雨のうた。織田信長、ゆず、斉藤和義、TUBE、和楽器バンド、今川義元、武田信玄、桶狭間の戦い、戦国時代、武将、梅雨、J-POP、歌謡曲、演歌、フォーク、ニューミュージック、昭和歌謡、雨過天晴、愛知県、名古屋市、雨ソング。

トップページ・プロフィール

 

 

歴音54.狭間の中で、雨 過ぎて(雨うた.4)

今回のコラムは、連載「雨うた」の第4回になります。

今回と次回では、映画やテレビドラマでは描かれない、もちろん教科書にも載っていない、織田信長のお話しを書きますので、日本史に興味のない方も、どうぞ読んでみて!

企業経営者の方も、ぜひ読んでね!

* * *

梅雨の時期にあわせた、今回の連載「雨うた」(全6回)では、日本の、Jポップ、ニューミュージック、フォーク、歌謡曲、演歌の中から、新旧の150曲を選びました。

楽曲タイトルに、「雨」などにつながる言葉が入っていたり、歌詞の中で「雨」が印象的に登場する楽曲です。

今回の6回の連載では、「梅雨(つゆ)」にからんだお話しと、漢字「雨」の入った四字熟語もご紹介しています。

平成生まれ以降の世代は、四字熟語を あまり使いませんが、どうぞ使ってみて!

(追伸)
豪雨・台風・地震等で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復興をお祈り申し上げます。


◇雨過天晴

「雨過天晴(うか てんせい)」の意味… 雨のあとに晴れが訪れる。
転じて、どんなに悪い状況であっても、いずれは好転するという意味に…。

やまない雨はない!
そろそろ、雨が上がるんじゃない…!
あなたにも、みんなにも、明るい日差しが…!

でも、雨は、晴れの後に、またやって来る。
備えが肝心!
”うかうか”していたら、ずぶ濡れ!
天晴(立派に立身出世)するには、日ごろから、コツコツと!

あっ!そういえば、あの戦国武将も… 雨の後に、見事に天晴!


◇梅雨将軍

作家・新田次郎の小説に「梅雨将軍 信長」というものがあります。
この小説の「梅雨将軍 信長」とは、450年ほど前の戦国武将の織田信長のことです。

戦国時代に大きな戦果をあげた武将たちの大半は、季節や地形、天候などの自然現象を、まさに戦力として巧みに利用していました。
梅雨の季節の雨を、彼ほど上手に利用した武将は、他にいないと思います。

信長の「雨」「水」戦法は、秀吉、家康にも受け継がれましたが、大量の水に…、自然の巨大なチカラに…、人間など あがなえるはずもないことを証明していますね。

どの武将でも「雨」や「水」を操れるということはありません。
「天の恵み」を、しっかり受け止めた者だけが、天下人になりました。

関東で、家康が始めた「水」のコントロール事業は、実は 今の東京、関東でも、しっかり続けられていますね。

* * *

さて、ここで言う「梅雨将軍」ですが、この「梅雨」とは、季節の「梅雨(つゆ)」と、その雨のことです。

実は、織田信長は、歴史上では、「将軍」には なっていません。
というよりも、「将軍」になれない立場でした。

戦国時代あたりの時代になると、「将軍(征夷大将軍)」になれる者は、源氏の血筋をひく、多くの源氏系の武家全体のトップである「源氏長者(げんじちょうじゃ)」にしか、その資格がありません。

織田家は平氏の末裔であると、織田家自身が語っていましたので、おのずと将軍にはなれません。
実は、織田家は、平氏とは関係のない、福井県出身の小さな豪族からの成り上がり一族です。
福井から名古屋に集団移住したことで、かろうじて滅亡を免れ、戦国時代に成り上がりました。

平氏では、将軍にはなれません。
ただ、信長は、将軍の上司である「右大臣(うだいじん)」をめざし、それを実現させます。

日本では古来より、「ひな壇飾り」にあるように、日本の武力の頂点が「右大臣」で、政治の頂点が「左大臣」となって、天皇に仕えるかたちですので、信長は右大臣となり「右府様(うふさま)」と周囲から呼ばれていました。

武士の世界では、公式・正式な場所で、相手の本名や「いみ名」をクチにしたら、即、斬り殺されてしまうようなことです。
相手を官職名で呼ぶのが、絶対的なルールです。
現代のテレビの歴史ドラマでは、それでは わからないので変更…。

信長が生きている間は、「右府様」は ただひとり…日本の武人のトップである信長のことです。
地位からいえば、「右府様」は「将軍」よりも格上です。

当時の信長の「右大臣」とは、正確には「従三位権大納言 兼 右近衛大将」といいます。
これは、同時に存在した室町幕府の「足利将軍」と、一応 同格の扱いではありましたが、日本の実際の覇者である、いわゆる「天下人」とは信長を意味しています。

「将軍…そんなもんは、知らんに!いらんに! 天皇… だに?」(信長)

* * *

信長は「右大臣」「国王」をめざし、秀吉は「関白」「太閤」をめざし、家康は「将軍」「右大臣」「太政大臣」「大権現(神様)」を目指しました。
日本史上の最初の「太閤」は、大河ドラマのあの藤原道長。

信長・秀吉・家康は、三者三様のやり方で、「天下人」になりましたね。

ですから、「梅雨将軍 信長」という表現は、むしろ「梅雨右大臣 信長」のほうが近いのかもしれません。

ですが、小説の中で「梅雨将軍」と たとえられたのには、理由があります。


◇梅雨の季節の大戦争

織田信長には、人生を左右した戦(いくさ)が、いくつか ありましたが、何といっても、最大にして決定的な戦が、永禄3年5月19日(西暦1560年 6月12日)の「桶狭間(おけはざま)の戦い」です。

信長は、この戦いに、人生や一族のすべてをかけ、勝利しました。
もし負けていたら、一族の滅亡となったでしょう。
そして、日本の歴史が、大きく違っていたはずです。

ひとつの「豪雨」が、日本の歴史を左右したのです。

* * *

駿河国(静岡県)の今川義元の巨大軍団が、天下の覇者になるべく、京都にのぼる途中の愛知県東部で起きた、織田軍と今川軍の「世紀の一大決戦」が「桶狭間の戦い」です。

今川軍の大将、今川義元(いまがわ よしもと)は、織田信長を軽く踏みつぶして、先に進軍する考えだったでしょうから、「世紀の一大決戦」になるとは、完全に思ってはいませんでした。

織田家が、今川氏の配下に入ることは、それまでの状況から あり得ません。
当時の家康は、今川軍のいち家臣でした。

世の中全体も、今川方(いまがわがた・今川氏の側)の勝利を確信しており、今川軍に中途採用してほしい者たちが、続々と集まってきていました。
単なる「食い扶持(くいぶち)」かせぎの者…、武士として立身出世を願う者…、仕方なく兵力の一部にされた者…、戦闘意欲や戦闘能力に関係なく、雑多な人間たちが、今川軍に大量に集まってきていました。

当時は、戦争見物の一般庶民も多く、織田方の負けっぷりを見るために、多くの人が集まってこようとしており、秀吉もそのひとりでした。
実は、後に織田軍は、ある目的のために、事前に戦争見物人たちを街道からすべて排除しました。


◇今川義元は、雨で倒せる!

信長は、ほぼ勝ち目のない、この戦闘のために、おそらくは一年以上の年月をかけて準備しただろうと思います。

今川家や今川軍の内部に潜む弱点を、徹底的に分析したのです。

主な弱点(分析内容)だけを書きます。

◎大活躍した今川軍の勇猛な兵士たちが歳を重ね、世代交代の時期に入り、世代間で考え方の争いが起きている。

◎今川軍では、世代交代の中で、戦闘能力や知識が受け継がれていない。若い世代は、激しい戦争での実践経験が、あまりにも少ない。古い時代の武器や戦法をまだ採用している。

◎今川人気で、食いぶち稼ぎで集まってきた戦闘経験のない未熟な兵士を大量にかかえている。戦闘訓練など、ろくに していない。

◎かつての大軍師の雪斎(せっさい)が亡くなり、暗躍・陰謀に長けた軍師(作戦本部長)がいない。

◎軍団をまとめるチカラを持つ家臣がおらず、家臣同士の対立や、ライバル関係が激しい。

◎今川義元は、古くからの駿河勢(静岡)の者たちに甘く、家康ら三河国(愛知県東部)などの新参の家臣たちに冷たく、「死んでこい」と言って、彼らを戦場の最前線に次々に送り込む。

◎今川義元は、痔が悪化し、馬に乗れない。それに、酒宴が好き。貴族意識が強く、気ぐらいが高いため、身分や教養の低い者に冷たく、周囲に反感を持つ者が多い。つまり、スパイを送り込みやすい。

◎遠い駿河の地から、ろくに休ませることなく、兵士を連日 歩かせる、過酷な軍団運営。料理人、芸人、遊女などを宿泊地に連れてこない。
通過する現地に、負担させている。

◎今川義元は、家康の養父という立場で、家康に疑念を持っていない。義元は、三河武士の特殊性や精神性を理解できていない。

◎今川義元は、家康の養父という立場なので、表だっての家康の裏切りは世間的に許されないが、母子の愛情をはぎとられた家康に、実母を会わせることができれば、家康を味方にでき、家康が織田方になびけば、三河勢力は、すべて織田方につく。

主な内容だけを列挙しましたが、今現代の企業経営者の皆さま…、自分の会社をどうぞ振り返ってみて!

* * *

さて、ここでは書きませんが、信長は、前述の分析内容のそれぞれに、長い期間をかけ、細かな対応策を実行しました。
それには、陰謀が得意の三河勢の武士たちも協力しました。

「これだけ多くの弱点を持っているのであれば、巨大軍団とはいえ、バラバラにするのは、たやすい…」(信長)

強大な敵の大組織と相対するには、まずは巨大組織を内部からバラバラにすべし…、それは、戦国時代でも、現代でも、ビジネスでも、戦争でも、スポーツでも、同じことですね。
内部崩壊した組織ほど、もろいものは ありません。
今現代の企業ビジネス競争や、外交でも、盛んに仕掛けられていますね。

信長は、戦闘による大決戦の前に、強大な今川軍をバラバラにし、ボロボロの状態にしておいたたのです。

あろうことか、今川義元は、自軍がボロボロの状態になっていることに、まったく気がついていませんでした。

「海道一の弓取り(かいどういちの ゆみとり)」と称された名門武家の今川氏は、信長によって、戦う前に崩壊していたのです。

* * *

入念な調査と分析、人間の心理をふまえた対策…、信長の数々の戦果の中でも、最大級の戦いであり、ある意味、人間性が変化していく前の信長の姿が見える戦(いくさ)でした。
すさまじい信長の頭脳です!

こうした戦術の中に、「梅雨の季節に起こる、短時間の局所的な豪雨」が組み込まれていたのです。

今川は、雨で倒せる!


◇仏を捨てろ!心を捨てろ!自分を捨てろ!

弱小軍団が、強大な大軍団と戦う、まず第一の戦法が「ゲリラ戦」です。

信長は、当時、ゲリラ戦のエキスパートの近江国(滋賀県)の六角氏からアドバイザーを呼び寄せ、特別ゲリラ部隊を織田軍の中に組織し、極秘訓練を続けさせます。

六角氏のアドバイザーやゲリラ部隊の一部は、桶狭間にも同行しました。
今、ウクライナ軍には、米英などの軍のアドバイザーが入っていますが、同じことですね。
もし アドバイザーがウクライナにいなかったら、今頃は…。

* * *

信長は、今現代でいえば、超人的な運動神経や体力の若者を、身分を問わず、出身地を問わず、かき集め、人間の殺害に ちゅうちょしない精神と戦い方を叩き込んでいきました。

後に「桶狭間での織田軍はここまで非道なのか」と言われるようになる、特殊装備の「特別攻撃隊」です。

仏を捨てろ! 愛を捨てろ! 情を捨てろ! 心を捨てろ! 自分を捨てろ!

問答無用の殺りくを行うことができる、非情の「特別攻撃隊」は、その後、信長を守る親衛隊や、無類の強さの戦国武将になっていきました。

(81)斉藤和義
なつかしの昨日は、今、雨の中に…
♪やさしくなりたい(2011・平成23)

 


◇衣装も、演出も、人生も、超ド派手!

信長の「特別攻撃隊」の極秘訓練の情報を入手した武田信玄は、今川軍の世代交代時期の寄せ集め軍団では、戦術に長けた信長には勝てないと予想していたふしがあります。
武田軍は、この時に、両陣営に まったく関与しません。
ですが、相当な情報収集活動をしていました。

* * *

「桶狭間の戦い」の時に、武田信玄は39歳、26歳の織田信長について、こんな主旨の話を残しています。

「尾張(愛知県)の若造の信長は、派手な衣装で、派手な音楽で、妙な踊りをするそうだな!俺には、理解できん!」。

信長は、家臣たちに、ユニークで愛のある「あだ名」をつける名人でしたが、配下の若者たちを、酒宴で自由に大盛り上がりさせ、奥の席で静かに笑いながら、それを眺めていて、最後の最後に宴会場の真ん中に登場して、ド派手に「決める」という人物であったようです。

戦国武将史上、普段でも、儀式でも、もっともドラマチックでド派手な演出を行ったのが、信長でしたね。
あっと驚く外観の城、城のライトアップ、演説用オープンテラス、鉄でおおわれた軍艦、新兵器の数々、今現代に残る大相撲、数々の式典での劇的演出…。

人生の最後までもが、超ド派手!

* * *

日本史の中で、信長ほど、ド派手で、激動と波乱の生涯を送った者はいない気がします。
星の数ほど 人間の人生がありましたが、こんな壮絶な人生が、実際に起こるなど想像もできません。
これからの未来の日本で、彼ほどの壮絶な人生を送る者が、あるわれるのかどうか…。

桶狭間での壮絶な豪雨は、信長だからこそ、引き寄せたのかもしれませんね。

* * *

ちなみに、下記の「和楽器バンド」の男性メンバーの黒い衣装は、個人的に、史料に残る「桶狭間の戦い」の「特別攻撃隊」の衣装をイメージさせますね。
戦場で、この妙な軽装、半裸の超肉体、ド派手な武器… 逆に怖すぎる!
映画の ランボーか!ブルース・リーか!

信長には、「特別攻撃隊」自身ともいえる「悪魔」たちの「死に場所」の衣装を、ド派手に決めてやろうという意識もあったのかもしれません。

当時の多くの男たちが、信長に心酔していく理由がわかるような気もします。

身分もない、由緒ある出生でもない、金もない、このままでは未来もない…、あるのは、旺盛な血気と野心だけのような、死をも恐れない 命知らずの若者たちが集まった 織田の軍団でした。
このパワーは、当時の他の多くの軍団には、ないものでしたね。

武田信玄が、生涯の最後まで、単独の武田軍として、織田軍と戦おうとしなかった理由がわかる気がします。
信玄は、「生死」を超越した者と戦う恐ろしさを、上杉謙信とで、嫌というほど経験していましたね。
信玄は、目にしたことのない織田の「特別攻撃隊」を、白馬に乗った上杉謙信と、越後国(新潟県)の猛烈な騎馬隊に重ねていたのかもしれません。

織田の非情の「特別攻撃隊」の話は、次回コラムで書きます。

* * *

「若造の信長は、派手な衣装で、派手な音楽で、妙な踊りをするそうだな!俺には、理解できん!」。
信玄から見た、若い信長と家臣たちとは、このバンドのようなこと…?

(82)和楽器バンド
運命と宿命の狭間で、歴史上残すような足跡を…
標的未定だって、雨のちに 流れ星…
♪雨のち感情論(2017・平成29)

 


◇はじまりは、雨から…

信長は、梅雨の季節の、(西暦)1560年6月中旬あたりを戦闘の時期とさだめ、特定の時刻と場所で、「ゲリラ豪雨」を利用して、今川義元を討ち取ることを考えます。

「ゲリラ戦」といえば、「ゲリラ豪雨」!
でも、なぜ、そんな雨の多い、6月の梅雨の時期に…?

この時の信長の作戦計画は、「梅雨の雨」を起点として、練り上げられていきました。

(83)ASUKA(「チャゲ&飛鳥」のアスカ)
はじまりは いつも雨、星をよけて…
♪はじまりは いつも雨(1991・平成3)

 

織田信長が、「梅雨の雨」を、どのように使ったかは、次回「雨うた.5(最終回)」で書きます。


◇あの場所に、敵をおびき寄せろ!

冒頭写真に、田んぼの真ん中の一本道がありますね。

戦国時代の戦い方では、田んぼの中に一本道をあえて作り、そこに敵を誘導し一網打尽にしたり、多数の敵からの攻撃を防ぐということが盛んに行われています。

* * *

信長は、「桶狭間の戦い」のずっと後の「長篠の戦い」でも、武田軍の騎馬軍団を、深い「ぬかるみ」の田んぼ以外に向かえないようにし、あえて田んぼに誘導し、馬防柵で武田軍の足を止め、織田軍の軍旗や鉄砲隊の場所をグルグルと移動させます。

田んぼの中で、攻撃ポイントを定められなくなった武田の騎馬軍団は、右往左往し、そこに織田軍の鉄砲隊が一斉射撃を行いました。
これも馬という動物の弱点や、騎馬軍団の行動パターンの弱点をついたものでした。

信長は、武田の騎馬軍団が、せめて大将だけは生きて逃がすため、死を覚悟で、必ず 田んぼに突入してくることを わかっていました。
「その時、その状況で、その気にさせれば、武田の騎馬軍団は、不利だろうと、必ず 我々に向かって来る!」

信長は、大将である、武田信玄の息子の勝頼を倒すのは、別のもっと派手な機会と、大事な場所を考えていました。
まずは、天下無敵といわれた、武田の騎馬軍団を削減させ、軍団の中で、大将の信頼を失墜させること…。
騎馬軍団を失った武田軍など、もはや信長の敵ではありませんでしたね。
家康は、密かに… 欲しいな、武田信玄が残した すべて!

信長の得意技のひとつが、とにかく、準備した場所に、敵を おびき寄せて、逃げ場のないところを一網打尽にするという、それはそれは恐ろしいものでした。

* * *

今回の戦場である「桶狭間」に向かう際の、織田軍の前線基地でも、背後にいる別の今川軍の攻撃を防ぐために、冒頭写真のような、ぬかるみに囲まれた「一本道」を、特別な土木工事で早くから完成させ、背後にいる今川軍からの攻撃に備えました。
敵に攻めさせないのではなく、こちらの優位な場所に、敵をあえて攻めて来させ、そこを逆攻撃するのです。

この土木工事によって、桶狭間から離れた場所の基地にいた今川軍は、信長による 桶狭間の今川軍本体への進軍を阻止することができませんでした。

* * *

実は、信長は、戦闘部隊とは別に、土木工事の専門部隊を、軍団の中に すでに作っていました。
さまざまな、新しい土木工法を生み出しています。

今現代でこそ、各国の軍隊の中に、土木工事を行える部隊や、土木工事のノウハウがありますが、それまでの戦国時代にはなかった専門部隊です。

「桶狭間の戦い」のその時…
今川義元からしたら、こんな雨の中、目の前に、なぜ織田軍がいる!?

まさに、土木工事技術のなせる業でした。
詳しくは、次回コラムで…。


◇雨対策は万全に!

信長は、他の武将に先駆けて、規模の大きな(火縄銃の)鉄砲隊を組織したことでも知られていますが、桶狭間での雨の中での戦闘にそなえて、雨の中でも火縄銃を使えるように工夫し、完全防水仕様の鉄砲隊を準備しました。

今川からしたら、大雨の中で、なぜ大量の鉄砲(火縄銃)の銃声が聞こえるのだ…!?

実際、今川義元が討ちとられた現場では、猛烈な豪雨と雷の轟音の中で、どこから発砲しているのか わかわらないようなかたちで、猛烈な銃声音が鳴り響きます。
つまり、銃弾を敵にあてるのが目的ではありません。

動揺と混乱、地獄絵図を作り出すための演出であった可能性が高いと、私は思います。

どこから撃ってくるのか、どこに逃げていいのか わからないまま、右往左往する、大混乱の今川軍兵士たちでしたが、逃げ道の出口は、すべて織田軍が封鎖してありました。

その大混乱の今川軍の本体陣地の中に、前述の織田軍の、問答無用・非情の「特別攻撃隊」が、猛烈な勢いで、丘の上の四方八方から突撃してきたのです。

今川からしたら、知らない土地の、山や谷の起伏の多い場所で、どうしたらいい…!?

味方の声は聞こえない!聞こえるのは、豪雨のたたきつける音、雷鳴、銃声、怒号、奇声、悲鳴… まさに地獄絵図とは、この戦(いくさ)の光景!

* * *

信長の「桶狭間の戦い」のクライマックスのお話しや、信長が「雨」をどのように使ったかは、次回の「雨うた.5(最終回)」で書きます。

* * *

「桶狭間の戦い」での勝利直後の織田軍の兵士たちは、こんな歌詞のような思いだったでしょうか…。

あっぱれ!織田軍!


(84)岡村孝子
2002年(平成14)の「あみん」の復活歌唱で…

…たどり着いたら、今日という奇跡に出逢えた。
雨上がりのざわめき、奏でるメロディは…
♪天晴れな青空(あっぱれなあおぞら)(2002・平成14)

 


◇雨うた

ここからは、今回も、選んだ135曲の「雨うた」の中から…。

(85)絢香
にじいろの雨、降りそそげば、空は高鳴る…
♪にじいろ(2014・平成26)

 

(86)TUBE(チューブ)
消しちゃいたいほど 雨の想い出も、いつかは虹になるよ…
あなたはあなたのままで、明日は晴れるから…
♪あなたは あなたのままでいてね(2005・平成17)

 

(87)TUBE(チューブ)
アフター・ザ・レイン、人は失恋すると、苦しいっていうけど…
♪アフター・ザ・レイン(1988・昭和63)

 

(88)TUBE(チューブ)
サヨナラの雨の中、消えゆく恋に何もできず…
♪雨の日の過ごし方(1995・平成7)

 

(89)スピッツ
雨の音だけが、部屋をうめていく…
♪さらさら(2013・平成25)

 

(90)米米CLUB
あきらめという名の傘じゃ、雨はしのげない…
♪浪漫飛行(1990・平成2)

 

(91)山根康広
冷たい雨の中、傘もささずに…
♪ゲット・アロング・トゥゲザー(1993・平成5)

 

(92)GLAY(グレイ)
(作詞作曲:YOSHIKI)
激しい雨のあとで笑ってよ、濡れた心が引き裂かれる前に…
♪レイン(1994・平成6)

 

(93)米津玄師
雨が降りやむまでは、帰れない。今でも あなたは…
♪LEMON(レモン)(2018・平成30)

 

(94)シド
雨は、どうして僕を選ぶの…
♪レイン(2010・平成22)

 

(95)佐野元春
街のため息も 色あせて、ひとりぼっち 雨の中…
♪アンジェリーナ(1980・昭和55)

 

(96)柳ジョージ&レイニーウッド
頬ぬらす、そぼ降る雨の優しさに…
♪雨に泣いてる(1978・昭和53)

 

(97)八代亜紀
雨 雨 降れ 降れ、もっと降れ!私のいい人 連れてこい…
♪雨の慕情(1980・昭和55)

 

(98)細川たかし
最初は、ちあきなおみさんの1976年(昭和51)のB面曲でしたが、1983年(昭和58)に細川たかしさんが歌って大ヒット!

夕暮れの雨が降る 矢切(やぎり)の渡し…
♪矢切りの渡し(1986・昭和58)

 

(99)藤山一郎&奈良光枝
今回の「雨うた」の連載で、もっとも古い楽曲です。
1945年(昭和20)の終戦から4年後の大ヒット曲!

雨にぬれてる焼け跡の、名もない花も、ふりあおぐ…
♪青い山脈(1949・昭和24)

 

(100)フランク永井
当時、東京・有楽町にあった百貨店「そごう」のキャンペーンソング!
これ以上のデパートソングは、それ以降、生まれていませんね!
今も、有楽町の駅前で雨が降っていないと、何か もの足りない… 昭和世代!

あなたを待てば、雨が降る。濡れて来ぬかと、気にかかる…
♪有楽町で逢いましょう(1957・昭和32)

 

(101)岡本真夜
降り出した雨に 急ぐ人たち、あふれてしまう涙、傘で隠した…
♪アローン(1996・平成8)

 

(102)エブリ・リトル・シング
冷たい雨は、優しく、まっすぐ、心に降りしきる…
♪冷たい雨(2009・平成21)

 

(103)aiko(アイコ)
瞳は雨、あがれば、笑顔に会える知らせ…
♪4月の雨(2013・平成25)

 

(104)スキマスイッチ
君の名前をもう一度、この空へ。雨待ち風、頬を なでてく…
♪雨待ち風(2005・平成17)

 

(105)竹原ピストル
雨宿りするくらいなら、晴れてる街に駆けていくさ…
♪フォーエバー・ヤング(2017・平成29)

 

(106)AKB48
ときには雨も降って、涙もあふれるけど…
♪365日の紙飛行機(2015・平成27)

 

(107)夏川りみ
(作詞:森山良子、作曲:BEGIN作曲)
ここは、夏川りみさんの2001年のカバー歌唱で…

晴れ渡る日も、雨の日も、浮かぶ あの笑顔…
♪涙そうそう(2001・平成13)

 


◇狭間の中で…

愛知県の、名古屋市・緑区と、豊明市にまたがる「桶狭間」という場所は、今はすっかり開発され、都市化していますが、戦いがあった460年ほど前は、低い標高の丘陵山間地で、そこに山の起伏があれば、谷があり、水がわき、小さな沼や池があり、川が流れていました。

丘をひとつ隔てたら、その先で何が起きているのか、非常にわかりにくい、山の「狭間(はざま)」の「くぼ地」が幾つもありました。

「桶狭間」の、この「桶(おけ)」とは、もともと、その湧き水の上に桶を浮かべると、くるくる回る、そんな土地を意味していたと何かで読んだ記憶があります。

まさに、戦国時代の桶狭間には、織田と今川の…、戦国時代と平和な時代の…、多くの武将が群雄割拠する国々の…、人間たちの陰謀渦巻く思惑の…、「生」と「死」の…、天国と地獄の… 多くの「狭間(はざま)」が、そこにあったのでしょう。

雨が、何かを洗い流したのか…
雨降って、地かたまったのか…

歴史の中で降った「雨」は、まさに天の意思…?

「雨過天晴」とは、人間のチカラでは、どうすることもできないチカラなのか…。

でも、信じていたい… あっぱれ!天晴(てんせい)!


(108)ゆず
涙の川も、海へと帰る。誰の心も、雨のち晴れるや…
♪雨のち晴レルヤ(2013・平成25)

 

「雨うた.5」につづく…

2024.7.13 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.