坂本龍一、YMO、イエロー・マジック・オーケストラ、こいのぼり、端午の節句、細野晴臣、高橋幸宏、テクノポップ、歌謡曲、洋楽、ロック、クラシック音楽。

 

歴音35.鯉は龍をめざす・前編
~坂本龍一の音楽~



今回は、昨年 書きましたコラムを加筆修正して掲載させていただきます。

気がついたら、今年も、5月5日の「端午の節句(たんごのせっく)」がやってきますね。
「菖蒲(しょうぶ)の節句」という古い呼称もあります。
近所で「こいのぼり」を見ることも多い季節ですね。

「端午の節句」にちなんで、「鯉(こい)」と「龍(りゅう)」のお話しを、前編・後編の二回で連載いたします。


◇この大空を…

新暦の、毎年5月5日は「こどもの日」ですね。
「端午の節句」の祝日です。

女児の3月3日の「桃の節句(上巳の節句)」「ひなまつり」に対して、5月5日は、男児の成長や健康を願って、お祝いする日ですね。
千数百年以上におよぶ両節句の行事や風習の歴史については、諸説あります。

男女の性別それぞれについては さておき、子供たちの健やかな成長を願う 親や社会の願いが、今の時代にも しっかり息づいていることは、うれしい限りです。

* * *

武芸や武道、武勇を重んじる思想を「尚武(しょうぶ)」といいますが、それをもじって、植物の「菖蒲(しょうぶ)」にちなんだ「菖蒲の節句」という別の呼称も、「端午の節句」にはあります。
日本人は、いつの時代もダジャレ好き…。

5月5日に、菖蒲湯につかったり、甲冑姿の「五月人形」や「兜飾り」、刀や弓と並んで、刀に見立てた菖蒲の葉を飾ったりもしますね。

菖蒲湯(しょうぶゆ)、菖蒲酒(あやめざけ)、菖蒲刀(あやめがたな)など、「勝負」にこだわる武士たちの願いもそこにありましたね。

* * *

男児だけではありませんが、性別を問わず、年齢を問わず、職業や立場を問わず、人生には勝負の機会はつきものです。

勝ち負けの結果はともかく、勝負ごとには、勇気を持って、誇りを抱いて、チカラ強く臨んでいきたいと、多くの人は思うのだろうと思います。
わざわざ負けに行くにも、勇気は必要ですね。

子供の頃に「こどもの日」に感じたもの…、わが子に託したもの…、託されたもの…、「こどもの日」は忘れかけていた何かを 思い出す日なのかもしれませんね。

さあ、大人たちも、広大な大空を、大きな鯉(こい)のように、まだまだ チカラ強く泳いでいかなくちゃ!


◇こいのぼり

「こいのぼり」の風習は、江戸時代の中期に生まれたという説があります。

源氏や平氏などの武士が誕生した平安時代の頃から、武家には「旗指物(はたさしもの)」があり、戦国時代の戦場では、家紋やキャッチコピー、好きな文字などを書き込んだ、軍旗の旗指物である「のぼり」を持参しましたね。

基本は布製の四角や長方形ですが、特徴ある立体構造物「馬印(うまじるし)」に変化させたものもあります。

旗指物である「のぼり」は、戦場ではその軍団がそこにいることを示すものですが、多くの数の「旗指物」を、戦場で戦術的に使用していました。

戦場では、味方に対する作戦道具であるだけでなく、敵を誘導・かく乱させる偽装の旗指物もたくさんありました。
織田信長の「桶狭間の戦い」のように、あえて敵味方の判別をかく乱させ、旗指物を見せないで戦闘を行うケースもありました。
旗指物は、ただの飾りの布ではなく、戦闘時に重要な作戦用の道具でしたね。

武田信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」、織田信長の「永楽通宝」、徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」、真田幸村の「六文銭」など、それを見たら周囲が恐れおののく「のぼり旗」もたくさんありましたね。

* * *

大規模戦闘がなくなった江戸時代になってから、武家の象徴である「旗指物」に、男児向けの行事「端午の節句」にあわせて、魚の「鯉(こい)」の絵柄が描かれるようになったという説があります。
さらに、長方形ではなく、鯉の形のものまで あらわれるようになったといいます。
ひょっとしたら、何かのブームが起きたのかしれません。

まさに、鯉の「のぼり旗」!

「私の かわいい坊や…、さあ、武将の坊やの かっこいい のぼり旗だよ!」

* * *

江戸時代中期は、戦闘意識や戦闘技能が、武士たちから相当に失われてきており、倫理観も相当に堕落します。
貧乏暮し、借金まみれで、高価で大切な武具はどんどん売り払われていきます。

幕府は、武士たちに、思想や権威、自信、技能を取り戻させることに躍起になります。
そんな中、大空にたなびく、大きな鯉の旗指物を見たら、なにか「武士の魂」が戻ってくるような気がしますね。

「そこの竹光刀(たけみつがたな)の武士たちよ! せめて5月5日くらいは、戦っていた時代を思い出せ!」。


◇鯉の登竜門

さて、古くから「鯉の滝のぼり」という言い回しがありますね。

実際には、魚が、高さのある滝をさかのぼることは不可能ですが、そのくらいのパワーを持つ魚であること示しています。
人が「立身出世」をした場合や、それを願う場合などに使われる言い回しでもありますね。

* * *

中国の古い故事の中に、「登竜門(とうりゅうもん)」という言葉があります。
今の日本でも、突破できれば立身出世につながるような難関のことを「登竜門」と言いますね。

昔も今も、中国の大河である「黄河」には、「竜門」と呼ばれる激流の難関場所があり、その激流を登り切った魚は「龍(竜)」になれるとされていました。
「登れたら、魚が龍になれる場所」…それが「登竜門」です。

中国の山西省と陝西省に挟まれた黄河上流の「竜門」の今の映像です。
「まさか、私に、この激流を泳ぎのぼれとでも…。」

 

 

* * *

日本では、その激流の魚こそが「鯉(こい)」であり、まさに「鯉の滝のぼり」!
古い日本の枯山水の庭園などにも、そうした光景を再現したものがあったりしますね。

多くの絵図の「龍」の身体にある「鱗(うろこ)」は、まさに「鯉」のうろこなのです。

わが息子「鯉ちゃん」は、滝を登って、いつか強大な「龍(竜)」になってね!
いや、なれるはず!
絶対に なれる!
いざ、のぼるぞ!

風をたっぷり飲み込んで横向きだろうと、真上を向いて身体をくねらせていようと、「こいのぼり」のわが息子は、登竜門を突破できる!

親御さんたちの願いは、まさに のぼる一方! のぼり龍!
お願い 龍神さま!

江戸時代の「洒落っ気(しゃれっけ)」… なかなかの、おちゃめ龍(流)!

江戸時代に生まれたであろう、鯉の絵柄や形状の旗指物は、さらに進化し、今のような大きな鯉の形の「こいのぼり」となっていったということのようです。

* * *

先日、「かしわ餅」を食べようとした時に、ラジオから、たまたま「こいのぼり」の童謡が流れてきました。
♪屋根より高いこいのぼり~
普段より、かしわ餅が、おいしく感じられました。

♪こいのぼり

 

作詞者が不明のこの曲ですが、見事な歌詞です。
瓦ぶきの屋根がたくさん並ぶ光景を「いらかの波」と称し、鯉のうろこ、龍のうろこに見立てるとは…。
最近の都会では、なかなか見ることのできない街並みの風景ですね。
♪こいのぼり

 

作詞:海野厚、作曲:中山晋平。
昭和の家には、「柱の傷」がたくさん残っていますね。
♪背(せい)くらべ


子供たちには、「端午の節句」の中に込められているものを、しっかり感じてほしいと思います。
子供たちは、大きくなって、いつかきっと思い出してくれますね。
僕の「こいのぼり」…。

のぼれ! わが家の鯉たち!

たとえ「鯉」が「龍」になれなかったとしても、挑戦する たくましい「鯉」のままでいてほしい!


◇世界の「龍」

先ほど、「鯉」が、激流の難関である「登竜門」や「滝」を乗り越え、いつか強大な「龍」になるというお話しを書きました。

昔から、たいていの龍の絵では、龍が玉を握っています。
この玉は「如意宝珠(にょいほうじゅ)」といいます。
自身の夢や目標を叶えるチカラを表現したもので、その象徴が「如意宝珠」です。

この珠(玉)を、磨いて磨いて、大切に持ち続けていなければ、自身の大願は叶いませんね!

ここからは、そんな「玉」を磨いて磨いて、音楽界のすごい「龍」になった方のお話しです。
音楽家・坂本龍一さんの音楽のこと、坂本さんの「珠(玉)」のことを書きたいと思います。

昨年2023年の3月28日に、坂本龍一さんは、病気でご逝去されました。
71歳でした。

坂本さんも、きっと子供の頃に、「端午の節句」を祝ってもらったでしょうね…。

* * *

坂本さんが残した多くの音楽作品については、皆さまもよくご存じのことと思います。

私は、数十年前に一度だけ ご挨拶をさせていただきました。
時間がなく、しっかり会話を交わすことができませんでしたが、その時は、派手なミュージシャンの印象ではなく、まさにそのニックネームのような、落ち着いた「教授」のような知的な印象を受けたことを憶えています。

ただ、彼だと紹介されないと、気がつかなかったかもしれないほど、目立つような雰囲気ではありませんでした。
落ち着いた声と口調、控えめではあっても 堂々とした姿に、何かものすごいチカラを秘めている印象も抱きました。

そんな坂本さんは、年齢を重ねるごとに、世界から尊敬を集める音楽家になっていきましたね。

ポピュラー音楽でも、クラシック音楽でも、映画音楽でも、優れた作品をたくさん残し、世界的な社会活動家としても精力的な坂本さんでした。

* * *

坂本さんは、世界各国の映画音楽の制作や、各種の社会活動にも参加され、多くの国々から表彰されましたね。
アカデミー賞、グラミー賞、さまざまな映画賞や文化賞、各国からの叙勲や勲章…。

日本人音楽家の中で、これほどの大きさで世界から称賛された音楽家は、坂本さんと、今年亡くなられた小澤征爾さんくらいしか、思い出せません。

それもこれも、坂本さんが、幼少期から、作曲やピアノ、音楽づくりをしっかり学び、修練を続けてきた賜物であろうと感じます。

坂本さんは、音楽以外の学びにも余念がなかったようですね
だからこそ、厳格で強靭な人間性も備えていったのでしょう。
彼の実力と、強い意志は、世界の誰の目にも明らかであったのだろうと思います。

* * *

天才音楽家というのは、一般の人間からすると、時に、突飛な発言や行動、すさまじいほどの情熱に驚かされる一面を持っていたりします。
だからこそ、常人にはできないような偉業を残す場合も少なくありません。
歴史上の多くの偉大な音楽家たちも、素晴らしい作品とともに、多くのエピソードを残しましたね。

強烈な個性と言動、飽くなき探求心、素晴らしい音楽の才能… 坂本さんは、まさに、天才型の音楽芸術家だった気がします。

* * *

「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の時代から、ニックネームとして「教授」と呼ばれ、音楽に対する、どん欲な学習意欲や、知的なアプローチは、生涯変わっていなかったような印象を私は持っています。

YMO時代、ソロ活動、映画音楽、クラシック音楽など、さまざまな音楽スタイルを、私たちに しっかり見せてくれました。

ソロ活動以降は、社会活動家という一面も持っておられ、それが音楽とも結びつき、そうしたことも世界各国で高く評価されていましたね。

実は、彼は学生運動にも身を置いた経験があるようで、生涯、「モノ言う音楽家」として面目躍如でした。

ミュージシャンは、若い頃の時代に、なにかと無茶な行動をしたり、批判を受けることも多いですが、彼の生涯の社会活動を思い返すと、地雷除去活動、震災復興、東北応援、原発問題、反戦など、多くの内容で、普通の人間が なかなか行えることではなかったと思います。

晩年も、病床から、東京の神宮外苑の樹木伐採反対の訴えを東京都に行っていましたね。
何が、彼を、そこまで駆り立てていたのでしょう…。

* * *

日本の古くからのファンの方々の中には、坂本さんの若い頃の雰囲気と、終盤の20数年の姿に、大きなギャップを感じる方も多いかもしれません。
私も、一人の人気ミュージシャンが、ここまで偉大な音楽家に変貌していくとは想像もできませんでした。

おそらく坂本さんは、ある年齢の頃から、自身のチカラや影響力、立場や使命感をしっかり認識し、自身の人間性も意識しながら、さまざまな活動に全精力を傾けていたのだろうと思います。
音楽活動も、社会活動も、教育活動も、そして発言も…。
自己満足のため、ビジネスのための活動とは、私には 到底 思えません。

坂本さんは、ある意味、音楽家として…、人として… の理想の到達点を持っていた気がします。
まだまだ、やりたいこと、やれることが、坂本さんの中には たくさんあったことでしょうが、満足の生涯だったと思っていたのではと、私は感じます。

素晴らしい音楽作品と、時代の思い出を、たくさん残してくれた坂本龍一さんでした。
まさに、世界に誇る、日本人音楽家の坂本龍一さんだと思います。

世界の大海を、チカラ強く泳ぎきった、まさに「龍」…、それが坂本龍一さんだったと、私は感じます。

* * *

ここからは、坂本さんの音楽を振り返っていきたいと思います。

今回の「前編」は、彼の若い頃の音楽のこと、テレビCMで活躍した姿などを中心に書きたいと思います。


◇イエロー・マジック・オーケストラ

私にとっての坂本龍一さんは、やはり「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」時代から始まります。

「イエロー・マジック・オーケストラ」とは、「白魔術」でも「黒魔術」でもない…、つまり白人音楽でもない、黒人音楽でもない、アジアの黄色人種の個性や音楽性を活かした「黄魔術(イエロー・マジック)」による「オーケストラ音楽」という意味あいを含んだバンド名のようです。

YMO結成当時の時代に、世界で花を咲かせようとしていた、シンセサイザーやコンピュータを使った新しいサウンドは、まさに複雑で多様なサウンドを作り上げる「オーケストラ」のように感じます。

* * *

坂本さんは、1952年(昭和27)に東京に生まれ、幼少期より作曲とピアノを学び、東京芸術大学時代からミュージシャン活動を始めます。
クラシック音楽が 彼の音楽の端緒であったこともあり、多くのロック・ミュージシャンたちのそれとは大きく異なる気がします。

1970年代前半の世の中は、「プログレッシブ・ロック」の全盛期で、クラシック音楽分野のミュージシャンがロック音楽界に、次々に移っていきましたね。
ロック音楽とクラシック音楽が融合し、「プログレ」という前衛的な音楽分野として世界的に大人気になりました。

前衛的な音楽スタイルを志向する そのミュージシャンたちは、その時代の最先端であった「シンセサイザー」や「メロトロン」などの電子楽器を使い始めました。
それは、音楽による実験と試行錯誤の繰り返し…。

そんな「プログレ系」の中からは、より電子楽器に特化したミュージシャンやグループが登場してきました。
70年代中頃になると、特にヨーロッパを中心に「シンセポップ(エレクトロポップ)」と呼ばれる音楽分野のミュージシャンが注目を集め始めます。

サウンド的に、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマーなどのロック系のプログレ・バンドとは また別の方向を目指す、電子楽器音楽のミュージシャンたちです。

この「シンセポップ」は、日本でのみ別の呼称が付けられます。
「テクノポップ(テクノロジーポップ)」です。

そして、YMOは、まさに日本のテクノポップの先駆者であると、周囲からは見られていました。

* * *

さて、1978年(昭和53)に、ゲーム機製造企業のダイドーが「スペース・インベーダー」を発表します。
いわゆるテレビゲームの走りのようなもので、喫茶店などのテーブルが一気に、このゲーム機付きのテーブルに変わりましたね。
ゲームセンターが街のそこらじゅうに生まれました。

ちょうど、今の令和の時代は、ゲームセンターの終焉の時代ともいわれていますね。
ゲームの仕方が、かつての時代と大きく変わりました。

70年代のテレビゲームの中心は、宇宙円盤や宇宙人のようなものを、次々にシューティング(射的)し破壊していくゲームで、他の企業のものも含め、一般的に「インベーダーゲーム」と呼ばれました。

昭和生まれの世代の方々であれば、「ピコピコ」「ブッブッ」「バズンバズン」という、インベーダーゲーム特有の機械音を思い出されると思います。

この「インベーダーゲーム」が誕生した1978年(昭和53)に、YMOは結成されました。
「インベーダーゲーム」の登場と、YMOの登場が、同じ年だったのは偶然ではないと感じます。

* * *

それまで、「はっぴいえんど」、「ティン・パン・アレー」などのバンドで活躍された 細野晴臣さん(ベースを主担当)、「サディスティック・ミカ・バンド」などで活躍された 高橋幸宏さん(ドラム、ボーカル)、そして大物ミュージシャンたちのバック・ミュージシャンとして活躍していた坂本龍一さん(キーボード、シンセサイザー)の三人が集結して「YMO」が誕生しました。

つまり、新人ミュージシャンではなく、才能も実績もある「スゴ腕」ミュージシャンが、集結したのです。

そして、「YMO」の、シンセサイザーを中心とした音楽サウンドや、作曲編曲などの重要な部分を 坂本さんが手がけておられました。

* * *

下記の楽曲は、米国の音楽家マーティン・デニーの楽曲「ファイヤー・クラッカー」を、1978年(昭和53)にカバーしたものです。
三人の それぞれの個性やテクニックが、見事に融合!
新人バンドには作れない、音楽力!
坂本さんの見事なキーボートとピアノ!
冒頭に、当時のインベーダーゲームの音声が入っています。

♪インベーダー・ゲーム ~ ファイヤー・クラッカー(1978・昭和53)

 

* * *
 

細野晴臣さんの音楽センスや実力、高橋幸宏さんのドラム演奏は、すでに高く評価されていました。

そして、その時代の音楽のまさに中心的な存在になりつつあった楽器「シンセサイザー」の名手であった坂本さんが、自身の存在を世の中の表舞台に示したのが「YMO」だった気がします。

YMOをサポートした別のミュージシャンや、メンバーに入っていたかもしれない別のアーティストもいましたが、最終的に、この三人で結成されたのが、後の世界的な成功を生んだのかもしれません。
日本が生んだ、素晴らしいトライアングル!

坂本さん作曲。
♪東風(とんぷう)(1978・昭和53)

 

派手な中国風の洋服を着た三人の見た目も有名でしたが、テクノポップのミュージシャンたちがしていた、頭髪スタイルの「テクノカット」を、彼らもしていましたね。

もみあげを斜めにカットし、特有の長短混合スタイルの「テクノカット」は、学生をはじめ、多くの若者たちが、男性も女性もマネしましたね。

* * *

YMOは、「テクノポップ」音楽の先駆者のようにいわれていますが、細野さんと高橋さんは、当初は あまり本意ではなかったようです。
逆に、坂本さんは、この言われ方を 気に入っておられたようですね。

坂本さん作曲。
曲の冒頭の「トキオ(TOKIO)」という音声は、「トーキョー(東京)」のことで、当時流行の英語風言い回しの「トキオ」という言葉表現です。


♪テクノポリス(1979・昭和54)

 

高橋幸宏さん作曲。
♪ライディーン(1979・昭和54)

 

当時は、YMO風サウンドを使ったヒット歌謡曲がたくさん生まれましたね。
 

* * *

坂本さん作曲。
♪ビハインド・ザ・マスク(1979・昭和54)

 

あの マイケル・ジャクソンは、この曲を、自身のアルバム「スリラー」(1982・昭和57)に入れるために録音も済ませていましたが、ビジネス上の問題で、最終的にアルバムには入りませんでした。

アルバム「スリラー」発売の前のマイケルは、「キング・オブ・ポップ」の称号を得る直前の状況で、世界中の優秀な作曲家に楽曲を依頼したり、取り寄せることをしていました。
実際には、相当に有名な音楽家が作った楽曲が何曲も不採用になっています。
収録し完成までいった楽曲は、わずかだったはずです。

もし YMO側が条件を飲んで、この楽曲が、音楽史上販売枚数1位で、世界で1億枚以上売れたアルバム「スリラー」に入っていたら、その後の坂本さんや「YMO」の状況は大きく変わったかもしれませんね。

完成直前で、アルバムに入らなかったという話しは、世界中の音楽家が驚愕したエピソードです。

よかったのか、残念だったのか、私にはわかりませんが、まさに、マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの「仮面の裏側の真の顔」!

 

マイケル・ジャクソン
♪ビハインド・ザ・マスク

 

この楽曲が、海外の多くのミュージシャンたちに衝撃を与えたのは確かですね。
エリック・クラプトンは、マイケル版をベースに、自身のアルバム「オーガスト」に入れました。

 

エリック・クラプトン
♪ビハインド・ザ・マスク(1986・昭和61)

 

1995年(平成7)の坂本さんのライブ演奏。
♪ビハインド・ザ・マスク

 

2013年(平成25)の坂本さん指揮の吹奏楽演奏です。
2011年の東日本大震災後に、東北の子供たちの応援のために行われた演奏です。
♪ビハインド・ザ・マスク

 

* * *

1979年(昭和54)の、米国・ロサンゼルスでの「YMO」とサポートメンバーによる演奏です。
坂本龍一(シンセサイザー)
高橋幸宏(ドラム)
細野晴臣(ベース)
松武秀樹(マニピュレーター)
矢野顕子(シンセサイザー)
渡辺香津美(ギター)

「東風」と「ライディーン」

 

* * *

1983年(昭和58)、YMOは 5年ほどの活動を終え、解散します。
そして、10年後の1993年(平成5)に、YMOは再結成しました。


◇バンドが、年齢を重ねること…

成功したバンドでは、メンバー同士の軋轢(あつれき)が解散危機のきっかけになったりしますね。
成功の喜びの後に、忙しさからくるストレス、メンバーごとの待遇の違いによるストレス、次の音楽の方向性の違いからくる意見対立など、多くの新たな問題が発生してきます。

ビートルズでは、ポール、ジョン、ジョージによる対立の中で、リンゴが仲裁をとろうとしました。
ローリング・ストーンズでは、ミック、キース、チャーリーが、時に対立したり、時に仲裁をしあったりしましたね。

人間ですから、仕事だから…、ビジネスだから…と割り切れる問題ではありませんね。
「相性」とも少し違う、くっついたり、離れたりするのが、音楽グループであったりしますね。

1983年(昭和58)の YMOの解散は、メンバーたちが多くのストレスを抱えた状況の中、メンバー同士の意見対立といわれていました。
坂本さんと細野さんの対立の中で、高橋さんが仲裁に入ろうとしていたようですね。

解散後、三人は年齢を重ねてから、再びお互いを理解しあい、「YMO」という存在の大きさと大切さを再認識したのだろうと思います。

* * *

2009年(平成21)に、三人が集まってインタビューを受けていますが、70年代当時の話を、笑顔でされています。
(2009年時…坂本・高橋:57歳、細野:62歳)

 

* * *
 

解散後10年以上経ってからの、坂本さんと細野さんのラジオ番組での会話音声です。
細野さんは、坂本さんの5歳年上ですが、若い時の5歳差と、中高年になってからの5歳差は、かなり違いますね。
とてもいい会話です。
とはいえ、こういう話は若い頃にしておいたほうが…。
でも、しないもの…。

 

会話音声

 

昔、ラジオ番組で矢野顕子さんの言葉を聞きました。
矢野顕子さんいわく、「当時のYMOは、小学校のクラスの班」。
たまたま一緒の班…、年上の細野さんが班長…。
何か、わかるような気もしますね。

坂本さんと細野さんの演奏。
二人は、こういう時が来て、本当にうれしそう!

♪スマイル

 

2018年(平成30)の企業サッポロのテレビCMです。
「はっきり言うと、細野さんなんですけど…」

 


◇楽曲提供

さて、坂本さんは、他の歌手に提供した楽曲がたくさんありましたね。
歌手に提供した作品を少しだけ…。

作曲を坂本龍一さん、作詞は歌手の松田聖子さんという楽曲。
18歳の岡田さんの生涯最後の歌唱映像です。
岡田有希子
♪くちびるネットワーク(1986・昭和61)

 

* * *


次は、坂本さんが、実の娘に楽曲提供した作品で、父娘共演の曲です。
1997年(平成9)のドラマの主題歌「ジ・アザー・サイド・オブ・ラヴ」。
歌手名は、「坂本龍一 featuring Sister M」とクレジットされました。
「Sister M」とは、当時16歳の娘の坂本美雨(さかもと みう)さんです。

♪ジ・アザー・サイド・オブ・ラヴ

 

* * *

2004年(平成16)に、シンディ・ローパーに提供した楽曲。
♪エブンチュアリー

 


◇テレビCMの中の「龍」

坂本さんの作曲した楽曲は、テレビCMでも、たくさん使われてきましたね。
CM映像に上品な香りが漂っていたら、そこに坂本さんの音楽がありました。

坂本さんのCM使用曲は、決して、世の中に迎合したようなCM音楽ではなく、しっかりと作られた楽曲ばかりでしたね。

* * *

1982年(昭和57)の資生堂の「ルージュ・マジック(口紅・ほお紅 マジック)」キャンペーンソング!
資生堂に言われたら…、言われなくても…、この二人なら「危険な、いけない化粧」だってしますね。

坂本龍一&忌野清志郎
♪いけない ルージュ・マジック(1982・昭和57)

 

* * *

資生堂の次は…。

 

1983年(昭和58)の、カネボウのCMキャッチコピー「胸キュン」に合わせて、YMOが楽曲「君に、胸キュン」をヒットさせました。

 

1980年頃から始まった若者の流行の言葉表現「キュン!」でしたね。
80年代の「キュン」は、2020年頃から2022年頃までの流行語「キュンです」と指ハートで復活しましたね。
あの大谷翔平に「胸キュン」しないなんて、ありえない!
数年前のメジャーリーグ中継で、まさかの「ショウヘイ、キュンです!」。

70年代後半から80年代の後半くらいまでは、若い女性も、男性も、とにかく日焼け!日焼け!日焼け!
太陽の日差しだけでは足りず、日焼けサロンに通いましたね。
「小麦色の肌」…これが、まさにカッコよさ、モテ条件でしたね。
今の時代は真逆の「日除け」ですが、あの時代の「日焼け」…ちょっと恐ろしい!

* * *

日常の「お弁当」が、やさしく上品な世界に…。
2003年(平成15)の、ニチレイのCM。

 

2004年(平成16)の花王「アジエンス」のCM。

 

2003年(平成15)のトヨタのCM。

 

2009年(平成21)のアウディのCM。
「大人が変わらなければ、時代なんて変わらない!」…そのとおり!
2009年、坂本さんのヨーロッパ・ライブツアーを、アウディがサポート。

 

2002年(平成14)のサントリー「山崎」のCM。


2007年(平成19)、いよいよキリンのCMで、YMOが大復活!
YMOの三人が、再びそろいました。
再結成で、楽曲「ライディーン」の新バージョンとともに、ファンの方々に向けて「おまたせ…」

 

2008年(平成20)のYMOライブ
♪ライディーン 79/07

 

キリンCMといえば、こんな対談も…。
2016年(平成28)のキリン「ファイヤー」CM用映像。

 

* * *

2009年(平成21)のアサヒ「三ツ矢サイダー」のCM。

 

「オーバドゥ」とはフランス語で「朝の詩」という意味。
♪オーバドゥ(2020年バージョン)

 

* * *

「24時間働けますか」のキャッチコピーで大ヒットした「リゲイン」は、バブル崩壊後に、イメージ一新!
1999年(平成11)の三共(現:第一三共)の「リゲイン」CM。

 

2019年(令和元)12月25日の「熊本城ホール開業記念公演」の演奏です。
♪エナジー・フロウ

 

* * *

2008年(平成20)の日本郵政グループのCM。

 

♪koko


他にも、東芝、三菱、日本生命などなど、これほど多くの大手企業のCM曲を作り、自身がそのCMに登場したミュージシャンは、他にはいないと思います。

短時間のテレビCMに、これほどの音楽クオリティが必要なのかとさえ感じてしまいます。
90年代以降の坂本さんのCM音楽を耳にすると、もはや YMO時代を思い出す方は少なかったであろうと思います。

彼の表情と音楽は、CM映像に、落ちつき、やすらぎ、上品さ、知性を与えてくれます。
言い知れぬ説得力を、その言葉の中に感じますね。

彼は、ファッションモデルでもなく、アイドルでもなく、本職の俳優でもなく、音楽家です。
若い頃から71歳になるまで、ずっと大手企業のCMに出続けられてきたタレントなど、そうそういません。

大手企業は、彼の年齢に関係なく、彼の中の「本もの」を認識し、CMの中に「本もの」を描くことを求めていたにちがいないと、私は思っています。

これから生まれてくるテレビCMには、坂本さんの新しい姿の映像はありませんが、彼の音楽は使用され続けられていくような気がします。

* * *

今回のコラム「前編」はここまでにします。

「後編」では、坂本さんのプロデュ―ス作品、編曲作品、映画音楽、社会活動と結びついた音楽などのことを書いていきたいと思います。
まさに「世界のサカモト」たらしめた音楽作品たちですね。

それでは、今回のコラムの最後は、坂本さんが弾くベートーヴェンで…。
まさに、演奏職人というだけではない、音楽芸術家の演奏がそこにある気がします。
蝶ネクタイも ステキ!

ベートーヴェン作曲
♪ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 「月光」第1楽章

 

「後編」につづく…。

2024.5.2 天乃みそ汁

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