍事拠点化や、信長との密接な関係が、功を奏したのかもしれません。今回の「桶狭間の戦い」では、信長の信頼の厚い千秋季忠が、大高城近くの重要な砦から、桶狭間の最前線の地に向かったということになります。武士の性格が非常に強い千秋季忠が、この戦いで、織田一族、佐久間一族と同様に、非常に重要な場面にいたということです。季忠は、今川軍に討ち取られてしまいますが、後に、信長はその息子をやはり大宮司にし、武士はやめさせ、大宮司の職に専念させ、今に至ります。◇佐々政次佐々(さっさ)氏は、織田氏と同様に、斯波(しば)氏の家臣でしたが、佐々政次(さっさ まさつぐ)の代になり、信長の父の信秀の家臣となります。政次が長男で、成政は三男です。次男の孫介はすでに、別の戦いで戦死しています。政次の弟の佐々成政は、前回までのコラムでも書きましたが、織田軍の主力攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の中の、さらに精鋭部隊の「母衣衆(ほろしゅう)」の筆頭として活躍します。織田軍の中でも戦場の先頭で活躍する勇猛な武将で、桶狭間でも大奮闘したと思われます。この佐々兄弟が、もし全員生き残っていたら、相当な勢力の武家一族として、織田軍の中で最大級の家臣になっていたかもしれませんね。もしかしたら、「本能寺の変」後に、明智光秀を倒したのは、秀吉ではなく、この佐々の兄弟一族を中心とした連合軍であったとしても不思議はなかったとも感じます。佐々兄弟は、佐々成政くらいしか有力な武将が残っておらず、織田の北陸方面軍は指揮官であった柴田勝家では、「本能寺の変」後の北陸方面軍をまとめることができません。北陸方面軍には、馬廻衆もかなりおり、戦力だけを見たら、秀吉の中国方面軍よりも強力だったはずです。光秀をいち早く討ちに戻ってくれば、「本能寺の変」後の状況はまったく違ったものになったかもしれません。やはり、「桶狭間の戦い」の前後に、佐々一族といい、佐久間一族といい、主要な武将を失いすぎたようにも感じます。それにくらべて、さすが秀吉です。こちらは、さっさと毛利氏や宇喜多氏と話しをつけて、光秀を討ちにすぐに畿内に戻ってきます。柴田勝家に、秀吉のような政治力と行動力があれば…。◇千秋季忠と佐々政次の討死〔正午頃〕佐々成政の兄の佐々政次は、前述の千秋季忠とともに、300名ほどの部隊で、桶狭間方面に進撃しますが、大敗します。両者は、桶狭間の今川軍の、おそらく最前線に配置されていたと思われる、久野元宗(くの もとむね)に討ち取られてしまいました。さすがに、たった300では歯が立たなかったのかもしれません。というよりも、この突撃には、おそらく理由があったとも考えられます。この少数部隊の突撃が、どのような意図のもとに行われたかは、よくわかっていません。信長の命令であったのか、彼らの独断攻撃だったのかは、わかりません。個人的には、作戦の一環であったとは思いますが、ひょっとしたら、信長の想定以上の大量の戦死者を出してしまったのかもしれません。信長は、千秋季忠と佐々政次は、生きて戻ってくることを想定していたのかもしれません。ここまでのコラムで書きましたが、季忠と政次は、織田軍の鷲津砦と丸根砦にいた、織田軍の古将たちの名誉ある最期を目の前で見てきた者たちです。季忠と政次は、戦功を望んだというよりも、信長に熱田神宮や一族を託した、覚悟の突撃であった気もしないではないです。この突撃と敗戦で、信長は、武将の配置や兵力など多くの敵の情報を得たはずですし、義元に最大の油断をもたらしたと思われます。今川義元は、この勝利で、桶狭間の義元本陣で、「自分(義元)には、どんな天魔鬼神もかなわない」という主旨の言葉を家臣たちに語り、軽い祝宴を行います。上機嫌だったのは間違いないと思います。酒も肴もたっぷりあったはずです。その直後、「第六天魔王」の信長が自身のもとにやって来るのです。何とも皮肉な義元の言葉です。* * *千秋季忠と佐々政次を討ち取った、今川軍の久野元宗は、この後、弟の宗経と、一族の久野氏忠(義元の甥)とともに討ち死にします。この久野一族は、井伊氏や松井氏と同様に遠江国勢で、「桶狭間の戦い」後に、今川氏と松平氏の両天秤戦略をとります。◇織田軍と今川軍の小競り合い〔正午過ぎ〕この時刻あたりからの戦況は、ほとんどわかっていません。ここからの展開が、よくわかりません。信長は、善照寺砦から中島砦に向かい、また善照寺砦に戻ったとか、両砦から攻撃部隊が何隊かに分かれて桶狭間に向かったとか、信長は鎌倉街道を迂回して桶狭間に向かったとか、いろいろな説があります。信長は一端は、善照寺砦から中島砦に入ったとは思います。制止しようとする古参の家臣を振り切って中島砦に向かったという記録もありますが、もともと、この中島砦は、攻めてくる者に対して防御がかたい砦のはずです。これまでのコラムでも書きましたが、この中島砦は、桶狭間に向けて部隊を送り込む最前線基地であったと思われます。中島砦の西方にある今川軍の鳴海城からの攻撃にも、十分に対応できる状況だったとも思われます。* * *ここで、母衣衆の前田利家ら八人が、敵の首を持って、中島砦に戻ってきたと思われます。いくつかの部隊が、さまざまな場所で、今川軍と小競り合い程度なのか、小規模戦闘なのかはわかりませんが、戦闘をしていたと思われます。とにかく、信長は、今川軍の配備状況を調べ、弱い部分を探したと思います。信長自身が最終的に、善照寺砦と中島砦のどちらから、桶狭間に向けて出撃したかはわかってはいませんが、この両砦から、桶狭間方面にいくつかの部隊が突撃した可能性は非常に高いと思われます。◇織田軍の戦闘力前回までのコラムで書きましたが、織田軍には、「馬廻衆(うままわりしゅう)」と呼ばれた700名あまりの、高度な戦闘集団がいました。おそらくは、特殊訓練を受けた馬廻衆700名は、3倍から4倍の兵力と換算してもいいのかもしれません。さらに、その中から選び抜かれた数十名の精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」の強さは相当だったと思われます。馬術、剣術はもちろん、その戦闘能力はすさまじいものだったのかもしれません。* * *さらに、信長は、今川との戦いにあたり、近江国の六角氏から援軍の兵士数百を借りています。前回コラムで書きましたが、延暦寺勢力となにかと手を組む六角氏です。六角氏は、まさに「ゲリラ戦」の強者たちという印象もあります。信長は、ゲリラ戦の戦い方を伝授指導してもらうために呼んだのかもしれません。援軍なのに、結構な死者数ですから、桶狭間のかなり前線に六角兵がいたのでしょうか。六角氏の近江国には鉄砲の生産地「国友(くにとも)」があります。鉄砲技術に長けた者も、おそらく援軍として来ていたように感じます。雨中での鉄砲使用も準備したはずです。史料には、豪雨の中なのに、黒煙があがったという記述もありますから、ある段階で、鉄砲を使用したことになります。大型油紙のような防水シートのようなものが、すでにあったのかもしれません。信長は、この戦いの数年前の「村木砦の戦い」で、今川軍に、すでに鉄砲隊の威力を、痛いほど見せつけています。今川軍は、この連射の爆音を聞いただけで、縮みあがったかもしれません。信長は、結構、爆竹好きで、いろいろな場面で使用しますが、鉄砲でなくても、爆音だけで敵を震え上がらせたかもしれません。馬廻衆、ゲリラ戦、鉄砲隊…、すさまじい攻撃力の部隊だったのかもしれません。* * *織田軍は斎藤氏や松平氏など、周囲の敵と何十年も戦い続きです。戦闘能力は、相当に磨かれ、強力で熟練した兵士が、軍団内にたくさんいたかもしれません。それに比較し、今川軍は、偉大な軍師の雪斎は亡くなり、義元を後継者に引き立て、北条氏とも戦ってきたベテラン武将たちが、相当に世代交代していた可能性があります。長い期間、それほど本格的な戦闘経験もなかったと思います。ここまでのコラムでも書いてきたとおり、今川軍の内部は、一枚岩ではなく、各勢力が思惑だらけで動いています。軍団としての戦闘能力の質の低下を、量だけでカバーしていたのかもしれません。「桶狭間の戦い」の時点で、今川軍の中に、世代交代、経験不足、内部分裂などの現象が起きていたように感じます。* * *これまでのコラムで、戦国武将の戦い方として、敵を意図的に大きく油断させる戦術が、たくさん行われたと書きました。もし、前述の千秋季忠や佐々政次の突撃が、敵の兵力や配置の確認のために行われたものだけでなく、大きな油断を引き起こさせるものであったなら、油断する今川軍のど真ん中に、織田軍の鉄砲隊の連射が突然起きて、ゲリラ戦のような部隊が、そこらじゅうから攻めてきたらどうなるでしょうか…。今川軍の兵士たちからしたら、「今川軍は、織田軍の兵を軽く撃退したのではなかったのか…、ここにいる織田の兵はいったい誰だ…」と感じたかもしれませんね。信長は、いずれ豪雨がやって来ることもわかっていたはずです。豪雨の前は、必ず前兆現象がありますね。倒木するほどの突風、雷、雹(ひょう)…とてつもない豪雨がやってくるのです。今回のコラムでは、戦況のお話しはここまでにします。◇信長の檄文信長は、おそらく正午過ぎ頃に、「檄文(げきぶん)」を全軍に発したと思われます。それは単なる指示や激励というようなものではなかったのかもしれません。日本史の中には、時折、ある特定の人物が、軍団に向けて、相当に強い口調でメッセージを言うことがあります。それにより、軍団が団結し、まさに炎となって敵に突撃していく時です。ここで、信長の激しい「檄文(げきぶん)」が炸裂するのです。記録にある史料の一文です。「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」。これは文章ですので、かなり落ちついた印象の指示にも感じますが、実際には、大声の持ち主で激しい性格の信長ですから、相当に語気を強めて、怒りの表情で語ったのではと想像します。意味は、◎敵は夜どおしの行軍で疲労困憊だが、わが軍はまったく疲れていない。(通常は、戦況と敵軍の行動をこれほど把握し、家臣たちにそれを詳しく語ることなどまずありえませんね。ここまでが予定調和で進んできている証拠だと感じます)。◎大勢の敵兵だからと恐れることはない。勝敗の運は天にある。◎敵がかかってきたら引け、敵が引いたら追え。かんたんだ。◎敵将の首をすべて捨てて、どんどん突き進め、目指す首はひとつだけだ。◎わが軍が勝利すれば、この場にいる者たちは、末代までその名が残る。しっかり、がんばれ。ようするに、体力はこちらのほうがはるかに上。勝ち負けは兵の数では決まらない。身の危険を感じたら引いてもいい…、敵が引いたら追いかけて背後からでもいいから討ち取れ。(つまり、無理な攻撃をせずに、時間稼ぎをしろ…、手段を選ぶな…、という指示にも感じます。)軍団内のライバルとの手柄争いを気にせず、無駄に時間を使わず、先に突き進め。戦いの目標は、ただひとりの首だけ。勝ちさえすれば、恩賞も名誉も手に入る。前述の史料の文言には、「大高城」の文字が書かれていますが、ここで、信長が、桶狭間にいる敵を誤認しているはずはないと思います。兵士を鼓舞するためには、細かい部分の正確さなどは必要ありません。わかりやすく、家臣たちの心に火が付くようなメッセージがあればいいのだと思います。信長は、ここまでに散っていった、織田一族、佐久間一族、千秋一族、佐々一族の話しをしたかもしれません。時代劇ドラマでは、この信長の檄文のシーンは、あまり目にすることはありませんが、私は相当な迫力の檄文が行われたのではと感じています。* * *それに比べて、義元のことを記した部分は、「義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」前述の、信長の言葉との違いは歴然です。敗者側ですので、仕方がない部分もありますが、よくわからない「天魔鬼神」を持ち出してくる義元に対して、なんとも具体的でわかりやすい信長のメッセージと指示です。信長の言う「(勝敗の)運は天にある」の意味は、「勝敗をつけるために、天は我々の働きを見ている。オレたちは運をつかみ取る。」ということなのかもしれませんね。いつの時代も、どこの社会も、物事が大きく転換するとき、そこに誰かの強いメッセージの言葉があったりしますね。◇オレについてこい!ここからは、ドラマ風に信長の台詞で…。あくまで想像です。* * *20日の朝では遅すぎる。19日中に決着をつけるぞ。今日の朝からの暑さでは、午後2時くらいには豪雨がくるはずだ。正午過ぎに桶狭間に突っ込む!叔父(おじ)の織田秀敏や、飯尾定宗、千秋季忠、佐々政次らの犠牲を無駄にするな!善照寺砦に残す連中は、鳴海城から絶対に兵を出させるな。中島砦も同じく、絶対に桶狭間に向かう織田軍の後を追わせてはならぬ。今日(19日)は、鳴海城、沓掛城から、今川の軍勢は来ない!大高城の松平元康と朝比奈泰朝の軍も来ない!桶狭間の今川軍を大混乱にさせるから、みな、その中を、犠牲者の上を踏み越えて、先に突き進め!討ち取った敵将の首の数で、恩賞などは与えない。首はすべて、その場に捨てていけ!狙う首は、義元だけだ!軍旗も馬印も置いていけ!沼地や深田には、自ら絶対に入るな!特別攻撃隊以外は、鉄砲隊の一斉射撃の後に、バラバラに突っ込み、目の前の敵をとにかく倒せ!敵将の名前などどうでもいい…、時間を無駄にするな!そして、倒す手段を選ぶな!何でも使え!桶狭間の北と南の出口をふさぐから、桶狭間の中を、東でも西でも、北でも南でも、敵を追って叩きつぶせ!寺は、こちらの味方だ。豪雨がいずれ来るから、声での意思疎通は無理だ。織田の特別攻撃隊を見たら、とにかく前進させろ!義元の本陣は、あいつが約束通り設営してある。義元の居場所や本人確認は、蜂須賀小六や服部一忠が先導するはずだ。ニセの輿(こし)にだまされるな。本物はコレだ。頭に叩き込め!走れない連中は、この砦に残れ!オレ(信長)は、特別攻撃隊と一緒に突っ込む!佐久間信盛、森可成、池田恒興は、今川の三浦義就や松平忠政らの大軍勢を頼む。柴田勝家は、手はずどおりに…。岩室重休は、甲賀衆を先導して、かく乱させろ…。近江国の六角の皆も、よろしく頼む。林秀貞は、みなを諸々面倒みろ…。水野信元は、ここにいないが、手はずどおりに動く。簗田政綱は、今川の瀬名氏俊と連携し、オレに進捗を伝えろ!水野忠光は丹下砦を、佐久間信辰は善照寺砦を、梶川高秀ら水野の者たちはの中島砦を、絶対に死守せよ。敵を一歩も入れるな!勝つも負けるも、天は見ている…、みな地獄で会おうぞ!佐々成政、前田利家、毛利新介、河尻秀隆、金森長近、別喜右近…、小姓たち…オレについてこい!いくぞ!次回コラムは、この続きを書きます。コラム「麒麟(31)桶狭間は人間の狭間(13)」につづく。2020.8.9 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 04Aug
      • 麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)「心頭滅却」の画像

        麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)「心頭滅却」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。比叡山延暦寺と本能寺。恵林寺の焼き討ち。快川紹喜。心頭滅却すれば火もまた涼し。仏教と戦国武将。本願寺と一向一揆。本能寺の変。家康と駿府。家康の今川家供養。麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)「心頭滅却 (しんとうめっきゃく)」前回コラム「麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)陰謀網」では、織田軍の大陰謀、複雑な人間関係の今川軍、武田軍崩壊の陰謀、対抗勢力の恐ろしさ、桶狭間の謎の寺などについて書きました。今回のコラムは、桶狭間の謎の寺のことの続きや、戦国時代の仏教宗派の抗争、武将と仏教の関係性などを中心に書きたいと思います。私は、テレビであまり時代劇ドラマを見ない方々から、どうして時代劇の中で、戦国武将の隣に相談役のようなかたちで僧侶がいるの…、どうして僧侶が武器を持って武将たちと戦っているの…とよく尋ねられます。今回のコラムで、そのあたりを少し書いてみたいと思います。◇仏教と戦国武将前回コラムの最後部で書きました、桶狭間にあった謎のお寺の続きを書く前に、戦国時代の武将たちの抗争と深いつながりを持つ、多くの仏教宗派どうしの抗争のことを書きます。〔仏教の変遷〕日本には飛鳥時代頃に、中国から仏教がもたらされましたね。人は修行によって、数々の苦しみから脱し、その魂は永遠のものとなる…、かなりざっくりとした書き方で恐縮ですが、これが初期の仏教思想の中心にあった思想の一部分ですが、これが法華経の思想であり、その後に、多くの僧により、その教えがそれぞれに高められ、細かく細分化し、多くの宗派が生まれていきました。奈良時代から平安時代へという、大きな時代変化の中で、仏教の思想も、やはり中国からもたらされた新しい思想によって変わっていきます。それまでの国家を守る仏教の思想から、より人間の心に寄り添うような思想へと変化していきます。平安時代に、二人の僧…最澄と空海が、修行で中国に渡り、高度化した当時の最新の仏教思想である「密教」を日本に持ち帰ります。最澄は、比叡山に延暦寺を建て「天台宗(法華宗)」の開祖となります。日本で初めて、天皇より「伝教大師」という最高の称号を賜ります。空海は、高野山に金剛峯寺を建て「真言宗」の開祖となります。「弘法大師」という称号を天皇より賜ります。ここでは天台宗と真言宗の違いについては書きませんが、私は以前のコラムで、二人のそれぞれの私のイメージ像として、最澄は真面目なエリート学者肌の僧で、空海は天才ビジネスエリートの実業家肌の僧というようなイメージを持っています。二人に共通するのは、奈良時代の仏教界の腐敗と堕落に失望し、高度化した新しい仏教思想を中国に学びに行き、それを日本に持ち帰ってきたことです。最澄の天台宗は、昔からの法華経の教えを重要視していました。奈良が昔からの仏教であるなら、天台宗は京都に…、真言宗は高野山に…、この三か所は仏教界の特別な場所となります。その後、この天台宗と真言宗の二大宗派は、さらに細かく枝分かれし、それぞれの思想のもとに発展していきます。ただ、時代が源平の時代や戦国時代のような戦乱の世になると、乱れるのは、武家や庶民の人心や社会だけではなく、仏教界もその乱れの流れを受けていきます。仏教界の一部で、腐敗や堕落、武装化が進んでいきます。* * *そんな戦乱の鎌倉時代に生まれてきたのが、天台宗から派生した日蓮宗です。私は上手く説明することができませんが、僧の日蓮は、天台宗や法華経を基礎としながらも、それとは少し異なる仏教思想を生み出します。そして、鎌倉時代から、室町時代の戦国時代にかけて、その日蓮宗が大きな勢力となっていきました。京都には、日蓮宗の妙顕寺(みょうけんじ)という大本山があります。日本全国に、妙顕寺という名称のお寺はたくさんあります。おそらく今の仏教界の信徒数では、浄土系(浄土宗・浄土真宗)、真言宗系についで多いのが、日蓮宗系だと思います。* * *浄土宗とは、法然を開祖とする浄土信仰で、天台宗から派生したものです。法然の弟子であった親鸞を開祖とするのが浄土真宗です。浄土真宗では、後継者や門徒たちによる複雑な後継問題が起き、各地に本願寺ができ、各派に分かれていきます。室町時代になると、「蓮如(れんにょ)」という高僧が生まれ、そこに門徒が集まり始め、大勢力へと成長していきます。その後、蓮如によって1483年に、山科本願寺がつくられます。今、京都市中心部と大津の中間地点に、小さな丘陵に囲まれた山科区という地域がありますが、そこに、まるで大城郭のような巨大なお寺が出現しました。浄土真宗の本願寺は、その後、信長をはじめ、多くの相手と長く戦い続けることになります。* * *浄土真宗は、家康の時代になり、家康に近い「真宗大谷派(東本願寺)」と、「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」に分裂します。この分裂には、「関ヶ原の戦い」も絡んでいますが、基本的には、家康が、強大な浄土真宗勢力の内部抗争を利用し、分裂させ、そのチカラを削ごうとしたものと思われます。真宗大谷派は、昭和の時代にさらに分裂していきます。* * *これらの宗派に関連する、京都のお寺を紹介します。真言宗:東寺・神護寺・醍醐寺・仁和寺・大覚寺・広隆寺・智積院・泉湧寺など。天台宗:延暦寺・蓮華王院(三十三間堂)・大原三千院・青蓮院・曼殊院など。東京の寛永寺も、日光山輪王寺も、信州の善光寺の半分も、天台宗です。東京の浅草寺は天台宗でしたが、昭和の時代に独立しました。浄土宗:知恩院・金戒光明寺ほか。東京の増上寺も、信州の善光寺の半分も浄土宗です。浄土真宗本願寺派:西本願寺ほか。東京の築地本願寺も、本願寺派です。真宗大谷派:東本願寺ほか。ちなみに、奈良の法隆寺は聖徳宗、東大寺は華厳宗。京都の金閣寺・銀閣寺・天龍寺・建仁寺・南禅寺などは、禅宗の臨済宗。京都の清水寺や、奈良の興福寺は法相宗です。〔仏教と戦国武将のつながり〕戦国時代の武家では、その一族の者が出家し、仏門に入って、後に僧となった者が少なくありません。そして、その寺を受け継ぐもの、その後、その武家の要職の地位に戻った者もいました。何より、武将は幼少期に、寺で修行したり、学問を身につけます。ですから、特定の宗派やお寺と、武家は、非常に密接につながっていました。知識や教養の高い僧侶が、武家の軍師となって活躍するケースや、もともとその武家の子息が、寺で教養を身につけ、武家に戻ったりしたのです。ただ、源氏が禅宗の臨済宗を信仰していたこともあり、多くの戦国時代の武家は臨済宗であることが多くあります。遠く離れた地の、関係のない武家どうしであっても、同じ宗派であれば、つながりやすかったのも事実です。お寺という存在は、各地域の宗教的なよりどころというだけでなく、さまざまな権利やチカラを持っていることも多いので、その地域を支配する武将たちにとっても、政治的にも、ビジネス的にも、決して無視できる存在ではありませんでした。* * *もともと、石垣で重要施設を囲むのは、城よりも寺が先です。戦国時代よりも古い時代の戦乱の世から、寺は、戦争の軍事拠点でもありました。時に宗教施設…、時に学校…、時に病院…、時に祭事などの文化施設…、時に商売の拠点…、時に裁判所…、時にお役所…、そして時に軍事基地となるのが、お寺でした。武将にとって、城と同じくらい、お寺は重要な意味を持っていたのです。* * *どの武家がどの宗派で、どの僧のもとで誰が学んだのか…、どの寺を誰が建てたのか…、これをたどると、戦国時代の武将どうしの戦いの構図が見えてきたりします。同じ僧侶から学んだ者どうしが、その僧侶を通じて、武家どうしの親しい間柄になることもありました。こうした宗教や教育を通じた組織形成の過程は、現代の、日本でも、国際化した世界の中でも、しっかり存在していますね。いつの時代も、政治や戦争の背景には、人間のつながりがあったりします。戦争を防ぐのも、人間のつながりだったりしますね。* * *一方、たとえば家康が江戸という日本一の大都市を築くと聞けば、各宗派は、競って、大型寺院を江戸に建てようとします。信徒の数や、寺の立地場所は、その信仰の普及度合いや、寺の経済力に直結する話しです。また、あの街では新しいビジネスが大成功したと聞けば、そこにも、すぐに寺を建て、僧侶を向かわせます。宗派や寺は、ビジネス覇権とも直結している話しです。俗っぽい話しで恐縮ですが、宗教の分野だけでなく、人間社会には二面性がつきものですね。〔武家内の宗派閥〕さて、同じ武将の軍団の中であっても、家臣によって、その宗派が異なりますから、そのつながりによって派閥ができあがったりします。江戸幕府は、仏教の二大勢力を幕府内で競わせたり、そのことで多くの宗派の武家をまとめたりもしました。これは、内部のチカラの均衡にも効果的です。純粋な信仰の庇護だけでは、かえって宗派間の争いを発生させかねません。宗派間抗争は、派閥抗争を生み、まさに戦争に直結する話しです。この宗派や派閥という存在を、どのようにコントロールするのか…、天下を狙うような戦国武将は、いつも頭を悩ませていました。後ほど、各宗派の武装化と、宗派間の抗争のことを書きます。◇信長と仏教織田信長は、仏教の弾圧者というイメージが拭(ぬぐ)えませんが、「桶狭間の戦い」直後に、今川軍の大量の戦死者を、かなり丁重に葬ったことを考えると、最初から仏教を敵視していたようにも思えません。信長は、キリスト教にも寛大でした。戦国時代は、武士であろうと庶民であろうと、人間の死が身近な時代でもあり、何かのきっかけで、極端に宗教に走る者…、極端に無信心の合理主義に走る者…、のどちらかに分かれていきやすかったのかもしれません。信長は、おそらく人間性の中に、極端な部分を多く抱えた人間であっただろうと、私は想像していますが、彼の多くの失望体験が、ある段階から、仏教弾圧の方向に向かわせたとも考えられます。もちろん、政治的な意味での仏教弾圧の意図があったのも事実です。* * *戦国時代のある時期までは、城を建てる際に、生きた人間を生き埋めにする儀式を行っていました。信長が、城の石垣に墓石を多く使用したのは、そうした儀式や石材不足というものとは何か違う、別の宗教観や心理があった気がします。実は光秀もよく似ているように私は感じています。信長による比叡山延暦寺の焼き討ちでは、信長の家臣であった秀吉が、命令に背いて、女性や子供をたくさん逃がしますが、信長は見て見ぬふりをします。もし、光秀が秀吉と同じことをしても、おそらく見て見ぬふりをしたのではとも感じます。光秀は、秀吉のような行動をとっていないとされています。宗教攻撃と人命救済という二つの側面は、信長の二面性をあらわしているようにも感じます。おいおい、信長と仏教の関係性については書いていきます。◇本能寺実は、比叡山延暦寺は、自身が信長に焼き討ちされる前に、他の宗派の寺院を焼き討ちしています。焼き討ちされた寺院のひとつが、京都にある、信長につながりの深い「本能寺(ほんのうじ)」でした。* * *この本能寺は、日蓮宗(法華宗)の重要な本山のひとつでした。本能寺は、1536年に、天台宗の延暦寺によって焼き討ちされてしまいます。天台宗の延暦寺が、京の都で急激に拡大成長する日蓮宗に打撃を与えるためでした。打撃という程度のものではありません。武力で壊滅を狙いました。当時の延暦寺は、京都の仏教覇権を他宗派には渡さないという意思が非常に強かったとも思われます。本能寺は、自己防衛のため、寺の周囲に堀を築き、高い塀を築いていましたが、その武力に圧倒されます。実は、九州の種子島は、日蓮宗がかなり普及していた地域であったため、この島に伝来した「火縄銃」という戦争用の新兵器が、京都の本能寺にどんどん運び込まれ、延暦寺の攻撃に備えていたというわけです。本能寺は、延暦寺の被害者だったということです。ここで、どうして仏教の寺院が武装化し、戦いを始めたのかを、少し書いていきます。◇仏教寺院の武装化実は、仏教勢力が武装化し、強大化していく大元は、足利将軍家の弱体化と、有力武将の細川家内のゴタゴタ、畿内の武将どうしの覇権争いが、発端であったとも思われます。ここでは書きませんが、もうひとつ、浄土真宗勢力のように、同一宗派内の争いの中で、自然災害による飢饉や、各地の武士による圧制がきっかけとなって、集団武装化が始まるというケースも、もちろんありました。* * *足利将軍のチカラが弱体化し、家臣の武将の細川晴元が実権を握っていた室町時代の後期に、当時の有力武将の畠山義堯(はたけやま よしたか)の家臣であった木沢長政が、下克上で主君の畠山氏を引きずり降ろそうと画策し始めると、畠山氏は、有力武将の三好一族に援軍を頼みます。一方、木沢氏は細川晴元に援軍を頼みますが、畠山と三好の連合軍に武力でどんどん追いやられてしまいます。細川氏の一族内でも、抗争劇が繰り広げられていました。細川晴元は、そこで、急成長する仏教勢力の浄土真宗の山科本願寺に援軍を頼むのです。彼らは「一向一揆(この場合の一揆は団体勢力の意味)」と呼ばれ、かなりの武力と信徒数を持っていました。これは、敵である三好氏が信仰する法華宗(天台宗・日蓮宗など)に対抗するため、ライバルの浄土真宗のチカラを利用したものです。細川氏は源氏の名門の血筋で、もちろん禅宗の臨済宗の武家です。いってみれば、禅宗はすでに、多くの武家としてがっちりと武力を保持していたということです。山科本願寺は、「武将たちと戦ってはいけない」という、代々からの掟を破ってしまいます。ここに集まった一向一揆衆は、なんと3万といわれています。「桶狭間の戦い」の今川軍2万よりも、はるかに大きい兵力です。信仰のすごさを、後に、細川晴元も恐れ始めますが、もはや戦国武将の軍団並みか、それ以上の勢力です。大勢力に膨らんだ、木沢・細川・一向一揆の連合軍は、畠山・三好連合軍を蹴散らします。そして、この一向一揆の集団は、ますます信徒が集まり、10万レベルまで大きくなっていき、もはや暴走を止められなくなります。この集団は、奈良の興福寺などの寺院を襲撃し、いよいよ京都に向かってやって来ます。京都の延暦寺を中心とした法華宗(天台宗・日蓮宗)は、「法華一揆」となって団結し、京都の東山の清水寺周辺で、仏教宗派どうしの大きな戦闘となります。この戦いの規模は、もはや「桶狭間の戦い」に匹敵するか、それ以上の大きさです。その戦闘では、天台宗の延暦寺と日蓮宗による法華宗側が勝利し、今度は、その「法華一揆」が、浄土真宗の山科本願寺攻撃を準備します。ここに加勢するのが、近江国の六角定頼らの戦国武将たちです。かつて一向一揆と手を組んだ細川晴元は、本願寺ともめ、今度は敵となり、一向一揆と晴元は大坂の地で戦いを始めます。浄土真宗の山科本願寺・一向一揆連合軍は、法華一揆・六角連合軍に敗れ、壊滅し、信徒たちは、大坂に逃げ、後に石山本願寺の大勢力になっていきます。浄土真宗の本願寺・一向一揆連合軍と、細川・六角・法華一揆連合軍は、和睦したり、戦ったりを繰り返していきました。この一連の出来事は、1532年に起きました。◇延暦寺による、本能寺の焼き討ちここからまた、やっかいな展開が始まります。法華宗としてまとまっていた、延暦寺の天台宗と、妙顕寺の日蓮宗がもめ始めるのです。きっかけは、宗教論争のあるイベントです。もともと上位と見られていた天台宗が、日蓮宗に、そのイベントで仏教理論で論破されてしまいます。よせばいいのに、禅宗の臨済宗の足利将軍家(室町幕府)は、日蓮宗にかた入れし、競争心を激化させるのです。怒った延暦寺は、京都市中の日蓮宗の寺々に、上納金を要求、これを拒否した日蓮宗に武力攻撃を仕掛けようとします。延暦寺は、東寺や興福寺など他の宗派勢力や、越前の朝倉氏などに援軍を頼みますが、彼らは中立の立場をとり、その抗争劇から距離を置きます。この延暦寺に加勢するのが、またまた戦国武将の六角定頼です。六角氏が、さまざまな仏教勢力を利用して、自身の勢力拡大を図ろうとしていたのは明らかです。延暦寺・六角連合軍の6万の軍勢は、京都市中の日蓮宗の寺々を焼き払い、日蓮宗信徒を京都から追放します。日蓮宗信徒は、各地に逃げていきます。その焼き払われた寺のひとつが、本能寺です。この時の京の都の火災は、応仁の乱を上回る規模です。これが1536年の出来事でした。* * *その後1547年、前述の六角氏の仲介で、両宗派は和解し、日蓮宗のお寺のいくつかが京都に再建されます。その寺のひとつが、「本能寺」です。京都で焼き払われ、追い出されてから、たかだか10年しか経っていません。遺恨が残っていないはずはありませんね。本能寺の有力檀家がいた、大坂の隣の堺に避難していた本能寺は、「日承上人(にちじょうしょうにん)」という僧とともに、京都に戻ってくるのです。そして、この日承上人こそ、信長に日蓮宗を手ほどきする僧侶です。「桶狭間の戦い」の13年前の出来事です。信長は13歳(満年齢)くらいで、帰蝶と結婚する頃です。そこからさらに13年後、信長は1560年の「桶狭間の戦い」の後、怒涛の「天下布武」の時代に突入していくのです。「日承上人」という名は、名跡ですので、「第何代 日承上人」という呼び方をします。「本能寺の変」の時に、本能寺は織田軍の軍事基地となっており、寺の関係者は、寺にいなかったともいわれています。◇仏教宗派の武力浄土真宗の本願寺と一向一揆の暴走が、ひとまず延暦寺との戦いで、延暦寺側の勝利で終息し、一向一揆は各地に散っていき、大坂に移った本願寺勢力が石山本願寺となり、日蓮宗の信長とその後何度も戦うことになります。前述しました「蓮如(れんにょ)」の4代後の「顕如(けんにょ)」という高僧が、信長と戦いました。もはや、宗派勢力の武力は、武家勢力の武力に匹敵するほどの大きさにまで成長しています。日蓮宗の信長にとっては、天台宗の延暦寺も敵対勢力です。天台宗と日蓮宗をもめさせた大元は、臨済宗の武家勢力です。信長が、敵視する仏教勢力が、これで見えてきましたね。* * *もはや、こうした仏教宗派の信徒の集団は、大勢集まると、数万から数十万にも達します。中規模の武将軍団をはるかにしのぎますね。本能寺のように、兵器を調達できるルートを持つ寺さえでてきます。彼らが、城のような施設をつくり、武器をそろえ、訓練を行ったら、戦国武将たちから見たら、脅威そのものですね。この時代頃の仏教宗派どうしの抗争劇は、大河ドラマなどの各種時代劇ドラマでは、あまりドラマ化されませんが、仏教宗派の一部が、戦国武将をしのぐほどの勢力にまで武装化、強大化していった歴史がしっかりありました。もちろん宗派の中には、そうした武装化と無縁に、別の手段で対抗・成長していった宗派もいました。山科本願寺の大昔の住職たちの言葉「武将たちと戦ってはいけない」…、この言葉は重いということなのかもしれません。◇武将は、宗派間抗争を利用さて、先ほど、日蓮宗の本能寺の「日承上人(にちじょうしょうにん)」という高僧が、後に、信長に日蓮宗(法華宗)の教えを教授したと書きました。新しい学問や思想に好奇心いっぱい、何事においても研究熱心で、おまけに合理主義者でもあった信長は、天台宗よりも、新しい日蓮宗に傾注していったのかもしれません。「桶狭間の戦い」の前に、信長はすでに、強力な鉄砲隊を保有していることから、すでに本能寺とそれなりの関係性を持っていたようにも感じます。信長が本能寺とつながるきっかけは、鉄砲だったかもしれませんが、そのうちに日蓮宗の教えに傾注していったのか、それとも、前述の六角氏のように、本能寺とその武器、そして仏教宗派の対立関係を、上手く利用しようとしたのかは、よくわかりません。個人的には、後者であろうと感じます。信長からしたら、「元をたどれば同じ法華宗の仲間である日蓮宗の本能寺を、こともあろうに勢力争いのために、延暦寺が焼き討ちした」という事実は、信長が延暦寺を攻撃する理由にはなります。「仏教を笠に着た、なんとも横暴な振る舞い」として位置付けるのも容易(たやす)い気もします。とはいえ、天台宗と日蓮宗らが、浄土真宗を焼き討ちしたのも事実…、天台宗が日蓮宗を焼き討ちしたのも事実、浄土真宗が他宗派を攻撃したのも事実です。日蓮宗の信長が、天台宗の延暦寺を焼き討ちしても、それは、やり返しただけという言い訳もできそうな気はします。このような、武将どうしや、仏教宗派どうし、宗派と武将という戦乱の中で、防御機能を備え、鉄砲が種子島から大量に入ってくる本能寺を、信長が手に入れたのは事実です。信長にとって、本能寺は、軍事基地であるのと同時に、京都に行った際の「常宿(じょうやど)」、京都をおさえるための拠点となります。もはや、本能寺を寺と認識するのは違うのかもしれません。まさに信長の城です。さて、あの時は、城の備えはどうだったのでしょう…。* * *ずっと後に、臨済宗の武田信玄は、天台宗の延暦寺を擁護し、「自分が天台宗を守る」という主旨の手紙(信長への挑戦状)を信長に送りますが、これも、宗派どうしの抗争劇を使って、信長を孤立させ、各武将を連携させる「信長包囲網」を構築させる作戦の一環です。天下を狙うような有力な戦国武将たちは、各宗派や寺を、戦闘要員や武器、金の調達先として…、軍事基地として…、戦争のきっかけや理由づけとして…、上手く利用したのは間違いありません。逆に、宗派側も、武将と手を組み、あるいは武将を利用して、勢力拡大を狙っていたのは間違いありません。◇信長と光秀信長は、後に、比叡山延暦寺の総攻撃のトップの司令官に、明智光秀を抜擢します。実は、光秀は、当時の史料をみると、宗教界のさまざまな分野から、あまり良い印象を持たれていないように感じます。信長は、彼の知識や統率力、家柄や関係性だけでなく、人間性や思想も考慮して、彼をその司令官の座にすえたようにも感じます。「比叡山焼き討ち」後には、延暦寺の監視を目的に、光秀に、比叡山のすぐ東側の琵琶湖畔に坂本城を築かせ、その城を彼に任せます。* * *光秀も、信長に近い、宗教への思想を持っていた可能性もあります。信仰心と、武将の戦闘行動を、はっきりと区別できる人間でないと、なかなか仏教寺院攻撃というのはできないかもしれませんね。それとも、光秀は、耐えに耐えて、気持ちをおさえて、延暦寺攻撃を行ったのでしょうか…?光秀の思想の中で、仏教とは、どのようなものだったのか、わからないことも実は多いです。そんなお話しは、おいおい…。◇家康の今川家供養さて、桶狭間の古戦場跡には、今、長福寺(ちょうふくじ)というお寺があります。ここは浄土宗のお寺です。そうです。浄土宗とは徳川家に保護された宗派です。家康は熱心な浄土宗の信者でした。東京にある徳川将軍家の菩提寺である増上寺が、浄土宗のお寺だということは前述しました。一方、もうひとつの徳川将軍家の菩提寺である東京の寛永寺は、天台宗(延暦寺)です。日光山輪王寺も天台宗です。家康は、もともと宗教全体に敵視政策をとりません。キリスト教にも、寛大でした。* * *家康という人物は、政治においても、戦争においても、ひとまず広く取り込んでおいて、不要なものを、ひとつずつ取り除いていくというやり方が好きな人物だったと感じます。戦国武将の中には、まずは相手を威圧するというタイプも少なくはありませんが、家康は、威圧感と安心感を、時と場合によって、相手によって使い分けます。秀吉の人心掌握の手法とも、また違う印象がありますね。* * *さて、この桶狭間の長福寺は、桶狭間で討たれた今川軍を丁重に供養するお寺として知られています。実は、赤穂事件でよく知られる東京の泉岳寺(せんがくじ)というお寺は、元は江戸城本丸の近くの、今の警視庁あたりにあり、家康が、養父であった今川義元の菩提を弔う目的で建てたお寺だといわれています。この寺の開山時の僧は、今川義元の孫といわれています。泉岳寺は、後に、東京の高輪(たかなわ)近くに移転します。泉岳寺は、禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺です。家康が、若い時の桶狭間での、養父の義元への裏切り行為に、よほど思いを残していたのかどうかはわかりませんが、家康は、江戸でも、桶狭間でも、丁重に今川義元の菩提を供養しています。もちろん、こうした行為は、個人の思いというだけでなく、江戸幕府として、政治的に、そして歴史的に、大きな意味を持っている行為です。「桶狭間の戦い」が起きた当時、世間からみたら、どんな理由があったにせよ、元康(家康)は、桶狭間で養父の今川義元を助けたように感じることはできません。その後、信長と家康は、軍事的にも強い連合体制をとります。家康にとっては、養父の仇の信長とです。義元の大々的な供養と、残った今川家を江戸幕府内で厚遇したことは、まさに江戸幕府の政治的な行動とみるほうが正しいような気がします。◇戦国武将の栄光と憐れが眠る駿府ともあれ、今川が残した駿府(静岡市)は、今川氏の土台の上に、徳川家康が築いた、徳川家の重要な場所となります。家康にとっては、人質ではありましたが、幼少期から青年期までを過ごした、なつかしくもあり、自身の原点ともいえる場所です。家康自身の最期の場所も、この駿府でしたね。日本人は、最後は故郷で過ごしたいと感じる人が多いですが、戦国武将たちも例外ではありませんでしたね。最後の徳川将軍の徳川慶喜は、最後の数年だけは、生まれ故郷の東京で過ごし、亡くなりますが、江戸幕府が消滅する「大政奉還」後に、この駿府(静岡市)の地にやって来て、20年ほどを、趣味の写真撮影や、弓術の鍛錬に励み、穏やかに過ごします。三河が水野氏の土地になっていたということもありますが、徳川家の故郷の三河ではなく、この駿府です。駿府という地は、今川氏と徳川氏の特別な場所ということはもちろんですが、北条氏や武田氏にも、非常に関連深い場所です。大きな富士山と、大きな大平洋に抱かれた、南国のような暖かな日差しが差し込む地ですので、つい戦乱の時代のことを忘れてしまいますが、歴史ファンには、何か、戦国武将たちの栄光と憐れを思い起こさせる駿府という場所です。家康の、今川義元を丁重に供養し、駿府の土地を大事に守っていきたいという気持ちを、何か想像させますね。* * *戦国武将たちは、人殺しという残忍な一面を持っており、政治的に仏教宗派を利用しましたが、その身体の中に、「すべからく供養する」という精神を、しっかり持っていた武将も多かった気がします。「桶狭間の戦い」直後の、信長による今川兵士たちの供養も、実は、武将らしい行動ではなかったかとも感じます。ただ、信長の人間性は、このあたりから変化していくように感じます。「桶狭間」での出来事が、信長の中の何かを大きく変化させたようにも感じます。◇桶狭間の謎の寺さて、実は、「桶狭間の戦い」の時に、この桶狭間の地にあったお寺は、今の浄土宗の「長福寺」という寺ではないという説があります。長福寺は、この戦いの後に、供養のために建てられたともいわれています。では、この戦いの時にあったお寺とは…?実は、信長につながりの深い、京都の本能寺と同じ、日蓮宗のお寺があったという説があります。他にも、美濃国の天台宗の慈恩寺の末寺があったという説もあります。いずれにしても、荒廃した寺を徳川家が再興すれば、その寺は皆、浄土宗の寺となります。今川氏は、禅宗である臨済宗の武家です。今川義元の軍師だった雪斎(せっさい)は、臨済宗の僧侶でした。後で書きますが、甲斐国の武田家も、実は、臨済宗の武家です。もともと源氏系の武家は、禅宗の臨済宗が多いのです。* * *もし、桶狭間にあった寺が、説のとおりの日蓮宗や天台宗の寺であったなら、義元は、ここで昼食をとって歓待を受けたでしょうか…?ひょっとしたら、この「桶狭間の戦い」の時に、この桶狭間のお寺は、信長に深いつながりのある本能寺と同じ日蓮宗の寺であることを隠し、臨済宗の寺である偽装をしたということはないでしょうか…。あるいは、すでに使っていない廃寺に見せかけた、偽装の寺だったということはないでしょうか…。要は、この寺で義元に昼食をとらせて、歓待し、その間に、義元本陣を設営させればいいのです。もし、これを仕組んだのであれば、それは、この桶狭間の地を知り尽くした、今川軍の武将である瀬名氏俊(せな うじとし)ではなかっただろうかと感じています。瀬名氏俊は、義元がこの寺で昼食をとっている最中に、着々と義元本陣を設営し、桶狭間での義元の位置や、各武将の配置、人数、武器の種類や量などの情報を、信長側に送っていたのかもしれません。* * *織田軍の蜂須賀小六(はちすか ころく)は、この寺での義元の昼食の食事や酒の、調達や運び込みを手配した可能性もあります。おそらく蜂須賀小六は、義元が使用する乗り物の、本物の「輿(こし)」の情報を、前日の祐福寺あたりで入手し、やはり織田軍の簗田政綱(やなだ まさつな)に伝えていたのだろうと思います。さまざまな史料に、「輿、輿…」と、あまりにも強調されて書かれているのは、何か陰謀の匂いがします。たしかに「輿」は、義元を象徴するものであるのは間違いありませんが、大将の位置を示すものは他にもあります。ただ他のものでは、偽装されやすく、遠くからの視認がむずかしいのは確かです。「たったひとつの、間違いのない輿」を、目標物に設定するのは、確かにいい判断だと感じます。やはり、信長の特別攻撃隊が目標にするものとして、この「輿」は重要な役割を果たしたような気がしてなりません。本物の「輿」以外の、偽装の「輿」などは、織田が侵入させておいたスパイが、すべて破却しておけばいい話しです。* * *信長は、さまざまな情報を、中島砦か善照寺砦で、待っていたのかもしれません。信長が、桶狭間の特定の場所に行ってみたら、そこに義元がいなかったでは、信長の少数精鋭部隊による急襲作戦は、まず上手くいかないはずです。信長が、多くの兵をつれてチカラ攻めをしていたら、義元に近づけなかったはずです。義元の居場所、時刻、目印、そして本人確認作業である首実験の場所と人員…、何か完璧な段取りを感じます。瀬名氏俊と、このお寺が、信長側につけば、この作戦が成功する可能性が格段に高くなるはずだと感じます。なんなら、この寺に、信長の特殊部隊が、寺の関係者として潜んでいても不思議はありません。義元は、スパイや裏切り者たちに囲まれる中で、昼食をとり、歓待を受けていたのかもしれませんね。◇敵の陣地を崩壊させる戦国時代の「城攻め」では、敵の城に内通者やスパイがいるのが、ほぼ当たり前です。他にも、石垣を壊す…、地下トンネルを掘る…、水や食料のルートを遮断する…、堀を埋める…、城を水没させる…、川の決壊…、内部から放火…、城内にニセ情報をばらまく…、夜間の騒音攻撃…、遠くからの大砲攻撃…、など、あらゆる手段を使います。「城攻めマニュアル」が、当時にあったなら、まず基本中の基本です。テレビのお城探訪番組のように、大手門から、天守への道を進みながら敵の城を攻めていく武将など、戦国時代には、まずいません。城の弱点を狙ったり、陰謀を張り巡らせて、攻めていくのです。桶狭間での信長の攻撃も、同じだったと思います。桶狭間の戦いは、一見、野戦(野原や草原などでの戦い)のようでいて、城攻めの要素も多くあるような気がしています。瀬名氏俊と、この謎の寺が、信長側につけば、義元を討つのは容易(たやす)い…、そんな気がしてなりません。織田信長による巧妙な陰謀が、彼の勝利の背景にあった気がしてなりません。◇「本能寺の変」へのカウントダウンさて、今回のコラムの最後は、信長が行った、天台宗の比叡山焼き討ち攻撃や、浄土真宗の本願寺攻撃のほかに、もうひとつ行った、象徴的な宗派攻撃のことを書きたいと思います。大河ドラマ「麒麟がくる」では、かなり後半部の回で描かれるのだろうと思いますが、他の戦国武将たちとはかなり異なる、信長の仏教思想のことを少し書きたいと思います。それは、信長による、前述しました今川氏や武田氏が信仰していた「禅宗」の「臨済宗(りんざいしゅう)」への攻撃です。信長が信仰していた日蓮宗と、天台宗がもめ始める、そのきっかけを作った禅宗の臨済宗です。前述しました、延暦寺による、京都市内の日蓮宗の寺々への武力攻撃のきっかけを作ったのは、臨済宗の足利将軍家だと思われます。将軍家だけかと言われると、そこはよくわかりません。将軍家が、近い宗派間のライバル関係を利用し、法華宗(天台宗・日蓮宗)全体の勢力のチカラを削ごうとした可能性が高いと思います。後に、法華宗勢力たちからみたら、禅宗たちに、してやられたと感じたでしょうか…。* * *信長は、武田氏を武力で滅亡させた直後に、その信仰の支えである、禅宗の臨済宗の大寺院である「恵林寺(えりんじ)」を焼き討ち攻撃します。恵林寺は、甲斐国の武田氏の菩提寺です。信長の仏教攻撃は、1570年から74年にかけての、石山本願寺や伊勢長島の浄土真宗(一向一揆)への攻撃、1571年の天台宗の比叡山延暦寺の焼き討ちに続いて、この禅宗の臨済宗の恵林寺へと突き進みます。1582年3月に、信長は、武田勝頼を「天目山の戦い」で敗り、武田家は滅亡します。1582年4月に、武田家の菩提寺である、臨済宗の恵林寺を、信長が攻撃します。その後、1582年6月に、まさかの「本能寺の変」が起きるのです。まさに、1582年3月から、「本能寺の変」へのカウントダウンが始まったかのようです。この超スピード展開…、現代のマスコミでも追いついていけるでしょうか。現代なら、マスコミはこぞって、信長の宗派攻撃は、やり過ぎだとかき立てるかもしれませんね。どこかで、誰かが、何かを止めておけば、ここまでのスピード展開はなかったのかもしれません。誰かが…、大勢が…、止めたいと感じても不思議はない気はします。この後も、歴史は、ものすごい速さで展開していきます。* * *私は個人的に、「本能寺の変」への最終段階への突入は、この禅宗の臨済宗の恵林寺への攻撃が引き金を引いた気がしています。日本全国の有力な戦国武将の大半は源氏の末裔で、禅宗の信徒たちです。毛利氏も、上杉氏も、みな禅宗の信奉者です。情報網の達人の秀吉が、「恵林寺焼き討ち」後の禅宗の武家たちの行動を把握していなかったはずはないと思います。信長の禅宗攻撃は、もはや浄土真宗や天台宗への攻撃とは、意味合いが違っていたはずです。もともと源氏という武家には、由々しき事態であったと感じます。平氏の末裔だと語る信長が、源氏勢力に弓を引いたと感じても不思議はありません。元をたどれば土岐源氏の明智光秀が、あれほど、恵林寺攻撃を止めたのに、信長は一線を越えてしまいました。光秀の心の中に、源氏の代表として、「水色桔梗」の炎が点火しても不思議はないとも感じます。もはや、悩んでいる暇はなし…。オレがやらねば、誰がやる…。「時(土岐)は今…」へと突っ走った可能性もありますね。お笑い芸人グループ「ダチョウ倶楽部」のネタに、メンバーが「オレがやる」と順番に手をあげて、ある人物が最後に手をあげた瞬間に、周囲の者がその手を下ろし、その人物に「どうぞ」とやるお笑いネタがあります。意外と、恵林寺焼き討ち後の状況に似ていなくもないと、私は密かに感じています。このお笑い芸人グループのその人物は、「熱湯風呂」に突き落とされるネタも持っていますね。* * *とにかく戦国武将にとって、仏教宗派のことに深入りすることは、危険極まりないのです。家康も、江戸幕府を開いてから、各宗派間抗争や、宗派内部のもめごとに、時に強く、時になだめすかし、時に分裂させ、苦労の連続です。どうしたら宗派は、武家の下で、コントロールできるのであろうか…、ある意味、解決法のない課題ですね。現代の日本では、政治と宗教は切り離されていますが、ぐちゃぐちゃになり始めたら、収拾できないところまで突き進む可能性を十分にはらんでいます。「本能寺の変」は、当時の戦国武将たちに、強烈なメッセージを残したのは確かですね。徳川家康のような手法が、無難なやり方なのかもしれません。「本能寺の変」のお話しは、また、おいおい…。◇恵林寺を甘く見た?信長に攻撃された、禅宗の臨済宗の恵林寺(えりんじ)のことを少し書きます。もともと、新しもの好きで、古い伝統や慣習などを嫌う信長でしたが、それは仏教思想にも及んでいたと思います。延暦寺や本願寺への攻撃の場合は、まだ遺恨が感じられますが、臨済宗の恵林寺攻撃の場合は、少し意図が違う気がします。平氏の末裔を語る信長が、源氏の象徴の禅宗の臨済宗を叩きつぶす意味あいが強かったと、私は感じています。武田家の菩提寺を叩きつぶすことや、逃げ込んだ六角氏をかくまったことなどは、表向きの理由だと感じます。ようするに、古い源氏の武士の象徴と、古い禅宗の思想を、叩きつぶすことが目的であったようにも感じます。いってみれば、古くからの武士の社会構造をリセットさせようとした可能性も感じます。武士の社会構造を一度破壊し、その後、信長の元に作り直そうと考えたかもしれません。天台宗の比叡山延暦寺、浄土真宗の本願寺に続いて、次は、禅宗と古い武家構造の壊滅を狙って、まずは恵林寺を攻撃したのかもしれません。ひょっとしたら、恵林寺に続いて、狙っていた禅宗の大本山の寺が他にもあったかもしれません。* * *信長は、いつか、すべての仏教宗派を叩きつぶし、神道も天皇も蹴散らした可能性も考えられます。そろそろ危険なサインですね。天罰の影がちらつき始めたのかもしれません。恵林寺の焼き討ち攻撃のニヵ月後に、あの「本能寺の変」が起きます。それも恵林寺とつながりの深い明智光秀によって行われます。* * *恵林寺は、鎌倉時代に、あの夢窓疎石(むそう そせき)が開山した寺です。多くの有名な、「禅」の枯山水の石庭の作者として知られている疎石ですが、禅宗を、天台宗や真言宗とも融合させる思想は、多くの仏教界や武将の中でも尊敬を集めた人物です。源氏の名門家系の武田家が、恵林寺を大切に庇護するのは当然ですね。臨済宗の高僧であった「快川紹喜(かいせん じょうき)」という人物は、京都の妙心寺、美濃国の崇福寺を経て、この恵林寺に信玄によって招かれます。この快川紹喜は、美濃国の土岐氏に生まれたという説もあります。土岐氏とは、土岐源氏のことです。明智光秀が、土岐源氏の子孫であることは、これまでのコラムでも書いてきました。源氏勢力にとって、非常に大切な恵林寺と快川紹喜だったのです。* * *前述のとおり、信長にとって、恵林寺への攻撃は、禅宗への攻撃を意味しているのは間違いないと思います。ただ、信長は、それがかつての源氏勢力を、どれほど刺激することかを、どのくらい意識していたのでしょうか。浄土真宗の本願寺も、天台宗の延暦寺も、信長に屈服しました。禅宗も自分に屈服するだろう…、こんなことを考えたのかもしれません。戦国武将たちの信仰など、それほど気にすることでもなく、戦国武将たちはみな、合理的に利己的に物事を判断するだろうと思っていたのでしょうか。ものごとを、どのように解釈するのか…、これが生死を分けた可能性もあります。* * *戦国武将が、仏教思想の影や、「天罰」という言葉を連想させながら、死んでいくというのは、信長以外の武将では、私は知りません。通常は、寿命(老衰死)、戦死、病死、暗殺、事故死、災害死、自刃などです。「麒麟」とは言いませんが、信長の死は、何か、摩訶不思議なものを感じてしまいます。* * *さて、この恵林寺の焼き討ちでは、有名な言葉が残されています。「心頭滅却すれば、火もまた涼し」。若干、もともとの表現とは異なります・この恵林寺の焼き討ちで亡くなった、前述の高僧の「快川紹喜(かいせん じょうき)」が、ある時に発した言葉とされていますが、確実に判明しているともいえないようです。ただ、彼の、この時の心境や思想が盛り込まれた内容であるのは間違いないであろうとは思います。◇心頭滅却この言葉は、正確には、「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し)」です。この言葉は、中国の唐時代の詩人の杜荀鶴(とうじゅんかく)の詩の中にある文章から引用されたもので、恵林寺の炎の中で死んでいくたくさんの僧侶たちの心境とあいまって、ある戦国時代の者たちの思想を、よくあらわしていると感じます。後世の人間が、恵林寺の悲劇と、快川紹喜のことが、永遠に語り継がれることを願って、恵林寺の焼き討ちに合わせた言葉を探してきたと考えられないこともありません。実際に、快川紹喜が、この話しを、幾度となく話していたということも考えられます。いずれにしても、恵林寺と快川紹喜が、多くの武将たちからたいへんに尊敬される存在であったことは間違いないと思います。* * *このコラムでは、この文章を、直訳も意訳もしません。この言葉の解釈は、現代人が100人いれば、100人が違うはずです。どれが正確な解釈とも言えないように思います。それぞれの人の解釈があっていいように感じます。悟りの境地を開いた意味だとも…、何かの恨み節を込めたものだとも…、時代のはかなさをうたったものだとも…、いろいろな解釈ができそうです。この解釈の広さこそが、多くの人々の心に届く理由だとも感じます。同一人物であっても、年齢や、暮らす環境、立場によって、この言葉の感じ方は異なるのだろうと思います。場面場面で、生きた言葉として、私たちの心に響いてくればよいのだと感じます。* * *信長は、この言葉を快川紹喜が発したと後に聞いても、敗者の単なる、負け惜しみ、恨み節程度にしか、解釈しなかったかもしれません。ですが、これを聞いた日本中の禅宗の戦国武将たちは、どのように解釈するでしょうか…。まさに快川紹喜の、最大の無念さがにじみ出た言葉と解釈する武将もいたでしょう。中には、快川紹喜の遺言として、「禅宗信徒としての、信長への攻撃命令」と解釈した武将もいたかもしれません。そして、この言葉を利用して、反信長として源氏勢の結集を狙った勢力もあったかもしれません。* * *私は個人的に、この時に、秀吉は、中国地方で、何かの時間稼ぎをして、日本全体の武将たちの様子を観察し、敵の毛利氏と和解にこぎつけたと感じています。表向きには、「備中高松城の水攻め」です。秀吉は、日本の中に、何か別の動きがあることを察知していたのではないかと感じます。秀吉が、その当事者の中にあったかは、はっきりとはわかりません。毛利氏と秀吉が、急いで戦いを中断させたのは、紛れもない事実です。上杉氏など、一部の武将が、「本能寺の変」を事前に把握していたのは間違いないと思います。日本全体で、たったひとりの武将を除いて、かつての源氏勢力の武家を中心に、大きな陰謀が進んでいたのかどうか…?前回コラムで書きましたが、家康は、これに乗じて、かつての武田軍の穴山梅雪の金と命、そして武田家が残した軍事力を狙った可能性も考えられます。あまりにも大きな陰謀が進んでいたのなら、日本全体でそれを隠してしまっても、不思議はありません。ちょっと、私の想像が膨らみ過ぎたかもしれませんね…。また、おいおい書いていきます。* * *いずれにしても、、この「心頭滅却すれば、火もまた涼し」という言葉は、現代人の心にも、何か引っかかるものがあります。何かを強く示しているような言葉ではありませんが、さまざまな心境や世界観を語ってくれている気がします。特に、苦難の時、困惑の時に、この言葉は心に響いてきます。信長は、快川紹喜が恵林寺の炎の中で命を落としてから、二ヵ月後に、本能寺の炎の中で、この言葉を思い出したでしょうか…。本当に「是非もなし」の心境だったのかどうかは、今となっては、本人しかわかりませんね。いろいろな物事は、解釈によって、その後がかなり変わっていく…、歴史は証明している気がします。* * *ここで、興味深い、すばらしいブログをご紹介いたします。写真家の「バッハ・林・志保」様のアメブロに、「心頭滅却」のことを書いたブログがあります。私たち現代人の生活にあわせて、この言葉を解釈し、この言葉を自身の人生に活かしていく…、快川紹喜もきっと喜んでくれていると感じます。どうぞ、読んでみてください。バッハ・林・志保様のブログ記事◇到達点これを読んでいただいている方々…、あなたにとって「心頭滅却」とは何ですか…?これまでに「火もおのずから涼し」という瞬間はありましたか…?つらいはずのことなのに、何かつらく感じない…。とてつもなく怖いことなのに、何か恐れがなくなっていく…。日本人は、時に最大限の苦しみや悲しみの中であっても、相手に、ほほ笑みを見せることがあります。苦しみに耐えきれないほどの中にいるはずなのに、表情の中に、ほほ笑みを無理やりに作ろうと努力する精神を持っていたりします。相手が自身と同じような、最大の苦難の時であったなら、自分のことよりも、相手を笑顔で励ましたりすることも忘れません。自然災害ですべてを失ってしまった被災者が、テレビ画面の中で、涙を流しながらも、笑みを必死に作り、「失っちゃった…」と笑みを浮かべながら言葉を発する時、私は、この「心頭滅却」の言葉を思い出す時があります。きっと彼らに、仏様は何かを与えてくれるはず…、そう思わずにはいられません。日本人の民族性は、多くの巨大自然災害の被災の積み重ねの上に形成されているという話しを、どこかで聞いたことがあります。何かを滅却し、それを乗り越える…。滅却しなければ、乗り越えることはできない…。この「心頭滅却すれば火もまた涼し」には、日本人が感じる、何かの到達点が表現されているようにも感じます。現代人も、心でもなく、頭でもない、身体のどこかで、この言葉の何かを感じとっているような気がしますね。* * *次回のコラムは、いよいよ「桶狭間の戦い」の、ある到達点のことを書きたいと思います。桶狭間にいた信長と、恵林寺にいた信長…、まるで別人だったのか、すでに同じ人間だったのか…、これも人によって、解釈が異なるのでしょうね。大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が再開された後は、「天下布武」の野望にひた走る信長の姿が見られると思いますが、ドラマの中では、彼の宗教観がどのように描かれていくのでしょうか。* * *戦国時代は、武将どうしの武力の戦いはもちろん、宗派の戦い、思想の戦いでもあったと感じます。「桶狭間の戦い」においても、信長と義元の思想は明らかに大きく違います。思想は、戦い方まで変えてしまうのかもしれませんね。戦いの中から、さまざまな思想の成長が起きていたようにも感じます。* * *コラム「麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12) オレについてこい」につづく。『麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)「オレについてこい」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。千秋季忠と佐々政次。信長の檄文。千秋一族と佐々一族。熱田衆と津島衆。熱田神宮・善照寺砦・…ameblo.jp2020.8.4 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 30Jul
      • 麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)「陰謀網」の画像

        麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)「陰謀網」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の大陰謀。複雑な人間関係の今川軍。武田軍崩壊の陰謀。対抗勢力の恐ろしさ。桶狭間の謎の寺。瀬名氏俊・簗田政綱・蜂須賀小六・水野信元。麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)「陰謀網(いんぼうあみ)」前回コラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」では、織田軍の丹下砦・善照寺砦・中島砦のこと、信長の見事な人員配置のこと、信長の「袋のネズミ作戦」のこと、大橋宗桂と藤井聡太さんのことなどについて書きました。今回のコラムは、桶狭間での決戦の戦況を書く前に、今回の戦いの中で、かなり重要な意味を持つであろう「大陰謀」の「網」や、勝敗に直結するであろう「暗躍」について書きます。ここからは、おおかた私の推論ですので、その旨ご理解ください。◇桶狭間にはられた陰謀の網ここまでのコラムの中でも、織田軍の簗田政綱(やなだ まさつな)について、いろいろと書いてきました。おそらくは、今回の戦いの陰謀や暗躍、作戦全体の立案、調整、管理、指示は、彼が行っていたのではないかと感じています。もちろん、信長と相談の上だったと思います。信長自身が行わなければ実現できない内容も、たくさんあったとは思いますが、簗田の仕事は膨大にあったのだろうと思います。そして、簗田は、蜂須賀小六(はちすか ころく)などの部隊を、暗躍の実行部隊として使っていたのではないでしょうか。二人の関係性は、以前のコラムで書きました。また、簗田は、織田軍配下の三河国の武将の中で、もっとも陰謀に長けた武将である水野信元にも、さまざまな指示を出していたと思われます。この三人については、これまでのコラムでも書いてきましたとおり、まさに陰謀や暗躍のスペシャリストたちです。織田家の陰謀の頭(かしら)、斎藤家の陰謀の頭、三河衆の陰謀の頭が、三人そろったようなものですね。* * *私は、さらにここに、今川家の陰謀の「頭」が加わったとも思っています。今川軍の武将である「瀬名氏俊(せな うじとし)」です。あろうことか、瀬名氏俊は、今回の今川軍の先鋒隊です。今川軍の作戦計画、進軍ルート選び、進軍日程、各陣地の設営…、すべて彼の管理下で行われたかもしれません。管理下とまではいかなくとも、かなりの影響力を有していたと思います。ここまでに登場した四人は、ひとつ聞けば、十くらいの陰謀はすぐに理解できるような連中でしょうから、話しは早かったでしょう。それぞれの思惑の合致点など、すぐに作れたような気がします。簗田政綱、蜂須賀小六、水野信元、瀬名氏俊…、もしこの四人が手を組んでいたとしたなら、まさに「桶狭間の陰謀四天王」とでも名付けたいほどです。* * *私は、さらに、この瀬名氏俊に加担したのが、桶狭間にあった、ある寺であろうと感じています。このお寺の話しは、後ほど書きます。加えて、今川義元の最期の場面で、「一番槍」という、最初に義元に傷を負わせた武者の「服部一忠(はっとり かずただ)」も、かなり重要な暗躍者であったのではとも感じています。なにしろ、服部一族の者です。彼の、この目立たない雰囲気は、逆に何かがある気がしてなりません。もし、この四人(簗田、蜂須賀、水野、瀬名)プラスアルファが手を組んで、簗田の計画のもと、作戦を実行し、ここに松平元康の三河勢、ひょっとしたら朝比奈の一族も、加わっていたのなら、もはや今川義元は手も足も出ない状況のように感じます。とにかく、この戦いで、不自然な生還を果たした今川軍の武士たちは、かなり怪しいと感じます。これだけの激戦であるのに、一族から死者を出さないとは、どう考えても偶然とは思えません。朝比奈の一族については、ちょっとわかりかねますが、朝比奈自身が、何かを察知した可能性も十分に考えられます。戦国時代は、感度の悪い武家がのしあがることなど、まず不可能な時代でした。ここに名前が出てきた武将たち…その名前を聞いただけで、陰謀の匂いがプンプンしますね。実際に陰謀まみれの彼らでした。信長の桶狭間での大勝利という、とてつもない奇跡が、たった一人か二人の陰謀だけで成立するとは、私には思えません。まさに、今川義元は、大陰謀の「網」が張りめぐらされた桶狭間に、上手に誘導され、不用意に入ってきたのだろうと感じています。* * *私は、もともと桶狭間という場所が、大軍団の大将が本陣を設営する場所とは思えません。沓掛城周辺の村々も、すでに織田方に取り込まれていましたので、庶民も含めて、織田軍が、今川軍の動向を細部まで監視していたのは間違いないと思います。もしそうであるなら、信長と簗田の陰謀は、あまりにも壮大で、細部まで、ち密に練られています。この想定のもと、次回以降のコラムでの戦況を読んでいただけると、わかりやすいかもしれません。あくまで、私の推論です。◇瀬名氏俊個人的な意見ですが、桶狭間の場所に義元本陣を設営させる計画を進言したのは、今川軍先鋒隊の瀬名氏俊ではないかと思っています。そもそも、岡崎あたりからの進軍ルートといい、このスピード日程といい、何か不自然です。瀬名氏俊は、今回の「織田軍攻撃作戦」全体においても、かなり重要な役割を果たしたのではないでしょうか。瀬名は、義元が桶狭間で攻めらている時に、その場所にはいません。桶狭間に義元本陣と自身の陣を設営した後に、大高城に向かったという説もあります。私は、もっと別の場所にいたと思っています。大事な時に、彼はいったい、どこにいたのでしょう…?個人的に、義元が、どうして先鋒隊という重要な役割に、瀬名を抜擢したのか、非常に理解に苦しみます。* * *瀬名氏俊の生涯は、はっきりとはわかっていません。暗い部分が多いからでしょうか。息子の氏詮(信輝)は、この戦いの後、今川氏から武田信玄に寝返ります。孫の政勝は、徳川家康の家臣となり、江戸幕府の立派な要職につきます。まさに、強い武家への両天秤戦略ですね。すさまじいまでの生き残りへの執念を、瀬名氏一族に感じます。この時代は、こうした両天秤による生き残り戦略を行った武家はめずらしくありませんので、非難するようなことでもありませんが、信濃の真田家とは印象が少し異なります。◇一枚岩ではない今川軍以前のコラムで、松平元康(家康)の複数代前の時代の、三河国内での松平一族周辺の争いのことを書きましたが、駿河国の今川家も、同じような抗争劇が、幾度も繰り広げられてきました。あまり古い時代までさかのぼってもキリがありませんので、簡単に…。今川義忠(義元の祖父)が「応仁の乱」のため、駿河国から上洛し、東軍に組します。この時に、中国地方の有力武家の伊勢氏の伊勢盛時(後の北条早雲)と出会っており、その一族の女性と義忠が結婚し、今川氏親(義元の父)が誕生します。義忠は駿河に戻ってから、斯波(しば)氏の支配地であった遠江国(浜松市周辺)に侵攻し、斯波氏から遠江国を奪取します。斯波氏は、室町幕府の足利将軍家に次ぐ名門武家のひとつで、戦国時代中頃までは、越前国(福井)、尾張国(愛知)、遠江国(浜松市周辺)を支配していましたが、越前は朝倉氏に、尾張は織田氏に、遠江は今川氏に奪われるという、まさに下克上により没落していった武家です。この流れが、今川義元、織田信長、朝倉義景の争いにつながっていきます。* * *辣腕(らつわん)の今川義忠が亡くなると、待ってましたとばかりに、家督相続争いが今川一族と家臣らの中で起き始めますが、後継者となる今川氏親の親戚で後見人となった伊勢盛時(北条早雲)が中国地方から駿河にやって来て、チカラで今川家の家督相続争いを仕切ってしまいます。そして盛時(早雲)は、今川氏の名を利用するかのように、伊豆国と、上杉氏の領地であった相模国をチカラで奪い取り、小田原城も奪取します。一応、盛時(早雲)は今川氏親の家臣ですが、名ばかりで、相模国や伊豆国の実権は伊勢盛時(北条早雲)のものとなります。この時に、盛時らと敵対関係にあった今川の家臣が、「桶狭間の戦い」でも重要な位置にある、三浦氏や朝比奈氏という有力な一族です。そりゃあ、最初がこうなのですから、北条氏と今川氏の仲が悪いのは仕方ありません。そして、北条氏は、早雲(氏長)、氏綱、氏康、氏政、氏直と、家系がつながっていきます。* * *もともと相模国は上杉氏の支配下でもありましたので、この浜松あたりから横浜あたりまでの海沿いの地域は、今川氏・北条氏・上杉氏が火花を散らす、そこらじゅうに爆弾が転がる火薬庫のような地域になっていきます。そこに、少し内陸に入った地域にいた甲斐国の武田氏が加わって、東日本の南部地域は大戦乱地域になっていきます。尾張・美濃・近江・越前あたりの戦乱地域とは少し離れていますが、ここにも大きな戦乱地域が形成されていました。* * *今川氏親が亡くなると、また家督相続争いが起き始めます。義元は三男でしたが、長男と次男が、謎めいた亡くなり方をします。おそらく暗殺です。義元の生母が、確実に、今川氏親の正室の「寿桂尼(じゅけいに)」であるとは断定できていませんが、義元は、この寿桂尼と雪斎(せっさい)のチカラで1536年に今川家の後継者となります。義元の意志ではなく、この二人の意志であったとも感じます。今川家の家臣には、義元の後継を認めない勢力もいましたが、雪斎と、「桶狭間の戦い」の際に鳴海城主となっていた岡部元信の父である岡部親綱(おかべ ちかつな)が、チカラで彼らをねじふせます。岡部親綱は、おそらく義元の後継実現にも貢献したと思いますが、桶狭間の戦いの時は、おそらくかなりの高齢で、すでに出家し、戦場に来ていなかったと思います。* * *実は、駿河国勢を中心とした今川氏(駿河今川氏)と、前述の斯波氏から奪い取った遠江国勢を中心とした今川氏(遠江今川氏)というのは仲がよくないのです。駿河今川氏の義元が後継者争いで勝利する中、遠江今川氏は対抗勢力となり、同じ遠江国勢の井伊氏、小田原の北条氏と手を組んで、駿河今川氏を倒そうと企てます。これが今川氏と北条氏による、1537年から1545年までの7年間にわたる「河東(かとう)の乱」の構図です。この争乱に甲斐の武田氏が入ってきて、北条氏が手を出せなくなり、「遠江今川氏」は「駿河今川氏」に屈服することになります。この遠江今川氏の中心にいた一族が堀越氏で、その分家が瀬名氏です。瀬名氏俊は、この瀬名一族に生まれます。* * *瀬名氏俊は、前述の「河東の乱」の時に、北条氏綱と手を組み、いろいろな暗躍をしたという説があります。その乱が終わって15年経ったとはいえ、「桶狭間の戦い」の直前の三河勢の反乱とあわせて、義元は、どの程度まで、遠江今川氏や瀬名氏のこと、遠江国勢のことを把握できていたのでしょうか…。実をいうと、朝比奈氏も、義元派とその反対勢力に分かれて争っていたようです。このコラムシリーズでも再三登場します朝比奈泰朝(あさひな やすとも)は、遠江国の掛川城主だったのですが、この城は駿河朝比奈氏に対して、遠江朝比奈氏と呼ばれます。今の掛川市の地域ですが、義元の本拠地の駿府(静岡市)と浜松の、ちょうど真ん中あたりにあります。朝比奈泰朝は、寿桂尼とは近い間柄にあるとはいっても、本当に今川義元をはじめ今川家に、強い忠誠心を持っていたかは、私にはわかりません。* * *よくよく考えてみると、瀬名氏も朝比奈氏も、もともとは義元の対抗勢力だったということです。「桶狭間の戦い」までの、15年や20年で、遺恨がなくなるとは思えません。義元は、先鋒隊に瀬名氏を…、大高城に朝比奈氏と三河勢の松平氏を…、よく抜擢したものです。寿桂尼は駿府に…、そして、雪斎は、もはやいません。遠江国勢の井伊直盛と松井宗信は、結果的に「桶狭間の戦い」で散っていきますので、瀬名氏や朝比奈氏にとっては、ライバル一族が弱体化し好都合だったかもしれません。「桶狭間の戦い」の後に、没落した駿河今川氏に見切りをつけ、遠江国勢や遠江今川氏が、さっさと松平家の配下に入っていくのは、こうした背景があったためだと思っています。「桶狭間の戦い」の後、武田信玄が今川の領地に侵攻してくるや、瀬名一族は、さっさと今川家臣の立場を捨て、一部は武田氏に、一部は松平氏にと、両天秤戦略を実行します。朝比奈氏も、松井氏も同様です。遠江国の井伊氏だけは、松平氏一本にかけました。これが功を奏したのか、その後に、井伊直政は徳川四天王になり、井伊氏は徳川政権の中枢になっていきます。井伊氏のことは、また別の機会に書きたいと思いますが、武家には、その時々で、相当に重要な決断の時がありましたね。* * *私は、義元が、この時に、家臣団の武家たちの心や状況を、しっかり把握できていたとは思えません。こんなバラバラの状態で、大軍団を仕立て、大戦に向かったことこそ、義元の決断の失敗ではなかったかと思います。信長が、織田家臣団や三河勢に、細かな配慮や人員配置を行っていたのとは、対照的に感じます。信長が、この今川家内部の複雑な関係と、遺恨に目をつけないはずはないと思います。「これなら、今川軍内部をバラバラにできる…」。信長に限らず、秀吉も、家康も、謙信も、信玄も、元就も…、敵の内部に「ほころび」を見つけた時の、執拗な陰謀暗躍はすさまじいものがありました。武将たちが鬼に変わる瞬間は、戦場だけではありません。「ほころび」がなければ、それを陰謀で作ることさえ、彼らは行いますから、相手からみたら、もはや手も足を出せなくなりそうです。◇勝敗の決定打三河国の勢力のうち、水野勢は、すでに織田方に味方しています。あとは、松平元康らの他の三河勢と、遠江国勢の中でカギを握る瀬名氏を味方にできれば、信長は、相当に有利な立場になるかもしれません。朝比奈氏に関しては、私はわかりませんが、結果的に、朝比奈一族の主要な武将がみな生き残ったことを考えると、織田に味方はしないまでも、松平氏と同様に、静観の立場で、その時をやり過ごすという行動をとった可能性もゼロとは思えません。私は個人的に、桶狭間にやって来た今川軍の中で、鳴海城の岡部氏と、大高城の鵜殿氏を除いて、信長が敵とみなし、戦うべき主要な武将たちは、ほぼ討ち取ったような気がしています。残党兵を追走はしますが、大した数でもありません。私は、瀬名氏俊の存在が、義元の命取りの原因のひとつだったような気がしてなりません。* * *そして、この瀬名氏俊が、庭のように知り尽くしていた場所こそ、桶狭間という場所だったのです。今、桶狭間には、「瀬名氏の陣跡」など、瀬名関連の名がついた史跡が、義元本陣のあった場所の近くに、たくさん残っています。とって付けたかのように、「瀬名」名がたくさんあるのです。桶狭間の地で、瀬名氏は、今でも特別な存在感を残しているのです。* * *私は、この瀬名氏が、桶狭間のどの場所に、どの時刻に、義元本陣を設置し、さらに他の武将たちの布陣場所にも、かなりの影響力を持っていたと感じています。もし、今川の作戦全般に、瀬名氏と朝比奈氏が同意したら、まず他の家臣は従うような気もします。内応している松平元康が反論するはずがありませんね。瀬名氏俊も、朝比奈泰朝も、桶狭間での最終激戦に参加していないとは、何か理由がなければ考えにくいと思っています。今川軍の中で、最大級のチカラを有する武将が、実は敵に寝返っていた…、これは戦の勝敗の決定打になりうると感じています。信長の大陰謀が、これを成功させたと思っています。◇よく似た武田家のケースここで、この桶狭間のケースによく似た、信長の大陰謀を、もうひとつ書きます。信長が、武田家を滅ぼしたケースです。武田信玄の死後、息子の武田勝頼が率いる武田軍が、信長に「長篠の戦い」で大敗し、その後、武田家の甲斐国は、信長に猛攻撃をかけられます。武田軍の家臣団の中からは、信長に内応する者が続出します。* * *その中に、穴山梅雪(信君)〔あなやま ばいせつ〕がいます。彼は、武田信玄の姉の息子で、武田家一門の筆頭という重要な立場になっていたのですが、家康を通して、信長と内応し、武田家を離れます。その時に、河口湖あたりに隠してあったといわれる武田軍の大量の金を持って、甲斐国を脱出したといわれています。彼は、「本能寺の変」の後、家康とともに堺の街から脱出し、三河国に向かう途中に亡くなりますが、この時も大量の金を持っていたともいわれています。個人的には、彼の死は、家康が絡んでいるとにらんでいます。この逃亡劇は「伊賀越え」と呼ばれますが、これを家康が成功させるには、大量の金が必要だったはずです。かつての武田軍の大量の金は、これに使われたのではと感じています。なにしろ、「伊賀越え」を手助けした、伊賀者たちは、武田家のことを百も承知です。* * *この穴山氏という一族は、元は甲斐の武田家から派生した一族ですが、甲斐国の南部を支配地とし、そのすぐ近くの今川氏の配下に入っていた一族です。武田信玄の父の信虎に攻撃され降伏し、武田氏の配下に入った一族で、武田家と姻戚関係をつくり、武田軍の中で、のしあがっていきました。* * *穴山氏と同様に、武田軍の最重要家臣のひとりで、後に武田家滅亡の決定打となる織田氏への寝返りを実行する小山田信茂という武将がいるのですが、彼も穴山氏とよく似ています。小山田氏は、もともと甲斐国の東部から、埼玉の秩父あたりまでを支配し、相模国の北条氏に近い存在だったといわれています。小山田氏も、穴山氏と同様に、信玄の父の信虎に屈服した一族です。ですから、この両氏は、他の武田の有力家臣たちとは、意味合いが少し異なります。もともとは、武田氏の対抗勢力で、その配下に組み込まれた一族でした。ただ小山田信茂は、「長篠の戦い」で、穴山氏のように、戦況不利と見るやすぐに戦場を脱出するようなことはなく、勝頼のすぐ近くで、彼を守り、長篠の戦場から彼を脱出させた武将です。にもかかわらず、最後の最後に、勝頼の命を信長に差し出したのは、小山田氏です。武田勝頼は、真田昌幸と、小山田信茂という、逃亡先の二つの選択肢がありましたが、小山田のほうを選択したのです。今となっては、この選択が誤りだったのは間違いありません。* * *もともと、穴山氏も、小山田氏も、武田家と一族の運命を共にする筋合いは、まったくありません。戦国時代であれば、常識的な判断とも考えられます。ただ、それには、タイミングとやり方がやはり肝心だったとは思います。「桶狭間の戦い」での松平氏や瀬名氏のように、その当時はもちろん、後世の現代にまで、そうそう疑われることのないよう…、また、「誹謗中傷」を受けないように、しっかり対応しておくことが大切だったかもしれません。* * *とはいえ、信長が、武田軍を崩壊させる目的で、穴山氏と小山田氏に目をつけたのは間違いありません。家康も、そのことは、わかっていたはずです。小山田氏が死に、家康にとって、穴山氏は、大量の金を所持していたかどうかに関わらず、生きていてほしい人物ではありません。家康は、後に、武田軍の兵力と土地を、ほぼすべて手中にするのです。家康の陰謀力のすごさも、信長に決して負けなかったということですね。その話しは、おいおい…。* * *小山田氏は、この寝返りによる武田家滅亡の後に、織田信長の息子の信忠によって、処刑されます。この信忠の、生涯の恋人が、武田信玄の五女の松姫で、松姫が京都にいる信忠の元に向かっている最中に、「本能寺の変」が起き、信忠は信長とともに果てます。ですから、「本能寺の変」が、もう三ヵ月早く起きていたら、勝頼の死と武田家滅亡も、小山田氏の死も、穴山氏の死も、なかったかもしれません。こんな展開…まさに大河以上の、大河ドラマですね。この頃の武家に起きたさまざまなドラマに、現代のテレビドラマは到底かないませんね。いずれにしても、この武田家の穴山氏と小山田氏の裏切り…、誰かに似ていませんか?そうです。まるで、「桶狭間の戦い」での今川軍の松平氏と瀬名氏の裏切りのようです。信長が大勝利する「桶狭間の戦い」と「甲斐征伐」の陰謀工作は、非常によく似ている気がします。◇かつての対抗勢力は危ないこうした陰謀は、信長に限ったことではありませんが、のしあがる戦国武将は、大戦の戦闘の前に、敵家臣団の中の相当に重要な位置にある武将を寝返らせるという戦術を、よくとっています。秀吉も、家康も、まったく同様です。もはや戦国時代後期は、武器の威力が増大し、戦闘員の人数も激増し、作戦も巧妙になり、兵や武器のレンタルや連合軍スタイルも行われるようになり、戦いのかたちが、かなり複雑になっていきます。寝返りなどを含めた巨大な陰謀をしっかり成功させておかなければ、勝利することができなくなっています。中途半端な陰謀では、すぐに見破られてしまいそうです。寝返りを防ぐにも、相当な「見かえり」や、別の要素を用意しないと、重要家臣を引きとめておけません。三英傑(信長・秀吉・家康)が行った巨大な陰謀の数々は、他の武将たちより、ケタはずれに大きな「陰謀網(いんぼうあみ)」であったと感じています。すぐに破れてしまいそうな「網」など役に立ちません。頑丈で巨大な網を、何重にも仕掛ける…、これが戦国時代の武将の戦い方でした。* * *戦国時代の武将は、かつて敵軍にいた重要家臣を、自分の側に寝返らせ、彼らを新しい家臣として利用するということがめずらしくありません。ですが、その後、その寝返らせた家臣によって、武将自身や、後継者一族が滅ぼされたというケースも、非常に多くありました。今川義元、武田勝頼…、この二人は、このケースだと思います。実は、織田信長も、これと同じケースで、自身の最期をむかえます。豊臣家も、同じケースですね。最後に天下人として登場した徳川家康は、このケースを徹底的に防ごうとします。江戸幕府は、「外様大名(とざま大名…関ヶ原決戦にからみ徳川家に新しく配下となった武将)」と「譜代大名(ふだい大名…主君に数代にわたって古くから仕える武将)」を明確に区別し、その領地配置に気を配り、参勤交代で金を使わせ、人質を江戸にとり、ひんぱんに引っ越しさせ、禁止事項を膨大につくり、時には危険な大名家をとりつぶしました。徳川家は、東日本一帯を使って、いざという時の防衛体制も敷きます。多くの戦国武将が、恨みを持ち続ける かつての対抗勢力たちに、復讐され滅んでゆく姿を、家康は、いやというほど見てきたはずです。家康自身も、桶狭間で…、大坂で…、それを行った立場です。「対抗勢力」とは、本当にやっかいな存在であり、何かしっかりとした対策を維持していないと、永遠に解決できない存在なのかもしれませんね。「対抗勢力」という大きな「網」に引き込まれ、滅亡していった武家は数知れず…。いつの時代も、これは「歴史の宿命」かもしれません。◇桶狭間の謎の寺さて、先ほどの、桶狭間での瀬名氏に関連したお話しに戻ります。私は個人的に、桶狭間の決戦のこの場所で、瀬名氏俊にチカラを貸した重要な勢力が、別にもいたのではないかと感じています。それが、桶狭間の地にあった、あるお寺の存在です。現在は、「長福寺(ちょうふくじ)」と呼ばれ、当時から、今川氏の大切な庇護のもとにあったともいわれていますが、はたして本当でしょうか…?* * *このお寺は、5月19日の決戦の直前に、今川義元に昼食を用意し、歓待したお寺です。だいたい、それだけの昼食と、それに大量の酒を、こんな山の中で、だれがどうやって準備できるのでしょうか…。一応、準備するのは先鋒隊の瀬名氏俊の役目であろうと思いますが、実情はおそらく、織田軍の蜂須賀小六あたりが事前に準備しておいたものではないでしょうか。織田兵との小競り合いに勝利するたびに、義元は、軽い祝宴を開いています。これまでのコラムでも書きましたが、この時に、上機嫌の義元が言った言葉が、あの有頂天台詞です。* * *義元は、最終局面でも、この寺に逃げ込むことはありませんでした。この寺の住職等の関係者は、この戦いの直後に、今川軍の首実験(死んだ武将の本人確認)を行った人物たちです。その日にやって来た武将たちの首の確認作業を、そうそう簡単にできるものなのでしょうか…。戦闘直後に、確認作業を短時間に確実に行えるように、人材と場所を、信長が事前に用意しておいたとしか思えません。瀬名軍の誰かが協力すれば、短時間でも作業は可能だったでしょう。* * *戦国時代に戦に強かった武将たちは、戦闘勝利後の動きもかなり素早いですが、相当にち密な、戦後の行動計画がたてられていたケースがたくさんあります。これは、事前に、敵の逃亡を想定し、その可能範囲を限定させ、追走あるいは捜索計画を準備していることに、ほかならないと思います。明智光秀も、石田三成も、戦場付近から、逃げ切れませんでしたね。家康の「関ヶ原の戦い」でも、戦闘勝利後の行動を、そこまで準備しておくのかと驚きます。いつの時代の戦争もそうですが、戦闘終了直後のリスクは、相当に大きいものです。信長の息子の信忠は、「本能寺の変」の際に、実際には京都から逃げきれたはずだといわれていますが、彼は、判断ミス(?)かどうかはわかりませんが、父親の信長の意思とはおそらく違う、「逃げない」という決断をしてしまいます。この話しは、ずっと後に…。ともあれ、桶狭間のお寺が、もし今川氏に近い寺であったなら、瀬名氏の指示とはいえ、信長に協力することなど、本当にあるでしょうか…?* * *ここまでで、すでに結構な長文になってしまいましたので、次回コラムで、この続きを書きたいと思います。この桶狭間の寺の謎、戦国時代の仏教宗派の抗争と武将たちのつながり、そして、信長と光秀の運命を左右した決定打(?)になったかもしれない、あるお寺の「心頭滅却」のお話しを少し書きたいと思います。桶狭間の謎の寺のお話しをしてから、桶狭間の戦いのクライマックスに進みたいと思います。クライマックスまで、もう少し…。◇陰謀の網それにしても、「桶狭間の戦い」ような「大陰謀」は、戦国時代だけのお話しではありません。現代のさまざまな分野でも、しっかり起きているお話しです。うかうかしていると、「陰謀網(いんぼうあみ)」に巻きとられ、「貧乏神(びんぼうがみ)」に取りつかれてしまうかもしれません。人間関係をさかのぼって、しっかり見直してみる…、これは現代でも大切な作業かもしれません。知らないうちに、誰かから恨みを買ったりしていませんか…?あなたのすぐ近くに、網は張られていませんか…?* * *次回コラムも、陰謀まみれの恐怖のライバル抗争劇のことを書きます。コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」につづく。『麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)「心頭滅却」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。比叡山延暦寺と本能寺。恵林寺の焼き討ち。快川紹喜。心頭滅却すれば火もまた涼し。仏教と戦国…ameblo.jp(追伸)このコラムを読んでくれている小学生のみんな…、「陰謀」のことを知るには、しっかりとした「正義感」をいっしょに学ばないと、自分自身が「陰謀」の餌食(えじき)になってしまいます。「陰謀」だけでは、決して生き残っていけませんし、「幸せ」とはほど遠い「暗い」人生となります。いろいろなことを、同時に、学んでいってくださいね。2020.7.30 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 25Jul
      • 麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)「桶狭間は将棋盤」の画像

        麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)「桶狭間は将棋盤」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の丹下砦・善照寺砦・中島砦。信長の人員配置。信長の「袋のネズミ作戦」。大橋宗桂と藤井聡太さん。棋聖。麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)「桶狭間は将棋盤」前回コラム「麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)砦は朝露(ちょうろ)の如し」 では、織田軍と今川軍の主な武将たちのこと、松平元康の大高城入城のこと、鷲津砦と丸根砦の戦いのこと、信長の清洲城から熱田神宮への極秘移動のこと、井伊氏と朝比奈氏のこと、三浦春馬さんのことなどについて書きました。今回のコラムは、決戦の日である5月19日の午前9時頃からの動きと、信長の人員配置などについて書きたいと思います。◇19日、熱田神宮から桶狭間へ前回コラムで、5月19日(今の6月12日)の午前4時頃に、今川軍が、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」への攻撃を開始し、午前8時頃には両砦が陥落したこと、それから、信長が早朝に清洲城を出て、午前8時頃には熱田神宮に到着、桶狭間に向けて進軍する準備をしていたことを書きました。〔午前9時頃〕織田軍は、熱田神宮で進軍の準備を行い、おそらく家臣たちに両砦の陥落を伝え、皆で後戻りできない決意を固め、いざ桶狭間に向けて出発しました。伊勢湾の潮の干満時刻はすでに調査済みだったはずです。安全な道を使い、熱田神宮から、まずは「丹下砦(たんげとりで)」に向かいます。* * *おそらく、この日の早朝から、桶狭間周辺にある「丹下砦(たんげ とりで)」、「善照寺砦(ぜんしょうじ とりで)」では、信長の極秘移動の情報が漏れないように、周辺にある、鎌倉街道などの主要街道の往来を遮断していたのではないでしょうか。とにかく沓掛城にいる義元の耳に入らないように、織田方についた沓掛城周辺の村々も協力して、事にあたったと思います。〔午前10時30分頃〕熱田神宮から丹下砦までは、直線で約6kmです。おそらく1時間30分もあれば到着できるはずです。信長は、午前10時30分頃までには、丹下砦に到着したと思われます。信長は、丹下砦を経て、次に「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」に向かいます。丹下砦から善照寺砦までは直線で約1.5kmですから、30分もあれば到着できると思います。* * *一方、今川義元は、沓掛城を午前10時頃には出発し、桶狭間方面に向かったと思われます。松平元康は、大高城に戻った頃かもしれません。今川軍の井伊直盛は、大高城あたりから桶狭間に向かっている最中かもしれません。私の想像では、信長の移動時間帯は、桶狭間での決戦時刻からの逆算もあったでしょうが、今川軍が信長自身を確実に攻撃してこない時間帯を選択したとも感じています。〔午前11時頃〕おそらく、午前11時頃には、信長は、善照寺砦に到着していたと思われます。善照寺砦には、織田軍団の総司令官のような存在である佐久間信盛がいました。おそらく信長は、彼から、鷲津砦、丸根砦、善照寺砦、中島砦、そして鳴海城と沓掛城の今川軍の状況報告を受けたと思います。善照寺砦から中島砦までは、直線で約700mですから、通常であれば10分ほどで行ける距離です。信長は、善照寺砦と中島砦を往復したのか、そのまま中島砦に向かったのかは、はっきりしません。* * *中島砦から桶狭間の義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。この両砦から、義元がいた桶狭間の本陣までは、普段どおりの徒歩(時速4キロ程)であれば、1時間はかからない距離ということになります。馬なら尚早く到着できますね。中島砦から、陥落した織田軍の丸根砦までは、直線で約1.7km(徒歩約25分)です。丸根砦や、大高城南側の織田軍の砦群から、中島砦に兵士が向かっている最中だったと思います。今川義元は、午前11時頃に、桶狭間に到着していたと思われます。上記マップの「C」の地域が桶狭間です。この午前11時頃の今川軍の状況を列挙します。◎今川義元が桶狭間に到着。◎義元は、桶狭間にある寺で昼食。◎義元は、鷲津と丸根の両砦陥落の知らせに、軽くお祝いの酒宴。◎松井宗信や井伊直盛などの遠江国勢が、義元本陣の前の丘あたりに着陣。◎義元本陣の南側あたりに瀬名氏俊が着陣。◎今川軍の三浦義就軍が、手越川の北側の山麓に着陣?◎松平忠政ら多くの武将が義元本陣の周辺あたり(マップ「D」と「E」のあたり)に着陣?* * *この日は、朝から天気が良く、かなり暑かったようです。昼過ぎあたりには、涼しい風が吹き始めたでしょうか。当日の午後は、雹(ひょう)をともなう豪雨が降りますので、典型的なゲリラ豪雨の前兆とも思われます。◇鳴海城周辺の織田軍の三つの砦ここで、前述の織田軍の砦(とりで)について、簡単に説明いたします。鳴海城を取り囲む織田軍の三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)ですが、おそらく、それぞれの役割は大きく違うものと想像します。その建物や周辺地形の構造も、その役割にあわせて異なっていたと思います。〔丹下砦〕丘状の地形の上に砦があり、三砦の中では、もっとも大規模な砦です。もっとも人数を収容できる砦であったと想像します。大きな軍団でも出撃しやすいように、城に近い機能を持っていたのかもしれません。おそらく、いざとなった時の防衛拠点と、さまざまな攻撃の拠点としての機能を持っていたと思います。この砦を担当したのは、水野忠光です。* * *これまでのコラムで、精鋭の特別攻撃部隊である「馬廻衆(うままわりしゅう)」のことを書きましたが、その700名あまりの中でも、「母衣衆(ほろしゅう)」という数十名程度の超エリート部隊のひとりが水野忠光です。まさに織田家有数の武闘派が、この砦を守っていたのです。東方面にある沓掛城からの今川軍の攻撃に対抗するのも、この砦の部隊であっただろうと思います。もし今回の信長の作戦が失敗し、信長が退却や逃亡する場合は、この丹下砦に逃げるしかないような気がします。ここで今川軍を一時でも、とどめさせ、信長を熱田神宮に逃がすしかないであろうと感じます。他の城に逃がすのは、もはや危険すぎると感じます。ただし、そうなった場合、丹下砦の水野一族がどのような態度に出るかは、わかりません。ある意味、織田軍は、水野勢を背にして、今川軍に突っ込むという、ものすごい覚悟の戦法にも見えてきます。信長が、そのリスクに、何かの対策をとったのかどうかは、私にはわかりません。* * *私は個人的に、この丹下砦から、織田軍の一部が別行動をおこしたのではとも感じています。そして、桶狭間の義元本陣への直接攻撃部隊が、次の善照寺砦に向かったのではとも感じています。別行動の話しは後に…。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、丹下砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。丹下砦のページ〔善照寺砦〕丹下砦から善照寺砦までは、南東方向に直線で約1.5kmですから、30分もあれば到着できると思います。丹下砦よりは小規模です。三砦の中では、桶狭間方面、鳴海城、中島砦、手越川沿いなど、この地域の情勢がもっとも見渡せたのかもしれません。善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。桶狭間の谷あいの手前の丘が、この砦から見渡せたと思います。鳴海城までは1kmほどの距離で、実際に、鳴海城との戦闘となると、この砦が攻撃拠点になるものと思われます。ですから、前述の丹下砦とは、役割や砦の構造が異なると思っています。* * *この砦にいたのは、ここまでのコラムで何度も登場する、佐久間信盛と佐久間信辰(弟)の兄弟です。信盛は、織田軍の総司令官的な役割ですから、軍団のナンバー2といっていいのかもしれません。信長よりも、おそらく5~6歳上だったと思われます。信長の幼少期から傍らにおり、織田家内部の騒動の時は、いつも信長を支えてきました。これから大河ドラマ「麒麟がくる」でも、松永久秀や浅井長政がらみの暗躍や、武田信玄や朝倉義景との戦いあたりで、不敵な笑みを浮かべながら登場してくるかもしれません。佐久間信盛は、戦闘も暗躍も器用にこなす武将でしたが、信長相手に増長してはいけませんね。ずっと後に、失脚します。信長は、もう少し彼を手名付けておけば、「本能寺の変」の環境を作り出すこともなかったのかも…。とはいえ、「桶狭間の戦い」では、佐久間信盛と信辰は、前線に向かって進軍し、相当に貢献したのだろうと思います。* * *前回までのコラムの中で、佐久間氏は、もともと今川軍の中の最大級の軍勢のひとりである三浦氏から、鎌倉時代あたりに枝分かれした一族だと書きました。布陣の位置関係からして、この両者が、善照寺砦や中島砦の近くで、激突した可能性もあると思っています。何か遺恨めいた話しでもあったかもしれませんね。佐久間氏は、中島砦周辺に三浦軍をおびき出し、猛烈な攻撃を仕掛けたかもしれませんね…。戦国時代の戦(いくさ)の中では、細かな一族どうしの遺恨の戦いなども、頻繁に起きていました。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、善照寺砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。善照寺砦のページ〔中島砦〕善照寺砦から中島砦は、700メートルあまりの距離ですから、10分ほどで行ける距離です。織田軍は、この砦を、この戦いに備えて大強化しました。中島砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。結果的に、この中島砦と善照寺砦が、桶狭間への攻撃部隊の重要拠点になりますから、その作戦の目的にあわせた中島砦の大改造が行われたのであろうと思います。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、中島寺砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。中島砦のページこの砦の写真のとおり、扇川と手越川(てごしがわ)が合流するあたりに中島砦がありました。特に大きな丘があるわけでもありません。当時は、写真のような高い護岸もありません。川で洪水でもおきたら、真っ先に水につかるような場所です。信長は、この砦の周囲を、深い田んぼや泥湿地で取り囲み、砦にしっかり通じる幅の狭い道が、一本か二本しかありません。おそらくワナを仕掛けた偽装の道もたくさん作ってあったと思います。これは、中島砦からは、西方にある今川軍の鳴海城に攻撃をしないということではないでしょうか…。中島砦に、鳴海城からの兵を近づけさせない、近づいた者たちを討ち取りやすい…そういう構造の砦だったように思います。もともと織田軍には、腕のよい鉄砲隊員がそろっています。今川軍は、すでに織田軍の鉄砲隊に、煮え湯を飲まされています。そこに、この戦いに向けて信長は、近江国の六角氏の兵を数百借りてきています。近江国といえば、鉄砲先進国です。借りてきた兵の中に、鉄砲隊要員もおそらく多くいたであろうと思います。敵からしたら、そうそう近づけない、近づくにも少人数単位でないと近づけない。少人数ということは、討ち取られやすい。相当に危険でやっかいな中島砦ということになります。◇城や砦は使いよう…今川軍の鳴海城を取り囲む三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)ではありますが、私は個人的に、この中島砦は、鳴海城への攻撃機能を、それほど備えていない、桶狭間攻撃作戦に特化させた、最重要前線基地だったのではないかと感じています。むしろ鳴海城の今川軍に攻撃させるための砦と、考えたほうがいいように感じます。鳴海城からしたら、こんな構造の砦にわざわざ攻撃をしかけ、討ち取られたら無駄死にです。鳴海城から、もし攻撃をしかけるなら、善照寺砦のほうです。鳴海城の今川軍が、軽々に、中島砦に攻撃をかけようものなら、善照寺砦から鳴海城に猛攻撃を仕掛けたはずです。この両砦と、その背景に丹下砦があるだけで、鳴海城の今川軍は手も足も出せない気がします。今川本軍からの援軍が来てくれなければ、この鳴海城は、まったく動けない、ただの「今川の動かない城」だったと思います。* * *次回以降のコラムで書きますが、信長は兵たちに、「攻めては引き、引いては攻めろ」という指示を出します。状況によっては、中島砦は、引いてくる兵が戻る場所でもあったと思います。そこで、体制を整えたり、武器を補充し、また前線に向かう…。そんな役割が、この中島砦にあった気がします。砦とは、単純に、敵の城を取り囲んだり、攻撃待機の場所であればいいというものでもありませんね。城以上に、砦は、戦いの場面で活躍する、重要な存在でした。さすが、戦闘上手で、経験豊富な信長だと感じます。信長と義元のこの差は、どうにも埋められない巨大な堀だと感じますね。戦争において、城や砦を拠点と考えるのか、作戦に利用するものと考えるのか…、もちろん信長は後者の思想でした。* * *中島砦は、鳴海城からの攻撃を受けずに、桶狭間に兵士を送り出す最前線基地として改造されたように感じています。そして、もし桶狭間で、義元本軍が攻撃を受けていることを知り、鳴海城から今川軍が無理に援軍に向かう場合であっても、手越川あたりを直線的に進軍されないように、そこに立ちふさがるのが中島砦です。* * *善照寺砦の南東方向の丘に、今川軍の三浦氏の軍勢がいた可能性も否定できませんので、善照寺砦や中島砦のすぐ近くでも大きな戦闘があった可能性も十分に考えられます。善照寺砦が不利となれば、前述の丹下砦から織田軍の加勢がやって来た可能性もあります。いずれにしても、中島砦の重要な役割は、桶狭間攻撃部隊を桶狭間に送り出すことであったように思っています。* * *この砦を守っていたのは、梶川高秀(かじかわ たかひで)です。この戦いの時は、あの策略家の水野信元の家臣です。後に、佐久間信盛の家臣になります。梶川一族は、水野家だけでなく、もともと織田家ともつながりが深く、両家をつなげる役目も担っていたのかもしれません。いってみれば、梶川一族も、織田氏と水野氏を両天秤にかけていたわけです。このような人間を、中間位置で重要な中島砦に配備するとは、非常によい人選だと思われます。梶川は立場的に、どう考えても織田氏を裏切りません。信長の人員配置の上手さが、ここでも光っていると感じます。〔鳴海城〕ここで、鳴海城のことを簡単に書きます。以前のコラムで、織田氏の配下から、今川氏に寝返って、後に今川氏に滅ぼされた、鳴海城主の山口教継(やまぐち のりつぐ)のことは書きました。その後、今川義元は、鳴海城主に、義元の家臣の岡部元信をつけます。「桶狭間の戦い」の直後に、この岡部元信が、ある役割を果たします。この話しは後で…。アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、鳴海城の紹介ページです。どうぞご覧ください。鳴海城のページ◇三砦連携の攻撃先ほど、中島砦から攻撃部隊を送り出すと書きました。実は、その後の信長を戦いを見てもわかりますが、信長は、自身が戦場のどの位置にいるのかを敵にしっかり把握されないように、かく乱させるような戦術をよく使います。偽装の本陣を設置したり、本人自身が動きまわるのです。その戦場に来ているふりをして、来ていないこともあります。* * *この戦いでも、信長軍をいくつかの攻撃部隊に分け、中島砦と善照寺砦の両方から、各攻撃部隊をバラバラに桶狭間に向かわせたという説があります。信長自身も、敵から明確に位置や存在が悟られないように、桶狭間に向かった可能性もあります。まさにゲリラ戦そのものですね。今川軍からしたら、今、目の前にいるのは誰だかわからずに、戦ったのかもしれません。今川軍からしたら、相手がどの武将の軍かわからず、さらに、そこが泥湿地で、そこにゲリラ豪雨がきて、雨の中にもかかわらず、どこからか鉄砲隊が銃撃してくるとなったら、大混乱は避けられませんね。今川軍の兵士たちは、どこに織田軍の兵のかたまりがいるのか、さっぱりわからない状況になった可能性もあります。今も昔も、敵がどこから攻撃してくるのかわからない「ゲリラ戦術」というのは、恐怖の極みですね。まさにテロリストの攻撃スタイルです。◇信長の見事な人員配置ここまでのコラムで書いてきましたが、三河国の水野忠政の次男で、三河国の水野氏の本家筋を継いだのが、今回の戦いの陰謀の主役のひとりの水野信元でした。もちろん信元は、今回は織田方の重要な武将です。* * *水野信元と、前述の丹下砦の水野忠光の両者は、この尾張国や三河国の地域で、織田、松平に次ぐ大豪族の「水野一族」です。水野一族は多くの家に分かれていきましたが、元をたどれば皆同じ一族といえます。水野一族は、実際に江戸時代になると、江戸幕府の中核を担い、尾張三河地域だけでなく、日本全国に勢力を広げる、ある意味、松平家に匹敵する一族です。水野一族から、特定の天下の覇者が生まれなかっただけで、見方によっては、水野一族は、天下を陰でとったといってもいいのかもしれませんね。いろいろな時代劇ドラマでも、「水野〇〇」はやたらに登場しますよね。* * *この戦いで使用された重要な砦(丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津)は、織田一族と水野一族、軍団の総司令官的役割の佐久間氏でかためたといっていいと思います。織田氏と水野氏のあいだに、信長の信頼の厚い佐久間氏を、絶妙な位置にはさむあたりが、信長の人扱いの上手さですね。織田軍内部での、水野氏と佐久間氏のライバル関係は、この後、また別の動きを生んでいきますが、それはおいおい…。織田氏と水野氏の関係性を考えると、完全な信長家臣である佐久間氏と、水野氏が「ライバル関係」というのは少し表現が正確ではないかもしれません。◇「袋のネズミ」作戦今回のこの桶狭間周辺地域を見渡しますと、鳴海城周辺を水野勢(丹下砦の水野忠光)と佐久間勢(善照寺砦の佐久間信盛)でかため、そして、大高城周辺を水野勢(水野信元)と佐久間勢、織田一族でかためたといっていいと思います。大高城周辺には、加えて松平勢を入れます。そして、中間の位置にある中島砦を守るのは水野勢(水野信元の家臣の梶川高秀)です。桶狭間に突っ込むのは、織田家の主要家臣団と特別攻撃隊を含む織田勢と佐久間勢が主体です。織田軍の、桶狭間への攻撃部隊の最重要拠点となるのは、中島砦と善照寺砦です。上記マップの中央部の「C、D、E」の地域に向かう赤色矢印が、その部隊の進軍方向です。* * *大高城周辺の北東部にあった鷲津砦と丸根砦は、最初から戦闘を想定した規模の整備をしたと思いますが、大高城南側の三砦(向山・正光寺・氷上)は戦闘を想定したものではなく、暗躍の拠点として、それほどの人数を置かない、見せかけの砦であったのだろうと思っています。私の個人的な見解ですが、この南側三砦にいた織田軍(水野勢)は少数だったかもしれませんが、戦いのある段階で、桶狭間に向かったのではとも感じています。桶狭間の南側の脱出ルートをふさぐためです。マップの最下部の赤色矢印です。* * *織田軍の陰謀暗躍部隊は、織田家随一の策略家の簗田政綱、斎藤家から織田家に来た道三ゆずりの暗躍者の蜂須賀小六、三河国一の策略家の水野信元、そして今川軍の中で陰謀をはりめぐらせていたであろう(?)瀬名氏俊。鬼のような「大陰謀軍団」が形成されていたのではと思っています。名付けて、「桶狭間の暗躍四天王」でしょうか…。そして、この戦いのもっとも激戦の時間帯に、彼らがいた場所は、まったくわかりません。* * *柴田勝家や林秀貞など、かつて信長の弟の信勝(信行)側にいて、信長側に後に入って来た者たちにも、信長は、何かのチャンスを与えたであろうと思っています。戦功などの評価などなくても、信長の信用さえ得られれば、それでよかったのではないでしょうか…。信長は、彼ら古参の家臣には、作戦の詳細は教えていなかったと思います。またまた私の個人的な見解ですが、特に柴田勝家あたりは、どの場所にいたのか…、どんな働きをしたのか…、まったくわかっていませんが、ひょっとしたら、善照寺砦か丹下砦あたりから、織田本軍と別れ、桶狭間方面を別ルートで目指したのではとも感じています。丹下か善照寺のいずれかの砦から、東に向かい、上記マップの「D」の地域の北側あたりから桶狭間に向かったということはないでしょうか…。このルートでしたら、沓掛城から、もし今川軍が加勢に来ても、立ちふさがることもできます。ただ、一番の役割は、桶狭間の北側の脱出ルートをふさぐことだったかもしれません。これで、前述したとおり、桶狭間の南側の脱出ルートは水野勢がおさえ、北側の脱出ルートもおさえられます。桶狭間の西側は、織田勢が大量にいる中島砦方面ですので、脱出ルートにはなりません。東側の山ですが、かなり困難だとは思いますが、義元は少数でなら脱出できるかもしれません。ただここを越えたら、すでに織田方の手が回った沓掛周辺の村々のすぐ近くです。蜂須賀小六あたりが待ち構えていたかもしれません。いずれにしても、信長のことですから、義元の脱出ルートは、すべておさえたのではないだろうかと感じています。まさに、今川義元本軍は「袋のネズミ」状態にされたのかもしれません。しかも、鳴海城は丹下砦・善照寺・中島砦がおさえています。大高城は、松平勢がおさえています。沓掛城は、情報遮断と周辺地域の暗躍集団がおさえています。どこからも、義元を助けに来ることができない状況です。桶狭間の中で、右往左往する今川軍だったのかもしれません。こんな危険な真っ只中に、瀬名氏俊がいるはずはないと思います。* * *私は、この作戦を実行するために、各役割を担った織田軍の武将たちが、それぞれ完璧な配備についたと感じています。松平元康も、ある程度までは知っていたはずです。なにしろ、事が終わったら、すぐに大高城を脱出しなければいけないのですから…。水野信元も、大高城から、そう遠くない場所にいたはずです。◇人選び先ほど、私は、「信長は、柴田勝家や林秀貞などの古参の家臣には、作戦の詳細は教えていなかっただろう」と書きました。私が思いますに、経験を積んだ古参の家臣たちであったなら、なおさら、これほど無茶な作戦に賛同したとは思えません。彼らは、こんな壮大な陰謀など上手くいくはずがないと感じただろうと思います。信長が討ち取られても、すぐに織田家滅亡にはならない状況ではあったにせよ、織田家の中に、信長に代わるすぐれた統率者はいません。信長が死ねば、後々、織田家滅亡は見えています。古参の家臣なら、織田家が今川家の配下に入る選択もよしと考えたかもしれませんし、自身たちも、今川氏に寝返ることもできます。信長は、今回の作戦の主要メンバーを選ぶにあたって、そのような考えを持つことがないであろう…、そのような手段をとれないであろう…、そんな若い世代や状況の家臣を選んだ可能性もあると感じています。いずれにしても、信長が、この作戦に、織田家の命運を賭けたのは間違いないと思います。作戦の成否は、誰が行うのかも、非常に重要な要因となりますね。◇特殊戦闘員たち人員配置の話しに戻りますと、桶狭間突撃要員として、近江国の六角氏から借りてきた兵士数百は、主にゲリラ戦のエキスパートたちだったと思います。鉄砲先進国の近江国からは、鉄砲戦術に長けた者たちもやって来たと思います。しっかり、豪雨の中でも、大きな煙をあげながら、銃をぶっ放しています。もはや、「そんじょそこら」の鉄砲隊ではありませんね。* * *とにかく、今回の戦闘の勝敗は、桶狭間に突っ込む、特別攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」にかかっていたのではと感じています。「馬廻衆」、さらに精鋭数十名の「母衣衆(ほろしゅう)」…、どちらも内部で、ものすごいライバル関係、競争関係が起きていたかもしれません。まして彼らは、古参の家臣たち、借りものの他国兵に負けるわけにはいきません。この特別攻撃部隊は、今でいえば、高校野球や大学野球の球児たちのような年齢が大半だったでしょうから、若武者たちの燃えるような気迫は、ものすごかったのかもしれませんね。◇殺気と迫力の布陣こうした、信長の見事な人員配置には感動します。陰謀あり、義理人情あり、姻戚関係あり、ライバル関係あり、バランスあり、闘争本能あり、ベテラン心理あり…。そして古将たちには最期の場所を…泣きの感動場面まで…、それにより軍団に最大の士気アップを…。人数で劣勢の織田勢でしたが、これなら烏合の衆のような敵の大軍には負けない気がしてきます。それよりなにより、この人員配置は、信長自身のものすごい覚悟と、殺気、迫力に満ち満ちています。* * *この戦いを、よくよく見ると、織田・水野・松平連合軍が、今川軍を撃破したといっても過言ではないのかもしれませんね。◇宗桂と聡太さん先頃、将棋の棋士の藤井聡太(ふじい そうた)さんが、渡辺明棋士を破って、「棋聖」の称号を手にしましたね。藤井さんのその時の年齢は満17歳…、ちょうど「桶狭間の戦い」の時の、松平元康と同じ年齢です。藤井聡太さんの出身地は、愛知県瀬戸市です。「桶狭間の戦い」が起きたのは、愛知県の名古屋市と豊明市をまたぐ地域です。瀬戸市とは、すぐ近くで、ほぼ同じ地域といっていいかもしれません。* * *将棋というゲームは、対戦相手から奪い取った駒を、自分の駒として再利用するという、世界でもめずらしいゲームですね。まさに戦国時代の武将の行動と同じです。敵軍にいる邪魔な武将、欲しい武将を寝返らせ、自軍に取り込み、戦場で利用するのです。将棋に詳しい、その筋の方のお話しを聞いていますと、藤井さんのこの時の戦い方は、将棋の駒である「桂馬(けいま)」を空中戦のように飛び回らせ、そこらじゅうから猛攻撃を仕掛けたようです。鉄砲隊である「飛車・角」も、猛攻撃をかけていたようです。最終局面あたりでの、対戦相手である渡辺棋士の言葉「桂馬か~」は、耳に残りましたね。「桶狭間の戦い」の信長の戦術にも、通じるものがあったのでしょうか…?* * *戦国武将たちも、子供の頃から、将棋や囲碁で、戦の戦術を学んでいきました。もちろん、信長も将棋好きだったようです。実は、信長の将棋相手に、「大橋宗桂(おおはし そうけい)」(初代)という将棋名人がいたのですが、彼こそ、将棋の駒の「桂馬」の名手であったそうです。あまりの「桂馬」使いの上手さと将棋の強さに、信長は彼に「宗桂」という名前に改名させたという逸話が残っています。真偽はわかってはいません。宗桂は、豊臣家でも徳川家でも、重要な立場として、将棋をさしていたようです。「宗桂」と「聡太」…、まさかの生まれかわり…?それなら、彼の強さを納得できます。将棋盤に並んだ駒の布陣…、それはまさに戦国武将の戦場での布陣にそっくりです。騎馬軍団に、槍隊に、歩兵部隊に、左右に鉄砲隊…。桶狭間って…、「将棋盤」だったのですね。* * *今回も、アメーバブログの「S.Settu(斎藤摂津守)様」にご協力いただきました。深く感謝申し上げます。次回コラムは、昼頃からの桶狭間での大激突のお話しの前に、この戦いの勝敗の決め手となった「大陰謀」のことを、大推論で書いてみたいと思っています。コラム「麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)陰謀網」につづく『麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)「陰謀網」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の大陰謀。複雑な人間関係の今川軍。武田軍崩壊の陰謀。対抗勢力の恐ろしさ。桶狭間の謎…ameblo.jp2020.7.25 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 19Jul
      • 麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)「砦は朝露の如し」の画像

        麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)「砦は朝露の如し」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍と今川軍の主な武将。元康の大高城入城。鷲津砦と丸根砦の戦い。清洲城から熱田神宮へ極秘移動。人生朝露の如し。井伊氏と朝比奈氏。三国の思惑。奥津城。三浦春馬さん。麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)「砦(とりで)は朝露(ちょうろ)の如し」前回コラム「麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)魔王信長」では、信長と義元の作戦と戦術、信長の陰謀と暗躍、革命児信長が起こす奇跡、戦国武将の戦いの思想、第六天魔王、簗田政綱などについて書きました。今回のコラムからは、いよいよ決戦日5月19日の戦況を中心に書いていきます。前回コラムでも述べましたが、この「桶狭間の戦い」は隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。とにかく、史料は多くありますが、かなり食い違う内容も多くあります。よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。特に、戦国時代から江戸時代にかけての史料は、徳川家の検閲でもあったのかと思わせるほど、徳川寄りにも見えてきます。おそらく江戸幕府に都合の悪い内容は、削除、修正、加筆がかなり行われた気がします。幕府の命令であったり、著者自身による「忖度(そんたく)」や「保身」の影響もかなりあったのかもしれません。前回までのコラムでも書きましたが、歴史は、あるべきものがない、ないはずのものがある、ことさら強調されている、内容の方向性をいきなり変更するなどの行為が感じられるところに、その本質が隠されていたりします。やはり、第三者を含めた、三つくらいの史料で、同じ内容が残っていなければ、真実とは言えないのかもしれませんね。江戸幕府だけが言っているような内容は、特に鵜呑みにはできません。「桶狭間の戦い」の史料は、その最たる例だと思っています。松平氏、水野氏に都合の悪い内容は、すべて削除されている気がしてなりません。改ざん、捏造、消去…、現代でもまったく同じですよね。いつの時代も、統治とはそうしたもの…。大いなる推論を進めたいと思います。* * *織田、今川の両軍の兵力の規模については、史料により、まったく違います。今川軍の兵数では、1万人程度から、5万人程度まであります。織田軍の兵数も、2000人程度から、6000人以上まであります。「桶狭間の戦い」の範囲を、沓掛城や岡崎周辺、尾張国内などを除き、鳴海城・大高城・桶狭間周辺に限った場合は、はたして何人対何人の対決だったのか、はっきりしません。作戦内容も含めて、ある程度の推論を仮定して、戦いを推測しないと話しが進みません。一応、大河ドラマは、史実に限りなく近いであろう内容や、推測の可能性が高くても定説となっているような内容は、そのまま描くことが多く、判明できていない部分については、ドラマ性を盛り込んで創作していきますので、本コラムも、一応、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容に則して、話しを進めたいと思います。まずは、両軍の武将と兵数です。兵数は、大河ドラマ「麒麟がくる」サイト内の、「トリセツ(取り扱い説明書)」をご紹介します。◇織田軍の主な武将と兵数織田軍総勢…3000名〔鳴海城周辺〕…約1700名?丹下砦:水野忠光善照寺砦:佐久間信盛・佐久間信辰中島砦:梶川高秀・梶川一秀〔大高城周辺〕…約400名?鷲津砦:織田秀敏・飯尾定宗丸根砦:佐久間盛重正光寺砦:佐々政次向山砦:水野信元?氷上砦:千秋季忠?〔織田譜代衆〕…代々の家臣の武家柴田勝家・林秀貞千秋・毛利・佐々・内藤・平手・飯尾ほか〔旗本〕…大将周辺にいる主要で重要な家臣、将軍直参の格式ある武将簗田正綱・森可成・池田恒興らの兵、約200名?〔先鋒攻撃隊〕千秋四郎・佐々政次らの兵、約200名?〔川並衆〕…沓掛城潜入組蜂須賀小六前野将右衛門〔小姓〕…信長の身辺雑用係岩室・長谷川・佐藤・山口・賀藤ら5名〔馬廻衆〕…特別突撃兵佐々成政・河尻秀隆・金森長近・毛利新介・服部一忠・前田利家・津田盛月・浅井政貞ほか、約500名?*後に、続々と有名な馬廻衆が加わります。最盛期に700名あまりいたとも…。〔他国より〕近江国の六角氏よりの貸与兵が数百* * *軍団の総司令官的役割…佐久間信盛桶狭間攻撃作戦の立案者・管理者…簗田政綱* * *大河ドラマの「トリセツ」には、織田軍が総勢3000名あまりとしか書かれていませんので、一応、内訳を想像してざくっと書いてみました。総勢4000名程度という説も多くあります。特別突撃隊「馬廻衆(うままわりしゅう)は、最盛期に700名近くいたともいわれています。尾張国に置いてきた兵もいたでしょうし、この頃の織田軍の兵力から考えると、3~4000名でもやっとのような気がします。◇今川軍の主な武将と兵数あくまで、大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、信長が予想した今川軍の兵数です。今川軍総勢…14000名内訳は今川本軍…約7000名鳴海城守備および援軍…約3000名鷲津砦攻撃部隊…約2000名丸根砦攻撃部隊…約2000名大河ドラマの「トリセツ」にも、この兵数しか書かれていません。* * *実際の今川軍には、大河ドラマの中に登場してきた武将もいれば、いない武将もたくさんいます。「今川本軍」の中にいたであろう武将たちの、主な名前を下記に書きます。今川軍では、相当な数の有力武将が討ち死にしますが、多くが最期の状況や場所がわかっていません。武将たちの生死も表記しました。* * *今川軍総数14000名。〔大高城周辺〕◎鷲津砦攻撃部隊:朝比奈泰朝(生還)・本多忠勝(生還)ら約2000名◎丸根砦攻撃部隊:松平元康(生還)・石川家成(生還)・酒井忠次(生還)ら約2000名◎大高城主…鵜殿長照(生還)〔鳴海城守備および援軍〕…約3000名?◎鳴海城主…岡部元信(生還)◎三浦義就(討死)が援軍のはずだったのか?〔今川本軍〕…約7000名◎今川軍の先鋒隊・本陣設営…瀬名氏俊(生還)◎遠江勢…松井宗信(討死)、井伊直盛(討死)他に、朝比奈親徳(生還)…大河ドラマでは、義元の最期を見届けましたね。史実では、義元最期の場におらず帰還したともいわれています。関口親永(生還)、庵原忠縁(生還)。討死は、今川義元(討死)、久野元宗(千秋季忠を討ち取るが、その後討死)、松平忠政(討死)、蒲原氏徳(討死)、由比正信(討死)、久野氏忠(討死)、一宮宗是(討死)、長谷川元長(討死)ら多数。不明は、飯尾乗連(?)、庵原元政(?)ほか。* * *鳴海城や大高城周辺では、誰ひとり討ち死にした今川軍の有力武将はいなかったと思われます。今川軍の瀬名氏と朝比奈氏は、なぜか生還していますね。生還者の謎を探れば、何かの真相にたどりつくような気もしないではないですね。多くの今川の武将たちが、どこで戦って、どこで最期をむかえたのでしょう…。義元の作戦を考える上では、かなり重要なことだとは思いますが、敗軍側には詳しい内容が残りませんね。遠江(とおとうみ)勢の松井宗信や井伊直盛あたりしか、どのあたりの場所に陣をはったのか、わかっていないのです。今回、信長が、家臣たちに対して、敵将たちの首を斬り取らずに、次の敵に向かうように命令を出したこともあり、重要な今川の家臣たちの最期の状況がほとんどわかっていません。ひょっとしたら、織田軍の兵たちは、敵が誰かもわからないまま、知ろうともせず、次々に倒していったのでしょうか…。おそらく各武将の周囲には、かれらの腹心の部下もたくさんいたでしょう。通常の戦であれば、たいていの武将の最期の場所くらいは、誰かが記録として残しますが、みな一度に討ち取られたため、誰も、記録に残す者がいなかったのかもしれません。相当に壮絶な戦いだったのだろうと思います。◇18日夜、元康は大高城へさて、決戦日5月19日の前日である、18日の夜、今川軍の松平元康軍が、大高城に兵糧(食糧)を運び込みます。大高城主は、鵜殿長照(うどの ながてる)です。長照の生母は、今川義元の妹です。この後、大高城の守備は、長照から元康に交代したとありますが、本当の話しでしょうか?元康が、事実上、大高城を乗っ取った?「桶狭間の戦い」後に、鵜殿一族は、今川派と松平派に分かれます。長照は、いずれ元康に滅ぼされます。〔大高城〕大高城は東西約106メートル、南北32メートルで、二重の堀があったそうです。小高い丘の上にあり、当時は海がすぐ近くで、満潮時には城域の一部が海に囲まれたようです。今は大高の街が一望できます。川を挟んで対岸に、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」が、よく見えます。今は、この地域の桜の名所になっているようですね。460年ほど前に、この小さな丘の城が、大戦争が始まるきっかけになったのです。やはり家康の歴史がからむ城跡は、しっかり残るものですね。* * *アメーバブログ内の、チェリーブロッサム様の「大高城の紹介ページ」に、桜の大高城の写真が掲載されています。どうぞご覧ください。歴史のページをめくるような大きな戦いの、きっかけとなった城とは思えない、のんびりとした光景がそこにあります。今、この地域には、大高城、鷲津砦、丸根砦の3か所が、ワンセットのように、史跡としてしっかり残されています。歴史の大切な遺産として、また、徳川の武士にとっては、家康とつながる、大切な聖地のひとつとして守られていたのだろうと思います。現代の私たちも、しっかり受け継ぎたいものです。◇何やら渦巻く大高城さて、ほぼ元康の入城と同じタイミングで、朝比奈泰朝(あさひな やすとも)の軍、井伊直盛(いい なおもり)の軍が、大高城周辺に着陣し、戦闘準備をしたと思われます。大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、元康の台詞にこのようなものがありましたね。「ここ(大高城)にまいる途中、奇妙なことがございました。織田方の砦の近くを通った折、砦の見張り数人に気づかれたように思いましたが、矢の一本も飛んでまいりません。拍子抜けするほど、やすやすと通り抜けて来られました。まるで敵に、見て見ぬふりをされたような…」。* * *今回のコラムでは、信長と元康が、すでに手を組んでいるという前提で話しを書いています。大河ドラマ「麒麟がくる」では、そのように断定はしていません。* * *内通しているという前提に立つと、こうした状況は、おそらく、信長が元康に対して、自分への信頼度を示す目的もあったとも考えられます。もちろん、信長からしたら、これから始まる作戦のまだ序章です。元康から見れば、信長への信用のハードルをひとつ越えたのかもしれませんね。とはいえ、時は戦国時代です。信長がいつ、元康との約束を破るかはわかりませんね。ただ、ここで、こんな不利な状況にもかかわらず、信長は、本気で義元と戦う腹だと、元康は感じたかもしれません。三河勢が信長側につけば、この奇跡を起こせるかもしれないと、元康も本気で思ったかもしれませんね。大河ドラマの中では、その話しを聞いた鵜殿長照は、大きな誤りを…。長照は、この戦いの後、元康に討たれます。* * *大河ドラマでは、ちょうど、その夜の同じ頃に、尾張の清洲城の信長が、簗田政綱(やなだ まさつな)から、元康が大高城に入ったことを聞きます。そして信長は、政綱に、義元が桶狭間を通過して、大高城に向かうことを確認します。前回までのコラムでも書きましたが、私は個人的に、政綱が、桶狭間に、義元本陣を設置させる陰謀を企てたと思っています今川軍の瀬名氏俊(せな うじとし)を、織田方に寝返らせ、そのような作戦を仕組んだのではと感じています。瀬名氏俊のことは、またあらためて…。実は、それ以上のことも…?大河ドラマでは、義元が、あくまで大高城に向かう途中に、桶狭間を通過するという設定でした。そして、大河ドラマでは、元康が、織田方の三河勢である水野信元の間者(忍び)の菊丸と、大高城内で密会します。そこで、菊丸が、元康に、織田方に味方するように説得するのです。上記マップの青色の城が今川方です。赤色の城や砦(とりで)が織田方です。薄茶色の部分は、標高100メートル程度までの小さな山や丘です。◇怪しげな大高城南側の砦実際に、大高城の南側にも、織田軍の砦がいくつかあったといわれています。大高城の北東側にあったのが、「鷲津砦」と「丸根砦」です。南側には、「向山砦(むかいやまとりで)」、「正光寺砦(しょうこうじとりで)」、「氷上砦(ひかみとりで)」などがあったとされています。中でも、大高城とは目と鼻の先の「向山砦」には、水野信元がいたといわれています。この18日の夜に、大高城の元康と連絡を取り合っても不思議はありませんね。おそらく、義元が打ち取られた後に、元康と信元は、手に手をとって?…ふるさと三河へ…。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。向山砦正光寺砦氷上砦* * *このあたりから、水野信元は、この戦いの中で、どこにいたのか、どこに向かったのか、よくわからなくなります。他の二つの砦にいたであろう、千秋李忠(せんしゅう すえただ)と佐々正次(ささ まさつぐ)は、19日の昼頃には、中島砦あたりに戻って来たと思われます。千秋と佐々の話しは、あらためて…。◇渦巻く、三国の思惑大高城の南側にあった砦は、かなり怪しい存在ですね。そもそも、なぜ今川軍は、北東側にある織田軍の砦しか攻撃しなかったのか…?織田軍と今川軍の、両方からの陰謀が交錯していた可能性もあります。今回のコラムは、一応、松平元康らの三河勢が信長についたと想定して書いていますが、三河勢は最初から、両にらみで、状況にあわせて、どちらにも味方できるようにしていた可能性もあります。もちろん三河勢は、どちらでも勝利者側の中で生き残れれば最高の結果です。信長の作戦が上手くいく保証はありません。今回の戦いの戦場を、よくよく見ると、「尾張 vs. 駿河 vs. 三河」でもあるのです。実は、連携する組み合わせは、いくつもあったのです。ただ、元康にとっては、信長と組むほうが、後々、利は大きいと感じます。信長と元康は、そのあたりも相談したかもしれません。私は思います。「桶狭間の戦い」の前半は頭脳戦、後半はものすごい肉弾戦…だと。◇信長の顔見せ作戦大河ドラマでは、ちょうど同じ日の18日の昼、信長が家臣たちを清洲城に集めて、軍議を行うシーンが描かれました。史実でも、実際に軍議があり、集めただけで、大した軍議を行っていません。大河ドラマでは、家臣たちが、ああでもない、こうでもないと意見を言い合いながら、軍議は空転していましたね。私の想像では、実際は、そんなことすらしていないと思います。家臣たちを集めて、彼らの顔色を見ただけ…、いや信長の顔を家臣に見せただけなのかもしれません。ですが、その意味は絶大だったと思います。* * *もちろん、城内に今川のスパイが潜り込んでいることを想定して、軍議を開催したものであったと思います。私は、この軍議の開催目的は、信長が18日に清洲城にいることを、今川義元に知らせることだったと感じています。アホな今川軍のスパイが、見たままを、そのまま伝えたのかもしれませんね。この時点で、真剣な作戦会議を行うはずがありません。作戦機密の漏洩防止のために、まともな軍議を行わなかったのではなく、信長が桶狭間からはるか遠くの清洲城に18日に滞在していることを、敵に知らせることこそが、信長の作戦であったと、私は思っています。「信長は、やはり清洲城に籠城(ろうじょう)する腹ではないか」と、今川軍に少しでも思わせるのが目的だったと思います。敵が、そう思わなくても、その情報を伝えるだけで十分ですね。◇19日早朝、両砦を攻撃1560年5月19日(今の6月12日)の、午前3時頃…、まだかなり暗い時間帯だと思われますが、小高い丘の上にある、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻撃する動きが、今川軍で始まったようです。午前4時頃になれば、あたりが薄明るくなり、攻撃可能となると思います。〔午前4時頃〕丸根砦には、今川軍の松平元康・石川家成・酒井忠次ら約2000名で攻撃が開始されます。鷲津砦には、今川軍の朝比奈泰朝・本多忠勝・井伊直盛ら約2000名で攻撃が開始されます。これだけ近い距離の両砦ですから、両砦がつながる道もつくってあったでしょう。ほぼ同時に、両砦の攻撃が開始されたのではないでしょうか。* * *おそらくこの頃に、清洲城の信長が起床したと思います。すでに、前夜のうちに、元康が大高城に入城したことは知っていたはずで、19日早朝からの両砦への攻撃もわかっていたことだと思います。信長は、そろそろ両砦が攻撃をされ始めたであろうと思いながら、起床したのではないでしょうか…。信長は、覚悟の「敦盛(あつもり)」を舞い、ほら貝を吹かせ、立ったまま湯漬けを食べたと残っています。現代人が、勝負の前に好きな音楽を聴いて、いざ出発するのと同じかもしれませんね。〔午前5時頃〕信長は、5人の小姓と、数百の兵とともに、清洲城を出発し、熱田神宮に向かいます。極秘の超スピード移動だったはずです。信長は、熱田神宮を軍事拠点として強化し、すでに武具や武器を集めておいたと思われます。尾張国内に散在する家臣たちにも、定刻に、熱田神宮に集合するように伝えてあったはずです。熱田神宮は、織田軍の兵士たちが集合する「軍事基地」であったと思われます。とにかく重い武具を持たずに、身ひとつの超スピード移動で、熱田神宮に集まるシステムをつくってあったのだと思います。清洲城から熱田神宮までは、直線距離で12km。時速4キロで移動したとしても、午前8時には熱田神宮に到着したと思います。すべては、桶狭間のあの時刻から逆算した、時刻だったはずです。青色矢印は、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍したであろうルートです。信長は、マップの上の方向(北)から、「熱田神宮」までやって来ました。当時は、マップの電車線路あたりに海岸線がありました。◇鷲津砦の戦い大高城から北東約700メール先にある、小さな丘の上に、「鷲津砦(わしづとりで)」があります。この砦の主である織田秀敏(おだ ひでとし)は、信長の大叔父(信長の祖父母の兄弟)です。織田一族の中心的長老として、信長を支えていました。尾張国の「愛知郡」の地域をおさめていました。後に愛知県の県名のもとになる地域です。愛知郡の中村という里で、秀吉は、この時すでに生まれています。家臣の飯尾定宗(いいお さだむね)は、前述の織田秀敏の兄弟か親戚だったといわれています。定宗の子の尚清(ひさきよ)も、同じ砦にいましたが、逃げ延び、その後、信長の馬廻衆となります。* * *秀敏と定宗は、織田一族の中で、信長を支え、彼に、この戦いの勝利と、一族の未来を託して、あえて散っていったのだと思います。鷲津砦に織田家の人間を置かずに、他の家臣たちに示しがつきませんね。二人のその時の年齢はわかりませんが、最期の場所を一大決戦の中に決めたのかもしれません。この場所なら、名誉と名を残せると…。松平元康が、鷲津砦ではなく、もう一方の丸根砦のほうを攻撃したのは、何かの理由があったとは思います。後々の、織田家と松平家の関係性を考慮したのでしょうか…。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、鷲津砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。鷲津砦◇丸根砦の戦い一方、丸根砦の主である佐久間盛重(さくま もりしげ)は、信長の弟の信勝(信行)の家臣でしたが、信長と信勝が争った際に、同じ一族の佐久間信盛(さくま のぶもり)とともに、信長側についた数少ない武将です。佐久間氏は、鎌倉時代までさかのぼると、今川家の家臣の三浦氏から枝分かれした一族のようです。何の因果か、かなり時代は経っていますが、今回は三浦氏とは敵対関係です。この戦いのどこかの戦場で、佐久間信盛と三浦義就(みうら よしなり)が直接対決した可能性も十分にあると私は思っています。何か記録でも残っていれば、ドラマの中で「相手に不足なし…、決着をつけてやる」とかの台詞で、名シーンになったのかもしれませんね。* * *さて、そんな佐久間氏ですが、同じ織田軍でも、かつて弟の信勝側にいた柴田勝家や林秀貞とは、過去のいきさつからして、微妙な関係にありますね。信長は、かつての信勝派の家臣ではなく、特に信頼の厚い佐久間盛重を、重要な前線の砦に送ったといえます。佐久間信盛のほうは、織田軍の実質的な軍団の総司令官的な役割で、最重要の「善照砦(ぜんしょうじとりで)」に配置しています。佐久間盛重も、前述の織田秀敏と飯尾定宗のように、丸根砦を、名誉の最期の場所と決めたのでしょうか。盛重の子孫たちは、奥山氏となっていき、豊臣方にいく者、徳川方にいく者などに分かれて、歴史の大きな場面に遭遇していきます。後に、佐久間一族の再興にもつくしたようです。佐久間一族も、織田一族と同じように、戦国時代の壮絶な荒波に流されながらも、逆境にチカラ強く立ち向かう…、そんな一族でしたね。* * *アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、丸根砦の紹介ページです。どうぞご覧ください。丸根砦◇玉砕作戦この両砦の陥落は、信長の計算通りの結果だったはずです。兵力の差は歴然ですし、砦から脱出し、北方にある中島砦あたりに逃げ、それを今川軍がもし追ってきたら、信長の作戦が水の泡になってしまいます。はじめから、逃亡を勝利もない、陥落が狙いの戦いだったと思います。おそらく砦の責任者だけには、伝えてあったはずです。なんとも悲運な両砦です。砦の軍団の集団退却もさせることができない「玉砕(ぎょくさい)作戦」です。もう、信長に引き返すことは許されない段階まで、戦いは進んできました。* * *この両砦で散っていった武将たちは、悲運といいながらも、その名を歴史にしっかり残していった、まさに「散り際(ちりぎわ)」をしっかり見定めた戦国武将たちだったと思います。信長や、織田軍の他の家臣たちが、こうした覚悟を理解できなかったはずはないと思います。一方、今川軍には、軍団全体に、こうした心理的に大きく作用するような出来事が起きませんでした。これは、兵たちの、戦いへのモチベーションに大きく影響したであろうと感じます。* * *一方、大高城の南側の砦にいた織田軍の武将たち…、 正光寺砦の佐々政次、向山砦の水野信元、氷上砦の千秋季忠らは、まだまだ任務が残っていたはずです。水野信元は、このあたりから動向がよくわからなくなりますが、後に書きます。佐々政次(さっさ まさつぐ)、千秋季忠(せんしゅう すえただ)の、最期の場面はこれから訪れます。次回以降のコラムで…。戦国時代の武家というのは、多くの犠牲を払い、それを土台にしながら、一族を次の世代につなげていこうとする意識が、非常に強かったのではないかと思っています。日本の昭和の戦時中の、多くの一族もそうでしたね。一族内に戦死者が多く、一族内で養子縁組がたくさんありました。◇両砦の陥落〔午前8時頃〕清洲城から熱田神宮にやって来た信長は、海をはさんで、炎上する両砦の煙を見たのかもしれません。信長は、決意を胸に、家臣団とともに戦勝祈願を行います。おそらく、この時刻には、丸根砦と鷲津砦が陥落していたと思われます。* * *鷲津砦には、織田軍の織田秀敏と、飯尾定宗がいましたが、二人とも討ち死にしました。丸根砦には、佐久間盛重がいましたが、こちらも討ち死にしました。こうして、19日の午前8時頃には、上記マップの「A」地域での、今川軍と織田軍の戦闘は、圧倒的な今川軍の勝利で終了しました。信長の狙いは、両砦で、織田軍が下手に抵抗して、戦線や戦闘時間を拡大させず、この4000あまりの今川軍を、この「A」地域に、このままとどめて置くことだったと、私は思っています。* * *以前のコラムで、戦国武将の戦い方を書きましたが、戦う時刻をどのように決めるのかも、戦いの勝敗に大きく影響します。この両砦攻撃開始が、どうしてこれほどの早朝だったのか…?潮の干満など、それほどの理由になるとは思えません。おそらくは、信長が、その日のこれからの展開から逆算して決めた、両砦への戦闘開始時刻であったのだろうと思っています。やはり、それを元康が知っていなければ、今川軍が早朝に攻撃開始することはなかっただろうと思います。* * *私は、19日の「桶狭間の戦い」は、信長の計算どおりに、早朝にすでに始まっていたと考えています。それは、奇襲でも何でもない、12時間近くをかけた、信長の大作戦だったと感じています。その日の早朝の大高城付近の戦いが、朝のうちに終了し、昼頃から、別の戦いが始まったと感じていたのは、今川軍だけだったのかもしれませんね。◇井伊直盛の移動両砦陥落の後、最初からの計画だったのか、今川軍の先鋒隊の瀬名氏俊が呼び寄せたのかは、わかりませんが、「A」地域にいる井伊直盛の軍勢は、「C」の桶狭間の地域に移動します。井伊直盛の軍勢は、義元本陣の防衛隊の一員であったと思います。ということは、義元は大高城に来る予定ではなかったと、私は思います。「A」地域に残るのは、元康を中心とした三河勢全軍と、今川義元の信頼が厚い朝比奈泰朝の駿河勢、大高城主の鵜殿長照の軍勢など、約4000です。松平元康、石川家成、酒井忠次、本多忠勝ら、後の徳川軍団の屋台骨となる、バリバリの三河勢が大集結していましたね。* * *個人的には、この戦いで、今川軍の中で、瀬名氏と朝比奈氏が、しっかり生き残るのが不思議でなりません。たまたまなど、戦国時代にはありません。瀬名氏も朝比奈氏も、井伊氏をいつか消したいと考えていても不思議はありません。結果的に、元康は、大高城あたりに井伊氏が残っていなくてよかったのかもしれません。陰謀も、あまりに複雑になってくると、思惑だらけで、何が何だかわからなくなりそうです…。* * *前述のとおり、信長を含む織田軍は、この午前8時頃には、尾張国の熱田神宮で、着々と進軍開始の準備をしていたと思います。信長は、両砦の陥落を家臣たちに語り、皆で後戻りできない決意を固め、戦勝祈願を行い、いざ出発となります。◇井伊氏と朝比奈氏ここで、井伊直盛と朝比奈泰朝のことを少しだけ…。数年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公であった女城主の「直虎(なおとら)」の父が、井伊直盛です。直盛の祖父である直平の孫娘が、後に家康の正室となる「築山殿」です。直盛の父の直宗の弟が直満で、直満の子の直親が、直虎の婚約者だった人物です。* * *井伊直盛は、この「桶狭間の戦い」で討ち死にしますが、後継者の井伊直親(いい なおちか / 直盛の養子)は、今川義元の後継者の今川氏真(うじざね)の命令で、暗殺されます。その暗殺者が朝比奈泰朝です。朝比奈泰朝は、「桶狭間の戦い」の時の同僚の一族を葬りさろうとしたのです。井伊直親の子が、後に徳川四天王となる、井伊直政です。女城主の直虎が、直政の養母となります。なんと、この「おんな城主直虎」の最終回では、明智光秀の男子である「自然(じねん)」が僧侶「悦岫(えっしゅう)」となって生き続けると描かれていました。悦岫は、信長の子なのか、光秀の子なのか…、歴史の謎のひとつですね。* * *朝比奈氏の一族は、後に武田信玄の家臣になる者、徳川家康の家臣になる者など、したたかに生き残っていきます。当の泰朝は、いつからか消息がわからなくなります。今川家のこれほどの重臣だった泰朝でしたが、どこでどのような最期をむかえたのか、まったくわかっていません。彼の「散り際」は、どこにも残っていません。◇朝露たちの「奥津城(おくつき)」この両砦で散っていった、織田秀敏、飯尾定宗、佐久間盛重ら、そして桶狭間で散った井伊直盛…、彼らの最期と、朝比奈泰朝の知らることのない最期では、どのような違いがあるのでしょうか…。違いはないのでしょうか…。陰謀や暗躍が渦巻く「桶狭間の戦い」ではありますが、この鷲津砦と丸根砦の出来事は、まさに美しい草花の朝露(あさつゆ)たちの「散り際」にも似た「すがすがしさ」があります。武将たちの人生は、まさに「人生朝露(じんせいちょうろ)の如し」。されど彼らは、苦難と名誉を選ぶ…。この両砦には「奥」、「津」、「城」の文字がやはり、ふさわしいのかもしれません。鷲津砦と丸根砦は、まさにその一族にとっての守り神の、名誉の「奥津城(おくつき)」であるのでしょう。* * *次回コラムは、この日(19日)のその後の展開を書きます。〔追伸〕ここで、鷲津砦と丸根砦の面白い「動画」をご紹介します。「バイソン様」が制作された動画です。まさに、戦国時代の今川軍の兵士になった気分で、砦をかけ上る感覚を味わえます。「桶狭間の戦い」の時は、砦にこれほどの樹木はなかったかもしれません。ただ、丘を上がっていく感覚は、このようなものだったのかもしれませんね。460年前、このような雰囲気の場所で、織田軍と今川軍の兵士たちは戦ったのです。鷲津砦動画丸根砦動画バイソン様のアメーバブログ「城を観る」はこちら今回、「チェリーブロッサム」様、「S.Settu(斎藤摂津守)」様、「バイソン」様のご協力に、深く感謝申し上げます。〔追悼〕今回のコラムの中で、井伊直親の話しを書きました。大河ドラマ「おんな城主直虎」で、井伊直親の役を演じたのが、俳優の三浦春馬さんです。私の先祖が、井伊直親とつながりがあったこともあり、三浦さんには親しみを持っておりましたが、悲報は非常に残念です。今回、偶然にも、同じタイミングで「おんな城主直虎」と井伊直親の話しを書くこととなりました。三浦さんは、「朝露」のようにすがすがしい、すばらしい俳優さんでした。謹んでお悔やみ申し上げます。* * *コラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」につづく。『麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)「桶狭間は将棋盤」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の丹下砦・善照寺砦・中島砦。信長の人員配置。信長の「袋のネズミ作戦」。大橋宗桂と藤…ameblo.jp2020.7.19 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 16Jul
      • 麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)「魔王信長」の画像

        麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)「魔王信長」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の作戦と戦術。信長の陰謀と暗躍。革命児 信長。奇跡はおこすもの。戦国武将の戦いの思想。第六天魔王の信長。家康は学んだ。気づかない義元。簗田政綱。麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)「魔王信長」前回コラム「麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)最後の一線」では、どうして桶狭間だったのか、沓掛城と祐福寺のこと、蜂須賀小六と簗田政綱の関係のこと、服部一忠と毛利新介のこと、近藤景春と山口教継のこと、母衣衆と馬廻衆のことなどについて書きました。今回のコラムは、信長の「桶狭間の戦い」における作戦と戦術について、考えてみたいと思います。上記マップの青色の城が今川方です。赤色の砦(とりで)が織田方です。薄茶色の部分は、標高100メートル程度までの小さな山や丘です。「D」地域から鳴海城方面に向かう谷筋に「手越川(てごしがわ)」が流れています。青色矢印は、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍したであろうルートです。◇今川軍の作戦まずは、今川軍のほうの作戦について書きます。前回コラムで、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らの進軍計画について書きました。今川軍の今回の戦いの作戦全体像については、史料が残っておらず、主要な武将の配置がわかる情報も残っていません。陣跡といわれる史跡も、確証はありません。あくまで推測ではありますが、もう一度、前述の三者の進軍計画について、簡単に書きます。* * *5月19日朝の段階で、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻撃し、両砦が陥落し、元康ら三河勢と朝比奈泰朝は「大高城(おおだかじょう)」周辺に残ります。マップの「A」の地域が今川軍の支配下となります。井伊直盛の軍は「C」の桶狭間に戻ってきます。ここまでは確実に起こったことだと思われます。ですから、今川軍は「A」地域を、まずは手中にします。ここからは推測ですが、今川軍は「A」に続いて、20日に「B」の地域に進軍し、他の今川軍と連携して、織田軍を撃破しようとしたのではと思っています。そのために、19日に「C」の桶狭間に義元本陣を置き、その周辺を井伊直盛や松井宗信らの遠江国勢と、駿河国の今川勢に守備させ、次の日の20日になってから、「D」や「E」地域に布陣させた今川軍の大軍勢「鳴海城(なるみじょう)の援軍部隊」を、「A」地域にいる今川軍と同時に、「B」地域に進軍させ、同時に鳴海城からも出撃させ、織田軍の「中島砦(なかじまとりで)」、「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」、「丹下砦(たんげとりで)」を撃破するつもりであったのではないかと思います。ひょっとしたら、これに加えて、「D」の北側(上側)にある山地を通る鎌倉街道を通って、沓掛城に残した今川軍を、善照寺砦に向かわせたかもしれません。義元にとって、あくまで主戦場は、「A」と「B」の地域だったのではと感じます。まさか「C」の場所が主戦場になると想定していなかったのではないでしょうか。* * *「C」の桶狭間の地域は、標高はそれほどありませんが、低い山や丘などの起伏が多く、見通しのきかない場所も多くあります。戦国時代の「野戦(やせん / 原野や野山での戦闘)」の考え方からして、「C」の地形に陣を設置し、その場所で戦をするとは考えにくい気がします。私は、こんな地形の場所で「野戦」を行うはずはないと思います。ここは、敵兵がやすやすと入り込めない防衛拠点としての本陣であったように感じます。おまけに、桶狭間には長福寺という、今川家の大切なお寺もあります。野戦の一時的な本陣ではなく、まるで城や櫓(やぐら)のような役割の、長期滞在可能な建物です。大軍勢にたえうる食糧や水も豊富です。急襲ではないかたちで、敵の軍勢が来ても、脱出がすぐに可能な場所でもあるように思います。軍団として、陣立てがしっかり固まってしまえば、前方から敵が簡単に入り込めるとは思えません。義元は、本来、固い守りの中の本陣にいるはずだったのだと思います。* * *もちろん、中島砦や善照寺砦から出てくる、少数の織田軍と、「E」や「D」の地域で、小競り合いが起きることは想定していたでしょうが、まさか「C」の地域まで攻めこまれるとは想定していなかったのではないかと思っています。当日の午前中に、井伊直盛が大高城から桶狭間にやってきたこともあります。今川軍も正午前あたりに、大軍が到着したばかりです。多くの武将たちの陣が、19日の正午過ぎにしっかりつくられていたのでしょうか。戦国時代の野戦であれば、陣立てがしっかりでき上ってから、大将が本陣に入ることも多かったと思います。これは、大将の戦の経験値の差もあったかもしれません。一方、信長は、三つの砦(とりで)が連携した、しっかり固められた「善照寺砦」に入りました。この砦に信長が入った時刻は、おそらく、その日の行動スケジュールもあったでしょうが、敵将の義元の行動時刻にも合わせたものだと感じます。おそらく信長が今川軍から攻撃されない時刻です。徳川家康は野戦の天才、豊臣秀吉は城攻めの天才と、よく言われますね。「桶狭間の戦い」は、野戦と城攻めのどちらの要素もあると思いますが、天才と呼ばれた武将たちは、ほぼすべてが計算された行動をとっていましたね。* * *今川義元は、「B」地域にかたまっている少数の織田軍に、南、南東、東から、大軍勢で一気に猛攻撃をしかける作戦ではなかったかと想像します。まさに、大兵力にものをいわせた、正攻法そのものです。これを、戦国武将の「作戦」と呼んでいいのかどうか…。小さな虫を踏みつぶすようにも感じてしまいます。実現していれば、ここまでの戦国時代でも、これほどの規模の総攻撃は、そうそうなかったと思います。もし織田軍がここで交戦していたら、花火のように「こっぱみじん」だったかもしれません。◇戦客万来この圧倒的な今川軍の状況を見れば、当時の人たちが、今川軍を兵力4~5万人と言いたくなるのも理解できる気がします。鎌倉街道を西に向かう大軍勢は、数十分か数時間、途切れることなく続いたと思います。織田軍は、場所はわかりませんが、戦見物(いくさ けんぶつ)の庶民たちがあまりに多いため、彼らを退去させます。おそらく、武士を目指す、若い農民や町人らも、戦を学ぶため、あるいは、あわよくば家来にと、街道筋に大勢集まったのでしょう。これだけの戦ですから、他国のスパイも相当に来ていたでしょう。みな、信長軍というよりは、今川軍の戦い方を見に来たのかもしれませんね。この頃、秀吉は20歳代です。実家も戦場の近くですし、おそらく見に来ていたでしょう。光秀は、30歳代か40歳代くらいでしょうか。大河ドラマのように、はるばる見に来ていても、まったく不思議はありませんね。* * *沓掛城周辺の村人たちには、信長がすでに手を回し、手名付けていたはずですから、今川軍の進軍状況の情報が、どんどん善照寺砦に入ってきたことでしょう。後に家康も、関ヶ原の村人たちに、たいへんな協力をしてもらい、戦後に破格の御礼をしました。実は、戦いに勝つとは、戦場になる地域住民への、こうした地道な行動や配慮がものをいったりします。敗戦しても、死なずに、生還できるケースだって、めずらしくありません。現代の戦争も、同じですね。◇まさか、オレたちと戦うの…20日の朝に、今川軍に、完全に、この陣立て…軍の体制を取られたら、織田軍は助かる道はありません。織田軍は、19日の夜までに、熱田神宮か、清洲城あたりに退却していなければ、おそらく助かりません。今川軍は、織田軍がこの状況を見て、退却し、清洲城あたりに立てこもると考えていた節(ふし)があります。18日まで、信長が清洲城にいたことは、今川軍はつかんでいたでしょう。まさか今川軍は、19日になっても、信長が清洲城にまだいるなどと思っていたのでしょうか…?もしそうなら、「情報戦」で今川軍は完敗です。信長は、だからこその、19日早朝の超スピード極秘移動だったはずです。今川軍が、信長の移動を知らなかったはずがないとも言い切れません。信長の移動中を襲撃する素振りが、まったくありませんでした。ひょっとしたら、桶狭間に到着した義元は、信長は清洲城にいるなどと思っていたのかもしれません。誰かが、ニセ情報を今川軍に入れたとも考えられます。* * *いずれにしても、まさか、このまま「B」地域に織田軍が残って、今川軍と交戦するとは思っていなかったのではないでしょうか。ひょっとしたら、義元は、本格的な戦闘は数日先くらいに考えていたのかもしれませんね。この心理的要因は、この日(19日)の正午あたりからの出来事に大きく影響する気がしてなりません。大将がもし危険性を認識していなかったら、家臣や兵士たちが認識しているはずがありません。「今日(19日)は、各陣をゆっくり設営して、夜に酒や食事をゆっくりしよう…、明日(20日)、織田軍なんて踏みつぶしてやろう」…、もしこんな気分でいたら、たいへんですね。こんな時に、今川軍のあいつは、す~っと、どこかに消えます…。そのことは、次回以降に…。◇革命児、信長信長からしたら、今川軍と織田軍のこれだけの兵力差と、今川軍の展開を予想したら、逆に、もう笑って開き直れるのかもしれませんね。信長でなくても、同じ死ぬなら、一か八か、大勝負してみるかと思うかもしれません。この状況からの大逆転勝利というのは、本当に奇跡にように感じます。信長は、戦国時代の戦の常識の中で戦ったら、確実に負けると思ったのではないでしょうか。非常識の限りを尽くさないと、絶対に勝利はないと確信していたのかもしれません。それを理解していた家臣も、中にはいた可能性があります。奇跡を起こして死んでいけることに躊躇(ちゅうちょ)しない者も、何人かは、いたかもしれません。このまま織田軍の中にいては危険だと感じた兵士たちは、逃げ出していったでしょう。でも、この極秘作戦だけは、身内にもそうそう話せない内容ですね。* * *私は、知りうる戦国時代の戦の中でも、これほどの内容の大逆転は他にないように感じます。中には、優れた作戦で、きびしい状況から巻きかえした戦や、少数で大軍を退却させたケースはありますが、今回は、作戦だけでは無理だったでしょう。他に、何か大きな要素が、いくつも必要だと思います。おまけに、大将自身が、戦場でこれほどのリスクを、自ら負うとは…。* * *私は、信長という人物の忍耐力と突破力のすごさに、いつも驚かされますが、この戦いで、よくここまで地道に丹念に準備したものです。執念なのか、挑戦なのか、好奇心なのか、むしろ恐怖との戦いを楽しんでいたのか…。人間は、こんなことを成し遂げることができるのかと、驚きや好き嫌いを通り越して、感動してしまいます。秀吉、光秀、信玄、謙信…、皆が驚嘆するはずですね。戦国武将たくさんいる中で、「革命児」と呼べるのは信長だけかもしれません。秀吉や家康は、絶対に、「革命児」ではありませんでしたね。◇恐怖とプレッシャーこれを読んでいただいている皆さま…、あなたが、もし信長だったら、どうされますか…?現代人なら、何をどう考えたらいいのか、さっぱりわかりませんね。現代の大型スタジアム級の音楽コンサートですと、お客さんを2万から5万人程度まで収容できますが、彼らは武器を持って襲ってはきません。もし、その数万にもおよぶ人間が、ゾンビと化し、武器を手に、組織だって自分に襲ってくると考えてみてください。あなたは、2000人くらいの味方とともに、ステージの上に立っています。あなたが生き残るには、その数万人のゾンビの中のひとりを倒すこと…。さあ、どうしましょう…?目をつむって、座り込みますか…。この時の信長、家臣、一族たちの恐怖とプレッシャーは、こんなものではなかったはずです。* * *信長が清洲城に立てこもったところで、この兵力差です。滅亡は見えています。あなたなら、家臣や領民を捨てて、身ひとつで、他国にでも逃亡しますか?戦って勝利する方法を考えますか?信長は、戦って勝つ道を探します。探すというより、猛然と何かに向かって突っ走るような気迫も感じます。歴史の中の本物の元康は、そんな信長に、何かを感じたのかもしれませんね。大河ドラマの中の明智光秀は、確実に何かを感じ取りました。◇「奇跡」はおこすもの次回以降のコラムで書きますが、19日の決戦日に、信長は、家臣たちに、「喝(かつ)」を、執拗に何度も激しく入れ続けます。なだめ、元気づけ、勇気を奮い立たせます。想像するに、信長は、家臣たちを、その日の一日中、激しく鼓舞し続けていたのかもしれません。これほどの内容は、他の戦国武将にはほとんど見かけません。信長の他の戦とも、違いますね。* * *信長は、声が大きかったともいわれていますが、19日の決戦日は、人生最後の一日になる可能性がありますから、全力で声を出し続けたのかもしれません。そうでなければ、軍団の兵士たちの精神が、持ちこたえられなかったかもしれません。この戦いは、生涯で最後の戦い、人生最後の一日になる可能性が十分にあるのです。これは人生の通過点でも、ゲームでもありません。長い準備期間と交渉を重ね、決戦日にやっとたどりついた織田軍です。ここで、作戦をストップすることなど、まったく考えなかったと思います。ストップさせても、死が待つだけです。今川軍の兵士たちとは、モチベーション(やる気・動機・目的意識)があまりにも違っていたのではないでしょうか。今川軍の兵たちに、「死」の覚悟がどの程度あったでしょうか…。* * *通常の武将の戦いは、大将の逃亡ルートを確保し、戦闘に臨みますが、織田軍は今回どこまで準備していたでしょうか…。兵力差も、状況も、覚悟も、まさにすべてが異例と非常識の中で、織田軍は最初から、この戦いに臨んでいたのだと思います。私は、戦国時代に起きたたくさんの戦の中で、この「桶狭間の戦い」に向かう織田軍は、他の軍団たちとは、何かが違うような気がしてなりません。そうでなければ、自らの手で、奇跡を実現できないように思います。奇跡は、勝手にどこかから、やって来るものではないような気もします。信長にとっては、「奇跡」はおこすものだったのだろうと思います。信長は、熱田神宮で誓ったのかもしれません。「奇跡」を持って帰ってくるぞ!◇勝利への道戦国時代ですから、義元のように、圧倒的優位な兵力や物量で、敵を一気になぎ倒すというのも戦い方のひとつであるのは間違いありません。ですが、兵力の小さな織田軍の信長には、それができません。彼は、「陰謀・暗躍・作戦・機動力・非常識」で対抗しようとしたのではないでしょうか。加えるなら、信長の「気迫」でしょうか…。彼には、「勝利への道」が、しっかり見えていたのでしょうか…。突き進むしかなかったのでしょうか…。凡人の私には、あまりにも遠い道のりに感じてしまいます。とはいえ、信長は、おそらくこの非常識での成功体験が、その後の人生に大きく影響していったように思えてなりません。世の中が非常識のままでいいのか…、このように考える人物が出てきても不思議はありませんね。◇信長の陰謀と暗躍さて、前回コラムで、簗田政綱(やなだ まさつな)と、蜂須賀小六(はちすか ころく)という、信長の家臣のことを書きました。まさに、陰謀のスぺシャリストと、暗躍のスペシャリストがタッグを組むのです。簗田は、おそらく、今回の「桶狭間襲撃作戦」の立案者で、作戦の管理統括の責任者であっただろうと思います。織田軍が「桶狭間」での勝利のために行った、数々の陰謀やワナは、簗田の指示で行われたものではないでしょうか。その進捗状況や、敵の極秘情報は、逐次、簗田にもたらされ、信長に報告されていたと思います。大河ドラマ「麒麟がくる」でも、そのような役割の簗田政綱に描かれていましたね。そして、陰謀やワナの実行部隊が、蜂須賀小六などの大量のスパイ集団だったと思います。信長自身は、どちらかというと、戦術や作戦などの、戦闘のスペシャリストのような印象があります。* * *ここまで書いてきました、いくつかのコラムから、5月19日の桶狭間での決戦直前までの陰謀・暗躍・準備作業などを、もう一度整理します。そこにさらに少し加えていきます。まずは、岡崎城に義元が到着したあたりから…。(1)西尾の実相寺周辺の焼き討ち(2)岡崎城周辺の牛田城あたりでの戦闘と水野勢の敗戦(3)知立城への義元の入城(4)祐福寺・沓掛城への義元の誘導(5)元康の大高城入城(織田軍は攻撃しない)(6)大高城への朝比奈泰朝の誘導(7)元康と朝比奈泰朝らの軍が、織田軍の鷲津砦と丸根砦を攻撃し、両砦が陥落(8)義元本陣を桶狭間に設営させるプラン(今川軍の作戦全体含む)(9)清洲城内の織田軍の軍議の空転(10)決戦日の19日早朝まで信長が清洲城に滞在(11)19日早朝の清洲城から熱田神宮への、超スピード極秘移動(12)熱田神宮から善照寺砦まで、織田軍のスピード移動(13)19日に桶狭間で戦いが始まっても、元康ら三河勢が大高城から動かない他に…、・中島砦の大幅改修・桶狭間での大規模深田づくり・熱田神宮の軍事拠点化・桶狭間地域の天候調査・潮の干満時刻の調査・馬廻衆の強化・三河国へのスパイ大量投入・蜂須賀小六を祐福寺に潜入・祐福寺用・桶狭間本陣用に、酒と肴の大量準備・近江国の六角氏よりゲリラ戦のスペシャリストの大量受け入れ・織田軍の謹慎家臣たちの緊急徴収ここからは私の想像…・水野信元による三河勢工作・松平元康の取り込み・今川軍の瀬名氏俊の取り込み・沓掛地域の村人の取り込み・服部一忠の今川軍への潜入・戦場想定地域の土木工事と道づくり・軍旗、馬印等の未使用・鉄砲隊の防水仕様・馬廻衆の特別訓練以上が、5月19日に桶狭間で決戦をむかえるまでに、信長が行った陰謀や暗躍、準備作業の主なものかと思います。これらすべてが、信長による、今川軍へのワナや暗躍、準備作業であっただろうと、私は思っています。他にも、これらに付随した関連行動が山ほどあったと思います。ここから、まだまだ陰謀が続きます…。信長は、時間も、人も、金も、総動員させたのではないでしょうか。信長や簗田政綱、佐久間信盛らの、ごく一部の人間しか、その全体像や、それぞれの目的や進捗状況を知らなかったはずです。これらが、組み合わされただけで、はたして奇跡を起こせるのでしょうか…?まだまだ必要なことがありそうです。この頃、今川軍は何を…していた?「蹴毬(けまり)」に「謡い」…。まさか…ねぇ。◇どさくさ紛れに…大河ドラマでは、こんなたいへん時に、信長が、帰蝶に、他の女性との赤ん坊である、後の織田信忠を紹介しています。よく、ドラマのこんな忙しい回に、ぶち込んできたものです。帰蝶よりも、テレビ視聴者のほうが怒りそう…?「どさくさ紛れに…この色男」。確かに、帰蝶に赤ん坊を預けるのが、織田家内では、もっとも安全ですし、もし、この赤ん坊が死ねば、帰蝶自身が危機をむかえますね。「いきなり、家を頼む、赤ん坊を頼む、あなたは母ですって言われてもねえ…。子作りと、桶狭間の戦いは関係なかっただろ…。男たちはまったく勝手だ…」。帰蝶ならずとも、そう思うのでは…。ものは言いよう…。結構、余計な心配をいろいろしてしまう、ドラマシーンでした。◇想定戦場のズレさて、先程、今川軍が想定していた戦闘場所は、「A」と「 B」で、状況により「E」や「D」あたりで小競り合いをすると書きました。義元は、「C」の地域での戦闘は、おそらく想定していなかったと思います。まさか、そのあたりまで、信長自身がやってくるなどとは、思ってもいなかったかもしれません。おまけに、19日に…。逆に、信長は、「A」と「B」で今川の大軍と戦ったら、まったく歯が立たないと思っていたはずです。今川の決戦予定日であろう5月20日の前日の19日…、今川軍の体制が完全に整う前に、どうしても「C」のあたりで決着をつけないと、勝利できる見込みはないと、信長は考えたと思っています。今川軍が「A」と「B」で決着をつけようと行動を始める前に、信長は「C」、「D」、「E」で戦闘を仕掛け、「C」の場所にある義元本陣に特殊訓練をつんだ攻撃部隊を向かわせ、義元の首のみを最優先に取るしか道はないと考えたのではないでしょうか。とにかく、義元本人が19日に桶狭間にやって来て、本陣を設置した時刻(19日の正午あたり)から、全軍が攻撃態勢に入る20日の朝までの間に、襲撃するしか、義元の首は取れないと考えたと、私は思います。信長は、この数時間に、すべてをかけたのだと思います。私なら、やはりよく見えない夜襲ではなく、明るい昼間の豪雨の中の攻撃のほうが、チャンスは大きいと感じます。◇戦国武将の戦いの思想戦国時代の武将の戦い方を考える上では、いくつかの注目点があります。いつ、どの場所で敵の軍団と戦うのか…、自軍の陣立てはどうするのか…などに目が向かいがちになりますが、実は同じくらい大事な課題がいくつもあります。その中で、敵の大将や主要な武将の首を、戦の最中の、いつどこで討ち取るかという課題が、非常に重要となります。敵の大将が討ち取られる時刻や場所は、偶然の結果やなりゆきでは決まりません。たいていの場合、勝者側がつくったプランの時刻と場所なのです。戦闘は、基本的に、戦うことが目的ではありません。敵将たち主要な人物を討ち取るのが最大の目的です。戦国時代の戦のたいていで、敵の大将の首を討ち取る時刻と場所は、勝者が決めたものだということです。敵の兵が死なずに、大将だけが死ぬ戦いも、山ほどあります。* * *現代のスポーツの試合でも、ビジネスでも、戦いの最中のどの地点で決着をつけるかは、それぞれが決めることですよね。米国メジャーリーグの野球の場合、もっとも得点が入るのが初回だそうです。そうであれば、戦い方のかたちが変わってきますね。打順の意味合いも、ひと昔前とだいぶ変わりました。その変化に対応させるため、また新たに対応を変化させます。こうしてスポーツは進化していきますね。テニスやサッカーなどを見ていても、強い選手やチームほど、戦いの最中の時間の使い方を非常に重要視していますね。企業のビジネス経営もまったく同じですね。戦国時代の武将の戦も、まったく同じでした。◇第四次・川中島の戦い今回の私のコラムでは、上杉謙信と武田信玄の「第四次・川中島の戦い」(1561年)と、「桶狭間の戦い」の共通点を考えながら、書き加えていっています。この「第四次・川中島の戦い」では、軍勢の規模では圧倒的に不利な上杉謙信が、まずは武田軍の兵力の分断の策に出ます。大軍団の兵の数を、大きく二つ…、ほぼ半分に分けます。ですが、この二つの軍団にはさみ討ちにあったら、上杉軍はひとたまりもありません。「はさみ討ち」にならないように考えます。敵の片方の半分の軍団を、ある場所に誘導し、もう片方と距離を離すのです。そして、もう片方がいる場所に、その軍団が戻ってくるまでに、時間がかかるようにします。そして、謙信は、「はさみ討ち」にするつもりで待っている片方の主軍団に、密かに近づいておいて、その軍団の横っ腹に、いきなり突入するのです。これで、本来の武田軍の軍勢の半分だけと戦えることになります。これなら兵力は互角です。ただし、謙信が敵と戦える時間は、もう片方が戻ってくるまでの時間しかありません。おそらく数十分です。戻ってくるまでに、決着をつけられなければ、すぐに退却です。退却に失敗したら、上杉謙信が死を覚悟せねばならない、かなりギリギリの作戦です。謙信は、自軍の兵を、敵の犠牲にさせながら前進するという、捨て身の攻撃で時間を使い、信玄のいる場所に近づいていきます。狙うは信玄ひとりです。猛然と突入します。信玄は信玄で、そういう時のための防衛体制をとり、必死に防戦し続けます。* * *戦闘での防衛とは、やみくもに兵を円陣にし、大将を取り囲めばいいというものではありません。ヌーなどのアフリカの草食動物は、肉食動物に対して、このような方法をとることがありますが、人間の軍団の場合は、それでは上手くいきません。脱出や退却、大将を逃がすには、きちんと方法があります。今川軍は、桶狭間の最終局面で、円陣で大将を取り囲むというミスをおかしてしまったようです。その方法しかできなかったのか、最初から防衛体制の仕方を知らなかったのか…、よくわかりません。信長が、脱出体制をとらせなかったと言うほうが、正確なのかもしれませんね。* * *「第四次・川中島の戦い」は、前述のような内容でしたが、これは、弱者側が強大な軍団と戦う際の作戦そのものです。敵の強大な兵力を、少しずつ減らしながら、同じ時刻に大人数の敵と戦わないようにする、時間差を使ってチャンスを作り出し、自軍も犠牲を出しながら、中心人物だけを討つという作戦です。ある意味、自軍の犠牲の上に、勝利をつかもうとする、ものすごい作戦です。◇敵が思い通りだと感じた、そのスキをつく謙信は、信玄が「霧(キリ)」を使って作戦行動をとることを確信していましたので、謙信もその「霧(キリ)」を同じタイミングで、信玄とは別の使い方をしようと考えます。味方に有利にはたらく自然現象は、敵にも有利にはたらくということです。敵が、計画通りに進んでいると安心した瞬間を、逆利用するというのも、戦国武将の戦い方のひとつでした。あえて、敵に「安心」を与えるのです。* * *「桶狭間の戦い」の場合にてらすと、桶狭間特有の「ゲリラ豪雨」をどのように使うかですね。信長は、徹底的にこの地域の気象変化を調べ上げていたはずです。豪雨が、どのような前兆現象の時に起きて、何時頃に降るのかを、信長は調べ上げていたといわれています。豪雨が発生したら、雨水がどのように流れ、どこが泥沼になるのかを、知っていたはずです。義元は、家臣の瀬名氏俊(せな うじとし)に、任せっきりにしていたのでしょうか…?桶狭間という地域は、瀬名氏俊の庭のような土地です。信長、秀吉、家康、謙信、信玄、元就…、こうした勝ち組武将たちは、必ず、自然現象や、敵の心理を巧みに利用していましたね。前述の上杉謙信と武田信玄も、川中島の地元農民たちから、大量の情報を集めたようです。だいたい、そうでないと、大きな河川など、霧の中を馬で渡れません。◇信長の魔王戦術私は、信長の「桶狭間の戦い」(1560年)の作戦も、「第四次・川中島の戦い」の時の上杉謙信に似たものを感じます。実は、「第四次・川中島の戦い」(1561年)のほうが、後ですが…。敵の兵力の分断と削減、時間差でチャンスを創出、自身に有利な場所に敵を誘導、敵に心理的油断とあせりを創出、犠牲の上での成果、自然の利用…、あまりにも強い孤高の武将とは、似たようなことを考えるものですね。* * *信長と簗田政綱の、陰謀や暗躍の概要は前述しました。ここからは、軍団の動かし方の概要を考えてみたいと思います。まずは、戦う今川軍の勢力の分断と、その勢力の確定です。上記マップの赤色矢印は、私が想像した、織田軍のおおよその攻撃進軍ルートです。説明は次回以降のコラムで…。* * *信長にとって、もっとも避けたいのは、今川軍全軍と、一斉に戦うことです。「A」地域に、できる限りの今川軍を集め、そこに彼らをそのまま とめおき、「C」での戦闘に参加できないようにさせたいところです。そのためには、織田軍の戦闘の仕方を工夫する必要がありますね。その話しは、あらためて…。「B」地域の今川軍は鳴海城に立てこもっていますので、城から出させなければ、それで良しです。彼らは、今川軍の「鳴海城への援軍部隊」が鳴海城方面に出てきてくれなければ、城からそうそう出られないはずです。信長からしたら、これで、戦う相手は「C」、「D」、「E」の軍勢と、沓掛城から前進してくるかもしれない軍勢です。おそらく沓掛の今川軍は、20日の朝でないとやって来ないはずです。これで、19日中であれば、信長が戦う相手は「C」、「D」、「E」に限定できます。おそらく「A」と「B」と、沓掛城にいる軍勢は、20日に備えているはずです。そもそも、「A」の元康ら三河勢は動かないはず…。もし19日の「C」での戦闘の情報を得ても、三河勢の軍勢は大高城から出てこないはず…。* * *大河ドラマ・サイトの「トリセツ」では、「C」、「D」、「E」の今川の勢力を合わせると、約1万となっています。織田勢は3000です。一説には、今川軍の「鳴海城への援軍部隊」である三浦義就の軍約3000が、「D」の手越川を渡った北側にある山に陣をはったという説もあります。そうだとしたら、「C」、「D」、「E」にいるのは、約7000です。「今川7000、対、織田3000」ですから、まだまだ兵の数の差は大きいですね。ただ信長には、強力な特殊攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の猛者たちが約700名近くいたはずです。彼らを、通常の3倍の攻撃力と考えれば、約2000。そうなれば、全部で4300。「7000、対、4300」なら、作戦と陰謀でなんとかなるかもしれません。あとは、織田軍の善照寺砦と中島砦につめている、織田軍の兵力3000あまりを、どのように「C」、「D」、「E」に突っ込ませるのかが問題ですね。六角氏から借りてきたゲリラ部隊数百のほか、防水対策済みの鉄砲隊もいたはずです。総司令官の佐久間信盛の強力部隊もいたはずです。柴田勝家らベテラン勢も、どこかに配備させたはずです。義元がいる桶狭間の心臓部に突っ込むのは、スピードとパワーのある「馬廻衆」の若武者たちだったはずです。19日の信長軍の突撃作戦や、まだコラムに書いていない暗躍のお話しは、次回以降のコラムで…。* * *今回のコラムでは、作戦の前半部の概要だけを推測して書いてみました。信長の今回の作戦と戦術は、まさに、陰謀あり、暗躍あり、ち密な準備あり、絶妙な作戦あり、高度な機動力あり、非常識な戦い方ありです。自身や家臣、一族の運命をかけた、一大作戦だったと思います。ちゅうちょしている暇はなかったと思います。史料に残る、信長からの、家臣たちを鼓舞する檄文(げきぶん)メッセージは、むしろ史料で過小に表現されているのかもしれません。まさに「魔王」と化した、激しい信長の姿がそこにあったように思います。家臣たちは、この「魔王信長」についていけば、奇跡を成し遂げらるのではと、その気になったのかもしれませんね。信長の、卓越した統率力により、殺気だった、ものすごい迫力の集団が、ある瞬間から、怒涛の攻撃を開始したのだろうと思います。この戦いは、「今川7000、対、織田3000」という数字だけで判断したら、見誤ってしまうのかもしれませんね。◇魔王の出現奇跡を起こした…、奇跡を呼び込んだ…、理由はいろいろと考えられます。ですが、なんといっても最大の要因は、そこに、信長がいたということだと感じます。信長がそこにいなかったら、今川軍が負けたはずはないと思います。後の信長の姿や行動を考えると、奇跡とは「起きるもの」ではなく、「起こすもの」…、魔王信長は、そう考えていたのは間違いないと感じます。* * *信長が主人公の時代劇ドラマとなると、いつも「本能寺の変」が最終回になったりしますね。私は、個人的に、この「桶狭間の戦い」の勝利が最終回であっても、まったくおかしくはないと思っています。こんな一年間の大河ドラマがあったら、じっくり各場面を描いてくれるような気もしています。ある意味、「人間信長」の到達点が、この「桶狭間の戦い」にあるようにも感じます。ここから先の信長は、まさに「魔王信長」となって、頂点に向かって突き進む「魔王時代」、「天下布武時代」に突入します。* * *信長本人も、相当に自覚しはじめますね。自身のことを「魔王」と表現した武将は、信長ただひとりだったと思います。「桶狭間の戦い」のずっと後、武田信玄から信長への手紙(宣戦布告の内容)の中に、信玄が自身を「天台座主沙門(てんだいざすしゃもん)」と表現したため、信長が対抗して、自身を「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と表現し返答したものです。信玄が仏教(天台宗の延暦寺)を守るというのなら、信長は「第六天(おぞましい欲にまみれた俗世界)の魔王(支配者)となって、仏教の教えを忘れ、武装化し、俗まみれになった延暦寺を攻撃する」という意味で使った名称です。私の解釈半分です。ですから、「魔界の王」であるのは間違いないのですが、信長からしたら、「正義感を持った魔王」とも、いえるかもしれません。「わが子を守るためなら、時に、母は鬼にも蛇にもなる」…、ちょっと違うか…?いずれにしても、徹底的な合理主義、現実主義の信長らしい思想と表現ですね。* * *今川義元は、この桶狭間の戦場の本陣で、あろうことか、「自分(義元)には、どんな天魔鬼神もかなわない」という主旨の言葉を家臣たちに言いますが、その直後、「第六天魔王」の信長が自身のもとにやって来るのです。何とも皮肉な義元の言葉です。今川義元と、この絶大な成功体験が、戦国時代に「魔王」を誕生させたといっていいのかもしれませんね。この「魔王」を、光秀の陰謀ではなく、本当にチカラで倒せるような武将が、戦国時代にあらわれたでしょうか…?とはいえ、「魔王」はずっと後に、「第六天」に戻っていきました。◇元康は学んだ?私は、以前に、徳川家康の「関ヶ原の戦い」に、この「桶狭間の戦い」の戦法の一部が使われたのではと書きました。元康(家康)の桶狭間での動きは、関ヶ原での小早川秀秋の動きにも似ているような気がします。関ヶ原での松尾山周辺は、小早川秀秋だけに限らず、ほぼすべての武将が、すでに徳川方と手を組んでいました。大谷吉継もギリギリの選択か、遅れたのでしょう。あるいは覚悟の最期です。小早川秀秋だけが裏切り者扱いにされたのは、家康の、ある大きな陰謀だと思います。小早川家と秀秋は、もともと別ものです。そもそも、西軍総大将の毛利家が、家康と手を組んでいたのですから、西軍は、もうどうしようもありません。毛利も、小早川も、西軍の軍議の決定などに従うことなく、自分の好きな場所に突然、勝手に布陣します。それは好きな場所などではなく、家康が指定した場所であったはずだと私は思っています。「一番カッコいい場面を、秀秋さんに用意するから、合図を待っててね…、そしたら、周囲の軍団がみな、あなたに従ってついていきますから…」。「一応、秀秋さんの隣に、徳川の最強家臣団を配置しておくから、安心して三成を攻撃してね…」。もともと、西軍の軍議の中には、徳川方のスパイ武将がたくさん入り込んでいました。もちろん大坂城にも。家康からしたら、「誰が、大坂城から三成の援軍になど行かせるものか…」。三成には、もうどこにも、戻る場所、逃げる場所はなくなっていましたね。関ヶ原の戦場では、三成など一部の西軍だけが、戦場の西の隅っこに追いやられて布陣するかたちになっています。「桶狭間の戦い」の時の元康の動きと、関ヶ原の小早川秀秋の布陣と行動…、「動」と「静」…、何となく似ていませんか。敵の中心人物を、特定の場所に追い込む手法…、何となく似ていませんか。* * *そもそも、家康は、「関ヶ原」にやってくる前に、西軍の武将たちを、大きく二つに分断したのです。滅ぼす勢力と、自身の味方にする勢力です。島津家や真田家のように、親兄弟で別れた武家もたくさんいましたね。金沢の前田家は、上手に、どちらにもつきませんでした。家康は、この二つに分断させる前に、上杉勢力を、西軍と距離的に離し、三成に恨みを抱く秀吉恩顧の武将たちも西軍からすでに切り離してあります。さらに大坂城の豊臣家も、陰謀により西軍とは分断してありましたから、大きく見たら五つに分断したといえますね。この五つがかたまっていたら、あの徳川軍でも勝てなかったでしょう。実は、「関ヶ原の戦い」も、「大坂の陣」も、上杉らとの抗争も、すべてセットの戦いで、家康が意図的に、時期をずらしたものだと感じます。* * *いずれにしても、大勢力の敵と戦う時は、まずは敵の勢力をいくつかに分け、戦うにしても、それぞれに時間をずらす…、これが不利な側の戦い方の鉄則でしたね。「関ヶ原の戦い」は、他にも、家康の巧妙な手グチがたくさんありますが、家康は「桶狭間の戦い」での実体験を、「関ヶ原の戦い」に取り入れたのかもしれません。家康は、「オレは秀秋とは違う…、桶狭間で裏切ってなどいない」…きっとそう言うでしょうね。* * *天下に号令した三英傑(信長・秀吉・家康)に共通するのは、みな、敵を分断し、時間を上手く使い、心理を上手く使い、情報を上手く使い、敵側に内通者をつくるなどの多くの陰謀で、戦国時代のライバルたちを、次々に撃破していったのだと感じます。◇約束の日それにしても、義元さん…、のん気なものです。まだ気がつかないの…。なぜ織田軍の千秋や佐々が、近くにやって来たときに気がつかないの…。とはいえ、岡崎城あたりから、何度も信長さんが「気づき」のチャンスを与えてくれているのに、すべて見逃してきた義元さんですから、桶狭間でも気がつくはずはありませんね。これだけ気がつかないでいてくれると、ある意味、気持ちがいいですね。こんな知らない土地にやって来て、酒飲んで、歌ってる場合じゃないですよ…。戦が、兵の数で勝てる時代は完全に終わっていますよ…。あなた自身は、本当に戦う気があるの…?大軍勢に守ってもらって、家臣たちだけを戦わせて…。特等席で戦いを眺めていようなどとは、よもや…。人が「運が尽きる」とは、そんなもの…。現代の企業団体にも、そんなトップが少なくないですね。* * *「気づき」の天才である信長は、清洲城で、小姓(こしょう)たちとこんな話しをしていたでしょうね。「調べておいたとおり、このところ、毎日ほぼ同じ時刻に、ゲリラ豪雨があるなあ…。地元の農民たちから、雨が降る兆候をしっかり聞いておけよ。それから、雨具はいつでも使えるようにな…。今回は鉄砲はだめだ。武具なんてどうでもいい。泥まみれは覚悟しておけよ。潮の干満の時刻と潮位も、しっかりな…。時間が勝負だ。罰で謹慎中の織田家の家臣たちも、すべて集めておけ。他国から借りてきた兵たちは、丁重にな…。それから、熱田(あつた)の町衆にも言っておけよ。オレがいなくとも、いざとなったら熱田神宮だけは守れと…。元康と約束した日が近づいてきたな。もう、任務を任せる家臣が誰も残っていない。オレしか、若い奴らを引きつれて、突っ込めるやつはいないだろう…。そうだ…、元康から届いた「桶」いっぱいの八丁味噌は、すべて終わったら元康を呼んで、みなで「今川煮込み」にして食うぞ!のこぎりや斧(おの)も、しっかり準備しておけ!敦盛(あつもり)をいつでも舞えるように、カラオケ用意しておけ狭間!…なんちゃって」。* * *次回のコラムからは、いよいよ決戦前日の18日と、決戦日の19日の戦況を書いていきます。コラム「麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)砦は朝露の如し」につづく。『麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)「砦は朝露の如し」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍と今川軍の主な武将。元康の大高城入城。鷲津砦と丸根砦の戦い。清洲城から熱田神宮へ極…ameblo.jp2020.7.16 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 11Jul
      • 麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)「最後の一線」の画像

        麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)「最後の一線」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。どうして桶狭間。沓掛城と祐福寺。松平元康と朝比奈泰朝。蜂須賀小六と簗田政綱。服部一忠と毛利新介。近藤景春と山口教継。母衣衆と馬廻衆。麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)「最後の一線」前回コラム「麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)義元をつれてこい」では、今川軍の兵力と進軍方向、信長の戦い方と人事評価、雪斎だったら…、今川氏の赤鳥紋などについて書きました。今回のコラムは、いよいよ「桶狭間の戦い」の直前である「沓掛(くつかけ)城」のことを中心に書きたいと思います。◇くつかけ「沓掛(くつかけ)」って、妙な言葉ですね。今の長野県の「中軽井沢」は、かつて「沓掛宿(くつかけじゅく)」と言いました。日本各地に、この「沓掛(くつかけ)」の地名がありますね。「沓(くつ)」とは「朽ちる」「屈(くつ)」の変化形のようです。「掛(かけ)」とは「崖(がけ)」の変化形だそうです。ようするに、街道にある峠の「崖」や「窪地」のような場所を意味していたようです。「屈掛(くつかけ)」という漢字を使用する場所もあるようです。「沓」は履き物の意味もありますね。今は「くつ」を、「靴」のほうの漢字で表記するのが一般的です。いつしか言葉遊びのように、「旅人が履き物をぬいで、引っかけておく…場所」、つまり街道の峠で休憩できるような、見晴らしのいい場所をさすようになっていったようです。さらに、旅人たちは、いつしか、旅の道中の安全を祈願し、草鞋(わらじ)や、馬具の布などを、その場所にある地蔵や道祖神、庚申塔(こうしんとう)などに供えていくようになったようです。お供えした後、この場所で、新しい履き物を履いて旅を続けたそうです。旅に馬を連れている場合は、この場所で、馬を休ませ、馬の履き物「馬沓(うまぐつ / 蹄鉄や、馬用の草鞋のこと)」を交換し、古い馬沓を高い樹木の上に放り投げたそうです。沓掛だけに、一種の「願掛け」にも感じます。修験者の山伏(やまぶし)などは、普段の生活で履いていた草鞋(わらじ)を、新しい履き物に替え、山に入っていったそうですが、この「沓掛」が俗世と、聖域(天上界)の境を意味しているそうです。物見遊山(ものみゆさん)の行楽の旅なら安全祈願もいいでしょうが、もし俗世(現世)と聖域(来世)の境であるなら、これから生死に関わる戦いに向かう武士が、ここで履き物を替えてしまっていいのでしょうか…。今川氏の「赤鳥紋」の話しは、前回コラムで書きましたが、この「赤鳥紋様」は馬に関わる意味も含んでいます。もし馬具や履き物を、沓掛城で交換、新調したなら、何か不吉な気もしないではないです。義元は、どちらの行動をとったのでしょうか…。義元は、窪地の「沓掛城」で引き返すことなく、運命の窪地である、桶狭間の「田楽ヶ窪(でんがくがくぼ)」に向かうことになります。* * *沓掛城は、それほど大きなお城ではありません。冒頭写真が、その中心部の城跡です。知立城(ちりゅうじょう)から進軍してきた今川軍は、沓掛城のすぐ近くの「祐福寺(ゆうふくじ)」も含めて、この城付近で、大軍勢を宿泊させました。1560年5月18日のことです。義元は、天皇だけが通る勅使門のある、由緒ある「祐福寺」のほうに宿泊したようです。この祐福寺と、桶狭間にある「長福寺」は、今川家にとって非常に大事なお寺でした。義元が、最後に、二つの大事なお寺に参拝できたのは、せめてもの救いだったのか…。それとも、仏様の声を、義元が聞こうとしなかったのか…。* * *ここで前回コラムに引き続き、 尾張や三河の歴史にお詳しい、「モリガン」様のアメーバブログの中にある、「沓掛城」や「祐福寺」を紹介するページをご紹介いたします。モリガン様の祐福寺・沓掛城のページ◇最後の一線大高城(おおだかじょう)、鳴海城(なるみじょう)、沓掛城(くつかけじょう)が、すでに今川方に落ちていることは、これまでに書いてきました。大高城と鳴海城は、織田方の幾つかの砦(とりで)に囲まれ、身動きがとれない状態です。そんな中、今川軍は何事もなく、すんなりと沓掛城に入城します。今川軍は、何かおかしい…と思わなかったのでしょうか…。義元が、何の疑いもなく入城することのほうが、まったくもって不思議です。文献などの記録が見つかっていないだけなのでしょうか…。義元は、信長が、沓掛城の周囲に砦(とりで)を築かない理由をどのように考えていたのでしょうか…。沓掛城の周囲に「隠し砦」があるのかないのかを、入城前に調査すらしていないようにも感じます。* * *私は個人的に、信長が行った、この沓掛城周辺の手はずは失敗だったと思っています。相手が、上杉謙信や武田信玄であったなら、完全に、沓掛城は信長のワナだと感じ、進軍計画を変更したはずです。特に、この二人は研ぎ澄まされた感覚も持った武将でした。今川軍に雪斎がいたら、まず見破ったはずです。私は、信長の計画が、義元に見破られる可能性がもっとも高かった場所が、この沓掛城だったと思っています。岡崎城にも、知立城にも、大高城にも、鳴海城にも、周囲に大量の織田方の兵を置きながら、この沓掛城の周囲に何も置かなかったとは…。私は、唯一、この場面だけが、信長に運が味方したと思っています。私の個人的な推測では、この関門を突破し、義元が桶狭間に入ってくれさえすれば、あとはネズミ一匹、その中から出させない、袋のネズミ状態だったと思っています。信長は、この戦以降もそうでしたが、「袋のネズミ作戦」が大好きです。信長は、この戦いを通じて、この場面だけは、義元が「愚将(ぐしょう)」であるほうに、一か八か賭けたのでしょうか…。私には、よくわかりません。* * *戦国時代の戦国武将の戦略とは、現代の推理小説などともよく似ています。あるはずのものがない…、ないはずのものがある…、瞬時に見抜けない武将は、そこで負けです。義元率いる今川軍は、危険性を察知し、この沓掛城から引き返していれば、敗北しないですんだであろうと感じます。ここから始まるであろう、ワナの数々に引っかかってしまうこともなかったでしょう。義元が命を落とすこともなかったでしょう。義元は、沓掛城で、まさに「最後の一線」、何かの「くつかけの境」を越えてしまったのだろうと感じます。現代に暮らす私たちも、何かがいつもと違う…、何かがおかしい…、なぜだか落ち着かない…、に注意をはらっていたいものです。たえず、そのサインは出ているはずなのですから…。◇大軍勢を分ける今川軍は、岡崎から知立方面にすんなり向いましたから、このまま沓掛城に義元本軍が入る可能性が非常に高かったと思います。武田信玄や上杉謙信であれば、ここから、まさかの方向転換というワナも十分に考えなければいけませんが、信長の相手は雪斎のいない今川軍の義元です。ただし、戦略的には、今川軍がいずれ大高城方面に、軍団の一部を分けて向かわせる可能性が非常に高いと思います。鳴海城地域の危険性や、次の戦闘の展開を考えると、まずは大高城に軍勢を向かわせるのだろうと誰もが推測できます。二つの城の救出を優先するのか、織田氏との戦闘を優先するのかにもよりますが、今回の第一の遠征目的から考えると、城の救出を優先させたものと感じます。武将によって、判断が分かれるところだとは思います。織田軍との戦闘や、信長の生命奪取を優先した場合でも、いくらでも策はあったと思います。* * *いつどこで、今川軍の一部を大高城に向かわせるのかが、信長には大問題でしたね。その部隊が誰になるのかも…。元康は、しっかり準備してくれているのかな~?◇城主の判断実は、「桶狭間の戦い」の直前まで、沓掛城主だった近藤景春の動きも、結構 怪しい雰囲気いっぱいでしたが、彼の動きと判断の甘さが、最後にあだとなります。沓掛城のもともとの城主は近藤景春でした。鎌倉時代から、この地域をおさめる有力豪族だったようです。もともと三河国の松平広忠(元康の父)の配下で、「桶狭間の戦い」の前年までは、織田方についていましたが、今川方に急に寝返りました。ですが、「桶狭間の戦い」に備え、義元は、近藤景春を沓掛城から追い出し、今川家臣の浅井政敏を城主にします。景春は、近くの別の小さな城主となり、織田方と戦うことになります。近藤氏の一族や家臣たちからしたら、「殿、何やってんの~」ですよね。* * *このお隣の城である「鳴海城」の城主は、山口教継(やまぐち のりつぐ)でした。山口氏も、かつては織田方でしたが、織田信秀(信長の父)の死去により、織田氏に見切りをつけ、強力な今川氏に寝返った武将です。この山口氏の調略によって、沓掛城と大高城が、織田方から今川方に寝返ったのです。大高城の城主が誰だったかはっきりしませんが、今川方への寝返りにより、今川氏の家臣の朝比奈輝勝が入城します。織田氏との戦いに備え、「鵜殿長照(うどの ながてる)」に交代させます。もともと今川氏は、伊勢湾の覇権奪取、尾張国との対決という意味で、欲しくて仕方のない大高城でしたが、武力でなかなか奪取できなかった城でした。今川氏は、鳴海城の山口氏を使って、大高城、沓掛城を、戦うことなく調略で織田氏から奪ったのです。ようするに、織田信秀という絶対的な織田家当主の死により、後継者の織田信長を非力とみなし、今川方に寝返っていった者たちの城でした。* * *織田氏にとっても、今川氏にとっても、こういう武将たちは、その時々で、強い者になびく者たちですので、まず信用しません。戦国時代ですので、弱小国の城主としては、やむを得ない気もしますが、後に、山口氏は今川義元に、近藤氏は織田信長に、それぞれ滅ぼされます。戦国時代の弱小武将たちは、安易に強い者になびいているばかりでは、逆に危険に身を置くことにもなってしまいます。三河国の松平氏も、近藤氏や山口氏と立場が似ていますが、一族の人数や武力が、かなり違います。なにより、率先して、どちらかになびくという態度をとりません。どちら側にも、影響力をしっかり残しながら、三河衆という自立心を高く持っていたように思います。近藤景春は、しっかり三河勢として行動を共にしていれば、滅ぶことはなかったのかもしれませんね。戦国武将は、時に柔軟に、時に真摯(しんし)に…、思考力と判断力が求められていましたね。さあ、「桶狭間の戦い」で、松平元康はどのような行動に出るのでしょうか…。◇蜂須賀小六信長は、沓掛城だけでは、おそらくこの大軍勢は入れない…、きっと「祐福時(ゆうふくじ)」の二つに分けて宿泊するだろうと、早い段階から思っていたのだろうと思います。信長は、いずれ豊臣秀吉の配下となる、蜂須賀小六(はちすか ころく)の暗躍集団と、大量のスパイを、ある段階で、祐福寺に向かわせたのだと思います。というよりも、彼らは、かなり早い段階から、祐福寺で、義元の到着をずっと待っていたのです。沓掛周辺の村人たちは、とっくに、小六と親しくなっていたようです。変装した小六が、街道沿いで、義元の行列を見ていたとも記録に残されています。* * *当時の小六は、ほぼ暗躍の実行部隊です。まさに斎藤道三 仕込みの、裏技稼業…。侵入・調略・破壊工作などの汚れ仕事のエキスパート集団です。この時期は、歴史の表舞台に、まだあまり登場してきません。後に、この実行部隊と、竹中半兵衛や黒田官兵衛の知性派の大策略家を、秀吉が抱えるのですから、それは天下をとるはずですね。* * *一説には、彼は、今川軍の兵の人数にあまるほどの酒や肴、おそらく「遊女」や「博打(ばくち)打ち」も、祐福寺に、相当に持ち込んだとあります。前回までのコラムの中で、大軍勢での遠征では、こうした歓楽施設を陣の中に用意すると書きましたが、祐福寺は、そうした場所になったのかもしれませんね。実は、こうした場所こそ、暗躍の拠点となります。「おもてなし」をする中で、たくさんの情報を収集したのかもしれません。義元が宿泊したのは、沓掛城ではなく、豪華な祐福寺のほうです。兵士は沓掛城、今川軍のお歴々(おれきれき)は祐福寺だったのでしょうか。ただ、両者の建物は、ほぼ数キロしか離れていない近距離です。今川軍はここまで、小競り合いに連戦連勝、飲めや歌えの上機嫌で陣をはっていたのかもしれません。末端の兵士たちなら、朝まで、どんちゃん騒ぎ…。実際に、桶狭間の義元本陣にも、酒が運び込まれ、なんと戦の最中に、お祝いの酒宴を何度も行っています。そこに酒があれば、人は飲むもの…。ダメだ、こりゃ…。こうした兵の戦意の低下や、軍組織の緊迫感の低下が、いざという時の指揮命令系統の連絡や判断に、混乱を招くということはないのでしょうか…。朝帰りのお父さん…朝から職場でしっかり仕事できますか?◇何が何でも、義元に近づけ大河ドラマでは、兵士の「乱取り(らんどり)」に激怒する義元の姿が描かれていましたね。義元を演じた片岡愛之助さんも、迫力の激高でした。「乱取り」とは、戦闘中や戦闘の後に、鎧(よろい)や兜(かぶと)、刀や槍、その他の武具や金品などを、略奪あるいは、拾い集めることをいいます。兵士たちは、それを金に換えるのです。戦国時代は、特に禁止行為ではなく、恩賞代わりに推奨していた武将もいます。この時代ですから、倫理観の欠如と言っていいかどうかはわかりませんが、軍の規律という意味では、低下は免れません。信長は、この「乱取り」という習慣も、作戦として利用したともいわれています。「桶狭間の戦い」でも、「乱取り」に見せかけた兵士を敵軍の中に大量に潜りこませ、義元の近くに向かわせたという説もあります。* * *私は、前述の蜂須賀小六に与えられた仕事は、今川軍の組織力低下や混乱だけではなかったと思います。義元本人の居場所を正確に把握しておくことこそが、最重要の任務だったのではと感じています。「影武者」のニセ義元、ニセの「馬印(武将の居場所を示す旗や物)」、おとりの「輿(こし・義元が乗る乗り物))」などが、ないのかどうかを確かめさせたと思っています。あとは、鉄砲や火薬をいざという時に使わせないことや、重要な連絡を行う伝令の兵士をしっかり把握しておくことも重要だったでしょう。おそらく、重要な局面で、真っ先に、今川の伝令兵は暗殺者に消されたはずです。* * *後に、この「桶狭間の戦い」で織田軍の「一番手柄」とされた武将「簗田政綱(やなだ まさつな)」のことを書きますが、彼は、信長の父の織田信秀時代からの古参の旗本の家臣です。実は、「一番手柄」の話しは、後世の創作だという説もあります。いずれにしても、簗田政綱は、この戦いの後に、沓掛城主となりますから、その貢献度はかなりの評価です。それに対して、蜂須賀家は、もともと美濃国の斎藤道三の家臣だった家です。「長良川の戦い」で道三が義龍に敗れ、蜂須賀氏は織田信長の家臣となります。蜂須賀氏は、織田氏に仕官する以外に選択肢がなかったかもしれません。実力はありますが、織田家臣団の新参者でした。それに、簗田氏と蜂須賀氏は、以前に宿敵だった関係ですね。* * *この「一番手柄」については、何か政治的にも深い理由が隠れている気がします。どこの武家の家臣団も、いろいろな問題を抱えていますね。前回コラムで書きました、信長の「人事評価」の話しも含めて、あらためて書きます。ともあれ、蜂須賀氏はいずれ強大な武家になります。私は、「蛇の道は蛇(じゃのみちはヘビ)」ではありませんが、この二人は、いいコンビだったようにも感じます。かつての敵だろうが、「悪(ワル)」どうしには、何か通じるものがあるのかもしれません。ここまで素性に差があれば、ライバル関係にもならず、むしろ、わかりあえたのかもしれませんね。「桶狭間」が生んだ、最強タッグの「悪党コンビ」だったのかもしれません。いや、ひょっとして、もうひとり加えて、悪党トリオ…?今川軍からも、ひとり加えれば…悪党カルテット!◇服部一族ここにあり「桶狭間の戦い」では、この蜂須賀小六、松平元康、水野信元、「一番手柄」の簗田政綱(やなだ まさつな)、「一番槍?」の服部一忠(はっとり かずただ)など、その行動がよくわからない人物が非常に多くいます。何か、暗躍の匂いがプンプンします。おいおい、最終的に義元の首をとる「毛利新介(もうり しんすけ・毛利良勝)」も含めて、彼らについては、戦況の話しの中で書いていきますが、この服部一忠は、本当に織田軍の兵士として、この戦場にいたのでしょうか…?「一番槍」なのに、目立った「ごほうび」無しとは…何を意味している?一忠よ、おまえもか…。まさか、今川義元近くに潜入…?この一忠は、よほど優秀な兵士だったらしく、信長が本能寺で亡くなった後に(本能寺に一忠がいなかったことも不思議です)、秀吉にも「馬廻衆(うままわりしゅう)」(後で説明します)として抱えられ、城主にまで大出世します。ですが、その後、人生が大きく転落します。ただ、子孫は徳川家で活躍します。そこはそれ、あの服部一族です。大河ドラマ「麒麟がくる」でも、顔は映っていませんでしたが、一忠を連想させる人物の槍が、しっかり義元をとらえていました。そして、織田軍の毛利新介のジャンプです!* * *私は個人的には、蜂須賀小六や簗田政綱レベルの、後ろ暗い暗躍者が、実は今川軍の中にもいたと思っています。それも目立つ立場の人物です。この話しは、あらためて…。〇〇よ、おまえもか…。* * *今回の戦いでは、服部友貞(はっとり ともさだ)率いる「服部党」は、水軍として今川方についています。これら服部氏の祖は、もちろん伊賀忍者の祖である服部一族です。服部一族は、古くから織田氏とは敵対関係にあり、独自路線で生き残ってきた一族です。織田氏にも、今川氏にも、他の多くの有力武家にも、一族の誰かが入り込んでいたのかもしれません。服部友貞は、「桶狭間の戦い」の直後に、熱田神宮を攻撃しようとしますが、失敗します。織田と今川の戦いに乗じて、勢力拡大、政敵排除をねらっていたのかもしれません。あるいは、義元の命も、信長の命も、どさくさの中で、狙ったのかもしれません。織田氏は、「桶狭間の戦い」以降も、伊賀の服部勢とは何度も戦うことになります。信長は、甲賀勢を味方にします。元康は、いずれ伊賀勢も甲賀勢も、両者とも重用したことで知られていますね。元康は、「服部一族の暗躍力は使える」と、この戦いで実感したのかもしれません。◇母衣衆(ほろしゅう)・馬廻衆(うままわりしゅう)この服部一忠といい、毛利新介といい、まさに「一匹オオカミ」のような武士の印象を受けます。家臣を幾人もかかえるような有名武将たちは、武芸はもちろんですが、政治力や交渉力、判断力、組織運営力など、総合的な能力が求められます。ですが、軍団の中には、総合力は持ってはいないが、刀や槍での斬り合いにめっぽう強い武士という者たちもいます。戦場で、弓矢をかいくぐり、大将に限りなく近づいていける特殊能力を持つ武士たちもいるのです。実戦の戦場では無敵の戦士たちです。組織にはなかなか馴染まないが、ひとりで小軍隊ほどの強さを持つ、まさに「ランボー」たちですね。だいたい、服部一忠も、毛利新介も、義元のもとまで、しっかりたどり着いていることさえ、たいへんな能力です。義元の最期の瞬間、義元のもとまで、幾人がたどり着いていたのでしょうか…。* * *前述の毛利新介は、「母衣衆(ほろしゅう)」と呼ばれる、大きな袋状の弓矢防衛用武具を背に装着し、馬に乗って攻撃する特殊部隊の出身です。ようするに、高度な馬術、剣術を持った、猛烈なスピードで突撃できる兵士です。組織だって突っ込むのではなく、あくまで単独でも突っ込んでいける武士です。信長は、こうした「母衣衆」を本格的に組織して、桶狭間に大勢連れていったのだと思います。どこかで特殊訓練でもしていたのでしょうか…。雨の中、敵に鉄砲で狙われなければ、まず倒れることのない、無敵の戦士たちです。この「母衣衆」を含めて、特殊突撃部隊だったのが「馬廻衆(うままわりしゅう)」と呼ばれる集団です。高度な戦闘能力と、なにより強靭な精神力も持っていたと思います。今でいえば、親衛隊とか、グリーンベレーとか、MI6(エムアイシックス)とか、007のジェームス・ボンドたちのようなものでしょうか。信長には、馬廻衆が700名近くいたといわれています。ひとりで三人倒せる能力があれば、約二千の兵力にも相当しますね。おそらく三人どころではなかったでしょう。後に光秀が、信長のいる本能寺に、あれだけの大軍勢で向かったのも、わかる気がしますね。* * *信長は、「桶狭間の戦い」に向けて、そのような武士たちを選抜して組織し、桶狭間の戦場でもフル活用したのだと思います。そうした武士たちは、有名な武将にはなりませんでしたし、あまり長生きできませんでした。佐々成政や前田利家のような大出世は、異例だと思います。そういえば、この二人…、「麒麟がくる」の中で、信長と斎藤道三が初めて面会する時に、信長の後ろに二人だけで座っていましたね。いざとなったら、この二人だけでも、道三の首を取れると言わんばかりでした。まさに、戦うために生きている…、死ぬことを恐れない…、ひとりで何人もの敵を倒せる…、敵を倒すことに手段を選ばない…、戦国時代だからこそ生まれてきた「無敵の一匹オオカミ」たちを、信長は集めたのだろうと思います。「時代が、そうした人物たちを生む」とは、こうしたことなのでしょうね…。* * *戦場で、こんな武士が敵として、ひとりだけで立っていたとしても、何か恐ろしさを感じますね。桶狭間の最終局面では、織田軍の、そんな恐れ知らずの鬼のような形相の武士たちが、ものすごい勢いで敵をなぎ倒していったのかもしれませんね。農民たちをかき集めたような非力な臨時武士集団では、到底、立ち向かえないような気もしてきます。そんな馬廻衆の毛利新介は、その後、そのまんま真っすぐな名前を名乗りましたね。「毛利良勝(もうり よしかつ)」。どんなかたちでも、勝ちゃいいんだよ…勝ちゃ!翼を羽ばたかせた、ジャンプ見てくれた…!いまい!◇沓掛城から大高城へさて、いずれにしても、1560年5月18日、スパイだらけの祐福寺と、沓掛城に今川軍が入ります。大高城には、まだ今川軍の兵は向かっていなかったと思います。そして、18日の夜にうちに、今川軍の一部である、元康らの三河勢、今川氏の駿河国の朝比奈泰朝の軍、遠江国の井伊直盛の軍らを、大高城に向かわせることになります。後に戦場で信長が語った言葉…、「敵は夜通しの進軍の上、鷲津砦(わしずとりで)、丸根砦(まるねとりで)で戦っている」とは、この18日の夜の進軍を想像ではなく、事実として認識しています。確実に今川軍の動向を把握していたのだろうと思います。* * *いつ、誰を大高城に向かわせるかは、義元の独断での命令だったのでしょうか…。軍議で決めたことだったのでしょうか…。私は、義元が、元康ら三河衆の軍団を単独で移動させたとは、到底考えられません。義元の信頼の厚い今川武将を必ず同行させたと思います。ここで、元康ら三河勢が織田方に寝返り、大高城の鵜殿氏を攻撃する可能性を、義元が考えないはずはないと思います。大河ドラマ「麒麟がくる」では、まずは元康が大高城に入り、援軍として朝比奈泰朝ら3000名を向かわせたと描かれていました。元康軍だけが先に大高城に向かったというのでしょうか…?あわせて5000あまりの兵で、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻めるというのです。朝比奈と井伊を加えたのは、大高城周辺で、織田軍と、元康ら三河勢による戦闘が相当な規模でおきると、義元が考えたからだとも思います。事態がそうなってから、朝比奈軍を向かわせても遅いと感じます。大河ドラマでも、そのような主旨の台詞がありました。ですから私は、元康も、朝比奈泰朝も、この沓掛城から大高城周辺に、ほぼ同じタイミングで向かわせたのではないかと思っています。個人的には、いずれ、この両軍が、大高城より鳴海城方面に進軍し、他の今川軍と連携し、「中島砦(なかじまとりで)」や「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」の織田軍を攻撃する計画だったと思います。◇沓掛城を経由しない大高城へのルート私は、朝比奈泰朝と元康の両軍だけを、義元本軍とは別に、岡崎あたりから大高城に直接向かわせたとは、少し考えにくい気がします。大河ドラマのとおり、沓掛城から大高城に入ったと思います。ですが、後の元康の行動を考えると、元康軍だけは、別ルートの可能性がないとも言い切れない気もします。知立方面から桶狭間を右に見て、そのまま大高城に向かうことのできる最短ルートもあります。沓掛城よりも、はるか南の地域です。その途中に、小さな大脇城という、取るに足らないようにも見える、織田方であったと思われる城があったのですが、ここを通過してくれば、元康軍は岡崎城から大高城に直接向かうことができます。もし織田方の城なら、元康だけでも、たやすく落とせそうな城には思えます。これは今川本軍も同じです。日程の関係や、宿泊場所の大きさ等を考えると、このルートは今川本軍が向かう可能性は少ないとは思いますが、元康軍だけなら、このルートはいいかもしれません。もし織田軍の誰かと密会するには、格好のルートのような気もします。蜂須賀小六が、すでに沓掛で待っていることから、今川本軍が沓掛城にやって来るのは周知の事実だったのだと思います。大河ドラマでは、元康も、沓掛城を経由して大高城に入ったと描かれていました。とはいえ、何でもなさそうな、こういうルート選びにこそ、歴史の真実が隠れているのかもしれませんね。知立城から、沓掛城を経由して桶狭間に向かうのか…、それとも直接、桶狭間方面に向かうのか…、その意味の違いは、意外と重要なのかもしれませんね?おそらく、信長が、義元本軍を沓掛城に来させたかったのは間違いないと思います。◇とにかく兵糧を…今川軍の元康は、どこかの時点で、こんなことを言ったのかもしれません。「私が大高城に行きます。兵糧(食料)を運び込むくらいは自分にもできます。食料の運び込みなんて仕事を、今川家のお歴々にさせるわけにはいきません。ただ、織田軍の砦のすぐ近くを通りますから、朝比奈さん、井伊さん、助けてもらえませんか…。」「何、この若造め、仕方がない、ついて行ってやるか…」「ありがとうございます。では、前祝いに一杯どうぞ…」この時の元康は、今の将棋界のヒーローの藤井青年と同じ年齢の満17歳です。こんな会話があったかどうかはわかりませんが、朝比奈泰朝という、今回の今川の遠征軍の中では、相当に強力と思われる軍団 約二千名と、ここまでの遠征で大活躍の井伊直盛の軍が、元康軍の約二千名とともに、大高城方面に向かうことになります。もちろん、このあわせて4000名の、元康軍と朝比奈軍は、大高城方面からの信長攻撃軍としての位置づけだったであろうと思います。この兵数だけでも、信長全軍の兵数に匹敵しますね。よほどのことがなければ、義元が信長に敗れるとは想像もできません。「運」や「作戦」だけで、信長に道が開けるとは、到底 思えませんね。それにしても、朝比奈さん…、ここで元康さんと、せっかくお近づきになったのに、このままずっと近くにいれば、「徳川四天王」のひとりは、朝比奈さんだったのかもしれませんね。「運」とは、そんなもの…。* * *個人的には、大高城の兵糧(食料)不足の話しも、かなり怪しいと思っています。今川軍中枢での話しなので、こんな重要な極秘情報も入ってきているとは思いますが、本当に、そんな切羽詰まった状況だったのでしょうか。運び入れた、次の日には戦闘開始です。何か、元康の虚言のようにも感じます。本当に中味は米だったの…?後の江戸幕府なら、史料に加筆しそうな気もしないではないですね。兵糧、兵糧って、何度も何度も強調して…。* * *朝比奈泰朝は、おそらく今川家が、もっとも信頼をおく、強力な家臣だったと思います。泰朝が裏切る可能性は絶対にないと、義元は思っていたと思います。大高城の救出…、この段階で速すぎないか?よく調べもしないで…。誰かに、ニセ情報でもつかまされていないか…?それより、今川本軍から4000名あまりの兵が離れてしまって、だいじょうぶか…?それも、けっこう距離が離れている…。* * *いずれにしても、18日の夜には、元康が大高城に兵糧を運び込み、丸根砦攻撃隊(松平元康・石川家成・酒井忠次ら約2000名、プラス井伊直盛の軍)と、鷲津砦攻撃隊(朝比奈泰朝・本多忠勝ら約2000名)が、19日早朝の攻撃開始にむけて着陣します。それにしても、朝比奈泰朝を除いて、後の徳川軍のバリバリの主役たちの三河勢と遠江勢が、ここに大集結していますね。天下取りは、まだまだ遥か先のことですが…。上記マップの青色の城が今川方です。赤色の砦(とりで)が織田方です。青色矢印が、おそらく、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍した、おおよそのルートです。松平元康、朝比奈泰朝、井伊直盛らが大高城方面に向かうルートは、おそらく沓掛城を出発し、南下(マップの下方)し、「桶狭間」を右に見ながら、大高城方面に向かう主要街道ルート(鎌倉街道・東浦街道・大高道)だったと思われます。大河ドラマでは、鷲津砦と丸根砦の間を通過したと語られていましたが、どのルートを本当に通ったのかは、わかりません。次回以降のコラムで、細かな戦況、各武将の配置、この地域の地形、信長の作戦などについて書きます。◇沓掛城から桶狭間へここから、「桶狭間の戦い」の最大の謎の部分について書きます。大河ドラマ「麒麟がくる」では、元康と朝比奈の軍が、織田軍の鷲津砦と丸根砦を陥落させた後に、義元自身の本軍が「大高城」に入ると言っていました。ほんとに…大高城に?今川軍が敗者となり、桶狭間にいた今川軍の武将の大半が討ち死にし、さらに史料のほとんどが徳川家の影響を受けたこともあり、昔から、今川軍の作戦内容がはっきり判明していません。今川軍の作戦については諸説あります。* * *大河ドラマの内容のように、義元が大高城に向かう説や、義元本軍が別方向から鳴海城方向に進軍する説、鳴海城への援軍部隊が別行動をとる説など、多くの説があり、どれも考えられないこともありません。義元が大高城に向かう推論以外の説が証明されていない以上、史実や定説が最優先の大河ドラマとしては、義元が、ある時刻に桶狭間にいたという事実と、少なくとも沓掛城から桶狭間までは進軍してきたということ以外を採用するのは、むずかしいかもしれませんね。今川軍の作戦が不明で、義元の本陣場所も確定できず、今川軍の多くの武将の配置や最期の場所もわからない以上、どこかに向かう途中だったかどうかは別として、桶狭間に確実にいた人物だけしか描けませんね。松平忠政や三浦義就(みうら よしなり)など、大軍勢であったであろう武将の最期の場所も状況もわかりませんので、ほとんどの時代劇ドラマで、今川軍本軍の有力武将たちは、ほとんど登場しません。自由にドラマ制作できるのでしたら、もっと面白い推論もたくさんありますが、大河ドラマでは仕方のないところかもしれません。それでも、戦いのハイライト場面は、迫力のある劇的なシーンです。戦国時代の武将たちの、数ある最期のシーンの中でも、トップクラスの迫力ですね。* * *個人的には、今川軍が尾張国の織田氏打倒を目指すのであれば、沓掛城などに来ないで、最初から、義元が大高城に向かうほうがいいとは思います。沓掛城には、有力な今川武将を送って、防衛ラインを維持すればいいと思います。私は、義元は、清洲城などの尾張国の心臓部にいきなり入らずに、まずは、鳴海城や大高城周辺で、信長自身が来ようが来まいが、大規模戦闘をして織田軍を排除し、西三河を制圧しようとしていたのではと思っています。その後で、状況を見ながら準備して、水軍の到着を待ち、まずは熱田勢とその地域を制圧し、そこから清洲城を取り囲むか、美濃国の斉藤氏と連携するのも手だったと思います。◇どうして桶狭間…私は、義元が沓脚城に入った理由は、大高城に義元は向かわずに、別ルートで鳴海城方面に向かう計画だったのではと思っています。大高城方面隊、別方面隊、鳴海城からの三方向連携による、織田軍への攻撃計画だったのではないかと考えています。信長からみたら、今川軍がそうした体制になってしまう前に、何としても手をうたないと、敗北確実となってしまいます。個人的には、祐福寺と長福寺で戦勝祈願してから戦うために、義元が、わざわざ沓掛城にやって来たとは思えません。戦いより参拝を優先することなど、ないと思いますが…。* * *私は、義元は、はじめから沓掛城から桶狭間に入り、本陣を置いて、何か次の行動をしようとしていたのではないかと思っています。個人的には、桶狭間という地形的に非常に危険性のある場所に入り込むのは、かなりリスクが高いとは思っています義元は、軍勢の規模でカバーできると感じたのでしょうか…。鳴海城周辺の織田軍を攻撃するにあたっては、幾つかに分散した今川軍が連動して戦闘できる体制が整ってから、大規模攻撃に入ろうとしたのではとも、私は感じています。私は、義元が考えていた鳴海城周辺の織田軍への総攻撃の日は、その日の今川本軍の進軍時刻や、大高城にいる元康軍の状況を考えて、討たれた19日の翌日の20日だったのではとも思っています。今川軍が、無計画にたまたま桶狭間を通過するはずはないと思います。必ず理由か計画があったはずです。私は、19日の時点で、義元がはじめから桶狭間に本陣を設置するつもりだったように感じています。個人的には、桶狭間の義元の本陣が、大高城に向かう途中の小休止の場所だったとは、想像しにくいです。桶狭間に幾つかの大軍団を残し、さらに人数が減った状態で、義元近くの軍団だけが大高城に向かうには、リスクが高い気がします。大高城周辺に元康らの三河勢の数が多すぎて、危険性を感じます。* * *ただ、桶狭間の長福寺で戦勝祈願でもして、そのまま大高城に向かうつもりでいたら、天候が悪くなり、織田軍が近づいてきたという情報も入り、急きょ、ここに本陣を急ごしらえで設営しなければならない状況に陥ったということも考えられなくはないです。これなら、今川軍の有力武将たちの準備もあまりできていないはずです。これが大河ドラマの、ある意味「安心安全放送バージョン」ですね。信長が、20日の今川軍総攻撃を知っていて、あえて、前日の19日に、そうした突発的な状況を作りだしたと考えられなくもないです。ということは、義元は、桶狭間の南側からやって来たのではなく、北側から、軍勢が細長くなった状況で桶狭間に入って来たのでしょうか…?それに、井伊直盛軍が、大高城方面で戦闘を行い、その後に桶狭間にわざわざ戻ってきたのはなぜか…?* * *個人的に感じるのは、義元が大高城に向かうのなら、どうして沓掛城を経由したのか…?沓掛城から大高城に向かうのに、どうして桶狭間を通過したのか…?桶狭間を通る必要性などまったくないと感じます。桶狭間の長福寺に参拝するためだけの小休止に、大高道から、わざわざ大軍勢を右折させるのか…?北からの別ルートで長福寺に来たとしても、この場所に本陣が設置されたのはなぜか…?大高城に向かうのなら、桶狭間に本陣など置かずに、なぜ、そのまま向かわないのか…?疑問点だらけです。* * *義元本軍は、大高城方面に、元康ら三河勢や朝比奈泰朝を送ったとはいえ、まだまだ相当な数の軍勢です。大河ドラマの「トリセツ」に従えば、義元本軍が7000、鳴海城の援軍部隊が3000、あわせて1万の兵が、この桶狭間を中心に展開していることになります。おそらく、松井氏や井伊氏らの遠江国勢は、義元本軍の前線での防衛部隊で、それ以外の大多数の駿河勢が、鳴海城への援軍部隊と義元防衛部隊に分かれ、戦闘準備をしようとしていたのかもしれません。織田軍への攻撃の主体であったであろう三浦義就らの駿河勢が、どこに布陣したかがはっきりしていないので、義元周辺の防衛力がわかりませんが、それでも、5~6000の数の兵は義元の近くにいたのではないでしょうか…。ここに2000いるかいないかの織田軍が突っ込むのです。桶狭間の心臓部まで突撃する部隊だけとなると、700名いるかいないかなのでしょうか…?よほどのピンポイント攻撃の作戦でもなければ、まず不可能な気がします。それに、生きて戻れるでしょうか…。それにしても、義元の桶狭間での布陣には、かなりの甘さも感じます。家康の「関ヶ原の戦い」を見てもそうですが、各武将の軍団がどのタイミングで持ち場に着陣するかが、いかに大事で、勝敗に直結するかがわかります。信長は、この戦いで、それぞれのタイミングを、しっかりコントロールしていますね。雪斎頼みだった義元とは、経験の差が出たのでしょうか…。* * *義元が、どうして桶狭間に本陣を置いたのか…、私は、信長が近づいてきたため、急きょ、設営されたのではなく、はじめから設営する作戦であったと思っています。ただ、この今川軍の作戦計画を、誰が本当に作ったのかが問題だと感じています。まだコラムに登場してきていない、暗躍者…。◇予定通り…そして、どのように考えても、その時刻に、義元が桶狭間に来ることを知っていなければ、信長がその瞬間に、桶狭間に来るはずはありません。尾張国内か善照寺砦に戻る時刻を考えると、信長が、義元を倒すことができる瞬間は、あの時刻しかなかったはずです。結果的に、義元は大高城に入っていませんので、大高城に向かおうとしたかどうかはわかりませんが、信長は、義元が桶狭間に来ることだけは絶対に知っていたはずです。信長が善照寺砦にいたら、たまたま義元が桶狭間にいることがわかったので、攻撃に向かったというのでは、まず討ち取れるはずがありません。絶対に、信長は、場所もおおよその時刻も知っていたはずです。後は、予定通りに義元がやってくるのかどうか…。善照寺砦か中島砦のどちらかで、簗田政綱は信長に言ったのかもしれません。「殿、今この時、桶狭間に行けば、義元を討ち取れます。ご決断を…」。決行の最終進言を、政綱が行ったのかもしれませんね…。◇作戦 vs. 作戦信長にばかり都合よく、「偶然」という「幸運」が、これほどの数で重なるはずはありません。あまりにも綿密な計画と、心にくいばかりの人員配置、相当な覚悟の大きさを見せる信長に対して、何かが足りないようにも見える義元の姿勢に感じます。戦国武将どうしの戦いは、「作戦」対「作戦」です。どちらの作戦が上なのか…。作戦の進捗状況を随時確認するだけでなく、検証を同時に行うことも必要だろうと思います。相手の作戦を考えることは、さらに重要ですね。戦国時代の戦いでは、相手が、自分の作戦の中に、巧妙に別の作戦を潜り込ませてくると、本当にやっかいです。見破るのは至難の業です。自分の作戦が思い通りに進む中で、何か別の危険な要素を見つけるのはたいへんなことです。戦国時代に、自分がどうやったら勝てるかだけを考えていた武将は、まず勝てなかったと思います。自分の戦い方を知り、相手の戦い方も知る…、それが勝利への極意だったのかもしれません。* * *今回の戦いを見ていると、元康が、義元とも、信長とも違う何かを考えていたのは間違いないと感じます。元康にとっては、この戦場からの脱出方法とタイミングも、非常に重要なことだったと思います。「関ヶ原の戦い」では、戦の最初から、脱出のタイミングとそのルート選びだけを考えていた島津勢を、家康は取り逃がしてしまいました。家康は、島津の「脱出作戦」を見抜けなかったのかもしれません。家康は、最後は追いかけるのをあきらめます。これが四百年後に、反撃されるとは…。戦場には、武将の人数と同じ数の「作戦」がありましたね。◇最終確認私は、信長は、義元が大高城方面に兵を送るという確実な情報を、どこかで入手した可能性が高いと思っています。沓掛城あたりで、その最終確認ができたはずです。私は、信長は、尾張国の清洲城で、今川軍のそうした行動を見とどけてから、動くように考えていたと思います。敵に、大将の動きを見破られたり、推測されてしまっては、元も子もありません。ギリギリまで動いてはいけませんね。「これは確実に大高城に、元康が入るな…」。信長からしたら、あとは、手はず通りに、元康が朝比奈を連れて、大高城にやって来てくれるのかどうか…?「元康が、手はずどおりに動けば、 これで大軍勢を分断できる…」。信長の狙いは、三河勢を義元から切り離すだけでなく、朝比奈を含め、この大軍勢の「分断」にあったと思います。「義元は、自身の作戦だと思い込んでいるはず…」。「元康が大高城に入ったら、オレは動くぞ!」。信長の作戦の話しは、次回のコラムで…。◇魔王戦略私は思います。「沓掛城」で、義元が引き返さなかったこと…、一度立ち止まって考えを整理しなかったこと…、ここで運命は決したように思います。何かの一線を、人が越える時、そこには慎重さと、準備と確認が、絶対に必要だと感じます。時に、根拠のない覚悟や勇気、楽観は、邪魔にもなります。戦国時代に、身内や家臣の裏切りはないと考えてはいけないのだと思います。次回のコラムでは、その一線をやすやすと越えさせた、「魔王信長」の巧妙な作戦を考えてみたいと思います。この戦いの後、戦国時代の信長のすさまじい「魔王戦略」が続きます。「桶狭間の戦い」は、その本格的な始まりだったのだと思います。* * *コラム「麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)魔王信長」につづく。『麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)「魔王信長」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の作戦と戦術。信長の陰謀と暗躍。革命児 信長。奇跡はおこすもの。戦国武将の戦い…ameblo.jp2020.7.11 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 04Jul
      • 麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)「義元をつれてこい」の画像

        麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)「義元をつれてこい」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。今川の兵力と進軍方向。信長の戦い方と人事評価。雪斎だったら。赤い鳥逃げた。勝って兜の緒をしめよ。岡崎城・知立城・牛田城・刈谷城・実相寺。龍城図・知立古城屏風。麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)「義元をつれてこい」前回コラム「麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)心の本質をつけ」 では、織田信長と今川義元の視点の違い、信長の心理作戦、織田と松平の連合体制、桶狭間の戦いの本質のことなどを書きました。今回のコラムからは、いよいよ「桶狭間の戦い」の戦況のことを書きたいと思います。前回コラムでも述べましたが、この「桶狭間の戦い」には、隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。ですので、人の動き、時間、状況など、諸説が乱立しています。よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。私の想像も含めて、戦況を書いていきたいと思います。NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」専用サイトに、「トリセツ」というコーナーがあります。そこに、この戦いの時間経過や戦略が掲載されています。史料の信ぴょう性のことを書いた後で何ですが、一応、お知らせさせていただきます。◇今川軍の兵力前述のNHKのサイトには、今川軍は総勢2万人となっています。別のトリセツには2万5千となっています?史料は、大げさに書いたりすることも多いので、実数をつきとめるのは、なかなかむずかしいと思います。勝者側が、ことさら相手の兵力を大きく書くのが通例だと思います。現代でも同じですね。兵力の数をどこまでカウントするかによっても、総数はかなり変わってくると思いますが、臨時雇いの戦闘員も含めると、総勢2万から2万5千というのは妥当な数だとも感じます。駿河国だけの軍だったら、この数はいかないと思います。一応、トリセツには、今川軍2万のうち、6000名を駿府に残してきたとなっています。ですから残りは14000名です。私は、おそらくそのうちの3~4000名程度は、三河勢なのかと想像します。三河国や遠江国などの他国の総勢となると、約半分…もっと多い数かもしれません。ですから、駿河兵の半分近くを、駿河に残してきたことになります。息子の氏真(うじざね)は駿府においていきました。隣国の武田氏や北条氏と、三国同盟が成されたとはいえ、駿府にこれだけの数の兵を残すのは仕方がないかもしれません。とはいえ、この判断が運命の分かれ道となったのかもしれませんね。* * *京都での、織田信長・信忠親子の例をみても、親子がどのような地理的距離感の中にあって、どのような危機管理を行ったかによって、その武家の運命はまったく異なった道を進むのだと思います。個人的には、信長にはめずらしい「親心」が、あの結果を生んでしまったとも感じています。謙信しかり、信玄しかり、家康しかり、秀吉しかり…、偉大な親にとって、後継者は心配なことばかりです。親が偉大であればあるほど、放っておけば、親を越えていく子とは、そうそう生まれてこないものかもしれません。◇戦い方を変えた信長今川軍の進軍の道中に、今川軍の勝利を疑わない者たちが、勝ち馬に乗ろうと、どんどん加わった可能性も高いので、はっきりとした兵士数は、今川軍中枢部でさえ、わからなかったかもしれませんね。織田軍も、今川軍の主力の兵力だけしか把握できなかったことでしょう。* * *戦国時代の戦いでは、便乗組や、臨時雇いというのは、それほど期待できない兵力です。危なくなったら、すぐに逃亡するでしょうし、給金をもらったら、敵の軍に働きに行く輩(やから)もいます。この頃はまだ、軍団の中層、下層の兵たちは、基本的に普段は農民、漁師、猟師であったりしますので、戦争の時だけ、かり出されてきます。ですから、基本的に、戦国武将の戦いは農繁期や漁期を必ず避けていたのです。田畑に火をかけるような武将は、たとえ勝利しても、その国の民からは大きな反感をかうのです。* * *農家の次男坊、三男坊以下を集め、特別な訓練を行い、農繁期に影響されることなく、一年中どの時期でも戦える、大きな戦闘専門の集団組織を初めてつくったのが、信長ともいわれています。いわゆる「職業軍人」たちが、この頃に、急増したのだと思います。もちろん、農繁期には、彼らは手伝いにいったでしょう。武芸の鍛錬をつんだ武家の若者でなくとも、短期間に習得でき、効力の大きな兵器…、鉄砲や長槍(通常よりもはるかに長い槍)は、信長軍の主力兵器となっていきます。もはや武将どうしの「一騎討ち」の時代は終わろうとしています。兵士の武芸(剣術・弓術・馬術ほか)頼みの戦術では、戦国時代後期はもはや勝てません。刀、槍、弓、馬など、扱いがむずかしい武器ばかりでは、もはや大人数の軍団どうしの戦いでは対抗できなくなってきました。石、材木、油、水、火、楽器、天候、土壌、海、川…、すべてが武器となっていきます。かといって、戦闘専門の職業軍人部隊だけでは、もはや戦に勝てません。諜報部隊、調略部隊、運搬部隊、土木建設部隊、資金・物資・人員の調達部隊、医療部隊など、戦闘の専門部隊だけではなく、各分野に役割分担がしっかりなされていきます。現代の今の日本も、総理大臣のもと、各分野の大臣がいて、それぞれの仕事をしていますね。戦国時代の軍団組織も同じです。何となく、その武家の国に、その分野の人がいるという程度では、もはや強い国とはいえません。多くの専門部隊を、しっかり組織し、使いこなせなかった武将たちは、戦国時代から脱落していきました。◇信長の人事評価信長が変えていったシステムは、他にもたくさんあります。当時、それなりの階級以上の武士たちは、討ち取った敵の首や耳を、その場で身体から切り取って、腰にぶら下げ、次の戦場や敵に向かったりしていたのですが、このシステムを禁止させたのも、信長が最初だともいわれています。武士は、自身の手柄を証明しなければ、恩賞や昇進につながりません。戦場でのこうした行為は、けっこう時間を無駄にしますし、自身の身さえ危機にさらしてしまいます。今回の「桶狭間の戦い」でも、そのようなことがたくさん行われていましたが、信長の今回の目的は、義元の首が最優先です。他の家臣たちの首は、それほどの意味を持ちません。とにかく、信長は、家臣たちに、義元だけに集中するように命令を出します。* * *後に、「桶狭間の戦い」の「一番手柄」の武将の話しをコラム内で書きますが、軍団の生死をかけた今回の戦いに向けて、家臣それぞれの手柄の優劣などを考えることは、まったく意味がありません。むしろ、戦いをスピーディにすすめるには逆効果となります。家臣たちの意識を、ひとつに集中させるあたりは、さすが心理作戦上手の信長ですね。信長は、「桶狭間の戦い」の戦況の中で、いきなり人事評価システムを変更するのです。この「一番手柄」に関しては、次回以降のコラムで書きます。今の時代の企業団体の「人事評価」に近いものではありますが、信長の優れた「人事」コントロールの感性が感じられます。ここでも、おそらくは、普通の戦国武将にはない、信長の新機軸が発揮されたのだと感じています。「人事評価システム」を変えることが、戦の勝利につながるなどと、誰が思いつくでしょうか…、さすが革命児の信長ですね。そして、家臣の誰にも反論させない「評価」とは…。◇今川義元 出発このコラムでは、両軍の動向を、時系列に追っていきたいと思います。日付は、史料にある旧暦の日付を使用します。現代に照らすと、約1カ月遅れくらいの日にちです。* * *1560年5月12日、今川義元は駿府(今の静岡市)を出発し、徐々に兵力を加えながら、尾張国をめざします。13日に掛川、14日に浜松、15日に吉田城(豊橋市)、16日に岡崎城に到着します。軍隊の進軍には、通常、先鋒隊という先に進む別動隊がいますので、彼らの後を大多数の本軍が追っていくことになります。静岡市から岡崎市まで、今の東名高速なら140キロメートルの距離です。もちろん当時は徒歩移動です。4日間ですので、一日約35キロメートル、休日なしです。「沓掛(くつかけ)城」のある豊明市までは、あと31キロメートルです。なんとなく、進軍が速すぎる気もします。比較的平坦なコースとはいえ、兵士の体力はだいじょうぶでしょうか…。アスリートならまだしも、普通の現代人からみたら、考えられない気もします。遠足ではありません。この後、戦うのです。17日には知立、18日には敵国の目前の沓掛(くつかけ)に入ります。19日に戦闘開始ですから、兵士は、ほぼ休みなしです。身体はだいじょうぶかもしれまんが、精神的にはきつい気がします。* * *戦国時代の大軍団の進軍には、兵士の息抜きのために、陣の中に、酒場、博打、遊女などを用意した場所をつくることがよくありました。この進軍日程から考えると、連れていったのかどうかはわかりません。この遠征には、おそらく連れていかずに、現地調達であったのではと、私は思います。ただ三河国に入ってからは、数多くの酒宴が行われたようです。このことは、次回以降のコラムで書きます。この日程を見ると、進軍先の敵軍の動きをじっくり調べ、ワナが仕掛けられていないか、状況を観察するようにはあまり感じられません。大軍師の雪斎が生きていたら、こんな拙速な進軍をしたでしょうか…?* * *一応、今回のコラムは、「桶狭間の戦い」を信長と元康、それに加えて水野信元による作戦だという前提で、話しを進めてまいります。元康は、一応、今川軍の配下として、ずっと義元とともに行動し、重要な場面で、信長勝利の役割を果たすことにします。下記のマップを使って、考えてまいります。◇岡崎城から始まった今川軍は、1560年5月16日に岡崎城に入りました。ここで簡単に、岡崎城のことを書きます。歴史ファンであれば、言わずと知れた、徳川家康が生まれた城…、それが岡崎城ですね。どんな城であろうと、家康が生まれた城というだけで、特別なお城ですね。* * *1455年頃には、岡崎の明大寺周辺に、初めてお城ができあがったいたようです。築いたのは、西郷頼嗣(さいごう よりつぐ・別名「青海入道(せいかいにゅうどう)」)です。何…西郷!この頃は、8代将軍 足利義政の時代です。岡崎城(龍燈山城〔りゅうとうざんじょう〕・龍城〔たつがじょう〕)は、銀閣寺よりも40歳ほど年上です。この頃の東京では、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城をつくりました。西郷氏は、本拠の明大寺の近くの場所に、小さなお城と堀を築いたようです。三河国の有力勢力である松平一族の、多くの分家の中で、安祥松平家(安城市)の松平清康(家康の祖父)が、西郷頼嗣の子である西郷信貞(松平昌安・岡崎松平家)からこの城を奪取し、武力で三河国を統一します。そして、城を今の場所に移転します。名称を「龍燈山城(りゅうとうざんじょう)」、「龍城(たつがじょう)」とします。今の岡崎城です。この城には龍神伝説がありますね。「麒麟」ではありません…。* * *戦国時代は、石垣はなく、江戸時代以降の壮大な城郭とは比べものにならないくらいの小規模な城であったのかもしれません。清康と広忠(家康の父)の時代に、徐々に整備されていったのだと思います。広忠の不審死により、三河国の大半と、この岡崎城も、今川義元の支配下になり、「桶狭間の戦い」が起こる頃は、今川家から城代がやってきて管理されていました。今、江戸時代初期に描かれたと思われる「龍城図」という絵が残っています。今よりもはるかに広大な敷地で、大きな樹木の林に、松の木もたくさん描かれています。森や森林の中に、点在するやぐら群が見え、まさに松の林の中に林立する城郭だったのかもしれません現代の今でしたら、広大な森林公園の中に、やぐら群が建ち並んでいるような光景だったのかもしれません。歴史ファンや城郭ファンからしたら、夢のような光景です。「龍城図」では、お城の石垣が描かれていますので、「桶狭間の戦い」の頃よりは、かなり拡張されていたとは思いますが、何となく戦国時代を彷彿とさせる、私もお気に入りの絵です。どうぞ、皆さまも「龍城図(たつがじょうず)」で画像検索して、一度ご覧ください。これが岡崎城の本来の姿です。* * *今の岡崎城は、別の意味で、「家康ランド」のようです。ここで、ある城郭マニアの方のブログをご紹介いたします。「tany703」様のブログ「100名城制覇をゆるく目指す」です。まさに、女性目線の、心地よい、ゆるい「城探訪」のブログです。アメーバブログの中で、岡崎城を、6回に渡ってブログに書かれています。まさに、観光で旅をしている気分を味わえる、楽しいブログです。岡崎城ブログ(1)岡崎城ブログ(2)岡崎城ブログ(3)岡崎城ブログ(4)岡崎城ブログ(5)岡崎城ブログ(6)「tany703」様いわく、「いろいろ残念な大手門」から、岡崎城散策が始まります。たしかに、歴史やお城ファンからしたら、少し残念な部分もある、今の岡崎城ですが、「家康ランド」だと思えば、十分楽しめそうです。つい「健康ランド」と書きそうになりました…。「家康さん、会いに来たよ…。今でも忠勝さんといっしょなんだね…」。樹木が多すぎて、天守閣がよく見えないと不満に思うよりも、前述の「龍城図」を頭に浮かべながら、松林の中を散策してみるのも楽しいと思います。ここから徳川(松平)の歴史が始まった…、この城から始まって江戸城にたどり着く…と思えば、感慨ひとしおです。* * *それよりなにより、この岡崎城は、松平氏が「西郷氏」を倒して奪った城だったことには、驚かされます。400年後、徳川(松平)の江戸幕府は終焉を迎え、江戸城は無血開城します。江戸城を渡した相手は、西郷隆盛でしたね。こんなことって…アリ?そうでした…、この岡崎城こそ、今川義元が、「桶狭間の戦い」の直前に、わがもの顔で入城したお城です。彼が城を満喫できるのは、あと二つの城だけとなりました。さて、今川軍の話しに戻ります。◇義元はどこに向かう?信長から見た場合に、今川軍がまずは、岡崎城から先に、どこに向かうのかが、非常に気がかりだったと思います。通常は、敵に、大将の動きが察知されないような行動をとったり、偽装部隊を使ったりもしますが、今川軍には、そうした雰囲気がありません。すんなり知立(ちりゅう)に向かったように思います。* * *今回の今川軍の進軍目的は、一応、今川の城である「大高(おおだか)城」と「鳴海(なるみ)城」の救出、西三河の制圧、それに尾張国(織田氏)との戦闘だったとは思います。信長が、義元の命だけに狙いを絞っているのに対して、義元は、結構あれもこれも狙った気がします。今川軍が、岡崎あたりから、「鳴海城」にいきなり、まっすぐに向かうのはリスクが非常に大きいので、「沓掛(くつかけ)城」か「大高城」のどちらかに、義元本軍が向かうのだろうとは想像できます。まさか海路は使わないとは思います。信長からしたら、義元がどこに向かうかによって、後の作戦が大きく異なりますので、義元本軍が、大高方面か、沓掛方面のどちらに向かうかは非常に重要だったと思います。後の展開を考えると、信長は、義元には「沓掛城」に向かってほしいと考えていたかもしれませんね。戦国時代の武将からしたら、「向かってほしい」で、いいはずがありません。何が何でも「向かわせろ」…、これが戦国武将の発想だったはずです。「義元を沓掛城につれてこい」…、このような信長の命令が出ていたのではと、私は感じています。◇もし、雪斎だったら…「桶狭間の戦い」はとかく、神秘のベールに包まれた信長の作戦のことが、まことしやかに語られますが、今回は、少し義元側に同情して、今川軍だったらどうしたら負けないですんだであろうか、雪斎になったつもりで、少し考えてみたいと思います。ここまで書いてきたとおり、私は、これまでの今川軍の戦略や勝利のたいはんは、雪斎のチカラだったのではと思っています。武田信玄、北条氏康、上杉謙信と、同等に渡り合ってきた力量だったのですから、雪斎が生きていたら、桶狭間でこんな無様な負け方をするはずはないと思っています。ここから私は、恐縮ですが、雪斎になったつもりで、作戦を考えてみます。「歴史を愉しむ」とは、実際に起きなかったことを想像してみるというのも、その中に含まれますよね。皆さまも、どうぞ、いっしょに作戦を考えてみてください。* * *有力な戦国武将たちに、国の周囲を囲まれている中での戦いとなると、それはそれは、作戦を慎重に進めなければ、すぐに討ち取られてしまいそうです。今川軍は、岡崎城までは、順調に来れるでしょう。でも、そこは三河国内です。一応、織田方には、三河国の有力な武家で、武将たちをたくさん抱えた水野氏がいるのです。この時点では、刈谷城周辺が水野信元の勢力範囲です。おそらく、今からの調略は不可能です。* * *今川軍が、岡崎城から沓掛城に向かうには、その前に、知立城周辺で水野勢と戦わねばなりません。知立周辺の水野勢はどのような姿勢でいるのでしょう?同じ水野一族の信元と連動しているのでしょうか?雪斎だったら、まずは、水野勢の様子を見たのではないかと思います。知立城周辺をけん制しながら、刈谷城や緒川城を、軽く攻撃してみるのもいいと思います。この時に、信長と織田軍が尾張国の清洲城にいることは、おそらく確認済みだったはずです。この時の今川軍の勢力であれば、刈谷で水野勢に負けるとは思えません。「村木砦の戦い」の時の敗戦のようなことは、まずないと思います。ここで、刈谷の水野信元率いる水野勢が、今川軍と戦わずに、素通りさせたら、尾張国境で信長が待ち構えているか、どこかに今川軍を誘導しようとしているのは間違いないと雪斎なら感じたでしょう。より強力な今川軍の防御体制をとろうとしたと思います・もしここで、今川軍が、刈谷周辺と知立周辺をおさえておけば、安心して、沓掛城方面でも、大高城方面でも、どちらでも選択できます。ただ、ここから先は、信長が熟知する適地に入りますから、慎重に慎重を重ねて進むべきでしょう。桶狭間のような、敵が潜みやすい起伏の多い地形の場所は、絶対に通ってはいけません。江戸時代の参勤交代でもそうでしたが、西国から江戸に向かう時は、特定の藩以外はすべて、中山道や東海道を使いました。危険性をはらむ甲州街道は絶対に使ってはいけないのです。あくまで、甲州街道は、両主要街道の中間にある、軍事作戦ルートでした。* * *私がもし雪斎だったら、刈谷で、それなりの規模の戦いを行ったとしても、岡崎から、刈谷を経て、大高城の手前まで全軍で進みます。大高城は、当時はほぼ海岸近くで、潮の干満によって、入城できる時間に制限があります。義元を、大高城には入れません。すでに、背後の刈谷方面から、水野勢が攻撃してこれない状態になっています。この伊勢湾沿いの海岸のある場所で、今川の水軍の到着を待ちます。いざという時は、義元を船で逃がします。それよりなにより、雪斎なら、義元をこの地域に連れてこないでしょう。今川の全軍でここまで来て、大高城を救出し、周囲の織田の砦群を全軍でつぶします。砦(とりで)の人の出入りは、絶対に管理下におかなければいけません。ここで、今川軍の一部、この場合なら、信頼のおける朝比奈軍を中心に、今回がんばりたい井伊軍をつけて、鳴海城に向かわせます。何なら、鳴海城には、海側から入ります。鳴海城の周囲にある織田軍の砦(とりで)には、総攻撃ではなく、押したり引いたりの戦法です。とにかく織田勢の「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」と、特に「中島砦(なかじまとりで)」は、怪しさいっぱいです。一部の武将を調略して、織田軍から今川軍に寝返らせるのはこの時です。* * *松平元康の軍は、義元がいつも目の届く、すぐ近くに置いておきます。元康軍をいつでもおさえこめる兵力は、今川本軍に残しておきます。沓掛城には、今川の信頼のおける武将と、三河勢を組み合わせた別動隊を向かわせます。三河勢の猛者たちを、元康のもとに集めておくのは不安です。岡崎から、別動隊を直接向かわせるのは、義元本軍の防御が弱くなるし、織田軍に作戦を察知されるので危険です。武田信玄であったなら、もっとも険しい難しいルートを進軍したと思います。今回の戦いでは、沓掛城の北側の状況が、よくわかりません。沓掛城に、もし義元本軍を入れた時に、北側から猛烈な攻撃を受けると、逃げ道は一本しかありません。沓掛城の北側を調べた上でなければ、義元本軍を沓掛城に入れるのは危険だと思います。美濃国の斉藤氏と信長が、もし連携をとっていたら、今川は沓掛城で完敗です。* * *とにかく、この地域は信長が熟知する場所です。桶狭間はもちろん、山や丘、谷、川は、ワナが待ち構えていると考えるのが当然です。私は、尾張国は特に、城や砦だけでなく、神社や寺も、非常に危険な場所だと考えたほうがいいと思います。今川が、織田氏のこれまでの戦い方を知らないはずはないのですが…。今川本軍は、大高城付近の、潮の干満の影響を受けない台地に陣をはり、日にちをかけて、この地域の状況を調べた上で、まずは小さな規模ではあっても、危険な中島砦を、大物量作戦でつぶしておかないと、どんなワナがしかけてあるのか、怖すぎます。だいたい、もうすぐ梅雨という時に、やって来るなよ…!中島砦は、誰が見ても、動物を獲るために森の中に仕掛けた「ワナ」のように見えますね。* * *兵士に休養もとらせずに、ワナや土地の状況も調べずに、敵の布陣や動きを見てから反応するような、お粗末な作戦では、到底、戦国時代は生き残れないと思います。戦国時代の戦いは、後手に回った時点で、ほぼ負けです。時に軍を退かせるのは、後手とは限りません。ですが、軍事作戦の進捗は、常に先手でなくてはならなかったと、私は思っています。* * *雪斎なら、信長と決着をつけずに、ある程度の段階で、駿河に引き上げたであろうと思います。ここまででも、西三河をある程度支配下におくことになり、十分な成果だと思います。信長本人の命を狙うのは、次の段階でいいのだろうと思います。今川が、武田信玄と手を組んで、連合軍となって、尾張国と美濃国をひとまとめに、たいらげることもできないこともなかったような気もします。起きなかった歴史は、想像の世界で、広がるばかりですね。今思うと、甲斐国の武田信玄は、雪斎のいなくなった義元と今川軍の弱体化を、感じ取っていたのではとも感じます。さあ、織田信長の戦いっぷりを見てやろう…。信玄は、もはや隣国同然の尾張国の信長のことを、じっくり観察したのかもしれません。武田軍はすでに、山本勘助を通じて、伊賀や甲賀の忍びの技術を導入していたはずです。強い戦国武将とは、そうしたものですね。◇義元を知立に私は、信長は、義元が沓掛城に向かうケースと、刈谷を越え大高城方面に向かうケースの、両方を想定したのだろうと思います。後者の場合は、水野氏に刈谷あたりで抵抗させずに、すんなり義元を大高城近くまで進軍させたであろうとも思っています。信長にとって、要の場所は、あくまで「桶狭間(おけはざま)」です。信長が、尾張国から離れた刈谷あたりまで、のこのこ出てきて、一大決戦に及ぶはずがありません。これは織田流の戦い方ではないと思います。* * *沓掛城の近くには、大軍勢が通りやすい、主要街道の鎌倉街道が通っていますので、義元が安全に沓掛城までたどり着けます。義元が、安易に安全な道のほうを選択したのかどうかはわかりません。家臣たちの進言なのか、軍議で決定したことなのかも、わかりません。駿河の御曹司…、知立の有名な池の鯉(コイ)や鮒(フナ)、終わったばかりの「馬市」の馬たちを見てみたいなんて…まさかとは思いますが…。桶狭間マップのとおり、義元は、岡崎を出て、知立に向かい、その後、沓掛方面に向かいます。* * *信長は、義元が岡崎に着いた段階で、吉良氏ゆかり実相寺(西尾市)がある街に火をかけ、今川軍の出方を見ます。その反応を見れば、義元の考え方や、向かう方向が予測できますね。もし、信長が、義元を沓掛城方面に向かわせたい場合はどのように誘導したらいいでしょうか?ここからは、私の想像です。* * *今の西尾市の実相寺付近で、火の手をあげ、信長軍の兵が何かを起こそうとしているという雰囲気を、義元に感じさせます。さらに、今川軍が、もし実相寺付近に軍団の一部を回すとなると、刈谷方面から織田方の水野勢が攻撃してくるという雰囲気を、義元にあえて感じさせたかもしれません。今川軍が、西尾周辺に軍を回すと、それなりの規模の戦闘になると思わせたのかもしれません。信長自身が、尾張国にいる以上、義元が目指すのは尾張国です。もし、今川軍が西尾方面に軍の一部を回してきたら、刈谷の水野勢を撃破し、その先に向かう可能性大です。もし、今川軍が西尾の動きを無視するとなると、沓掛方面に向かう可能性大です。今川軍が、ここで進軍日程を遅らせ、戦力を減らしてしまうような戦闘行動に出るのかどうか…、信長は、この時点で、義元の考え方と作戦を読もうとしたとも考えられます。雪斎と実相寺の関係性を考えると、雪斎が生きていたら、実相寺を見殺しにしたとは思えません。ですが、今の今川軍に雪斎はいません。それなら、この実相寺付近での信長軍の蜂起や挑発は、試してみる価値ありだと思います。* * *さらに、信長は、水野氏一族を使って、別のワナを仕掛けた可能性も高いと思います。牛田城などの知立周辺の一部の城にいる水野勢に、戦う姿勢を今川軍に見せつけ、今川軍を手招きするように挑発させます。一方、知立城の水野勢には、寝返って今川軍に味方すると見せかけたかもしれません。義元に、水野一族が、一族内で織田派と今川派で割れていると思わせようとしたかもしれません。牛田城などの知立周辺の水野勢は、あたかも、あえてそうしたかのような戦いをして、敗戦となります。その中で、知立城の水野勢は、義元を城に呼び、丁重にもてなしたのかもしれません。義元は、すんなり岡崎城から知立城に入ります。もともと、水野一族はしたたかな一族で、陰謀が得意のあなどれない一族でしたね。一族の片方は戦ったふり、もう片方は義元を歓待した可能性もあります。同じ一族で、この両極端な態度をされた場合、あなたなら、どうしますか…?両者ともたたきつぶしますか…。片方には、ワナにかかったフリをしますか…。それとも別の手段をとりますか…。戦国時代の軍団の勝敗は、こうしたことでも、決まってしまいます。* * *水野政興の活躍話しが残る牛田城ですが、少し戦ってすぐに落城します。そこはそれ、陰謀の水野一族です。政興はとっくに逃げていたようです。この近くの今崎城(来迎寺城)でも戦いがあり、すぐに落城します。* * *これらの戦いで今川軍の中で活躍したのが、井伊直盛(直虎の父・家康の正室になる築山とは親戚))です。直盛は、今回の「桶狭間の戦い」に関連する一連の戦いで、相当にがんばってしまいます。井伊氏が、三河勢だったらよかったのに、浜名湖があるお隣の「遠江(とおとうみ)国」の武士でした。義元本軍は、水野一族の配下であった永見氏の居城の「知立(ちりゅう)城」に入城します。今回の尾張遠征で、義元は、何か豪華ホテルを泊まり歩いているようにも見えてきますね。この頃から、小競り合いで勝利するたびに、酒宴が開かれ始めたのかもしれません。牛田城、今崎城、知立城…、そして実相寺…、何か怪しい雰囲気いっぱいです。* * *いずれにしても、義元が、岡崎城から、刈谷方面をまったく気にすることなく、知立城にすんなり向かったのは、かなりおかしな行動にも感じます。信長や水野氏の陰謀に、義元が引っかかったのであれば、理解しやすい気がします。義元が、岡崎城で、松平元康に作戦に関して、相談したとは少し考えにくい気がします。「もはや雪斎様はおられません。殿の御存念のとおりに…」。このくらいのことは元康は言ったかも…。もし、このあたりで、元康が、日数をかけ慎重に行動する義元の姿を見たならば、この先の自身の行動に影響したかもしれませんね。元康は、ここで義元に見切りをつけたのかもしれません。信長のほうが、はるかに実力が上か…。* * *戦国時代の武将であれば、通常、支配下とはいえ他国の領地に入れば、その進軍方向と進軍スピードは慎重に判断しなければなりません。織田軍、武田軍、上杉軍、徳川軍…、みな時間をかけ慎重に進軍しましたね。他の有力武将であれば、数日かけて周辺地域を調べたり、敵を惑わすような偽装工作を行ったりしますが、今川軍にそんな様子はうかがえません。今川軍からしたら、「村木砦の戦い」で織田水野連合軍に、完全に敗北した刈谷方面に向かうのには抵抗があったのでしょうか…。個人的には、今川軍にとって、この進軍方向の決断は、相当に重要な決断の場面だったと思っています。今川軍が、岡崎から知立方面、すなわち沓掛方面に向かったことは、今川軍にとって正しかったのでしょうか…?◇知立城屏風絵現代の今、牛田城や知立城の城跡には、記念碑のようなものしかないようです。城郭の様子を想像させるようなものは残っていません。今、知立城跡には、記念碑や、知立城を描いた屏風絵の案内板が立っています。この屏風絵には、岡崎城、知立城、桶狭間山、鳴海宿、刈谷城あたりまでが描かれており、歴史ファン必見の屏風絵です。江戸時代初期の絵だと思いますので、それぞれの距離関係はかなり不正確な内容ですが、「桶狭間の戦い」の頃のその地域の雰囲気が、ヒシヒシと伝わってきます。ずいぶん山の中だなあと、実感できると思います。どうぞ、「知立古城址」で画像検索して、一度ご覧ください。「御殿」と書かれた部分が「知立城」で、その左下の緑色の山が、「桶狭間山」です。桶狭間山の右下が「刈谷城」です。桶狭間山のすぐ上にある街道を左に行った先に「鳴海城」があった「鳴海宿」が見えます。屏風絵写真の右下の隅の城が「岡崎城」です。桶狭間山の左下に茶色の山が描かれていますが、これが大高城あたりのことなのかどうかはわかりません。もしかしたら、家康に絡む部分は屏風絵の雲の中に隠したのかもしれません。昔の屏風絵は、都合の悪い部分を、よく雲を描いて隠してしまいます。ようするに、広義の意味の「桶狭間の戦い」の範囲は、この範囲だということです。おそらく、昔の武士たちは、こうした屏風絵を見ながら、「桶狭間の戦い」を思い出し、戦い方を学習していったのだと思います。下記のマップが、おおよそその範囲です。◇戦国時代の武将の戦略この時の、今川軍の軍議(作戦会議)の様子は、私にはまったく想像できません。雪斎が生きていた時は、彼が立案した作戦を、義元や家臣たちが聞いていただけだったのかもしれませんが、この時はどうだったでしょう。義元の原案に、意見を言える家臣などいたのでしょうか…。松平元康が、何か意見を言える立場だったのでしょうか…。絶対的な知恵者がおらず、皆で、愚案をこねくり回していたのでしょうか…。雪斎が生きていたら感じたかもしれません…、どうも、すんなりことが運びすぎている?戦国時代に、しっかり のし上がった武将たち…、みな相当に慎重で、疑り深かったですね。* * *ここで、戦国時代の武将の戦略について、少しだけご紹介します。これは、現代のスポーツ選手の戦い方にも似ています。特に、世界各地を転戦するような、ワールドマーケットの競技などで見られる傾向で、国内戦では、あまり見られないかもしれません。オリンピックの前年に、日本の選手は各世界大会で、かなり優秀な成績をあげることが多いのですが、いざ本番のオリンピック大会になったとたんに、予選落ちということが、ひと昔前はよくありました。これは、個々の選手のプレッシャーに対する問題ばかりが原因ではありません。前年の外国勢相手の競技大会で、外国選手は、あえて敗戦したりすることがよくありますね。これは、次の年のオリンピックで勝つためであったりします。ひと昔前は、日本チームは、予選で全勝して、本戦トーナメントで初戦敗退ということも多くありました。優秀な監督ほど、予選を全勝しようとしなかったりします。実は、戦国時代の戦国武将の戦い方も、さまざまな戦い方がありました。特定地域の領土争い、領地の拡大、他国への侵略、自国防衛、敵対勢力の消滅など、その目的によってすべて戦い方が異なります。前述しましたが、今回の今川軍の戦闘目的は、一応、今川の城である「大高城」と「鳴海城」の救出、西三河の制圧、それに尾張国との戦闘だったと思います。今回の「桶狭間の戦い」での信長の目的は、今川義元の命だけに絞られています。ですから、信長には、いくつもの戦場での連勝などまったく必要ありません。もっとも重要な一戦だけに確実に勝利すればいいのです。場合によっては、軍団として戦で負けても、義元の命が取れれば、目的は達成です。でも暗殺では、効果が非常に薄いものになってしまいます。ただし、戦況によっては、選択肢のひとつだったと思います。前述の世界レベルのスポーツの戦いでは、あえて負けることで、敵のいろいろな情報を得ることもできますね。オリンピックでの勝利、ワールド大会の優勝だけが目標の場合は、他の大会での勝利はむしろ邪魔なものになってしまうことがあります。日本選手の中には、前年の世界大会で負けた時ほど、オリンピックに強かったケースもありましたね。* * *この「桶狭間の戦い」のケースでしたら、三河国内での織田勢の敗戦は、あえて負けていったものだったと、私は思っています。へたに織田勢が勝ってしまっては、義元が桶狭間に来ない、自身(義元)の防衛体制を強化する…、これは信長の望むかたちではありません。信長が勝利するのは、ただひとつの戦い、桶狭間でのあの瞬間だけでいいはずです。戦国時代の武将には、こうした敗戦がたくさんあり、ひとつだけの重要な勝利というものも、たくさんありました。戦(いくさ)により、目的も、戦い方も、勝ち負けでさえも、いろいろなケースがありました。戦国時代では、敗戦によって、敵の戦法、敵の防衛能力、武器の質や量、調略できそうな武士、武力に長けた武士、敵軍の弱点などが、わかってくる場合があります。現代の今のプロ野球選手が、あえて空振りして三振し、次のチャンスの打席でホームランを打ったりすることがありますが、よく似ています。実力者は、しっかりと自分なりの戦法を持っていますね。戦国時代の有力な武将も、現代のスポーツの監督も、勝ち過ぎには、非常に注意していましたね。ほどほどの事前の勝ちか負け…、事前に手の内を見せない、感じさせない…、情報をとられるくらいなら負けろ…、大事な決戦に向けた、戦い方の極意のようです。今川軍に雪斎が生きていたら、信長の狙いに、絶対に気がついたはずだと感じています。「信長は、我々を、沓掛城に誘い込みたいのではないか…?」。我々が行いたい作戦ではなく、敵が我々に行ってほしくないことを、選んでする…、これが雪斎のやり方だったと感じます。これだって、立派な作戦のうちですね。今川の御曹司…、だいじょうぶか?◇必らず 近きうれいあり今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、ドラマ内容に関連した、日本や中国の故事のことざわや故事成語などが、時折挿入されてきますね。その回の内容を集約したものが多いので、その意味が、非常にわかりやすく伝わると思います。第二十回「家康の文」でも、冒頭シーンで、多くの子供たちが、光秀から「論語のことわざ」を学んでいるシーンが出てきました。「人にして、遠き慮(おもんぱか)り無ければ、必らず、近き憂(うれ)いあり」。ドラマ内で、光秀は、子供たちに、その意味をこのように説明しています。「人は、はるか先のこと、はるか遠くにいる人のことに、たえず気を配るべきである」と。ドラマ内容にあわせた、若干の意訳でもありますが、「遠くない近きもの」だと感じます。義元は、遠くにいる信長の心に、もう少し気を配る必要があったのかもしれませんね。◇勝って兜の緒をしめよ「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」は、駿河の隣国の北条氏綱が、息子の氏康に残した有名な言葉ですが、もちろん隣国の駿河国の義元には届いていませんでしたね。この言葉の狙いは、「たとえ勝利したとしても、敗者の本当の狙いに気をつけろ。油断してはいけない。」という意味も込められています。自身の気の緩みだけを戒めたものではないと思います。現代社会でも、しっかり使われている、この言葉です。兜(かぶと)の緒(お・ひも)をしめるのは、自分の気持ち(油断)をしめるだけが、目的ではありません。ここからが、防衛戦という戦いの始まりなのです。* * *コラム「麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)三河煮込み」では、尾張(織田氏)・三河(松平氏・戸田氏・水野氏)・駿河(今川氏)による、まさに「大陰謀合戦」のことを書きました。大河ドラマ「麒麟がくる」は、美濃国の明智光秀のお話しが中心ですが、美濃国も、美濃・近江・越前の三か国で「大陰謀合戦」だらけです。尾張・美濃・三河を中心に、周辺の隣接国を含め、この濃尾平野あたりでは、まさにこの二か所を拠点に、恐ろしく壮絶な「大陰謀合戦」が繰り広げられていました。こうした陰謀話の数々…、子供たちに、どのように話したらいいのでしょう…。理解するにも、年月がかかりそうです。* * *「首を洗って、待っておけ」という言葉がありますね。一説には、最初にこの言葉を言ったのは、徳川家康だともいわれています。この言葉の意味を説明しますと、戦国時代では、敵の武将を討ち取った場合に、その首を斬り落とし、「首実験(本人検証作業)」のために持ち帰り、その首を水できれいに洗い流す行為が行われていたのですが、相手の敵に向かって、自身が死ぬ前に、敵が行うその行為を、自身の手で事前に行っておけという、相手への死の宣告という意味の言葉です。「これから討ち取りに行くので、死の覚悟と準備をしておけ」というものです。実際に、そんなことをする武将はいませんが、もし武将が自身の兜の緒をゆるめることがあれば、それは自身で首を洗っておくようなものです。兜の緒をゆるめたとたん、その国の大将は首をとられたのです。松平清康も、松平広忠も、戸田康光も、斎藤道三もそうでした。次は誰…。◇赤い鳥逃げた…実は、今回の大河ドラマ「麒麟がくる」の中では、義元の陣に、めずらしい家紋入りの軍旗が登場してきました。私は、時代劇ドラマの中で、この家紋を目にした記憶がほぼないくらいです。妙な、「櫛(くし)」のような形の紋様です。これは「赤鳥紋(あかとりもん)」という、今川家が使用した複数ある家紋の中のひとつです。この「赤鳥紋」の紋様の由来は、女性用の櫛(くし)を掃除する道具であるとか、女性が馬に乗る際の敷物であったとか、そもそも馬の身体の垢(アカ)をこすり取る道具であったとか…、いろいろな説があります。とはいえ、今川家にとっては戦勝にゆかりのある、縁起のいい「赤い鳥」の家紋だったともいわれています。非常にめずらしい家紋が、大河ドラマに登場してきたので、思わず「ミ・アモーレ」と叫んでしまいました。やはり…、馬つながりなのか、義元は、あの城に向かってしまったのですね…。何かに引き寄せられているようにも見えます。宿命だったのか…。桶狭間から、純粋な心の「赤い鳥」は、「♪ミ・アモーレ」の国に飛びたっていったのか…。(注)「♪ミ・アモーレ(赤い鳥逃げた)」は、中森明菜さんのレコード大賞受賞曲です。* * *それにしても、今川義元は、知立城を出発し、よく、あのような不吉な予感のする、不気味な名称の城に向かったものです。その城こそ、義元が過ごす、最後の城となります。まさか新しい履物(はきもの)に、履き替えていなかったでしょうね…。義元は、その城で、履物を新調してしまったのかもしれません。そのあたりは、次回コラムで…。* * *雪斎に育てられ、大きな陰謀の中で、予期していなかった今川家当主にまつりあげられ、雪斎の手の中で、ここまでやってきた義元…。雪斎がいなくなり、義元は、行ってはいけない場所に行ってしまい、してはいけないことを、してしまったのかもしれませんね。人間の宿命や運命とは、いったい何なのでしょう…。歴史上の人物たちは、みな何かの役割や仕事を終えるように、去っていきます。義元は、雪斎の「鳥かご」から、長い間ずっと、飛びたちたかったのか…。大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、片岡愛之助さんが演じる今川義元の最期のシーンで、その子供のような素直な表情にも見える義元の目に映ったものは…。もういいよ…自由になりな…、「赤い鳥」の義元さん。それにしても、「歴史」というのは、学校の学習科目などではなく、「人間ドラマ」そのものですね。愛之助さんの旅立ちのシーンは、何か「さみしさ」と「切なさ」を感じました。* * *5月16日に岡崎城をたった今川軍は、17日に知立城に宿泊し、18日に、いよいよ「沓掛(くつかけ)城」に入ります。いよいよ決戦の直前となりました。次回のコラムでは、「沓掛城」のお話しなどを書きます。◇実相寺最後に、前述しました、信長が火をかけた、今の西尾市にある、吉良氏ゆかりの「実相寺(じっそうじ)」のことを少しだけ書きます。この時の火災で実相寺は全焼し、その後、家康の命により、家臣の、あの鳥居元忠が、仏殿(釈迦堂)を別の寺院から移築し、実相寺を再興します。実相寺の今の釈迦堂は、調査によると、「桶狭間の戦い」のおそらく10年後あたりに、移築された建物のようです。最初に建築されたのは、その戦いよりも前のようです。あの京都・養源院の「血天井」でも有名な鳥居元忠の働きにも驚きますが、「桶狭間の戦い」と同時期かそれより古い建物が残っていることにも驚かされます。元忠は、松平元康(家康)が幼い頃の人質時代からの仲間で、彼の最期も家康のための死でした。家康の悔しさは尋常ではありませんでした。鳥居元忠も、その生き様と関連した建物の部材が、しっかり現代まで残っていますね。実相寺と、何かの宿縁を感じます。* * *古戦場跡の記念碑や、江戸時代に改築された城などを眺めるよりも、こうした当時のお堂のほうが、「桶狭間の戦い」や信長、義元に、何か近づけたような気もしてきます。お堂の中には、戦国時代の空気が残ったままなのかもしれませんね。ここで、 尾張や三河の歴史にお詳しい、「モリガン」様のアメーバブログの中にある、「実相寺」を紹介するページをご紹介いたします。モリガン様の実相寺のページ今川家の発祥は、実は西尾のこの地域です。吉良家の分家として枝分かれし、この地を所領とします。今川義元が、この地をその手に取り戻したい気持ちも、よくわかります。今川の聖地を、織田に渡せるものか!戦国時代の武将たちはみな、自分たちのそれぞれの宿願のために、戦いをしていたようにも感じます。誰が、最後まで あきらめないで戦い続けたのか…。あきらめるくらいなら死を選ぶのか…。実相寺の釈迦堂には、いったい何が残っているのでしょう…。「桶狭間の戦い」で、討ち取られた義元の首は、桶狭間の地から、今川の聖地である、この西尾の地にもたらされます。義元さん…、やっと戻ってこれました。* * *「tany703」様、「モリガン」様のご協力に、深く感謝申し上げます。コラム「麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)最後の一線」につづく。『麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)「最後の一線」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。どうして桶狭間。沓掛城と祐福寺。松平元康と朝比奈泰朝。蜂須賀小六と簗田政綱。服部一忠と毛…ameblo.jp2020.7.4 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 01Jul
      • 麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)「心の本質をつけ」の画像

        麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)「心の本質をつけ」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の視点の違い。信長の心理作戦。信長の土木技術好き。織田と松平の連合軍体制。桶狭間の戦いの本質。麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)「心の本質をつけ」前回コラム「麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)三河煮込み」では、織田氏と今川氏の間で苦悩する三河国の武士たちのことを書きました。今回のコラムでは、そんな三河国の武士たちのことを、信長や義元が、どのような思いで見ていたのかを想像してみたいと思います。大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の中でも、それをうかがわせるシーンがたくさん登場してきましたね。私は、信長と義元の思想の差が、まさに「桶狭間の戦い」の勝敗を左右したと感じています。* * *いち歴史ファンとして個人的に感じるのは、戦国時代の武将どうしの競争から、不本意に脱落していった武将には、何か共通するものを感じます。もちろん突発的な病気や暗殺で脱落していったケースも少なくありません。ですが、本人の資質や思想により脱落していった者も少なくなかったと感じています。これは、防げたことだったのかもしれません…。おそらく現代社会にも通じる話しだと感じています。◇今川義元の選択大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の中で、片岡愛之助さんが演じる今川義元は、堺正章さんが演じる医者の「東庵(とうあん)」を呼び寄せ、話しをします。義元は、東庵に問います。松平元康は、信用していい人間なのかどうか…。ドラマの中では、今はなき、今川軍の軍師の「雪斎(せっさい)」が、その眼力を認めていた東庵だったからです。ドラマの中で、義元が抱きかかえる猫は、まさにウサギを狙って凝視していましたね。東庵は、信用していいとも、信用するとあぶないとも、どちらにも解釈できるような返答をします。でも、ドラマの中の義元は、自分に都合のいいほうに勝手に解釈してしまいます。「そうであってほしい」、「そうであるに違いない」…、そんな思いや、思い込みが、先行してしまったのかもしれません。人は時に、自分の願望によって、ものごとを見誤ってしまうことがありますね。義元は、松平元康…ようするに三河勢が、もし信長側に回ったときの危険性を置き去りにしてしまったのかもしれません。ドラマの中で、義元は、東庵のこの言葉を、正確にしっかり理解する必要があったのですが、その広すぎる広間に、助言してくれるはずの雪斎の姿は、もうありません。抱きかかえていた猫は、どこかに去っていってしまいました。* * *私は思います。「今回、自身(義元)が出陣して、義元が雪斎の代わりをしようなんて、数十年早い…、いや できない」。「海道一の弓取り」とは、雪斎が生きていた時までのことだった」と。そもそも、信長が、この戦いに全身全霊をかけた大勝負に出たのは、義元本人が出陣してきたからこそです。私は、義元本人がこの戦いの前線に出てこなければ、信長は、これほどの大勝負に出たとは、到底 思えません。私は、義元が、自身でそのきっかけをつくったのだと感じています。◇今川義元の視点もうひとつ、大河ドラマの第二十回「家康への文」の中では、義元が元康を見る大事な視点が描かれていました。その台詞の中で、義元が、元康を、幼い頃からしっかり守って教育し、三河を統率できる武将にまで育ててやった…、という意味の内容がありました。だから、自分(義元)のために、働いて、恩を返し、場合によっては命を差し出すのは当たり前だという思いが、垣間見えます。これは、駿河国のために、三河勢は犠牲になって当たり前という、ずっと以前からの思想にもとづくもののように思います。前々回のコラムでも書きましたが、明智光秀の台詞「今川は、織田と戦う時に、必ず三河勢を先陣につける。…」はそれを語ったものです。きっと、戦国武将であれば、自身の国の兵と、自軍の中に組み込まれた他国の兵を、区別して扱うというやり方は誤りではなかったと思います。ただ、他国の兵へのアプローチ(接し方)の仕方が、信長とは、まったく真逆のように感じます。* * *義元は、「桶狭間の戦い」の数年前におきた、三河勢の今川氏への反乱の動向を、何か見誤ったのかもしれません。義元は、武力で彼らを制圧し、今回、その彼らとともに尾張国を目指したのです。これは、義元が、元康だけを信用していいのかどうかを気にしている場合ではなかったのかもしれません。元康だけでなく、三河勢全体をしっかり見張っておく必要があったのだろうと思っています。それよりなにより、「三河衆は、駿河国のために死んで当然」という思想は、そもそもどうなのか…。* * *おそらく義元は、元康を、最後まで完全に信用はしなかったと思います。信用しないのであれば、しっかり監視しておく必要があったと感じます。「桶狭間の戦い」の時に、今川家の信頼の厚い朝比奈氏の軍を、元康軍の兵力と同じくらいの数だけ、元康のすぐ近くに置いたことは、今から思うと誤りだった気がしますね。自身の防御を忘れ、敵を攻撃することしか眼中になかったのかもしれません。この今川軍の配置も、信長軍の仕掛けたワナだったのかもしれません。上杉謙信なら、そうしたワナを仕掛けると思います。おそらく雪斎であっても…。◇敵の心の中に、油断とあせりを生ませる私は、今回の「桶狭間の戦い」を書くにあたり、上杉謙信と武田信玄の「第四次・川中島の戦い」との共通点を、随所に書き加えていますが、この今川の朝比奈軍の配置は、武田信玄が、自軍の半分ほどにもあたるような大軍勢を、謙信がたてこもる山に向かわせたことにも似ていると感じています。なぜ、信玄は、謙信が立てこもっているはずだと思った山を、もっと調べなかったのか…。この武田軍の兵力の分断の大きさが、その後、信玄の身を危機にさらします。謙信は、この時の信玄と、武田軍の軍師である山本勘助の心の中に、油断とあせりを、しっかり根付かせる作戦も同時にとっていたのです。* * *私は、義元の考え方…自国軍だけありきの発想が、この頃の戦国時代に、すでにあっていないようにも感じます。兵士を他国から借りてきて丁重にお返しするような、信長の発想とは、決定的に違う気がします。信長の行動を見ていると、新しい時代の連合軍の思想が、やっと戦国時代後期にやってきそうな予感がします。私は、甲斐(武田)、相模(北条)、駿河(今川)の「三国同盟」は、連合軍の思想とは、まったく別ものだと思っています。「戦略的互恵関係」と「連合軍」は、まったく別ものですよね。◇織田信長の視点私は、織田信長と、今川義元では、三河勢に対する姿勢…、ひいては戦国武将として、軍団のリーダーとして、その考え方や、家臣の使い方が、かなり異なっていたと思っています。古い昔からの源氏の名門家で、大きな武力勢力の今川家の「おぼっちゃま」の義元と、弱小武家から武力でやっとのし上がってきた織田家で生まれ、強いリーダーとして軍団を率い、戦い続けなければ生き残っていけない信長では、その考え方が同じであるはずがありませんね。信長はよく「非情」だとも呼ばれますが、個人的には、ある意味、「温情派」の部分を多く持っていると思います。それが、戦いの時の、家臣の使い方にあらわれている気がします。彼は、大きく期待している家臣ほど、強く叱責します。信長にとっては、ダメな者を切り捨てるのではなく、「努力しようとしない者、協力しようとしない者」を非情に切り捨てるのだと思います。私は、信長はこのように思っていたのではと感じています。「武将の戦いは、城や兵器、兵の人数、財力、知力はもちろん大切だが、それを扱う人間たちはもっと重要だ。彼らには心があり、願いがある」と。* * *私は個人的に、信長は、家臣の扱い方においても、敵の調略においてもそうですが、その者が何を望んでいるのか、何を求めているのか、何を願っているのかに、非常に着目するタイプだったと感じています。それに応えてあげれば、相手が、自分の味方になってくれる、自分のために働いてくれる…、そう考えていたのかもしれません。相手の行動には、しっかり感謝し、御礼もします。「信長様のために、死ぬのが当然」…、そんな言葉を吐く家臣がいたら、こう言い返したのかもしれません。「そんなことを本心で言う武士は、今の世にいるのか? もしいたら、そいつは戦国時代には生き残れない。ただ、オレ(信長)といっしょにいれば、お前は死なない」。このくらいのことは、言ったのかもしれません。一部の家臣が、大将と生死を共にすると思うまでには、相当な時間と、心のやり取りがなければ、生まれてこなかったと思います。そういう意味では、信長軍と、家康軍は、ほかの武将たちの軍とは何かが違う気がしています。* * *信長は生涯、家康を家臣扱いにはしません。あくまで、同盟の相手です。「家康さんの願いには応えてあげるから、オレ(信長)の味方をしてね…。オレも君を守ってあげるよ。」これは、家康に対してというだけでなく、三河国全体に対する姿勢です。互恵関係とはまったく違う、強い信頼のかたちにも見えます。二人の間には、同盟ともまた違う、別の信頼関係が構築されていた気もします。もちろん、今川なき後も、東国には、北条や武田、上杉らの強力な勢力がいたことが、三河国を緩衝材としての第三国としておいておいた大きな理由だと思いますが、それだけではないような気がします。* * *信長の派手な奇行や余興の中には、自身に向かってのものではないものも、たくさんあったような気がします。相手を楽しませるには…、相手をリラックスさせるには…、相手から信用を得るには…、どんな行動をしたらいいのか、非常に心を配るタイプの人間が信長だったような気がします。信長と義元では、相当に異なる人物像を想像します。◇信長の心理作戦今回の大河ドラマでは、特定の二人の人物を、比較しながら、それぞれの特徴を表現する描き方が多いなと思っていますが、第二十回「家康への文」でも、義元と信長の、元康へのアプローチの違いが描かれていました。東庵に、元康の信用度を尋ね、勝手に自分に都合のいいほうに解釈した義元。元康の母「於大」と、陰謀策略家の水野信元に、信長は、心にもない「母子の情」を持ち出し、三河勢の今川への対抗心や、水野氏自身の野望にも、火をつけようとします。「自分の心」にアプローチするのか…、「相手の心」にアプローチするのか…、両者はまったく違うものですね。私は、この時点で、「信長の勝ち」だったようにも感じています。* * *信長は、この戦いだけではありませんが、相手の心をつくのが、非常に上手い人間だったと思っています。自分本位に行動しがちな人間本来の心理を、上手く利用すると言い換えてもいいのかもしれません。三河国の有力武将の水野信元を通じて、信長が持つ、相手の心を尊重する姿勢が三河勢に伝わった場合に、三河勢はどう判断するでしょうか…。「信長って、三河の味方か…?」大河ドラマでは、岡村隆史さんが演じる「菊丸」が、この内容を、元康に伝えます。菊丸は、三河衆が共通に感じている今川氏への不満と、元康の母の思い、三河衆の「宿願」を、元康に切々と語るのです。元康は、泣きながら聞いていましたね。歴史的には、この時、元康は満年齢で17歳。17歳の男子の心に響かないはずはないような気がします。元康が動けば、三河衆がみな彼についてくる。元康の宿敵の水野信元だって、この際、味方になる…?私は、信長は、本来長い間、敵対関係にある松平元康と水野信元に、それぞれ何かの話しをして、ひとまず休戦し、手を組ませたのではないかと、個人的には考えています。三河国を、今川義元の強力な呪縛(じゅばく)から解放させてあげるから、ひとまず両者で手を組んで、自身(信長)のもとに結集してもらえないかというような話しをしたのかもしれません。今川の圧力がなくなった後は、尾張国は手を出さないから、三河国の中で相談して上手くやってくれ…、そんな提案をしたのかもしれません。でも、このことは今川には秘密だよ…。* * *元康は、この時に、織田のスパイが、すでに数百名単位で三河国内に侵入していることを知った可能性もあります。いつでも、織田のスパイが自身(元康)を暗殺できると感じたかもしれませんね。スパイのことは、またあらためて…。信長からしたら、「桶狭間の戦いの中で、その信用度を見せてやる」と両者に伝えたのかどうか…。私は、信長は、この戦いの中のある時点で、その信用度を、三河衆に見せつけたのだと思っています。大河ドラマの中でも、それとなく描かれていましたね。このお話しは、戦局の話しの中で、あらためて書きます。◇作戦開始この信長と元康、あるいは水野を含めた三者の計画は、「桶狭間の戦い」後の、織田氏と松平氏の密接な連合軍の体制を考えると、少なくとも、信長と元康のつながりは間違いないような気がします。水野信元は、一応この時点で、信長の配下です。今、小学校では、「桶狭間の戦い」のことを、どのように教えているのでしょうか?数十年前の私の子供の頃は、織田信長が「桶狭間」で今川義元を奇襲で討ったと教わりました。信長と家康が協力して、義元を討ったとは教わりませんでした。* * *でも、これでは、江戸幕府なら体裁が悪くて、歴史の話しをできませんね。神君 家康公が、育ててくれた養父を、元服まで行ってくれた父親の今川義元を、戦場でいきなり裏切って、だまし討ちにしたなどと言いにくいように感じます。実父でなくとも、「親殺し」に見られてしまいそうです。現代はもちろん、この時代でも「大罪」です。* * *おそらく戦国時代の当時は、「桶狭間の戦い」以降の、信長と元康の強い連携は誰もが知るところだったと思いますが、「桶狭間の戦い」もそうだったのかは明確にされてはいません。大河ドラマでは、大高城で、元康が菊丸と話しをしていましたが、この計画を成功させるには、その時点で相談していては遅すぎるように思います。私は、今川義元が岡崎城に入るまでの、どこかの時点で、信長と元康は、おおよその話しをつけたのではと感じています。ただ、今川軍の進軍状況次第で、決戦場所が変わる可能性もあるので、どういう状況になるか、織田氏と松平氏の間で情報をとりあっていたのかもしれません。そうでなければ、三河国内に、これだけ大量の織田のスパイが入っているとは思えません。◇本質をつけいずれにしても、私は個人的に、信長が戦いの前に、三河衆の「心の本質」を見事についたのだと思っています。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」も、「家康への文」で、この戦いの本質をついたのかもしれません。ドラマの中での、元康(家康)の母の手紙の最後は、次のような内容でした。「…戦から身を引きなされ。母はひたすら、元康殿に会いたい。おだやかに、何事もなく、ほかに何も望まぬ」。* * *そしてドラマの中で、菊丸は、元康に切々と語ります。ドラマのBGM音楽も最高潮。「三河の者すべての願いであります。今川を利する戦に、お味方なさいますな。今川ある限り、三河は百代の後も、日が当たりませぬ。(略)織田につき、今川勢を退け、三河を、再び三河の者に戻して頂きとうございます。」* * *信長は、この三河衆の心の本質をつけば、「織田・松平連合軍」がつくれると思ったはずです。今川軍は、駿河国にかなりの軍勢を残してきたと思われます。「これなら勝てる!」…信長は、そう思ったに違いありません。* * *私は、こうした信長と元康の連合軍体制になった状況では、もはや何をやっても、今川軍は勝てなかったと思います。もはや退却も逃亡もむずかしいと思います。美濃国の斉藤家が、義元を助けるとは思えません。信長と元康からしたら、この計画を、いかに義元に見破られないようにするかですね。それぞれの軍でも、この計画を知っていたものは、スパイと本人だけだった可能性もあると思っています。ギリギリの段階で、家臣たちには、その家臣に必要な内容だけを、それぞれに伝えただけだったのかもしれません。計画の全体像を知っていたのは、ごく一部の人間だけだったのかもしれませんね。* * *「今、桶狭間周辺で、いったい何が起きているのか、さっぱりわからない」…今川義元からみたら、これほど恐ろしい状況はないと思います。私は個人的に、あの場所で、義元が休息などとるはずがないと思っています。「なぜ、進軍がこんな山の中で止まるのだ…?」。◇土木技術で、敵を誘導しろ個人的には、信長は、森林土木の専門部隊を用意した可能性も十分にあると感じています。この戦いの後の信長軍の「美濃攻め」では、森林伐採集団や建物建設部隊が大活躍しましたが、すでに「桶狭間の戦い」でも、彼らが暗躍したのではと私は感じています。台風ならともかく、ゲリラ豪雨程度で、大木が何本も倒れるのでしょうか…?信長は、後に、新時代の城「安土城」を築きますが、とにかく彼は、土木技術などに興味を持っていました。後に、秀吉も、土木技術を自身の戦術の中に大きく組み入れていきますが、信長から学んだとしか想像できません。信長は、桶狭間を含め、この周辺地域に相当な「ワナ」を仕掛けて、義元を待っていたのだと思っています。土木技術を使って、敵を誘導し、混乱させ、敵の大将の心を揺さぶれ…、こんな思いが信長にはあったのかもしれません。◇何でもあり個人的には、ある段階で、信長軍が、「元康が裏切った」という情報を義元の耳にあえて入れさせ、軍団の混乱をさらに狙ったと思っていますが、その話はあらためて…。もし信長軍が、偽装の「乱取り(武具の盗賊行為)」を行ったとしたら、この時だったかもしれません。「乱取り」に見せかけ、敵の将校たちに近づき、ひとりずつ消していったのかもしれません。大木を倒す、石を落とす、盗賊になりすます、ニセ情報を流すなど、後の記録にある「信長は、ここまで非道をやるのか…」という部分は、こういうことを指しているのかもしれません。* * *実は、こうしたニセ情報戦は、戦国時代の実際のいろいろな合戦中に、何度も行われています。現場が情報に惑わされ、誤った行動をとったら、そこで負けは決してしまいます。いかに指揮命令系統がしっかり体制を維持でき、兵士のマインドが一定の安定性を維持できているかが「カギ」となってきます。信長のすごいところは、今川軍のそのあたりも、しっかりついてくることです。これが「奇襲」と錯覚される部分なのだとも感じます。ここまで計算して行動するのか…、信長による「心の本質」をつく作戦の細かさは、もはや尋常なレベルではありませんね。信長は、人間のどこをつけば、乱れるのかをしっかり理解していたのだと思います。おいおい書いていきます。秀吉も、光秀も、後でこのことを知って、信長のすごさを実感したのだろうと思います。この二人が心酔して選んだ武将こそ、信長だったのです。◇信長と元康の連合軍体制実際に、「桶狭間の戦い」の後、三河国は元康のもとで統一され、尾張国とははっきりと分かれた、独立国として自立します。信長と三河衆との約束は実行されたのだと思っています。「奇襲」に見えたものは、「桶狭間の戦い」のほんの一片にすぎません。武将や軍団という人間の枠を超えた、壮大なスケールの戦いこそが、「桶狭間の戦い」の本質ではなかったであろうかと、私は感じています。* * *これで信長と元康の、強い連携がつくられました。この瞬間、この連合体制が、日本の中心を走り始めます。信長にとっては、「桶狭間の戦い」で知名度が全国区になってからが、本当に激しい戦いの時代となっていきます。ただ、信長は、いずれ三河国と松平氏を何とかするつもりでいたのだろうと、私は思っています。それまでは、この三河勢の武力は敵にまわさないと思っていたことでしょう。◇あいつは、どこにいる?この連合体制があれば、美濃国の斉藤家にも十分に対抗できる…。信長は、そう感じたでしょう。信長は、美濃国の中に、たくさんの人脈をすでにつくってあります。武力に長けた者、政治力に長けた者…。そうだ、あの知略に長けた、鉄砲にくわしい、斎藤家になびかなかった、あいつはどこにいる…。上杉、武田、毛利、三好、そして足利将軍家に今後対抗するには、もう少し有能な人材がほしいな…。あいつは、どこにいるのだ…?* * *さて、本コラムでは、その話しの前に、まずは「桶狭間の戦い」を征しなければいけませんね。次回コラムでは、いよいよ、両軍の進軍状況の話しを書きます。複雑な状況を把握するために、可能な限り、時系列に、有力者たちの動向を追ってみたいと思っています。前にも述べましたが、この「桶狭間の戦い」は隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。ですので、人の動き、時間、状況など、諸説が乱立しています。よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。私の想像も含めて、次回から戦況を書いていきたいと思います。* * *下記に、簡単な「桶狭間マップ」を載せますので、皆さまが、信長だったら、義元だったら、三河の元康だったら、どのように進軍するか…、敵をどのようなワナにかけたらいいか…、どうぞ考えてみてください。ここまで書いてきたコラム内容を参考に、戦国大名になった気分で、戦いに参加してみてください。もはや、戦国時代のこの頃には、戦(いくさ)は頭脳で戦う時期に差しかかりました。テレビドラマでは、なかなか描かれることのない、戦の本質を、どうぞ皆さまもついてみてください。〔上記マップの説明〕戦いの前日の5月18日(当時の旧暦日付)時点です。青色の城が今川方です。赤色の城や砦(とりで)が、織田方です。重要な城や砦だけを載せてあります。右端の「岡崎城」の、ずっと右側(東側)の遠い先に、今川義元の本拠地「駿河国」があります。義元が、尾張国にやってくる際は、このマップの右側から左側に向かって進軍してきます。「熱田神宮」のある場所が、今の名古屋市で、このあたりが織田信長の「尾張国」です。織田信長の本拠地である「清洲城」は、このマップの少し北にあります。ピンク色の円形は、三河武士勢力の水野氏の勢力範囲、あるいは、そうであった場所です。5月18日の段階までに、知立城や牛田城は、今川方に奪われています。マップの「岡崎城」から「知立(ちりゅう)城」を経て、「沓掛(くつかけ)城」あたりを通り、熱田神宮に向かうルートに、後に東海道として整備される、主要な街道「鎌倉街道」が通っています。茶色の塊りは、標高50メートルから、せいぜい100メートルくらいの小さな丘陵地です。低い標高の丘陵地だとはいえ、そこに山があれば、水がわき、小さな沼や池があり、川が流れています。川があるということは、それほどの規模でなくとも谷があり、丘の向こうの建物が見えない場所も多くあります。丘をひとつ隔てたら、その先で何が起きているのか、非常にわかりにくい、山の「狭間(はざま)」の「くぼ地」が幾つもありました。その丘陵地の一角こそ、「桶狭間」なのです。「水」と「視界の悪さ」…、これは使えそうです!* * *コラム「麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)義元をつれてこい」につづく。『麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)「義元をつれてこい」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。今川の兵力と進軍方向。信長の戦い方と人事評価。雪斎だったら。赤い鳥逃げた。勝って兜の緒を…ameblo.jp2020.7.1 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 28Jun
      • 麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)「三河煮込み」の画像

        麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)「三河煮込み」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。松平元康と三河武士。最強軍団の条件。濃厚味噌パワー。八丁味噌。愛知県・岡崎市・刈谷市・西尾市・安城市。麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)「三河煮込み」◇濃厚な関係の三河武士たち前回コラム「麒麟(20)桶狭間は人間の狭間(2)伊勢湾がほしい では、織田信長と今川義元のそれぞれの狙いのこと、信長の誘導戦略のこと、桶狭間という土地のことなどについて書きました。その中で、大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」に登場した、松平元康(後の家康)の母の「於大(おだい)」と、彼女の兄の水野信元が、信長と帰蝶の夫妻と面会したシーンについても書きました。* * *「於大」の実家は水野家です。この水野氏とは、三河国の有力豪族から、戦国の三河の有力武家に成り上がった勢力です。もともとは清和源氏だと語っています?この頃の本拠地は、緒川城や刈谷城です。この水野氏…、どの時代においても、その生き残りの巧みさは、見事だと感じます。後の徳川家も参考にしたのではと思わせるような、巧みな生き残り戦略でした。* * *前回コラムでも書きましたが、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」では、この三河武士たちの勢力の存在が欠かせません。大河ドラマの中でも登場してきたように、まさに信長の勝因につながるような存在だったと感じます。今回のコラムは、そんな三河国の有力武士たちのことについて、書いていこうと思っています。まさに、「八丁味噌(はっちょうみそ)」を使った「味噌煮込み」のような濃厚な関係性が、そこにありました。* * *まずは、大河ドラマに出てきました、元康(家康)の母「於大(おだい)」が、なぜ元康と離れ離れになっているのかを中心に書きます。以前のコラム「麒麟(7)一撃必殺!ウソぴょんがくる」の中で、幼い竹千代(後の家康)の人質の話しを書いた時に、家康より前の時代の松平家のことを書きましたが、ここで少し思い出してみたいと思います。◇吉良氏三河国(今の愛知県東部)の「三河吉良(みかわ きら)」氏は、清和源氏である河内源氏の「下野(しもつけ)源氏」の流れをくんでいます。「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という有名な言葉の、あの吉良氏のことです。家格からいえば、今川氏は吉良氏の下です。あの「赤穂事件」の吉良上野介の吉良家のことです。その家格の高さや歴史の深さとは反対に、武勇にすぐれた武将が輩出されず、有力武家といえども、武力はそれほどでもないという武家だったと思います。そのかわり、江戸幕府内での政治や文化面での貢献度が絶大な名家となります。ちなみに、浅野内匠頭の赤穂浅野家は、広島浅野家からの分家で、さらに古い歴史をたどると、清和源氏の摂津源氏から枝分かれした美濃源氏までたどりつきます。美濃源氏…、すなわち美濃国の土岐氏のことです。後に、明智氏が枝分かれした土岐氏です。浅野氏は、バリバリの土岐氏の子孫なのです。吉良家も浅野家も、古い時代をたどると、美濃国と三河国という、隣どうしの間柄になるのです。とはいえ、吉良氏と浅野氏は、同じ清和源氏でも、吉良氏は室町幕府の足利将軍家の流れ、浅野氏はいってみれば鎌倉幕府の中心の名家の出身という構図です。何か、仲が悪くなりそうな隣どうしの関係性を感じさせますね。さらに、後に、松平氏の中から、「徳川家」、「源家康(徳川家康)」という源氏の名家を、政治的に誕生させたのが吉良氏で、江戸幕府開設に武力で貢献したのが浅野氏です。まさか、この両家が、後世にあの大問題を引き起こすとは、何の因果なのか、よくわかりません。真ん中にいた徳川家は、たまったものではありませんね。浅野内匠頭は、きっと天国で、大石内蔵助と話をしていますね。「大石よ…、世が世なら、大軍勢で吉良など、ひと飲みにしてやったものを…無念じゃ」。「桶狭間の戦い」の戦局の話しを書くときに、吉良氏の菩提寺「実相寺(じっそうじ)」(西尾市)のことも書きます。◇大河内氏さて、三河国には、摂津源氏の流れの「大河内(おおこうち)」氏もいました。徳川家の大元である松平姓の武家は、江戸時代以降は、14家とも18家(松の文字を分解すると十八公となる)ともいわれていますね。大河内氏は、後に「長沢松平家」に取り込まれ、「大河内松平家」となります。今、愛知県豊川市には長沢町という地名があるそうですが、その長沢です。大河内松平家の子孫には、「知恵伊豆(ちえいず)」という名称で知られる、老中の松平信綱がいました。NHKテレビの番組「先人たちの底力 知恵泉」は、ここからの命名だと思います。この「長沢松平家」は、「桶狭間の戦い」にも登場してきます。◇松平清康戦国時代は、かつての源氏の同族の武家どうしが、争ったり、手を組んだり、臣下になったりしていました。そんな戦国時代の1511年に、後の「松平清康(きよやす)」が三河国の松平家に誕生します。松平氏は、今の岡崎市の地域にいた有力武家です。清康の「清」は、三河吉良氏の吉良持清の「清」から一字もらいます。清康の母は、大河内満成の娘です。松平、吉良、大河内の深い関係性がうかがえますね。清康は、武勇や政治力に優れていたようで、松平一族内で覇権を争っていた三河国を、1530年頃には、武力で統一したようです。* * *清康は、美濃国の斎藤道三と手を組み、隣国の尾張国の織田信秀(信長の父)を挟み討ちにしようと画策します。そんな中、1535年、清康は誰かに暗殺されてしまいます。これが「守山崩れ(森山崩れ)」と呼ばれる出来事です。徳川家の文献には、清康の家臣の中のひとりが、何か思い込んで、清康を斬り殺したとされています。実は、松平清康側と、織田信秀側の双方に、それぞれの内通者がいて、その争いの結果、暗殺されたという説もあります。個人的には、後者のほうが現実的だと思うのですが、おそらく、後の両家の関係性を考えると、それでは都合が悪いはずです。松平家のひとりの家臣の乱心で片づける必要があったのではないかと思っています。「麒麟がくる」では、松平家のこのあたりのことは描かれませんでした。◇松平広忠この松平清康の娘たちは、続々と、吉良家や酒井家に嫁いでいきます。酒井家とは、後の徳川四天王のひとり「酒井忠次」を輩出する、岡崎の有力武家です。松平家の家督相続は、10歳の長男、広忠(ひろただ)に行われます。この松平広忠が、家康の父です。* * *清康の急死で、また松平一族は争い始めます。清康の弟と叔父さんは、広忠を討とうしますが、広忠は、吉良家や前述の清康殺しの犯人の父親「阿部定吉(あべさだよし)」の助けもあって、伊勢湾を渡った先にある伊勢に逃亡します。もはや、松平一族内は、誰が敵で、誰が味方やら、さっぱりわかりませんね。◇今川に頼ったことが…吉良家は、それほどの武力を持っていなかったと前述しましたが、広忠は、駿河国の今川義元を頼って、別の松平勢に乗っ取られていた本拠地の岡崎城を、今川の武力のおかげで、奪い返します。戦国時代に、他の武家の武力の助けを借りることが、どれほど後に危険なことなのかが、よくわかる例でもあります。とはいえ、広忠に、他の手はありませんでした。たいがいは、助けを貸したい者(この場合は今川家)の陰謀が、事前にあったりするものです。前述の清康殺しの犯人の父である阿部家の直系はここで絶えますが、同族の他の阿部氏は、後の江戸幕府の幕閣として活躍します。例の清康殺しの家臣の話し…、もはや、くつがえすことは誰にもできませんね。さすが、江戸幕府です。歴史の中から、不都合な内容を消滅させる手法は、戦国武将、特に徳川家の得意技でしたね。◇弱者の戦略さて、清康という武勇にすぐれた英雄がいなくなった松平家は、相当な苦難の時代に入っていきます。大河ドラマに登場していた織田信秀(信長の父)は、織田家を一大勢力に引きあげてきた武将ですが、隣国の三河国への侵攻の繰り返しです。松平広忠の三河国は、国の中で内部抗争が激しく、各武将の武力も小さく、強大な駿河国(今川)と尾張国(織田)に挟まれて、両側から、猛烈な圧力を受けることになります。とはいえ、この時期に、松平氏が、完全にどちら側かに組み込まれることなく、あっちについたり、こっちについたり、時に反撃したりすることで、滅亡することなく、しっかり独立色を維持できたことが、後に天下を取ることにつながりますから、私たちは、まさに「滅ぼされることのない、弱者の戦い方」を知ることができますね。* * *この時に、広忠が無分別な闘争心を表に出していたら、松平家はここで消滅していたのかもしれません。戦国時代、こうしたかたちで滅亡していった武家は数えきれませんね。「清康がいて、広忠がいて、家康が生まれてきた」…。家康は、祖父の清康、父の広忠から、会話はなくとも、しっかり学んだような気がします。家康の「康」は、もちろん清康の「康」です。二代将軍、秀忠の「忠」は、広忠の「忠」だと思います。徳川家にとって、「康」と「忠」は、かけがえのない文字となります。◇元康の人質時代大河ドラマ「麒麟がくる」第四回の中で、幼い竹千代(後の家康)は、明智光秀に、「三河国に帰りたい」と言いましたね。第二十回「家康の文」で、母の「於大(おだい)」は、息子の元康(家康)と再会しても、もう顔もわからないだろうと語っていましたね。竹千代が母親から離されたのは3歳頃といわれており、織田の人質になったのは6歳くらいからです。大河ドラマでも描かれましたが、今川家と織田家の人質交換で、竹千代が今川の人質になったのは8歳頃です。1549年のことです。17歳(満年齢)の時の、織田と今川の「桶狭間の戦い」まで続きますから、人質期間は全部で12年ほど続きます。織田軍の勝利により、家康は、母を手元に呼ぶことができます。おそらく14年ぶりの母との再会だったと思います。この母子の別れの原因については、後で書きます。◇人質になるきっかけさて、「麒麟がくる」の第四回では、1548年の「小豆坂(あずきざか)の戦い」が描かれ、織田信秀が今川義元に完敗しました。小豆坂とは、今の愛知県岡崎市にあります。この戦いの直前の、三河、駿河、尾張の関係性は、はっきりとは断定できておらず、諸説が入り乱れています。この頃、実は、織田と今川が手を組んで松平家を滅ぼそうとしたとか、松平家の岡崎城はすでに織田のものとなっていたとか、いろいろな説があります。「小豆坂の戦い」では、あきらかに織田氏が今川氏に敗れましたが、松平家がどんな状況にあったかは、よくわかっていません。実は、この複雑な三国関係に、スルスルとあのマムシが入り込んできたという説もあります。「美濃のマムシ」こと、斎藤道三です。道三が、何かを画策して、松平家内部にいる、織田派と今川派の両派閥を戦わせたという説もあります。いずれにしても、1548年頃に、織田と今川の勢力の境が、この岡崎あたりにあった可能性があると思います。* * *ここからは、竹千代(元康)が、織田家の人質になったいきさつを書きます。この状況も、実は、はっきりわかっていません。強制連行による人質なのか、率先して差し出された人質なのか…、これは意味が大きく異なりますね。ここから、その中の一説を書きます。これは前述の「小豆坂の戦い」の前年の1547年のことです。広忠は、6歳になった息子の竹千代(後の家康)を、今川家に人質として送ろうとします。その道中、竹千代を送り届ける役目の、広忠の家臣の戸田康光が、竹千代を奪って、なんと織田側につれていき、多額の現金で売り飛ばしたというのです。激怒した今川義元は後に、戸田康光を討ちます。この時、戸田家の次男だけは、今川側につき、戸田家は滅亡を逃れます。この戸田家とは、今の渥美半島の田原市や、豊橋市を勢力下に置いていた武家です。今川軍の軍師の雪斎が率いる大軍勢が、西三河の南部の渥美半島周辺を奪い取るのです。この流れだけでも、戸田氏による「人質強奪話し」は、相当に裏で何かありそうですね。* * *歴史ファンからしたら、こんなでき過ぎた「人質強奪話し」は、まったく信用できません。歴史的に考えてみると、たいがい、こうした妙な話しは後の創作で、何かを隠したに違いありません。いったい誰が「ウソ」をついているのでしょう…?◇広忠と於大の離縁実は、この頃の松平家内部は、織田派と今川派に分かれていました。松平広忠の正室の「於大(おだい)」(家康の母)の実家は、三河国の有力武家の水野氏です。水野氏は、松平に娘を嫁がせ、織田とも同盟関係をつくっていましたが、ある段階で、今川を完全に見限り、織田方につきます。この水野氏の勢力範囲は、今の刈谷市や東浦町(緒川地域)、春日井市など、尾張国と接する「西三河」一帯の地域です。知多市、常滑市、東海市、大府市あたりも、もともとは、その勢力範囲でした。「桶狭間の戦い」で重要な位置づけとなる「大高城」も、もともとは水野氏の城でした。三河国の中で、松平氏とならび、大勢力だったのが水野氏だったのです。後に、水野氏の大高城は、今川方に調略で落ちます。* * *「於大(おだい)」の実家の水野氏が織田方についた以上、松平広忠としては、今川の手前、正室の「於大」と離縁し、「於大」は実家の水野家に戻ります。ここで、「於大」と竹千代(元康)は、離れ離れになるのです。その後、竹千代(元康)が、今川家に人質として送られることになったのです。◇戸田氏戸田氏と、松平氏は親戚どうしです。実は、戸田康光とは、広忠の元正室「「於大」が水野家に戻って、広忠のもとに嫁いだ後妻の父親なのです。後妻の父親が、義理の息子と前妻との間の子供を、人質として敵に届ける役目を負うとは、どういう意味を持っているのでしょうか。こんな話しは、現代の推理ドラマでも、なかなかありませんね。「犯人は私です」と先に言っているようなドラマです。この話しの推論は、いくつかあります。一部を書きます。◎戸田氏が、突然、今川氏を見限って織田方につこうとし、竹千代を手土産にした。◎今川と織田が手を組み、それぞれ東西に分かれて、松平と戸田を討つために、戸田氏をワナにはめた。あるいは戸田氏はそれを受け入れた。◎松平と戸田は思案の上、今川と織田の両者と戦うことを避けようと、バランスを取ろうとした。そして、戸田氏が犠牲になることを引き受けたが、お家の滅亡だけは避けるため、今川方にひと芝居うった。今川氏も認識済みで、さらにそこにワナを仕掛けようとした。◎実は、本拠地の岡崎城は、すでに織田方に落ちていて、松平側が、率先して人質を織田方に送った。戸田康光が、松平広忠を裏切ったのかどうかは、わかっていません。戸田氏が、あえて悪役を買って出た可能性だってあります。いずれにしても、広忠が、織田方に囲われている竹千代を、連れ戻すのは政治的に容易ではありませんでした。この時に、松平氏が織田氏の軍門に完全に下っていたら、三河国の松平家はどうなっていたでしょう。今川氏から総攻撃を受けます。かといって、松平氏が織田氏に攻撃などかけられません。松平家としては、まずは、両氏とのバランスを維持しつつ、堪え忍ぶしかなかったのかもしれません。後の江戸幕府から考えると、ここで竹千代(後の家康)が命を落とすことがなかったことこそが、もっとも重要なことでしたね。戸田康光の子孫は、いずれ、徳川20神将のひとりとなります。ということは…?* * *私は以前のコラム「麒麟(7)一撃必殺!ウソぴょんがくる」で、この戸田氏の人質強奪騒動について、ここまで書きました。実は、この先のことは、少し複雑な内容ということもあり、「桶狭間の戦い」の時の三河勢力の話しの際に、書こうと思っておりました。ここからは、私の想像を含めた部分もありますので、そのように受け止めてください。◇この計画は誰が…私が、この、一見、戸田氏の裏切り行為にも見える「人質強奪」の話しから、戸田氏の崩壊までの流れで注目したいのは、この結果、もっとも得をした人物は誰なのか…ということです。今川氏からみると、松平氏と水野氏が分断され、三河国の松平氏の岡崎周辺と、戸田氏の渥美半島や豊橋地域を、ほぼ同時に手に入れたことになりましたね。もし、すべてが今川氏の策略だったとしたら、単なる「人質(竹千代)の受け入れ」をきっかけに、三河国の勢力を切り崩し、三河国内に今川の勢力を相当に拡大したことになります。織田氏に対しては、松平氏とともに「竹千代奪還」を理由に攻撃しやすくもなります。この一連の流れの中では、今川氏の軍師の「雪斎(せっさい)」が大活躍しますが、この全体の流れが、ほぼ彼の策略だったのかもしれません。たとえ、戸田氏を仲間に引き入れなくても、今川方の誰かが犯人の戸田氏になりすますくらいは簡単にできそうな気がします。。ただ、戸田氏の全責任にしておけば、今川氏は、松平氏の抵抗なしに、戸田氏を容易に攻撃できます。もし、これが実際のあり様だったとしたら、雪斎の恐ろしい陰謀です。* * *一方、はじめから、雪斎と水野氏が手を組んで行動を起こした可能性もないとはいえません。もともと、前述の「竹千代人質騒動」のきっかけは、水野氏が織田氏に完全についたことにあります。水野氏は、今川氏と相談の上、織田方についたといえないこともありません。* * *前述の一連の「人質(竹千代)強奪騒動」の中で、もっとも得をした人物は…。それは今川氏です。ですが、加えて、水野氏にも多大な得がありそうな気がします。妹の「於大」は、1544年に松平広忠と離縁し、すでに実家の刈谷に戻っています。1547年に「人質(竹千代)強奪騒動」がおきます。竹千代は3歳になっており、一応、非常に危険な幼児期を終えました。タイミングはバッチリです。もし、水野氏が、織田氏と今川氏を両天秤にかけて、両氏にそれぞれに上手い話しを持ちかけ、同じ三河国内の松平氏と戸田氏の滅亡を狙っていたのだったら、相当に恐ろしい戦略です。* * *さらに、もし今川氏が、水野氏と手を組んだわけではなかったとしても、水野氏の計略を察知し、それを利用したとも考えられます。織田氏にとっても、この時点で、松平氏と戸田氏が滅んでくれて、水野氏が支配する三河国になったら、何かと都合がいいかもしれません。真相は、私にはわかりませんが、水野信元だったら、自分の計画に、今川も織田も便乗してくるくらいのことは考えたであろうと感じます。後世の松平(徳川)氏と、戸田氏の関係性を考えると、誰かが、この強奪犯を戸田氏ということにしたのではと私は思っています。「桶狭間の戦い」の中での、水野信元の謎めいた行動は、後のコラムで書きますが、もし彼が大策略家だったとしたら、織田氏と今川氏をにらみながら、この程度の陰謀は実行できそうな気がします。* * *水野信元は、「桶狭間の戦い」の後に、松平元康との間で、たいへんなことになります。信元は、「桶狭間の戦い」の後に、大陰謀にはめられることになります。織田信長は、水野信元という人間の本性を、しっかりつかんでいたのかもしれませんね。もちろん、松平元康もつかんでいたのでしょう。信長は、最初から、水野信元ではなく、松平元康こそ、三河国の統率者にふさわしいと考えていたのかもしれませんね。信長は、水野信元を、今川対策に、利用するだけ利用しようと考えていたのかもしれません…?* * *私は、「桶狭間の戦い」も含めて、この三河国では、相当にハイレベルの大きな陰謀が、複合的に起きていたと感じています。織田、今川、水野による、ハイレベルのワナのかけ合いがあったのかもしれません。この時の松平氏では、こうした陰謀に、なかなか対抗できなかったのかもしれませんね。ですが、ずっと後に、元康(家康)は、水野信元ではない、水野一族の別の系統の者たちを、江戸幕府の重要な地位につけます。水野一族も、織田一族や松平一族と同じように、内部抗争だらけでした。◇於大さて、この「人質(竹千代・後の元康)強奪騒動」では、元康の母の「於大」(水野信元の妹)も、兄の一連の計画に加担した可能性だってあります。ただ、息子の元康の身を危険にさらすことは許さないでしょう。織田と今川からは、命の保障だけは取りつけていたかもしれませんね。岡崎の松平家臣団の結束と、戸田氏が消滅すればいいと考えたのかもしれません。あるいは、最初からその計画で、松平広忠に嫁いだのかもしれません。* * *戦国時代の武将の正室になった女性たちは、江戸時代の正室や、現代の女性像とは、かなり違っていたと私は思っています。帰蝶にしても、淀君にしても、秀吉の正室の「おね」にしても、家康の正室の築山(瀬名)にしても、お江(徳川秀忠の正室)にしても…、戦国時代の正室たちは、まさに武将のように、たくましく見えます。人質となることや、正室として嫁ぐことは、まさにその家にスパイとして行くようなものです。健気(けなげ)でひ弱なだけの正室などでは、戦国時代を乗り越えられるはずがありません。ですから、戦国時代の大将の正室とは、相当に高い地位であり、想像する以上に、大きなチカラが与えられていたと思います。◇元康の父「広忠」の暗殺さて、そんな人質騒動の後の1548年に、岡崎で「小豆坂(あずきざか)の戦い」が起こり、織田軍は今川軍に大敗するのです。そしてなんと、その翌年の1549年に、松平広忠が暗殺されるのです。大河ドラマでは、なんと、信長が、帰蝶との結婚式当日に、暗殺したということになっていましたね。この暗殺内容の真偽はわかりません。信長は、父の信秀に叱られていましたね。大河ドラマでは、親子で戦略が違うことが描かれていました。ただ、前述の流れからすると、ここで広忠に消えてほしい者は、水野、今川、織田の三者とも考えられますね。今川氏からみたら、もはや松平氏という中心人物が三河国にいなくとも、十分に支配できそうな段階まできています。* * *先般の大河ドラマの第二十回「家康の文」では、信長は、自分が暗殺した広忠の元妻「於大」と、何食わぬ顔で面会するのです。松平広忠が暗殺され、三河国の東部「東三河」の松平家は、またガタガタになってしまい、「東三河」はもはや、松平氏のもとで団結するチカラを失ってしまったように思います。水野、今川、織田…三者とも「しめしめ」ですね。◇今川氏の三河国支配三河国の東部「東三河」では、松平氏の岡崎周辺、吉良氏の西尾周辺、かつての戸田氏の渥美半島や豊橋周辺は、実質的に、今川義元にあっという間に飲み込まれた状況です。尾張国と国境を接する三河国の西部「西三河」も、すでに大半が、今川氏の勢力下となり、勢力範囲が縮小した水野氏は、刈谷周辺にとどまることになります。織田氏を頼みの綱とするのか、今川氏につくのか、判断のしどころですね。あるいは、独自路線も…。大河ドラマに登場する、岡村隆史さんが演じる「菊丸」は、水野氏の「忍び(間者)」ですね。◇織田と今川の休戦私は、この「人質(竹千代)強奪騒動」が、水野氏と今川氏(雪斎)の二者、あるいは織田氏も含めた三者の陰謀であったと想像できなくもないと思っていますが、ただ、そうであると、今川氏は、重要な部分をまだ手にしていません。この騒動で、今川氏は三河国内の支配地域は相当に拡大しましたが、松平氏からの人質という決定打を手にできていません。やはり、今川氏は、竹千代を人質として確保しておいたほうが、何かと都合がいいと考えたはずです。前述しましたが、この時点で起きたのが、織田氏のもとで人質になっている竹千代(元康)と、今川氏のもとで人質となっている織田信広(信秀の側室の子、信長の腹違いの兄)の、人質交換です。1549年のことです。大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれましたね。* * *少しだけ時代をさかのぼります。1540年、信長の父の信秀は、水野信元の父の水野忠政と協力し、松平氏の安祥城(あんじょうじょう / 安城市)周辺で、松平広忠と戦っていました。水野忠政は、そのうちに松平氏と手を組み、娘の「於大」を松平広忠に嫁がせます。1542年に忠政が亡くなり、信元に代替わりすると、水野氏は松平氏と断絶し、再び織田氏と手を組みます。それで、「於大」が水野氏の刈谷に戻ってくるのです。1549年に、前述のとおり、松平広忠が不審な死をとげます。それを理由に、今川氏が、織田信広が松平氏から奪った安祥城を攻撃し、信広が人質になっていました。そこで、同年に、人質交換が実施されるのです。私は個人的に、ここまでの流れが、偶然の流れ、自然の流れとは、あまり思えません。今川軍の雪斎か、あるいは水野忠政・信元親子の、長期的な陰謀計画ということも考えれないことはない気がします。この三者で仕組むことも可能かなとも思います。雪斎が、水野氏親子の三河国の覇者になるという野望を利用したと考えられないこともない気もします。* * *私は、この頃の織田家内の、信秀(信長の父)、信長(母は正室ではなく継室・信秀の何番目の男子なのかはっきりしない)、信広(信秀の側室の子・信長よりは年上・信秀のお気に入り)の関係性が本当はどのようなものだったのかも、少し想像しにくい部分があります。かなり微妙なバランスの中にあったのかもしれません。これ以降、信長と信広の間は、さまざまなことが起こりますが、信長は信広を暗殺はしません。* * *話しが複雑になってきましたので、ここまでの流れを簡単に並べます。(1)松平清康暗殺「守山崩れ」(2)松平氏と織田氏の抗争(3)水野氏と織田氏の同盟(4)水野氏の寝返りと松平との同盟(5)水野忠政から信元へ代替わり(6)水野氏の寝返りと織田氏との同盟復活(7)「於大」が離縁し水野家へ戻る…水野氏と松平氏の断絶(8)人質(竹千代・松平元康)強奪騒動(9)今川氏の戸田氏攻撃(10)松平広忠暗殺(11)今川氏による織田氏の安祥城奪取(12)竹千代と織田信広の人質交換(13)今川氏が三河国をほぼ支配この後、織田氏と今川氏の和議が成立し、休戦状態となります。この時点で、水野氏はいったん今川方の臣下となります。松平氏当主が、重要な場面で暗殺されていますね。水野氏が、今川方と織田方を行ったり来たりしているのも、よくわかります。水野氏が、本心では両氏のどちらに軸足を置いていたのかはわかりません。軸足は、あくまで水野氏自身だったのかもしれません。水野氏の今回の「今川入り」も、何かのワナか、和議の条件であったのかもしれません。いずれにしても、もはや三河国の大半が、今川方となりました。1550年頃の状況です。「桶狭間の戦い」の10年前ですね。* * *そんな休戦状態の中、1551年に織田信秀(信長の父)が病で亡くなり、織田家は、信長に引き継がれます。今川氏にとって、ここは織田氏を倒す絶好のチャンスだったのですが、何しろ、今川氏の駿河国の周囲には、武田信玄の甲斐国、北条氏康の相模国があり、激しい三つどもえの戦いの最中です。今川義元にはチャンスなのに、尾張国にやってくることができません。「三国同盟」はまだ成立できていないのです。私は、もし、この信秀の死の直後の時点で、今川軍が織田軍を攻撃していれば、今川軍の楽勝だった気がしています。個人的に思うのは、この東国の三人の武将(義元・信玄・氏康)に、上杉謙信も加えて、この時期に東国で時間を費やしすぎです。しのぎを削っているうちに、「天下」は遠くに行ってしまったのかもしれませんね。その間に、信長という「怪物」が誕生しました。◇信長は、今川と戦う!戦闘再開!さて、1551年に、父の信秀から信長に織田家が引き継がれると、織田家は大方向転換します。織田は、和議を破棄し、今川と戦う!水野氏は、「信長は、父の信秀とは違う」と考えたのかどうか…、もう一度、織田と組むことに方向転換。そして、今川氏が、水野氏の居城「緒川城」攻略するためにつくった「村木砦(むらきとりで)」を、信長と水野氏がともに攻撃し、今川軍を撃破し退却させたのです。これが、大河ドラマの中でも描かれた、1554年の「村木砦の戦い」です。この時に初めて活躍したのが、信長の「鉄砲隊」といわれています。この様子を見るに、水野信元は、今川と組んで、信長をワナにかけようとした様子はうかがえません。ひとまず、水野信元は、今川氏と本気で戦う雰囲気には感じられます。* * *一応、先程の並び順の後に加えておきます。(13)今川氏が三河国をほぼ支配(14)織田氏と今川氏の和議(15)水野氏が今川氏の臣下に(16)織田信秀から信長へ代替わり(17)水野氏と織田氏の同盟復活(18)今川氏の水野氏攻撃開始(19)「村木砦の戦い」で、織田・水野連合軍が今川氏を撃破(1554年)(20)駿河(今川)・甲斐(武田)・相模(北条)の「三国同盟」成立(1554年)(21)今川軍の軍師「雪斎」死去(22)帰蝶が信長に嫁ぐ(23)信長軍の平手政秀死去(24)信長と斎藤道三の面会(25)道三が息子の義龍に敗れる「長良川の戦い」(1556年)(26)信長が弟の信勝(信行)を暗殺…織田家内部抗争の終結(1558年)「桶狭間の戦い」(1560年)に向けて、織田氏も今川氏も環境が整いました。◇信長の「人間関係づくり」「村木砦の戦い」の時に、信長が尾張国を出陣して、手薄になった信長の尾張の城を守ったのが、斎藤道三の家臣たち(「西美濃三人衆」の一部)です。信長は、直々に彼らのところに行って頭を下げ、御礼を言い、彼らは美濃国に帰っていきました。この道三の家臣たち「西美濃三人衆」とは、この後の斎藤道三と息子の義龍の戦いの時に、信長と再会となるのです。それも、その家臣たちは、敵である斎藤義龍の配下なのです。でも、「西美濃三人衆」は、いずれまた、信長と組むことになります。信長という人物は、「あの時の誰…、この時の誰…」という話しが山ほどあります。チカラを貸したり、借りたり…、人間関係をしっかり使おうとする信長らしい「戦法」のように感じます。* * *大将の信長の身の軽さと、儀礼を欠くことのないしっかりとした人間関係づくりに比べ、織田家の老家臣たちの、かたくなな態度や行動の鈍さは、少し目に余る気もします。信長は「桶狭間の戦い」時に、25~26歳くらい。信長は感じていたはずです、「これからの織田家に、この年寄り連中はいるのか?」。「あとは、誰が残っている?」* * *織田信秀の時代から、織田軍の軍師のような役割で、数々の陰謀に関わった大策略家の平手政秀は、「村木砦の戦い」の前の1553年に自刃していますが、私は信長による暗殺ではないかと思っています。この平手政秀は、織田軍の筆頭家老の役職でしたが、その「筆頭家老」の役職を引き継いだのが、あの佐久間信盛です。「桶狭間の戦い」でも重要な仕事をしています。そして、この人物は、あの「本能寺の変」に関わる明智光秀とも、ある関係性を持つことになります。大河ドラマにも、しっかり登場してきましたね。佐久間信盛とは、あの歴史上最大?の「口ごたえ」のあの武将です。よりによって、あの信長に…。私は、この場面を、テレビの時代劇ドラマや映画で、一度も見たことがありません。今回の大河ドラマで、密かに期待しているのですが…。歴史的には、この「口ごたえ」も、ある陰謀による創作だという説があり、実際に信長に吐いた言葉ではないともいわれています。もし本当に、信長に対して直接クチにしていたら、その場で、命を落としていたはずですね。でもやっぱり、このシーン…見たい!* * *さて、信長軍の老家臣たちの話しに戻ります。現代の年齢感覚からしたら、想像もできませんが、40歳となったら、もう戦場での実践を考えたら老体と言っていいのかもしれません。今の野球選手の年齢をイメージするといいのかもしれません。実は、「桶狭間の戦い」の時に、信長は、近江国の六角氏から、若いピチピチの若武者軍団を借りてきます。織田軍の中の、動きのにぶい老兵たちでは、到底、「桶狭間」での壮絶な戦いには、もたないと思ったのかもしれませんね。斎藤道三といい、六角氏といい、そうそう簡単に兵を貸してくれるというものでもありません。戦国時代は、援軍という名目で、侵略してくる敵などもたくさんいました。信長は、不思議と、人の信用を得る術を持っていたのだと、私は思っています。◇ここで、勝家?こうして「桶狭間の戦い」の10年前から再開した、織田氏と今川氏の激突は、さらにヒートアップし、6年前の1554年の「村木砦の戦い」、前回コラムで書きました、やはり1554年の「三国同盟」を経て、いよいよ1560年の「桶狭間」に向かっていきます。信長は、この6年の間に、尾張国内の織田家一族内の抗争を終わらせます。大河ドラマの中では、弟の信勝(信行)を1558年に抹殺しましたね。* * *その抗争の中で、柴田勝家は、信長の敵側にいましたが、信長側への寝返りにより、罪を許され、信長側になります。これから、私は「桶狭間の戦い」の戦況を書く際に、実は、この勝家のことにも触れてみたいと思っています。柴田勝家は、「桶狭間の戦い」時に、40歳直前の30歳代後半でした。一応、「桶狭間」には連れて行ってもらえなかったといわれていますが、本当にそうなのでしょうか?後に、織田軍の中で重要な地位をしめる勝家が、桶狭間に行っていない…?そんなことがあるでしょうか?何かの事実を隠したのか…、信長から別の罰を受けたのか…、信長からもう一度、何かを試されたのか…?勝っちゃん親父は、いったい、どこにいたんだ?◇また、混沌…さて、前述の「三国同盟」から「桶狭間の戦い」までの6年の間に、今川軍は織田軍を攻めることはできなかったのかという疑問がわいてきますね。織田氏に非常に有利に働いたのは、この6年の間も、義元は尾張国に向かうことができなかったのです。武田信玄と上杉謙信の争いの仲介などをしている暇などないはずなのですが、その間に、支配を広げて、おさえ込んでいたはずの、三河国の武士たちが、一気に反撃に出てきます。松平、吉良、奥平、酒井、菅沼、鈴木…、みな立ち上がります。三河国との境にいた、美濃国の遠山一族まで、今川への反旗をあげます。「それっ!」とばかりに、織田軍も加勢します。今川義元による三河国支配が、上手くいかず、三河勢の反感を買っていたのは確かだったと思います。三河国は、また混沌とした状況になっていました。* * *前述しましたとおり、水野氏は、織田についたり、今川についたり…、独自のやり方です。水野氏と松平氏の間も、完全に対立関係が続いています。三河勢…、織田と今川が戦うとなったら、いったい、どちらにつくのよ?こんな状況の中で、「桶狭間の戦い」が始まろうとしています。◇義元だけで、だいじょうぶ?水野信元は、「桶狭間の戦い」に向けて、また新たな陰謀を仕掛けようとしていたのか…?織田信長も、今川軍の雪斎も、水野信元ごときの陰謀を見破れないはずはないと思います。おそらく両者とも、水野の陰謀を、毎回上手く利用したのだろうと、私は思っています。ただ、雪斎のいなくなった、義元だけが中心の今川軍で、織田信長や水野信元の陰謀に対抗できるのかどうか…?現代人からみたら、相当に「心もとない」です。* * *私は、三英傑(信長・秀吉・家康)のすごさは、敵の陰謀を見破り、それを逆に利用するところにもあると思っています。みな、敵は自分の陰謀が上手く進んでいると思い込み、まんまと彼らのワナにかかるのです。家康にとっては、「関ヶ原」も、「大坂の陣」もそうでしたね。もともと「関ヶ原」を決戦場に最初に選んだのは、石田三成です。最終的に、家康により、「さあ、お望み通り関ヶ原に連れてきてあげましたよ…、石田さん」となりました。戦に長けた有能な武将であれば、ここは逃亡するしかありえませんね。負けた西軍側の有能な武将の一部は、戦闘の当初から、逃亡ルートとタイミングだけを狙っていましたね。「この場所なら勝てる」と敵に思わせた瞬間…、おびき寄せた者の勝ちです。秀吉には…、ひょっとして、あれも誘導…?* * *信長は、雪斎の死が近いという情報を、どこかでつかんで、それを待った可能性もありますね。後に、信長が信玄の死を…、家康が秀吉の死を…、ずっと待ち続けていたのと同じです。戦国時代は、怖すぎます。戦国時代の大軍団は、有力な中心人物がいなくなったとたんに、軍団の戦力が半分以上失われることも、めずらしくなかったと思います。江戸幕府は、絶対にそれを避けました。◇三河武士ここで、後に、「桶狭間の戦い」以降も、元康(家康)のもとで活躍する三河武士を、氏名だけ書きます。酒井・本多・榊原・大久保・阿部・石川・青山・伊奈・植村・大岡・小栗・高木・土井・鳥居・内藤・成瀬・平岩・保科・渡辺・牧野・中条・鈴木…。これらの名前を見て、歴史ファンの方でしたら、あの人物が輩出された家かと思い出す方も多いと思います。中でも、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政の三人は、後に「徳川四天王」のうちの三人となります。前述の多くの武家からは、後に「徳川十六神将」と呼ばれることになる者もたくさん出てきます。いずれ、ここに、水野・戸田・板倉・安藤・服部・吉良などの強力な三河勢の者たちが加わります。そして、三河のすぐ東隣の、浜名湖のある「遠江(とうとおみ)国」から井伊氏が加わります。隣国とはいえ、もはや三河勢といってもいい気がしますね。井伊直政は、徳川四天王のひとりになります。数年前のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では井伊氏が主人公でしたね。直虎さん…、今年は「朝ドラ」で「船頭可愛や」を歌っていました。* * *三河勢の丹羽・山内・堀尾らは、信長の軍に入っていきますが、彼らも、いずれは徳川の傘下に入ります。鳳来寺のある奥三河の勢力である「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう」〔奥平氏・菅沼氏〕も、家康のもとに集結します。ちなみに、この奥三河の地で「長篠の戦い」が後に起きます。今、考えると、今川も、武田も、信長とは絶対にしてはいけない場所…敵の領地で「決戦」を行うのです。こうした、ほとんどの三河の武家たちが、これ以降の歴史の中に、その名がしっかり刻まれる「三河出身のビッグネーム」たちです。◇最強軍団の条件戦国時代に、有力武将として勝ち上がり、その名が残っている武将たちは、みな強力な軍団を持っていましたね。上杉軍、武田軍、織田軍、秀吉軍、毛利軍、伊達軍などは、特に強力でした。徳川軍は、その中でも最強だったと思います。私は、「桶狭間の戦い」が始まるこの頃に、すでに、この三河の勢力が、ひとつの大軍団に成長する環境が、三河国の中に備わっていたように感じています。あとは、中心となる、チカラのある大将が生まれるのかどうか?私は、後の徳川軍は、何となく信玄がいた時の武田軍の成り立ちに似ている気がします。* * *戦国時代に、大軍団に成長するには、いくつかのタイプがありましたが、リーダーたる大将が気を使わなければならないような有力武将が、軍団内にしっかり存在していた場合も少なくありません。実は、そのようなかたちのほうが、絶対的なカリスマ・リーダーが引っ張る軍団よりも、強固だったりします。武田軍団や、徳川軍団は、最たる例ですね。四天王やら、〇〇神将やらの、幾人もの「王」や「神」が、強い軍団にはつきものです。そのかわり、それを束ねるリーダーの能力は、相当なレベルでなければ、まず維持できません。そして、その両軍団に共通するのは、とにかく、いろいろなタイプの家臣が軍団内にいたことです。武闘派、知性派、学術派、土木屋、技術屋、政治屋、交渉屋、調達屋、財務専門、陰謀調略専門、文化歴史専門、医療専門、広報マン…、どんな状況にぶつかっても、その筋の専門家が軍団の中にいたのです。* * *信玄と家康という、この両軍団のリーダーは、あくまで中心で取り仕切る人間であり、全体をコントロールする人間であったように感じます。もちろん二人には、専門の軍師たちがついていますが、作戦を理解できるセンスは本人の生まれ持ったものかもしれません。そして大事なのは、この大軍団組織が、絶対に崩壊しないように、たえず目を配っていることです。そのためには、軍団の法や仕組み、理念や秩序は、欠かせません。この両軍団にあったのは、そのリーダーでさえ、その法や仕組み、理念や秩序の下にあったことです。時に、罰則を強行できるチカラもリーダーには必要ですが、特定の有力家臣が一人か二人だけしかいない場合は、それが実行しにくくなってしまいます。たえず、家臣団の中に、一定程度の緊張感やライバル関係が、一定数の規模で保たれているほうがいいのでしょう。こんな難しい組織の維持管理を実行できる能力があれば、戦争勝利のアイデアを実現させることも難しくなかったでしょう。信長の「本能寺の変」は、かなり特別なケースだと感じますが、勝者のまま亡くなっていった戦国武将たちは、みな強力な軍団に守られながら、最期をむかえたのだと思います。* * *この三河国には、本当にいろいろなタイプの武家がたくさんいましたね。そして、自分の得意分野や専門分野の独自性を、常に磨き、競い合っていたように感じます。強い大軍団が、この三河の地で、いずれ形成されていったのは、不思議なことではない気がします。* * *織田信長のもとには、これから有能な人材が集まってきますが、こうした人材を受け入れる軍団の体質も、かなり軍団の強さに影響したのだろうと感じます。信長軍と、家康軍は、似ているようでいて、実はかなり異なるタイプの、それぞれに成功した軍団運営だったと感じます。さて、今川軍は、どのような軍団だったのでしょう…?信長と義元の、三河勢への思想の違いを中心に、次回コラムで書いてみたいと思います。* * *江戸幕府が開府し、時代は江戸時代となり、この三河出身の武家たちが皆、いずれ日本中の幕府の要所に散っていき、日本全体を統治していくことになるのです。ある意味、この三河から始まる系譜は、現代の今の日本でも、しっかり生きているような気がします。日本の勢力図の歴史は、ある時点で近畿発であったり、鎌倉(相模)発であったりしましたが、三河発の時代が確実にあったのだと感じます。「尾張・美濃発」には、なりそこねましたね。◇絶対に生き残れ…さて、これらの三河国の武士たちは、「桶狭間の戦い」を前に、どのような行動に出るのでしょうか?織田につくのか…、本当に今川側のままでいるのか…。いずれしにても、最終的に、織田や今川と運命を供にしようなどと考える者など、三河勢にいるはずがありませんね。どんな結果になろうとも、生き残ること…これが三河武士たちのすべてだったと思っています。ある意味、どちらが勝とうと、関係ありません。* * *今の「武士道」のイメージは、江戸時代以降に強く形成されていったもので、この戦国時代の武士は、まさに「戦う人間」たちそのものです。武士たちは、まずは、戦わないと生き続けていけないのです。勝者にならないと、ほぼ生き残っていけないのです。もし生き延びられないとなれば、魂を、一族の次の世代に残せればいいのです。たとえ敗者になろうと、敵の恩情にすがろうと、何でもいいから、一族の誰かが生き残れたらよいのです。「麒麟がくる」の中でも、斎藤道三の死後、明智一族がそうでしたね。きれいごとでは生きることができない…、それが戦国時代だったと思います。◇元康で、三河はだいじょうぶなのか…私はいつも思うのですが、当時の一般の庶民たちは、戦いを専門とする武士たちの姿を、本当にカッコいいと、あこだれのまなざしで見ていたのでしょうか。黒澤映画では、よく、本当の勝者は武士ではないと描かれることが多いですが、戦国時代の庶民はどのように感じていたのでしょうか。三河国の農民であれば、「武士たちは皆、三河の山や川、農地を荒らしやがって…、食うもんなけりゃ、おメエら、戦えねぇずら。戦う前に話しをつけりゃあ、いいずらに…。戦うのなら、豆味噌やるから、他所(よそ)でやれ…」。* * *この時代の三河の武士たちや庶民は、「戦わなくても生きていける世の中」をつくってくれる人物が、まさか、こんな近くにいるとは思ってもいなかったでしょうね。この時代に、「天下」などという、よくわからない、あいまいなイメージを理解できる人が、どの程度いたのでしょうか…。「天下」と「平和」をつなげてイメージするのは、現代人ならではのことかもしれません。ずっと後の家康の言葉「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」は、たいへんに有名ですが、この頃の家康は、そんな言葉を言うような人物では、まだまだありません。多くの三河国の武士からみたら、まだまだ17歳(満年齢)のひ弱な、今川義元に言いなりの元康(家康)に見えていたことでしょう。肝心の松平家の御曹司の元康が、こんな状態だと、周囲の三河勢は、ひとまず今川義元についていくしかありませんね。信長さん…、元康(家康)に、そろそろ「喝」を入れましょうか…?さあ、どうする…、信長さん。信長は思っていたかもしれません。「多くの三河勢が抱く『共通の願い』とはいったい何だ…?」「三河勢が、今川義元の圧力以外に、集結できるものは何かないのか…?」「オレ(信長)と、三河勢が組めば、上手くいくはずなのに…」。◇濃厚味噌パワー「信長さま…、三河の岡崎から、桶に入った八丁味噌(はっちょうみそ)が届きました。味噌煮込みでもいかがでしょうか…」。「そうか、その手があったか…!」「それにしても、三河のものたちは、みな濃厚だのう~」。「そう思わぬか? 濃姫…」。「濃い、濃いって何度も…、知らないわよ」。 by 帰蝶〔 追伸 〕三河武士たちの長寿の秘密は、あの濃厚な豆味噌(赤味噌)にあるという説がありますね。たしかに、これを戦場の携帯食にしていたら、戦場でも、ムクムクとチカラが沸いてきそうな気がします。「今川焼」や「安倍川餅」、「ういろう」や「小倉トースト」、「うなぎパイ」よりも、はるかに戦場でガツンとくる「濃厚さ」ですね。濃いけど、クセになる…、「三河武士」を思い出させる、そこが「ミソ」ですね。* * *コラム「麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)心の本質をつけ」 につづく『麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)「心の本質をつけ」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の視点の違い。信長の心理作戦。信長の土木技術好き。織田と松平の連合軍体制。桶狭…ameblo.jp2020.6.28 天乃(赤)みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 24Jun
      • 麒麟(20)桶狭間は人間の狭間(2)「伊勢湾がほしい」の画像

        麒麟(20)桶狭間は人間の狭間(2)「伊勢湾がほしい」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の戦いの狙い。大高城・鳴海城・沓掛城。桶狭間という土地。染谷将太さん。麒麟(20)桶狭間は人間の狭間②「伊勢湾がほしい」◇ジャスト・コンパクト前回コラム「麒麟(19)桶狭間は人間の狭間① 心のスキをつけ」では、戦国時代の戦が、腕力から頭脳戦に変わってきたこと、敵の大将の心のスキを突き、勝利を狙うことなどを書きました。今回のコラムから次回にかけては、「心のスキ」ではなく、「心の本質」を突いてみたいと思います。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の放送内容を中心に、「桶狭間の戦い」の前段階について書きたいと思います。* * *前回コラムで、この「桶狭間の戦い」には、その戦の内容がしっかりと判明しておらず、諸説が乱立していると書きました。ですから、信長の勝因も多くの内容が語られています。戦争でも、スポーツでも、ビジネスでもそうですが、勝因がただひとつだけということは、絶対にありません。たくさんの要因が、複雑に絡み合って、結果が生じるものです。いくつかの勝因の中には、重要なもの、それほど派手な内容ではないが効果が大きかったもの、心理的な要因など、さまざまにあります。* * *今回の大河ドラマでは、「桶狭間の戦い」を二回分の放送に詰め込まなければいけないようでしたので、それはそれは、猛スピードでドラマが展開しましたね。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」では、信長の勝因につながる重要な内容が、たくさん散りばめられていました。歴史ファンからみたら、よく45分間の中に、これだけ上手いこと、詰め込んだなと感心してしまいました。半分くらいの台詞に、歴史の説明のような内容が盛り込まれていましたが、ドラマ性を失わず、かといって歴史番組の再現ドラマに感じさせず、今回の大河ドラマは見事な制作陣だと、お世辞抜きに感じます。まさに、ジャスト・コンパクト!◇本質の違いこの第二十回の45分間の内容は、実際の歴史では、おそらく春から5月18日までの3か月程度で行われたであろう出来事です。運命の「1560年」のお話しです。先程、この戦いの内容は諸説ありますと書きましたが、この大河ドラマの内容は、いわば、諸説の「いいとこどり」のような気もしています。判明している史実はもちろん、かなり可能性の高い部分も含めて、とてもコンパクトにまとめてあります。私の個人的な印象では、第ニ十回の内容は、ひとつの部分を除いて、フィクション(想像・虚構・作り話)はほとんどないのではないのではないかと感じます。断定的な描き方ではないにしても、信長の勝因につながるような内容は、個人的には、まったく同感です。* * *前述の「ひとつの部分」とは、もちろん…、光秀が帰蝶に「元康のとりこみ」のアイデアを伝えた部分のことです。こんな話しは、聞いたことも、読んだこともありません。私は、想像だにしたこともありません。でも、こうした演出で、見事に、ドラマの中の光秀の存在感と、ドラマ内容の時間短縮が実現できました。それに、これならドラマとして、非常にドラマチックな展開に感じます。史実に加えているだけなので、史実の歪曲とはまったく思いません。* * *ドラマの中では、帰蝶にむかって問う、信長のこんな台詞がありました。「その知恵(松平元康を味方に引き込むこと)をつけさせたのは誰だ?」。「察しはつくがな…」。ドラマでは、確実に明智光秀のことを示す演出がされていましたが、私は思わず、「光秀じゃなくて、NHKだろ…」とテレビに向かって、声を上げそうになりました。私は、このシーンで、大河の制作サイドの知恵を大きく感じました。結構、コロナで苦しい中でも、楽しみながら制作されているのでしょうね。私は、このような面白い演出や台詞は、大いに歓迎です。* * *これまでの多くの大河ドラマでもそうでしたが、「大河」では、諸説がたくさんある中で、怪しい内容は、ほぼ削除しますね。判明していなくとも、いわゆる定説扱いになっている内容は別にして、ドラマの中で匂わす程度のことはしますが、断定した扱いはあまりしません。今回の第二十回の放送内容に出てきた「桶狭間の戦い」の目的、信長の勝因につながる内容は、歴史ファン…、特に信長ファンであれば、理解しやすい内容なのですが、はじめて「桶狭間の戦い」にふれた方、教科書程度の理解しか持たない方、歴史にあまり興味がないドラマファンのような方々には、この戦いのあらすじを理解するのがやっと、意味あいはほぼ不明、それも展開が早すぎ…なのではないでしょうか。これは、「大河ドラマ」という歴史ドラマが持つ「負の宿命」ともいえますが、今回の「桶狭間」関連のコラム連載では、この第二十回「家康への文」と第二十一回「決戦!桶狭間」を、私の想像を含めて、少し補足説明していきたいと思っています。もう少し、信長や義元のこと、「桶狭間の戦い」のことを知ってみたい方は、どうぞお付き合いください。* * *信長の勝因については、またあらためて別の回のコラムで書きますが、私は、この第二十回「家康への文」のドラマの中に、信長の最大の勝因が描かれていると思っています。最大の勝因は、兵力でも、天候でも、信長の運や知性でも、ありません。もちろん、これらの要因は大きなものでしたが、私は「最大」と言われたら、やはり「人間の心(思い)」だったような気がします。この回のタイトル「家康への文」の中にこそ、勝因が隠れていると思っています。この回の内容では、それにつながる、信長の思想と、今川義元の思想の違いも、しっかり明確に描かれていました。これが「心の本質」の部分だと思います。これは、織田信長と、今川義元の、戦国武将としての本質の違いもあらわしていると感じています。◇元康の「心の本質」この第二十回「家康への文」の内容は、このドラマの中で、信長の勝因につながるような映像展開や意味あいにはなっていましたが、視聴者にはなかなか、それが「勝因の本質」と伝わりにくいのかなと思っています。もともと、この「桶狭間の戦い」を二回の放送だけで描こうとしたかどうかはわかりませんが、何かのシーンを撮影できなかったのかなと感じる部分もあります。元康と母の対面とか、他にも…。元康と信長による共同の陰謀を示すような、元康の重要な台詞でもあれば、それが信長の勝因を示すことになったのかもしれませんね。ただ、そのシーンを描くことは、信長と元康の取引きを断定するものにもなるので、なかなか描けないかもしれませんね。とはいえ、元康を演じた風間俊介さんの、あの切ない泣きの表情を見させられると、この「風間元康」は、周囲の人たちから泣いて懇願されたら断れない人物なのだろうと感じてしまいます。* * *今回の大河では、松平元康(後の徳川家康)を、「裏切りや陰謀の権化」のような存在に描きたくないのかもしれません。この頃の実際の家康は、まだ19歳(満年齢17歳)…、周囲の人たち、同郷の人たち、一族の人たち、家臣たちに、これだけ懇願されたら…。実際の歴史の中で何が行われたのかわかりませんが、「陰謀」や「謀略」よりは、「懇願」によって元康が行動を起こした…のほうが、人が受ける印象は大きく違いますね。元康の、この戦いでの行動の本質が、実際に何だったかは、想像するしかありません。ただ「心の本質」は、ドラマの中で描かれたようなことだった気がします。あらためて次回コラムで書きます。放送二回分しかない「桶狭間の戦い」なのに、この部分に相当な時間を使っていましたね。個人的には、見事だと感じました。さすが池端俊策さんです。◇信長と元康の「最終地点」私が個人的に思うのは、信長にとっては、この大きな戦の計画は、家康が岡崎城に戻って母に再会するところが「最終地点」だったようにも感じています。もちろん、戦国武将の戦の計画は、状況変化を想定して、いろいろな計画変更、別案なども、事前にたくさん準備していたと思いますが、今回の「桶狭間の戦い」の勝者は、信長はもちろんですが、松平元康もその勝利の恩恵ははかりしれません。このくらいの絶大な恩恵が見返りなら、仮の主君ならなおさら、裏切らない戦国武将は、もはや戦国武将の素質なしではないかという気がします。特に、元康(家康)は、人生の中で、大きな選択の瞬間がたくさんやってきますが、その選択をひとつも誤らなかったからこそ、「天下人」にまで上りつめたのです。振りかえると、数々の「幸運」を、彼自身が引き寄せたようにも感じます。* * *第ニ十回には、「何にでも効く、戦で死なない、不思議な薬」が登場しましたが、駒ちゃんは、それを元康に手渡します。私は思わず…「家康の幸運続きは、これか! 駒ちゃん たらっ…神君を生む女神様なんだから…」。どこかに、こんな薬、売っていませんか…?さて、その後の元康(家康)の人生をみてもわかるとおり、今回の裏切り?を、はっきりとした「裏切り」に見せないあたり…、すでに後の家康の姿にも通じている気もします。歴史の中にも、はっきりとは残しません。だから、今でも不明点が多いのだと思います。それに、養父だった今川義元の今川家にもしっかり丁重にフォローします。もはや誰も、元康(家康)に不利な歴史など、残す必要もありません。「神君、家康公」に、暗黒の歴史など、あってはならないのです…。「妙な薬」のおかげということに、しておきましょう…。* * *この時の元康(後の家康)は、まだまだ19歳(満年齢17歳)の凡庸な武将のひとりですが、信長とは違う、それ以上の何かの可能性を、この戦いの中に、少しだけ見るような気がします。ただ、花開くのは、ずっと後です。「桶狭間の戦い」の後の歴史の結果をみると、まさに信長と元康は、その「最終地点」で何かの合意ができていたように思えてなりません。あらためて、これを裏付けるような三河勢のある武将のことを書きます。あまりにも謎めいています。それにしても、義元、信長、元康(家康)…、麒麟は誰を選ぶのか…?信長が強かったというよりは、義元に素質なし…?さて、ちょっとだけ、信長の勝因の一部を匂わせたところで、今回のコラムでは、まず、「桶狭間の戦い」の前段階のことを書きます。◇戦国時代の転換点「1560年」第二十回「家康への文」の冒頭は、すでに、この戦いが起きた1560年の、桜が舞う春になっていました。今川義元の本拠地の駿府では、織田信長の尾張国との戦争に向けて、物資や人を三河方面にどんどん送っていることが描かれていました。越前国で、貧困と悶々とする日々に苦悩する光秀ですが、こんな台詞もありました。「今川は、織田と戦う時に、必ず三河勢を先陣につける。大高城はくせものだ…。(略)今、戦えば尾張は危ない」。戦国武将によっては、大事なお客様家臣の武将には、戦のいいところだけを、手柄として差し上げるような「おもてなし」の戦い方も、場合によって行います。武家の嫡男の初陣(初めての戦)には、だいたい手柄をあえて用意してあげます。光秀のこの台詞は、今川義元が、三河勢の武士にはいつも、死ぬかもしれないような手厳しい状況しか与えないという意味のことを言っているのです。ただ、この分析は、光秀に限らず、各地の武将たちが共通して思っていたことだと思います。現地にいないはずの光秀が、「大高城」の重要性に気づく部分は、少し無理がある気もしないではないですが、「今の尾張に勝ちはない」…このことは、誰もがそう感じていたと思います。戦国時代の中で、この「1560年」は、間違いなく大転換点となります。いよいよ、信長の存在が、日本の歴史の中心になっていくのです。「信長」という名が、日本中に知れ渡ることになるのです。◇桶狭間マップさて私は、今後、下記の「マップ(地図)」を使って、「桶狭間の戦い」のことを説明しておこうと思っています。お城や「櫓(やぐら)」、「砦(とりで)」、「城跡」は、写真を見たり、実際に行ったりするのも、とても楽しいものですが、その配置を俯瞰的に見ると、まさに歴史そのものが見えてくることがあります。文章ではわかりにくい内容でも、城郭類の配置図を見たら一目瞭然ということも少なくありません。皆さまも、信長や義元になったつもりで、作戦をどうぞ考えてみてください。戦国武将たちは、寝ても覚めても、戦略を考えていたはずです。戦国時代に「戦う」とは、どのように頭を使えばいいのか、何となくわかってくる気がしますよ。* * *「桶狭間の戦い」は、あるひとつの砦(とりで)を除いて、城や砦(とりで)の建築構造や規模に、ほとんど意味はないと思います。むしろ、その配置がすべてだと感じます。あるひとつの砦…、それは「中島砦」のことです。個人的な見解です。あらためて、各砦のことは説明します。こうした城郭類の配置と、山や川の位置だったからこそ、「桶狭間の戦い」が、下記の緑色の円形の場所でおきたのです。航空写真では、「桶」の位置が「桶狭間」です。戦いの状況については、次回以降のコラムで書くつもりでおりますが、上記マップの青色の城が今川方です。赤色の城や砦(とりで)が、織田方です。このマップの勢力図は、戦いの前日の5月18日(当時の旧暦日付)時点です。これら以外にも、城や砦は無数に存在しますが、この戦いの今回の説明で、キーになる箇所だけを書き入れてあります。右端の「岡崎城」の、ずっと右側(東側)の遠い先に、今川義元の本拠地「駿河国」があります。義元が、尾張国にやってくる際は、このマップの右側から左側に向かって進軍してくるのです。「熱田神宮」のある場所が、今の名古屋市で、このあたりが織田信長の「尾張国」です。織田信長の本拠地である「清洲城」は、このマップの少し北にあります。さらにその北に、この時は斎藤義龍がいた「美濃国」がありました。斎藤道三はすでに亡くなっています。マップには「知多半島」のつけ根あたりが描いてありますが、この右下方向(東南)に「渥美半島」があります。ピンク色の円形は、三河武士勢力の水野氏の勢力範囲、あるいは、そうであった場所です。5月18日の段階までに、知立城や牛田城は、今川方に奪われています。* * *茶色の塊りは、標高50メートルから、せいぜい100メートルくらいの小さな丘陵地です。山国にお住まいの方々からみたら、それは「山ではなく、小さな丘だ」と言われそうですが、「〇〇山」と名称はついています。低い標高の丘陵地だとはいえ、そこに山があれば、水がわき、小さな沼や池があり、川が流れています。今でも、桶狭間あたりの地図を見ると、ちいさな水源がたくさんあるような印象を受けます。川があるということは、それほどの規模でなくとも谷があり、丘の向こうの建物が見えない場所も多くあります。丘をひとつ隔てたら、その先で何が起きているのか、非常にわかりにくい、山の「狭間(はざま)」の「くぼ地」が幾つもありました。「桶狭間」の、この「桶(おけ)」とは、もともと、その湧き水の上に桶を浮かべると、くるくる回る、そんな土地を示していたと何かで読んだ記憶があります。「水」と「視界の悪さ」…、これは使えそうです!* * *それから、マップの「岡崎城」から「知立(ちりゅう)城」を経て、「沓掛(くつかけ)城」あたりを通り、熱田神宮に向かうルートに、後に東海道として整備される、主要な街道「鎌倉街道」が通っています。マップの上側(北側)は、斎藤義龍の美濃国や、武田信玄らの勢力範囲である信濃国の山々が、もうすぐという場所です。義元は、美濃国とは比較的いい関係でしたが、あまり近づくのは危険もはらみますので、駿河方面から尾張国に向かうには、このマップの陸路しか考えられません。皆さまも、グーグルマップの航空写真を見ていただくと一目瞭然ですが、駿河方面からやってくると、岡崎城のあたりから急に濃尾平野につがなる広い平地の雰囲気を感じることになります。ですが、名古屋に行くには、岡崎あたりでいったん平地に出てから、もうひとつ、小さな丘の連なりである丘陵地を越えなければなりません。そこを越えたら濃尾平野の「尾張国」です。その丘陵地の一角こそ、「桶狭間」なのです。* * *上記マップの薄緑色のラインが、当時の「尾張国」と「三河国」の国境ラインです。すでに三河勢の大半が、今川氏に取り込まれていましたから、このラインが、織田氏と今川氏の勢力争いの境です。ですから、「桶狭間の戦い」まで、両氏は、このラインの右側や左側あたりで、城や砦(とりで)を取ったり、取られたりの戦を繰り返していたのです。その度に、三河に暮らす武士たちは、生死をかけて、あっちについたり、こっちについたりでした。織田氏も、今川氏も、三河の地に何か有能な三河武士でも登場してこようものなら、すぐに抹殺です。「三河国」とは、この岡崎の周辺と、渥美半島あたり、さらに美濃国や信濃国に近い山間部のことですが、周辺の隣接地域も含めて、この狭い地域の人々…今川と織田の狭間で苦労した者たちが、いずれ天下を取るのですから、歴史は不思議でなりません。麒麟は、強力な戦国武将ふたりの狭間で、さんざんに苦労した三河を、しっかり見ていたのでしょうね…。* * *ピンク色の円形は、主に三河勢の水野氏の一族が支配していた地域です。いずれ江戸幕府の最重要の中心的武家となり、家康にかわって、この大事な三河を代々守っていくことになります。「桶狭間の戦い」でも、水野一族は謎めいた行動が多く、私は、この戦いの、ある意味、キーパーソンではないかと感じています。上記マップの位置関係を見ると、ひしひしと感じますね。このことは、戦いの戦況説明の中で書きます。◇大高城と鳴海城さて、マップの「大高(おおだか)城」と、「鳴海(なるみ)城」は、もともと織田氏の城でした。「沓掛(くつかけ)城」は、三河勢の近藤氏の城でした。もちろん、「岡崎城」は元康の松平氏の城で、「知立(ちりゅう)城」や「牛田(うしだ)城」は水野氏の城でした。5月18日までには、すべて、今川氏の勢力下になっていました。* * *大河ドラマでは、少し前に、織田氏と今川氏の「村木砦の戦い」が短く描かれましたが、これは、もしその時点で、刈谷地域の城を今川氏にとられたら、それは知多半島すべてを今川氏に奪われたものと同じと考えた織田信長が、緒川城や刈谷城の水野氏を支援するかたちで、今川氏と戦い、見事に今川勢を打ち負し、撃退させた戦いでした。今川氏は、赤穂事件で有名な吉良氏(マップの岡崎城の南の方向にある実相寺周辺の西尾地域)をすでにとりこんで、さらに、知多半島の対岸にある渥美半島を手中にしており、渥美半島に貿易港を置いていました。岡崎周辺の地域も、すでに今川氏の手中です。さらにここから、知多半島を手中にするということは、伊勢湾の半分を手中にするのと同じです。尾張国からしたら、防衛上も、漁業や商業などでも、大問題です。織田氏は、知多半島を今川にとられることを、絶対に止めなければなりません。今川にとっては、防衛上の意味ではなく、貿易などでの国力の向上、ひいては上洛の際のルート確保にもつながる、どうしても欲しい知多半島と伊勢湾でした。* * *大高城と鳴海城は、尾張国の織田氏と対峙するために、絶対にほしかった前線基地です。沓掛城も、この時代の主要街道上の、極めて重要な城でした。この三つの城を今川にとられたことで、織田氏が枕を高くして眠れるはずがありません。さらに美濃国の斉藤義龍は、今川寄りです。* * *「桶狭間の戦い」の数年前に、織田氏は、この今川の大高城と鳴海城を取り囲むように、多くの「砦(とりで)」をつくります。「砦」は、攻撃拠点になったり、敵の補給路を断ったり、自国の防衛ラインになったりと、使い方は無数にあります。それにより、今川方に落ちた、大高城と鳴海城は、孤立し窮地に立つことになります。食糧補給もままなりません。そこで、今川義元は、この二つの城の救出と、知多半島の奪取、伊勢湾の奪取を目的に、尾張国にむけて進軍したのではないかと、私は思っています。ここで、大戦をして、織田家を滅ぼそうなどと考えていたとは思えません。まして、そのまま上洛など考えられません。ある程度、織田氏を叩いて、いったん駿府に戻る計画であったのかもしれません。義元の進軍状況を見ると、そんな生死をかけた大戦争にのぞむ雰囲気を感じません。* * *義元の考えは、「甲斐国の武田信玄、相模国の北条氏康と、三国同盟を結んでいるあいだに、知多半島と伊勢湾を頂いておくか…、ついでに尾張国が手に入れば儲けもの」くらいではなかっただろうかと思っています。もし、織田氏を滅ぼすつもりなら、斎藤義龍も同時に動いたはずです。義元は、まさか信長本人と直接対決するとは思ってもいなかったのではないでしょうか…?◇三国同盟ここで簡単に、前述の「三国同盟」のことを書いておきます。平たく言えば、次のようなことです。「隣接する三国(甲斐国・相模国・駿河国)でいつまでも戦いばかりをして、それぞれが消耗していては、国力がちっとも上がらない。ここは、同盟を結んで、ひとまず三国での戦いはやめましょう。北条さんは、どうぞ関東に支配を広げてください。武田さんは、信濃の完全支配と、上杉謙信との決着に全力を注いでください。今川さんは、三河と伊勢湾を手中にして、尾張国も飲み込んでください。私たち三国の関係は、その後にまた考えましょう。武田さんには、駿河の今川さんから塩をしっかり送ってあげますよ。」こういうことです。この三国同盟は、美濃国と駿河国の関係性とあい入れないこともあるので、今川家からみたら、斎藤義龍を完全に信用することはできません。この1554年の三国同盟の成立こそ、今川義元が、今回、尾張国を目指したきっかけの一つとなったと思います。この三国同盟は、義元の死で、あっけなく崩壊します。◇義元の狙いは…先ほど、知多半島と伊勢湾奪取のことを書きましたが、大河ドラマの中では、義元のこんな台詞があります。「大高城、鳴海城を足がかりに、尾張を攻撃する」。私が個人的に、もっとも気になるのは、この「足がかり」が、いったいどんな作戦だったのかということです。義元は、この二つの城を、順番にではなく、ほぼ同時に救出し、そのまま尾張に入ろうとしたのか。ひとまず救出して、その地域の地盤を今川勢で固めてから、次の尾張攻撃に備えようとしたものなのか。あるいは、その時点で、いったん駿河に帰国しようとしたのか。はたまた、この二つの城の周辺に、信長を誘い込んで、そこで決戦を挑もうとしたのか。よくわかっていません。* * *ただ、今回の進軍に水軍を連れていったということは、海岸近くの戦場を想定していた可能性も考えられます。戦闘用の船団ではなく、緊急避難用の船団だったのかも、よくわかりません。いずれにしても、桶狭間の山間部で戦うつもりなら、水軍は必要ないだろうとは思います。* * *私は、同時かどうかはわかりませんが、この二つの城を救出後に、この伊勢湾の海岸近くで、信長と大規模な戦争を進めようとした可能性もないとはいえないと思っています。ただ、義元は、あの信長が何も策を持たず、どこかの城に籠城すると考えたでしょうか。信長が、正攻法で、無鉄砲な攻撃をしてくると思ったのでしょうか。義元は、信長軍内部に、何か調略の手を伸ばしたのでしょうか。私には、今川軍の岡崎城からの進軍スケジュールが早すぎて、何か奇妙…、何かがおかしい気がします。戦国武将の戦い方から考えると、何か進軍が早すぎる気がします。ドラマの中で、光秀は「大高城がくせものだな~」と語っていましたが、まさに、この時の「大高城」は疑惑だらけに見えてきます。この「曲者(くせもの)」という台詞の表現…、まさに「くせもの」。ドラマでは、誰かを匂わせた…?◇信長の狙いは…信長からみたら、義元に二つの城(大高城・鳴海城)を救出され、その城の周囲にある織田軍の砦を完全に撃破されたら、もう勝負になりませんね。「この二つの城を救出される前に、どこかで戦わなければ、自身に勝機はない。それも、義元ひとりを討つだけで精一杯だ。」こう考えても、不思議はありません。それなら、あえて城のひとつは完全に放棄し、もうひとつの城をおさえこむか…?前回コラムで書きました、今川軍の有能な軍師の「雪斎(せっさい)」が亡くなった今、あとは義元さえいなくなれば、未熟な息子では今川軍は瓦解すると、信長は考えたかもしれません。それより何より、義元さえいなくなれば、海が欲しくて仕方がない武田信玄が、今川家を滅ぼしてくれるはず…。* * *私が個人的に思うのは、信長は、義元の進軍中に、義元の作戦をほぼ見破ったのではないかと思っています。そして、その作戦の弱点もわかったのだと思います。私は、岡崎城から義元が、どこに向かうかで、信長は大方の予想をつけたと思っています。そして、もし、ここで、〇〇が今川を裏切って、織田方に味方しなくても、そのまま動かないでいてくれて、さらに、義元を桶狭間に誘導できれば、義元だけを討てると考えたのかもしれません。◇信長の誘導戦術織田信長という武将は、この戦い以降の、自身の作戦でも、たいがいは、自分の戦いたい場所に敵を誘導します。武田勝頼との「長篠の戦い」では、勝頼側が信長に誘導されているのを認識しながらも、大将の勝頼を生き残らせるために、武田軍は、あえて信長の誘導に乗ります。実は、信長が、武田軍にとって、その選択しかできないように事を運び、その状況にもっていったのです。その誘導した場所こそ、あの地獄の場所です。この時の、地獄に飛び込んでいく武田の武将たちの心情は、想像もできません。勝頼は逃げ切ることができました(あえて信長が逃がした?)が、ここで戦国時代最強を誇っていた武田騎馬軍団は事実上、消滅します。信玄時代からの古参の家臣たちが、あれほど反対し、進言したのに、勝頼は耳を貸しませんでした。理論武装した、経験の少ない知識偏重の若者がよく陥るワナです。現代でも同じですね。武田信玄の心配と予想は、ぴたりと当たってしまいました。武田勝頼は、まんまと信長の誘導戦術のワナにはまってしまったのです。もし、「麒麟がくる」の中で、「長篠の戦い」が描かれることがあれば、その時に、そのことはご紹介します。* * *信長の「誘導戦術」は、秀吉や家康にも引き継がれていきますが、ほとんどの敵は、誘導されていることに気がつかずに敗れていきました。「桶狭間の戦い」と「長篠の戦い」のそれぞれの作戦には、共通点が多いと、私は思っています。有力な戦国武将たちの、恐ろしいまでの「誘導戦術」は、この時代特有の怖さを感じますね。これなら、兵力差があっても、勝利できます。私は、おそらく「桶狭間の戦い」も、恐ろしいほどの「誘導戦術」が行われたと思っています。元康が、どのあたりまで、信長の考えを知っていたかはわかりませんが、いずれにしても、信長は敵にしてはいけないと感じたかもしれませんね。* * *ちなみに、私は元康(後の家康)の「関ヶ原の戦い」にも、この「桶狭間の戦い」に似た部分があると感じています。関ヶ原での小早川秀秋の行動と、桶狭間での元康の行動は、非常に似た動きではなかったかと感じています。おいおい書いていきますが、後の家康は、この「桶狭間の戦い」の経験を、「関ヶ原の戦い」に持ち込んだのではと、私は感じています。家康は、桶狭間でも、長篠でも、その他いくつかの戦で、信長戦術を間近で体験しているのです。戦術の一翼を担っていました。彼は、秀吉の戦術も、目の前で多く体験しています。家康の身体の中には、信長と秀吉の、二人の戦術が叩き込まれていたのかもしれません。そりゃあ…、最後に天下人になるわけですね。◇その知恵はどこから…さて、大高城、鳴海城、沓掛城の三つをとられ、圧倒的な兵力差の状況で、敵に立ち向かわなけらばならない信長です。「どうすりゃ いいのよ…」。大河ドラマの第二十回の中で、織田氏の居城「清洲(きよす)城」の中で、重臣たちが「雁首(がんくび)」並べて、ああだの、こうだの…。そして、全員で、「殿!」。このドラマの演出…笑っちゃいました。雁たちの、その無能ぶり…、テレビの視聴者に伝わり過ぎです。コントか…。この時の織田軍には、頭脳派の、光秀も、秀吉も、官兵衛も、半兵衛も、まだいないのです。いてくれたのは帰蝶だけ。親父の代からの、うるさいだけの老家臣たち…、もはや信長は、桶狭間に彼らを連れていきません。連れていくのは、ピチピチ若武者軍団。それに加えて、ピチピチたちにとっての、ちょい悪の兄貴分たち。そのことは、あらためて…。* * *大河ドラマの中で、ワラをもつかみたいであろう苦しい心境の信長は、帰蝶からの言葉「竹千代(松平元康)がいる」を聞いたとたん、まさに、「ニンマリ笑顔」に急変します。たしかに、人は、とてつもない苦境の中で、一すじの光明を見つけると、思わず笑みがもれそうになります。「染谷信長」の、ここまで見たことのない、ユルユルの表情です。そして、前述のあの台詞「その知恵をつけさせたのは誰だ?」。「察しはつくがな…」。となります。武人というのは、苦境や戦いを重ねることで、急激に成長する時期があるのだと思いますが、信長にとっては、まさにこの頃だったのではないでしょうか。結構、深刻な内容の放送回でありながら、笑い満載の第二十回でした。まだ笑いは続きます。◇そんな思いは、さらさらないのに…ドラマの中で、信長と帰蝶の夫妻は、熱田神宮で、元康の母の「於大(おだい)の方」と、彼女の兄の水野信元と面会します。於大の実家が水野家で、於大は夫の松平広忠(家康の父)と離縁し、実家の緒川城(マップ参照)に戻っていました。そうした理由で、元康(家康)と、母の於大は、長い間、離れ離れになっていたのです。元康は、今川家への人質であり、義元の家臣。水野家は、織田方についています。水野家にとっては、「村木砦の戦い」で、大恩のある織田信長です。ドラマの中では、熱田神宮で出会っていますね。まさに、敵にも味方にも知られたくない密会です。* * *もともと、母性に心を流されるような信長ではありません。信長はこの面会で、あたかも同情する風体で、母子の情の話しを持ち出し、於大と信元に、元康への説得(裏切り)を頼むのです。信長が頼むというより、於大と信元側から、そうさせてほしいと言わせたかたちです。於大は、信長に、母子のそんな情がわかるはずがないことは十分にわかっています。於大は信長に、「(母子の情とは)そうしたものですか?」と問います。信長は「わしは、そう思う…」。染谷将太さんが演じる信長の、このときの表情…、思わず笑ってしまいました。いっしょにテレビを見ている家族は、真剣に見ていましたが、私は、「この野郎、ヌケヌケと…」という思いで、笑いながら見ていました。まさに本気と思わせる深い情と、さらさらない気持ち、すっとぼけた素振りを、俳優さんが同時に表情で表現するのは、非常にむずかしい気もしますが、その三つが、とてもよく伝わってきました。「染谷信長」…なかなかな武将です。* * *私は、実際の信長は、結構 ちゃめっけたっぷりの愛きょうを、持っていたと感じています。面白い「あだ名」をつける名人でもありましたね。この「あだ名」話しで、その場は、相当に盛り上がったでしょう。すっとぼけた、ひょうきんな表情は「お手のもの」だったのかもしれませんね。こんな面白いシーンが入ってくるとは、思ってもいませんでした。大河ドラマも、昔とはだいぶ変わりましたね。実は、私がもっとも笑った、コント風のシーンが、第二十一回「決戦!桶狭間」の中にあったのですが、その話は、次回以降のコラムで…。すみません。制作サイドは、コントだと思って作っていないのかもしれません。◇戦い方の本質ここまで、「桶狭間の戦い」での、義元と信長の狙いの概要を、私なりに少し書いてみました。個人的には、相手の狙いと作戦を見破った信長と、相手の狙いと作戦にあまり注目していなかった義元…、この差は大きかったと思います。次回以降のコラムで、さらに深掘りし、もっと詳しく書いていきます。* * *信長にとっては、この戦いを、人生の通過点の戦いだと感じる余裕はまったくなかったと思います。まさに、生死をかけた戦いです。死んでから、どんなことを言われようが、死んだら同じ…、人生とおさらばするかのように「敦盛(あつもり)」を謡い舞う気持ちも、よくわかります。戦うにあたり、「世間体」や「誹り(そしり)」を気にかけている余裕は、もはや全くありません。とにかく、手段を選ばず、何が何でも、義元の首をとる!この一点に必要なことなら、どんな妥協もしたでしょうね。ただ、その一点に悪影響を及ぼすことは、一切妥協しなかったのでしょう。作り話しでなく、大将が軍団の先頭に立って前線にいる…こんな姿は、他の戦国武将ではまず考えられません。ひとりだけいました…、上杉謙信。二人とも、普通に考えたら、戦いの最前線で戦うその姿…異次元の人のように見えますね。そういえば、二人とも、当時としては度肝を抜かれるような戦闘衣装でしたね。やはり、この二人…似ていたのか。* * *今回のコラムは、ここまでにしますが、まだ「心の本質をつく」作業は終わっていません。次回コラムで、第二十回「家康への文」の中で描かれた、松平元康や水野家、三河衆の人々の「心」や「思い」について書きたいと思います。人は、相手の本質や能力を見抜こうとするときに、その発言や、使う言葉、仕草などから情報を得ようとしますね。ただ、時に誤認してしまいます。もっとも正確に把握できるのは、その人物の過去や現在の行動からだったりします。今回、染谷将太さんが演じる信長が、偽の姿を演じた話しを書きましたが、発言や言葉ではだますことができても、行動は、なかなか、ごまかせないかもしれませんね。今回の「桶狭間の戦い」に関する連載では、信長と義元の話しだけでなく、その中心になるのは、実は三河衆の本質のことです。私は、織田信長という人物の、戦争の戦い方の本質も、この「桶狭間の戦い」の中にあると感じています。前述しましたとおり、私は、この部分がなかったら、信長の「桶狭間攻撃計画」は成功しなかったと思っています。今回、マップを掲載しておきながら、今のコラムの内容段階では、まだ信長も、義元も、このマップの中までたどり着いていません。次回コラムで、義元が岡崎城に到着するところまで書けるかどうか…?次回コラムでは、三河武士のことを中心に書きたいと思います。* * *コラム「麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)三河煮込み」につづく『麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)「三河煮込み」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。松平元康と三河武士。最強軍団の条件。濃厚味噌パワー。八丁味噌。愛知県・岡崎市・刈谷市・西…ameblo.jp2020.6.24 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 21Jun
      • 麒麟(19)桶狭間は人間の狭間(1)「心のスキをつけ」の画像

        麒麟(19)桶狭間は人間の狭間(1)「心のスキをつけ」

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。麒麟(19)桶狭間は人間の狭間①「心のスキをつけ」◇本格的なハイレベルの戦いに…前回の麒麟シリーズのコラム「麒麟(18)命を使いきる」を書いてから、すでに一か月が経ちました。前回コラムは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第十九回「信長を暗殺せよ」に関連し、信長の暗殺計画、光秀と義龍の別れなどについて書きました。ここまで大河ドラマは、第二十一回まで放送され、今は、ドラマ撮影が中断し、放送もしばらくお休みとなっています。第二十回と第二十一回の放送では、織田信長と今川義元が戦った、有名な「桶狭間(おけはざま)の戦い」の前段階と本戦のことが描かれましたね。今回のコラムから数回の連載で、この「桶狭間の戦い」ことを、書いていきたいと思います。普通に紹介説明しても面白くありませんので、少し違った視点で書いてみたいと思っています。* * *この「桶狭間の戦い」は、その結果いかんによっては、日本史の流れが大きく違ったであろう、たいへん大きな意味を持つ戦いです。戦国時代が佳境に近づく…、つまり多くの戦国大名たちが、中規模程度にまで大きくなった各国をそれぞれに治め、チカラのある中規模の国どうしが戦うようになり、そして、中規模の国の中間の位置にある弱小国が独自の生き残り戦術を行い、中には、国と国が同盟や連合体制を組んで、別の強敵と戦うようになっていく…、そんな時代の状況に近づいてきました。戦国武将たちが淘汰され、徐々に有力武将が絞られていったのです。もはや、カリスマ的なリーダーひとりが、武力にものを言わせて、強力に引っ張っていけば何とかなるという時代は終わろうとしています。「下克上」という、身分の差を超越した、非情な一面を持つ厳しい淘汰も、単なる裏切りや陰謀を越えた、まさにハイレベルの軍事戦略となっていきます。戦いは、まさに「腕っぷし」に頼るような武力だけでは、到底、勝てない時代に突入していきます。戦国時代の戦いは、情報収集、調査分析、諜報活動、陰謀策略、大量の人材を使った暗躍、分単位のち密な作戦、新兵器、新戦法、組織運営、経営力、自然環境対応力、土木技術…など、これらすべての要素を持っていなければ、まず勝ち残れない時代となっていきます。リーダーがすべての能力を持っていなくとも、有能な人材を集め、彼らを使いこなすことができれば、勝利は舞い込んできます。人心掌握術も、かなり重要な要素となっていきます。ひと言でいえば、「腕力」よりも「頭脳」です。◇頭脳は、武力を駆逐する1560年の「桶狭間の戦い」は、まさに、頭脳戦、心理戦、情報戦の極みともいえます。個人的には、今川義元は、織田信長に頭脳戦で敗れたと感じています。偶然の要素など、まったくないと思っています。その翌年、1561年に、信州(長野県)の川中島で、有名な、「第四次・川中島の戦い」がありました。越後国の上杉謙信と、甲斐国の武田信玄の、あまりにも有名な戦いですね。これは、両武将とも、勝ちを得ることなく、痛み分けの結果となります。この戦いは、戦前の兵力や状況、戦場の配置から普通に考えれば、武田信玄の圧勝の状況です。この状況で、謙信がすさまじいほどの頭脳と作戦、行動力により、なんと勝利の寸前までいきます。おそらく、その頭脳がなかったら、謙信の大敗北だったと思います。謙信が勝利目前の段階までいきながら、ここで負けない信玄の強さも尋常ではありません。信玄には、尋常でない強力な家臣たちと団結力、負けない軍戦術がありました。信玄は、それらに守られたといっていいと思います。ですが、この時に、軍師の山本勘助や、後の武田家を考えると致命傷となる、信玄の弟の武田信繁を失ってしまいます。信玄は、この謙信の恐ろしいほどの頭脳と行動力に、もはや「謙信は敵にしないほうがいい」と考えるようになったと思います。後に、徳川家康が、武田信玄に完敗する「三方ヶ原の戦い」は、まさに上杉謙信の戦い方を見ているような気がしてきます。上杉謙信という武将は、まさに万人の度肝を抜くような、心を見透かしたような、奇抜な作戦をたくさん行った、まさに「軍神」でした。* * *今振り返ると、この上杉謙信の頭脳と、織田信長の頭脳は、どちらが上だったのだろうかと思ってしまいます。信長は、ある段階まで、謙信と信玄とは、戦わないという姿勢をとります。ある意味、信長は彼らを恐れていたと思われます。信長という人物は、ある段階から、確実に勝てると思える戦場にしか、自身は出向きません。それに適した家臣に、戦術や兵力を与えて戦場に送りこみます。実際には、「信長包囲網」が日本全体で敷かれて、すべての戦場に自身が出向けないという事情もありました。秀吉や光秀あたりなら、自力で臨機応変に作戦変更もできるでしょうが、凡庸な家臣には、細かい作戦命令や、ダメなら担当替えです。実は、「本能寺の変」も、その担当替えがなかったら、起きていなかったかもしれません。大河ドラマ「麒麟がくる」でも、そのキーになる武将が、「桶狭間の戦い」をきっかけに登場してきました。何とも、不気味な笑みを浮かべていた武将です。そのことは、あらためて…。いずれにしても、信長は、自身の頭脳こそが、信長軍の最大の武器だと思っていたのかもしれませんね。さすがに、後年の秀吉のことは、信長軍の最大の武器だと認識していたでしょうが、光秀にはどのような思いを持っていたのでしょうか?そのあたりも、あらためて…。* * *今川義元も、かなり優秀な戦国武将であったはずです。隣国の、武田信玄、北条氏康と、互角に渡り合ってきたのです。とはいえ、義元には、天才軍師の「雪斎(せっさい)」が、この「桶狭間の戦い」の直前まで、ついていたのです。雪斎は、この戦いの直前に亡くなってしまいます。個人的には、もし雪斎が生きていたら、信長の作戦に、今川軍がまんまと引っかかったとは思えません。雪斎が、何か怪しいサインを見逃したはずはないと思っています。雪斎がいなくなって、今川軍の諜報活動のレベルが下がっていたということはなかったでしょうか?* * *この「桶狭間の戦い」の後、謙信も信玄も、信長への姿勢を一変させます。信玄は、甲斐・相模・駿河の三国同盟を破棄し、信長と一定の同盟を組みます。「信長とは、かんたんに戦ってはいけない」…、そう信玄に思わせたのです。信長は、今川氏や北条氏よりも力量が上だと、信玄は確信したのだと思います。戦国武将が、敵将の能力を、諜報活動やその言葉や文書だけで把握するのは、まず不可能です。戦争の仕方と結果を見て、その能力をすべて見極めなければなりません。「桶狭間の戦い」には、信長の、それほどの能力が隠れています。◇愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ今の、企業間のビジネス戦争、国どうしの交渉、戦争…、さらに個人の人生においても、参考になるような話が、この「桶狭間の戦い」の中に、たくさん入っていると思っています。今の各国の軍隊は、日本や中国などの東洋の戦争の歴史を、徹底的に研究しますね。もちろん、「桶狭間の戦い」も研究対象でしょう。* * *昔からのことわざに、「愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものがありますね。これは、近代の外国の武人のある言葉を、少し違ったかたちに意訳したものです。信長の学習意欲や研究熱心さは、すさまじいものでしたが、おそらく国内の古い戦いについても、相当に研究や学習をしたのだろうと思います。源平合戦のことも相当に研究したでしょう。近い時代の、毛利元就や上杉謙信の戦い方も、相当に学んだのかもしれません。今回のコラムでも、現代人が「桶狭間の戦い」から学ぶものという視点で、少し書き進めていこうと思っています。皆さまには、「もし自分が信長だったら、あまりにも大兵力の義元を相手に、どのように戦って、そして、この絶対不利の状況から勝利を手にするのか」と想像しながら、ぜひお読みいただきたいと思っています。◇信長と「敦盛」この「桶狭間の戦い」は、実は、断片的にしか史実が判明していません。よくわかっていない部分が、相当に多い戦いなのです。諸説が乱立していますが、一応、判明している史実と、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容にあわせるかたちで、書いていくつもりでおります。* * *大河に限らず、時代劇ドラマや映画の中で、「桶狭間の戦い」を描くのは、相当に苦労が多いと思います。まず、最終決戦の状況がはっきりしていない…、戦場さえもはっきりしていない…、肝心の義元の最期も、各文献を信用していいのか疑問符がつきます。ですから、どうしても解釈や推測によって、微妙にドラマの描き方が変わります。* * *「麒麟がくる」をご覧になられた方も感じたと思いますが、「桶狭間の戦い」が始まるとなったとたんに、それほど有名でもない武将が、ドラマに次々に登場しますし、まず、やたらに「砦(とりで)」や城の名称が出てきます。はじめから、この戦いを理解していなければ、ドラマの台詞だけで、この戦いの進捗状況を把握するのは、まず不可能だろうと感じます。ドラマには、人間の心情やアクションシーンなどのドラマならではの演出もたくさん入ってきますから、信長の作戦のことやら、義元がどこで失敗したのかも、ほとんどドラマの中ではわかりませんね。* * *「麒麟がくる」の中では、信長が、「人間50年…」の台詞で有名な「敦盛(あつもり)」を舞っている最中に、重要な作戦を思いつきますが、実際には、そんなことはまずないでしょう。現代の今でいえば、人気の歌謡曲を気晴らしに歌っている最中に、重要な作戦を思いついて、すぐに命令を出したようなことです。実際には、そんなはずはなく、今回の信長の「桶狭間決戦計画」は、長い期間をかけて調査分析し、綿密に考え抜いて、微調整しながら立案したものだろうと思います。義元から見たら、そもそも「桶狭間決戦計画」などなかったはずです。この話しは、次回以降に書きます。* * *ただ、信長が「桶狭間の戦い」の戦場に出向く直前に、前述の大好きな「敦盛」を歌い舞ってから、出陣したのは事実のようですので、それを作戦の発案に重ね合わせて、ドラマに盛り込んだということだと思います。今なら、オリンピック選手が、好きな曲を耳にしてから覚悟を決めて、本番の競技に向かうようなことです。何しろ、ドラマ2回分に、この長大な戦いを詰め込むのですから、どのようにコンパクトにしていくのか考えるだけで、頭脳が悲鳴をあげそうです。もちろん、戦(いくさ)の戦術やら、作戦やら、陰謀やらを知らなくても、ドラマとして楽しめるのは間違いありませんが、知っていたら、ドラマの登場人物のことが、非常に理解しやすいと思います。「敦盛」がドラマの中で登場するシーンは、今後もひょっとしたらあるのかもしれません。「敦盛」のことは、またの機会に…。◇四つのテーマ今回の「桶狭間の戦い」に関する連載では、まずは、その戦いの内容と当日までの流れ、信長の勝因は何だったのか、この戦いの登場人物の人間関係の三つに分けて書きたいと思います。勝因については、この地域の人間関係を知らなければ、理解しにくい部分も多いので、複雑な「三河武士」の人間関係を少し書きたいと思います。私が個人的に思うのは、信長は、この三河の人間関係を、見事なまでに利用したと思っています。この人間の使い方については、義元との差は大きいとも感じます。そうした点でも、やはり雪斎の存在は大きかったのかもしれません。* * *その三つに加え、私は個人的に、前述の「第四次・川中島の戦い」と、この「桶狭間の戦い」は共通点が非常に多いと感じています。謙信と信長という、戦争の天才に何か共通するものがあると感じています。それも、書きたいと思います。ですから、全部で、四つのテーマということになります。歴史的には、上杉謙信と織田信長の直接対決は実現しませんでした。一回だけ実現しそうになりましたが、信長が回避します。この頃、秀吉も、家康もまだまだ若く、毛利元就はすでに亡くなっています。私が個人的に思うに、この時期に、「頭脳」という意味では、謙信と信長の二人は図抜けていたと感じています。ただ、人間は「頭脳」だけではないことも、歴史がいずれ証明してくれますね。信長も、謙信も、頭脳ではない部分に弱点を持っていました。* * *今回の「桶狭間の戦い」に関連した連載が、何回の連載になるか、まだわかりませんが、少しずつ書いていきたいと思います。何回か、少しおつきあいください。◇歴史に残る名作戦この「桶狭間の戦い」が、この頃の信長の人間性、考え方、知性を集約したような戦いであったのは間違いないと思っています。偶然が幾つも重なって、誰も想像できなかったような結果が、天から信長に転がり込んだとは、到底考えられません。戦国時代には、「名作戦」が幾つかありますが、間違いなくそのひとつのはずです。個人的に、信長には、この「桶狭間の戦い」、そして、よりち密な「長篠の戦い」が、2トップだと思っています。豊臣秀吉には、「高松城水攻め」から「中国大返し」、そして「山崎の戦い」までの一連の戦いが、彼のトップだと感じています。加えるなら、信長配下の時の、「美濃攻め」や「小谷城攻め」もすごい内容です。徳川家康には、やはり「関ヶ原の戦い」と、「大坂の陣」でしょうか。個人的には、戦国時代最高峰の戦が、「関ヶ原の戦い」だと感じています。準備といい、陰謀といい、頭脳戦と心理戦の極みとも感じます。上杉謙信と武田信玄の川中島を中心とした一連の戦い、毛利元就の中国地方制覇の一連の戦いも、見事というしかありません。ここであげた「戦(いくさ)」はみな、図抜けた知性と行動力が感じられます。* * *ここであげた武将たちは、微妙に年齢の差がありますので、誰が最強だったかは結論づけられませんが、「桶狭間の戦い」を見るに、今川義元では、織田信長、上杉謙信には、少なくとも勝てなかったであろうと感じます。とはいえ、今川義元も、相当に有能で強かった武将です。私は、「桶狭間の戦い」を考えるに、これが単に、「今川家」対「織田家」ではなかった点がミソだと思っています。この両者の間に、三河の武士勢力がいたことこそ、「信長勝利」の結果を生んだともいえるような気がしています。三河勢力を巧みに利用した織田信長と、それができなかった今川義元ではなかったかと感じています。まさに、人間関係を上手に使えたのかどうかだと思います。一応、ここで説明しておきますが、「桶狭間の戦い」の時点で、三河勢の大半は、基本的には今川軍の配下です。さらに注目したいのは、信長は、この時代に、電話器でも持っていたのかと思わせるような、情報戦とスパイ活動の見事さです。こうした人間関係や、スパイ活動のお話しは、あらためて書きます。◇義元は何をしようとしたのか?そもそも、どうして今川義元が、のこのこと敵勢力の「尾張国」にやってきたのか…?あの武田信玄は、死の直前に、息子の勝頼に遺言を残します。その中では、チカラが未熟な段階で、不用意に天下を狙わないことの他に、もし大敵と戦うことがあったら、必ず「甲斐国(今の山梨県)」の中で戦うようにと釘をさしています。敵の領国や勢力範囲の中で、絶対に戦ってはいけないと言い残すのです。この言葉を守れなかった武田家は、そう遠くない将来に滅亡します。それも、よりによって織田信長を相手にして…。私の想像では、信長はこう考えていたと思います。もし信玄が存命中の武田軍に、信長が今川軍に行ったようなワナは、まず通用しないと。* * *まさに、敵の領域にわざわざ出向いて、大きな戦争を仕掛けるなど、「おろか」としか思えません。有能な戦国武将であれば、大戦になると想像した時点で、第三国の有利な場所に敵を誘い込んで、そこで戦闘に及ぶのが、まずは鉄則のはずです。敵国かその領域に入っていくとは、侵略行為そのものですので、あまりも危険なはずです。義元は、信長があまりにも弱小武将だと考えていたのでしょうか?かつての斎藤道三の信長への高評価を、知らないはずはないと思うのですが…。戦国時代に、第三国や、両者のどちらの領地でもない場所で戦うことはよくありましたが、戦争の成り行きや、相手の実力がわからないうちから、敵国の領域に踏み込むとは、よほどの自信か、アホ武将しか、しないような気もします。後は、敵のワナに、完全にはまるかです。どうして、今川義元は、今振り返ると、こんな中途半端な軍の体制で、信長の尾張国と西三河の境ギリギリの、それも山間地に、のこのことやって来たのでしょうか?そもそも上洛する目的など、あるはずがない…?そのお話しは、あらためて…。◇本当に奇襲だったのか?実は、「桶狭間の戦い」は、よく「奇襲」と言われますが、これは今川家側から見た表現のように感じます。織田家から見たら「奇襲」でも何でもない気もします。「正々堂々の頭脳戦・情報戦」だったのかもしれません。ただ、織田家からしたら、「奇襲」や「奇跡」と言われることは、メリットがたくさんあると感じます。* * *後に天下人となる徳川家康も、奇跡や偶然でないようなことでも、何か神がかったものや、優秀な家臣たちがチカラを貸してくれたとよく表現しましたが、本当は、家康の陰謀や作戦以外の何ものでもないのです。ただ、陰謀や頭脳戦が巧みな武将だと思われてしまうのは、非常に困るのです。昭和の戦前の日本軍が、「桶狭間の戦い」を奇襲攻撃の成果と扱いたかったことも、奇襲説を広めることにつながったような気もしています。* * *上杉謙信が、川中島で、川を渡ってきているはずのない場所に、霧が晴れた瞬間に、大軍勢で立っていた…、それも正面ではなく横から…、これは謙信がつくりだした登場シーンそのものですが、おそらく「桶狭間の戦い」での、信長自信か信長軍の登場も、これに近かったように思っています。義元からしたら「なぜ、信長軍がここにいるのだ!」歴史に残る名武将たちはみな、戦場での演出が見事です。戦略的効果もさることながら、敵の兵士に与える心理的効果も絶大でした。* * *油断していたとは思いませんが、自信過剰の義元には、逃げ道や逃げる手段も用意してなかった気がします。義元は、持病の「痔」で、馬に乗れない戦国武将の代表格で、いつも「輿(こし)〔人が乗るカゴを逆さまにしたような乗り物・おみこしにも似ている〕」での移動でしたが、戦場におとりの「輿(こし)」を幾つか用意していないとは、あまりにもお粗末です。通常であれば、用意していないとは考えられません。信長、秀吉、家康、謙信、信玄…、みな戦場には必ず「ニセもの」を用意しています。それに非常時ですから、どんなかたちででも、馬に乗せて逃がすのが当たり前です。これらすべてを不可能にさせたのも、信長の作戦以外の何ものでもないと、個人的には思っています。おそらく馬もいなかったのでは…。馬がいたとしても使えない…。* * *そもそも、義元は、自分がどうして「桶狭間」になど来ているのかさえ、最期まで気がついていなかったのかもしれませんね。自分が「桶狭間」で信長と戦うとは、到底、想定外であったと、私は思っています。「第四次・川中島の戦い」の武田信玄も、「どうして謙信が、この時刻に、この場所にいるのだ!」と叫んだにちがいありません。大混乱の中でも、武田軍は、すぐに防衛体制を敷くのですから、さすがに最強武田軍団です。勇猛な家臣たちが、幾人も自身の命を捨てながら、信玄の命を必死に守っていきました。おそらく、今川義元には、そんな家臣たちが、近くにそれほどいなかったと思います。これも、信長の作戦だと思います。前述の「第四次・川中島の戦い」の時の上杉謙信も、今回の織田信長も、強大な敵を相手にする時の、「弱者の戦法」そのものです。その戦法のことは、あらためて…。* * *それにしても、雪斎様さえ、存命であれば…。今川家の中で、この信長の有能さを見抜いていた人物は、雪斎しかいなかったのかもしれませんね。有能な軍師がいなくなったとたん、「海道一の弓取り」は、普通の「弓取り(国持ち大名の意味)」になってしまったのかもしれませんね。信長は、ある段階で、それを確信したのだろうと思います。彼は、「桶狭間の戦い」は、奇跡を呼び込む「奇襲」とは思っていなかったと思います。◇心のスキをつけ「桶狭間の戦い」の織田信長も、「第四次・川中島の戦い」の上杉謙信も、ひょっとしたら同じような心境だったのかもしれません。「相手は、その兵力、その状況からみて、絶対に勝てると考えているはずだ。客観的に見ても、まったくそのとおりだ。相手に油断はないかもしれないが、絶対の自信の中に生まれるスキを狙おう。それならば、敵の自信を、ますます大きなものにしてやろう。そして、相手を先に動かすのが肝心。相手の心のスキを狙う瞬間は、一瞬しかない。それは、相手が予想もしていない場所で、大将の防備が手薄になった瞬間に、相手が予想もしていない時刻に、突然に目の前にあらわれる。それも、相手が、相当に不利な場所で、大将の逃げ道のない状況で…」。二人とも、大成功したのだと思います。信長と謙信の違いは、最後の大将への襲撃方法だったと思います。それぞれの襲撃部隊の規模の大きさが、その戦い方に影響したとは思いますが、謙信は、もう少しで信玄を討ち取るところまでいきましたね。大将の心のスキは、ひょっとしたら、兵力の弱点よりも、敗戦に大きく影響するのではないかとも感じますね。* * *信長のクチ癖のひとつに、「城に、自分の生命をゆだねるようなことはしない」というものがあります。城や兵器で、自分の身が守れるというのは、まったくの錯覚だというのです。信長にとっては、城や兵器は、あくまで使うもの…、おそらく信長には、人間もそうであったのだろうと感じます。「桶狭間の戦い」で、信長と義元の「人(家臣)の使い方」はかなり異なって見えてきます。◇作戦は、とっくに始まっていた?さて、次回のコラムでは、「桶狭間の戦い」の半月ほど前の信長の動きから、戦い当日までの両軍の行動歴を見ていきたいと思います。私は個人的に、信長は半月ほど前に、すでに本格的な「作戦」を開始していたと思っています。信長は、どうやって、義元の「心のスキ」を突いていったのでしょうか?* * *「桶狭間の戦い」の前日に、信長は家臣を清洲城に集めますが、軍議などまったくしません。顔を見て、すぐに家に帰します。この段階で、作戦会議など開いても、意味がありませんね。義元の前日の軍議とは、まったく質の違うものを感じます。信長は、おそらく、本当の襲撃部隊と、尾張に残す者には、それぞれ別の話しをしたと思います。すでに半月前に作戦を開始し、その計画が、見事に計画通りに進んでいるからこそ、前日は、最終確認をしただけだったと私は思っています。信長からしたら…、「よしよし、まったく計画通り…。スパイから連絡はきたか…」だったでしょうね。前日から当日にかけての、あまりにも速い進軍と、計画的な進路、分単位の家臣団の動き、潮の満ち引きも考慮、深夜の真っ暗闇の進軍…、これは、事前に準備ができていなければ、まず実現できなかったことでしょう。個人的には、最終決戦の日にちも時刻も、すべて決めてあったと思っています。もちろん雨も予定通り…。「雹(ひょう)」までは想定していなかったのかもしれませんが、そのくらいの規模の気象の変化なら、事前にわからないはずはないですね。それに、雨がなくても勝てる戦術でもあります。必要なのは、雨ではなく、水です。個人的には、少なくとも30分単位のち密な計画がつくられていたと思っています。* * *天候や地形、地盤、潮の満ち引きの調査は、おそらく数か月前には始めていたはずです。数百名レベルの大量のスパイも、数か月前には、すでに潜入させていたと思っています。もちろん、そこに陰謀や暗躍がないはずはありません。それに、敵兵の心理や行動パターンまで、計算していたとは…。ここまで周到に準備されては、雪斎のいない義元が勝つことは、まず不可能だったでしょう…。雪斎がもし生きていたら、「義元殿…、桶狭間に向かうのは危ない。」と、おそらく進言したでしょうね。* * *先程、信長が前日に軍議をしなかったことを書きましたが、理由は他にもあったはずです。そのことも、あらためて…。信長は、自身の信長軍にも、その作戦の一部を実行したのだと、私は感じています。このくらいの能力がないと、おそらく「天下人(てんかびと)」には近づけないのでしょうね…。* * *コラム「麒麟(20)桶狭間は人間の狭間② 伊勢湾がほしい」につづく『麒麟(20)桶狭間は人間の狭間(2)「伊勢湾がほしい…」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の戦いの狙い。大高城・鳴海城・沓掛城。桶狭間という土地。染谷将太さん。麒麟…ameblo.jp2020.6.21 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 19Jun
      • 昭和生まれっぽい発言しろ(4)「がんばれ!ジィジ バァバ」編の画像

        昭和生まれっぽい発言しろ(4)「がんばれ!ジィジ バァバ」編

        昭和生まれのつぶやき。この道はいつか来た道、そして いつか行く道。。がんばれ!昭和のおじいちゃん、おばあちゃん。昭和時代・昭和世代。昭和生まれっぽい発言しろ(4)「がんばれ!ジィジ バァバ」編◇昭和生まれっぽい発言しろ(パート4)今回のコラムは、前回コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(3)+オレンジ色の誘惑に引き続き、ツイッターの中でのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」に、私がツイートした内容をまとめた「パート4」です。このハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」については、ここまでの「パート1」と「パート2」で説明しましたので、ここでは省略させていただきます。ツイッターのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」というテーマに、私が投稿した内容に加えて、このコラム用に新作を追加しました。前回に引き続き、本コラムには、若い世代向けに、若干の注釈を加えたものもあります。今回は、「がんばれ!ジィジ バァバ 編」と題しまして、おじいちゃん おばあちゃんの世代を応援する思いで書きました。若い世代の方々には、聞いたこともない言葉や、意味不明の内容がたくさんあると思います。とはいえ、50歳以上であれば、今でも使っている言葉や表現です。この機会に、意味がよくわからない表現については、ぜひ近くの中高年の方に尋ねてみてください。喜んで教えてくれると思います。意外と便利な用語もたくさんありますよ。若い世代の方々も、中高年の心情を理解するのと同時に、どうぞ覚えてくださいね。昭和生まれっぽい「つぶやき」…、さあ 始めます。おじいちゃん、おばあちゃんになったつもりで、読んでみてください。◇がんばれ!おじいちゃん おばあちゃん*寝る時、枕元に「紙と鉛筆」。起きてからでは、すべて忘れてる。注:布団に入り寝ようとすると、いろいろ頭の中で考えはじめる。これは私のことでも…。*今週、会話した人…、ヘルパーさんが一人、レジの方が二人、ブログで10人。顔なんてあってもなくても、どうせ覚えられないわよ。注:ブログでの、中高年どうしの「コメント」の渡し合い…、楽しそう!*「よく考えりゃ、わかるだろ!」だと…、歳(とし)とって、考えられないから、わからないんじゃないか!*歳(とし)をとって、気が短くなったんじゃない。残り時間が、短くなったんだ!*何にでもソースかけたって、いいじゃねぇか!昭和のある時期までは、どの食べ物よりも、ソースが最高に上手かったんだから…。*何にでも七味かけたって、いいじゃねぇか!このくらい辛くないと、わかんねぇんだよ!*まったく高齢者ばっかりだな…。えっ!オレって「前期高齢者」だったの…。*お前より、一日だけ長く生きるよ。そのほうが、何かと安心だろ。*お菓子の「柿の種」は、そのまま柿の種のかたち。「おにぎりせんべい」はおにぎりのかたち。見た目だけで、年寄り扱いしやがって…。でも、そのとおり。*この「青あざ」…いつできた?この「汚れ」…いつ ついた?*若い人たちの歌…、わかんねぇ!おじいちゃん…あなたの好きな歌…、あなたが若い頃の歌ですからね。*あっちのジィジの「汽車」と、こっちのバァバの「汽車」…、どうも意味が違うようだ?*「中華そば」って、「支那(しな)ソバ」のことか?*奴(やっこ)さん…、「洋行帰り」だってよ。「舶来」の みやげ持ってきたぞ!*「メリケン粉」つけて、「天火(てんぴ)」で焼いといて!*歌手の「シャネルズ」って、あの「黒メガネ」の…。*百貨店の「御給仕(おきゅうじ)さん」…、「あつらえておいた」モノを、受け取りに来たよ…。*一升瓶を、風呂敷に包んで持ってきな…。何だ…、包めねぇのか。*「赤ふん」に、「猿股(さるまた)」か「ズボン下」、「メリヤス」の下着をつけて、「とっくりセーター」、「チョッキ」は予備に持つ、「コール天」のズボンに、革の「バンド」、「ベッチン」の上着、そして「テンガロン」の「シャッポ」、「外套(がいとう)」…いや「オーバー」も忘れずに。さあ「よそ行き」の出来上がり。これから、いよいよ「逢引(あいびき)」だ…。*「衣紋かけ(えもんかけ)」とってくれよ!*「巾着(きんちゃく)」とってくれよ!*「シャボン」とってくれよ!*なんだ!その「ルンペン」みたいな格好は!*かつおぶし…削ったか!*マル金、ハナ金…。*オレ、あいつの「ひも」。*「石部金吉(いしべきんきち)」、「乳母日傘(おんばひがさ)」。*うちの大蔵大臣に聞いてくれ…。*「御不浄(ごふじょう)」どこ?、「雪隠(せっちん)」どこ?、「厠(かわや)」どこ?*「ちり紙」とってくれよ!*ポットン!*「赤チン」、「べーごま」、「魔法瓶(まほうびん)」どこ?*「帳面」、「備忘録」どこ?*「往生(おうじょう)しまっせ」…。*子供が集まってるな…今日は「半ドン」か。明日は「旗日(はたび)」だな。*その映画…、「総天然色」か?*あの家の息子…、帝大出だってよ!*「ピンポン」鳴ってるぞ!*「つっかけ」どこやったんだよ…。*私はコレ(小指)で、会社を辞めました!*親指と小指だけを立てて、顔の横で揺らす仕草…、電話よろしくな。*あいつ…「器量よし」の彼女を見つけたな!「ねんごろ」に、「よろしくやってる」ようだ…。*この光ってるレコード…、何回転だ?*「天眼鏡(てんがんきょう)」どこ?*「尺(しゃく)」どこ?「尺取虫(しゃくとりむし)」も、どこいった?*ビニールでも、布でも、何でもいいから、「袋(ふくろ)くれ…、ふくろ!」。*つば付けなきゃ、めくれねぇじゃねぇか…。*今日は「すかんぴん」でさ~、旦那(だんな)!*立派な「〇〇女史」。*何か押してんじゃねぇよ!早くテレビのチャンネル回せよ!*「死語」っていうな、オレは今でも「生前」だ!*マッサージ器と漢方薬選びなら、オレに任せろ!*「人生100年時代」って言ったって、オレのまわりに、100歳以上はひとりもいないよ。*おい、このペン…字が書けねぇぞ!インクはちゃんと入っているのにな…。*最近の夏…、暑いんだか、寒いんだか、どっちかよくわからねぇ!*そこの若ぇの…、納豆 混ぜといて!*「指折り数えて」…、イテェー、指が曲がらねぇ!*「フライパン」と「フランスパン」を聞きまちがえるなよ!このチンパン野郎め!*この「おにぎり」…、ばあちゃんの匂いがするな…。*「こだわり」なんて持ってたら、重たくてしょうがねぇ!価値観…? 目がチカチカするのか?*筋肉痛が起きたぞ…、うれしい!*オレが、もたついてんじゃねぇ!これが、オレの時間の流れだ!*あわてたって、あせったって、残りの人生に影響なんかしねぇ!*聞きたいことしか、聞こえねぇ!見たいものしか、見えてこねぇ!*アレもコレも…、やったことにしておくか。*「若かりし頃」って、20歳、40歳、60歳、80歳…。 いつだよ?あいつ…生まれた時からジジィじゃねぇのか?*「〇〇世代」だと…、オレには関係ねぇ!ひとくくりにするな!*「杖(つえ)持って、お買い物ですか」だと…、オレは山登りに行くんだ!*デズニー、テッシュ、メインデッシュ、テーチャー、ジジ…、オレには、ちまちました「ィ」はいらねぇ!*エスカレーター…、速すぎじゃねぇか?*指紋認証…、できやしねぇ!*肉食っとけば、なんとかなるべ…。*各部屋に専用の老眼鏡。*一日分ずつに分かれた薬入れ…、これは大発明の先端技術だな!*自分の自動車の助手席で、教習指導員になったのは、いつ頃からだったかな~。*いつから、「軍歌」や「軍国歌謡」を、「戦時歌謡」という呼び名に統一したんだ?*昭和の時代に戦意高揚の仕事をした人たちは、戦後復興期に、人々に勇気を与えるような仕事もしたな!*道端で「六地蔵」さんに出会うたびに語りかける。オレを道案内してくれるのは誰だ…?*山登りで使っていた「杖(つえ)」…、そろそろ 街でも使ってみるか。*♪この道は、いつか来た道~、いい歌だ!いつか行く道なのかもな…、いい道だ!* * *若い世代の方々…、ほとんど意味不明だったかもしれませんね。今回は、あえて注釈や解説を加えませんでした。おじいちゃんや、おばあちゃんなら、まず理解できます。言葉や表現の意味を尋ねてみてください。おじいちゃん、おばあちゃんの方々も、当たり前のことばかりで、「わざわざ書いて、何が面白いの?」と言っているかもしれませんね。「老い」が、まだまだ先の方も、もう少しでやってくる方も、その道は、先人たちがみな「歩んだ道」です。悲しい涙、くやしい涙、うれしい涙…、たくさんの涙がしみ込んだ、その道の上を、後世の人たちも、同じように歩いてゆくのです。この道は、いつか来た道…、そして、いつか行く道…。昭和生まれの、おじいちゃん、おばあちゃん…、まだまだ、「(昭)和気あいあい」に、がんばっていきましょうね!* * *2020.6.19 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 17Jun
      • 昭和生まれっぽい発言しろ(3)+オレンジ色の誘惑の画像

        昭和生まれっぽい発言しろ(3)+オレンジ色の誘惑

        昭和生まれのつぶやき。噴水式ジュース自動販売機の世界。ホシザキの「先見の星」。1964年の東京大渇水と東京砂漠。オート三輪とミゼット。昭和生まれっぽい発言しろ(3)+オレンジ色の誘惑◇昭和生まれっぽい発言しろ(パート3)今回のコラムは、前回コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話しに引き続き、ツイッターの中でのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」に、私がツイートした内容をまとめた「パート3」です。そのツイート集の後に、「めくるめくオレンジ色の世界」を書きたいと思います。このハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」については、ここまでの「パート1」と「パート2」で紹介してきましたので、ここでは省略させていただきます。ツイッターのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」というテーマに、私が投稿した内容で、このコラム用に、若干の修正をしたものを書いていきます。前回に引き続き、本コラムには、若い世代向けに、若干の注釈を加えました。今回は、昭和のテレビ番組や歌謡曲、昭和のビジネス社会や世相を、多く書いてみました。さあ、始めます。◇昭和を感じて…*昭和の戦前は「子守唄」…、戦後は大人を眠らせる「ララバイ」に変わる。でも、眠れない…。注:戦後の昭和歌謡は「ララバイ」だらけ…。*昭和の時代…、ご当地ソング、希望地続出!立候補者続出!注:ご当地ソングは数えきれない。ヒットしたら、とてつもない経済効果。*昭和の時代の歌謡曲…、卒業商戦用、クリスマス商戦用がヒートアップ!夏なら任せろ、お中元組も!歳末レコ大、お歳暮組も!注:「レコ大」とは年末のレコード大賞のこと。季節ごとに、名曲ぞろいで大儲け!*白いギター、白いブランコ、白い色は恋人の色…、昭和の歌謡曲の「白の魔力」は、平成にも引き継がれた。令和には?歌謡曲と自家用車と家電品…、もはや白は、他の色を圧倒!注:テレビドラマのタイトルも、「白」がいっぱい。*昭和のアイドルの歌の合間に、大声で名前などを叫んでいた昭和のファンの人たち…、きっと今でも、どこかで何かを叫んでいるはず。注:もはや、曲の一部。*「こんぴら ふねふね~。てんぷら あげあげ~」と歌いながら揚げると、意外とうまくいく。注:シュラ・シュシュシュ…意味不明。阿修羅さま教えて…。*昭和の歌謡曲の歌詞にちょっとだけ出てくる、基礎英語風の英語の歌詞…、ちょっと笑える。どこの英語学校だ? 駅前留学か…。注:NOVAは本当に駅前なのか、私は調べたことはない。それにしても、近い留学先だ。*昭和の歌謡番組のナマ歌…、妙に回転数が速かった。注:まさに番組に、めいっぱいの詰め込み作業です。よく、この高速回転で歌えていたものだ。早クチ歌合戦か…。*ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」…日本だけで異常人気!日本人は、世界でも無類の「哀愁」好き!イントロだけ、繰り返し聴かないで…。注:口笛に挑戦して、もろくも崩れ去っていった者が続出。*私としたことが…、衝撃(笑劇)のアローン・アゲイン!注:昭和の時代は、衝撃の日本語カバー曲ばかり!アーチチー・アーチー!*昭和の名テレビCM「ヨドバシカメラ」の歌の歌詞…、地域によって、すべて違う。注:CMの歌で、店までの道順案内をするとは…、音楽作詞家にはない発想。*女性ふたり組泥棒を「令和のキャッツ・アイ」と呼ぶ警察。「令和のキャッツ・アイ」vs「昭和の警察」。注:泥棒たちが、担当警察官のタイプだったのか…。*土曜の夜、ドリフと刑事コロンボが戦っていた。まさに、異種格闘技戦!注:ビデオのない時代…、この時間に泣いたのは、親父、それとも小学生の息子?*「あっちこっち丁稚(でっち)」…このネーミングセンスが大阪!さすがだ!注:寛平ちゃん他、大スターが勢ぞろい!テレビ放送によって、吉本パワーが日本中のあっちこっちで不動のものに。*今年の大河は、氾濫中。よく、ここまでの大河は氾濫しなかったものだ。注:大河ドラマは永久に不滅です…、by プリティ長嶋*「必殺仕事人」の業は、ほんとうに殺人ほう助なのか?注:昭和のある時期、よくわからない理由で、放送中断。*ドラマ「どてらい男(やつ)」を見て、昭和のビジネスの厳しさを知った。モーヤンは、今どうしているのか? ふなっしーの追っかけか?注:昭和の名小説家・脚本家、花登筺(はなと こばこ)さんの作品。山下猛造を演じたのは西郷輝彦さん。今ふりかえると、ドラマ「半沢直樹」の大人気にも似た現象だったのか?多くの小学生も見ていた。*昭和の結婚式…、「一目会ったその日から、恋の花咲くこともある」と、やたらに耳にした。オヨヨ。注:「パンチdeデート」の名フレーズ。桂文枝(当時は三枝)さんの大流行語「オヨヨ」。三枝さんと西川きよしさんの2ショットを、また見たい。*昭和のパパとママ…、わが子からの質問「新婚さんいらっしゃいの、イエスノー枕って何?」の答えに、イエスかノーか?注:好きにしてください。*「どい まさる」さんが二人いたとは、だいぶ経ってから知った。注:「土居まさる」さんと「土井勝」さん。あなたにとっては、どちらの「どいまさる」さん?*昭和の「スポ根まんが」や「スポ根ドラマ」と、体育の指導書や素人へんくつ監督…、どちらのほうがスポーツの発展に貢献したのか?それにしても、「根性」と書かれた額…、最近の家庭には無い。注:柔道一直線、巨人の星、サインはV、アタック№1、エースをねらえ、あしたのジョー、タイガーマスク…。*木枯らし紋次郎は、どのタイミングで、ようじを交換していたのか?注:いつもクチにくわえた、超ロングサイズの楊枝(ようじ)…、時々は武器にも。昭和の時代、「つまようじオヤジ」は、そこらじゅうにいた。*「ブラザー」と言えば、やっぱり、グラサンの二人組か、ミシンだろ!「シンガー」と言えば、歌手じゃなくて、やっぱりミシンだろ!注:昭和の時代に、○○ブラザーズ、〇〇シスターズ…、世界中にいましたね。ブラザー、シンガー、ジャノメ、JUKI…、昭和のあなたの家のミシンは?*爺じが、「毎朝早く、ジムに行きはじめた。たくさんの人が来ていて楽しい」って言ってた。公園の中とか、橋の上とか、駐車場の中とか言ってたけど、あなた…新しい建物見かけた?注:朝7時前には家に帰ってくるけど、妙に早いな。第一だの、第二だのとクチ走ってるけど…。*「アラフィフ」とは、「あら、とっくに50歳なんて過ぎてたわ」のこと。死ぬまでずっと…「アラフィフ」。注:あらまあ…。昭和のお母さんの口癖。*「スーパーカー」とは、「ショッピング用カート」のことではありません。カートの「食品かご」の中に、子供の乗車はやめましょう。注:「スーパー」レベルの勘違い。*「ソフトバンク」と聞いてソフトクリームを思い出し、「NTTドコモ」と聞いて子供たちのお迎えを思い出し、「au」と聞いて、アウアウと犬のように吠え出す…、昭和生まれのオヤジったら、もう…。注:昭和世代には、どこでもいいよ…。*チャネル、ブブルガリ、グチ、ルイボタン、デオール、ヘルメス、ジジババンシー…、昭和生まれのオヤジったら、もう…。買ってほしいのなら、そう言え!注:言ってみる価値あり…。*昭和の時代…、戦国武将の亡霊の頭には、どうして、いつも矢が刺さっていたのか?注:死因がわかりやすい…。*百名山の「大菩薩嶺(だいぼさつれい)」と耳にすると、毎回、あの話しを思い出す。注:中里介山(なかざとかいざん)のあの小説。小説のタイトルに地名は重要。*平成世代は、「山菜そば」を食べるのだろうか?注:平成世代には、山菜の識別は、さぞ難しいだろう…。*「うな丼」は、「牛丼」になりそこねた。注:うな丼も、低価格に果敢に挑戦したけど、うなぎの増産システムが壁となった。*宮崎行きの飛行機の乗客が、すべて新婚カップル…、ちょっと恐怖。注:昭和の一時期、宮崎県が、なんと新婚旅行先の人気ナンバー1だった。今からでも、各県は果敢に挑戦してほしい。*昭和と平成の境は、浦安のディズ二ーランドの開園の前と後ではない。ディズニーランドって、東京日本橋の三越屋上でしょ!注:日本のディスニーランド第一号は、なんとデパートの屋上。さすがよの~、越後屋!*「ジンギスカン」が、羊肉の料理だと初めて知った時、頭の中が大混乱した。注:「風が吹けば、桶屋が儲かる」的な発想なのか…?歴史マニアとしては、あまり深入りしたくない命名の歴史だ。*パンダの名前は、「ランラン」と「カンカン」しか知らない。あとは、すぐに忘れていく。注:初代の名前だけで、もういい。みな、同じような顔だ。パンダも人間を見て、みな同じ顔だと思っているにちがいない。*昭和の時代…、子供たちは、オレンジ色のジュースの噴水を、いつまでも見つめていた。注:まさに、街角にある魅惑の噴水…、その中に飛び込みたい。そんな、今はほぼ絶滅した、ジュースの自動販売機。今、スタバにコーヒーの噴水があったとしても、感動はおきないだろう。後で、そのコラムを書きます。*昭和の時代…、そこに「釣り堀」さえあれば、そこは「ワンダーランド」と名乗っていい。注:昭和の父と息子の身近な旅先…、それが「釣り堀」。昭和の国道沿いの「ドライブ・イン」に釣り堀でもあろうものなら、そこはパラダイス!*昭和の若い女性…、短い赤い糸を、たくさん持ち歩いていた。注:この糸を、いつ誰に使うかが大問題。彼氏が、その糸(意図)を、目にしなければ意味がない。*遠くに見える、デパートのアドバルーン。日曜日、わが家も、隣家も、そのまた隣家も、家族はみな、それを目指した。注:遥かな場所から、「おいでおいで」と呼ぶ声が聞こえ…。*昭和の飼い犬や飼い猫の寝相は、人間とはまったく違っていた。今や、人間も犬も猫も、同じ寝相。注:今の犬猫は、家の中で家族の一員。態度も家族の二番手、三番手。飼い主は、飼い犬に似る。*昭和の「〇〇族」と、平成の「〇〇系」は、ほぼ同じ部族。注:新幹線議員さんも、運輸族から、○○系へ。*苦虫(ニガムシ)をかみつぶしたのか、歯が痛いのか、判別はむずかしい。注:昆虫って、みな苦そう…。*「だまされたと思って」…、一度だって、だまされたくはない。「死んだと思って」…、いったい何回死ぬんだ、あんたは!注:この言葉…、使う人はいつも使うけど、使わない人は一生使わないだろう…。*年賀状の習慣は、日本古来の伝統的風習ではなかったのか…。早くいってよ。注:神田伯山さんも、最近よく言ってた…。*人生とは、「オムツ」と「オムツ」の間の期間…。オツムの悪いやつが言ってた。注:後のほうの「オムツ」はできれば…。オムツとオムツの間じゃ、なんとも臭そうな人生か…。*どこの医者も教えてくれない民間療法が、街には山ほどある。どっこい、意外と効く。(個人差があります。自己責任で)注:学問になっていなければ、医療ではない?*今なら、「人生ゲーム」を自分でつくれるかも…。政治家編、飲食店経営編、会社経営編、アーティスト編、サラリーマン編、主婦編、子育て編、おひとりさま編、OL編、介護編…。注:「人生ゲームは」、サグラダファミリアか…。*今のデジタルサイネージ広告…、昭和の「静止画テレビCM」を思い出す。注:サイネージ広告を見るほうが、動いているからね…。*「私、○○したいんです。」昭和の時代は、理由にはなりませんでした。注:「ほお、えらくなったもんだ」…、昭和社長のお決まりフレーズ。*昭和の時代…、ひと月、残業200時間超えなど、当たり前。でも、それを可能にするには、昼間の手抜きと息抜きは、当たり前。注:あたり前田のクラッカー!*昭和のビジネス戦国時代…、忘れる、聞き流す、見なかったことにする、記録に残さない、反省しない…は、必要な能力。振りかえらないことこそ、生き残りの道。後で、いくらでも振りかえる時間はある。注:忘却とは忘れ去ることなり…、君の名は何だっけ?*昭和の時代…、人が欲しいと言っていたものは、まず売れなかった。人が欲しかったことに気づいたものが、売れた。 今は?注:今、やろうとしてたんだよ!…うそつけ!*昭和の時代…、「遊び心」がビジネスの成功につながることも多かった。でも、本気で遊んでしまったものは皆、消えていった。注:「自分が楽しいと感じたこと」は、他人も、それを楽しいと感じることはある。でも、あなたと一緒に楽しむつもりはない。*昭和の世代は、踏み出すまでが長い。走り出したら、がむしゃらで、あきらめない。そろそろ、スピードを緩めてもいいころなのだが…、加減を知らない。新しい時代は、すでにやって来ている。注:スタートの遅い人は、ゴールの見極めも遅い。周回遅れを忘れている人も…。*昭和の世代は、失うまで、失うことに気がつかない。いつも気がつくのは、失った後。先に気がついていれば、チャンスや人生を失うことはなかった。気がつけたはずなのに…。注:気づきのサインを見落とさないで…。*何十年か前の、昭和の写真の中のあなた…、それは、まぎれもなく、あなたの姿。ここまでの道の途中にいた、あなたです。何十年か後、私たちは、今の本当の自分を、写真の中に見るのです。注:自分の目でしっかり見ましょうね。*もう一度チャンスを…、もう一度勝負を…、もう一度がんばらせて…。昭和のお父さんたちは、何度「もう一度」と叫んだろうか。もう一度生き直したい…、もう一度挑戦したい。生まれかわっても、もう一度、あなたと出会いたい…。昭和世代は、まだまだ、やり直せる。注:一度でたくさんだと言わないで…。「もう一度」とは、一度目と同じではない。*花の種類、色、本数、花言葉…似合いもしないのに、思いを込めたりする…。しっかり説明まで加えてしまう、さりげないことが苦手な昭和のお父さん。女房を通じて、娘に伝えるとは、まどろっこしい…。黄色のバラ…、6月21日は父の日。注:世のお父さんたちは、家族の前で、何度もカレンダーを確認している。猛アピールかも…?「お前ら…21日は、何するんだ?」。「別に…なんもない」。…今回はここまで。◇前回コラムの追記 「生き続けるオート三輪」ここで、前回コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話し の中で書きました、「オート三輪」に関しまして、追記させていただきます。そのコラムを書いた直後に、思わぬ情報を得ることができました。日本でも、オート三輪は、まだまだ現役で走っており、購入できるというのです。まさか現役とは…。買えるとは…。運転できるとは…。下記に「近藤レーシング」様の「ミゼット」に関するブログ記事をご紹介いたします。近藤レーシング様のブログ『納車』数日前にミゼットを納車させて頂きました。その時に少しミゼットをお借りしてツーリングしました。素晴らしいミゼット達でした。自分のミゼットで次は参加したいと思いま…ameblo.jp「オート三輪」を扱うことができる自動車関連の技術者の方が、今でも結構いてくれているのだと初めて知りました。おそらく、特別な高度技術と、古い車両への愛着がないと、なかなかできないことなのだろうと感じます。近藤レーシング様のブログには、納車風景だけでなく、修理風景、部品の写真なども満載です。きっと、昭和レトロカーとともに、人生を豊かに歩まれている方なのだと感じます。人生は、何かとともに歩むと、これほど楽しいものはありませんね。そして今回、「昭和レトロカー万博」というイベントを、毎年一回、行っていることも、同時に初めて知りました。「昭和レトロカー」の愛好家が、これほどたくさん残っていたのかと、たいへん驚きました。平成の時代を越え、令和の時代も、きっと「昭和レトロカー」は生き続けるのだろうと思います。生き続けてくれていて…、本当にありがとう!オート三輪たち!今回、近藤レーシング様の御厚情に、深く感謝申し上げます。◇めくるめくオレンジ色の誘惑平成の世代はもちろん、昭和時代の後半の世代も、「オレンジ色のジュースの噴水」を、実際に目にした人は、ほとんどいないと思われます。街かどや、デパートの中で、オレンジ色のジュースが、勢いよく噴水のしぶきをあげていたのです。そこは、「お菓子の国」ではありません。昭和の時代の、ある時期だけに出現した、「お菓子の国」のような光景だったのです。子供たちが、目を奪われないはずはありませんね。* * *これは、オレンジジュースの自動販売機です。缶ジュースではありません。今、コーヒーチェーン店や、病院の隅にあるような、飲み物の液体をコップに直接注ぐ装置なのです。飲料水の場合は、水の量がわかる柔軟性のあるタンクが上部にのせられている場合も多いですね。コーヒーの機械の場合は、その液体は見えません。まして、両方とも、噴水のように液体が噴き上がっていることなど、まったくありません。今なら、そんな光景を見せられたら、逆に気持ちが悪い気がします。ですが、これがオレンジジュースの噴水だったら、どうですか?チョコレートが、液体となって流れ落ちる滝のような状態で利用される場合もありますが、チョコレート好きでなくとも、何かワクワク感が止まらなくなりますね。オレンジジュースも同じかもしれません。子供たちが興奮する様子が、目に浮かびます。* * *昭和の、そのジュースの自動販売機は、透明のタンクの中にある噴水部分が、その販売機の最上部に設置されていました。ですから、子供たちは皆、はるか上にあるその噴水を、見上げることになるのです。子供たちには、天井の照明の光の中や、太陽の光の中に、オレンジ色に輝く噴水が見えるのです。子供たちは、その自動販売機の前を素通りなど、できるはずもありません。「あっ!」と言っただけで、身体も、時間も、止まってしまうのです。子供たちは、まさに、オレンジ色の噴水の中を泳ぐ魚と化すのです。こんな奇跡のような異空間が、昭和のある時期だけに存在していたのです。◇1964年の東京大渇水と、「先見の星」この噴水式自動販売機は、1962年(昭和37年)に、名古屋の星崎電機(今のホシザキ株式会社)が、「オアシス」という名称で世に出した販売機です。ホシザキは、大型の厨房設備や、業務用冷蔵庫でおなじみの、有名な企業ですね。飲食食品関連の方なら、知らない人はいません。一般の方でも、飲食店などの業務用冷蔵庫の隅に貼られた、丸型の「ペンギン」のマークを見たことがある方も多いはず…。ペンギンを見つけたら、それはホシザキの冷蔵庫ですね。まさに、この分野の「ファースト・ペンギン」であったのだろうと思います。* * *第一回目の東京オリンピックは1964年(昭和39年)の秋の開催でしたが、その年の夏は、日本各地が大渇水の年でした。「東京砂漠」という流行語も生まれます。まさに、オリンピックが開催できるかどうかの瀬戸際まで追い込まれます。ちなみに、内山田洋とクールファイブの大ヒット曲「東京砂漠」は、1976年(昭和51年)です。東京オリンピックは毎回、その開催直前に、大きな試練に見舞われますね。1964年の東京の大渇水との壮絶な戦いは、映像などにも、たくさん残っていますね。今はコロナとの戦いですが、1964年の時は、水不足との壮絶な戦いでした。この数年前から、日本中で、水不足が深刻化します。高度成長期になり、家庭や企業による、大量の水の使用も原因でした。そんな中で、砂漠の中の唯一の水場「オアシス」というネーミングは、まさに時代の要請にも感じますね。噴水にかけるとは、なかなかな腕前に感じます。シルクロードの大ブームが、日本におきるのは、1970年代になってからですが、すでに「オアシス」という名称をつけたのは、まさに「先見の明」ありですね。この場合、ホシザキさんだけに、「先見の星」でしょうか。◇噴水は夢の中へ、魚たちはどこへ大反響を巻き起こした、このジュースの噴水付き自動販売機でした。私の記憶では、おそらく、それから10数年は、街のいろいろな場所で見かけたと思います。昭和30~40年代頃に全盛期があり、ジュースの衛生管理が問題視され始めた頃から、その姿が消えていきました。「お菓子の国」は、実際に存在したら、衛生問題だらけですね。「夢の噴水」は、子供たちの目の前から消えていったのです。前述した「オート三輪」のように、まだ日本のどこかで、甘い誘惑の噴水のしぶきをあげてくれていたら、いいのですが…。* * *この「オレンジ色の衝撃」は、その頃に子供時代を過ごした昭和世代には、忘れられない出来事だったでしょうね。今の街の中に、たくさんある水の噴水たち…、これはジュースではありません。いくら待っていても、ジュースは出てきません。ですから、まったく別の噴水なのです。もはや「あこがれ」を抱くような対象ではありません。たしかに今は、「アート(芸術性)」を感じさせてくれる噴水は多いです。でも、かつての「ジュース噴水世代」には、何かが足りないのです。光の中で、オレンジ色に輝く、あのしぶき…。今は、「めくるめくオレンジ色の誘惑」が、自分に誘いかけてこないのです。オレンジ色の噴水の中で泳ぐ「魚」にはなれないことを知ったのは、いつ頃だったのか…。今、その時に子供時代を過ごした昭和世代は、いったいどこを泳いでいるのだろう…。* * *コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(4)がんばれ!ジィジ バァバ編」につづく2020.6.17 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 13Jun
      • 昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話しの画像

        昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話し

        昭和生まれのつぶやき。オート三輪の世界。ミゼットの輪。三丁目の夕日と東京タワー。サザンと稲村ジェーン。飯場のおっちゃんと昭和色。昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話し◇昭和生まれっぽい発言しろ(パート2)先般、コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(1)+ラジカセのお話し」で、ツイッターの中でのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」をご紹介しました。そのコラムで、私のツイートを、いくつかまとめてご紹介しました。予想に反して、意外に好評でしたので、またまた調子に乗って、書いてしまいました。今回のコラムは、その続編をご紹介いたします。「オート三輪」のお話しは、そのツイートのお話しの後に書きます。* * *このツイッターのハッシュタグにツイートする方々は、おそらく30歳以上の、昭和生まれの方々がほとんどだと思います。とはいえ、前回の第一回目のコラムでは、若い方向けに注釈を加えました。やはり、昭和40年代あたり以降の生まれの方には、注釈がないと、内容が理解しにくいものが多いと、ご意見をいただきました。今回も、若干、加えておきたいと思います。でも、筋金入りの昭和世代には、「言わずもがな」ですよね。* * *実は、こうした、相手に言わなくてもいいという意味の表現が、平成世代にはなかなか理解できないということが、最近わかりました。昭和世代の間では、今でも、よく使う表現なのですが…。ということは、「言わずと知れた」とか「いわんや」、「わが意を得たり」とか「以心伝心」も、言葉表現の意味は知っていても、そうした状況を経験していないのかもしれません。先ほどの「言わずもがな」には、いくつかの意味があり、使う状況もいく通りかあります。自分が相手に説明するまでもなく、相手がそのことを理解している状況。それを相手に言ってはいけない状況。それを相手に言いたくない状況。相手がそれを知らないでいる状況に憤慨している状況。などが、多くある場合です。この言葉を聞いたら、相手がどの意味で使っているのかを、すぐに理解しなければいけないのです。「言わなくても、わかるよね」には、相当な数の違った表現が用意されています。昭和世代は、多くの経験から、そうした表現を身体で覚えていきましたね。LINEやメールだけでは、なかなか身につけるのが難しい言葉表現なのかもしれません。これは、昭和世代特有の「玉虫色」の表現にも感じますが、戦いや競争の激しい昭和の時代に、争いをできる限り避ける、ひとつの作法や表現と考えてもいいのかもしれません。日本だけでなく、英国、フランス、ドイツ、イタリア、中国、韓国などの歴史の長い国には、こうした「玉虫色」の表現がたくさんありますね。平成世代も、複雑な昭和世代の社会や心情に、どうぞ、ついてきてくださいね。きっと、あなたたちも、「玉虫色」に少しずつなっていきます…。それにしても、東京では、本物の玉虫を、もう何十年も見ていない…。* * *本コラムは、基本的に「歴史コラム」ですので、歴史や大河ドラマ好きが、たくさん集まってくれていますが、こうした集団であれば、ここは「推して知るべし」という、古風な表現のほうがしっくりくるのでしょうね。平成世代の方々…、「何をおすの?」と聞かないで…ね。* * *ここから、ツイッターのハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」というテーマに、私が投稿した内容で、このコラム用に、若干の修正をしたものを書いていきます。前回に引き続き、「パート2」となります。さあ、始めます。◇昭和を感じて…*第二巻、第二幕、第二章、第二編、パート2、vol.2、続、続々、再びの、外伝…、何か、みな昭和っぽい表現。シーズン2、スピンオフ、アナザーストーリー、サイドストーリー、チャプター、セクション、スペシャル…、何でもいいから、早くやれ!注:シリーズ化の表現は、時代によってさまざま変わりますね。*昭和の時代…、「七難八苦(しちなんはっく)を与えたまえ」とよく言った。そんな数では、到底足りなかった。注:もちろん、その苦難の数に意味があるわけではありません。平成時代の化粧品のテレビCMにも、この言葉使われていましたね。*昭和の時代…、「ただ(無料)ほど怖いものはない」とよく言った。今は、有料でもかなり怖い。注:昭和の時代は、まだお金を払えば、安心が買える気がしました。*昭和の時代…、「灯台もと暗し」とよく言った。だいたい、あんたの家に灯台などあるのか?「裸電球」では、家の中が暗すぎて、何も見つからない。注:昭和の庶民の家には、6畳くらいの和室に、安そうな笠のついた「裸電球(黄色い白熱球電球)」が天井から、ひも一本で、ぶら下がっていたものです。部屋の隅っこに、ねずみがいても気がつかないような部屋の明るさでした。*昭和の時代…、赤ちゃんは、自分の胸の前ではなく、背の後ろ側にいた。昭和の女性は、首痛に悩まされた。注:昭和の時代は、お母さんが、おんぶひもで、幼児を背負い、家事に仕事に買い物に、がんばりました。*昭和の時代、一本歯の下駄で街を歩く人…、まさに鼻高々の天狗に見えた。注:今は、一本歯の下駄はもちろん、二本歯の下駄を、カランコロンと履く庶民をほとんど見ません。まあ、音がうるせぇのなんの…。*昭和の時代…、腕っぷしの強い者より、逃げっぷりの上手い者が、たいがい生き残った。注:昭和の時代は、腕力でも、政治力でも、強い者はやたらに強い。*昭和の時代…、「逃げるが勝ち」とよく言った。でも、たいてい背中を狙われた。注:山で、クマに出くわした時と同じ…。*たまらないもの…、穴あきバケツに、貯金に、色気。そんな昭和話し…、ストレスがたまる。注:昭和の時代は、たまらないもの、つまらないもの…、など漫才や落語の、定番ネタがたくさんありました。*今の街の夜は、昭和時代の色と違う。自動車のヘッドライトの色が変わったのだ。注:自動車のヘッドランプの進化はものすごく、白熱電球に似たものから、ハロゲン型、ディスチャージ(キセノン)型、LED型、レーザー型へと進化していきました。それぞれが照らす光の色は異なっていたのです。*東京丸の内の、かつての東京中央郵便局…今は「KITTE(キッテ)」と呼ばれる商業ビジネスビル。昭和感いっぱいのお名前。いつかは、意味も通じなくなる。注:昭和の時代、切手収集は、趣味分野のトップクラスでした。いずれ切手は、歴史の中に消えていくのでしょう。*「東京タワー、さんざん見たわ」。一度は、自分のクチで語ってみたい昭和ギャグ。高さ333メートル。注:個人的には、かつて増上寺にあった五重塔の高さにちなんでいると感じています。増上寺にとっては、東京タワーが、五重塔の代わりなのかもしれません。*「6月でこの暑さ、8月には100度は超すわ」。一度は、自分のクチで語ってみたい昭和ギャグ。注:昭和の時代の、漫才ネタの定番です。*幹夫さん、幹太さん、幹二郎さん…、たいていの「幹」のつくお名前…、昭和の新幹線とつながっていたりする。注:昭和の時代、新幹線の開通は、まさに新時代の夜明け。1964年の東京オリンピックに、死にものぐるいで、間に合わせた。日本の鉄道に遅れは許されない。*昭和の時代は、ポテトチップスを、自宅でスライスして揚げる家庭も多かった。注:昭和の時代、売っている商品にはない、新鮮さと、この厚みがたまらなかった。*象さんが本気で踏んだら、たいがい筆箱は壊れる。倉庫の屋根に100人乗ったら…?注:昭和時代の、サンスターのあの筆箱と、イナバ物置のあの有名なテレビCMのこと。私は怖くて、自分のこの筆箱を踏むことなどできませんでした。*甘味の好みは、家庭内で遺伝する。クリームソーダ、ミルクセーキ、自家製プリン、自家製ゼリー、鯛焼きのアンコの量…、昭和生まれの父母の好みは、たいがい、そのまま遺伝する。注:昭和の時代、家族が、同じ甘味をいっしょに食べていたものです。父母がきらいな食べ物は、自然と食卓にもあがらなくなる。*昭和の時代を特集するテレビ番組…、コメンテイターは、たいてい微妙にズレている。何が…?注:昭和生まれのコメンテイターたちも、歳をとりましたね。中味も外見も…。*柳沢慎吾さんの警察無線のギャグに、何か哀愁を感じ始めた。注:まさか、今の警察官もLINE…?*昭和生まれのお父さんどうしの会話…、かなりの確率で、ハラスメント!注:このコラムでも、ヒヤヒヤもので、書けません。*昭和時代の都会には、ハイヒールのかかとだけが、よく落ちていた。昭和のドラマの中で、女性はよく裸足でかけていた。注:昭和の時代、テレビでも、小説でも、歌謡曲でも、裸足の○○が大流行り。みんな、身軽に、素直になりたかった?*昭和時代の街には、「赤ちょうちん」がたくさんあった。店のカウンターの隅っこで、ポスターの中の美女と語り合いながら、コップ酒だけで過ごす男が、各店にひとりはいた。ポスターの美女と男の「昭和枯れすすき」。注:今、平成世代に、「赤ちょうちん」という言葉が何を意味しているのか、わかるでしょうか?昭和の時代の空前の大ヒット曲「昭和枯れすすき」は、男女の悲恋を描いた歌謡曲です。「貧しさに負けた、世間に負けた、街を追われた、二人で死ぬ?死なない?」という歌詞です。そんな「アベック(カップル)」が、赤ちょうちんには、たくさんいました。そういえば、今の時代の赤ちょうちんには、頭の髪にカーラーをつけたままの、ママはいるのだろうか?*アマビエの鬼瓦がついに登場した。昭和の鬼瓦魂、シャチホコ魂は、まだまだ健在!注:先ごろ、アマビエ鬼瓦のニュースを見つけました。まだまだ、日本の地方には、瓦文化が、鬼の形相で残っています。*昭和のお父さんは、飲み屋で、「帰ろかな、帰るのよそうかな」と帰り際に歌い出す。そういうお父さんは、梓みちよの「こんにちは、赤ちゃん」を聞いて、たいてい涙を流す。注:昭和時代の、北島サブちゃんの大ヒット曲「帰ろかな」と、梓みちよさんの大ヒット曲「こんにちは、赤ちゃん」です。飲み屋から家に帰ろうかな、どうしようかな。でも、生まれたばかりの、赤ちゃんの顔も見たいな。*尾崎紀世彦のヒット曲「また会う日まで」を好きな昭和の世代は、たいてい、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」と、谷村新司の「昴」も大好き。注:昭和の時代の、熱唱型歌手の方々ですね。まさに「歌い上げ」。トム・ジョーンズや、朱里エイコさんも、入れたかったですね。*昭和の時代の「イージーリスニング」の帝王たちはみな、その呼ばれ方が大嫌いだった。でも、その名称で、たいていの日本人はイメージできたし、そう呼ばれなければ、その音楽を聴くことはなかった。注:昭和の時代の、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、フランク・プールセル、カラベリ、リチャード・クレイダーマン、ニニ・ロッソ…、数えきれない。*昭和のお父さんは、「おかめそば」が、おかめの顔になっていないと怒りだす。注:昭和の時代、きちんと顔になっていた気がします。たいがい、その食堂のおかみさんの顔だったりして…?*昭和のお父さんは、冷そうめんに、缶詰のミカンか、サクランボが入っていないと、怒りだす。中華丼に、うずらの卵が入っていなくても、怒りだす。注:理由はわかりませんが、昭和の定番。*昭和のお父さんの娘の二文字の名前は、たいてい、飲み屋に同じ名の娘(こ)がいる。あるいは、同じ名の、なつかしいアイドルがいる。注:理由はわかりませんが、昭和の都市伝説。*昭和の世代は、肉や魚の調理の際に、直火か遠赤かに、やけにうるさい。炭火至上主義も…。注:家にあるコンロの「直火グリル」が嫌いな、昭和のお父さんは少なくない。網で焼け…網で!やっぱり炭火焼きだよな…、石炭やたばこの世代の、昭和のお父さんの定番の台詞。*昭和のお父さんは、回転ずし店で回っている、お寿司の皿を見て、ため息をついていた。注:歯車、ベルトコンベヤー…、昭和のお父さんは、こういう言葉に敏感。高級寿司店に行けるのは、接待の時だけ。*私は、新品の蚊取り線香の二巻が重なり合っている状態から、二つに分ける時の、あの微妙なチカラの入れ具合と、その一瞬の高貴な香りが大好きだった。蚊には絶対にわからない、人間だけの愉しみだった。注:私は、もう何十年も蚊取り線香を使っていません。平成時代も、一度も使っていません。もはや、都会の家には蚊もいない。*平成世代の皆さん…、「てやんでぃ」とは、何かの記念日ではありません。注:サービスday、プレミアム・フライデー…、てやんでぃ、すっとこどっこい!*「引き出し」がないのではない。最初から「机」がないのである。注:昭和の前半の庶民の子供たちは、能力や知識の蓄積がないのではありません。はじめから、そんな立派な机など与えられていなかったのです。*昭和世代の古いほう…、成人式の着物の、あの白いフワフワの意味がわからない。注:今でも、なかなか進化しませんね?*昭和世代の古いほう…、亡き伴侶の遺影に向かって、「私もそっちに行くからね」が半分、「私は別の場所に行きますわ」が半分。注:今、ちょっとした社会問題化していますね。死んでからも、姑や旦那と、どうして同じ墓に…。*昭和世代の古いほう…、テレビの旅番組を見るたびに、「生きているうちに、ここに行くことあるかな~」と、伴侶に話す。注:旅番組を見ていると、行ってみたいところ、行ってないところだらけ…、多すぎて順番待ち。*昭和世代の古いほう…、どこの旅先の観光地でも、まずはトイレに向かう。注:観光バスは、しっかり気を使っています。*昭和世代の古いほう…、行った旅先のそれぞれで、「これが見納めか」と、内心、思っている。注:来れただけでも、見れただけでも、ありがたいことです。*昭和世代の古いほう…、「またお会いできる日を楽しみに…」と言いながら、まずその機会まで生きられないと感じている。注:意外と、次の日に再会することも…。*昭和世代の古いほう…、散歩中に、老犬に出くわすと、「俺より歳は上か?」と犬に尋ねる。「一生懸命に生きろよ」と犬に言う。その言葉は自分にむけてのもの。注:長生きの老犬が、街に増えましたね。人間と同じ、高齢化 犬社会。*昭和時代の古いほう…、縦の糸はあなた、横の糸は私…、この斜めの糸は誰だ?注:中島みゆきさんの名曲「糸」の一節。糸がほつれたり、からまらないように…。見たことない糸だな~。*昭和世代の古いほう…、旅はまだまだ終わらないと言う。でも、いつかは終わる。注:この文章を「人生」ととらえた方…、間違いなく昭和世代。*昭和の世代は、とりあえず、お天気の話しから入る。注:昭和世代は、しっかり会話術を身につけていますね。会話のおだやかな枕です。でも、時々、この後に、たいへんなお願い事がまっている。*昭和の世代は、自転車の後輪の上に荷台がないと、何となく落ち着かない。注:昭和の世代は、何か損をした気分です。荷物は…、二人乗りは…。バックミラーは、ウインカーは、かごもないのか。ブレーキやスタンドもないのか。もっと安くしろよ。*昭和の世代は、電車、バス、飛行機、船が、人生と結びつきやすい。注:じっくり、ゆっくり、車窓から、自分の過去や未来を眺めていました。ああ上野駅。あずさ2号。岬めぐり。北国行きで。北ウイング。津軽海峡冬景色。*昭和の世代…、なんだかんだいって、最終的に「軽トラ」に戻る。注:すべての人ではありませんが、田舎のジィさまには、クワやカゴも、たい肥やバケツも載せられない「大八車(だいはちぐるま)」はいらねェ!ベンツ…、どこの弁当ずら?*昭和の世代…、着物にブーツでは、外に出られない。注:せっかくの和装なのに、ブーツでなくても…。*昭和の世代…、いろいろ沁みちゃうの、染みちゃうの、凍みちゃうの。注:心にしみちゃうの、つい漏れちゃうの、エアコンで冷えちゃうの…。*昭和の世代は、「ゆく○○、くる○○」という表現が大好き。注:言わずと知れた、おおみそかのNHKのテレビ番組「ゆく年、くる年」のことですが、これに似た表現は、今でも山のようにありますね。昭和世代は、去るもの、来るもの…「一期一会」が大好き。*「手の冷たい女は、心が温かいの」…、昭和女性の猛アピール!注:歌謡曲「忘れていいの」の歌詞に、「指先の冷たい女は、おくびょう者だから…」というのもありましたね。ほんとうなのか?*昭和の世代は、プロ野球の野球場を、「甲子園」を除いて、たいてい「ドーム」か「球場」としか呼ばない。だいたい、正式名称を覚えるのを放棄している。注:今は、命名権(ネーミングライツ)の売買によって、野球場や大型施設の名称がコロコロと変わりますね。それも、よくわからないカタカナ名。せっかく覚えても、次の年に変わっていたりします。*昭和の世代は、今のプロ野球球団を、昭和時代の球団名に置き換えないと、何となく、しっくりこない。注:ついこの前まで、横浜ベイスターズを大洋と呼んだり、西武を西鉄と間違える人が、結構いました。聞かされているほうも、置き換えに忙しい。楽天が、もともと、どのチームだったのかも忘れてしまいました。イニエスタは神戸で、オコエは仙台、梨田さんはどこにいたんだっけ…?*昭和の世代は、お金を落として拾うと、お金に頭を下げる。スポーツ選手は、競技場やグラウンドに頭を下げる。注:お財布を地面に落として拾う時、その人の行動を見ていてください。野球選手やマラソン選手の行動も…。*昭和世代の多くは、お城の敷地は、桜の花見のために存在していると思っている。注:「平和の時代」のお城の新しい姿です。戦乱の世よりは、マシか…。*昭和の世代は、「氷点」も、「笑点」も、大好き。注:昭和の時代、三浦綾子の小説「氷点」が空前の大ヒット。それにあやかって、立川談志が、自分のテレビ番組に「笑点」と命名しました。もちろん、今でも放送している番組「笑点」のこと。*昭和の世代は、「足湯」に、まだまだ抵抗感を持つ人がいる。温泉とは別もの…。「マイ・スリッパ」を信じている。注:昭和の時代は、足の病気「水虫」が大流行り。スリッパでも共有しようものなら、すぐに感染です。今では、水虫薬のテレビCMを見なくなりました。でも、「マイ・スリッパ」持参の旅行者は少なくありませんね。「マイ枕」も…。*昭和の世代は、モノをはめ込むような機構システムを、「カセット」と呼びたがる。注:昭和の時代、音楽用のカセットテープは代表格。カセットコンロ、カセットボンベ、カセットデッキ…。平成世代は、「カセット」という名称のもつ、独特な現象の意味を理解できるでしょうか?*昭和の世代には、「指きり」をして、小指を骨折した人が少なくない。注:今は、幼稚園くらいでしか、「指きり」を見たことがありません。サインや印鑑さえ、消えていきそう…。*昭和の世代は、「スポーツ系青春ドラマ」にその気にさせられた。オリンピックやスポーツ文化に、どのくらい貢献したのか?そのドラマの主役俳優は、今でも当時の役名で呼ばれる。注:野々村先生(夏木陽介)、河野先生(村野武範)、沖田先生(中村雅俊)、ほかにも竜雷太、浜畑賢吉…。「ヨシカワく~ん」と叫んでいた学生の森田健作さんは、ずいぶん後に、政治家の先生に。今は千葉県知事。60~70年代の青春学園ドラマは、その後も、膨大な数の、学校を舞台とした青春ドラマを生んでいきましたね。*昭和の世代は、「民衆」、「大衆」、そして「皆の衆」という言葉が大好き。そして、思わず両腕を広げる。注:「皆の衆(みなのしゅう)」とは、昭和時代の、村田英雄さんの大ヒット曲。歌詞の冒頭が、「皆の衆、皆の衆」で始まります。昭和の時代の、会社や団体、町内会や親族会などの会合では、その長老たちが、まずは「皆の衆」とあいさつが始まることが少なくありませんでした。長老の話しを聞いているふりをしながら、「皆の衆」を心の中で歌っていた人も多かったはず…。村田さんは、この歌では腕を広げるアクションをほとんどしなかったと思いますが、なぜか、そのようなアクションを思い出させる村田英雄さんと三波春夫さんです。*昭和の世代は、カナと漢字の名前をすぐに覚える①。アントニオ猪木、ジャイアント馬場、ジャッキー吉川、トニー谷、松尾ジーナ、キャロライン洋子、山本リンダ、ペギー葉山、フランキー堺、ハナ肇、ミッキー吉野、マイケル富岡、カールスモーキー石井、プリンセス天功…。*昭和の世代は、カナと漢字の名前をすぐに覚える②。サンプラザ中野、ラッキィ池田、ルー大柴、ポール牧、マギー司郎、デーブ大久保、パンチ佐藤、パンチョ伊東、プリティ長嶋、パパイヤ鈴木、ドン小西、イッセー尾形、クルム伊達公子、滝川クリステル…。今も同じ。注:カタカナだけ、漢字だけ、ひらがなだけ…、よりも、なぜか頭に残りやすいお名前ですね。理由はわかりませんが、昭和だけでなく、今でも非常に多い芸能人の名前のパターンですね。今では、地名や建物名も…。*昭和の世代に、ドラマの中の刑事や警察官は…と尋ねたら…、それは皆、人情派!注:「かつ丼」食うか?*昭和の世代に、「フレンチ・ポップス」といったら、あの歌手、あの曲…。それ以外にない。注:シルヴィ・ヴァルタン、フランス・ギャル、ミッシェル・ポルナレフ、アダモ、ジェーン・バーキン…。サッカー界で「シェリーにくちづけ」が、復活大流行した時期は、たしかに、フランスチームは最強だったですね。「イエイエ」のレナウンは、フレンチポップスのように、突然、息を吹き返えせるのだろうか?*昭和の世代と、テレビ東京は、「サテライト」という言葉が大好き!注:テレビ東京では、朝・昼・夕・夜に、「サテライト」が飛びます。個人的には、この昭和の「こだわり」が好き。*昭和の世代のお父さんの、親父ギャグや、ベタなダジャレの裏側には、脳の衰えとの激しい攻防戦という現実が隠れている。注:まだまだ、回路も、センスも、イケてるのか?*昭和の世代は、とりあえず、「急がば回れ」が好き。でも、昭和の時代に、たいはんの人は大遅刻。注:超スピード優先の猪突猛進(ちょとつもうしん)の昭和時代。ついてこない奴は、おいていく。じっくり考えて、遠回りしていたら、皆においていかれる…、そんな昭和時代でしたね。*昭和の世代は、とりあえず、「大は小を兼ねる」が好き。でも、たいがいは、大き過ぎ。注:とりあえず、でかいほう…、テレビ、自動車、家、ビル、施設。人も多かったですし…。*昭和の世代は、人の集団を「〇〇族」と呼びたがる。注:太陽族、みゆき族、アンノン族、カミナリ族、暴走族、親指族、竹の子族、クリスタル族、ローラー族…、日本は部族の集合体なのか?今は部族が皆いなくなって、相当な数の「○○系」…新幹線みたい。*昭和の世代は、「この、タコ!」が、まだ通用すると思っている。なんとも「ハハ のん気だね~」の、「ヤッコさん」たちである。注:昭和時代には、タコ親父、タコ野郎、タコ社長…、たくさんのタコがいましたね。そういえば、宴会で「タコ踊り」をするサラリーマンもいましたね。*昭和世代の言葉「いろいろあって…」の半分は、本当は大したことではない。でも、半分は、相当に深刻。注:戦前・戦中世代の「いろいろあって…」に、あまり深入りして話しを聞くことはできません。いつの時代も、あまり話したくないことは、たくさんありますね。*昭和の世代は、就活で、やる気と好感度を見せれば何とかなると思い込んでいる。また、実力さえあれば、何とかなるとも思い込んでいる。何とかならない。注:今は、人生で第二の就活期をむかえる、定年退職組も少なくありません。時代変化についていけるのか?*中元、歳暮、飲み会、カラオケ、ゴルフ、冠婚葬祭、慰安旅行…、昭和の時代は、これ見よがしの上司へのご機嫌取りの機会がたくさんあった。平成世代は何を使って出世しているのか?注:年功序列、終身雇用は、ある意味「守られた社会」。仁義なき「立身出世」の戦いは、相当な知恵やチカラが必要になりそうですね。*昭和の世代には、プロのサラリーマンという職業があると思っている人が少なくない。注:第二の就活で、課長ならできる、部長ならできる…と、真顔で語る定年退職組が、本当にいるそうです。*昭和の世代は、業界専門用語やカタカナ用語が、何となくカッコいいと思う人が多い。でも、本当に賢い人は、もっとも、人にやさしい言葉を使う。注:論点の不明瞭化や入れ替え、相手の不明瞭で不十分な理解への誘導、議論の時間稼ぎ、博識風、都会的…、和製英語や、英語への変換は、時に都合がいい。要は、自身の語彙力不足か、相手にしっかり内容を理解してもらっては困るのだ。今は、不思議な「たとえ話」も増えてきた…。*昭和の世代は、「考えるな、感じろ」の言葉の裏には、相当に考え抜いた経験が必要だと、わかっている。注:ブルース・リー主演の映画「燃えよドラゴン」により、この言葉が好きな昭和世代も多いですね。ブルース・リーが、あの域になるまで、どれほど練習したことか…。*昭和の世代…、新型コロナ問題は、金でなんとかなると思っていた。やっと、そうでないことに気づいた。注:ノーコメント。*昭和の世代…、お互いの病気談義は、最良の妙薬。いつしか、自分のほうが症状が重いと、優越感を感じるようになる。本当は、逆である。注:お互いを、なぐさめあい、助け合うのはいいことですね。その悲しみや苦労を、互いに話すことで、何らかの癒しになるのであれば、たくさん話してください。でも、間違った方向の競争心は、時に身体によくない。競争大好きの「昭和世代」は、気をつけましょうね。*昭和の世代は、さすらい、とまどい、まなざし、たそがれ、うつろい、という言葉に弱い。*昭和の世代は、名前のない…、言葉にならない…、無名の…、無言の…、という言葉に弱い。注:小説、テレビ番組、歌謡曲の歌詞…、たくさん出てきましたね。*昭和の世代は、コーヒーのなつかしいCMの曲を耳にすると、たいてい遠くを見つめる。注:年齢に関係なく、知らぬ間に、コーヒーが大好きになっている日本人はたくさんいますね。いつから砂糖いっぱいの、甘いコーヒーを飲まなくなったのか?昭和時代の有名なコーヒーのテレビCM…、あんなに甘く切ない楽曲ばかりなのに…。甘く切ないのは、本人の思い出のほう…。*昭和の世代は、アリとキリギリスの話しに共感しながらも、裕福で長生きしたキリギリスもたくさん見てきた。いつしか、別の昆虫探しに向かった…。注:昭和の世代は、アリでもなく、キリギリスでもない、別の生き方を探していましたね。*昭和の大半のお父さんたち…、「今にみてろ」と言いながら、誰にも見向きもされなかった。見返すこともできなかった。でも、がんばった。注:昭和の世代は、自分自身の中の、何かと戦う人が少なくなかったですね。いろいろあって…。*昭和の世代は、訃報を報じる有名人が、自分より年下だと、かなりあせる。自分より年上だと、ほんの少し安心する。それは年齢順でなどないことを、すっかり忘れている。注:昭和の世代は、順番が好き、並ぶのが好き。何かちょっと安心する。*「明治は遠くなりにけり」は死語となった。今、「昭和は遠くなりにけり」ということを忘れてはいけない。私たちは、遠くからやって来た客人…?それとも、未来への水先案内人…?注:「明治は遠くなりにけり」は、昭和時代の有名な流行語。明治時代の人々は、ある意味、昭和や大正時代よりも、自由で、パワフルで、発想の豊かな人が多かったような気がします。今は、ほとんど明治生まれは残っていませんね。以上。* * *…昭和生まれは、空気を読み合わなくても、共感しあう。おそらく、たぶん、きっと、ひょっとして、願わくば…。昭和世代は、こんな「大から小へ」、「強から弱へ」の表現も、使ったりしますね。少し前に、若者たちのあいだで、「語彙力(ごいりょく)」に関する書籍がブームになっていたそうです。古い時代の、言葉表現や、用語を探しているようです。現代の若者も、何かをより繊細に表現したくて、何かをしっかり理解してもらいたくて、仕方ないのかもしれません。これからも、本コラムでは、昭和生まれっぽい古い言葉と表現を、願わくば、少しずつ書いていきたいと思っています。◇昭和の輪ここで、「オート三輪(さんりん)」に関する、「昭和ツイート」を…。*昭和のオート三輪…、ぬかるみにはまって、さあたいへん。「オート三輪」…若い世代の方々には、聞きなれない言葉かもしれません。この「オート」とは、この場合、自動車の意味です。「三輪」とは、三本のタイヤ(輪っか)の意味です。「オート三輪」が初めから正式名称だったかは、よくわかりません。オート三輪は、幼児用の三輪車のように、三本のタイヤに、自動車エンジンがついている乗り物です。昭和の特定の期間に、大活躍した自動車です。もう少し、しっかり説明しますと、1930年代から1960年代にかけて、栄枯盛衰をくりかえしながら、日本の成長に大きく貢献した小型車両です。1930年は昭和5年、1960年は昭和35年です。ちなみに、「太平洋戦争(大東亜戦争)」は1941年から1945年まで、「日中戦争」は1937年から1945年までですから、オート三輪の歴史は、日本の昭和の戦時と、丸かぶりといえます。1950年から1953年の「朝鮮戦争」(現在、休戦中)は、日本の運命にも大きく影響しましたが、オート三輪の歴史はそれにも絡んでいます。◇オート三輪の長所と短所「オート三輪」は、大人が乗る「大きな三輪車」です。車両の前方に、一本のタイヤ(輪)があり、後方に二本のタイヤ(輪)があります。その逆のケースの車両が登場するのは、ずっと後のこと…。今、四輪の自動車を運転するときは、曲がるときに、内輪差を考えながら運転しますね。想像してみてください。三輪だと、どのくらい小回りがきくか…。内輪差もへったくりもありませんね。とにかく、小回りがきくのです。それに、タイヤが一本ないだけで、どれだけ製作コストが下げられるでしょう。購入価格も安くすみます。当初の販売価格は、国が価格を決めていましたが、いずれ自由価格競争の波に飲まれていきます。* * *こうした「オート三輪」は、ものすごい小回りの良さ、コストの安さではありますが、三輪ゆえに、四輪よりも、はるかに足腰が安定しないのです。運転を誤ると、すぐにコケる(前方のどちらかの方向に傾いて倒れる)のです。その運転者には、今の自動車やバイクとは異なる、ハンドルさばきと、ブレーキのタイミングが求められたのです。急ブレーキを踏もうものなら、いったいどんなコケ方をしたのでしょう…。それに、後方の荷台に、相当な量の荷物を載せようものなら、カーブの時に、前輪が浮き上がりそうです。昭和の戦後の時期までは、舗装されていない道が多く、路肩は土が盛り上がっていたりします。もともと、道路もガタガタです。オート三輪が、いくら悪路に強いとはいっても、運転者の技能にゆだねられている部分は小さくありませんでした。私は、古いドラマの中で、オート三輪を皆が人力で起こしたり、ロープを使って、田んぼに落ちたオート三輪を引き上げるシーンを見た記憶があります。実際に子供の頃、田んぼの横の道路で、倒れているオート三輪を見ています。* * *こうしたオート三輪の構造上の安定性のなさでは、高速運転など、到底不可能です。ですが、四輪にない強さも発揮します。運転技量さえ身に付ければ、未舗装のガタガタの道路や、狭い山道などでは、四輪よりもはるかに優れた「力感(りきかん)」を発揮したのです。当時の自動車の車輪のサスペンション技術など、今とは比べものになりません。車輪が三つであるという特性を活かせれば、悪路には有利にはたらいたのです。* * *コケやすくて、高速はむり、でも悪路に強く、価格が安い…、これがオート三輪の最大の特徴でした。ですから、この車両は、ドライブなどのレジャー使用には、到底、無理です。工事現場、鉱山、森林、山道、物資の運搬…、そうした場所が、オート三輪の活躍する場所でした。◇オート三輪の歴史ごく簡単に、その歴史をご紹介します。当初は、オートバイにリヤカーをくくり付けたような、かんたんな構造でしたが、エンジンの排気量は、350 ccから、段階的に大型化し、最終的には2000 ccクラスにまで大型化します。初期は、無免許でも運転できるような、簡易的な荷物運搬車両だったものが、軽自動車、軽トラック、小型トラックへと急速に成長していきます。戦前の、簡素な初期型モデルは、世の中で大活躍しますが、太平洋戦争に入り、自動車メーカーはみな、軍需関連の兵器製造を行うため、オート三輪製造をストップさせます。戦後になり、1949年の「ドッジライン(財政金融引き締め政策)」により、日本は大不況下に入ります。もともと、その頃は、日本のゼロからの戦後復興期です。モノや金、人は不足でも、日本の復興として、やらなければならない仕事は山ほどありました。1950年に朝鮮半島で戦争が始まり、日本はそのお隣で、大経済成長期に入ります。日本は、朝鮮半島に向かう米軍の前線基地の役割を果たします。大量の物資運搬、関連製造など、いわゆる「朝鮮特需」が起きます。1940年代から1950年代は、もともと、安くて便利な「オート三輪」が大活躍できる土壌が、日本にあったのです。戦後、「もっと、性能のいいオート三輪を…」。そんな声とともに、オート三輪は、ますます進化・成長をしてゆくのです。恐竜の進化でいえば、ひ弱な小型恐竜から、そのうちに、ティラノサウルスや、超大型のブロントサウルス、翼竜まで登場してくるのと似ています。そして、ある時に、急速に絶滅に向かうのです。* * *いわゆる日本の「高度成長期」とは、1954年から1970年の間の経済成長期のことです。この間、「神武景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」という、好景気時代が連続してやってきます。世界から、「日本の奇跡」と呼ばれる、戦後復興の時代です。庶民の給料はうなぎ登り…、その後の好景気は、さらにすごいですが…。日本人が浮かれ出すのも仕方ありません。そんな長期にわたる高度成長の裏で、大型化しすぎた「オート三輪」は、役目を終えるように、歴史の中心から遠ざかっていくのです。1965年には、三輪車運転免許制度が廃止され、時代は、小型・中型・大型の四輪トラックの大輸送時代に入っていきます。日本では、高速道路が次々につくられていきます。高速道路を走れない自動車は、自動車ではない…?各自動車メーカーは、戦後復興期を乗り越え、生産体制や経営が安定し、トラック、バス、そしてレジャー用の自家用車を、世の中に豊富に提供できるようになりました。* * *「オート三輪は、もう、いいよ…」。こんな声が広がりはじめた1950年代後半、オート三輪は、最後の逆襲に転じます。大量物資輸送には、ある程度以上の荷物を一度に運ぶのが有利なのは当然です。かといって、世の中には、少量の荷物、ある程度急いで届けるという、需要があります。「オート三輪」は、そこを見事についてくるのです。1957年、あのオート三輪の名車…、ダイハツの「ミゼット」が登場してきます。他メーカーも、同じくらいのかわいい小型サイズのオート三輪を、次々に登場させます。今でいえば、「軽トラ」や軽自動車の「ワゴン」のような存在です。最終的に、オート三輪の積み荷は、1トンから2トンあたりが中心になり、一方、この小型サイズが人気でした。いずれ、安全性や経済効率の高い「四輪軽自動車」や「軽トラック」、中型・大型トラックに、その座を奪われていきますが、最後の花火をこの時期にあげるのです。1972年には、ダイハツが最後の生産を終了し、オート三輪はそれまでに製造された車両のみが、日本に残されました。◇かわいい「ミゼット」数ある「オート三輪」の人気車両の中で、おそらく一番人気は、ダイハツの「ミゼット」でしょう。マツダのオート三輪も、フロント部分のかわいい「カエル感」は、よく似ています。1990年(平成2年)に大ヒットした映画「稲村ジェーン」にも、「ミゼット」は登場してきた車両ですね。映画「稲村ジェーン」は、サザン・オールスターズの桑田佳祐さんが監督した映画で、加勢大周(かせたいしゅう)さんが主演しました。サザンが歌う主題歌「真夏の果実」も大ヒットしましたね。ずっと、昭和の映画だと思っていましたが、平成の時代の映画でした。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも、堤真一さんが演じる、自動車修理工場「鈴木オート」の社長が、ミゼットに乗っていましたね。ジブリ映画「となりのトトロ」に登場する「オート三輪」は、ミゼットではなく、もう少し大きなオート三輪でした。たしか、引っ越し荷物か何かを運搬していたと思います。いかに多くの昭和世代の方々が、「オート三輪」に愛着を感じていたかが、よくわかります。* * *ミゼット…、なんとも、かわいらしいスタイルとお顔…。街なかを走る、かわいいカエルのようでした。◇「飯場のおっちゃん」と「昭和色」ほかに、多くの道路で見かけたのが、まさに、ねじりハチマキの「飯場(はんば:昭和時代の鉱山労働者や土木作業員用の休憩場や食堂、宿泊施設のこと)のおっちゃん」が運転していそうな、ごつい面がまえの、マツダの車両「Tシリーズ」です。ミゼットのようなかわいさは、まったくありませんが、いかにも昭和の一時期に、日本の「高度成長」をチカラ強く支えてくれたトラック車両の雰囲気でした。あの独特の青色系の塗装も、今の時代にはありえないような色です。ミゼットの不思議な黄緑色や、薄い水色もそうですが、昭和のある時期までは、きっと高品質ではない、あの深みのない塗装色は何だったのでしょう…。「パール〇〇」などの塗装色は、昭和でも、ずっと後半の時期の登場です。あの昭和のある時期までの塗装色…、実に味わい深い、「ベタ感」いっぱいの忘れらない「昭和色」でしたね。◇まさかの再会私が最後に、博物館などではなく、現役で使われているオート三輪を見たのは、今から30年程前が最後でした。その時にも、もう何十年か見ていなかったため、まだ現役で走っていたことに衝撃を受けました。それは、マツダの「T2000」あたりだったと思います。大阪市の湾岸地域にある此花区には、日本有数の大企業の工場があります。今は、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)になっている場所にも、大きな工場がありました。とある大企業の工場に仕事で行ったときに、その敷地内を走る大型の「オート三輪」とすれ違ったのです。思わず、「まさか…」と、目を疑いましたが、紛れもなく、車輪は三つでした。ヘルメットをかぶった作業員らしき運転者が、真夏の暑い中を、車窓を全開にし、ニガムシをかみつぶしたような顔で運転していました。30年程経った今でも、はっきりと思い出します。ですから1990年あたりの、「奇跡の再会」でした。* * *おそらく、そのオート三輪は、製造後30年か40年は、使われていたでしょう。日本最大級のあの企業グループの工場です。よくぞ、大切に使っていてくれたものです。昭和の時代は、モノ選びの基本の中に、「耐久性」がしっかり根付いていた時代です。「頑丈で、長く使えなければ、買う意味がない」…、今の消費交換時代とは、だいぶ違っていますね。私は、それ以降、博物館などではない場所で、現役のオート三輪を一度も見ていません。◇現代のオート三輪こうした「オート三輪」は、前述のとおり、1960年代後半には、その役目を終えるように姿を消していきました。ですが、近年、小型ではありますが、似たような三輪の乗り物を、東京でも、よく見かけるようになりました。お酒や料理を運ぶ、三輪のスクーターです。中には、エンジンなしの、モーター付き自転車のような形式もあります。宅配の方々が使っていますね。さすがに、高齢者が乗る小さなバイクは、三輪ではなく四輪です。これらは、小型過ぎて、「オート三輪」とは、ほど遠い存在です。あくまでスクーターや自転車の延長上です。ですが、数年前に、テレビニュースで、電気バッテリーで動く、まさに小型のオート三輪サイズのミニ車両を報道していました。ゴルフ場のカート程度のサイズにも見えました。前述の三輪スクーターよりも、しっかりした車両には見えます。おそらく、転倒対策を施しているとは思います。これなら、狭い道路でも、ある程度まとまった量の荷物でも、だいじょうぶな気がします。おまけに静か。* * *ただ、デザインがまったくなっていません。デザインの好みの問題ではなく、プロのデザイナーが関わったプロジェクトなのかと疑うような代物でした。ミゼットなど、かつてのオート三輪の持っていた、人を惹き付ける魔力を、まるで感じないのです。今の時代に何も応えていないデザインだと思ってしまいました。◇そこに、「オート」この現代の三輪車両は、「オート三輪」のような、心地よい、そして愛されそうな名称でもありませんでした。昭和の戦前から高度成長期に、この「オート」という音の響きは、特別なものです。「auto(オート)」…、わかるようで、よくわからない言葉です。オートバイ、オートメーション、オートマチック、オートモービル、オートパイロット、オートフォーカス、オートレース、オートロック…。オート三輪の「オート」は、もちろん自動車の意味です。「オート」と「car(カー)」は、かなり違う印象を受けますね。この「オート」の中には、人間の手が加わらない「自動」という概念を含んでいます。実際には、人間と機械の共同作業ですので、すべてが機械の思うがままではありません。でも、この共同作業には、何か「技術進歩」や「未来」のようなものを、思い起こさせますね。* * *現代の今、人間とコンピュータが、会話をしながら、コンピューターがその指示に従うシステムが増えてきました。キーボードで指示するのとは、何かが違う気がします。かつての「オート感」が、戻ってきたのでしょうか…。人間社会の中には、今も「進歩」というものを信仰する国が多いのも事実です。今は、進歩によるデメリットも、忘れてはいけませんね。* * *先ほど、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で、堤真一さんが演じる、自動車修理工場「鈴木オート」の社長のことを書きました。昭和の時代は、もちろん「〇〇自動車」という会社名の看板も多かったですが、「〇〇オート」も同じくらい多かったと記憶しています。散髪屋でいえば、「〇〇理髪店」なのか「バーバー〇〇」の違いと似ています。店主が何を目指しているかによるのでしょうか?昭和の時代に、もし「オート三輪」という名称ではなく、「三輪自動車」のような名称だったとしたら、そこに「ミゼット」は誕生してきたでしょうか…。実は、現代でも、こんなことがきっかけで、モノが売れたり、売れなかったりします。「この品物は、未来につながっているのか、希望や幸せとつながっているのか…」。* * *東京・浅草の浅草寺の近くに、「神谷バー」という有名な酒場がありますが、この店には、「デンキ・ブラン」という名称の、お酒のブランデーベースの人気のカクテルがあります。生まれたのは明治時代です。当時はアルコール45度だったそうですので、相当な強さのお酒です。「デンキ・ブラン」の「デンキ」とは「電気」のことです。感電したように、しびれるお酒という意味をかけたのかもしれません。明治時代は、近代文明が、西洋から一気に日本にやって来ます。生活の中に「電気」がやって来たのです。そうしたこともあり、いろいろな名称に、「電気」や「文化」の文字が入ってきたのです。この二文字をつけたら、そこには、「豊かさ」と「未来」が加わり、モノが売れたのです。もはや、電気を使おうが、使うまいが、まったく関係ないものにも、この「電気」や「文化」の文字が加えられていきます。今の若い世代には、いろいろな製品が、電気で動作するのは当たり前ですが、明治時代はもちろん、昭和のある時期までは、電気で動作することの衝撃はかなりなものです。昭和のある時期までは、電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機など、わざわざ「電気」の文字がついていましたね。私は、「電気毛布」という名称を初めて聞いた時に、死にはしないかと怖く感じたことを憶えています。電気コードに巻き付かれて寝るなど…。今では、手離せません。今の若い世代に「文化住宅」と言っても、いったいどんな住宅なのかイメージできないと思います。昭和の前半世代には、「文化住宅」といえば、おおよそ、その建物がイメージできますね。もちろん、その住宅は今でもたくさん残っています。* * *私は昔から、学校で行われる「文化祭」の「文化」とは何だろうと、ずっと不思議に思っています。ひょっとしたら、この「電気」や「文化」と同じ意味なのではないかと、密かに思っています。今、この「文化祭」という昭和臭のする呼び名も、多くの学校で消えてきましたね。* * *さて、話しを戻しますが、この「オート」にも、何か前述の「電気」の匂いがします。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、「鈴木オート」の社長の堤真一さん一家が、ミゼットに乗って、夕日の中、川の土手を疾走します。そして、堤真一さんと薬師丸ひろ子さんの夫婦、息子の少年の三人が、土手の向こうに見える、完成したばかりの東京タワーを眺めるのです。その東京タワーは、まだまだ周囲に高い建物のない東京の街で、大きく真っ赤な夕日を背に、どっしりとした黒いシルエットで、そびえ立っているのです。その映画の中では、「(東京タワーと夕日が)きれいだ」と語りあう夫婦の言葉に、息子が応えます。「あたり前じゃないか。明日だって、あさってだって、50年先だって、ずっと夕日はきれいだよ」。薬師丸さんが言います。「そうね。そうだといいわね」。堤さんも、「そうだといいな…」。映画を見ている昭和世代が、涙を流す瞬間です。* * *やはり、この映画では、自動修理会社の名称は、「オート」の文字でないとダメなのでしょう。そして「オート三輪」の姿が必要だったのだと思います。オート三輪に乗って進めば、そのまま未来にたどり着けそうな気がしますね。昭和の戦後は、多くの人が、夕日の向こうにある未来をめざして、走っていた時代です。多くの人が、生活環境や仕事が違えど、それぞれの目標が違えど、何か同じ方向に向かって走っていた気がします。周囲にいる、知らない人たちも、そんな風に見えていた気がします。「幸せ」、「希望」、「未来」、「豊か」…、昭和生まれは、そうした言葉に、皆、何か同じようなイメージを持っているのかもしれません。だからこそ、つらい時代、貧しい時代を、助け合いながら、乗り越えてこられたのかもしれません。この映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、映画の終盤に、登場する人物だちが皆、それぞれに、夕日の中の、完成したばかりの東京タワーを、立ち止まって眺めるのです。平成生まれの世代には、どんな風景が、昭和世代のそれに相当するのでしょうか…。きっと、何かあるのでしょうね…。* * *学校の歴史という授業では、各時代の人間が共有する思想や哲学について、学習する機会はあまりありません。各時代の偉人たちの、それぞれの思想とは大きく異なるはずです。「昭和生まれっぽい」…、知っているようで知らない、わかるようでわからない、そんな不思議なものですが、確実に何かが存在しているのは、多くの方が感じているはず…。明治生まれっぽい…、大正生まれっぽい…、平成生まれっぽい…、これからは令和生まれっぽい…も確実に存在しますね。「〇〇生まれっぽい…」は、とても幸せな感覚なのだと感じるようになりました。あなたは、何生まれっぽい…ですか?自信をもって、「〇〇生まれ」と叫んでいきましょう。◇日本生まれっぽいさて、昭和の「オート三輪」ですが…、日本では、現役車両は絶滅したと思います。化石しか残っていないと思います。実は、世界を探すと、オート三輪は、しっかり生き続けているのです。東南アジアのタイでは、「トゥクトゥク」と呼ばれる三輪のタクシーが、大量に走っています。皆さんも、テレビニュースなどで、ご覧になられていると思います。日本にあった「ミゼット」に面がまえがソックリですね。日本の昭和世代としては、こんなかたちで、残ってくれているのは、とてもうれしいです。また、インドでも、「オート・リクシャー」という呼び名で、オート三輪が走っています。この「オート」はもちろん「自動車」の意味です。では、「リクシャー」とは何か?そうです。日本の「人力車(じんりきしゃ)」からつくられた造語なのです。「オート三輪」のような乗り物は、世界のいろいろな場所で生まれましたが、タイやインドのそれは、日本生まれの「オート三輪」なのです。タイやインドの国の方々…、そのオート三輪を、「日本生まれっぽい…」と感じておられるでしょうか…?頑丈で、安価で、小さくてかわいい、それに使い勝手がよく実用的…、何となく、日本人の姿を思い出しているのでしょうか…。何はともあれ、「〇〇生まれっぽい」とは、なかなかいい響きです。〇〇に何が入ろうが、それは、それにしかない素敵な魅力であるのは間違いありませんね。* * *最後に、やはり昭和生まれの、お昼のバラエティ番組(1982〔昭和57〕~2014〔平成26〕放送)をもじって、ひと言「いいかな」…。「世界にひろげよう!昭和の輪!」。* * *【追記】このコラムを書いた直後に、思わぬ情報を得ることができました。日本でも、オート三輪は、まだまだ現役で走っており、購入できるというのです。そのことは、次回の「昭和生まれっぽい発言しろ(3)」の中で、ご紹介いたします。2020.6.13 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 09Jun
      • パパはアマビエ!の画像

        パパはアマビエ!

        アマビエの歴史。アマビエと水害。アマビコ。山童と河童。パパはアマビエ!◇行きつくところ…前回コラム「青い衝撃の日」で、ブルーインパルスといっしょに大空を飛ぶ「アマビエ」の絵を載せました。今回のコラムは、そんな「アマビエ」のことを書いてみたいと思います。これを読んで頂いている、子供たち、若者世代の、おそらく大半は、「アマビエ」と聞いて、おおよその内容はご存じだと思います。アマビエの姿も頭に思い浮かぶと思います。50歳以上の中高年は、はたして、どのくらいの認知度でしょうか…?これを読んでくれている子供たち…、パパやママに教えてあげてね。* * *先日、中高年の方に、「アマビエをご存じですか?」と尋ねました。さも、よくご存じの表情です。好きだの、うまいだの、どこどこで獲れるだの、スーパーでどうのこうのと、しゃべり始めたのです。よくよく聞いていると、どうも「アマエビ(甘えび)」の話しをしているようです。また、ある高齢者の方と「アマビエ談義」をしていましたら、そんな話しもそうそうに、エアコンの話しをしはじめたのです。どうも、「夏冷え」の話しをしたいようです。人間…歳を重ねてくると、ひとの話しを聞かないし、用語は適当に使うし…、となりますね。でも、人が老いるとはそうしたもの…。甘えびだろうが、夏冷えだろうが、アマビエだろうが、何でもかまいません。最終的には、「コロナに感染しないように、健康で、元気に乗り越えられたらいいね」の話しに、行きつくのです。そこまで、たどりつけば、「アマビエ」さんも、本望といったところなのかも…。◇アマビエここで少しだけ、「アマビエ」のおさらいをしてみたいと思います。「アマビエ」とは、日本古来から伝わる伝説の生きものです。今の新型コロナ問題とともに、「疫病退散(えきびょう たいさん)」の象徴として、このアマビエ人気が、急浮上してきました。今、世の中のアマビエたちの姿が、なんとなく皆、似ていると思いませんか…。そうです、ベース(基本)になったアマビエの絵が存在するのです。日本の古い歴史に残された、おそらく唯一のアマビエの絵ではないかといわれています。それが下の絵です。文言の中に、「弘化三年」とありますが、これは1846年のことで、江戸時代末期です。この年、江戸の街は、利根川の大氾濫で、一面水没したようです。隅田川では、両国橋以外のすべての橋が使えなくなり、「その川の流れはすさまじく、人々は大混乱」と書き残されています。この水害をもたらした大雨は、6月から7月にかけてのことだったようです。今でいえば、そのひと月くらい後の時期だと考えていいと思います。江戸時代のその頃も、現在の今頃のように、大地震や大水害が頻発していました。この1846年以降も、毎年、相当な規模の風水害が日本各地でおきています。とにかく、この1846年は、あまり大きな政治の動乱はありませんでしたが、大きな自然災害で、それどころではなかったのかもしれません。* * *1846年の5月には、徳川家茂が、江戸幕府の12代将軍になります。この年は、ペリーが黒船でやって来る7年前…1846年頃には、すでに外国船が日本各地に、ちらほら、やって来ていました。安政の大獄が始まる約10年前。まさに、1846年頃は、歴史的な社会の大嵐の直前という世の中でした。約20年後の1867年に、江戸幕府が、政権を朝廷に返す「大政奉還」がありました。1868年に明治時代が始まります。* * *自然災害の数の多さや、外国船の来日数の増大が影響したのかどうかはわかりませんが、疫病が何度も大流行していきます。インフルエンザ、コロリ(コレラ)、麻疹(はしか)…。江戸あたりでも、短期間に数万人が亡くなっていました。この頃、自然災害と疫病で、江戸の日本橋の橋の上を、一日に200の数の棺桶が往来したと書き残されています。とにかく1846年は、日本中で異常な大水害が起きたようです。前述のアマビエは、そんな年に登場するのです。◇見えんけど、おる日本には、昔から、津波や水害から人を守ってくれる神様がたくさんいますね。日本各地に「白髭(しらひげ)神社」がありますが、これは、水の波の上に立ちはだかり、それを鎮める「白髭の翁(おきな)」という神様を祀った神社ですね。その翁たちでさえ、疫病は、なんともしがたい…。目にも見えない、えたいのしれない疫病という奴らが、人の命を奪っていくのです。ウイルスや菌といった知識など、その頃の日本人にあるはずがありません。見えなくとも、人々の前には、死をもたらす「化け物」が、確実に存在していたのです。「見えないけど、そこに確実にいて、人を病にさせるのだから…」。「地震だって、誰だか知らないが、地面を大きく揺さぶるのだから…」。◇お役人って、だれ…ここで、前述の史料に書かれている文章を、現代語訳で、私なりに書いてみます。〔原文〕肥後国海中江毎夜光物出ル。所之役人行見る二、づの如く者現ス。私ハ海中二住、アマビヱト申者也。當年より六ヶ年之間、諸国豊作也。併、病流行、早々私を写シ人々二見せ候得と申て、海中へ入けり。右ハ写シ役人より江戸江申来ル写也。弘化三年四月中旬〔訳〕肥後国(今の熊本県)で、夜ごと、海が光る現象があらわれた。その地域の役人が、海岸に出向いて見てみたところ、その者があらわれた。役人に対して、その者が言うには、「私は海の中に住んでいるアマビエと申す者です。今年から6年の間は諸国で豊作がつづきます。しかし同時に、疫病が流行するので、私の姿を描いた絵を人々に、早々に見せなさい。」。そう言って、海の中に戻っていった。この絵は、役人がその姿を描いたもので、この写しが江戸にもたらされた。弘化3年 4月中旬* * *私は、阪神大震災の時に、何か、大地震時の発光現象や地鳴りというものを体験したことがありますが、この「海が光る現象」とは、地震時の発光現象に思われないこともないです。この話しが4月のことですので、九州では、江戸の6月から7月の大水害の数か月前には、すでに、水害自体か前兆のような現象が起きていたのかもしれません。あるいは、何かの天候異常が起きていたのかもしれません。何かの疫病がすでに、特定地域に蔓延していたか、流行の直前だった可能性もあります。村の役人が、村人を落ち着かせるため、希望をもたせるために、創作したお話しだったのかもしれません。あるいは、これは人の移動を止めさせるための、何かの方便(ほうべん)だったかもしれません。いえいえ本当に、アマビエがあらわれたのかもしれません。◇予言獣江戸時代の、この絵のアマビエは、鳥の頭に、魚の身体、三本の足ですね。実は、日本には、三本足の伝説の生きものは、めずらしくありません前述のような、鳥と魚の合体生物ではなく、毛におおわれた猿に近い、三本足の生きものの話しが、いくつか残っているのです。豊作を伝えたり、疫病の退散方法を告げたりするあたりは、よく似ています。* * *二種類の生きものの合体の例も少なくありません。人と牛の合体では、「白澤(はくたく)」や「件(くだん / にんべんと牛の漢字から)」。人と龍の合体では、「神社姫(じんじゃひめ)」。亀女、姫魚(ひめうお)なども、そうした仲間です。これらは、疫病の流行の時にあらわれる「予言獣(よげんじゅう)」と呼ばれています。疫病の発生時、流行時になると、突如として登場してくる獣や妖怪なのです。「アマビコ様が出たぞ~、アマビエ様が来たぞ~、姫魚様が来たぞ~」。こうした言葉だけで、えたいのしれない疫病への警戒態勢が、急いで整えられていったのかもしれません。不気味な絵からは、恐怖心も、わき上がってきますね。現代でもそうですが、幼子なら、そうした絵にすら、怖がって近づきませんね。「流行り病だから注意しなさい」と聞くよりも、「この札を玄関や神棚に貼って、家から出るな」のほうが、たしかに江戸時代なら効果がありそうです。人々に、疫病への注意喚起という点では、現代の今で言えば、感染者数の発表とか、有名人の感染とか、クラスター発生情報にも、似ているのかもしれませんね。「アマビエ様が出たぞ~」だけで、何を意味しているのか、どんな行動をとればいいのか…、江戸時代の庶民はみなわかっていたのかもしれません。たしかに、アマビエ様たちは、幕府のお役人よりも強くて、怖い気がします。◇救世主のアマビエ現代の日本であれば、アマビエは、かわいい姿、ユーモラスで親しみのわくようなデザインに、その姿を変えています。かわいいお菓子、アマビエだるま、アマビエ人形、ぬいぐるみ、キーホルダ―、ステッカー…、どれもすぐに購入したくなるようなものばかりですね。皆さまも、一度「アマビエ 菓子」で画像検索をしてみてください。その種類の多さだけでなく、そのクオリティの高さには驚かされます。日本の菓子職人のセンスや能力に、あらためて驚かされました。まさか、江戸時代の知る人ぞ知るという、こんな古文書の中に、大ヒット商品のデザインが隠れていたとは…。* * *今、コロナ問題で、国民の購買意欲が減退している中ではありますが、一部に、こういう時だからこそ、急激な売れ行きで、品薄になってる商品が続々と出てきました。一時期のマスク、アルコール除菌剤だけではありません。リモート会議、テレワークなどに使う「webカメラ」、部屋の換気に必要な網戸、先端企業やスポーツメーカーがつくり出す高性能マスク、特殊な型のテント、透明の特殊アクリル板、直接接触をさけるための自分専用小型器具、特殊フェイスシールド、ペーパータオル、うがい薬、体温計…。食品では、ホットケーキミックス、パスタ類、ラーメン、シロップ、ホイップクリーム、小麦粉、めんつゆ、長期保存パン、ビールが激減し第三のビールが急増、普段は高級料理店でしか食べられない高級食材…、数々のまさかの現象には驚かされます。そして、このアマビエ関連商品です。「アマビエだるま」もなかなか手に入らないと聞いています。アマビエまんじゅう、アマビエ弁当、アマビエランチ…、きっとあるはず…。アマビエのゆるキャラの写真も、どこかで見ました。熊本県の「くまもん」に、それもまさかの同郷に、ものすごいライバルが誕生してくるとは…。今、多くの日本各地の神社でも、木彫りのアマビエ像が、続々と誕生してきていると聞いています。もちろん御朱印も…。きっと、アマビエ電車、アマビエバス、アマビエツアー…、出てくるはず。現代では、アマビエは、ビジネスの救世主にもなってくれるのかもしれませんね。* * *現代のそうした動きにひきかえ、江戸時代の予言獣たちの絵…、何か、鬼気迫る、切実な祈りさえ感じさせます。あまりにも迷信じみたおかしな話しや、妙な妖怪の絵と思われるかもしれませんが、医療や感染予防という概念さえなく、祈祷やまじないに頼るような江戸時代ですから、「予言獣」は、大真面目に、社会が疫病にとれる最大限の対策だったのかもしれません。江戸時代…、予言獣の姿は、笑うような対象ではなく、まさに命の救世主という祈りの対象であった気がします。◇アマビコ実は、「アマビエ」はもともと、「アマビコ」と呼ばれ、いつからか誤記、誤認によって、「アマビエ」に変化していったともいわれています。そして、前述の三本足の猿こそ、「アマビコ」と呼ばれていたのです。「尼彦」、「海彦」、「天日子」と表記されている例もあると聞いています。本コラムシリーズでも、神話のお話しを書いたことがありますが、九州はまさに、高千穂のある神話のふるさとです。「アマ」と聞けば、すぐに、あの「天上界」を思い起こさせます。「アマビト」…?* * *「肥後国」とは、もともと火山の後ろにある国という意味だとも聞いたことがあります。神話の世界では、火山の火口は、死の世界への入り口です。その火口を出たり入ったりできる方は、特定の方だけでした。そして、この肥後国(今の熊本県)には、もうひとつの三本足の生きもの伝説があります。前述の三本足の猿のような姿で、今度は海ではなく、山の中にあらわれます。その地域の人々に、五年間の豊作と、疫病の蔓延を告げるのです。そして、自分の姿を見た者は、疫病から逃れられると伝えるのです。この妖怪の名は、「山童(やまわらわ・やまわろ)」です。川にいる童子は…、そうです、「河童(かっぱ)」ですね。河童が、山に暮らす「山童」になっていったのです。川のない地域には、山童がいてくれるのです。でも、河童が何かを予言するという話を、私は聞いたことがありません。それに、河童は二歩足…、もうひとつの足とは何なのでしょう。日本には、三つの目を持つ妖怪がたくさんいますが、三つめの目は、心や精神の目ともいわれていますね。山童(やまわらわ・やまわら)やアマビコの三本目の足が、何を意味しているのか、私にはわかりません。何かの大きな「支え」でも、意味しているのでしょうか…?私が、あなたの「目」、「足」になってあげる…。◇アマビエは、どこ…このアマビエは、今、コロナたちの前で、私たちの盾(たて)となってくれるのでしょうか…。ウイルスは、私たちの目には見えません。それなら、アマビエが、見えても見えなくても、ちっとも問題ではありませんね。このアマビエたち…、ひょっとしたら、海や山にしかいないのではないのかもしれません。都会にも、すでにあらわれているか、何かに化けているのかもしれません。私たちが、いつも見ている、出会っている人に、化けているのかもしれません。それは、生きものだけではないのかもしれません。エッ!パパも…、ママも…、そうだったの。有名な脚本家のあの方も、「あまちゃん」に助けてもらったのかも…。「アマビエのチカラ」…、きっと、古い時代も現代も、そのチカラは衰えていないと思います。なぜって…、それは、私たちの近くにいるのですから…。これを読んでくれている子供たち…、アマビエは…… いるよ!☆☆本コラムでは、こんな活動も行っています。「天使のチカラ」『天使のチカラ / 作曲 作画 書のお願い』医療従事者を応援しよう! どうぞ歌詞に曲、絵、書を…天使のチカラ / 作曲 作画 書のお願い ( 医療従事者を応援しよう )☆知らない誰かのために…☆世…https://ameblo.jp/shisekifun/entry-12591667491.html* * *【追伸】今回のアマビエの原画とイメージ画は、アメーバブログの中で「妖怪ファンタジーブログ」を書かれている、やはりアマビエが人に変身(?)した「ありす」様の絵を使用させていただきました。ありす様に、深く感謝申し上げます。「天ビエ乃」より。ありす様のブログ『アマビエ』まさかのリクエストをいただきまして、アマビエさまイラスト再掲載です。コロナ禍も、なんとか先が見てえきた今、改めて「疫病退散」を祈って!①うごくアマビエさ…https://ameblo.jp/alice7one/entry-12601797557.html* * *2020.6.9 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 06Jun
      • 「青い衝撃」の日の画像

        「青い衝撃」の日

        ブルーインパルス。医療従事者に感謝と敬意をこめて。「青い衝撃」の日に多くの人は何を語ったのか?「青い衝撃」の日◇各種ブログで…前回コラム「青い衝撃・青くない強い意志」では、2020年5月29日に東京上空を飛行したブルーインパルスについて書きました。今回のコラムは、その続編として、その日に日本各地の多くの皆さまが、SNSでどのような発言をしていたのかなどについて、書いてみたいと思います。私は、コラム「ぼんぼりの灯は照らす」の中で、今年2020年の異例ずくめの「ひなまつり」の人々の過ごし方について書きました。その時も、多くのSNSをリサーチしましたが、今回も同様に、300件から400件あまりの内容を見てみました。今回は、ツイッターは除外し、しっかりと文章が書かれた内容のブログを中心に見てみました。ですから、ツイッターであらわれる傾向とは、少し違うとも思われます。ですが、人々の真意や行動がよく伝わってきます。「ひなまつり」のコラムの時もそうでしたが、今回もやはり、個人の頭で想像する範囲を超えた、さまざまなドラマや状況を、SNSで感じることができました。後ほど、微笑ましいもの、笑えるようなもの、感動的なもの、泣いてしまいそうなものなどを、簡潔な内容でご紹介いたします。今、「ビッグデータ」の活用が社会で叫ばれていますが、実はこうした細部の情報収集に弱点があったりします。ひとつづつ読むというアナログな方法ではありますが、ビッグデータから漏れてしまうような大切な内容を、見ることができたような気がしています。* * *さて、今回は、各種のブログを中心に読んでみました。300~400件をみた範囲では、その大半は、ブルーインパルスの飛行を肯定する内容でした。否定的、批判的な内容は、わずか数件しかありませんでした。私の当初の想像からは、少なすぎる気もしています。今、女子プロレスラーの問題以降、各ブログは、何か強いフィルターをかけているのか、それとも、社会全体に、反対意見を言わせない雰囲気や、それを逆に誹謗中傷する雰囲気が強くあるのか、とも感じるほどの数の少なさです。ひょっとしたら、ツイッターでは、もう少し傾向が異なるのかもしれません。私は、ブルーインパルスの飛行肯定派ではありますが、否定的な意見の中にも、光るものや何かの意味があるとも思っていますので、それを表に出せない雰囲気があるのなら、それはそれで、別の問題があるかもしれません。◇深刻な現実否定派、批判派の意見を読んでいますと、「空をながめている暇などない、一刻も早く支援金を…」、「飛行機の飛行と感謝の気持ちを、結びつける意味がわからない」などのものもありました。私は、まだまだ表面的な気持ちの応援ではなく、目に見える支援を求める人が少なくないのだという現実を見た気がしました。コロナ感染の恐怖とは違う、まさに切羽詰まった、生死の境に生きる人々が、まだまだ、周囲には多いということを、つきつけられたように感じました。* * *今、「生活保護になってもいいから、とにかく住まいを失わないで…」と、多くの方面から叫ばれていますね。無茶な借金をすることは後でたいへんですが、住まい(住所)がなくなると、立ち直りの機会を失うことにもなりかねません。4月頃には、ある大臣が、「中小企業の社長の皆さん、国が何とかしますから、今は、社員を解雇しないでください」と何度も叫んでいました。とはいえ、このままでは社員に退職金も渡せなくなると、まだ体力が残っているうちに廃業に踏み切る経営者も少なくありませんでした。その後にやって来る経営難による地獄よりは、まだマシだとも言っていました。今年の夏のボーナスも、すでに出せないと表明している企業も少なくありません。経済的に、この夏を乗り越えられるのかどうか…、その深刻さが表面化してくるのは、これからです。* * *先日、テレビ番組で、幼い子供と小学生をかかえた、シングルマザーの話しを放送していました。彼女は派遣社員で、いきなり解雇通告です。失業保険はしっかりもらえるのでしょうか…。家も借家。貯金で暮らせるのは、あと2か月がやっと…。新しい仕事は見つからない。テレビを見ていて、こんな厳しい現実に、もし自分が遭遇したらと絶句しました。いったい、世の中に、これと同じようなケースがどのくらいの件数あるのでしょうか?どこを調べても、その件数がわかりません。東京にいる、住宅を持たないネットカフェ難民の人数は、おおよそ把握できているようですが、その多さにも驚きます。新型コロナは、身体的な生命の危機を私たちにもたらしただけでなく、さまざま危機を同時に呼び寄せたのです。「未知のウイルスの感染」の本当の恐ろしさは、まだ終わっていません。ボーナス払い…、住宅ローン…、家賃の支払い…、今後の学費…、通院や治療…、介護…など、失業や廃業に限らず、国民のほとんどは、その人なりの何らかの問題と対峙しているのだろうと感じています。◇無駄にはしない私は個人的に、こんな苦しい時だからこそ、絶望に押しつぶされそうになった時に、青空を飛ぶブルーインパルスの雄姿を思い出してほしいと思っています。ブルーインパルスを、自分の味方、自分のチカラだと感じてほしいと思っています。その日に感じた衝撃、そして、勇気、希望、連帯感を…思い出してください。多くの人々が、その瞬間に、それらを共有したのです。人は、希望のない世界では生きられません。ブルーインパルスを、自分の希望だと感じてほしいです。* * *人によって、苦難の大きさは違いますが、自身と同じような境遇で戦っている人は、必ず近くにいるはずです。きっと、同じブルーインパルスを見ていたはず…。今は、光が見えなくとも、いつかブルーインパルスを思い出せる日がくるはず…。ブルーインパルスの飛行に肯定的な人たちの中にも、否定的な人たちの中にも、どちらにも、苦しみの底にいる人たちはたくさんいます。今は、両者がいがみ合う時でもないような気もします。* * *すべての現象には、何かの理由がありますね。そこに意味を感じるのも、意味を持たせるのも、それぞれの人次第です。ブルーインパルスの飛行に、本当に大きな意味を持たせることができるのも、人間です。無駄な飛行だったとならないようするには、私たちのこれからの行動次第なのかもしれませんね。◇その瞬間に…さて、リサーチしたブログの中の、さまざまな内容を、あまり詳細に紹介できませんが、どのような内容があったのかを書いていきたいと思います。まずは、微笑ましいもの、笑ってしまうようなものから…。* * *今回の東京上空の飛行の情報については、事前に知らなかった人も相当にいました。終了してから、ニュースで知った東京都民も相当にいたのです。中には、家庭内で、旦那が事前に知っていたのに、奥さんや子供たちに伝えず、自分だけが仕事場近くでナマで見ていたという方も少なくなかったようです。後で、家族で大モメです。「どうして、そんな大事なことを教えないの…怒」。実は、わが家もそうでした。「つい、うっかり…。ほれ、今、テレビニュースでやってるよ…」。「早く言えよ…、再怒」。こんな家庭も少なくなかったようです。今回、政府も、国民の反応に、ビクビクしていたのかもしれませんね。* * *今回、「医療従事者に、空を眺めている暇があるのか…」という市民の意見もあったようですが、私の今回のリサーチした印象では、相当な数の医療関係者がブルーインパルスの飛行を、ナマで見ていたようです。もちろん、手を離せない医療従事者も多かったでしょう。病院長の粋なはからいで、その時間に、病室の窓や、屋上から、看護師が患者といっしょに、その飛行を眺めるように通達した内容も見つけました。何カ月も、空を眺めていなかった患者が、思わず涙したというものも多くありました。白い雲を眺めながら、かつて飼っていた白色の愛犬を思い出し、涙したというものもありました。病気やコロナ以外の会話を、患者さんと久しぶりにしたという看護師もいました。* * *調べていましたら、高齢者施設の中には、建物の屋上や庭に、可能な高齢者のみを外に出し、ブルーインパルスが来るのを待っていたという施設も少なくありませんでした。その写真には、車いすの女性高齢者たちが、その瞬間に、皆でバンザーイと手をあげているのです。ひょっとしたら、その中には、太平洋戦争で夫を戦場で亡くした方もいたかもしれません。彼女らの笑顔に、何か救われた気がしました。* * *ここからは、微笑ましい内容を、箇条書きに…。・事前に何も知らずに、犬の散歩に出かけたら、犬が急に興奮しはじめ、異変に気づいたお母さん…。・隅田川の土手が、まるでピクニックの場所のような明るい雰囲気に…。・宅配便をドアの前で受け取っていたら、その瞬間に轟音と白い雲…、宅配のお兄ちゃんと一緒に並んで見ていた…。・スーパーのレジが一斉に、ざわめき立った…。レジ打ち間違えないで…。・いつもの買い物を、この時間に合わせた…。・タクシーの運ちゃんと、突然の出来事で、社内で二人で大盛り上がり…。・家の中で仕事をしていて、外で何かうるせえ音だなと文句をたれていたが、後で知って、大後悔したお父さん…。・その飛行に感動して、ブルーインパルスのプラモデルを購入し、作り始めたお父さん…。・ブルーインパルスの写真を撮ったのはいいが、あまりの撮影の下手さに笑ってしまった…。(実は、「ブルーインパルス 下手写真選手権」という現象がおきました)・道路で大興奮して、はしゃぐ子供たちの声や姿を、何カ月ぶりに感じた…。・お尻に手づくりの白い雲をつけて、子供が部屋中を走り回っている…。・子供が、その日は、大好きなプラレール遊びをしなかった…。・「ブルーインパルス」と言いたいのだろう、でもしっかり言えない、4歳の息子…。・家にあるブルーシートを、意味もなく庭に敷いてみた…。・その日は8時間ぶっ通しで、女子どうしで食事と会話。でもその瞬間だけ、ブルーインパルスを見て大興奮した…。・東京に住む息子から、ブルーインパルスの写真だけが送信されてきた…。・東京に暮らす息子は、ブルーインパルスをしっかりナマで見ているのかと心配する、田舎の母親…。・中年男性の多くが、何も語らず、ブルーインパルスの写真だけをSNSにあげている…。・急に友人が、若い頃にパイロットを目指していた頃の話しを始めた…。・「ナマで見逃した」とつぶやいたとたん、多くの友人から、どっと写真や動画が送信されてきた…。・ある若者のラインの会話…、超感動!アレはモテる。アレがモテなければ世も末!…私はその会話にワロタ。・青色のゼリー菓子を、その晩、家で作った…。・何となく、その日、街に青色の洋服が多かった…。…本当に面白い内容が満載でした。* * *今回は、その日の朝から、テレビで伝えていたこともあり、多くの人が、スマホをかまえて、路上や公園、ビルの窓際や屋上で、待機していた人が多くいました。皆が、大空を一斉に眺めているという異様な光景に、初めて、それを知った人もたくさんいました。ますます、東京の街は、異様な上向き状態になっていきました。同じ時刻に、皆が一斉に、目線を上に向け、笑顔で大空を眺めたのです。最近は、目線を下に向け、渋い顔や、困った顔、怒った顔ばかりを多く見かけますが、そんな中、この瞬間だけは、東京全体が上を向いた気がしましたね。この瞬間の、何かを分かち合う感覚…、共有する感覚…、ずっと忘れていたような感覚です。何か、いつもと違う会話をしたり、まったく知らない人であっても、人の笑顔を見るのはいい気分です。ひとつのスマホを、何人かで眺めながら笑っているのは、きっと撮影した写真があまりにも下手だったのでしょう…。東京だけの体験では、少しもったいない気にもなります。これから、日本各地で行われることも検討されているようですね。ほんのわずかの瞬間かもしれませんが、笑顔が全国にひろがっていくのでしょうか…。◇気持ちが届いた瞬間ここからは、泣けてきそうな、感動的な内容を紹介いたします。・給付金の申請書を握りしめながら、役所の窓から、ブルーインパルスの姿を見たとき、うれしくて涙が流れた…。・私は戦闘機が嫌い、大きな轟音も嫌い…、でもこの飛行機を見て、うれしい涙が出た…。・ブルーインパルスを見て、ギスギスした自分の心に水をあげることができた。(略)つらくて、ここまで、どう生きてきたかわからないが、間違ってはいないと思った…。・「また、お前らのせいで税金を使われた」と言われるのだろうが、また医療の仕事にがんばれる気力が出た…(医療従事者)。・やっと世の中が、味方してくれるようになったのかも…(医療従事者)。・私は、誰とも会話をしていない。何の申請書も来ない。マスクも来ない。見捨てられています。来てくれたのはブルーインパルス。うれしかった。これらの感動的な言葉は、私の中からは出てこないものだと感じました。ブルーインパルスが、今回届けたメッセージは、はかりしれないほどの大きさだったのかもしれません。◇あなたも…今回、多くの方々のSNSを見ていると、ブルーインパルスのカッコよさや、迫力だけに感動しているものは、非常に少ないと感じます。多くの方々が、同時に、たくさんの希望や連帯感を感じているのです。今回、調べている中では、元自衛官の方、自衛官の家族の声も少なくありませんでした。その苦労や、自衛官への世の中からの誹謗中傷などを切々と語っているものもありました。隊員たちの、純粋な心構えも伝わってきます。今回の飛行チームの姿の写真と言葉を少しだけ見ましたが、ベテランから若手まで、その冷静な表情とコメントにも頼もしさを感じます。当たり前の仕事をしただけ…。この冷静さこそ、戦闘機乗りには、必要なことなのかもしれません。地上の興奮や、激論をよそに、彼らの姿こそ、本当の戦場にふさわしいとも感じました。* * *今回の東京での飛行を見て、多くの方々が、自分の人生を振りかえった方も少なくなかったようです。今回のリサーチから、いわゆる平和活動家や、医療支援者の多くが、かなり肯定的な意見を述べられていると感じました。現実の社会は、言葉や理想だけでは、平和や医療は成し遂げられませんね。* * *今回、私は、日本社会の中に、感謝と誠意という思想が、しっかりと根付いていることを強く感じました。日本では、それそれの家庭、幼稚園、保育園などで、感謝・謝罪・誠意という意識が、幼少の頃からしっかり教育されます。大人の日本社会も、基本的には性善説が前提となっています。政界や芸能界、スポーツ界も、しっかりとした謝罪が求められますね。感謝の気持ちも、謝罪と同様に、思うだけでは伝わりません。日本人は、旅先の風景に「こんにちは」と呼びかけたり、品物に「ありがとう」と声をかける民族です。スポーツ選手も、誰もいない試合会場に頭を下げたり、野球の投手はマウンドに手をつけて祈る選手も少なくありません。私は、涙を流しながら、ブルーインパルスの姿を眺める多くの人たちの光景を見て、そして多くのSNSを読んで、それとまったく同じだと感じました。* * *今回、ブルーインパルスが、何かの意味を持って、東京都民の上空を飛んだのは間違いありません。今は、その飛行を無駄にしないように…。そして、希望の存在をしっかり信じて…。近々、私は、コラムで妖怪「アマビエ」のお話しを書きますが、今回、日本人のこうした姿を知って、これなら「アマビエ」に頼らなくても、日本はそう遠くない時期には、必ず乗り越えられると強く感じました。きっと、あなたも…。* * *【追伸】先日、医療従事者支援呼びかけ飛行中の、カナダ空軍の「スノーバーズ」一機が墜落し、女性パイロットが亡くなりました。国は違えど、その立派な行動に感謝し、心よりお悔やみ申し上げます。とにかく、整備も、飛行も、隊員の安全も、常に完璧さを忘れないでいただきたいと思います。その上での、勇気と感謝です。2020.6.6 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.【アマビエ画 : ありす】★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 03Jun
      • 青い衝撃・青くない強い意志の画像

        青い衝撃・青くない強い意志

        ブルーインパルス。感謝と敬意をこめて。青い衝撃と無限大のチカラ。SNSの「功」。俺たちがついている。ゴジラと原子爆弾。河野太郎防衛大臣。青い衝撃・青くない強い意志◇待ち望む衝撃2020年5月29日、快晴の東京上空に、「青い衝撃」が走りました。自衛隊機「ブルーインパルス」が、轟音とともに飛来したのです。正午過ぎ、たくさんの東京の住民が、路上でスマホをかまえて、また、テレビの前で生中継を待ち望んで…、その衝撃の瞬間を待っていたのです。おそらく、一番待ち望んでいたのは、医療従事者の方々だったでしょう。それは、東京都の医療従事者だけでなく、日本中の医療従事者が待っていたのかもしれません。皆さまも、テレビニュースなどで、病院の屋上に集まる、たくさんの医療従事者の方々の姿をご覧になられたと思います。ブルーインパルスにむかって、「来た来た、来てくれた」と叫びながら、手をチカラいっぱい振っていたり、子供のように飛び跳ねる医療従事者の姿は、テレビを見ている私たちも感動する映像でした。きっと、東京の街のいたるところで、このような光景が見られたのではないでしょうか。この光景は、子供たちの目には、どのように映ったでしょうか。一生、忘れないでいてほしい光景です。◇その瞬間テレビの生中継では、「埼玉方面から向かっている模様です」などと叫んでいます。そして、その瞬間がやって来ました。5本にも見える真っ白な線が、こちらに伸びてくるのです。白い線の塊り(かたまり)が向かってくるのではありません。白い線が伸びてくるのです。かすかな飛行機の爆音らしき重低音と独特の金属音が、街の雑踏音を覆いかくすように、遠くから迫ってきます。集まった人々からは、期待のような、歓声のような声が、徐々に大きくなっていきます。* * *あのウルトラマンは、テレビの中、映画館の中、本の中、イベント会場でしか見ることができませんね。ドラマのように、もし私たちが現実に危機にさらされた際、本物のウルトラマンが目の前にやって来てくれるときは、こうした光景なのではないかと思ってしまいました。こんな真っ青な「インパルス・ブルー」の空を用意してくれるとは、どのくらい素敵な演出家がいたのでしょう。それが、空の中に浮かぶ白い雲とは、まったく別のものだということは、すぐにわかりました。空一面の真っ青なキャンバスに、これほど白色の線がしっかり見えるのかと、実感した瞬間でもありました。その白い線が、来る、来る、迫る、迫り来るのです。「近い」と思った瞬間、轟音とともに、ものすごいスピードで、その一団が目に飛び込んでくるのです。耳には、轟音しか入ってきません。それは、もう白い線ではなく、高波のような、龍のような、真っ白な大きな「うねり」が、目の前を通り過ぎてゆくのです。白いうねりの先頭には、確かに黒いような、白いような、青いような、翼を羽ばたかせないワシのような姿が、はっきり見えます。自分の進行を止めさせることは、何者も許さないという、強い意志でもありそうな、そのチカラ強い、突破力、推進力が、その機体全体からにじみ出ています。どこまでも、真っすぐな進行なのです。* * *そして、それは、六機編成の見事に整った、美しい二等辺三角形なのです。もし、先頭の機が脱落しても、ほかの機が、もしその機が脱落しても、またほかの機が…、なにか、ものすごい団結力といいますか、公共心といいますか、いいしれぬ崇高な精神のようなものさえ感じさせます。ブルーインパルスの、祝賀行事やショーでの飛行は、これからもたくさん見る機会はつくれるでしょう。でも、今回のような、「強い意志」を感じさせるような飛行を見る機会は、そうそう無いのかもしれません。オリンピックの開会や閉会の行事の飛行でさえ、これほどの意志を感じることはないかもしれませんね。◇無限大のチカラ先般、日本各地で同じ時刻に一斉に、花火を打ち上げましたね。また、ある楽曲を、リモート技術を使って、みなが共通の意識で奏でるという取り組みもありました。これらも、みな何かを応援するとか、意識を団結させて何かを乗り越えようという、強い意志のあらわれですね。今回のブルーインパルスのそれも、もちろん、それらと同様だと思います。それらに参加する者、それらを見ているだけの者…、いずれにしても、それに触れた人間に、何かを与えてくれるチカラがあります。* * *今回のブルーインパルスの飛行ルートも、東京都心の多くの場所から見ることができる、心にくいルート設定です。特に曲芸飛行などを行わないのも、いいですね。真っ青な大空の中に描かれる、真っすぐな白線…、これがいいのです。実は、東京都心上空を、もし相当な高度から、この飛行ルートを見ることができたなら、それは「8の字」なのです。「8」というより、「∞」という「無限大」のかたちなのです。まさに、東京の医療従事者や住民たちに、「無限大のチカラ」を運んできてくれたのです。今回の飛行テーマは「感謝と敬意をこめて」と聞いています。河野太郎防衛大臣の発案だそうですが、この方は、時々大胆なことをされますね。今回は、いくら高額な費用がかかったとしても、見事なアイデアだったと感じます。日本国民に与えた「大きな感動」は、まさに「青い衝撃」だったと思います。* * *お金やマスクをもらえることは、たしかに、ありがたいことでしょう。でも、弱っている瞬間に、必要な瞬間に、「差し伸べられる手」こそ、何より大切なのかもしれません。ずいぶん後からやって来る「手」では、どうも…。その手は、けっして、モノだけとは限りませんね。人間が生きていくのには、お金やモノだけでは不可能です。心や精神、希望や勇気がなければ、危機は乗り越えられませんね。何かの「メッセージ」を受け取ると、人は動けたりもします。5人や10人の要求では動かなかったことが、100人、1000人、1万人の声なき声になると、動き出すことも少なくありません。国民ひとりずつへの、10万円支給もそうした声によって実現しましたね。持続化給付金が10万円単位から、1円単位にもなりましたが、これも同様ですね。今年の新規開業者への救済、芸術分野への救済、医療従事者への救済なども、同じです。戦いは、新型コロナだけが相手ではありませんね。戦国時代がそうであったように、戦いは、正攻法だけでは、まず勝てません。相手がコロナでも、人間でも同じですね。かけ引きがあり、攻防戦がありを繰り返しながら、時に、回り道もしますし、出費も必要ですが、一定の成果となってあらわれていきますね。それは、いつか無限大のチカラにも変化します。今回、ブルーインパルスが風穴を開けたかどうかはわかりませんが、とにかく、お金も、マスクも、応援や支援も、衝撃のメッセージも、早くチカラ強く…。ブルーインパルスのように…。無駄にしている時間はありませんね。歴史を見ると、こうした一瞬の出来事が、その後の歴史を、また難局を、変えさせたということも、少なくありません。今回のブルーインパルスのチカラを、無駄にしてほしくはないと思っています。* * *この衝撃波、無限大のチカラは、日本各地に伝わっていってくれるでしょうか…。依然として、医療従事者が苦労し続けている地域は、日本中といっていいですね。この真っ白な線と、ブルーインパルスの雄姿を、多くの人たちに、見せてあげてほしいものです。◇「功」にかけるさて今回、「ブルーインパルス」のお話しを書くにあたり、ウルトラマン級の支援をいただきました。「アメーバブログ」の中で、ブログを書いておられる「つみとカケル」様が、このブルーインパルスの模様を、素敵な写真と動画に残してくれました。センスのある良質な写真にあわせて、素敵な文章も添えられています。今回のコラムでは、その写真の一部を使わせていただきました。このコラム内では、若干の加工をしています。「つみとカケル」様のブログも、ぜひご覧になってください。このコラムで使用したもの以外の写真や、爆音も聞ける動画が掲載されています。「つみとカケル」様のブログ * * *今、ツイッターなどのSNSは、大きな岐路に立たされていますね。でも、多くの一般の方々が、ブルーインパルスの写真を撮って、文章をそえてSNSにアップすることは、まさに自身の意思表示であり、公共心のあらわれそのものだと感じます。たしかに、SNSには「功罪」があります。でも、正しい「功」、良質な「功」のチカラは、相当な大きさです。人類の危機の際、この良い「功」は、まさに絶大なチカラを発揮するのだろうと感じています。「クラウド・ファンディング」を直訳すれば、「群衆からの資金調達」となります。良いかたちの「クラウド・ファンディング」であれば、かなりの効果があるとも聞いています。今後、SNSの世界を、社会が見直していくにあたり、こうした危機や公共の際の、良い「功」の活かし方を、もっと探っていってほしいと思っています。これらの写真は、東京の隅田川を挟んだ、墨田区側と台東区側の両方で撮影されたそうです。左側の写真の下方が、北側の埼玉方面で、写真上側が南側の東京湾方面です。「つみとカケル」様の写真や動画に登場するアーチ型の橋は、駒形橋(こまがたばし)です。上の写真のとおり、隅田川の河岸に沿って、首都高速道路が走っています。とはいえ、この首都高速道路を、どんなに速いスーパーカーで追いかけても、ブルーインパルスに追いつくはずはありませんね。どんだけ、高速~!◇俺たちが、ついている東京都心では、今年2020年の3月末より、都心上空を、羽田空港に離発着する民間航空機が飛行するようになりました。深刻な騒音問題などを抱える区も少なくありません。東京や川崎あたりでは、毎日、お昼過ぎの午後の時刻あたりから夕方過ぎまで、民間航空機の姿と音を、かなり近い距離で見るようになったのです。とはいえ、そうした民間航空機のスピードと、ブルーインパルスのスピードは、比べものになりません。片方は、戦闘機に近い速度で飛ぶのです。各地で開催される「航空ショー」や、オリンピックなどの大イベントの祝賀でもなければ、このような戦闘機級のスピードを感じることなどできません。まして今回は、ブルーインパルスが、東京上空を何度か周回するのです。私の記憶でも、「祝賀」や「ショー」、訓練などの目的以外で、ブルーインパルスが飛行するなど、まったくありません。今回は、人々の気持ちを高揚させただけではありません。立ちむかう勇気と、感謝するという気持ちの大切さを、私たちに、しっかりとメッセージとして伝えてくれたのです。大の大人の医療従事者たちが、飛び跳ねるのも、わかりますね。まさに、ブルーインパルスの言葉が聞こえてきそうです。「俺たちが、ついている!」ブルーインパルスに向かって、思わず、「敵であるコロナを、叩きつぶしてくれ…。医療従事者の、青い味方になってやってくれ!」と、叫んでしまいそうになりました。* * *「つみとカケル」様のブログの中では、ブルーインパルスが向かう先にある、隅田川上空の雲の姿を、「チンアナゴ」と表現されていました。私は、東京湾から上陸した怪獣の「ゴジラ」にも見えました。皆さまは、何に見えますか…。私には、ゴジラに向かって、攻撃態勢に入るブルーインパルスの光景に見えて仕方ありません。ゴジラは、映画では、ビキニ環礁の原子爆弾の実験で飛散した放射能を浴びて、変貌、巨大化した生物ということになっていますね。「ゴリラ」と「クジラ」の合体生物です。実は、「ブルーインパルス」も、原子爆弾とは無縁ではないのです。このブルーインパルスの「青い衝撃」という名称の意味は、実は、日本に落とされた原子爆弾の、「青色の閃光」のことなのです。原子爆弾が炸裂した時の青い閃光と、その巨大な衝撃こそ、この「ブルーインパルス」の名称の由来なのです。* * *「ブルーインパルス」は、もともと戦闘用の飛行機ではありません。行事やイベントなどで、その飛行を披露するための飛行機なのです。いってみれば、究極の技能を必要とする曲芸飛行に近いものですが、自衛隊的に言えば、「展示飛行」と呼びます。オリンピック関連行事であれば、五機が、五輪マークの五つの輪を、スモークで描いたりしますよね。前述の写真では、六機が、きれいな二等辺三角形になって飛行していますね。猛烈なスピードの中で、この隊列を維持して、それも180度折り返してくるなど、パイロットたちの能力の高さには驚かされます。その他の曲芸飛行も、写真でしか見たことがありませんが、人間業とは思えません。戦闘機のパイロットが退役すると、よく民間航空機のパイロットに再就職したりしますよね。テレビ番組でも、よく、民間航空機が上空でトラブルに見舞われ、絶体絶命になった時に、戦闘機の操縦経験のあるパイロットが、民間航空機を戦闘機のように手動で操縦し、危機を乗り越えるという感動的な物語が、放送されたりしますよね。地上のバイクや自動車のような大きさならともかく、こんな巨大な、それも空中に浮いている安定しない機体を、猛スピードの中で、コントロールするとは、私には想像もできません。ゴジラには、このくらいのことができないと、到底、対抗できないのでしょうね。医療従事者たちが持つ特殊技能も、おそらく、これと同じなのだろうと思います。それなのに、医療従事者自身や、その家族、子供達に、誹謗中傷、罵詈雑言(ばりぞうごん)とは…。* * *実は、何十年か前までは、自衛隊員の家族も、それに似た境遇だったこともありましたね。現在はないと思います。今はむしろ、地震や水害などの自然災害時で、正義のヒーローです。そんな隊員たちが、今度は、厳しい境遇にさらされている医療従事者を、その家族たちを、元気づけているのです。人間という生きものも、まだまだ捨てたものではありませんね。◇俺は、ブルーインパルスになる!今回のブルーインパルスのこの姿が、それぞれの人の目に、どのように見えたでしょうか…。人間のどの言葉も、その光景には勝てないのかもしれません。* * *あなたの隣に、もし、息も絶え絶えの患者がいたら…、心配だらけで何ものどを通らない高齢者がいたら…、不安がいっぱいで震える子供がいたら…、疲れ果て、今にも倒れそうな医療従事者がいたら…、まずは声をかけて元気づけませんか。何も声をかけず、何もしないで、彼らをながめていますか。ましてや、罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせますか…。私たちの暮らしは、医療従事者や介護従事者、自衛隊員など、「守ってくれる」存在があるから、彼らに任せておけばいい、というものでもないのかもしれません。彼らは、不死身のマシーンではないのです。心を持った、体力にも限界がある、人間なのです。これからは、私たちひとりひとりが、「ブルーインパルス」になることが、必要なのかもしれませんね。「助ける。守る。支える。元気づける。」…、今からでも遅くありません。私たちも、それぞれのチカラで、大空に飛び立つ日が来たのかもしれませんね。医療従事者の方々は、自身で選択する余地もなく、とっくに飛び立っているのです。私たちも、彼らの後を追いかけて、覚悟と、そして勇気を…。ブルーインパルスが与えれくれた、「勇気」と「覚悟」、「衝撃」で、日本に本物の青空が戻ることを…、いや自らの手で取り戻しましょう!このブルーインパルスの編隊は、飛行の最後の瞬間に、白いスモークを使って、ある意味のモールスサインを地上の人々に贈りました。その意味は…、「ありがとう」。* * *(追伸.1)ブルーインパルスの飛行については、心配や不安を抱く人も少なくないと聞いています。ブルーインパルスは戦闘機ではありませんが、まさに戦闘機にも見えてきますね。戦闘機は、すべてのものから、その国民を防衛するという役割がありますが、逆に他国への攻撃を可能にする能力を持っています。どの国もそうですが、その絶大なチカラは、その国の文民政治や市民のコントロール下にないと、非常に危険な使われ方もされてしまいますね。一部の有力者によって利用されることは許されません。今の日本で、ブルーインパルスを見て、それが他国に向けて攻撃飛行すると考える人はいないでしょう。もしそうなら、それは恐怖の対象にしかなりません。見物どころか、一目散に家に帰るでしょう。多くの人が、それを、「すべてのものから守ってくれる。勇気を与えてくれている。」ととらえ、期待のまなざしで大空を見上げるのは、たしかに日本の平和の証しにも感じます。いずれにしても、多くの日本人が、今何か、大きな「希望」を欲しているのは確かだと感じます。一方、たくさんの数の本物の戦闘機が、戦闘態勢でスクランブル緊急発進しているのも現実です。そのことも頭の片隅に置きつつ、希望の対象としてブルーインパルスを感じたいと思います。ブルーインパルスは、戦いの象徴ではなく、永遠に、私たちの「正義の味方」、「希望の星」であってほしいものです。* * *ここで、興味深い、素晴らしい内容のブログを、ご紹介させていただきます。アメーバブログの中の、岡野様のブログです。多くの方の、新しい「気づき」につながるかもしれません。皆さま、どうぞご覧ください。このたびは、岡野様の御厚情に、深く感謝申し上げます。岡野様のブログ(追伸.2)重ねて、「つみとカケル」様の御厚情に感謝いたします。あなた様の写真により、今回のコラムを書く意欲がわきました。ありがとうございました。ブログの中で書かれておられた、あなた様が見つけた「Vサインの雲」…、これは決して偶然ではないと思っています。* * **次回のコラムで、その日に、多くの方々が、どのような発言やつぶやきを行ったかについて、ご紹介いたします。コラム「青い衝撃の日」につづく2020.6.3 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 31May
      • 昭和生まれっぽい発言しろ(1)+ラジカセのお話しの画像

        昭和生まれっぽい発言しろ(1)+ラジカセのお話し

        ツイッターの世界。ジルバップの世界。ソニーの世界。昭和は「競争」。新しい文化創出。ウォークマン。ジャック&ベティ。昭和生まれっぽい発言しろ(1)+ラジカセのお話し今、日本でも米国でも、何かとお騒がせの「ツイッター」ですね。深刻な問題まで、発生させています。とはいえ、50歳以上になると、とたんに利用者が少なくなります。50歳などとっくに超えた私も、つい最近、試しに手を出してみました。なにしろ、何かを「つぶやく」という行為を、まず、してこなかった中高年世代の男です。語るなら、しっかりと…、無駄グチをたたくな…、クチは災いのもと…、そんな教育を受けてきた昭和世代です。はっきり言うのか、言わないのか、相手がいるのか、いないのか、きっちり説明するのか、しないのか…、判然としない中での、ツイッターデビューです。とにかく使用できる文字量が少ないのが、このコラム(ブログ)とは決定的に違います。短い言葉で、ほとんど吐き捨て…。言いっ放し…。* * *とはいえ、出会いたい人、自身が求めている人を、見つけるには、ブログもツイッターも、非常に便利で有効ですね。「ハッシュタグ」とは、非常に便利な機能です。思わぬ、新しい出会いもたくさんありますね。◇昭和生まれ私自身は、まだ手探り状態のツイッター利用者なのですが、ひとつ、はまっているものがあります。ハッシュタグ「#昭和生まれっぽい発言しろ」です。このテーマで、意見やら写真やらが、大量にツイッターでつぶやかれているのです。この内容が、実に面白い。なつかしい写真や言葉を、思い出させてくれるのです。昭和生まれですから、少なくとも、このハッシュタグに反応する利用者は、30歳以上でしょう。ですから、10代や20代の若者にありがちな、分別の無い言葉はない気がします。そして、短い言葉の中に、さまざまな思いが込められているのです。これなら、私も参加できそうだと感じ、最近、昭和世代ならではの「つぶやき」を投稿しています。それを、今回、このコラムでも披露させていただきます。私は、根が長文書きなので、ツイッターでも、文章にしてしまいがちです。このコラムに掲載するにあたり、ツイッターの文字数では書けなかった言葉や文章を加えました。若い世代向けに、若干の注釈も加えました。* * *実は、この短文の投稿作業は、仕事の気分転換や、「頭の体操(この表現も昭和世代?)」にもってこいだということも、わかりました。「#昭和生まれっぽい発言しろ」…、この言い回しも好きです。昭和生まれなら、昭和生まれらしく、つぶやいてやろうじゃないか…。昭和のことなら、任せとけ…。昭和の事なら、押せば命の泉沸く…てなもんや三度笠!どっこい庄一、よっこい庄一!けっこう毛だらけ、猫、灰だらけ!今じゃ、東京中野は、まんだらけ!おっと…、がってん承知の助!底なし、銭なし、女なし…、酒なし、飯なし、家もなし…、甲斐性(かいしょう)もないときた!昭和時代の表現力や流行は、まさに底なし…、自由奔放そのもの。これからも、たまに、昭和時代を思い出し、楽しく書いていこうと思っています。以下は、「#昭和生まれっぽい発言しろ」に、私が投稿した内容で、このコラム用に、若干の修正と追加をしています。◇教科書から消えた歴史1192鎌倉、645大化の改新、士農工商、仁徳天皇陵、足利尊氏像、聖徳太子…。みな消えた。注:昭和時代に教育現場で教えられていた、それぞれの内容は、いろいろな理由で変更、削除されていきました。◇アプリ昭和時代の終わり頃、「アプリ」と言っても理解されなかった。ノートPCを見て、その箱は何をするものとよく聞かれた。ポケベルなら知ってると言われた。「携帯電話」vs「PHS」の大戦争が起きていた。「MS-DOS」が「ウインドウズ」に進化する頃の、「イケイケ」時代のお話し…。注:スマホへの進化、インフラ環境整備により、「アプリ」は今、全盛期をむかえましたね。◇御用聞き一日おきに、お豆腐屋さんが玄関をたたいた。金物のボールや、たらいを持って行き、お豆腐を受けとるのは、子供の役目。お豆腐屋さんが、酒屋と同じ曜日に来ることは絶対になかった。いつしか彼らは、玄関ではなく、勝手口の扉を、勝手にたたくようになった。彼らは、各家の主人の給料日も、味の好みも、よく知っていた。富山から年に一回やって来ていた「薬売り」が、来なくなったのはいつ頃だったろうか…?注:「御用聞き」とは、各家に注文を伺いにくる人たちのことで、今の訪問販売員にも近い存在ですね。昭和の時代、お豆腐屋さんは、直接商品を持って、各家にやって来ました。牛乳を届けてくれるお店は、今もありますよね。◇白熱電球私が「便所の100ワット」と言われなくなったのは、いつ頃だったろうか…。真っ白ではない、少し黄色みがかった温かい電球の光。無駄な明るさではなく、やさしい明るさなのだ。わが家では、40ワットにまで減らされた電球が、トイレで、まだまだがんばっている。おそらく、最適な明るさで…。注:「便所の100ワット」とは、無用の長物、無駄使いの意味で、昭和の時代によく使われた言葉表現です。◇温かいご飯ご飯の保存が、木製のおひつから、花柄の保温ジャーに変わり、炊飯器と保温ジャーが「ドッキング」したのには、相当に感動した。本当に腰を抜かしたのは、電子レンジの登場!ラップなる薄いペラペラにも仰天!ナニコレ!戸棚に残された、冷たくカチカチのご飯やおかずが、生き返った。平成以降、これほどの感動はまだない。注:宇宙開発全盛期の昭和時代、ドッキング(合体・接続)という言葉もよく使われていましたね。昭和の時代に、保温ジャーや魔法瓶(お湯のポット)はみな花柄が大流行でしたね。フラワームーブメントとは関係ないと思いますが、頭の中がみな、花満開だったのか…、それとも何かを求めていたのか。電子レンジが来てから、わが家では、「冷や飯」という言葉が消えました。◇ハエ獲り紙部屋の天井から吊り下げられた「ハエ獲り紙」が、顔にペタッ…。その日が一日中、憂鬱(ゆううつ)になった。ハエ男になった気持ちで一日を過ごした。蛍光灯のひもに結ばれた長いひも…、これに首でもからまろうものなら、引きちぎらんばかりに、もがいた。長いひもに、からんでやった…。注:「ハエ獲り紙」とは、粘着剤を塗った長いガムテープのようなもので、直接、ハエを捕獲したのです。今は、ハエがこないような薬剤のものを吊るしますね。わが家にも、たくさん吊り下げられています。でも、ぶつかることはありません。昔のように、瞬時に首をひねることもなくなりました。◇銭湯銭湯に行くと、そこにはケロリンの桶、貝印のカミソリ、タマゴシャンプーがあった。親父には、MG5(エムジーファイブ)か、う~んマンダム!柳屋のポマードもあった。落語家ではない。お楽しみは、明治牛乳、森永マミー、プラッシー、ミリンダ、バヤリース…。銭湯はワンダーランドだった。◇水飲み鳥今でも、時々、「水飲み鳥」のおもちゃを見たくなる時がある。どうして、シルクハットをかぶっていたのか…?「砂時計」を意味もなく眺めていた若い頃を思い出す。そういえば、ヤシの木のおもちゃも、多くの人が持っていた。鳥、砂、ヤシ…、南国にあこがれていたのか?注:昭和の時代、喫茶店のテーブルによく、コップの水をお辞儀をしながら飲む鳥のおもちゃが、置いてありました。空前の大ヒット商品でした。「水野みどり」というお名前の方…、結構、からかわれたようです。◇チョークレバー私は、1970年代まで自動車に装着されていた「チョークレバー」が嫌いではなかった。プロレスの「チョーク攻撃」と意味は同じ。エンジンを始動させるため、ドライバーが自動車にしっかり手を貸す行為なのだ。さあ、エンジンよ、かかってくれ!現代のような、すぐにエンジン点火では、一体感は感じない。注:昭和時代のある時期までは、ハンドルの下あたりに、チョークレバーがついていました。冷たい空気を遮断する装置です。今はオートチョーク(自動)が当たり前。◇まさかの録音方法家族に、「静かにして…しゃべっちゃダメ」。家族団らんの時間が、緊張の沈黙の瞬間に変わる。テレビのスピーカーの前にラジカセを置いて、テレビ音声を録音するのである。デジタルでも、アナログでもない、不思議な録音方法に家族は協力していた。すごい団結力!その時、愛犬が ワン!注:私は、今では信じられない行為ですが、NHKの「名曲アルバム」を、よくこの方法で録音していました。その直後あたりに、赤色と白色のケーブルや、ラジカセやテレビに接続端子が標準装備されていきました。◇ジルバップSONYの歴史的名ラジカセの「ZILBA'P(ジルバップ)」。初代は1977年生まれだから、43歳。わが家のジルバップは、声量も落とさず、まだまだ現役バリバリ!当時の家電品の頑丈さは、現代の比ではない。商売を忘れた職人魂があった!注:ジルバップのことは、この後、書きます。* * *◇歴史的な名ラジカセ1970年代から80年代にかけて、「ラジカセ」が大流行しました。「ラジオ」と「カセットテープ」を合わせて「ラジカセ」です。ラジカセ自体は、60年代後半には、誕生してはいましたが、音声はモノラル再生で、音質を云々語るような代物ではなかったと思います。当初、割と貧弱だったラジカセが、音声がステレオ化し、本体が大型化、高性能化したきっかけが、ソニーの初代「ジルバップ」だったと記憶しています。1977年発売です。ソニーの「ウォ―クマン」は、その2年後の1979年の誕生だそうです。ソニー製ですので、性能や音質は言うまでもなく、当時の最高レベルのラジカセでした。80年代初頭まで、8機種が発売されたそうで、ベストセラー商品として、まさに最高峰のラジカセでした。個人的には、所有しているということもありますが、性能といい、音質といい、外観といい、初代のものが最高製品だと感じます。若者には「落ちつき過ぎ」のデザインに見えないこともありませんが、それがソニー製品でした。* * *個人的には、妙な電灯表示のメーターやデジタル表示ではない、この針の動きには、感動を覚えます。スイッチ類の重量感は、今の時代の機器にはまったくない感覚です。カセットテープをおさめる「ふた」は、瞬間的に軽く開くのではなく、ウォンと音をあげながら、どっしりと開くのです。これも重厚感の演出のひとつ。いかにも頑丈で、どっしりとした重厚感は、やはり当時のソニーの雰囲気が漂っています。その頑丈ぶりは、前述のとおり、43年使っても、まだまだ大丈夫ということでもわかります。もちろん、一部の劣化部分は修理していますが…。今は、もちろんカセットテープ部は使用していません。ラジオチューナー部の見た目は、当時のステレオチューナー級です。まさに、世界のオーディオ機器の歴史に残る名器だと思います。なにしろ、今のラジオ放送で、70年代や80年代の楽曲音声を聞いても、最新機器で聞くのと、このジルバップで聞くのとでは、まったく味わいが違うのです。当時の音楽を、当時のオーディオ機器で聴くときの感動は、最新機器では味わえないような気がします。これは、テレビなどの映像機器では生まれない感覚かもしれません。オーディオ専用機器の特性かもしれませんが、その機器から出てくるものは、その当時の音楽だけでなく、当時の空気感や世界観まで再生してくれそうな気がします。「昭和生まれっぽい発言」と言われようが、いっこうにかまいません。きっと、平成生まれの若者たちも、いつか同じ感覚になるときが来ると思います。時代がいくら経過しても、好きだったゲームの感覚は忘れないですよね。それと同じです。本当に好きなオーディオ機器は、大事に残しておくといいように思います。とはいえ、今は、オーディオ機器の、しっかりとした「かたち」がない…。◇ソニーが生み出した世界この「ジルバップ」は、当時の若者世代のあこがれの名ラジカセでしたが、妙な名称ですよね。イスラム教の女性が、顔を隠す布を「ジルバップ」とも呼びますが、その意味ではありません。音楽や舞踊のスタイルである「ジルバ」からきた造語です。* * *当時のテレビCMでは、1950年代のアメリカンポップスを使用しました。今の若者世代が、70年代や80年代の歌謡曲やポップスを、初めて発見し、喜んで聴いているとも聞いていますが、同じようなことが、当時の50年代ポップスに起きていた気がします。当時のテレビCMダニー&ジュニアーズ「踊りに行こうよ(At The Hop)」このテレビCMのキャッチコピーが、昭和時代そのもの…。「ステレオで踊ろう、ジャック&ベティ…、青春が響く、ステレオ・ジルバップ!」この映像の中で、二人の男女の若者が踊るダンスこそ、「ジルバ」なのです。音楽は50年代「フィフティーズ」なのです。この言葉の中にある「ジャック&ベティ」とは、当時の中学生あたりの英語の教科書によく登場してきた、若い男性のジャックさんと、若い女性のベティさんのことだと思います。初級の英語学習用の、いかにもたどたどしい英会話の登場人物たちです。まさに、何かを初めて学んで、成長していく若い世代を象徴する二人の若者の名前です。このラジカセ「ジルバップ」は、そういう若者に向けた商品だったということが、よくわかりますね。今、このCM映像を見ると、昭和世代としては、泣きそうになります。当時の若者の気持ちが伝わってきそうです。この映像のように、当時の若者たちは、外に飛び出していったのです。* * *もともと、こうしたラジカセは、家の中で使用することが基本ではありますが、50年代…いわゆる「フィフティーズ」の再来とともに、「踊るシーンにラジカセあり」が定着していきます。外に、ラジカセを持ち出す人が猛烈に増えていきました。ジルバップも、初代の格調高めのデザインから、若者が外に持ち出してもいいように、デザインがポップになっていきました。ラジカセの外観には、迫力や重厚感、注目されるような奇抜さも求められるようになっていきましたね。よく70年代の映画には、キャップを斜めにかぶった若者が、超大型のラジカセを肩に担いでいるシーンが出てきますよね。60年代の若者の姿を描いた映画「アメリカン・グラフィティ」のような、「フィフティーズ」や「シックスティーズ」の世界が、70年代に復活し、家の外に音楽を持ち出し、若者が集まっていったのです。東京の代々木公園の道路に、ラジカセの大音量に合わせて踊る「竹の子族」が生まれたのは70年代後半から80年初頭でしたね。ラジカセは、そのうちに生バンド演奏にも変化していきましたね。ソニーは、「音楽を外に持ち出す」という新しい若者文化を創り出したといってもいい気がします。この良質なステレオ音声のラジカセの誕生がなかったら、こうした文化は生まれてこなかった気がします。この文化こそ、あの「ウォ―クマン」へと進化していきます。「ウォークマン」の誕生は、世界中を一変させましたね。* * *私も、ウォ―クマンを初めて手にして、街なかを歩いた時の感動を、今でも覚えています。目に見える街の風景が一変し、何か、新しい世界にやって来たような、その時の感覚は、今でも忘れることはできません。私には、それが東京新宿の街でした。あれから数十年経った今でも、新宿を歩くとき、時折、その時の街の風景と、感動を思い出します。そして、その時の自分自身の姿を…。こんな素敵な世界観が、世界中に伝わらないはずはありませんね。* * *70年代は、世界的にディスコ・ミュージックが大成長していった時代です。ディスコ音楽には、身体に直接響く、重低音は欠かせません。音質重視のラジカセがなかったら、その重低音は受け取れません。クラシック音楽界も、巨匠指揮者が相次ぎ誕生、世界のオーケストラも大型化していきました。当時のソニーの、時代変化をしっかり認識した、新しい文化創出という発想と取り組みは、まさに新しいソニー時代の到来を予感させるものでしたね。ソニーは、もちろん「音楽CD」を生み出した企業です。クラシックも、ロックも、ポップスも、音楽文化へのこだわりは、他企業が肩を並べられるものではありませんでしたね。当時のソニーのビジネス範囲は、現在のソニーとは少し異なりますが、今でも、新しい文化創出という姿勢は貫かれている気がしています。当時のソニーは、新しい文化には、品質がしっかり担保された素晴らしい機器類が必要だと思っていたのかもしれません。貧弱な機器類では、貧弱な文化しか生まれてこないとでも言わんばかりです。このジルバップにしても、トランジスタ・ラジオにしても、トリニトロンにしても、ウォ―クマンにしても、音楽CDにしても、ベータマックスにしても、VAIO(バイオ)にしても、ハンディカムにしても、プレイステーションにしても、アイボにしても…。ソニーが創ってきたものは、冷蔵庫や洗濯機、エアコンなどの生活家電や新しい生活スタイルではありません。それらとは違いますが、人間には絶対に必要な文化意識や、生活の満足感のような気がします。* * *とにかく、技術者を尊重し、その技術力を大切にする姿勢も、他企業とは大きく違っていた気がします。言ってみれば、大昔からある、日本人的な、日本人の意識や社風が、もっともよくわかる企業のようにも感じます。時に、革新的な製品を生んだり、大胆な行動をするソニーですが、これも理想が高いこそでしょう。日本人気質は本来、慎重で、命知らずではありませんが、時に、革新的であり、大海を渡る冒険者でもあるとも感じています。「世界のソニー」となった今、ソニーのこれから先の道が、明るい道なのか、いばらの道なのか…。でも、崇高な理想を捨てない限り、この日本的な企業は、道が途絶えることはないだろうと感じています。何より、文化のトップランナーたち…、先端技術を求める者たち…、最高のエンターテイメントを求める者たち…が、世界に存在しているうちは、「とりあえずソニー…」はなくならないでしょう。私も、人生の中で…、ビジネスで…、どのくらいソニーにお金を落としたかを考えると、少し恐ろしくなります。私は、ソニーと生きてきたのか…?◇昭和は「競争」私の「ジルバップ」は、あと何年、働き続けてくれるのでしょう…。まさか、彼と競争になるとは、思ってもいませんでした。実は、わが家のサンヨーの洗濯機も、ジルバップの年齢よりも若干、若いだけで、30歳は越えているでしょう。彼も、頑丈そのもの、今の時代にないサービス精神いっぱいです。すご過ぎです。* * *昭和の時代は、学校でも、仕事場でも、大量の人間がいました。私が小学校一年生の時は、ひとクラス60人程度、いち学年は18クラスでした。校庭もいくつあったやら…。校舎も知らない場所ばかり…。校長先生の顔は、遠すぎて、よく覚えていません。大量の人間がいるということは、ライバルがたくさんいて、同志もたくさんいました。まさに、昭和は「競争の時代」でした。平成の時代は、なんとなく競争もしなくなった時代に感じなくもありませんでした。「助け合い」、「守りあい」、「落伍者へのいたわり」は、もちろん大切な姿勢です。でも、「競争」は、ある意味、さまざまな人間が「共存」できるかたちでもある気がします。「昭和生まれっぽい発言」なのかどうかは、わかりませんが、ライバルの存在や、崇高な理想は、人間を成長させることにつながるような気がしてなりません。トイレに必要な明かりは、40ワットで十分なのかもしれませんが、ここに100ワットの明るさがあれば、何かまた、別の世界が拡がるのかもしれません。私は、トイレの電球が100ワットであっても、悪い気はしません。あなたの心にも、十分すぎる明かりを、今だからこそ、灯してください。* * *コラム「昭和生まれっぽい発言しろ(2)+オート三輪のお話しにつづく2020.5.31 天乃みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.* * *★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット

    • 29May
      • 麒麟(18)命を使いきるの画像

        麒麟(18)命を使いきる

        NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。明智光秀と斎藤義龍の別れ。織田信長暗殺計画。足利義輝の黄金の太刀。明智家の話しをしよう。伊藤英明さん・向井理さん。麒麟(18)命を使いきる前回コラム「麒麟(17)人間の値打ち・希望と失望」では、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第十八回「越前へ」に関連し、明智家の希望と、織田家の失望のこと、台詞の中にあった「人間の値打ち」などについて書きました。今回のコラムは、「麒麟がくる」の第十九回「信長を暗殺せよ」に関連し、信長の暗殺計画、光秀と義龍の別れなどについて書いてみたいと思います。◇まさかの「ナレ死」さて、今回の大河ドラマでは、池端俊策氏のほか、何人かの脚本家がいて、どうも放送回によって、担当が分けられているのかもしれません。何か、放送回によって、違う雰囲気が漂います。第十九回「信長を暗殺せよ」は、史実がはっきり判明していない部分が多いこともあり、ドラマとして、かなり創作部分がありそうです。でも、それもドラマのいいところ…。まさか、光秀と義龍が面会するなど、史実にあるはずがないと思います。でも、今回の大河ドラマの場合は、二人が最後に、道三の話しをし、それぞれの人生観を語るようなシーンは、ぜひ見たいシーンです。とはいえ、こんなに早く、伊藤英明さんが演じる斎藤義龍が、ドラマから退場するとは…。それも、「ナレ死(死去の映像シーンがなく、語りのナレーションのみで死去を伝えること)」とは…、個人的には非常に残念です。私は、ドラマ当初より、この二人の相違性や相似性の描き方を注目していたので、最後は、少しあっさり…。やっと、逆上気味ではなく、落ち着いた、伊藤英明さんの凛々しい表情が見られたと思ったら、一回分の放送で見られなくなるとは…。ともあれ、二人で最後に、道三のことを振りかえって語り合い、最後の別れのシーンがあったのは、うれしかったですね。* * *ドラマの中で、義龍は光秀に問います。「お主、いったい何がしたいのだ…」。「麒麟がくる」をテレビで見ていた、世のお父さん、お母さん…、ドキッとされた方も多いはず…。光秀は、道三の言葉「大きな国をつくれ」の話しを始めます。義龍の問いに対する答えのようで、答えでないような、返答にも感じます。この時の光秀に、「大きな国」はあまりにも壮大な夢ですね。でも、光秀は、道三のこの言葉を、どうしても忘れることができないようです。ドラマの中の義龍にも、道三のこの言葉が、ずしりと胸に刺さったようです。ドラマの中の、道三の最期の言葉「勝ったのは、道三じゃ」を思い返したのかもしれませんね。もはや、義龍には、父親の道三に反抗する暇などありませんでしたね。自国の美濃国のことで、手いっぱいの様子です。義龍は、道三と光秀を、同時に手離したことを、やっと身にしみて感じたのでしょうか…。この面会の二年後に病死…、むごい「ナレ死」というNHKの報復がまっていましたね。◇義龍の死義龍は、一応、病死となっていますが、かなり怪しいものです。奇病や難病ともいわれていますが、辞世の句もかなり怪しい内容です。それに、病気とはいえ、30歳代半ばで、妻も子も、ほぼ同時に死ぬことなど、そうそうあるでしょうか。* * *もともと、道三と義龍を戦いの構図にもっていったのは、美濃国の有力家臣たちの陰謀だと私は感じていますが、義龍の死は、おそらく凡庸な息子の龍興に代替わりさせるための、有力家臣たちの陰謀と考えられないこともないと思います。かえすがえすも、義龍のもとに光秀がいたなら…と感じてしまいますね。* * *私は個人的に、斎藤義龍は、戦国時代の下克上の名武将のひとりとして扱っていい武将だと感じています。道三、義龍の親子は、かなり有能な武将であったと思っています。義龍の跡を継ぐ龍興(たつおき)は、二人には及ばない、どこにでもいる普通の武将といってもいいような気もします。龍興は若年での後継で、美濃国には老練で一筋縄ではいかない有力家臣たちがたくさんいることを考えれば、いたしかたないかもしれません。大河ドラマの中では、義龍が「土岐、土岐」と名門源氏の姓にこだわっていましたが、義龍の死後、息子の龍興は、あっさり別の名門源氏の「一色(いっしき)」姓を手に入れます。「龍興、お前は本当は何色だ」と言ってやりたい、こざかしくも見えるような行為ですが、それだけ斎藤家家臣団をまとめるのに必死だったとも思われます。義龍の後継者の龍興も、いずれ、こうした有力家臣たちと連携する信長の陰謀で失脚します。龍興は、あのユースケ・サンタマリアさんが演じる朝倉義景のもとに逃れますが、信長軍に敗れ、亡くなります。いってみれば、斎藤家の美濃国の有力家臣たちは、斎藤道三、義龍、龍興の三代を、陰謀で葬ったともいえるような気がします。この時期の美濃国は、まさに下克上の巣窟(そうくつ)といっていい国だと、つくづく感じますね。* * *義龍が「ナレ死」したくらいですので、このあたりの出来事は、ひょっとしたら、ナレーション説明のみで終了なのかもしれません。残りの放送回数も微妙ですし…。斎藤龍興も、竹中半兵衛も、西美濃三人衆も…、登場しない?光秀は、このあたりの出来事は、それほどは関連していませんし…、一応今回、書いておきました。とはいえ、美濃国は光秀の故郷です。美濃国に戻った光秀は、何を叫ぶでしょう…。* * *ともあれ、義龍と光秀を、ドラマの45分間の中で、見事に上手く面会させたものです。義龍の台詞、「松永久秀を担ぎあげるとは、考えたな…」は、NHKの大河ドラマの制作陣へのメッセージにも聞こえました。実に、見事な展開だったと思います。* * *どうしても義龍という役柄は、ダークな印象がつきまとうので不利な役柄ですが、個人的には、伊藤英明さんの義龍は好きでした。義龍の死の瞬間に、彼が何を語り、道三や光秀が夢枕にあらわれたのか…、ドラマの中で見てみたかった気がします。ドラマの中で、くしくも、道三と義龍は、光秀に同じ別れの言葉を言いましたね。「さらば」。そう言って、最後に義龍は笑みを見せるのです。大河ドラマの中で、逆上した表情ばかりの伊藤英明さんの義龍でしたが、最後は、やわらかな、ほほ笑みでしたね。名作映画「さらば友よ」のアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの姿を、長谷川博己さんと伊藤英明さんに、少しだけ投影した思いです。◇信長暗殺計画さて、第十九回の内容は、義龍による「信長暗殺計画」が中心になっていましたね。ドラマでは、光秀と松永久秀のチカラで、暗殺が阻止されたような内容になっていました。史実としては、信長暗殺計画の真偽ははっきりしていませんが、銃での狙撃やら、信長が乗る船への侵入など結構たくさんあります。義龍による信長暗殺計画も、たくさんあったと思われますが、すべて失敗に終わったということですね。だからこそ信長は、「本能寺の変」まで生き残っていたのです。当然のことながら、こうした暗殺未遂話しは、信長側の文献にしか残っていない、信長が英雄扱いの書き方です。こうした暗殺計画は、未遂であれば、信長側に有利にはたらく話しですし、すぐに戦争にむかってもいい話しですが、どうも、よくわかりません。とはいえ、信長の命を狙う敵は山ほどいて、暗殺未遂など、数えきれないほどあったのかもしれませんね。「本能寺の変」まで、信長の命があったことのほうが奇跡に近いのかもしれません。あるいは、信長の暗殺への備えが、いかに堅固であったかということなのかもしれません。さすが悪運いっぱい、恐怖心植え付け屋の「大魔王」です。逆にいえば、光秀の「本能寺襲撃計画」が、いかに優れていたのか…、あるいは、複数の人物による、いかに巧妙な大謀略だったのかが、よくわかります。* * *ドラマの中で、信長は、自身の暗殺を防いだのが、光秀と久秀と知ることになるのでしょうか…?ドラマでの扱いも、ちょっと気がかり…。◇無理なんだい第十九回では、松永久秀のもとに信長がやってきて、国の交換を申し出たという話しがありました。もちろん、まんざら冗談ではありません。信長は、不可能といわれたことに、次々に向かっていく人間なのです。後世の人間が聞いたら、聞こえはいいですが、当時の家臣たちや周囲の人間には、たまったものではありませんね…。* * *久秀は、いずれ、信長を政治利用しようとしますが、あっという間に、立場は逆転し、信長から久秀へ無理難題が山のようにやってきます。今回の国交換の話しは、まったく冗談なんかではないのです。松永久秀は、いずれ、信長にたいへんに苦労させられますね。「おっさんず苦難」です。◇黄金の太刀第十九回では、ドラマ冒頭のほうで、三好長慶が、向井理さんが演じる足利義輝に、黄金色の太刀を差し出しましたね。そうか、剣豪の義輝将軍は、最後にこの太刀を使うのか…?織田信長や豊臣秀吉が、千利休を使って、茶器や茶釜の贈答で政治を動かしていたことは、よく知られていますね。それよりも、はるかに古い時代から、将軍と各武将間、各武将間の政治的な贈答品として、名刀が多く使われていました。信長と秀吉は、茶器と名刀を、相手によって、意味合いによって、上手に使い分けていましたね。信長は、上杉謙信に、今も残る「金屏風(きんびょうぶ)」を贈りますが、屏風絵の中に謙信の姿を描かせるなど、なんとも心にくい細かい気配りをする人物です。謙信が機嫌を良くしたのは、間違いないと思います。私は、信長の「おもてなし」の思想と、光秀の「おもてなし」の思想は、基本的にまったく正反対であったのではと感じています。今の新型コロナ問題で、ワクチンや治療薬がある程度 確立し、終息が見えたときには、世界中で旅行の大ブームが起きるのかもしれません。その時に、日本の観光業界や旅館業界は、外国人にどのような「おもてなし」をするのでしょう…?信長流、光秀流、はたまた秀吉流…、正解はないような気もしますが、そんな時期が早く来ることを願っています。* * *さて、武将の贈答品の話しに戻ります。ドラマの中に登場した三好長慶の家にも、歴史的名刀がごっそり…。なにしろ、三好氏は、美濃や尾張、駿河などの田舎大名ではありません。京都や奈良をおさえ、古くからの源氏勢力をおさえこんだ一族です。お宝もお金も、ごっそりです。当時は、もちろん将軍家への贈答に、名刀がたくさん使われています。ドラマの中に登場した黄金の名刀が、どの名刀なのかは わかりませんが、この黄金色から想像するに、これこそドラマの中で、将軍義輝の最後の戦いで使用されるものではないかと想像させます。この黄金の名刀なら、向井理さんにも、似合いそう…。向井理さんの衝撃の大立ち回りを、大いに期待しています。黄金の名刀を目にして、急に大きな期待がわいてきました。私は不覚にも、NHKの「贈り物攻撃」にやられてしまった…。* * *この第十九回では、将軍義輝が、近江国の朽木谷(くつきだに)から京都に戻るところから描かれましたので、そこまでの京都周辺の大騒動は削除ということですね。たしかに、光秀とは直接関係ありませんので、いいのかもしれません。朝倉義景は、義輝の要請に応じず、京に向かいませんが、当時であれば、ベテラン武将の判断としては、決して間違いではないと思います。信長や義龍など、出向いた武将たちには、それなりの切実な理由が、それぞれにあったのです。それに、朝廷(天皇家)や三好長慶に政治権力が集中し、敵対関係にあったとはいえ、義輝は足利家の名将軍だという威光がまだ残っていたのだと思います。でも、ドラマの中では、義輝に期待していた信長が、「今の世は、どこか、おかしい」と、義輝を見限るシーンが出てきましたね。ドラマの中の向井さんは、終始しょんぼり…。でも、向井義輝が、このまま朽ちていくはずがありません。最後の命の炎を燃やすはず…。* * *さて、朝倉義景の台詞に、「公方様(義輝将軍)は、たいそう鷹狩りがお好きなようなのでな…」とありましたね。もう少し後の回のコラムで、この台詞に関連した、あるものを、コラム内でご紹介するつもりでおります。ドラマの中で、義輝の最期までは、あと数年ですが、そこまでの物語を、「麒麟がくる」でどの程度まで描くのかわかりませんが、その展開を見て、あらためて、その物語をコラムで書きたいと思います。立派な振る舞いのイケメン義輝将軍なのに、なんとも悲劇の名将軍です。吉田鋼太郎さん演じる松永久秀…、この「おっさん」の奴め…、このウソつきタヌキ親父!ドラマの中では、すでに着々と計画を練っていそう…。ともあれ、斎藤義龍の「ナレ死」は、まだ我慢できますが、向井義輝将軍の「ナレ死」は許せない気がします。向井理さんや、谷原章介さんには、伝説に残るような、華々しい散り際をつくってほしいものです。◇明智家の話しをしようそれにしても、第十九回には、名立たる名武将たちがたくさん登場してきましたが、まともに寿命をまっとうできた人物は、たった一人だけです。戦国時代の武将になったからには、寿命をまっとうし、布団の上で死ねるなど、本当に「夢のまた夢」でしたね。名門の武家であろうと、そうでなかろうと、現代人からみると、武家に生まれるとは、切ない人生にも感じます。そこに嫁いだ女性たちも、さぞ、たいへんだったことでしょう。第十九回では、光秀と熙子のあいだに子供ができますが、ずっと後、なんとも悲しい家族の結末が待っています。明智光秀の家族のことは、江戸時代の松尾芭蕉さんが熙子を詠った句「月さびよ、明智が妻の咄せむ(訳:さみしい月あかりのもと、光秀の妻の熙子さんのことを語り合いましょう)」のごとく、またあらためて、コラムで書きたいと思います。今回の大河ドラマでは、熙子が自らの髪を売って光秀を助けるお話しが、きっとどこかで描かれると思いますので、その際に…。きっと、大河は、皆さんを泣かせてくれるでしょう…、たぶん。* * *それにしても、この大河ドラマを見ていると、光秀は、なんと慈愛に満ちた女性たちに囲まれていることか…。史実も、それに近いのかもしれませんね。駒ちゃんは、今のところ架空の人物なのかもしれませんが、このような女性たちに囲まれていたら、「本能寺の変」を起こす光秀という人間がつくられていくのも、うなづける気がします。* * *私の個人的な考えですが、徳川家康は、当初から明智光秀や一族のことを、かなり理解していたように感じています。いよいよ次回の放送から、徳川家康役の最終俳優が登場してきそうですが、光秀と家康の関係がどのように描かれていくのでしょう…。江戸時代は、世間の一般の人々も含めて、当初の明智家に対する悪評が、徐々に変わっていきます。前述の松尾芭蕉の句は、最たる例です。大河ドラマのこの時期の明智光秀一家に、ほぼ寿命をまっとうできた人物はいません。おそらく…。芭蕉の言うとおり、後世の人々が、この家族の話しをしてあげることこそが、供養につながるのだろうと思います。◇命を使いきるさて、武将に限らず、当時の人たちの寿命の話しに戻りたいと思います。今の日本人であれば、自身が、戦国武将のように暗殺されるなど、まず想像だにしませんね。でも、戦国時代は、身分にかかわらず、「死」が自分のすぐ近くにあったことでしょう。ワクチンや治療薬など、あるはずもありません。おそらく、大半の日本人は、30歳代から50歳代までの間には亡くなったと思われます。「生きる」ことの意味あいも覚悟も、現代人とは大きく異なっていたことでしょう。そして、おのずと、死後の魂のことも重く考えていたでしょう。* * *よく時代劇の中では、「命を大事に使え」、「命を上手に使え」という言葉表現がされることがあります。自身にとって、命は「使うもの」。この場合、「命」は、「生きている期間」、「自身の命の役目」という意味が、非常に大きい気がします。「命の重さ」と「命の大切さ」は、現代人とは、大きく違っていたでしょうね。多くの人間たちは、その短い期間を、生死をかけて、その役目を果たそうと、全力で過ごしていたのかもしれません。「死」を避けたり、引き延ばしたりすることが、困難な時代の思想が、しっかりあったように感じます。* * *今回の大河ドラマは、戦国時代を描くということもあり、俳優さんの登場と退場が目まぐるしいですね。本当は、人間の退場は、ナレーションで片づけられるようなものでもありません。ドラマとはいえ、中には、忘れ去りたくない登場人物もたくさんいますね。最期を描かないことで、それが、かなうのなら、それもまた良し…。「ナレ死」は、そうそう目くじらを立てることでもない気もしますね。大切なのは、「命を大事に、十分に使いきった」のかどうか…。現代人も、たくさんの危機を必死に乗り越え、命を大事に使いきりたいものです。* * *コラム「麒麟(19)桶狭間は人間の狭間①・心のスキをつけ」『麒麟(19)桶狭間は人間の狭間① 「心のスキをつけ」』NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。麒麟(19…ameblo.jpにつづく。2020.5.29 天乃 みそ汁Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.* * *★プロや一般の、音楽家・イラストレーター・画家・書家などの方々、どうぞお願いいたします。    麒麟がくるケロケロネット